ラベル 使徒言行録 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 使徒言行録 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年6月21日日曜日

「迷信的な恐れからの解放」

2026年6月21日 主日礼拝説教 

聖書:使徒言行録 13:1‐12

 今日は使徒言行録13章が読まれました。ここには、アンティオキア教会からバルナバとサウロが伝道旅行に遣わされたいきさつが記されていました。また、彼らが向かったキプロス島における宣教の様子が記されていました。

聖霊によって送り出されたバルナバとサウロ
 まず、バルナバとサウロが旅立つまでのいきさつを見ておきましょう。アンティオキアはローマ、アレキサンドリアに次ぐ大都市でした。そこにおいて形づくられたアンティオキアの教会は、ある意味では福音が世界へと宣べ伝えられていくための拠点となった教会です。そのようなアンティオキアの教会とは、いかなる教会だったのでしょう。私たちは詳しい情報を得てはいませんが、ここに預言者と教師の名簿が書かれています。これを見るだけでも、教会の一面を垣間見ることができます。

 そこには、エルサレム教会から遣わされてきたバルナバがいます。また、ニゲルと呼ばれるシメオンがいます。ニゲルというのは黒人のことです。シメオンというのはヘブライ名ですから、恐らくアフリカのユダヤ人家庭に生まれ育った人物であると想像できます。

 次に出てくるのはキレネ人です。キレネというのはアフリカ北部にあります。ということは、シメオンと共にアフリカ人ということになりますが、ルキオというのはヘブライ名ではありません。ラテン語の名前です。恐らくユダヤ人ではない。シメオンというヘブライ名と並べられることによって、二人の文化的な背景の違いが強調されているようです。

 ルキオの次に書かれているのは、「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」です。彼は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスの幼友達だったわけです。恐らく宮廷との関係にある貴族の出身だったのでしょう。そして、最後に書かれているのはサウロです。タルソ出身のユダヤ人。宗教的には元ファリサイ派のユダヤ人であり、ガマリエルのもとで正統的なラビの教育を受け、かつて教会の迫害者であった人物です。

 教師だけをざっと見ても、これだけ多様であったということです。多様な人々が集まれば、やっかいなことも煩わしいことも起こります。似たようなユダヤ人だけが集まっている教会ならば起こらないようなことも起こったに違いない。しかし、世界へと福音が伝えられるための拠点となった教会を描写するのに、聖書はまずはその驚くべき多様性を挙げているのです。それは、後に福音があらゆる国々、あらゆる文化圏に福音が伝えられていくことを象徴的に表しているからです。そして、アンティオキアの教会にかぎらず、教会とは本来そういうものなのです。

 では、アンティオキア教会では、このような多種多様な人々が、いったいどこにおいて一つとなったのでしょうか。何において一つの方向に動きだし、サウロとバルナバを送り出すに至ったのでしょうか。

 2節にはこのように書かれています。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』」(2節)。そのように、 彼らは礼拝し、断食して祈っていたのです。

 彼らが一つの体に作り上げられたのは、単なる相互理解によるのではありませんでした。一人のカリスマ的人物の指導力によるのでもありませんでした。共通の敵に対して一つになったのでも、共通の目標に向かって一つになったのでもありませんでした。そうではなくて、彼らが一つとなったのは、礼拝と祈りにおいてでした。神を拝み、神の御前に共に身を低くして、共に御心を尋ね求めるところにおいてでした。

 そのような教会に対して聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい」(2節)と語られたということは重要です。礼拝と祈りの中で、教会は神の言葉を聞き、主の御心が確かにここにあると信じたのです。だから、彼らはさらに「断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(3節)のです。

 パウロとバルナバが自らの使命感から「行きたい」と言い出して、その情熱と使命感をアンティオキアの教会が理解してサポートしたのではないのです。教会が、キリストの派遣を信じて「出発させた」のです。遣わす者にも遣わされる者にも、共通理解がありました。これが人からではなくキリストから出たことなのだ、ということです。それゆえに聖書は「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは」(4節)と語るのです。

 皆さん、目に映るのは人間の姿です。しかし、人間の姿や行うことだけに思いを向けていてはならないのです。だからこそ、こうして共に礼拝すること、共に祈ることが大事になってくるのです。

魔術師エリマとの戦い

 さて、次に4節以下に目を移しましょう。バルナバとサウロはセレウキアからキプロス島に船出し、サラミスに着きました。サラミスはキプロス島東岸にある港です。そこから彼らは島全体を巡ってパフォスに着きました。パフォスはローマの地方総督の座があったところで、キプロス島における行政の中心でもありました。

 当時のキプロスを治めていた地方総督はセルギウス・パウルスという人物でした。キプロスには迫害によって散らされたキリスト者たちが既に伝道を始めていたようです(11:19)。セルギウス・パウルスも島のうちのユダヤ人たちに起こっている新しい動きを知っていたのでしょう。そこでサウロたちを招いて御言葉を聞くことにしたのだと思います。

 ところが、そこに「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者」と呼ばれ、「魔術師エリマ」と呼ばれている人物が登場します。この男はセルギウス・パウルスと交際がありました。彼は、キプロスにおいて大きな支配力をもっていたことと考えられます。

 そのエリマがバルナバとサウロの邪魔を始めたのでした。「魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした(8節)と書かれています。第一回目の伝道旅行において、彼らがまず直面したのは、このような魔術師との対決という問題でありました。

 さて、今日の私たちの周囲には、魔術師という存在はあまり見かけません。なので私たちとは無関係の話に思えます。しかし、実は、この「魔術師エリマ」の当たるものは、形を変えて、私たちの周りにいくらでもあるのです。

 そもそも古代の魔術とは何でしょうか。なぜ霊能者や未来を予知できる人が古代において重んじられたのでしょう。それは人間の内にある「恐れ」に関わっています。人はだれでも自分の手に負えない諸々の力のもとにあることを知っているからです。例えば、古代人にとっては、自然現象に現れる力などは、具体的に彼らの理解も能力をも越えた力であったわけです。ですから、それらの諸々の力を支配することのできる人、あるいはそれらの力の行方を予知することのできる人が必要だったのです。不安と恐れの中にある人間が、「どうしたらいいでしょう」と尋ねることのできる人、「こうしたらよいのだ」と方向を指し示してくれる人が必要だったのです。

 恐らく、地方総督セルギウス・パウルスが魔術師エリマと交際していたのは、助言者としてであり、超自然的な助けを得るためだったのです。地方総督をしていれば、難しい問題に直面することもあれば、迷うこともあり、不安や恐れに捕らわれることはいくらでもあったでしょうから。

 しかし、人間が迷ったり、不安や恐れの内に置かれた時こそ、自分の人生のあり方を問い直すべき大事な時なのでしょう。この世界を本当に治めておられるのは誰なのか、過去も未来も、人間の生も死も手にしておられるのは誰なのか。本当により頼むべき御方、すべてをその御手にゆだねて信頼すべき御方は誰なのか。その時こそ、人間が天地の創造主である御方に向かうべき時なのでしょう。人間の恐れの根本的な解決というのは、その御方の愛を知り、生ける神との愛の交わりの中に身を置くところにしかないのです。

 ところが、人が本当に神に向かおうとする時に、魔術師エリマがそれを妨げるのです。「総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」(7-8節)。

 聖書は一貫して魔術や占いの類を禁じています。それは本来向かうべき御方を見失わせるからです。すぐに不安や恐れを解決してくれるもの。すぐに迷いを取り除いてくれるもの。すぐに答えを出してくれるもの。それは今日においても、様々なスピリチュアルな、あるいは宗教的な装いをもっていくらでも存在します。もしくは、まったく世俗的な形でも存在します。今日たいへんな勢いで進化している生成AIは、とても役に立つ便利な道具ではありますが、使いようによっては、これもまた神に向かわせることを妨げる、魔術師エリマにもなり得ます。

 バルナバとサウロは何よりもまず「ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた(5節)のでした。これが彼らの働きの中心でした。そして、信仰へ導かれつつあった総督も、バルナバやサウロの行う奇跡を見たいと思ったのではなくて、「神の言葉を聞こうとした」(7節)と書かれているのです。その意味で、総督は正しい方向へ向かっていた。なぜなら、神との真実なる関係は「神の言葉」が語られ、そして聞かれることによってしか生み出されないからです。

 その意味においても、先ほど言いましたように、人間の姿や行うことだけに思いを向けていてはならないのです。私たちは目に見えない御方の、大きなご支配の中にあり、またその御方が、聖霊のお働きを通して、私たちに語りかけてくださるのです。だからこそ、こうして共に礼拝すること、共に祈ることが大事になってくるのです。

2026年6月14日日曜日

「不当な苦しみに遭ったなら」

2026年6月14日 主日礼拝説教 
聖書:使徒言行録16:16‐24

獄中における賛美
 本日は第2朗読で使徒言行録の16章をお読みしました。聖書箇所をどうぞお開きください。使徒言行録16章16節からお読みいたしました。

 ここに書かれているのは、パウロの第2回目の伝道旅行の途中の話です。フィリピに立ち寄った時の出来事です。数日滞在することになったそのフィリピにおいて、パウロはユダヤ人たちが祈りのために集まっているその場所に向かいました。その途中、占いの霊に取り憑かれている女奴隷に出会います。その女奴隷は占いをすることによって、主人たちに利益をもたらしていた人でした。

 その占い師が、パウロとシラスが祈りの場所に行く途中、後ろについてきて、「この人たちはいと高き神の僕で、皆さんに救いの道を述べ伝えているのです」と叫び始めたのです。そのようなことが幾日も繰り返されることとなりました。

 彼女の言っていることは、言葉としては間違っていません。まさにその通りです。しかし、占いの霊がしていることは明らかに宣教の妨げになりました。たまりかねたパウロは、その女を支配している霊に命じました。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、占いの霊が彼女から出て行きました。

 しかし、事はそれで終わりませんでした。占いの霊が出て行った以上、占いはできません。そのため、この主人たちの商売は成り立たなくなりました。金儲けの道が断たれてしまったのです。主人たちは腹を立て、パウロとシラスを捕らえて広場に引き立てていきました。そして高官に引き渡して彼らを訴えたのです。

 これは当事者同士の利害関係の問題ですから、通常であれば訴えに従って正規の取り調べが始まるはずでした。ところが、ここで異常なことが起こります。「群衆も一緒になって二人を責め立てた」(22節)と書かれているのです。しかもこれがかなりの大騒ぎとなりました。そのために高官たちは群衆を満足させて鎮めるため、二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じたのです。パウロとシラスはさんざん鞭で打たれた挙句、牢に投げ込まれたのでした。

 法治国家においてあるまじきこの異常事態は、なぜ起こったのでしょうか。彼らがイエス・キリストを信じていたからでしょうか。イエス・キリストを述べ伝えたからでしょうか。いいえ、そうではありません。人々にとって、このパウロとシラスがイエス・キリストを信じているかどうかは、どうでもよいことでした。それは訴えた人々の言葉から分かります。彼らは言いました。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。」つまりパウロとシラスは、キリスト者であるゆえに迫害されたのではなく、ユダヤ人であるゆえにひどい目に遭ったのです。

 このことについては、フィリピという町の特殊事情を考慮に入れる必要があります。フィリピは12節にありますように、ローマの植民都市でした。そこではラテン語が語られ、ローマの法のもとに治められ、使用される貨幣にもラテン語が刻まれている、さながら小さなローマともいうべき町でした。そこに住む有力な人々はみな退役軍人などのローマ市民権を持つ入植者でした。そのローマ人たちにとって、ユダヤ人は言ってみれば被占領民族の一つに過ぎません。しかも彼らの目から見て、ユダヤ人というのは頑なに自分たちの習慣に固執して、決してローマ帝国に同化しようとしない、極めて特殊な人々として映っていたのです。

 ローマ人たちの中に少なからず反ユダヤ的な感情があったことは、21節からも分かります。「ローマ帝国の市民である私たちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」そのような事情のもとでこの事件は起きたのです。

 自分よりも力の強い者によって不利益が生じた場合、人はそのことをある程度我慢するものです。この女奴隷の主人たちが、例えばローマ皇帝の勅令によって不利益を被ったのであれば、それほどの騒ぎにはならなかったでしょう。しかし人は、自分が軽んじていたり見下している者によって不利益を被った時には、それを我慢することができません。だからこのような騒ぎになったのです。

 彼らにとって我慢ならなかったのは、よりによってユダヤ人が占いの商売を邪魔し、損害を与えたということでした。こういう差別感情というのは、決して好ましいものではありませんが、周知のように一旦火がつくと炎上するものです。これは今日のネット社会においても、しばしば目にする現象です。直接損害を受けたのではない群衆までがパウロとシラスを責め立てました。その差別意識は公職にある高官においても同様でした。彼らは取り調べもせずに鞭打たせたのです。

 繰り返しておく必要がありますが、これはパウロたちが命をかけて取り組んでいた福音宣教に対する迫害ではありません。キリスト教信仰に対する迫害でもないのです。差別によるリンチであり、投獄であったのです。

