マタイによる福音書 28:1-10
ローマの信徒への手紙 6:3-11
あの方はここにはおられない
あの日、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。しかし、そこで彼女たちは驚くべき言葉を耳にします。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(マタイ28:5-6)。それが彼女たちの耳にした言葉でした。
「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが…」。そうです。そのとおりです。墓に行った彼女たちが求めていたのは、「十字架につけられたイエス」でした。遺体として墓に納められているはずのナザレのイエスでした。彼女たちは、死んだイエスに会うために墓に来たのです。他の福音書によるならば、彼女たちが手にしていたのは、遺体を処置するための香料でした。彼女たちは、死んだイエスの遺体に香料を塗るために墓に行ったのです。
イエス様が処刑された日は金曜日でした。翌日は土曜日、すなわちユダヤ人の安息日です。なんとか安息日に入る前に埋葬を済ませておかなくてはなりませんでした。ユダヤ人の一日は日没と共に始まります。イエス様の埋葬は急を要しました。アリマタヤ出身の金持ちであったヨセフという人がイエスの遺体の引き取りをピラトに願い出ました。彼の求めは聞き届けられ、岩に掘ったヨセフ所有の新しい墓に遺体は葬られることになりました。しかし、十分な時間がありません。とりあえず亜麻布に遺体を包み、墓に納めるところまでは済ませませしたが、香料を塗る時間はありませんでした。マグダラのマリアともう一人のマリアは心を痛め、安息日が明けたら香料を塗って遺体の処置をしたいと願って遺体が納められた墓を見つめていたのです。
日曜日の朝、墓に向かっていた彼女たちは生前のイエスを思い起こしていたことでしょう。あの御方の語られた言葉。あの御方のなされた愛の業。あの御方は死んで過去の人になってしまったけれど、その生き様と教えとは今も心の中に残っています。あの御方は過去の人になってしまったけれども、これからもその教えは生き続けるでしょう。私たちはその教えに従って生きていきましょう。そのような決意を胸に、彼女たちは墓に向かったのかもしれません。これからもあの御方の墓を度々訪れましょうね。そこであの方のことを思い起こして、その教えを決して忘れないようにしましょうね、と。
しかし、あの婦人たちが墓に着いた時、そこに遺体となったイエス様はいなかったのです。過去の人となったナザレのイエスなど、そこにはいなかったのです。そこで彼女たちが聞いたのはこのような言葉でした。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。あの方はここにはおられない。墓の中にはおられない。死者の中にはおられない。そこから既に歩み出してしまっている。復活したイエス・キリストは死の扉を打ち破って、永遠に生きておられる方として、歩み出しておられる。――これが今日お読みした福音書が伝えていることです。
ですから、教会は決してイエスを過去の人のひとりとして伝えてこなかったのです。教会はイエス・キリストについて、「あの方は死んだけれどもその教えは今も生きている」というようには伝えてこなかったのです。そうではなくて、「主はよみがえられた」「イエスは生きておられる」と伝えてきたのです。
キリスト教の歴史における最古の信仰告白の言葉は「イエスは主である」(1コリント12:3)だと言われます。「イエスは主であった」ではないのです。あくまでも「イエスは主である」。現在の主として伝えてきたのです。実際、教会の祭りとしてはクリスマスが良く知られていますが、クリスマスよりも復活を祝う「復活祭」の方がずっと古いのです。そもそも日曜日に礼拝を行うのは、それがキリスト復活の日だからです。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思って、今も毎週ここに集まっているのです。
新しい命に生きるため
あの御方は過去の人ではなく現在の主です。今ここにいる私たちを愛し、私たちを救ってくださる救い主です。私たちが今ここに座っているということは、既に復活の主が私たちの人生に関わっていてくださるということでもあるのです。
しかし、復活されたキリストを最も鮮やかに指し示しているのは、この後に行われる「洗礼式」であり「聖餐式」です。特に洗礼式については、今日の第二朗読において次のように語られていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:3‐4)。
この言葉などは、それこそキリストは生きておられるという信仰なくしては、まったく意味をなさないでしょう。洗礼は何を意味しているのか。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と聖書は語っているのです。洗礼は単なる形式的な儀式などではありません。もしそうならば遠の昔に失われてしまっているに違いありません。しかし実際には、教会は、洗礼を二千年の長きに渡り、行ってきたのです。時には多くの殉教者の血が流される中で、教会は命がけでこれを行い続けてきたのです。何のために。「キリスト・イエスに結ばれるため」。復活して生きておられる救い主と結ばれるためなのです。
少し細かいことを申し上げます。「キリスト・イエスに結ばれるため」と翻訳されていますが、この翻訳は事柄の一面を表しているに過ぎないのです。原文には「キリスト・イエスの中へ」と書かれているのです。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」は、直訳するなら「キリスト・イエスの《中へ》バプテスマされた」となるのです。
変な日本語です。しかし、イメージは思い描けるでしょう。「キリスト・イエスに結ばれる」のですが、それは「キリスト・イエスの中へ」という形でキリストに結ばれるのです。「キリスト・イエスの中へ」。そのように、いわば自分自身をキリストの中に投げ込んで沈めてしまう。そのように自分自身を完全にキリストにゆだねてしまう。それがキリスト・イエスに結ばれるということです。それがキリスト・イエスを信じる信仰です。その目に見える形が洗礼なのです。
自分自身を投げ込んで完全にゆだねてしまえる。考えてみれば、それは何よりもありがたいことです。それはそうでしょう。世の中にやっかいなものは数あれど、一番やっかいなのは他ならぬ自分自身ですから。幼い子どもならいざしらず、ある程度長く生きていれば、自分が決して正しい人間でないことは分かります。自分の汚さや醜さに嫌気がさすこともあるでしょう。正しく生きようと思う人ならなおさら、正しく生き得ない自分自身であることは骨身に染みて分かるものです。一生の間には幾度もそんな自分を葬ってしまいたいと思うこともあるのでしょう。
しかし、そんな自分を――私たち自身の手に余るそんな自分を――丸ごとゆだねることのできる御方がいてくださる。そんな自分を丸ごと受け取ってくださる御方がいてくださる。それがイエス・キリストなのです。
イエス・キリストについて、あの婦人たちが聞いた言葉はこうでした。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない」。私たちが、やっかいな自分自身を安心してゆだねることができるのは、その御方が「十字架につけられたイエス」であるからです。
その御方は、私たちの罪のために十字架で死んでくださったキリストです。私たちの罪を代わりに背負って死んでくださったキリストです。私たちの本当の苦しみが、他ならぬ私たち自身であり、私たちの罪であるならば、そのどうにもならない自分をゆだねることができるのは、この御方以外にはありません。
このイエス・キリストの中において、イエス・キリストに起こったことが私たち自身にも起こるのです。すなわち、イエス・キリストが死んで葬られたように、私たちもまた葬られるのです。葬ってしまいたかった私たち自身の葬りが起こるのです。その意味で洗礼式は目に見ることのできる葬りの式でもあります。もちろん、葬りで終わりではありません。そこから新しく始まるのです。キリストが葬りで終わらなかったように。そこから新しい命に生き始める。その意味で洗礼式は目に見える誕生の式でもあります。
そこから新しい生活が始まります。キリストと共に生きる新しい生活が始まります。それを信仰生活というのです。そのキリストは過去の人ではありません。教えだけが今も生きているというのではありません。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思ってここに皆が集まります。今、私たちがここに身を置いているのは、そのような新しい生活の目に見える具体的な一場面に他ならないのです。
2024年3月31日日曜日
「新しい命に生きるために」
2024年3月24日日曜日
「キリストによって守られて」
ヨハネによる福音書 18:1‐14
本日の福音書朗読でお読みしましたのは、イエス様が逮捕される場面です。この場面については、四つの福音書がそれぞれ伝えていますが、私たちは今日、ヨハネによる福音書だけが語っているいくつかの点に注目したいと思います。
サタンとの戦い
その第一は、ユダが「一隊の兵士」を引き連れて来たということです。これは日本語で読む私たちにはピンと来ませんが、実はとてつもないことが語られているのです。というのも、「一隊の兵士」という表現は、文字通りには600人のローマ兵から成る一部隊を意味するからです。そのようにヨハネは、かくも多くの兵士たちがたった一人の男を逮捕するためにやってきたのだということを、いささか極端に思えるほどに強調しているのです。なぜでしょうか。――イエス様はそれほどまでに巨大な勢力と戦っていたのだということを表現しているのです。
