2026年5月10日 主日礼拝説教
聖書:出エジプト記 2:1‐10
本日は五月の第二主日、「母の日」ということで、いつもの聖書日課を離れまして、聖書の中に出て来ます一人の母親に注目しながら、御言葉に耳を傾けたいと思います。その母親とはモーセという人物の母です。どうぞ出エジプト記2章をお開きください。
信仰によって
今から三千数百年前のことです。イスラエルの先祖であるヤコブとその一族がエジプトに移住しまして既に四百年以上経っておりました。その頃既に、イスラエルの民は、エジプト人が無視できないほどに増え広がっておりました。外来の民族の増加に危機感を覚えたエジプトの王は、ついに恐るべき命令を下しました。今日の箇所の直前にはこう記されています。「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』」(1:22)。――モーセという人物が生まれたのは、実にそのような暗黒の時代、悲しみと嘆きに満ちた時代でありました。
誰でも良き時代に生きたいと思います。親は生まれくる子どもたちの時代が、良い時代であって欲しいと願います。しかし、実際、私たちは自分の産まれてくる時代を選べません。子どもたちの生きる時代についても、私たちの願いの通りにはなりません。それゆえに、私たちはしばしば無力さを覚え、嘆きの言葉を口にします。
しかし、私たちはここで思い起こさねばなりません。神がモーセという人物を誕生させたのは、イスラエルにとって最も暗い時代だったのです。悲しみと嘆きに満ちた《最悪の時》こそが、モーセという人物を未来に向かって備えるために、神が選ばれた《最善の時》だったのです。
モーセの誕生の経緯は次のように記されております。「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」(1‐2節)。
彼らは王の命令に従いませんでした。実は、同じように、王の命令に従わなかった人たちの話が、今日の箇所の前に書かれています。1章には二人のヘブライ人の助産婦が登場します。彼女たちについては次のように書かれています。「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1:17)。
彼女たちにとっては、王に従うことよりも、神に従うことの方が重要だったのです。王が望んでいることを行うことよりも、神が望んでいることを行うことの方が重要だったのです。生まれてきた男の子の命を奪うことを神が望んでおられるはずがない。神の御心を行うために、彼らは最善を尽くしました。
そして、モーセの両親も同じでした。彼らもまたヘブライ人、神を畏れ敬う人々です。生まれてきた男の子をナイル川に放り込むことを、神が望んでおられるはずがない。神の望んでいることを行うために、彼らは最善を尽くしたのです。
彼らの行為について、後の時代の新約聖書は次のように語っています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです」(ヘブライ11:23)。王の命令に従わなかった。それは信仰による行為でした。彼らはそのために最善を尽くした。「三か月の間隠しておいた」とはそういうことです。
しかし、人間の行うことが全てなのではありません。人間の行いが全てならば、いずれは行き詰まることになります。彼らにとっては、三ヶ月が限界でした。人間が行うことが全てなら、最終的には諦めるしかありません。しかし、彼らはヘブライ人です。神を畏れ敬う人々です。ならば行き着くところは諦めではありません。神への信頼です。
モーセを三か月間隠しておいた両親は、ついに隠しきれなくなった時、手放すべき時、神に委ねるべき時が来たことを悟ります。彼らはアスファルトとピッチで防水したパピルスの籠に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。そこにあるのは諦めではありません。神への信頼です。
神の御計画に用いられる
事態はどのように展開していったでしょうか。赤子の姉が遠くに立って様子を見ていました。すると、折しもそこにファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来たのです。よりによって、命令を下した王の娘がやってきた。しかも、その王女によって、いともたやすく葦の茂みの間に置かれていた籠は見出されてしまいました。
最悪の展開です。――しかし、神はしばしば最悪の展開をさえ用いて、事を先に進められるのです。王女は仕え女をやって籠を取ってこさせました。開けてみるとそこには赤ん坊がおり、泣いています。彼女はふびんに思って言いました。「これは、きっとヘブライ人の子です」。
王女に赤ん坊を害する意思がないことを見てとったその子の姉は、すかさず近づいて王女に申し出ます。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」王女はこの申し出を快く受け入れます。娘が連れて来たのは、その赤ん坊の実の母親でした。王女は言います。「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当はわたしが出しますから」。こうして、その子は実の母親の手で育てられることになりました。