 人は、自分が命がけで取り組んでいる事業に伴う困難や苦難であれば、ある程度耐えることができるものです。場合によっては、それは喜びにさえなります。理想的な社会を実現するために、あるいは革命を起こすために、自らの血を流し、拷問を耐え忍んだ人々は歴史上に数多く存在します。高い理想があるならば、その実現のために苦難を耐え忍ぶことは、人に誇りと喜びさえ与えるものです。

 その一方で、実に耐えがたいのは、価値あることとは結びつかない苦しみです。不当な、理不尽な仕打ちによってもたらされた苦難です。しかし、私たちが経験する苦悩の圧倒的大部分は、そのような意味や価値とは直接結びつかないものではないでしょうか。なぜ自分がこのような思いをしなければならないのか、どうしてこんなことになるのかと思わざるを得ないような苦しみの方が、私たちの経験の中ではるかに多いのではないでしょうか。

 この章のパウロとシラスもまた、彼らからすれば全く意味のない、価値とは結びつかない苦しみの中に置かれていたのです。

 今日の朗読箇所はここまでですが、この先を少し読み進めてまいりましょう。25節に「真夜中ごろ」と書かれています。彼らは真夜中になっても、まだ起きているのです。おそらく痛くて眠れなかったに違いありません。また彼らがはめられていた「木の足かせ」というのは、足を開かせたまま座らせて固定するものでした。横になることもできません。どう考えても苦しくて眠れるはずがないのです。そのような眠れない夜――理不尽な、不当な仕打ちによってもたらされた眠れない夜を、彼らは経験していたのでした。

 しかし、そこで最も印象的なのは、そのような苦しみを負った彼らが、獄中において賛美して祈っていたという姿です。

 この姿を見る限り、パウロとシラスにとって、自分が受けている苦しみに意味があるかどうかは、おそらく大事なことではなかったのでしょう。苦しみの意味は神様が考えてくださればそれでよかったのです。彼らにとってはもっと大事なことがありました。それは、牢獄の外にある時と同じように、牢獄の中においても彼らが神と共にあるということです。彼らが神の御前にあるということです。そして、それはまた大きな恵みでもあります。神の御前にある愛されている子どもたちとして、神様を礼拝することができ、祈ることができる。四方を壁に囲まれていても、愛する主に近づくことができるという事実こそ、彼らにとって最も大きなことだったのです。彼らは賛美し、祈っていました。

救われるためには
 物語はさらに続きます。その夜突然大地震が起こりました。見張っていた看守にとって、それは卒倒するような出来事でした。事実、卒倒したのでしょう。そして目を覚ました看守が目にしたのは、地震によって開いてしまった牢の扉でした。囚人たちが逃げてしまった――彼はとっさにそう思いました。囚人が逃げるということは、自分の命をもって償わなければならないことでした。この看守にとって最大の危機でした。

 しかし、彼が自害しようとしていた時に、闇の中から大声で叫ぶ声を聞いたのです。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」パウロの声でした。

 注目すべきは、この看守が「ああよかった」と言ったとは書かれていないことです。ほっとして喜んだとも書かれていません。彼は震え上がったのです。震えながらひれ伏して、こう尋ねました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(30節)

 パウロとシラスが獄中で賛美して祈っていた時、看守の目にはそれが不思議に映ったことでしょう。あるいは心のどこかに惹かれるものを感じていたかもしれません。しかし、いずれにしてもそれは所詮他人事でした。自分とは関係のないことだったのです。

 しかしこの一連の出来事の中で、自分自身が危機的状況に置かれ、大きな苦しみの中に置かれた時、パウロたちが祈っていた姿、賛美していた姿は、もはや自分とは無関係ではなくなっていました。彼は、パウロたちが賛美していた神、生ける真の神の前に自分がいるということに気づいたのです。神を意識せざるを得なくなったのです。

 それまでは、他の人が信じている神に過ぎませんでした。しかし人が真に生ける神を意識せざるを得なくなった時、もう一つ意識せざるを得なくなることがあります。それは、その神の前に自分はどう生きてきたか、ということです。自分自身の様々な罪と穢れです。神様が本当においでになるならば、神様はすべてをご存知です。この私はその神に受け入れられるのか、それとも罪人として滅びるのか。この私は赦されるのか、それとも赦されないのか、救われるのか、救われないのか。それが決定的に重要な問いとなります。だからこの看守は、神を意識した時に震え上がったのです。そしてこう問いました。「救われるにはどうすべきでしょうか。」

 「何を行うべきでしょうか」と彼は尋ねました。しかし、パウロはこの問いに直接答えませんでした。なぜなら、救いは何らかの行いと引き換えに得られるものではないからです。大事なことは「何を行うか」ではなく「誰を信じるか」なのです。罪人を救うために世に来られた救い主を信じることです。パウロは答えました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」(31節)

 パウロとシラスは看守とその家族に主の言葉を語りました。彼らは主を信じて洗礼を受けました。そして34節に「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」と書かれています。

 彼らはこの後どうなったのでしょうか。私たちには知る由もありません。ただ想像できることはあります。この看守がパウロとシラスを助け、キリストを信じる者となり、クリスチャンとしてフィリピで生きていくことになったとすれば、おそらく困難なことが待ち受けていたに違いありません。苦難や迫害を経験することになったかもしれません。

 しかし彼らの生活の中に苦難があるかないか、その苦難に意味があるかどうかは、彼らにとって決定的に重要なこととはならなかったでしょう。なぜなら、彼らは神を信じる者となったことを喜んだのであって、苦難がなくなったことを喜んだのではないからです。そのような彼らにとって大事なことは、パウロとシラスにとってそうであったように、この看守と家族もまた、神の御前にあるということ、神に赦され受け入れられた者として神の御前にあるということであったのでしょう。どのような状況に置かれても、人は神を賛美し、神に祈りながら生きていくことができる。そのことを、彼らもまた身をもって知っていったに違いありません。

2026年6月7日日曜日

「人を通して実現される神の御業」

2026年6月7日 主日礼拝説教 

聖書:使徒言行録 4:13-31

人からか神からか
 今日の第二朗読では使徒言行録が読まれました。今日の箇所の前半部分は、ペトロとヨハネが議会で尋問を受けている場面です。彼らが尋問を受けているのは逮捕されたからです。彼らが逮捕された次第は、この章のはじめに次のように記されています。「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである」(1‐3節)。

 そのような事情で投獄された彼らは、翌日、引き出されて尋問を受けることとなったわけです。「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(5‐7節)。そこで、ペトロが答弁を始めたのでした。

 今日はその答弁の内容には触れません。しかし、その結果は次のように記されています。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)。ここからが本日の聖書箇所です。

 さて、「ペトロとヨハネの大胆な態度」とありますが、私たちは彼らがもともとそういう人たちではなかったことを思い起こす必要があります。今読んでいる使徒言行録はルカによる福音書に続く二巻目なのですが、6節の「大祭司アンナスとカイアファ」は一巻目のルカによる福音書にも出てきたのです。それはイエス・キリストが捕らえられた場面です。イエス様がまず連れて行かれたのは大祭司の家でしたから。

 あの時、ペトロは遠く離れて後からついていったのでした。彼が中庭にまで入っていった時、ある女中が目にして「この人も一緒にいました」と言います。するとペトロはすぐにその言葉を打ち消して言いました。「わたしはあの人を知らない。」なんと彼は三回も同じことを繰り返してしまうのです。

 三回目にイエス様との関係を否定した時、鶏が鳴きました。そして、次のように書かれています。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:61-62)。そうです、これがもともとのペトロの姿でした。

 しかし、今日の箇所に出て来るペトロは明らかに違っています。ユダヤの権力者たちは、ペトロとヨハネに、今後決してイエスの名によって話したり教えたりしてはならない、と命令し、脅迫します。するとペトロは答えるのです。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(19節)。

 あの時とこの時の間に何が起こったのか。それはイエス・キリストの十字架刑とキリストの復活。そして、聖霊の降臨です。――ここに見るのは「聖霊に満たされた」ペトロの姿なのです。それはペトロが、「もっと強くならねば」と思って努力して、自力で強い人間になったということではないのです。

 そして、「二人が無学な普通の人であることを知って驚いた」と書かれています。無学な者というのは、律法の専門教育を受けてはいないということです。普通の人というのは、資格を持っていない人という意味です。つまり彼らが見たのは、この世の教育や資格に由来するものではなかったということです。また、人間の能力や経験に由来するものでもなかったということです。

 それは既にキリストが予告しておられたことでした。「…人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21:12‐15)。そして、主が言われたとおりになったのです。大祭司や議員たちが耳にしたのは、人からの知恵や知識ではなく、神からの知恵であり知識だったのです。

 さて、この箇所を読みます時に、私たちは教会としても、また個々の信仰者として願っていることは何なのかと改めて考えさせられます。――私たちが願っているのはどちらなのでしょう。私たちが神のために何かを成し遂げることですか。それとも、神が私たちを通して何かを成し遂げてくださることでしょうか。私たちが見たいと思うのは、神のために一生懸命行った私たちの働きでしょうか。それとも、私たちを通して実現される神の御業なのでしょうか。人間に由来するものでしょうか。それとも神に由来するものでしょうか。

皆、聖霊に満たされて
 もし教会の歩みにおいても、私たちの人生においても、神がなさることを見たいと思うなら、決定的に重要なことは「わたしが、わたしが」と言って「わたし」が満ちていることではなくて、ペトロがそうであったように、「聖霊に満たされて」いることなのです。そして、今日の聖書箇所は、ペトロだけではなく、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(31節)と締めくくられているのです。

 そこに書かれている「皆」というのは、ペトロとヨハネの仲間たちです。「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(23節)と書かれているとおりです。それを聞いた彼らはどうしたでしょうか。「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」(24節)。すなわち、彼らは祈ったのです。心を一つにして祈ったのです。そのような彼らが聖霊に満たされたのです。そして、ペトロと同じように大胆に御言葉を語る者とされたのです。

 祈るとはどういうことか。今日の聖書箇所にはっきりと示されています。彼らはこのように祈り始めました。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」(24節)。このように祈りとは、まず神へと目を転じることから始まるのです。

 現実には彼らは大きな問題に直面していたのでしょう。ペトロとヨハネが捕らえられて脅迫されたということは、すなわちその仲間もまた脅迫の対象であるということです。当局がペトロとヨハネに対して「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」ということならば、当然、教会もまたその規制の対象となるのでしょう。それは誕生したばかりの教会にとっては大きな打撃です。

 しかし、彼らは直面している問題の大きさではなく、神の偉大さに目を向けたのです。彼らは大声を上げて天地の創造主であるお方への信仰を言い表したのです。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と。

 小さな一円玉でありましても、目の前に置くならば、それが世界の全てを覆い隠して見えなくします。同じように、私たちの直面している問題もまた、目の前に置かれれば世界の全てを覆い隠します。それが世界の全てになるのです。しかし、私たちは目を転じなくてはなりません。創り主の偉大さに目を向ける時に、今まで世界の全てであるかのように思えた問題もまた、神の御手の内にある一つの出来事に過ぎないことを知るのです。それは決して神の御手の外に出てしまうようなことではないのです。

 そして、もう一つ。彼らはこう祈っています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29‐30節)。

 彼らは直面している問題をそのまま単純素朴に神様に語ります。神様の前にすべてを広げるのです。「目を留めてください」と。その上で、彼らは祈ります。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」

 彼らは、脅迫されているという現状を神に訴えて、「そこから逃れさせてください」と祈ったのではありません。また、「脅迫がなくなるように」と祈ったのでもありません。彼らが求めたのは困難を取り除かれることでも、困難から逃れることでもありませんでした。そうではなくて、恐れを取り除かれることを願ったのです。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と。

 そして、そこに神の御業が現れることを願い求めたのです。「御手を伸ばしてください」と彼らは祈ります。彼らが望んでいるのは、人間の働きを通して、実際には神が御手を伸ばしてくださることなのです。神が彼らを用いて神にしかできなことを実現してくださることなのです。「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」とはそういうことです。

 そのように、祈るということは、神の御業のために自分自身を差し出すことでもあるのです。その時に、もはやそこに満ちているのは「わたしが、わたしが」と主張する「わたし」ではないはずなのです。そこに神の霊が満ちるのです。主が支配し、主が御業をなしてくださるのです。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。

 そのように、今私たちがしているように、共に集まり共に祈ることを大切にしましょう。共に神に目を転じ、貧しい私たち自身を共に差し出すこの時を大切にしましょう。そして、このような私たち自身を通して神の御業が現れることを一緒に期待して、ここから出ていきましょう。そのように聖霊に満たされた教会となることを共に求めてまいりましょう。


2025年6月22日日曜日

「知られざる神は知り得る神」

2025年6月22日 主日礼拝説教 

聖書:使徒言行録 17:22-27

知られざる神に
 今日の第二朗読は、アテネにおいて語られたパウロの説教でした。それはアレオパゴスにおいて語られたものです。「アレオパゴス」とはアテネにある一つの丘の名前です。しかし、この場合は、そこにあった評議所、すなわちアテネ最古の裁判と会議の場所を指しています。パウロはそのような場所に連れて行かれることとなりました。その経緯を簡単にお話ししますと、こういうことです。