そこで重要なのはイエス様が戦っていた巨大な勢力とは何かということです。表面的に見るならば、イエス様と直接対立していたのは、祭司長たちや律法学者たちに代表されるユダヤの宗教界であると言えます。直接的には祭司長らがイエスを亡き者とする計画を立てて実行に移していくのです。「イエスの居どころが分かれば届け出よ」と命令を出し、イエスを指名手配したのも彼らですし、イエス逮捕のために弟子の一人を買収したのも彼らです。あるいは、そこにローマの国家権力が加わったと言うこともできます。この場面に見るように、既にローマの兵士たちが動き始めています。後には、ローマ皇帝によって立てられた総督ピラトが登場してきます。その審判のもとに十字架刑が執行されます。その意味からすれば、イエス様に敵対していたのは国家権力であるとも言えるでしょう。
しかし、福音書は繰り返し、宗教的権力でもない国家権力でもない、イエス様が戦っていた《本当の敵》について言及しているのです。その敵は「サタン」と呼ばれています。あるいは「悪魔」とも呼ばれます。その意味で、ユダが先頭に立って大勢の兵士たちを引き連れて来たというのは、実は極めて象徴的な出来事だったのです。なぜなら、この福音書は既に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(13:2)と語り、最後の晩餐において、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(13:27)と語っているからです。また、本当の敵は「この世の支配者」と繰り返し呼ばれています。それはローマ皇帝のことではありません。サタンのことです。そのように、ユダに率いられた一隊の兵士たちは、サタンとその軍勢、人間を滅ぼそうとしている悪魔の巨大な勢力を象徴していたのです。イエス様はその本当の敵に立ち向かっていたのです。
宗教的権力であれ、国家権力であれ、人間が相手であるならば、武力をもって戦うことができます。イエス様は実際、武装勢力を組織することぐらい、いくらでも出来たと思います。何千人という群衆がイエスの後について来ていたのですから。しかし、イエス様はそのような道を進みませんでした。本当の敵が誰であるかを知っていたからです。人間を神から引き離し、罪の中に縛り付け、また互いに噛み合い食い合うようにさせ、滅ぼそうとしている本当の敵はサタンであることを知っていたのです。今日お読みした場面において、イエス様はそのような巨大な勢力と向き合っているのです。
エゴー・エイミ
第二の点に目を向けましょう。イエス様が「わたしである」と言われた時、捕らえに来た人々は後ずさりして、地に倒れました。これもまた、ヨハネによる福音書だけが伝えている出来事です。なぜこのようなことが書かれているのでしょう。イエス様にそれだけ威圧感があって、彼らが圧倒されたというだけならば、イエス様がもう一度「だれを捜しているのか」と尋ねた話は不要です。一回聞いても分かりますように、たいへんくどい話になっています。「わたしである」という言葉が繰り返されています。原文では「エゴー・エイミ」と言いまして、この福音書を通じで何度も出て来る、いわばこの福音書を理解するためのキーフレーズなのです。
この「わたしである」とか「わたしだ」と訳されている「エゴー・エイミ」は、また、「わたしはある」と訳すこともできます。「わたしはある」というのは変な日本語ですが、その変な日本語のままで「わたしはある」と訳されている箇所もあります。(八章などに出てきますので、見つけてみてください。)実は、それには理由があるのです。「わたしはある」という変な表現は、旧約聖書のとても大事な場面に出て来るからです。神様がモーセに現れた場面です。そこで神様が御自分の名を「わたしはある」と呼ばれたのです。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」(出エジプト3:14)。
そのように「わたしはある」というのは、聖書が伝えている神の名前なのです。そして、当然のことながら、神が「わたしはある」と言われるならば、単に神が存在するということではなくて、私たちと共におられるという意味なのです。「わたしはある」という表現は、まさに共にいてくださる神を意味する表現なのです。
その表現をイエス様は繰り返し用いておられたのです。つまりイエス様が「わたしはある(エゴー・エイミ)」と言われたとき、それはすなわち「わたしは聖書が伝えている神である」ということであり、それは「わたしこそ共にいる神である」という宣言に等しいのです。
今日お読みしている場面においても、イエス様は弟子たちの前で「わたしはある」と宣言するのです。すると夥しい兵士たちとユダが地に打ち倒された。それは悪魔の軍勢に対するキリストの勝利を指し示す象徴的な出来事として記されているのです。それは、その後に起こることの本質を示しているのです。
表面的に見るならば、キリストは敗北していくように見えるのです。結局、イエスは捕らえられ、不当な裁判によって死刑判決が下され、鞭で打たれてボロボロにされ、惨めにも十字架にかけられて殺されていくことになるのですから。宗教的な権力にも負け、国家権力にも負け、そして、さらに言えばサタンにも負けたと見えなくもない。しかし、そうではないのです。打ち倒されるのはサタンの方だったのです。キリストは武器によらずしてサタンに打ち勝ったのです。何によってですか。愛の御業によってです。御自身を罪の贖いの犠牲として捧げ尽くすことによってです。
十字架において罪の贖いは成し遂げられることとなりました。十字架から、人間の罪を赦し、人間を罪から解放する神の愛が溢れ流れることとなりました。十字架から、永遠の命を与える神の救いが溢れ流れることとなりました。サタンはその救いの御業を止めることはできませんでした。結局、サタンはイエスに勝つことはできなかったのです。なぜなら、あの御方は「わたしはある。エゴー・エイミ」と宣言する神なる御方だからです。
キリストによって守られて
そして第三に、ヨハネによる福音書が伝えているのは、そのイエス様によって弟子たちが守られた、ということです。
主は言われました。「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」いわば、イエス様お一人が矢面に立ち、闇の力に立ちはだかって、共にある弟子たちを守ってくださったのです。それはただ弟子たちが兵士たちに殺されずに済んだ、というだけの話ではありません。既に見てきましたように、ここに伝えられているのは極めて象徴的な出来事なのです。ですから、9節にもこう説明されているのです。「それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(9節)と。
「失われない」とは「滅びない」ということです。ただその時災いから守られたという小さな話ではなくて、永遠の救いから洩れないということです。イエス様の御手から失われないということは、極端に言えば、ここで兵士たちの剣を免れた彼らが、仮に後で別な形で殺されるようなことがあったとしても、それでもなお彼らは「失われない」ということなのです。
この場面において力ある御方として立っているのはイエス様だけです。他の弟子たちは皆、無力です。宗教的な権力や国家権力に対して無力であるだけでなく、サタンに対して無力なのです。もちろん、ちょっとばかりの勇気を振るうことはできます。ペトロは剣で斬りつけて抵抗しました。たいしたものです。しかしペトロは、剣は握れてもサタンに勝てはしないのです。なんとこの場面の直後には、ペトロが三度もイエスを否認したという話が出てくるのです。彼は簡単に転がされてしまいます。他の弟子たちもそうです。いざとなったらどんなに自分を愛してくれた御方であれ、見捨てるし、見殺しにだってする。人間は悪魔に対して全く無力です。
しかしイエス様は、そのような弱い弟子たちを、いわば体を張って守られたのです。それは、単にあの逮捕の場面だけではないのです。あそこで起こった事は、後に起こることを指し示しているのです。イエス様は、御自身に従う者を永遠に守ってくださる。そのことを示しているのです。
イエス様は私たちを愛して罪の贖いを成し遂げるという仕方で、悪魔に打ち勝ってくださった。そのイエス様が共におられるならば、私たちはもはや決して失われた者として滅びることはありません。もちろん、この地上に生きる限り、悪魔の力には晒されることでしょう。私たちを神から引き離し、罪の中に縛り付け、互いに噛み合い食い合うようにさせ、滅ぼそうとしている本当の敵は、これからも猛威を振るい、様々な形において私たちに襲いかかってくるでしょう。
しかし、その悪魔の力に対して、罪を贖ってくださったイエス様御自身が立ちはだかってくださるのです。そして、「エゴー・エイミ」と宣言してくださる。私たちと共にいる神であることを宣言し、私たちを永遠の命の内に守ってくださるのです。だから恐れることはない。だから私たち自身も悪魔に立ち向かうことができるのです。サタンに打ち勝たれたキリストこそ、私たちの永遠の拠り所です。
2024年3月20日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 12:29~51
出エジプト記 12:29-51
先週は主がモーセとアロンを通してイスラエルの共同体に語られた「主の過越」(11節)について見てきました。主が与えた指示において、特に重要なのは小羊を屠り、「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(7節)ということでした。なぜなら、主が裁きを行われる時、主はイスラエル人を見てではなく、血を見て過ぎ越すと言われているからです。このことは、彼らが赦され裁きを免れる根拠が、彼ら自身にないことを示しています。救いの根拠は、彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血にあるのです。