できすぎた話だと思いますか。しかし、考えてみれば、この世の中でこのようなことが全く起こらないかといえば、そんなことはない。似たようなことは起こり得ます。そして、ある人はそれを「幸運」と呼ぶのでしょう。あるいは、「単なる偶然」と呼ぶかもしれません。
しかし、もしこの母親が、信仰によって三か月赤子を隠した人であるならば、そして信仰によって赤子を手放した人であるならば、本気で神に信頼して委ねた人であるならば、これが単なる幸運や偶然ではないことは分かったはずです。「主なる神のなされたことだ!」と。そして、生ける神の御手が動かされたことを知って、畏れの念に打ち震えたに違いありません。
そして、そこに神の御業を見る人は、ただ「ああ、よかった」では終わらないのです。モーセを再び抱くことができた時、この母親はそこにある神の御心、神の御計画ということを考えざるを得なかったことでしょう。そして、そこには自分自身に与えられた責任があることをしっかりと受けとめたに違いありません。それは、彼女がモーセをどのように育てたか、ということからも伺い知ることができます。
王女は彼女に、「**わたしに代わって**乳を飲ませておやり」と言ったのです。明らかに王女はその男の子を自分の子にするつもりでいるのです。この母親は、エジプト王女の子の養育を託されたのです。――しかしモーセの母は、その赤ん坊をエジプト王女の子として育てなかったのです。あくまでも生ける神に仕えるヘブライ人として育てたのです。それは今日の箇所の直後、11節を読むと分かります。モーセは、王女の子としてエジプトの教育を受け、成人したころになってもなお、ヘブライ人たちを「同胞」として見ているのです。彼はあくまでもヘブライ人として、信仰の民として生きているのです!
そのように、この母親はモーセの養育を神から与えられた務めとして受けとめたのでした。そして、神から与えられた務めを全うした時、再びこの母親は神の御手にその子を委ね、その子を手放します。「その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった」(10節)と書かれているとおりです。
その後、この母はもはや物語の表舞台には出て来ません。それで良いのです。大事なことは、この母親が用いられ、人間の知恵や力によっては決して実現しないようなことが実現したということだからです。
考えてみてください。エジプトの王女の子として教育を受け、エジプトの宮廷と社会事情に精通した者となることと、ヘブライ人として主を信じる信仰を受け継ぐこと――この二つはどう考えても同時に成り立つはずはないのです。しかし、神はこのことを実現されました。なぜですか。後の展開のためにどうしても必要だったからです。
神はこのモーセを用いて、イスラエルの民をエジプトから導き出そうとしておられたのです。すなわちこのモーセは、後にエジプトの王と交渉をし、イスラエルの民をエジプトから導き出す人となるのです。そのためにモーセは、エジプトの宮廷の人間である必要があったのです。同時に信仰を受け継いだヘブライ人である必要があったのです。ですから神は、本来あり得ないこのことを実現させたのです。
そもそも、「エジプトの王女の子であるヘブライ人」などというものは、歴史上に現れるはずがないのです。そのような歴史上に現れるはずのない人物を、神はこの一連の出来事を通して準備されたのです。
そのことを実現するために神があえて選ばれたのは、――繰り返しますが――イスラエルの民にとって、最も暗い時代でありました。そして、神が用いられたのは、大きな力に翻弄され、悩み苦しみ、大きな不安をかかえた小さな一つの家族でした。神が用いられたのは、大きなことは何一つできない、無力な一人の母親でした。その母が、与えられた務めを信仰によって受けとめた時、その小さな信仰の行為が、神の大きな御計画の中において用いられたのです。
私たちもまた、この時代にあって、様々な力に翻弄されながら生きています。それゆえに、時として大きな悩みを抱きながら、嘆きながら、悔し涙を流しながら、多くの不安を抱えながら、生きているのでしょう。しかし、そんな私たちと同じような人間が、神の御計画のために用いられた物語を読みます時、私たちのささやかな人生もまた、生ける神の大きな御手の中にあることを思わされるのです。
そして、神は人の目から見て最悪の時代における最悪の展開をも用いて、御自身の御業を進められるという事実が、究極の形で現されたのは、キリストにおいてであることを私たちは知っています。神はキリストの十字架において私たちの救いを実現されたことを知らされているからです。ならば、あのモーセの母がそうであったように私たちにおいても、いや、福音を告げ知らされている私たちにおいてはなおさらに、大事なことはまことの支配者なる神への畏れと信頼とをもって生きることなのでしょう。