 当初、パウロはアテネでの宣教は予定していませんでした。パウロがアテネに滞在したのは、後から来るシラスとテモテと落ち合うためでした。しかし、二人を待っている間に、パウロはその町の至るところに偶像があるのを目にします。その夥しい数は、当時、人の数よりも神々の数の方が多いとさえ言われたほどでした。パウロはそれを見て心を動かされます。彼はアテネにおいてイエスとその復活とを宣べ伝え始めました。安息日にはユダヤ人の会堂において人々と論じ、他の日には広場で居合わせた人々と論じ合うこととなりました。

 パウロと討論をしていたエピクロス派やストア派の哲学者たちの中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣 伝をする者らしい」と言う者もいた、と書かれています。「おしゃべり」と訳されているのは極めて侮蔑的な言葉です。そのような人々が、パウロをアレオパゴスに連れて行ったわけです。

 その際に、彼らはこう言いました。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19‐20節)。丁寧な言葉に訳されていますが、状況的に考えて、純粋に興味関心から話を聞こうというのでないことは明らかです。パウロは好意的に迎えられたわけではありません。恐らくパウロは尋問されるためにアレオパゴスに連れて行かれたのです。新しい宗教や哲学が入ってくるのを監督するのは、アレオパゴスの議員の権限であり責任でもあったからです。

 そのようなアレオパゴスの真ん中に立つこととなったパウロは口を開き語り出しました。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(22‐23節)。

 先にも触れましたように、アテネの町には夥しい数の偶像がありました。それは一面において、アテネの人たちの信心深さを表していると言えるでしょう。彼らは極めて宗教的な人々でした。パウロはそのことに敬意を払いつつ語り始めます。しかし、すぐに問題の核心に迫ることになります。「知られざる神に」と刻まれている祭壇を見たことに触れ、彼らの信心深さの中に存在する問題を取り上げることになるのです。

 そもそも、なぜ「知られざる神に」と刻まれているような奇妙な祭壇が存在するのでしょう。どうして、そのような祭壇が存在し得るのか。人々にとって、そこで拝まれているのが誰であるかは、さして重要なことではないからです。礼拝において祈っている相手がだれであるかは、大して重要なことではないからです。

 「知られざる神に」という祭壇が造られた背景には、一説によれば紀元前六世紀に流行した疫病があるとも言われます。確かにそれは考えられることです。人間が神々を祭るとき、当然のことながら、そこには神々にして欲しいことがあるわけです。免れさせて欲しい災いがある。また、その一方において、叶えて欲しい願望がある。そういうものでしょう。そこにあるのは願望と恐れです。

 人間の願望が多岐にわたるなら、その願望を満たしてくれる神々の数も増えていきます。一つの災いが起こった。その災いが二度と起こらないように神を祀るとするならば、災いの数だけ神々の数も増えていくことになります。そうなりますと、場合によっては、どの神に願って良いか分からないということも起こってまいります。ならばとりあえず「知られざる神に」と刻んで祭壇を造ったらよいということにもなります。

 そのように、欲求の満たしと災いの回避が目的であるならば、それを実現してくれるのが誰であってもよいのです。「知られざる神」でもよいのです。人間の信心深さは、必ずしも神を知ることへの願いと結びついているわけではありません。それが偶像礼拝というものです。

 しかし、それは偶像礼拝の話であるから私たちには無関係だと言えるでしょうか。キリスト教会は偶像礼拝はしていません。神々を拝んでいるわけではありません。唯一の神を礼拝していますと私たちは言います。しかし、そのような私たちもまた、願っていることが叶うか、災いを免れることができるかにしか関心が向いていないとしたらどうでしょう。神を知ることにではなく、教会生活によって「何を得られるか」ということにしか関心が向いていなかったとしたらどうでしょう。

 実際、キリスト者がいつの間にか「知られざる神に」という祭壇に向かって礼拝していることはあり得ることだと思います。キリスト者となって既に長い年月を経ているにもかかわらず、神様がどのような御方であるのか、キリストがどのような御方であるのか、聖書はいったいどのように伝えているのかを知らない。神様がどのような御方であるかには関心がないし、実際知ろうともしていない。そのように、「知られざる神に」ということで良しとしているということは、今日の教会においても起こり得ることだと思います。

わたしはお知らせしましょう
 だからこそ、私たちもまた、ここでパウロが言っていることに耳を傾けなくてはならないのです。パウロはそこでこう言っているのです。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(23節)。

 「お知らせしましょう」。パウロはそう言いました。それはアテネの人たちにとっては余計なお世話であったかもしれません。欲求の満たしと災いの回避については「知られざる神」で事足りているわけですから。「何を得られるか」ということについては、夥しい数の神々でもう十分なのですから。しかし、それでもなおパウロは「お知らせしましょう」と言うのです。ある意味では、そのために危険な宣教旅行を続けてきたとも言えます。命をかけて「お知らせしましょう」を続けてきたのです。

 それはなぜなのか。神が望んでおられるからです。「知られること」を神が望んでおられるからです。神は知られることを望んで、独り子さえもこの世界に送られる神であるからです。そのようなことをすれば罪ある人間によって十字架にかけられてしまうことも承知の上で、あえて自らを啓示するために御子を遣わされた神だからです。パウロはそのことを知るゆえに宣教旅行を続けてきたのです。

 ですからここでも「お知らせしましょう」とパウロは言って、こう続けるのです。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(24‐25節)。

 先に触れましたように、パウロについては「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言われていたのです。そのような人たちが、パウロをアレオパゴスに立たせたのです。同じようにこの国においても、かつて宣教師たちは言われたのでしょう。「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と。

 しかし、そうではないのです。この国の神も外国の神もないのです。神は世界とその中の万物とを造られた神だからです。神は天地の主なのです。だからユダヤ人である彼がアテネのギリシア人にまで、このことを語るのです。命と息と、その他すべてのものを与えられていることについては、ユダヤ人もギリシア人もないからです。

 さらにパウロは続けます。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(26節)。命を吹き入れられた多くの民族は、同じ神によって導かれ、定められた季節と定められた居住地の中に生かされているのです。神はすべての民族にかかわって治めていてくださる。それは何のためなのか。パウロは言います。「人に神を求めさせるためだ」と。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(27節)。そのようにパウロは語るのです。

 そのように神は知られることを望んでおられる神なのです。見いだされることを望んでおられる神なのです。人間が知らなくても、求めていなくても、神は命と息と、その他すべてのものを与えてくださっているのでしょう。私たちが生きていられるのは、すべて神から与えられるものによってなのです。

 なので、私たち人間は「いただくものさえいただければ、それで十分だ」と言うかもしれません。「知られざる神」でも良いのです、と。しかし、神にとっては良くないのです。それはなぜでしょうか。神は私たちを愛しておられるからです。だから、神は神の持っている何かではなく、神御自身を与えようとしておられるのです。

 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。――私たちの目の前に十字架がかかげられているように、その神は、キリストにおいてご自身を現してくださった御方です。さて、その御前において、私たちは何を求めているのでしょう。あるいは、ここに集まることができない主日に、それぞれの場において私たちは何を求めているのでしょう。

 私たちには、それぞれ様々な願いがあり、求めがあることでしょう。しかし、神がまず与えようとしているのは神様御自身なのです。私たちが神を知るようになることであり、神との交わりに生きることなのです。私たちの様々な求めを横に置いて、まず神様御自身を求めましょう。神御自身を知ることを求めましょう。そのような信仰生活を求めましょう。神は与えてくださいます。それは神様の求めていることでもあるからです。

2025年6月8日日曜日

「神の霊に満たされて」

2025年6月8日 聖霊降臨祭 礼拝説教 

聖書:使徒言行録 2:1-11

御心が成るために
 私たちは礼拝において毎週「主の祈り」を祈ります。今日も後ほど、皆で祈りますが、その祈りの中に「御国を来らせたまえ」という言葉があります。「御国に入れてください」という祈りではありません。御国、神の国が「来ますように」と祈っているのです。どこにですか。この地上にです。

 神の国が来るとはどういうことでしょう。神の国とは神の支配のことです。神の支配が実現することです。その意味するところは、主の祈りにおいて、さらに明確に祈られています。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。私たちは、地の上に、御心が実現するように祈っているのです。

 「御心が行われますように」と祈っているということは、まだ御心は実現していない、少なくとも完全には実現してはいない、ということを意味します。この世界を見てください、人々が憎みあい、殺し合っているこの世界は、神の御心が実現している世界ですか。これが神の国ですか。とんでもない。私たちの仕事場は、神の御心が実現している仕事場ですか。神の国ですか。私たちの家庭はどうでしょう。神の御心が完全に実現している家庭ですか。神の国ですか。子供たちの通う学校はどうですか。天に神の御心が実現しているように、この地の上に実現していますか。いいえ、明らかに実現してはいません。

 だから、私たちは祈り続けているのです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と。イエス様は、「このように祈りなさい」と言って、主の祈りを与えてくださいました。イエス様は、私たちが一生をかけて一心に求めるべきものを明らかにしてくださったのです。言い換えるならば、イエス様は私たちの人生の目的を与えてくださったのです。それは神の御心が成ることを求めて生きることです。私たちの人生はそのためにこそあるのです。

 主の祈りを真面目に祈っている人は、少なくとも「私は何のために生きているのだろう」などという悩み方はしないはずです。なぜなら、求めるべきことははっきりしているからです。神の御心の成っていない悲惨極まりないこの世界に、神の御心が成るために、私たちは生きるのです。生きていくのです。

 しかし、私たちはもう一方で良く知っています。私たちは、この手で、この自分の力で、神の国を実現することはできません。神の御心を実現することはできません。この世界を支配する罪の力、死の力、悪魔の力が、圧倒的な現実として私たちの目の前にあるからです。私たちの為しえることは、あたかも山火事に向かってコップの水を投げかけるようなことでしかないと感じます。私たちは、身近な一人の人間をも変え得ない者ではありませんか。いやそれどころか、我が身一つ変えることもできないし、どうすることもできない。それが私たちの現実です。

 ですから、一つのことは明らかなのです。私たちが主の祈りを真面目に祈るならば、その実現のためには、神様においでいただかなくてはならない、ということです。神様に来ていただいて、御心を実現していただくしかありません。だから私たちの内に住んでくださり、私たちを用いて、私たちを通して働いてくださる神の霊、聖霊を求めるのです。聖霊によらずして、どうして地上に御心が実現するでしょうか。どうして、神の支配が実現するでしょうか。

 イエス様の弟子たちは、そのことを良く知っていた。骨身に染みて知っていたのです。彼らはキリストが十字架にかけられたときに、主を見捨てて逃げ去ってしまった人々だからです。つくづく自分の弱さと無力さを思い知らされた人でした。だから、彼らは神の霊においでいただくしかなかったのです。父の約束してくださった聖霊を待ち望むしかなかったのです。

 それゆえに、彼らは祈り求めて待ちました。待ち望みました。それが今日お読みした聖書箇所の背景です。そして、そのように祈り求めて待ち望んだ彼らは一同は、「聖霊に満たされた」と書かれているのです。その場面の描写は摩訶不思議なものです。しかし、重要なのは、ここに描かれている不思議な出来事そのものではありません。その結果です。「一同は聖霊に満たされた」ということです。

 私たちは、これを教会の誕生と見ることもできますし、教会の宣教の開始として見ることもできるでしょう。その意味において、これは歴史の中において起こった一回限りの決定的な出来事です。しかし、ここに語られていますような、「聖霊に満たされること」そのものは一回限りの事ではありません。すぐ後の4章において、彼らは再び聖霊に満たされます(4:31)。その後、私たちは聖霊に満たされて力強く働いているパウロの姿をも目にします。また彼自身、エフェソの信徒の手紙の中で次のように語っています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5:18)。

 要するに、ここに書かれていることは、ある意味では、私たちの誰もが求め、期待すべきことなのです。今日の箇所を読みます時に、単に「何か特別なことが起こった」と考えて読むことは、この箇所の正しい読み方ではありません。むしろ、「何か特別なことがそこから始まったのだ。そして今日に至るまで継続しているのだ。それはキリストの再臨に至るまで続くのだ」ということを考えて読まなくてはなりません。続いているのですから、私たちもまた同じことを求めるのです。

聖霊の満たしを求めましょう
 そこで残された時間、聖霊に満たされるとはいかなることかを、なおこの箇所から共に考えたいと思います。

 「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」という表現があります。新共同訳ですと「憤慨する」(ルカ4:28)と意訳されています。あるいは、「恐れに満たされる」という表現。「妬みに満たされる」という表現。いずれも意味合いは分かりますでしょう。

 皆さんは怒りに満たされたことありますか。もう腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができなくなってしまう。自分の押さえが利かなくなってしまう。怒りによって動かされるままに、言わなくてもいいことを言ったりいたします。叩いてはいけないのに叩いたりしてしまうこともあるかもしれません。そのように、「満たされる」というのは、「支配される」ことなのです。自分が自分を支配できずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。それが「怒りに満たされる」ということです。