そして、これはただ救いにおける一回限りのことではなく、「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(14節)と語られていました。これが「過越祭」です。では何のために祭りを行うのか。神に感謝し、神に栄光を帰するためだけではありません。「この日」の出来事によって救われた後の生活を形作るためです。そして、救われた人々の共同体を形成するためなのです。
さて、先週お読みした箇所には、もう一つの祭りの名前が出てきました。「除酵祭」(17節)です。今日は29節からなのですが、そこに入る前に、「除酵祭」(17節)について触れておきたいと思います。15節以下に書かれていますように、それは過越祭に続く七日間です。そこには「七日間、酵母を入れないパンを食べる」(15節)、「正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる」(18節)と指示されています。そして最初の日に聖会を行い、最後の日に聖会を行うのです。
なぜ酵母を入れないパンを食べるのか。それはあのエジプト脱出の時においては当然のことでした。発酵させる時間がないからです。39節には次のように書かれています。「彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」(39節)。
これはいったい何を意味するのでしょうか。練り粉を発酵するいとまもなかった。十分に時間をかけて食料を準備することはできなかった。「ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」――これらはすべて、これが人間による綿密な計画によって実現したのではないことを示しているのです。もし人間が「脱出計画」を立てるならば、そして、脱出できることを前提にしているならば、道中の食事のことまで考えて相当に周到な準備をするに違いないのです。しかし、実際には、人間の側としては、最終的に解放されるその日まで、そもそも脱出できることすら想定していなかったという話なのです。主は「解放する」と言っておられたのですから、ある意味では人間の側の不信仰とも言えますが、しかし、もう一方において、これは人間がまさに信じられないようなことを、想定できないようなことを、神の圧倒的な力によって、一方的に与えられたことを示しているのです。そこにおいては、人間はひたすら神の為さることについていくのであって、先のことなんて思い煩ってぐずぐずしてはいられない。先はどうなるかわからないけれど、とにかく神の御業の中で脱出し、従っていくのです。
出エジプトというのはそういう出来事だったのだということを、後の時代になっても繰り返し思い起こすために「除酵祭」は行うのです。それによって、生活を形作るためであり、共同体を形作るためです。圧倒的な神の御業によって今があるのだということを意識するならば、そのような生活ができ、そのような交わりができるはずなのです。それを忘れると、人間がすることがすべてであるかのような生活になり、そのような共同体になるのでしょう。それは私たちの生活や教会も同じです。
さて、物語に戻りましょう。主はついに最後の裁きを実行されます。「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」(29-31節)。
神の裁きの前において、すべての人は平等です。ファラオも牢につながれている捕虜も変わりません。以前にも言いましたように、本来、イスラエルの民も神の裁きの前では変わらないのです。ただ、血を塗ったか、そして血を塗った家に留まったか否かの違いでしかありません。それゆえに、そこには明記されていませんが、「大いなる叫びがエジプト中に起こった」その時に、そこにはイスラエルの民が含まれていなかったのです。
ファラオはモーセを夜の内に呼び出しました。そして、「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい」(31-32節)。ついにファラオは主の求めを受け入れます。主の権威の前に屈することになるのです。しかし、それは初めからそうなることが定まっていたのです。
ファラオのみならず、エジプト人は皆、イスラエルの民をせきたてて、急いで国から去らせようとしました。彼らを支配したのは恐怖でした。「そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである」(33節)と書かれているとおりです。
こうしてイスラエルの人々は出発しました。そこで注目すべきは、以前も触れましたが、次の記述なのです。「イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった」(37-38節)。ここで「種々雑多な人々もこれに加わった」ということは、例えば主を本当の意味で畏れたエジプト人なども加わったということです。つまりイスラエルは今後、単にアブラハムの子孫という血縁共同体でも民族共同体でもなく、「出エジプト」という神の恵みを共有する民となっていくのです。さらに言うならば、その後シナイ山に導かれ、律法を与えられ、神との契約を結ぶことになるのです。恵みを共有し、恵みに基づく「契約共同体」となっていくということなのです。
それと関連していますのが、43節以下の「過越祭の規定」です。「過越祭の掟は次のとおりである」ということで、最初に書かれているのは、「外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない」(43節)ということなのです。
今日的な感覚から言えば、これは「外国人差別」ということになるのでしょう。しかし、この場合、「外国人」というのは、血筋とか民族的な話ではないのです。これは「割礼を受けているかどうか」という話なのです。ですから、「ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる」(44節)というようなことが付記されているのです。外国人の奴隷であっても割礼を施すならば、過ぎ越しの食事を食べることができるのです。
一方、「滞在している者」や「雇い人」は食べることはできません。これらの人々は、滞在期間が終われば、あるいは雇用期間が終われば帰っていく人たちです。彼らは当然のことながら、割礼は受けないのです。しかし、もう一方において、たとえ寄留者であっても、割礼を受けるならば、過越祭の食事を食べることができます。「もし、寄留者があなたのところに寄留し、主の過越祭を祝おうとするときは、男子は皆、割礼を受けた後にそれを祝うことが許される。彼はそうすれば、その土地に生まれた者と同様になる。しかし、無割礼の者は、だれもこれを食べることができない。外国人寄留者であっても、割礼を受けるならば土地に生まれた者と同様になる」(48節)。
さて、先に申しましたように、これはエジプト脱出の時に「種々雑多な人々もこれに加わった」ということと関係しています。イスラエルの民以外が加わっているからこそ、「割礼」の話が重要になるのであり、さらに言えば、契約共同体に加わるか否かということが重要になるのです。しかし、これが本当の意味で大きな意味を持つのは、脱出直後ではなく、約束の地に入ってからです。ここに書かれていることは、約束の地に入った後の生活を想定していると言うこともできるのです。ですから「土地に生まれた者と同様になる」という話が出て来るのです。
これは何を言っているかというと、要するに、過ぎ越しの食事を、「単なる会食にしてはならない」という話なのです。単なる会食だったら、「外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない」となれば「かわいそうじゃないか」という話にもなるでしょう。今日的に言えば、外国人差別ということにもなるでしょう。単なる会食だったら、一時的滞在者でも食べたらよいし、外国人でもよいのです。しかし、過越の食事は単なる会食ではないのです。これは第一には出エジプトの再現なのであり、神の一方的な恵みによって救われたことを再現する食事なのです。そして第二に、その目的は、救われた人としての生活を形作り、そのような生活をする共同体を形作るためなのです。そして、この「共同体を作るため」が極めて重要なことなのです。
神は御計画によって「イスラエルの民」「イスラエルの共同体」を作ろうとしていたのです。神はそれを血縁共同体として作ろうとしていないのです。共通の「恵みの体験」によって作ろうとしているのです。だから、恵みによる共同体を形作るつもりのない人が食べても意味がないのです。その理解がないままに皆が食べるようになると、単なる会食になってしまい、その意味を失うことになるのです。
さて、お気づきのことと思いますが、これは聖餐ととても良く似ているでしょう。それは当然のことです。聖餐の原型はこの過ぎ越しの食事にあるからです。最後の晩餐は、マルコによる福音書によれば「過ぎ越しの食事」なのであり、いわばキリストの十字架によって実現した、本当の意味での「過ぎ越しの食事」なのです。ならば、当然のことながら、それを繰り返す聖餐を「単なる会食」にしてはならないのです。聖餐は神の一方的な恵みの出来事を再現し、それによって一方的な恵みにあずかった者の生活を形作る。また恵みを共有する共同体を形作るものだからです。だから、洗礼を受けて、教会に加わってから、教会という共同体の食事として聖餐を受けることになっているのです。
2024年3月17日日曜日
「光のあるうちに」
ヨハネによる福音書 12:27‐36
まさにこの時のために来たのだ
「今、わたしは心騒ぐ。」そうイエス様は言われました。苦難の時が近づいていたからです。イエス様ともあろう御方が苦難を前にして心を騒がせている。不思議なことでしょうか。いいえ、そうではありません。御自分の受けるべき苦難の大きさを本当に知っているからこそ、心を騒がせているのです。