 満たされるのが「怒り」であるのは決して望ましいことではありませんが、これが「聖霊」だったらどうでしょう。聖霊によって満たされ、神の霊によって支配されるのなら、それは実に喜ばしいことではありませんか。怒りや妬みではなく、神の愛によって動かされるならどうでしょう。すべての人を救いたいという神の思いによって動かされるなら、どうでしょう。

 いや、「思い」すなわち「思考」だけでなく、実際に、この世界を救う神の力に満たされ、私たちを通して神の救いの力が現れ、神の御業が現れるならば、私たちの生活はどうなるでしょう。私たちの人生はどうなるでしょうか。実際に、その実例を私たちは使徒言行録に読むことができます。そのように、まさに神様御自身に支配され、神様が御自身を現してくださる。それが聖霊に満たされるということなのです。

 「一同は聖霊に満たされた」。神様はそこにいた一同を聖霊に満たしたのです。何のためですか。もちろん、彼らを用いるためにです。そのようにして、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に、救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。神はあらゆる言語を話すこの世界のあらゆる民族の救いのために、彼らを、教会を用いようとしておられたのです。そして、実際にその後の教会の歴史は、その神の計画が実現していったことを示しているのです。

 しかし、これはよくよく考えて見れば、かなり不思議なことであると言わざるを得ません。この世界を救うならば、人間など用いずに、神様が直接なさった方がうまくいくに決まっているからです。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くような仕方で、炎のような舌が現れるような不思議な仕方で、完全に超自然的な仕方で天から直接人々を救ったらよいではありませんか。

 ところが、どうしたわけか、神様はそのようなことを望んではおられないようなのです。あくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられるのです。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけでした。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りでした。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。

 そのようにして、この下北沢にも教会が存在しているのです。そのようにして、私たちもここに集められているのです。実際そうでしょう。突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれてここに来た人、ここにいますか?いないだろうと思います。誰かが神に用いられたから、わたしがここにいるし、皆さんもここにいるのでしょう。そのように、人間を通して働かれる神の御業の中に私たちも存在しているのです。ならば、今度は私たちの番ではありませんか。神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。

 聖霊に満たされることを求めましょう。あの弟子たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」ように、ひたすら祈り求めましょう。怒りや恐れに満たされて、妬みに満たされて、あるいは欲望に満たされて、支配されて、人生を消費してしまうのはとても悲しいことです。聖霊に満たされ、聖霊に支配されて生きることを求めましょう。それは単に私たち自身のためではありません。私たちの家族の救いのためであり、友人の救いのためであり、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神は私たちを用いて人を救おうとしておられる。神の恵みを運ぶ器とならせていただきましょう。

2024年11月17日日曜日

「それでも神は手を伸ばされる」

 2024年11月17日 主日礼拝説教

聖書:使徒言行録 3:11-19

体の癒し以上のこと
 エルサレムの神殿に「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所がありました。そこにいたペトロとヨハネのもとに大勢の民衆が集まってきた。そこでペトロは彼らにイエス・キリストを宣べ伝えた。今日読まれたのは、そのような話です。

 なぜ民衆が集まってきたのか。ひとりの人が奇跡的に癒されたからです。事の顛末は3章前半に書かれています。生まれながら足の不自由だった男が癒されたのです。しかし、彼に起こったのは、単なる肉体の癒し以上のことでした。彼は、「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)と書かれているのです。

 癒されて嬉しかった。それはそうでしょう。しかし、体を癒されて喜んだ人が、必ずしも神を賛美する人になるとは限りません。神を礼拝するために神殿へと向かうとは限りません。彼は神を賛美し、神を礼拝するために神殿に入っていったのです。それは肉体の癒し以上のことです。人生の方向が変わったのです。彼は神に向いて、神と共に生きる人となったのです。

 単に体が癒された喜びであるならば、次に困難に出会った時には、かき消されてしまうかもしれません。実際、今まで物乞いであった彼には、今後も生活の困難はついてまわるのでしょう。癒しは即、幸いな生活を約束するものではなかったはずです。

 しかし、人生の方向が変わることは、神に向かって生き始めることは、一時的なことではありません。それは永続の意味を持つのです。さらに言うならば、永遠の救いに関わる意味を持つことになるのです。ですから、この話はただ一人の男の足が癒されたという話で終わらないのです。その先にはペトロが語るべきことがあるのです。人々が聞かなくてはならない言葉があるのです。ここにいる私たちもまた聞かなくてはならない言葉があるのです。それが今日の聖書箇所において語られていることなのです。

信仰によって
 外見的には、その癒しはペトロによって起こりました。しかし、ペトロは集まって来た人々にこう言うのです。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(12節)。そのように、ペトロは自分に注目している人々の目を、キリストへと向けるのです。ただ人間に目を向け、人間に求めている限り、本当の救いは来ないからです。

 重要なのは、キリストとの関係なのです。ですから、ペトロは、この癒された男についても次のように語ります。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。

 さて、ここで一方において「イエスの名が強くした」と言い、他方において「イエスによる信仰が…いやしたのです」と言っていることに注意してください。「イエスの名が強くした」というのは、「イエスが強くした。イエスがいやした」という意味です。事をなさるのはあくまでもイエス様御自身なのです。しかし、それだけでは完結しないのです。そこにはまた「イエスによる信仰が」いやしたのだ、という事実がある。イエス様がなさることを、人間は「信仰」によって受け取らなくてはならない、ということです。

 ペトロとこの男の間に起こったことは、ある意味で象徴的な出来事でした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」(7節)と書かれているのです。

 もちろん、この男の手は動くわけですからペトロの手を払いのけることもできるわけです。払いのけても不思議ではありませんでした。彼は施しを期待していたのです。しかし、ペトロは「わたしには金や銀はない」と言うのです。しかも、生まれつき足が不自由な彼に、「立ち上がり、歩きなさい」と言うのです。それは彼が期待していたこととは異なるのです。しかし、この男はペトロの手を払いのけなかったのです。彼は神の恵みを信じて受け取ったのです。

 その意味でペトロが彼の手を取って起こした姿は象徴的な姿であったと言えます。そして、彼に起こったことはまた全ての人にも起こり得ることなのです。先にも言いましたように、彼に起こったのは、体の癒し以上のことなのです。人生の方向転換なのです。神と共に生きる人、神との交わりに生きる人となることへの方向転換です。だからこそ、ペトロは13節以下の説教を語り始めたのです。

手を払いのけた人々
 語り始めの言葉はこうでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(13‐15節)。

 ここで繰り返されているのは「拒んだ」という言葉です。そして、最終的には「殺した」という言葉が出て来る。これは究極的な拒絶です。もはや自分に決して関わることがないように抹殺してしまうわけですから。そのようにあなたがたは拒んだのだ、とペトロは言います。誰を。「命の導き手である方」を。

 「命への導き手」、それは他の翻訳では「いのちの君」「命の創始者」などと訳されている豊かな内容を持つ言葉です。真の命をもたらしてくださる御方ということです。真の命とは何でしょう。わたしは生きているのか。あなたは生きているのか。確かに生きているから、礼拝堂に集まっているのでしょう。しかし、聖書にはこんな言葉も出て来るのです。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)。何かを行っているのだから「生きている」のでしょう。しかし、その行いを知っている神から見るならば、「あなたは死んでいる」と言うのです。 そのように、真に命があるということは、単に肉体的に生きているということではないのです。

 では何なのか。命とは交わりなのです。命の源であり、命そのものである神との交わりなのです。イエス様は、神の愛を示し、神との豊かな交わりの中にある真の命、永遠の命を見せてくださった方でした。そして、神との愛の交わりにある命へと導くために、イエス様は来られたのです。いわばイエス・キリストは、神の伸ばされた手なのです。私たち人間を御自身との交わりへと招くために伸ばされた手なのです。生きているとは名ばかりで実は死んでいる者を起き上がらせるための手なのです。真の命によって起き上がらせるために伸ばされた神の手なのです。

 しかし、あなたがたはその手を払いのけてしまったのだ、とペトロは言っているのです。いやもう二度とこちらに向かって手を伸ばせないように、十字架の上に伸ばして釘を打ち付けてしまったのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」。それは究極の拒絶です。

それでも神は手を伸ばされる
 ならばもう終わりでしょう。もうその先はないでしょう。それが当然の帰結だと思うのです。しかし、神はそうなさらなかったのです。人間が終わりにしても、神は終わりになさらないのです。ペトロはこう続けるのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)。

 神はキリストを十字架にかけた人々を見捨てられませんでした。それはすなわち、神はこの世界を見捨てなかったということです。罪深く頑なで傲慢で、神の恵みの御手さえ払いのけてしまうような私たち人間を、神は見捨てなかったということです。神は、拒まれ殺されたイエス・キリストを復活させ、永遠に命の導き手なる方として、永遠の主として立ててくださったのです。神はそのようにして、なおも私たちを命へと招き、私たちに御手を伸ばしていてくださるのです。

 それゆえにペトロは彼らにこう語りかけるのです。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(17‐19節)。

 なおも御手を伸ばしてくださったということは、そこに神の赦しがあることを意味します。それは「メシアの苦しみを、このようにして実現なさった」という言葉からもわかります。それは罪の贖いのための苦しみです。それを神が実現なさったのです。そのようにして、神が罪を消し去ってくださる。これは「拭い去る」という意味の言葉でもあります。そのように、神の恵みを拒絶し続けてきた私たちの罪を完全にぬぐいとってくださるのです。

 そのために「悔い改めて立ち帰りなさい。」とペトロは言います。「悔い改めて立ち帰る」とはどういうことでしょう。神の御手を払いのけて、命の導き手を十字架に釘付けしてしまった人間にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。それは命の導き手なる御方を信じて受け入れるということです。神が再び伸ばしてくださったその手を、今度はしっかりと握って、「立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞いた者として、立ち上がらせていただき、歩き出させていただくことです。

 エミール・ブルンナーという神学者は、「信仰とはイエス・キリストにおいて差し出された神の手を握ることだ」と表現しました。まさにその信仰こそ、神が求めておられることなのです。私たちは信仰によって、罪を赦され、神との交わりに入れられるのです。そこにおいて、あの生まれながら足の不自由であった男に起こったことが、私たちにも起こるのです。私たちは神をほめたたえ、神を礼拝し、真に命あるものとして生きるのです。

2024年7月14日日曜日

「嵐の中にある平安」

使徒言行録 27:33-44

 本日の第2朗読では、使徒言行録27章が読まれました。そこでパウロは人々に食事をするように勧め、こう言っています。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(33-34節)。

 これは航海中の船の上での一場面です。実は、パウロは無実の罪で捕らえられ、ローマに護送されている途中なのです。その一囚人であるパウロが、どうして人々に食事を勧めているのか。そもそも、どうして人々は二週間も不安のうちに何も食べずに過ごしてきたのか。ここに至るまでの経緯を、先に簡単に見ておきたいと思います。

暴風に巻き込まれた船
 パウロがカイサリアからローマに護送される途中、彼らは「良い港」と呼ばれるところに寄港しました(8節)。既に秋も深まり、航海が危険な季節に入っていました。そこでパウロは人々に忠告して言いました。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります」(10節)。しかし、その港は冬を越すのに適していませんでした。結局、大多数の者の意見により、出航することになりました。

 続く出来事は次のように記されています。「ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ」(13節)。南風が吹いてきました。順風です。順風が吹くと、人は順風満帆に「望みどおりに事が運ぶ」と考えるのです。しかし、往々にして事は人間の望みどおりには運びません。話はこのように続きます。「しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き下ろして来た」(14節)。こうして、船は嵐に巻き込まれることになりました。

 ひどい暴風に悩まされた人々は、翌日には積荷を海に捨て始め、三日目には船具をさえ投げ捨てるに至りました。そのままでは船が沈んでしまうと思ったからです。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていました。そのような中、人々を励まし支えたのは船長ではなく、同船していた百人隊長でもなく、一囚人であったパウロだったのです。

 そのような日が続き、暴風に巻き込まれ海上を漂流し十四日が経ちました。十四日目の真夜中ごろ、船員たちは船がどこかの陸地に近づいているように感じました。そこで水深を測ってみると20オルギィア(約37メートル)あることが分かりました。少し進んでまた測ってみると15オルギィア(約28メートル)となっています。船がかなりの速度で陸に近づいていることは明らかでした。しかし、暗礁に乗り上げてしまっては大変です。彼らは船尾から錨を四つ投げ込み、船が進むのを止め、夜の明けるのを待つことにしました。

 最初に読みましたのは、そんな長く暗い夜が明けかけたころの船上での出来事です。そこでパウロは一同に食事をするように勧めます。そして、言いました。もう一度お読みします。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(33‐34節)。こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを割いて食べ始めました(35節)。そして、一同も元気付いて食事をしたのです。