イエス様が負うべき苦難、それはすべての人の救いのために負うべき苦難でした。それは、すべての人の罪を代わりに担い、罪の贖いの犠牲として死んでいくことを意味しました。私たちは人間の罪の重さというものを本当には分かっていないのだろうと思います。それが分かっていたのはイエス様です。罪を代わりに負うということがどれほど重いことか、すべての人を救うために負うべき苦しみがどれほど大きなものか、それを知っていたのはイエス様です。私たちはただイエス様が恐れる姿に、人間の罪の重さを垣間見ることができるだけなのです。
他の福音書においては、このイエス様の苦悩を「ゲッセマネの祈り」として描き出しています。ゲッセマネの園において、苦しみもだえながら、イエス様はこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)。今日お読みした箇所でもイエス様は言っています。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」。このイエス様の苦悩。恐れ。イエス様の心の内にあったものを、私たちには恐らく決して想像することもできないでしょう。
しかし、キリストの祈りは「この時から救ってください」で終わらなかったのです。「この杯をわたしから取りのけてください」で終わらなかった。ゲッセマネの園において、主は最終的にこう祈られたのです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と。今日お読みした箇所においても、主はやがて迎えるべき苦難の時を、《父から与えられている時》として、受け止めておられるのです。主は言われます。「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」
「父よ、わたしをこの時から救ってください」ではなく、あえてそこで「御名の栄光を現してください」と祈られた御方、そのようにして、あの大いなる十字架への道を歩み続けた御方、それが私たちの主キリストです。その御方が「わたしを信じなさい」と言ってくださった。「わたしについて来なさい」と言ってくださった。私たちは、そのような御方を信じ、そのような御方について行こうとしているのです。
「ニーバーの祈り」として知られる祈りの言葉があります。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」
変えることのできること、また変えなくてはならないことがあります。しかし、変えることの出来ないこと、変えてはならないことがあります。私たちが受け止め、受け入れるべきものとして神から与えられているものがあります。イエス様は、「まさにこの時のために来たのだ」と言われました。受容することはあきらめではありません。キリストは十字架への道に立ち、そこを進むことによって《神の栄光が現れること》を求めたのです。その時、父なる神はキリストに応えられました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」。「再び栄光を現そう」とは十字架の時を指しています。神がよしとされるなら、十字架の上で惨めに死んでいくことを通してさえ、神は栄光を現わされる。十字架さえも神の栄光に変わるのです。
苦しみからは逃げたい。逃げ出したい。悲しみは避けて通りたい。重いものはできるだけ早く降ろしたい。そんな私たちであることを、神様はご存じです。ですから苦しみは取り除いていただき、悲しみは癒していただき、重荷は降ろさせていただくことを願い求めることはあるでしょうし、神はそのような祈りを聞いていてくださいます。しかし、それでもなお、私たちには、「苦しみから逃れさせてください」ではなくて、その苦しみを通してさえも、「神様の栄光を現してください」と願うべき時、本当にそのことを願い求めるべき時あるのです。
地上から上げられるときに
ならばそこで大事なことは何なのでしょう。苦難に負けない強さを持つことでしょうか。強靱な精神力を持つことでしょうか。イエス様はどうだったのでしょう。そこで一つのことに気付かされます。ここで繰り返されている「父よ」という言葉です。この呼びかけは、ヨハネによる福音書に繰り返し現れます。「父よ。」――そうです、十字架の時を目の前にして、「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と主に言わしめたのは、他ならぬ「父」への信頼であり、「父」との不断の交わりだったのです。「父よ」。イエス様はそのようにひたすら父を呼び求めながら生きていたのです。
私たちに本当に必要なのは、私たちの強さではありません。苦しみの中にある時、私たちを本当に支えるのは私たち自身の精神力などではありません。そうではなくて、天の父を呼び求める生活です。父なる神への信頼です。変え得ることは変えたらよいけれど、それでもなお変え得ないことはある。解放されるべきことからは解放されたらよいけれど、それでもなお、どうしても担うべき重荷がある。その時、なおすべてが父なる神の御手の内にあることを信じ、そしてその父に信頼し、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈ることができるなら、父は言ってくださるのでしょう。「栄光を現そう」と。そのように、私たちに必要なのは、天の父を呼び求め、天の父に信頼して生きることなのです。
それは、言い換えるならば、父の御名を呼び、父に信頼して生きることを見せてくださった、イエス様と共にいることです。御子と御父との交わりの中に、私たちもまた身を置くことなのです。イエス様はそのためにこそ、十字架におかかりくださったのではありませんか。32節で主はこのように言っておられます。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と。
「地上から上げられるとき」とはいつのことですか。十字架にかけられる時です。ですから「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(33節)と書かれているのです。しかし、イエス様は十字架に上げられて終わりではないのです。さらに父なる神のみもとにまで上げられるのです。そのイエス様が言われるのです。「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と。父のみもとにいるイエス様が、自分のもとに引き寄せてくださるのです。十字架におかかりくださったイエス様が、「あなたの罪は贖われた。あなたの罪は赦された」と言って、御自分のもとに、また父のもとに引き寄せてくださるのです。そのようにして、私たちもまたイエス様と共に父のみもとに身を置くことができるのです。父との交わりに生きることができるのです。
光のあるうちに
「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と主は言われます。それはキリストがしてくださることです。その一方で私たちが為すべきことがあります。イエス様は次のように言われました。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(35‐36節)。
「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない」と書かれています。当然のことながら、キリスト御自身はそのような暗闇の中にいる御方ではありませんでした。キリストは自分がどこにいるかを知っていた。キリストは自分がどこに向かっているかを知っていた。父なる神に信頼し、与えられている十字架の道を受け止め、ただ父の栄光が現れることを祈りつつ、まっすぐに命の道を進んでいたのです。そのように光の中を歩んでいたのです。
そして主は、私たちもまた、暗闇の中を歩むのではなく、光の中を歩むように招いておられるのです。つぶやきながら、不平を言いながら、嘆きながら、腹を立てながら、憎しみを抱きながら、諸々の罪に振り回されながら、どこへ向かっているのかも分からないまま暗闇の中を歩くのではなくて、父なる神の名を呼びながら、父なる神に信頼しながら、父が栄光を現してくださることを求めながら、主と共に歩いていく、そのような光の中を私たちが歩いていくことを主は望んでおられるのです。だから「光のあるうちに」そのように光の中を歩み始めなさいと主は言われるのです。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい、と。
「光のあるうちに」とは、キリストが共におられ、御言葉を語っておられるその間に、ということです。それは第一には、キリストがこの地上におられた期間を指すのでしょう。キリストが十字架にかけられて死なれるまでの期間です。しかし、私たちはキリストが死んで終わりではなかったことを知っています。主は復活され、天に上げられ、今も生きておられます。「光のあるうちに」――その期間はキリストの死をもって終わりはしませんでした。復活された主が今も御言葉を語り続けていてくださるから。「光のあるうちに」。その光は今日に至ってなおわたしたちの間にある、とも言えるのです。
しかし、イエス様は言われたのです。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」と。それはやはりあくまでも「いましばらく」なのであって、永遠に続くわけではありません。人が御言葉を聞くことができるのは、限られたある期間に過ぎないのです。ですから、いつでも重要なのは《今》です。御言葉が語られているその時が信ずべき時なのです。キリストが招いていてくださるその時が従うべき時なのです。「光のあるうちに、歩きなさい。光のあるうちに、光を信じなさい」と主は言われます。キリストが招いていてくださる今日という日を大切にしなくてはなりません。光のあううちに、光の中を歩み始めるならば、暗闇が私たちに追いつき、暗闇が私たちを捕らえて滅ぼすことは決してありません。光なるキリストを信じ、光の中を歩いていきましょう。