長い夜を過ごして
 さて、今日の聖書箇所の最初の部分だけを読みますと、助かる望みを失っていた人々の心に希望の光が差し込んできたという場面に見えなくもありません。助かる望みを失っていた人々に、陸地が近づいていることが知らされました。そして待ちわびた夜明けが、ついに訪れたのです。やっと安心して食事をすることができた。人々が元気づいたのは自然のことのように思えるかもしれません。

 しかし、注意深く読みますと、今日お読みしたのはそのような場面ではないのです。41節をご覧ください。「船尾は激しい波で壊れだした」と書かれています。夜は明けたけれど、嵐が止んだわけではないのです。依然として船を破壊するほどの、激しい嵐は吹き荒れているのです。

 しかも、今日の聖書箇所の直前には、こんなことが書かれているのです。「ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った」(30‐31節)。船員が夜明けを待たずに船を捨てて逃げ出そうとしたというのです。何を意味しますか。このまま船に残っていたら危ないと見たということでしょう。

 航海のプロである船員たちは、この嵐の中では船がもはや朝までもたないと判断したのです。既に船の一部が破損しかかっていたのだと思います。実際、「船尾は激しい波で壊れだした」と書かれています。船尾は暗礁によって破壊されたのではないのです。波のために壊れだしたということは、既に壊れかかっていたということです。そんな船に残っているよりは、逃げ出した方がよい。どんなに危険であっても、自殺行為であったとしても、夜中に小舟を出して逃げる方がまだ安全だと船員たちは考えたのです。

 そんな船の中で、彼らは長い夜を過ごしていたのです。激しい風と波に揺さぶられながら、いつ船が壊れるかと怯えながら、長い夜を過ごしていたのです。そして、やっと夜が明けかけたとはいえ、依然として嵐の中にあることには変わらない。命の危険に晒されていることには変わりないのです。

嵐の中での食事
 そのように、彼らはやっと安心できる状況になったから食事ができたということではないのです。希望が見えてきたから一同が元気づいたということでもないのです。状況を考えるならば、彼らは依然として不安と恐れをかかえているのです。ですからここに書かれていることは決して自然なことではありません。実に不思議な特別なことが起こっているのです。

 怯えながら長い夜を過ごした人々のただ中に、パウロの声が響きます。「どうぞ何か食べてください」。食事どころではない危機的状況のただ中でパウロは「一緒に食事をしましょう」と言うのです。

 そして、パウロは一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めました。それはユダヤ人が普通に食事をするときの所作です。しかし、そこで使われている言葉は、ある特別な食事を思い起こさせる言葉でもあります。この「パンを取り」「感謝の祈りをささげ」「(パンを)裂いた」という三つの言葉。それはイエス様が十字架にかけられる前に弟子たちとなされた最後の晩餐の場面に出て来る言葉なのです。

 パウロは、これまで幾度となく教会の兄弟姉妹と共に聖餐を行い、パンを裂いてきたのです。そのように、ここでも同じようにパンを裂いて食べているのです。つまりパウロは、教会でいつも他の信仰者と一緒にしてきたことを、ここでも同じようにしているということです。パウロは、教会においてキリストと共にあるように、この嵐の中の船においてもキリストと共にあるのです。人々はそこにただ囚人パウロを見ているのではありません。キリストと共にいるパウロを見ているのです。いや、パウロと共におられるキリストを見ているのです。

 そこで彼らもまた食事をします。パウロと共に、いや、パウロと共におられるキリストと共に食事をしているのです。だから「一同も元気づいて食事をした」と書かれているのです。それは特別なことなのです。

 それゆえに、この嵐の中で行われた食事は、キリストと共にあることがどういうことか、キリスト共にあって食卓を囲むということがどういうことかを、後の時代の人々にも指し示す出来事になりました。実際、そこに見るのは私たちの姿でもあるのでしょう。私たちが日曜日に集まって礼拝を行うこと、そこで聖餐にあずかるということは、こういうことではありませんか。

 私たちは嵐が吹き荒れるこの世界のただ中で聖餐という食事をするのです。実際に聖餐を行わない今日のような主日でも、それでも私たちは聖餐卓のあるところに集まるのです。それは特別な意味を持つ出来事なのです。時代が時代なら迫害という嵐の中で教会は食事をしてきたのでしょう。あの船の中の人たちがそうであったように、私たちも時には不安を抱えたまま、恐れを抱いたまま、聖餐卓のあるこの場所に身を置くのでしょう。彼らがそうであったように、希望の見えないまま長い夜を過ごして、依然として希望の見えないまま日曜日がやってきて、ここに身を置くこともあるのでしょう。

 しかし、そこで特別なことが起こるのです。今日お読みしたこの食事の場面には不思議な静けさと平安と希望が満ちていると思いませんか。まるで嵐が既に止んでしまったかのようです。現実には嵐の中で命の危険にさらされているにもかかわらず!しかし、そのようなことが起こるのです。彼らは、もはや嵐に支配されてはいないのです。風にも波にも支配されてはいないのです。夜の暗闇にも支配されてはいないのです。まことの主、キリストが共におられるからです。

 そこで行われるのは神の国の食事です。嵐よりも強く大きな神の支配の中で食事をするのです。だから、命の危険にさらされている人々であるにもかかわらず、「そこで、一同も元気づいて食事をした」と書かれているのです。そうです、私たちもまた、そのような主の食卓へと繰り返し招いていただくのです。この世界に何が起ころうとも、私たちの人生に何が起ころうとも、日曜日は必ず来るのです。そして、私たちは主の食卓へと招かれる。私たちが主の招きを軽んじない限り、いかなる嵐の中にあっても平和に満ちた食卓が私たちの人生から失われることはないのです。日曜日の礼拝とは、そのような場所なのです。

2023年7月9日日曜日

「週の初めの日に」

使徒言行録 20:7-12

週の初めの日に
 私たちは週の初めの日である日曜日に毎週こうして集まっています。今日は行われませんが、月の第1主日と第3主日には聖餐が行われます。聖餐を行うことを、昔の教会は「パンを裂く」と表現しました。今日のような小さなパンを食べる聖餐ではありません。普通の食事の形で、パンを裂いて行われた聖餐です。

 今日の第2朗読にも、その言葉が出てきました。「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると」(7節)。彼らは聖餐を行うために、すなわち、主の食卓を囲んで共に礼拝するために、週の初めの日に集まっていたのです。その意味では、彼らが行っていることと、ここで行われていることは、本質的には変わりません。

 翌日、パウロは出発する予定でした。次はいつトロアスを訪れることができるか分かりません。いつ彼らに会えるか分かりません。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。――実際、パウロは二度とトロアスを訪れることはできなかったのです。

 そのような出発の時、別れの時を翌日に控えていたならば、別れを惜しんで少しでも長く語り合いたいと思うものでしょう。しかし、ここには「別れを惜しんで語り合うために集まっていると」とは書かれていないのです。彼らはパンを裂くために集まっていた。言い換えるならば、共に主を礼拝するために集まっていたのです。もう二度と会えないかもしれないお互いであるからこそ、ただ語り合うのではなくて、パンを裂くために集まったのです。

 それは「週の初めの日」の集まりでした。日曜日に集まるということは、決して自明なことではありませんでした。ユダヤ人の安息日は週の終わりの日、すなわち土曜日でしたから。しかし、教会は極めて早い時期から週の終わりの日ではなく週の初めの日に集まるようになりました。なぜでしょう。言うまでもなく、週の初めの日にキリストが復活されたからです。

 彼らはパンを裂くために集まりました。それはキリストの言葉に基づきます。かつてキリストが弟子たちと最後の晩餐を行った時、主はパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えてこう言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)。

 そのように聖餐はイエス様を記念して行う食事です。それはイエス様を思い起こして行う食事です。しかし、それを「週の初めの日」に行うならばどうなりますか。キリストの復活を思いながら行うならばどうなりますか。ただ過去の人イエスを思い起こしての食事にはならないでしょう。それは復活されたイエス様を思ってあずかる食事になるはずです。さらには復活されたイエス様と共に食卓を囲む食事となるのです。

 実際、第一巻目である「ルカによる福音書」には、復活されたキリストが二人の弟子に現れて、一緒に食卓についてくださったこと、パンを裂いてわたしてくださったことが書かれています。そのように、復活されたイエス様がパンと杯を分かち与えてくださるのです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言って分け与えてくださるのです。

 ならばそれは当然、感謝の食事となるはずです。なぜなら食卓の主は、私たちが罪を赦され救われるために苦しみを負い、十字架におかかりくださった御方だからです。そこで受ける体と血は、まさに「わたしが赦されるために裂かれた体、わたしが救われるために流された血」として受けることになるのです。ならば当然、それは感謝の食事になるはずです。

 そして、罪を赦された者にとって、それはまた希望の食事ともなるのです。なぜなら食卓の主は復活された御方として、私たちの復活を指し示してくださるからです。それは、私たちが最終的に完全な救いに与る希望、すなわち神の国の希望を指し示す食事となるのです。その意味で、聖餐は神の国の祝宴の先取りでもあるのです。

 そのような時間をこそ、パウロもトロアスの人たちも、一緒に持ちたかったのです。もしかしたらこの世ではもう二度と会えないかもしれないから。だから、ただ別れを惜しむのではなく、復活のキリストと共にあって、共に感謝し、共に神の国を仰ぎ望む者でありたい。そのために集まったのです。それが「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると」と書かれていることの意味なのです。

居眠りして落ちた若者
 そのためにも、パウロはトロアスの信徒たちに、キリストの福音を、言葉を尽くして語ったのでしょう。彼は福音の真理をひたすら語り続け、伝えるべきことはすべて伝えておきたかったに違いありません。「その話は夜中まで続いた」と書かれているとおりです。

 するとそこで事件が起こりました。エウティコという青年がパウロの説教中に眠気を催し、眠りこけて三階から転落してしまったのです。ということで、その青年の名前は説教中に居眠りをして落ちた人として、二千年後にまで語り継がれることとなりました。

 しかし、その青年にとってははなはだ不名誉なことではありますが、わたしはその青年が転落してくれたことに感謝したいと思います。なぜならその出来事は、週の初めの日に集まるということがどういうことかを、後の人々にもはっきりと指し示す出来事となったからです。

 恐らくその集まりは夜に始まったのです。教会の多くの者たちは主人に仕える身でしたから、夜にしか集まれなかったのです。恐らくこのエウティコも日暮れまで激しい労働をしてきたのでしょう。そして、夜中まで人々の詰めかけた部屋の中で話を聞いていたのです。そんな彼が居眠りしたとしても無理はありません。

 ただ、窓に腰掛けていたのはまずかった。三階から転落した彼は「起こしてみると、もう死んでいた」と書かれています。当然、大騒ぎになりました。するとそこにパウロが駆けつけます。彼は青年の上にかがみ込み、抱きかかえて言いました。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、一同を部屋に戻して礼拝を続けたのでした。

 さて、この出来事をどう捉えたらよいのでしょう。ある人は、実際にはエウティコは死んではいないのに、ただ人々が誤って大騒ぎをしていただけと考えるかもしれません。その場合、パウロは単に冷静に対処しただけ、ということになるでしょう。あるいは、「起こしてみると、もう死んでいた」(9節)と書かれ、12節にはことさらに「生き返った青年」と書かれていますから、これは純粋に神の奇跡として受け止めるべきだとも言えるでしょう。

 いずれにせよ、はっきりしていることがあります。エウティコにとっては、これが最後の礼拝となったかもしれない、ということです。この青年はトロアスの弟子たちと共に、毎週、週の初めの日にパンを裂くために集まっていたのでしょう。しかし、次の週の初めの日には、彼がいない集まりになっていたかもしれないのです。しかし、実際には彼は生き返って集まりの中に残された。一方、パウロは次の日に出発し、その後、ついに地上において彼らと再び相見え、パンを裂くこともなかったのです。

 皆さん、週の初めの日にパンを裂くために集まるということはそういうことなのでしょう。日曜日の礼拝に集まるということはそういうことなのでしょう。実際、私はこの説教の準備をしている時、ここで礼拝を共にした人が翌週にはここにいなくて、もう二度とここで一緒に礼拝することはなかった、そんな人たちの顔を次々と思い起こすことになりました。

 最初に触れましたように、「週の初めの日」それはキリストが復活された日です。週の初めの日の中心には復活したキリスト、神の国を指し示すキリストがおられるのです。そして、神の国を指し示すキリストは、言い換えるならば終わりの日を指し示されるキリストでもあるのです。その意味においてこの集まりは常に終末に接しているとも言えるのです。

 もちろん、終末に接しているという意味では、本当はこの世界全体が常に終末に接しているのです。いつ終わりとなっても不思議ではない。しかし、この世界全体がそのことを認識しているわけではありません。そのことを啓示され、復活の主によって指し示されているのは私たちなのです。そこで私たちは終わりの時を思わざるを得ないのです。

 実際、これが私たち自身にとっても最後の礼拝となるかもしれないのでしょう。人生の終末のゆえに最後となるのか、世の終わりを迎えて最後となるのか、それはわかりません。しかし、いずれにせよ常にこれは最後の礼拝であり得る。聖餐を行うとしたならば、それは最後の聖餐であり得るのです。