2024年3月13日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 12:1~28
出エジプト記12:1~28
前回は、主がファラオに最終的な裁きを告げるところまでをお読みしました。今日の箇所では、主がモーセとアロンに、イスラエルの共同体全体に告げるべき言葉を与えています。それは次のような指示でした。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(3-7節)。
羊や山羊を家族で食べるということは、それ自体は珍しいことではありません。そこで決定的に重要なのは、その羊が傷のない一歳の雄でなければならないということ、そして、その血を柱と鴨居に塗るということです。
なんのために血を塗るのか。その理由が後に明確に語られています。前提となっているのは、来るべき主の裁きです。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」(12節)。ここで重要なのは、「エジプトの国(エジプトの地)のすべての初子を打つ」と語られているのであって、「エジプト人の初子を打つ」と語られてはいないということです。また「エジプトのすべての神々に裁きを行う」と言われていることです。先週、預言者エゼキエルの預言に見たように、イスラエルの人々は、エジプトの神々と無関係に生きてきたわけではないのです。その意味で、ここで語られる裁きはイスラエルにとっても決して無関係ではないのです。
そこで、柱と鴨居に塗る「血」が大きな意味を持つことになるのです。次のように語られているからです。「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(13節)。
ここで「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」という表現は極めて重要です。主の裁きは《イスラエルの民》を見て過ぎ越すのではないのです。犠牲の小羊の《血を見て》過ぎ越すのです。このことは、彼らが赦され裁きを免れる根拠が、彼ら自身にないことを示しているのです。救いの根拠は、彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血にあるのです。
だからこそ、ただ柱と鴨居に血を塗るだけでなく、後に次のように命じられているのです。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」(21-23節)。要するに、彼らは神が定められた仕方によって、神の憐れみと赦しの内に留まらなくてはならないということです。
実際に彼らはどうしたでしょうか。「それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った」(28節)と書かれています。人は、自分勝手な方法によって、神の赦しと救いを得ることはできないのです。もし伝えられた言葉を無視して血を塗らないならば、あるいは誰かがその血に塗られた家から迷い出るならば、その途端にその人は救いの根拠を失い、神の裁きのもとに身を置くことになるということを意味するのです。
さて、以上、ファラオに告げられた最後の裁きと、その日に関わるイスラエルの共同体全体に出された指示について見てきました。しかし、話はここで終わりません。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(14節)と語られていますように、ここに書かれていることはさらに、後々まで行われるべき「祭り」に関係しているのです。
まず、今日の箇所の始めに戻りますが、そこにはわざわざ「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)という指示が主によって与えられています。エジプト脱出のためだけだったら、この指示は必要ありません。エジプト脱出は一回限りの出来事だからです。しかし、「正月としなさい」と言われたら、「正月」は一年に一度巡ってくることになります。つまり、ここに書かれていることは、一回限りの救いのためだけではなく、毎年毎年巡ってくることを前提として語られているのです。つまり、一回だけ行うのではなく、毎年行うことを前提として語られているのです。
だから日にちの指定がなされているのです。小羊は正月の10日に用意するのです。14日までとりわけて置くというのは、実際には準備に4日間くらいかかるからです。なので屠るまで4日の猶予が与えられているのです。屠るのは14日の夕です。太陰暦で14日の夕と言えば、満月の夕に当たります。満月の夕に小羊を屠る。これならば分かり易いし、覚えやすいでしょう。これも毎年行うことを前提として語られているのです。小羊の選び方も書かれています。「その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。」これもまた、後に繰り返されることが前提として語られているのです。
ですから、先に引用したように、14節にはこう書かれているのです。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」。これが「過ぎ越しの祭り」と呼ばれるものです。ここに書かれているのは、一回だけの話ではなく、過越祭の祝い方なのです。
そう考えますと、8節以下は実に興味深いと言えます。食べ方の指示が書かれているのです。何を食べるかが書かれているのはわかりますが、面白いのは、食べ方が書かれていることです。「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」(11節)。
もちろん、エジプト脱出の夜には、そのようなことが必要だったと言えます。ゆっくりなんて食べていられないからです。しかし、先に述べたように、これは繰り返されることが前提として書かれているのです。つまり、毎年、こんな寸劇みたいなことをするのです。脱出した後は、そのような仕方で食べる必要はないはずなのに、毎年、逃げる用意をして食べるようなことをするのです。
さて、これは何のためかということが重要なのです。何のために祭りを行うのか。もちろん繰り返し神に感謝し、神に栄光を帰するためであることは言うまでもありません。しかし、あえて「あの日」の出来事を再現して繰り返すのは、「あの日」の出来事によって救われた後の生活を形作るためなのです。そして、救われた人々の共同体を形成するためなのです。
「正月」にするのは、あの日の出来事を「原点」とするために他なりません。すべてはそこから始まったということです。「そこ」とは何か。裁きが過ぎ越されて救われたということです。言い換えるならば、ただ神の一方的な恵みによって救われたということです。救いの根拠は人間の側にはなかったということなのです。
先ほど見たように、「小羊の選び方」は指示されています。しかし、救われるべき人間の選び方は指定されていません。「今まで一度も偶像をおがんだことのない者」とか、「エジプト人との混血でない者」などの条件は書かれていないのです。この救いにおいて重要なのは、小羊の方なのです。あくまでも神の用意された救いの方法の方が重要なのです。そこに表されている神の恵みの方が重要なのです。人間に求められたのはただ信じて血を塗ることであり、そこに留まることだけだったのです。
それが原点でした。恵みによる救いが原点です。そこで「ああ、救われてよかった」ではなくて、その事実が今度は生活を形作るようにならなくてはならないのです。また、個人の生活を形作るだけでなく、その出来事が共同体を形作るようになることが重要なのです。そのために繰り返し祭りを行い、寸劇までするのです。
私たちが行っていることも、実は全く同じことであることが分かりますでしょう。教会が復活祭を祝うようになったのはなぜか。そもそも主の日に集まって復活を祝うようになったのはなぜか。なぜ聖餐を行うのか。なぜ寸劇のような、ままごとのようなことを繰り返すのか。恵みによって救われた者の生活が、それによって形作られるためです。それによって共同体が形作られるためです。私たちの信仰生活とはそういうものであり、教会とはそういうものなのです。
そして、祭りを行うのは、生活と共同体の形成のためと言いましたが、さらに言うならば、それは今の世代だけでなく、次の世代のためでもあるのです。24節以下には次のように書かれています。「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と」(24-27節)。
大人たちが行っていることを子供たちに見せるのです。意味が分かろうが分かるまいがその場にいさせて見せるのです。そして、子供たちがやがて問うようになる。そして、意味を説明するのです。そこには「我々の家」という言葉が使われています。子供たちは、そのようにして自分たちが「我々」の中にいることを知っていくようになるのです。自分たちも神の恵みの中にあること、圧倒的な神の救いの御業と御計画の中にあることを知るようになるのです。
そう考える時に、私たちの信仰による営み、儀式も含め、すべてを子供に見せているということは極めて大事なことであることが分かります。礼拝に子供がいるということは大事なことなのです。「いても子供には意味がわからないから」などと言ってはならないのです。
2024年3月10日日曜日
「マリアとユダ」
ヨハネによる福音書 12:1‐8
香油を注いだマリア