 そのように終末を指し示され、終わりの時を思うなら、そこでは「何が本当に重要なのか」が問われることになるはずです。私たちが大事だと思っていること、それは終わりにおいても大事なことなのでしょうか。私たちがいつまでもこだわっていること、私たちが心に抱え続けてきた思い、私たちがしがみついて手放せないでいるもの――それは終わりにおいても重要なことなのでしょうか。この礼拝が最後だとしても、それでもそれは重要なことですか。もし終わりにおいて重要でないなら、恐らく終わりでなくても重要ではないのです。もし終わりにおいても重要なことならば、まだ終わりでなくても重要なことなのです。

 「居眠りして窓から落ちた若者」。彼は週の初めの日にパンを裂くために集まった一人でした。そして、彼はある意味では最も「週の初めの日の集い」らしい経験をしたと言えます。彼にもし次の日曜日があったなら、恐らく彼はそこで思ったに違いありません。今ここに集まっている人々と共に感謝を捧げ、希望を言い表しているこの時は、なんとかけがえのない尊い時間なのだろう、と。そうです、本当は私たちにとってもそうなのです。

(祈り)

2023年7月2日日曜日

「神の恵みを見て共に喜ぶ」

使徒言行録 11:4-18

異邦人のいる教会
 イエス・キリストの地上における最後の言葉は、使徒言行録によれば次のような言葉でした。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)。こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた、と書かれています。そして、イエス様の言葉の通り、それから10日後に、弟子たちの上に聖霊が降り、教会が誕生しました。

 そのように誕生した教会は、イエス様の言葉によれば、エルサレムに留まることなく、ユダヤとサマリアの全土に、さらには地の果てにまで広がっていくことになります。最初の教会のメンバーは全員ユダヤ人でした。しかし、サマリアにまで広がっていくならば、サマリア人が教会に加わることになります。さらに、地の果てにまで広がっていくならば当然、教会には異邦人が加わることになります。つまりイエス様は初めからサマリア人のいる教会、異邦人のいる教会を想定していたということです。

 さて、今日は使徒言行録11章をお読みしましたが、その直前の10章は異邦人の集団が洗礼を受けたという話で終わっています。つまり教会に異邦人が加わってきたのです。それはすなわちイエス様の想定通りに事が進んでいたことを意味します。聖霊の力によって進められるべき神の計画が進んでいたのです。それは実に喜ばしい事ではありませんか。

 しかし、そのことを喜べなかった人たちがいたのです。ですから「そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた」(4節)という言葉から今日の箇所は始まっているのです。喜べなかった人たちにペトロが説明しているのです。

 それまでユダヤ人しかいなかった教会に異邦人が加わるということは何を意味するのでしょうか。異邦人と一緒に聖餐を行うようになるということです。今日行うような小さなパンを食べる聖餐ではありません。当時は通常の食事の形で行っていたのです。つまり異邦人と一緒に食事をするということです。

 ユダヤ人には異邦人と一緒に食事をするという習慣はありませんでした。ユダヤ人には食べて良いものと食べてはいけないものを定めた戒律があるからです。ユダヤ人からすれば、異邦人は食べてはならぬ汚れたものを食べる人々なのです。律法に厳格な人々は異邦人の家にすら入りません。ですから、異邦人と一緒に食事をするということは、極めて忌むべきことであったのです。一緒に聖餐を行うとは、それまで絶対にしなかったことを行うということなのです。

 異なるものが一緒になるとはそういうことなのでしょう。そこにはこれまでの慣習にないこと、違和感を覚えるようなことが起こります。そこには不快なことが起こり、葛藤が生じます。他の人のしていることは非難すべきこと、赦しがたいことに映ります。ですから異なるものが一緒になることは往々にして喜ばしくはないのです。そうです、彼らは異邦人がいる教会を喜べなかったのです。彼らはそこに起こっていた出来事のゆえにペトロを非難したのです。「あなたは割礼を受けていない者たち(異邦人たち)のところへ行き、一緒に食事をした」(3節)と。

 そこでペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。それが今日の箇所に書かれていたことです。

 ペトロはまず、そもそも自分がどうして異邦人の家に行ったのかを説明します。ペトロが滞在していたのはヤッファというところです。そのペトロが向かったのはコルネリウスという百人隊長の家でした。それはペトロが滞在していたヤッファから直線距離で60キロ近く離れているカイサリアにあったのです。

 そんなに離れていたところにいた彼らがなぜ出会ったのか。ペトロの説明で語られているのは、「幻を見ました」とか「“霊”がわたしに…言われました」とか「自分の家に天使が立っているのを見たこと」など、おおよそ私たちの多くには馴染みのないことばかりです。しかし、何を伝えたいかは分かります。要するに、これらは全て神によるのだということです。神がペトロたちユダヤ人とコルネリウスたち異邦人を出会わせられたのです。異なる者たちが共にいることを他ならぬ神が望まれたのです。

 そして、ペトロは次のように話を続けます。「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」(15節)。ここで「最初わたしたちの上に降ったように」というのは、使徒言行録二章に記されている事です。その時とまったく同じように、今度は異邦人の上に聖霊が降ったのです。
 その時にペトロは何を考えたのでしょう。次のように書かれています。「そのとき、わたしは『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました」(16節)と書かれています。

 ここでペトロがこのイエス様の言葉を思い出したということは注目に値します。というのも、イエス様から「あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」と言われた時、その「あなたがた」とはペトロにとっては「ユダヤ人」以外の何ものでもなかったからです。ところが、ここでもう一度その言葉を思い起こしたのです。そして大事なことに気づいたのです。イエス様が言われる「あなたがた」には、ユダヤ人だけでなく、異邦人も入っているのだ、と。

 神がそのことをはっきりと示されたのです。異邦人たちの上にはっきりと分かる形で聖霊が降ったのは、いわば神のデモンストレーションでありました。神は異邦人のいる教会を望んでおられること、神はそのように異なる者が同じ霊を受け、共に食卓を囲む教会であることを望んでおられることを、ペトロははっきりと示されたのです。

 そこでペトロは言いました。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」(17節)。

神の御業に目を向けて
 神の計画が進んでいること、神の御業が進んでいることを喜べなかった人々は、このペトロの言葉に心動かされました。次のように書かれています。「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」(18節)。

 彼らは喜べなかったことを喜べるようになりました。かつて喜べなかった出来事について、神を賛美できるようになりました。どうしてですか。神の御業に目を向けたたからです。神のなさっていることを見ることができたからです。

 「異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださった」。「悔い改め」とは神に立ち帰るということです。彼らが神に立ち帰り、神を賛美し、礼拝する者とされている。神との永遠の交わりに入れられ、神の命に与っている。当初ペトロを非難していた人たちも、そこに神の御業を認めざるを得ませんでした。少なくとも彼らは自分自身が立ち帰ったことは神の賜物であることを知っていたからです。ならば、それがたとえ異邦人であっても、神に立ち帰り、神を礼拝している人々がいるならば、それは神から出たことであると認めざるを得なかったのです。だから神を賛美したのです。

 私たちもまた、同じ神の御業に目を向ける必要があるのでしょう。自分が今ここに身を置いて礼拝しているということ自体が、神の奇跡であり、神の驚くべき御業なのだ!自分についてそう思える人は、他の人の中にも同じ神の御業を見ることができるはずです。それは初代の教会において、教会が一つとなるために必要不可欠なことでした。それは今日の教会においても同じです。

 実際、教会には異なる背景を持ち、異なる感性を持ち、異なる価値観を持つお互いが集められています。ですから他の人について「なぜあんな人が教会に来ているのか」「なぜあんな人がクリスチャンなのか」と思うことは起こり得ることです。だから一緒に礼拝などできない、だから一緒に教会生活はできない、と思ってしまうこともあり得ることなのでしょう。

 しかし、「あんな人が教会に来ている」と言うならば、本当はそこに神の御業を見るべきなのでしょう。もし仮に、「あんな人が一緒に礼拝しているなんて、ほんとありえない!」と苦々しく思うことがあったなら、その「ありえない」ことが現実に起こっていることに、神の御業を見るべきなのです。

 神はユダヤ人と異邦人とが共にいる教会を望まれました。神は異なる者たちが共にいる教会を望んでおられます。なぜなら神はキリストを通して「地の果てまでも」と言われた神ですから。実際、神がそのような神であり続けていたからこそ、異邦人であり距離的にも遠く離れており、文化的にも全く異なるこの国にも教会が存在しているのです。

 実際には、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の問題も、この11章で解決したわけではありませんでした。使徒言行録では15章においてもっと深刻な形で現れてきます。後々まで問題を引きずることになりました。しかし、それでもなお神がなさっていることがそこにあるなら、それは良いことなのです。彼らは神の恵みを見て共に喜んだ。私たちも、常にそういうものでありたいと思います。

2023年6月25日日曜日

「喜びにあふれ、主と共に」

使徒言行録 8:26-39

サマリアから寂しい道へ
 「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である」(26節)。そう書かれていました。不思議なことが書かれています。天使が現れたことではありません。神がフィリポを南の寂しい道へと導かれたということです。

 8章の初めまで話を遡ってみましょう。事の発端はエルサレムの教会に対して起こった大迫害でした。まだ形づくられたばかりのエルサレムの教会は散らされることになりました。しかし、彼らは「迫害によって散らされた可哀想な人たち」ではありませんでした。次のように書かれているのです。「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(4節)。彼らは散らされたことを嘆いていませんでした。むしろそれを福音宣教の機会として受け止めたのです。

 フィリポもまたそのような人々の一人でした。彼はサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えました。もともとユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲ですから、迫害で散らされなければ、自らサマリアに下っていくことはなかったでしょう。その意味では、神様によって強制的に隔ての壁を乗り越えさせられたとも言えます。ともあれ、下っていったフィリポによってキリストが宣べ伝えられ、そこに新しく教会が生まれました。

 誕生したばかりの教会は、まだまだフィリポを必要としていたに違いありません。フィリポがなすべきことはまだ山ほどあったはずです。ところが神様はそこでフィリポの働きを中断させられるのです。神は彼をサマリアから出発させ、南へと向かわせます。わざわざ「そこは寂しい道である」と書かれていました。それは荒れ野を通る道です。人の住んでいないところです。伝道者を人のいない所に送ってどうするのでしょう。

 神様のなさっていることは道理に合わないように見えます。ふぃりぽをサマリアに置いておけば、より多くの人が救われるでしょうに。働きの絶頂において、わざわざ働きを中断させて荒れ野へと向かわせるというのは、宣教の効率から考えても明らかにおかしな話です。その意味で、ここには不思議なことが書かれていると申し上げたのです。

 しかし、もう一方において、このようなことは違った形で私たちにも覚えがあるとも言えます。有意義と見えることが順風満帆に進んでいる時に思いがけなく中断させられることは確かにあります。「神様、なぜですか?」と問いたくなるような回り道をさせられることもあります。それこそ伝道者が人のいない荒れ野の道へと向かわされるというような、どう考えても無意味としか思えない回り道をさせられることは確かにあるのです。

 そこでフィリポはどうしたか。サマリアを発って南に行くのです。彼は神の導きに身をゆだねます。なぜ神は有意義と思われることを中断させられるのか。なぜ無意味と見えることを強いるのか。分かりません。しかし、それでもなお彼は神に信頼して従うのです。人には分からなくても、神は分かっておられるからです。そして、それで十分なのです。

 そして、神には分かっておられたのです。その時、その道をエチオピアの高官が通過することを。「フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」(27‐28節)。その人こそ、フィリポが出会うべき人でした。人の目に無意味と思えても、そこには出会うべき人がいるのです。そして為すべきことがあるのです。

それは誰ですか?
 その人は馬車の上で預言者イザヤの書を読んでいました。聖霊はフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言いました。フィリピが走り寄ると、朗読する声が聞こえました。「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねると、宦官は言いました。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」。そして、馬車に一緒に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みます。フィリポは馬車に乗り込みました。

 その人が朗読していたのはイザヤ書53章でした。7節と8節がギリシャ語訳で引用されています。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ」(32‐33節)。宦官はフィリポに尋ねました。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」(34節)。

 羊のように屠り場に引かれていく人。卑しめられても、小羊のように口を開かない人。命を取り去られるところへと黙々と向かう人。その人の名前は聖書に書かれていません。ですから、確かに誰のことを言っているのか不明です。しかし、その人がただ黙って死んでいく一人の人というだけならば、それが誰であっても、さして重要な問題ではないでしょう。世の中にそのような人はいくらでもいるのでしょうから。

 ではなぜ、あの宦官は、見ず知らずの人を馬車に乗り込ませてまで、それが誰であるかを尋ねたいと思ったのでしょう。どうしてあの宦官はそれほどまでにその答えが気になったのでしょう。

 それはイザヤ書53章を通して読むと分かります。預言者はただ黙々と死んでいく一人の人について語っているのではないからなのです。彼が読んでいたイザヤ書において、その直前にはこう書かれているのです。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」(イザヤ53:6)。神は私たちの罪をすべて彼に負わせられた。彼は私たちの罪をすべて背負って死んでいくのです。預言者はそのような人について語っているのです。

 彼が読んでいたのは、私たちが持っているような聖書ではありません。恐らく彼はイザヤ書の「巻物」を読んでいたのです。ならば、たまたまそこを開いて読んでいたということではないのです。そこを読んでいるならば、その前も当然読んでいるはずなのです。イザヤ書に何が書かれているかを知っているはずなのです。

 そこには罪に対する神の裁きが書かれているのです。神は聖なる神であり、罪を罪とされる神であることが書かれているのです。神は罪を正しく裁かれる神であることが書かれているのです。預言者イザヤが神と向き合った時、彼は恐れおののいてこう言ったのです。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5節)。

 この宦官はエルサレムの帰りでした。エルサレムには礼拝のために訪れたのです。遠くエチオピアから礼拝のためにエルサレムにまで来た人。その人がどれほど神を求め、信仰を求めていたかがうかがい知れます。しかし、礼拝して戻る彼は考えざるを得なかったに違いないのです。自分は聖なる神を礼拝できる者なのだろうか。自分は神の御前に出られる者なのだろうか。自分は神に祈れる者なのだろうか。むしろ罪を罪とされる神から退けられ、捨てられ、罪を裁かれ、滅ぼされるべき者ではないだろうか。聖なる神を求めれば求めるほど、自らの罪を思わざるを得なかったことでしょう。

 しかし、そのイザヤ書にこう書かれていたのです。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」。そして、その人は私たちの罪を黙々と背負い、死んでいくのです。その「彼」とはいったい誰なのだ!本当にそのような人がいるのか。わたしの罪を代わりに背負ってくれる人が本当にいてくれるのか。いるとしたら、それはいったい誰なのだ!