今日の福音書朗読では「過越祭の六日前」の話が読まれました。イエス様が十字架にかけられたのは過越祭の時ですから、イエス様の最後の時が刻一刻と近づいているという場面です。そのように自分の死の時が近づいている時に、イエス様にはどうしても会いたい人たちがいました。それは11章に書かれていますマリアとマルタという姉妹、そして、その兄弟ラザロでした。
既にイエス様はユダヤの当局から指名手配されていました。今日お読みした直前に「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである」(11:57)と書かれているとおりです。そのイエス様が、エルサレムのすぐ近く、ベタニヤまで来ていたのです。その翌日にはエルサレム入りする予定でした。
そのような緊迫した危機的状況にあって、弟子たちはかつて主が「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語られた言葉を思い起こしていたに違いありません。他の福音書を見るならば、主はもっとあからさまに御自分の受難について語っておられます。皆、本当は感じ取っていたに違いないのです。イエス様が語っていた「その時」は本当に近づいているのかも知れないということを。
しかし、ベタニヤの家での食卓においては、誰もそのことを口にしません。誰も触れません。怖かったのだと思います。目を向けたくはなかったのでしょう。イエス様があからさまに自分の死について語る言葉など、二度と聞きたくはなかったのでしょう。
翌日エルサレム入りすることについては誰も何も語らぬまま、いつものように食事の準備が進められていきました。マルタはいつものように給仕をしています。ラザロもいつものように席についています。これまで幾度も繰り返されてきたイエス様との晩餐が、何事もないかのように普通に進んでいきます。――不自然です。ごく普通の食事であることが実に不自然です。しかし、それがどれほど不自然であっても、皆、何もないかのような顔をしているしかなかったのです。
ところがそこに一人だけ、その不自然さに耐えられなかった人がいました。マリアです。いつもイエス様が来られる時には、足もとに座って一心にその御言葉に聞き入っていたマリアです。イエス様が何を考えておられるのか。何を望んでおられるのか。そのことにひたすら耳を傾けてきたマリアです。だからこそ分かるのです。この御方は、父の御心に従ってエルサレムに行こうとしている。父の御心に従って、私たちのために命を捧げ尽くそうとしておられる。マリアには分かっていたのです。だから、この不自然な平静さ、取り繕われた平静さには耐えられない。
マリアは突然、誰もが驚くような行動に出ました。食事の席に着いておられるイエス様のもとに、純粋で非常に高価なナルドの香油を持って現れると、それをイエスの足に塗り自分の髪でその足を拭いました。髪を人前でほどくようなことは、娼婦でもないかぎり普通はしません。なりふり構わぬマリアがそこにいました。しかも、マリアが持ってきたのは一リトラ入りの壺でした。約330グラムに当たります。それだけで三百デナリオンもするものです。三百デナリオンと言えば、当時の労働者の年収に当たります。どれほど高価なものであったかが分かります。
それだけではありません。ユダが「なぜ…貧しい人々に施さなかったのか」と言っているところを見ると、明らかに彼女は少しだけ塗ってあとは残しておいたというのではありません。全部注いでしまったのです。他の福音書を見ると、足ではなく「イエスの頭に注ぎかけた」(マルコ14:3)と書かれています。頭にも、足にも、全身に注ぎかけてしまったのかもしれません。いずれにせよ、一リトラもの香油を一気に使うということは、普通はしないものです。あえてそのように用いるとするならば、それは一つの場合だけです。埋葬の時です。つまり、マリアは突然、死体の埋葬のようなことをし始めたのです。
皆が一生懸命に造り上げてきた平静な雰囲気は完全に打ち壊されてしまいました。マリアの行為は、皆が目を逸らしていた一つのことをはっきりと指し示していたからです。キリストの受難と死。「イエス様、あなたは本当に羊たちのために命を捨てるつもりでいらっしゃるのですね」。マリアの無言の行いが、イエス様にそう語りかけていました。
イスカリオテのユダ
しかし、そんなことは絶対に認めたくもないし考えたくもない男がいました。イスカリオテのユダです。それはそうでしょう。イエスという人物に人生をかけて故郷を捨ててついて来たのです。この御方こそメシア。この御方こそ王となるべき方。この御方こそ支配者となるべき方。そう信じてついて来たのです。他の弟子たちも皆同じであったに違いありません。ですから弟子たちの間では、「誰が一番偉いか」という話題が絶えなかったのです。それがそのままイエスが王となった時の序列になるからです。そのようにイエスは王となるべき方なのであって、イエスが死ぬなんてとんでもない!イエスの埋葬なんて、とんでもない!弟子たちは、そんなことを何としても認めたくなかった。
だからユダは彼女を咎めたのです。あくまでもイエスの死にまつわる話は抜きにして!ユダは言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。しかし、イエス様はそのように言うユダをたしなめてこう言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(7節)。
イエス様は分かっていてくださったのです。マリアはこの場面で一言も口にしていません。自分がなぜこんなことをしたのか、一言も弁明しようとはしないのです。しかし、イエス様は分かっておられた、マリアの心を。いや、イエス様とマリアは分かり合っていた、と言う方が正確かもしれません。父なる神を愛し、人を愛するゆえに、自分の命を捧げ尽くそうとしておられるイエス様を理解し、受難のキリストと正面から向き合っていたのはマリアでした。また、そのようなマリアであることを、イエス様も分かっていてくださったのです。
ユダとマリア
さて、ヨハネによる福音書が殊更に名前を挙げているユダとマリア。この対照的な二人の姿から、改めて信仰生活とは何かを考えさせられます。
ユダは言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。なるほどユダが言うとおりです。善意に溢れた言葉です。誰も反対できません。しかし、ヨハネによる福音書は次のように続けるのです。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない」(6節)。この言葉には心を刺されます。こういうこと、確かにあると思いませんか。私たちが口にする善意の言葉。「彼のために」「彼女のために」「世の人々のために」「苦しんでいる人のために」「あなたのために」。でも、本当にそうなのでしょうか。ユダが「貧しい人々のために」と言った時、本当は貧しい人々のことを心にかけてなんかいなかったのだ、と聖書は言うのです。
では誰のことを心にかけていたのか。キリストのことでしょうか。いいえ、違います。聖書はさらにこう続けます。「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」。彼が心にかけていたのは貧しい人々のことではない。キリストのことでもない。自分のことだ、と言っているのです。キリストの弟子の群れの金入れ。「その中身をごまかしていた」ということは、とりもなおさず、キリストの弟子の群れを自分の利益のために利用していた、ということです。キリストの弟子の一人としてキリストと共にあることを、彼は自分の利益のために利用したのだ、ということです。
とんでもないことをする奴だ、と思います。しかし、それでは私たちはどうなのでしょう。教会を自分のために利用してやろう。と、そんなことをあからさまに考える人はいないでしょう。しかし、「キリスト教信仰は私にとって何の役に立つだろうか」「教会に来ていることは私の役に立つことだろうか」「他の教会員と関わることによって、私は何か良いものを得ているのだろうか」。そんなふうに、教会生活について、これが自分にとって得になるか損になるか試算しているということは、あるかもしれません。そのような部分において、ユダの姿が私たちと重なってくることは確かにあり得ることだと思います。
しかし、あのマリアは違っていたのです。もし私たちが「何を得られるか」ということをあれこれ考えているとするならば、マリアならそんな私たちにこう言うでしょう。――私たちはもう十分受けているよ。イエス様からもう十分過ぎるほど受けているじゃないですか。イエス様から愛されて、愛されて、その命さえも分かち与えられるほどに愛されて…。命さえ惜しまずに与えてくださったイエス様から、私たちはもう十分過ぎるぐらい受けているじゃないですか。
そのことが本当に見えていたのが、ここに出て来るマリアなのです。マリアは、キリストに従って行くことが得か損かなどということは考えたこともなかったに違いありません。ただただイエス様から愛されていることが嬉しかった。彼女が考えていたことは、命さえも惜しまず与えるほどに愛してくださったキリストとまっすぐに向き合うこと、そして、そのキリストの愛に自らの愛をもって精一杯応えることだったのです。弟子の群れのサイフから金を抜くことを考えていたユダのかたわらで、マリアはイエス様の思いを精一杯に受け止めて、イエス様の御受難を指し示しながら、三百デナリオンもの香油を注ぎ尽くしたのです。
あのとき、マリアが目を逸らさずにしっかりと見つめていた、命さえ惜しまずに与えるキリストの愛を、私たちの前に置かれている聖餐卓が今日も私たちに指し示しています。私たちも目を逸らしてはなりません。レントのこの期間こそ、私たちは目を逸らしてはならないのです。キリストによって愛されているのです。もう十分に愛されているのです。キリストは十字架において現された愛をもって、今日も私たちに触れてくださいます。教会生活というものは、そこから始まっていくのです。教会生活は、キリストの愛に対して自らの愛をもってお応えしていく生活として形作られていくのです。