 その思いの丈を宦官はフィリポにぶつけました。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」。

喜びにあふれて
 フィリポはそれが誰であるかを知っていました。私たちの罪を代わりに背負ってくださった方。卑しめられても、小羊のように口を開かなかった方。命を取り去られるところへと黙々と向かわれた方。そして、十字架にかかって死なれた方。ナザレのイエス。そうです、フィリポはつい先日までサマリアにおいて、その御方について宣べ伝えていたのです。

 フィリポはなぜ神がサマリアから荒れ野の道へ導かれたのか、そのわけを知りました。既に福音に向けて心を備えられた人がそこにいたのです。「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」(35節)。

 この人は預言者が誰について語っていたのかを知りました。私たちが罪の赦しを受けるため、代わりに罪を背負って死んでくださった方を知りました。神の備えてくださった出会いの中で、あとは感謝して受け取るだけでした。罪の赦しと救いとを受け取るだけでした。宦官とフィリポは水の流れているところを通りかかりました。宦官は言います。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」(36節)。

 彼は洗礼を受けました。神の前に立つことのできる正しい人間になったからではありません。神を礼拝するにふさわしい人間になったからではありません。そうではありません。人は神の御前に出るにふさわしくない自分であることを認めて、救われるにふさわしくない自分であることを認めて、神の国にふさわしくない自分であることを認めて、ただただキリストに依り頼んで洗礼を受けるのです。私たちの罪のために死んでくださったキリストに依り頼み、罪を赦された人として主と共に生きていくのです。「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」(39節)。

 さて、主は私たちをどこに導いていかれるのでしょうか。私たちが望んでいないような、意味を見いだせないような道へと導かれるのでしょうか。それは起こりえることです。今、自分自身がいるところをそのように感じている人がいるかもしれません。しかし、主を信じましょう。主は既に出会うべき人々を備えていてくださいます。主が出会わせてくださる人々にも、このエチオピアの宦官と同じことが起こりますように。キリストと出会い、喜びにあふれて旅を続ける人となりますように。

(祈り)

2023年6月18日日曜日

「ただ一つの救い」

使徒言行録 4:5-14

聖霊に満たされて
 「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった」(5‐6節)と書かれていました。サンヘドリンと呼ばれるユダヤ人社会の最高法院が招集されたのです。何のためか。ペトロとヨハネを尋問するためでした。「そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(7節)。

 アンナスとカイアファという名前には見覚えがあります。イエス・キリストが裁かれた時に出てきました。彼らはイエスを尋問した人々です。イエスを断罪し、死に定めた人々です。その同じ場にペトロとヨハネは立たされることとなりました。それは重大な危機を意味しました。それだけではありません。まだ教会は産声を上げたばかりなのです。その大事な時に柱ともいうべきペトロとヨハネが捕らえられたということは、教会にとっても重大な危機を意味ました。

 なぜそのようなことが起こったのか。この話は3章から続いています。その次第を簡単にお話ししておきます。

 その前の日、午後三時の祈りの時にペトロとヨハネは神殿に上っていきました。するとそこに生まれながら足の不自由な男が運ばれてきました。毎日、神殿の門のそばで物乞いをしていた人でした。彼はペトロとヨハネに施しを乞いました。ペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。すると彼は癒されて、躍り上がって立ち、ペトロたちと共に神殿に入っていきました。

 神殿の門で物乞いをしていた男が、今や歩き回って神を賛美しているのを見て人々は大いに驚きました。大勢の群衆がペトロたちのところに集まってきました。ペトロは集まった大群衆にイエス・キリストを宣べ伝えました。ペトロは復活して今も生きておられるキリストを、彼らに伝えていたのです。

 そのようにペトロとヨハネが群衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいてきました。彼らは二人がイエスの復活を宣べ伝えているのにいらだって、彼らを捕らえて牢に入れました。そして、翌日、最高法院が招集されたのです。

 これが簡単な話の流れです。しかし、考えてみると、これはおかしな話です。ただ神殿で話をしていただけで、翌日に最高法院が招集されるというのはあまりにも大げさです。なぜこんなことになったのか。一つ考えられることは、群衆があまりにも巨大化していたということです。今日の箇所の直前に、「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)と書かれているとおりです。

 それほどにペトロたちの影響力は大きかった。それはかつてイエス・キリストを十字架にかけた人々にとってはまことに恐るべきことだったのです。やっとのことでイエスを抹殺して全て終わったと思っていたのに、そのイエスの復活を宣べ伝える人々の群れが見過ごせぬほど膨れあがっていたのです。その結果、彼らは最高法院まで招集せざるを得ませんでした。どんな手段を用いてでも、この動きを封じなくてはならなかったからです。

 ユダヤの最高法院が動き出しました。イエスが捕らえられたあの時と同じです。今度は使徒たちを、教会を、この世の巨大な権力が支配するために動き出しました。この世においては力関係がものを言います。力ない者は力ある者に支配される。弱い者は強い者に支配されることになるのでしょう。この場面においては、この世において何の権威も力もない二人が、権威と力を持つ人々のただ中に立たされているのです。ペトロとヨハネは支配される側の人間として立たされているのです。

 しかし、そこで聖書は次のように語ります。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」(8節)。「満たされる」という言葉が意味するのは「支配される」ということです。例えば、私たちが「怒りに満たされる」ならば、それは「怒りに支配される」ことを意味するのでしょう。「聖霊に満たされる」とは「聖霊に支配される」ことを意味するのです。すなわち、この場面においてペトロを支配しているのは、アンナスやカイアファではないということです。支配しているのは「聖霊」なのです。神の霊なのです。

 私たちの肉の目にはこの世の力しか映りません。この社会においては、人間が行うことしか見えないのです。そうです、この世界は人間が動かしているように見える。人間の支配関係がすべてを決定しているように見えるのです。

 しかし、実は、もう一つの支配があるのです。それは神の支配です。目に見えるところにおいては、ペトロとヨハネは圧倒的に大きな人間の力のもとにあるのです。しかし、今日の聖書箇所が伝えているのは支配された人間の姿ではありません。ペトロはこの世の力に支配されてはいません。この世の力によって生じた悪い状況にも支配されてはいません。そうではなく、ペトロは聖霊に満たされていたのです。ペトロを支配しているのは「聖霊」なのです。

 信仰に生きるとはこういうことなのです。あの時、ペトロを満たした聖霊は、私たちの内にも働いておられます。私たちもまた、もう一つの支配のもとに生きているのです。共に集まって礼拝をささげるこの場は、まさにその事実が目に見える形で現れている場だとも言えます。私たちがここに集まっているのは、人間の支配によるのではありません。神の支配によるのです。神の霊の働きによるのです。だから私たちは人間の権威や力、人間の行いを誉め讃えるのではなく、目に見えない神をほめたたえるのです。一緒に賛美をささげているのです。それはこの世の目からは滑稽に見えるかもしれません。しかし、私たちは目に見えない御方の支配を信じているのです。そして、目に見えない御方に自分自身を献げ、新しくここから歩み出すのです。

神の愛の支配が内に
 そして、この世界に厳然として目に見えない神の支配があるならば、その御方のなさることは必ず現れてくるのです。目に見える形で現れてくるのです。人間は自分よりも力のない者を支配し、自分の思い通りにコントロールしようとするのですが、現実には人間の思ったとおりにはならないのです。それよりももっと大きな支配があるのですから。

 ペトロとヨハネには何が起こりましたか。アンナスやカイアファたちは、ペトロとヨハネのために尋問と断罪の場所を用意しました。彼らはペトロとヨハネを強制的にその中に置くことができました。しかし、聖霊はそこでペトロとヨハネに神の言葉を語る大胆さと、福音宣教の機会を与えられました。目に見えない神の霊は、尋問と断罪の場所を、イエス・キリストを宣べ伝える場所に変えてしまったのです。

 聖霊に満たされたペトロは言いました。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(10‐12節)。そのように、救いのために与えられた一人の御方、ただ一つの御名について語るのです。

 その姿を見て議員や他の者たちは驚いたと書かれています。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)。そこに現れたのは聖霊の支配であり、聖霊の御業でした。

 いや、聖霊は彼らに大胆さを与えただけではありません。聖霊の支配はまた神の愛の支配でもありました。アンナスやカイアファをはじめ、ペトロとヨハネをとりまく人々は、かつてイエス・キリストを死に定めた人々です。ペトロははっきりと彼らに対しても「あなたがたが十字架につけて殺し」たのだと語っています。しかし、その上でペトロは彼らに対する神の裁きについて語るのではないのです。そうではなく、救いについて語るのです。

 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)。このような言葉は極めて排他的に聞こえるかもしれません。しかし、ペトロは他を「排する」ために語っているのではないのです。宗教論争として語っているのではないのです。彼は「《わたしたちが》救われるべき名」と言うのです。ペトロはカイアファやアンナスたちに対しても「わたしたちが救われるべき名」と言って語っているのです。「わたしたち」にはアンナスもカイアファも含まれているのです。

 聖霊に満たされたペトロの内にあったのは神の愛です。御自分を十字架につけた者をも救おうとされるキリストの愛です。ペトロはその愛によって自分もまた救われたことを知っているのです。自分もまたアンナスやカイアファと変わらない、ただイエス・キリストによって救われた罪人であることを知っているのです。だから「わたしたちが救われるべき名」として語っているのです。

 そのように彼らはもはや支配者たちの敵意の中にもいないのです。敵意や憎しみにさえも支配されてはいないのです。もう一つの支配のもとにあるからです。もっと大きな権威と力をもった一つの御名のもとにあることを知っているからです。その御名によって救われていることを知っているからです。そして、その御名は私たちにも与えられているのです。私たちもまた同じ御名のもとにあり、同じ救いにあずかっているのです。
(祈り)

2023年6月11日日曜日

「わたしの主、わたしたちの主」

使徒言行録 2:37-47

聖霊によって
 今日お読みした箇所には、初期の教会の実に麗しい姿が描き出されていました。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(44‐47節)。

 ここには「一つ」という言葉が繰り返されています。そこに見るのは一つとなっている教会の姿です。彼らはなんと「全ての物を共有に」するほどに一つとなっていたのでした。それはまことに驚くべきことであったと言わざるをえません。というのも、そこには普通に考えるならば一つとはなり得ない人たちが集まっていたはずだからです。

 最初に洗礼を受けた人たちは、聖書の記述によれば約三千人です。そこには裕福な人がいれば貧しい人もいたに違いない。恐らくファリサイ派のユダヤ人もいればサドカイ派のユダヤ人もいたことでしょう。もともと、物音を聞いて集まってきた人たちですから、徴税人や罪人たちもいたかもしれません。しかし、そのような人々がキリストを信じ、洗礼を受け、神殿での礼拝でも、家ごとの集まりにおいても、一つとなって礼拝し賛美を捧げていたというのです。

 明らかにそれは、「人間とはこうあるべき」「教会とはこうあるべき」という主義や理想から生じたものではありませんでした。誰かが「一つになるべきだ」と主張して一つになったのではないのです。そこに人々が見ていたのは、神の御業なのです。彼らは聖霊によって一つとされていたのです。