2024年3月6日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 10:21~11:10
出エジプト記10:21~11:10
今日は「暗闇の災い」からお読みしました。これは二つの意味で非常に象徴的な災いであったと言えます。
第一に、これはファラオの権威を完全に否定する災いであったことです。ファラオは太陽神の化身と考えられ、畏れられていました。しかし、モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨みました。これがいかなる現象かは分かりません。しかし、暗闇が三日に及んだということは、明らかに太陽がその期間隠されたということを意味します。つまり太陽もまた、主の支配下にあることが明らかにされたのです。当然、エジプトの人々の目には、太陽の化身であるファラオが主の支配下にあると映ったに違いありません。そして、実際その通りなのです。
第二に、これは本当に闇の中にあるのは誰であり、光の中にあるのは誰であるかが明らかにされた災いでありました。「イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった」と書かれています。これも実際には何が起こっていたのか、この記述だけでは分かりません。しかし、それが伝えているメッセージは明瞭です。
それまでは太陽神とその化身のもとに、古代オリエント世界においても極めて豊かな繁栄を享受していたエジプトの民は、まさに光の中にあるように見えたはずです。一方、そこでこき使われている奴隷の民、イスラエルは、暗闇の中をはいつくばって生きているように見えたに違いありません。しかし、実はそうではなかったのです。主と共にあるなら、その人は光の中にいるのです。イスラエルの民はまだ解放されたわけではありません。依然として奴隷の民なのです。しかし、彼らは光の中にあるのです。そして、やがてその事実が、はっきりと現される時が来るのです。
そして、ついに解放の時が近づいて来ました。最後の災いについて、まずどのような災いであるかを告げる前に、主はこう言われました。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい」(11:1-2)。
つまり、ファラオはしぶしぶ去らせるというのではない。むしろ追い出すようにして去らせるというのです。いや、それだけではありません。出て行く際にはエジプト人から装飾品を求めさせよ、というのです。実際どうなったかを、先に少しだけ見ておきましょう。12:33以下には次のように書かれています。「イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした」。
「分捕り物とした」という言葉だけを読むならば、イスラエルの民が不当にもエジプト人のものを奪ったように読めなくありません。しかし、実際には、これは神の正しい裁きの一部に他ならないのです。つまり、彼らは長い間、奴隷として抑圧され、搾取されてきたのです。彼らは不当に奪われてきたのです。そのことを神はご存じで、ただ「解放されてよかったね」ということで、それまでのことは無かったかのように扱うことはなさらないのです。神は正しく裁かれる。神は正しく報いてくださるのです。神が正しく取り返してくださる。神の正しい裁きが行われるとはそういうことです。
実は、これは初めから既に語られていたことなのです。3章21節以下には次のように語られていました。「そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」つまり、このことは神様の御計画に最初から入っているのです。神は苦しみから解放してくださるだけでない。イスラエルは神の正しい裁きを見せていただけるのです。そして、彼らは神の正しい裁きを知る民となるのです。
確かに、ここまで長いプロセスを経てきました。それは一方において、エジプト人たちへの働きかけに他なりませんでした。その結果どうなったか。「主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた」(3節)と書かれています。見る人は見ているのです。それゆえに、脱出の時には、「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」(12:38)ということも起こってくるのです。歴代誌上2:34を見ると、系図の話の中に、後にエジプト人の召し使いなどが出て来ます。その脱出に加わった人々に、もちろんエジプト人の一部も加わったと考えてもよいでしょう。
もう一方では、イスラエルにとっても本当の意味で神を知るということでもありました。神は正しく裁かれる神なのです。ならば、そこでイスラエルが区別されるとするならば、それは恵み以外の何ものでもありません。私たちはイスラエルの人たちがエジプト人たちよりも敬虔であったから区別されたと思ってはならないのです。
それは例えば、以下の箇所を参照すれば明らかです。「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」(ヨシュア24:14)。「わたしがイスラエルを選んだ日に、わたしはヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせたとき、彼らに誓って、わたしはお前たちの神、主であると言った。その日、わたしは彼らに誓い、わたしは彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らのために探し求めた土地、乳と蜜の流れる地、すべての国々の中で最も美しい土地に導く、と言った。わたしはまた、彼らに言った。『おのおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である』と。しかし、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとはしなかった。おのおの、目の前の憎むべきものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てようとはしなかった。そこで、わたしは言った。『わたしは憤りを彼らの上に注ぎ、エジプトの地でわたしの怒りを浴びせる』と」(エゼキエル20:5‐8)
そのような現実が一方にある中で、イスラエルの民は、エジプトの神々とエジプトの王が正しく裁かれるプロセスを目の当たりにしていたのです。そして、ついに最終的な裁きが行われることが告げられました。それがこの場面です。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない』」(11:4-6)。
神御自身がエジプトの中を進まれます。これはある意味ではイスラエルの民にとっても大きな危機なのです。なぜなら、最後の災いについて主はこう言っておられるからです。「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む」。そして、「そのとき、エジプトの国中(直訳では「エジプトの地」)の初子は皆、死ぬ」と言っているのであって、「エジプト人の初子は皆、死ぬ」と言っているのではないからです。その意味合いは、次回読みます12章12節ではもっとはっきり語られることになります。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」。そして、先にも見たように、イスラエルの人々もエジプトの神々に関わってきたのである。その意味で、ここで語られる裁きはイスラエルにとっても無関係ではないのです。神がエジプトの中を進まれるならば、それはイスラエルの民にとっても危機なのです。
にもかかわらず、先の言葉は次のように続きます。「しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら、人に向かっても家畜に向かっても、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう」。先に見ましたように、明らかに主がイスラエルの民を「区別」されるのは、彼らがもともと主を畏れ、主に従っていたからではありません。ではいったいどうしてこうなるのか。そこで重要なのが、12章において語られていることなのです。ポイントは「過ぎ越し」という言葉です。裁きが「過ぎ越す」という意味です。
主の過ぎ越しについては、次回さらに詳しく学びます。主はファラオに最終的な裁きを告げる一方で、モーセとアロンに、イスラエルの共同体全体に告げるべき言葉が与えられるのです。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」(12:3-7節)。
羊や山羊を家族で食べるということは、それ自体は珍しいことではありません。決定的に重要なのは、傷のない一歳の雄でなければならないということです。そして、その血を柱と鴨居に塗るということです。なんのために血を塗るのか。そこで先に引用した言葉とその次の節が語られるのです。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(12:12-13)。
主の裁きは《イスラエルの民》を見て過ぎ越すのではないのです。犠牲の小羊の《血を見て》過ぎ越すのです。「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」という表現は重要です。これは、彼らが赦され裁きを免れる根拠が、彼ら自身にないことを示しているのです。救いの根拠は、彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血にあるのです。それゆえに、神の憐れみと赦しの内に留まるためには、神が定められた仕方によってそこに留まらなくてはならないことが語られるのです。人は、自分勝手な方法によって、神の赦しと救いを得ることはできないのです。彼らは、主が言われた通り、家の柱と鴨居に血を塗り、その家の中に留まらなくてはなりませんでした。このことを念頭において、今一度、今日の箇所に語られていることをよく思い巡らしたいと思います。
2024年3月3日日曜日
「永遠の命の言葉を求めて」
ヨハネによる福音書 6:60-71
実にひどい話だ
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)。弟子たちの多くがこう言って離れ去ったということが、今日の箇所には書かれていました。なぜそんなことが起こったのでしょうか。
そもそもの発端はイエス様のなさった奇跡でした。この章の初めに書かれています。五つのパンと二匹の魚をもって男だけを数えても五千人という大群衆を満腹させたという話です。この出来事が12弟子を含む弟子たちの群れを熱狂させたことは間違いないでしょう。
既に奇跡を行う力を持っているイエス様を王にしようとする動きさえありました。それはローマ人の支配からの解放を求めてのことでした。それはまた、安定した新しい生活を求めてのことでもあったでしょう。この御方がいるかぎり、もはや貧しさや病気と決別できると考えていた人もいたに違いありません。そのような人々がカファルナウムまで追いかけてきたのです。
ところが興奮さめやらぬ人々にイエス様が語られた言葉はこうでした。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(26‐27節)。そして、そこからイエス様の一連の話が始まるのです。
その話の中心は「わたしは天から降って来たパンである」というイエス様の主張でした。しかも、それはかつてイスラエルの先祖が荒野で食べたマンナのような一時的な飢えをしのぐものではなく、永遠の命を与えるパンであると言い始めたのです。そして、その言葉はさらに過激さを増していきます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(53‐54節)とまで言い始めるのです。
これを聞いて、弟子たちの多くがつまずきました。それは単にイエス様の言葉が理解不能だったからではありません。その言葉は彼らが求め、期待してきたこととは異なっていたからです。
もしイエス様が「わたしは天から降ってきたパンだ」などと言わずに、「わたしは奇跡によってパンを出してあげよう」と言ったなら彼らはつまずかなかったのです。もしイエス様が「わたしの肉を食べ、血を飲め」なんて言わずに、「わたしが肉と飲み物を与えるから食べて飲みなさい」と言ったなら、彼らはつまずくことはなかったのです。
もしイエス様が「終わりの日に復活させる」なんて言わずに、「すぐにでもあなた方をローマ人の支配から解放してあげよう」と言ったなら、誰もつまずくことはなかったのです。より良い、安定した生活を与えてあげようと言ったなら、誰もつまずかなかったのです。
しかし、イエス様はあくまでも永遠の命について語られるのです。永遠なる神との交わりによって与えられるまことの命について語られるのです。だから彼らはつまずいたのです。彼らは言いました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。
肉は何の役にも立たない
イエス様は弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われました。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」(61‐62節)。イエス様の言葉は途中で終わっています。なんと続けたかったのでしょうか。恐らくは「なおさらつまずくことになるだろう」と言いたかったのでしょう。
なぜなら事実、その先にはもっと大きなつまずきが待っているからです。イエス様は十字架にかけられることになるのです。「人の子がもといた所に上るのを見るならば」と主は言われました。「人の子(イエス)がもといた所に上る」とは、天に帰るということですが、この福音書においては十字架にかけられて死ぬことを指しているのです。もし、目の前の助けや必要の満たしだけを求めてついていくならば、そこで大きくつまずかざるを得ないでしょう。
それゆえに、主はさらにこう続けられたのでした。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。主はあくまでも「命」すなわち「永遠の命」について語られるのです。「命を与えるのは“霊”である」と。その「命」は目に見えない永遠なる神の霊のお働きとして与えられるのです。
それに対して、目に見えるこの世界に属するものをイエス様は「肉」と呼ばれます。朽ちていくこの地上のもの、イエス様が先に「朽ちるパン」と呼ばれたもの、人々がひたすら追い求めているもの、それを主は「肉」と呼ばれるのです。実際、群衆は「肉」を求めてはるばるカファルナウムまでイエス様を追いかけてきたのです。しかし、「肉」は本当の意味で命を与えることはないのです。いや、「肉は何の役にも立たない」とまでイエス様は言い切られるのです。
どんな思いで主はこれを語られたのでしょうか。考えて見てください。イエス様の周りには常に飢えた人、病気の人、見捨てられた人、抑圧された人、様々な問題に押しつぶされそうになっている人たちがたくさんいたはずです。それらの人々の苦しみがイエス様には分からなかったはずはありません。どんなにお腹いっぱい食べたいか、どれほど健康になりたいか、どれほど安定した生活を欲しているか、イエス様には痛いほど分かっていたはずです。人間に肉なるものがどれほど必要であるか、この世が提供するものがどれほど必要であるか、そんなことは重々分かっておられるはずなのです。
しかし、そのイエス様が敢えて「肉は何の役にも立たない」と言われるのです。それは「命を与えるのは“霊”である」ということをどうしても伝えたかったからでしょう。それほどまでに永遠なる神に思いを向けて欲しかった、それほどまでに永遠の命を与えたいと思っておられたからでしょう。人がたとえ代わりにすべてを失ったとしても、なおその人を生かす命。最終的には肉体の生命を失ったとしてもその人を生かす命。何ものによっても奪われることのない命――永遠の命を主は与えたいと願っておられたのです。
そのために主は十字架への道を歩むことさえ厭わなかったのです。そのために主は御自分の全てを与えるつもりでいたのです。自分自身を天から降ってきたパンとして与えるつもりでいたのです。わたしの肉を食べなさい、わたしの血を飲みなさい、と言って、自分を差し出すつもりでいたのです。
あなたがたも離れて行きたいか
しかし、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)と聖書は伝えます。はっきりと「弟子たちの多く」と書かれています。ここまでイエス様を信じて従ってきたはずの「弟子たちの多くが」離れて行ったのです。
この言葉は、この福音書が書かれた頃の教会にとっても大きな意味を持ったはずです。というのも、その頃、弟子たちの多くが教会を離れていったからです。なぜか。彼らは迫害と困窮を経験していたからです。
信仰のゆえに迫害と困窮の中に置かれるならば、そこで何を求めているのか、何を求めてきたのかが必然的に問われることになるでしょう。そのような中で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」というような主の言葉はどのように聞こえたのでしょうか。
その主の言葉に対して、「そんなことより、今は目の前のことの方が大事なのです。神との交わりよりも〝霊〟よりも、「肉」の方が重要なのです」と言う人は、もはやイエス様のもとに留まることはできなかったに違いありません。イエス様から離れ去った多くの弟子たちの話は、この福音書が書かれた頃の教会にとっても他人事ではなかったはずです。
しかし、だからこそ、あの十二弟子に語られたイエス様の言葉もまた強く迫ってきたに違いありません。弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時、イエス様は十二弟子にこう言われたのです。「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)。
これは「あなたがたも離れて行きたいか。もしそうならば去ってもいいのだよ」という意味ではありません。そうではなく、「あなたがたも離れて行きたいか。いやあなたがたは決して去ることはないだろう」という意味合いの表現が用いられているのです。「あなたがたは去って行かない。きっと留まるはずだ」という信頼をもってイエス様は語っておられるのです。
その言葉に対して、シモン・ペトロはこう答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(68節)。どれだけ分かって言っていたのかは分かりません。しかし、一つのことだけは明らかです。彼はただ肉なるものを求めてイエス様のもとにいるのではなかったということです。
さて、私たちは何と答えるでしょうか。主はここにいる私たちにも「あなたがたはわたしの言葉に留まるはずだ」と信頼して御言葉を語っていてくださいます。永遠の命の御言葉を語っていてくださるのです。私たちは何と答えるのでしょうか。レントの時を過ごしている私たちは、真剣にこのことを自らに問う必要があろうかと思います。この期間を経て、私たちもまたペトロと共に、心からこのように答える者となりたいと思うのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と。