 このことは特に強調されねばなりません。というのも、もう一方において、人間は聖霊によらずとも一体性を実現することはできるからです。実際に代々の支配者たちは、国を治めるために、そのような一体性を作ろうと腐心してきたのです。人間は共通の必要があるときに一体となります。共通の関心において一体となります。共通の敵によって、共通の恐れによって、一体となることもあります。恐らく人為的に一体性を造り上げるのに一番手っ取り早い方法は、共通の敵を設定することです。そして、想定される恐れを提示することです。しかし、共通の敵と恐れによって作られた一体性ほど恐ろしい集団を造り上げるものはありません。歴史に見るとおりです。

 それゆえに、聖書はまた、人為的な一体性を神があえて破壊された実例を示しています。創世記11章に書かれている「バベルの塔の物語」です。人々はこう言いました。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)。「有名になる」と訳されているのは「名を造る」いう表現です。つまり彼らは巨大な塔を建て上げているのですが、それは彼らの名前を偉大なものとして強大ものとして建て上げることを意味していたのです。それはもう一方に恐れがあるからです。散らされるという恐れです。だからこそ散らされる側ではなく支配する側に立たなくてはならない。そのために一致団結したのです。しかし、神は彼らの言葉を混乱させ、互いに通じなくされました。神はそのような一致団結を望まれなかったのです。

 神が教会に望んでおられるのは人為的に造り出された一体性ではありません。人間の必要を満たすために人間が造り出す一致団結などではありません。そうではなく神の霊による一体性なのです。それゆえに、そこでは「人と人との関係」だけでなく「人と神との関係」が重要になってくるのです。

めいめいが洗礼を受け
 そのことを今日の聖書箇所ははっきりと示しています。本日の朗読は37節からでした。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」(37節)。そう書かれていました。ペトロの説教を聴いて心を動かされた人々は具体的な指示を求めたのです。ペトロの答えは明快でした。「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」(38節)。

 ペトロは「悔い改めなさい」と言いました。それは自分の悪いところを悔いて改めることではありません。それは根源的な生の方向転換を意味します。どちらからどちらへ方向を転換するのでしょう。ペトロの説教の最後の言葉はこうでした。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。十字架につけて殺したのは、イエスが彼らにとって主ではなく、メシアでもなかったからです。そのような彼らにとって方向転換とは、イエスを主として、メシアとして受け入れて生き始めるということに他なりませんでした。

 これこそがまず求められていたのです。イエスを主として、メシアとして受け入れるということです。そして、ペトロは言いました。「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。ここで注目すべきは、あえて「めいめい」と書かれていることです。個々の人間が強調されているのです。

 洗礼を受けるのは「めいめい」です。そこに三千人がいたとしても洗礼を受けるのは「めいめい」なのです。他の人がどうこうではありません。他の人が洗礼を受けたか受けないか、それは関係ありません。洗礼においては、神の御前において一人で立たなくてはなりません。

 そして、罪を赦していただくのも「めいめい」です。それは個々の人間において起こらなくてはならないのです。個々の人間が自らの罪を神の前に認め、個々の人間が罪を赦していただくのです。そこでは他の人の罪を問題にすることはできません。神の御前において一人の人間として罪が問われ、罪の赦しを受けるのです。そして、そのようにして罪を赦された者としてイエスを主として生き始める。イエスを「わたしの主、わたしの救い主」として生き始めるのです。その意味において、先の「悔い改め」もまた「めいめい」です。

 最初に、私たちは一つとなってすべての物を共有している教会の姿、一つとなって礼拝を捧げている教会の姿に注目しました。しかし、彼らは「めいめい」イエスを主として受け入れ、主と共に生き始めた人々なのです。そこには一人ひとりの、極めて個人的なイエスとの関係が生きているのです。

 後にパウロがこのイエス・キリストとの関係を次のような言葉で表現しています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20)。

 神の子は「わたしを愛し」てくださったのです。全人類のためではなく、この「わたしのために」身を献げてくださったのです。この「めいめい」を抜きにして、先に見た一つとなった教会の姿は語り得ません。

 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わりました。先にも触れましたように、そこには種々雑多な人々がいたことでしょう。しかし、その「めいめい」が明確に同じイエスを主として受け入れたのです。そうです、彼らには同じ主がいるというはっきりとした事実があるのです。その同じ主から同じ霊をいただいているのです。そこにおいて彼らは一つとされているのです。同じ霊によって一つとされたのです。

 そのように各個人の悔い改めと信仰を抜きにして、先に見た一つとなった教会の姿は語り得ません。各個人とキリストとの関係に目を向けず、ただ全体だけを問題にして一つとなることを求めるならば、それは極めて人為的な人間的な一致を求めることになるでしょう。私たちは各々、まず、「私とキリストとの関係はどうなっているだろうか」と自らに問わなくてはならないのです。

一つとされるために
 しかし、もう一方で逆のことも起こりえます。私たちが「めいめい」のことしか考えず、そこに終始してしまうということもあるからです。悔い改めと洗礼と罪の赦しは「めいめい」のことに留まるために与えられているのではないのです。何と書かれていますか。洗礼を受けた人々は「仲間に加わった」と書かれているのです。

 彼らはそれぞれバラバラにイエス様と共に生きていくのではないのです。彼らは仲間に加わった人々として「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)と書かれているのです。彼らは交わりの中に身を置き、共に祈ることを大切にしたのです。そこからあの最初の教会の姿が生み出されていったのです。

 今日の朗読の最後にもこう書かれていました。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(47節)。主は個々の人を救われます。主はあなたのため、わたしのため、一人一人のために十字架におかかりくださいました。赦しも救いも他ならぬあなたのためでありわたしのためです。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」とパウロが言っていたとおりです。しかし、主は救われる人を仲間に「加えられる」のです。私たちは自分自身をそのように見、また新たに主を信じる人をそのように見なくてはなりません。バラバラではないのです。主は私たちが一つとなることを望んでおられます。

 ボンヘッファーが「共に生きる生活」という著書の中でこう言っています。「ひとりでいることのできない者は交わりに入ることを用心しなさい」「交わりの中にいない者はひとりでいることを用心しなさい」。私たちはそれぞれ一人の人間として主に問われ、主に応え、主との関わりの中に生きるのです。そして、同時に私たちは一人ではなく交わりの中へと召されたのであり、聖霊によって一つとされることを求めていくのです。そのどちらが失われても、それは信仰者としてまた教会として、本来の姿とはならないのです。


2023年6月4日日曜日

「人の罪と神の愛」

 使徒言行録 2:22-36

 先週の日曜日は聖霊降臨祭でした。聖霊降臨祭は今から約二千年前に教会が誕生したことの祝いであり、教会の宣教が開始されたことを記念する祝祭です。教会の誕生の次第は使徒言行録2章の冒頭に次のように記されています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。

 この摩訶不思議な描写には聖書の強烈な主張が込められています。教会はただ人間の必要を満たすために人間が集まって作ったものではない、ということです。人間ではなく神が始めたのだと聖書は語っているのです。それは天から神の霊が降って、集まっていた弟子たちが聖霊に満たされたところから始まったのだ、と。

 始まりがあるからこそ今があります。あの時、教会が誕生したからこそ、今、ここにも教会があるのです。あの時、教会の宣教が開始したからこそ、遠いこの国にも宣教がなされているのです。始まりが聖霊によるならば、今があるのもまた聖霊によるのです。この時代にこの国に教会が存在するのは聖霊によるのです。

 しかし、聖霊は何の脈絡もなく天から注がれたわけではありません。聖霊が注がれるまでには、そこに至る経緯があるのです。今日お読みした聖書箇所では、その経緯が、ペトロの口によって語られています。そして、そこにこそ聖霊が天から地上に注がれたことの意味が、教会が誕生して今日に至るまで存在していることの意味が、はっきりと表されているのです。

あなたがたは十字架につけて殺した
 「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」(22節)。物音を聞いて集まってきた人々に、ペトロはそう呼びかけました。そして、イエス様のことから語り始めます。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」。

 ペトロはイエス様のおよそ三年半に渡る宣教活動を要約します。ペトロはここではイエス様の人となりについては語りません。イエス様がどれほど優れた教師であったということについても語りません。ただ一点に集中して語ります。神がこの御方を遣わされたということです。そして、神が超自然的な仕方でこの御方を通して働かれたということです。そのようにして、ナザレのイエスが神から遣わされたことについては、神がはっきりと示されたのです。ペトロは何よりもそのことを語ります。

 しかし、神から遣わされたイエスを人間はどうしたでしょうか。「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」(23節)とペトロは言います。神はイエスを遣わされた。それはもちろん救うためです。愛するためです。いわば神が人間に向かって、愛をもって手を差し出された。神がイエスを遣わされたとはそういうことです。しかし、人間はそのイエスを十字架につけて殺してしまったのです。

 実際にイエスを十字架につけて殺したのは、けっしてこの世の悪人でも、極悪非道な人たちでもありませんでした。むしろこの世において正しいと見なされる人たちでした。その中にはサドカイ派の人たちがいました。彼らは神殿祭司を中心とした一派でした。彼らは神殿に関わっているのです。祭儀に関わっているのです。彼らは伝統的な祭儀的な宗教の担い手でした。

 またそこにはファリサイ派の人たちがいました。彼らは生活のすべての領域に律法を適用して生きようとした真面目な人たちでした。律法を解釈し詳細な規則を遵守して生きようとしていた人たちでした。また、そこには熱心党の人たちがいました。ローマからの解放を求めて闘おうとしていた人たちがいました。彼らは抑圧された民衆のために命を献げようとしていた人たちです。

 あの日、ピラトの官邸の前に集まった多くの群衆もまた、そのような三通りの人たちが持っていたものを、多かれ少なかれ共有していたと言えます。彼らの内には宗教的な伝統と儀式を重んじる敬虔さがあったことでしょう。定められたことを遵守して生きようとする真面目さがあったことでしょう。社会の不正に怒り、正義のために命をかけて闘おうとする情熱があったことでしょう。

 そのような人々が、あの時、あの場所で叫んでいたのです。「十字架につけろ」と。人間の真の罪深さは、必ずしもあからさまな悪として表に現れているわけではありません。むしろ、宗教性の中に、真面目さの中に、正義の主張の中に、この世においては賞賛されるもの、美しいものの中に、隠れてしまっているのです。人間の内なる暗闇は必ずしも外からは見えません。しかし、その内にかくれた人間の罪深さがイエスとの出会いにおいて表に現れることとなったのです。イエス様が来られることによって、外に吹き出したのです。

 そのように、神が伸ばされた愛の御手を人は拒絶し、神が遣わされたイエスを人は十字架にかけました。しかし、それは神にとって決して意外なことではありませんでした。ペトロは何と言っていますか。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された」(23節)と言っているのです。この世に御子を遣わしたら人間は十字架につけることになるだろうということを、神は分かっておられたということです。「お定めになった計画により」とはそういうことです。

 神は、人間の罪が、イエスに対する憎しみとして怒りとして、殺意として、表に現れることを良しとされたのです。外側をどんなに美しく装ったとしても、罪は厳然として内にあるのです。ですから、人間とはこういうものなのだ、ということを神はあえてこのような仕方で明らかにされたのです。

そのイエスを神は復活させられた
 そのように、神はイエスを遣わされました。人間はそのイエスを十字架にかけました。しかし、「あなたがたは十字架につけて殺してしまったのです」というところでペトロの話は終わりませんでした。彼は続けます。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(24節)。

 その後に旧約聖書が引用されています。それをもって何が言いたいのでしょう。旧約聖書において、既にキリストの復活について語られていた、ということです。「彼は陰府に捨ておかれず、その体は朽ち果てることがない」と。既に預言されていたということはどういうことですか。初めから神は十字架で終わらせるつもりはなかった、ということです。人間の罪深さが明らかにされて、それで終わりではないのです。神はなおも事を先に進めるつもりであったということです。

 「あなたがたは十字架につけて殺してしまったのです」。――しかし、その「あなたがたは」で終わらないのです。人間がどうであるかということで全てが決まるのではありません。さらに、「神は」と続くのです。人間の罪は神が遣わされたイエスを十字架にかけました。しかし、神はその御力をもってキリストを復活させられました。人間の内には確かにいざとなったら何をしてしまうか分からない罪深さがあります。神の独り子をさえ十字架につけてしまうほどの恐るべきものが私たちの内にあるのです。しかし、神がなされることは人間の罪がなしえることよりも、もっともっと大きいのです。神の恵み深さは、人間の罪深さよりはるかに深いのです。キリストの復活において神はそのことをはっきり示してくださったのです。

 そして、さらにペトロは続けます。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(33節)。

 「聖霊を注いでくださいました」。その主語は誰ですか。イエスです。あの時、人間の手によって十字架にかけられたイエスです。人間によって拒絶され殺されたイエスです。そのイエス様が、聖霊を注いでくださったのです。

 しかも、「御父から受けて注いでくださいました」と書かれているのです。その源は父なる神です。遣わした独り子を十字架にかけられるという仕方で、究極の仕方でその愛を拒絶されたあの父なる神です。その神が御子を通して聖霊を注いでくださったのです。「あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」とペトロは言っているのです。

 聖霊を注いでくださった。聖霊は神の霊です。内にいてくださる神の霊、共にいてくださる神の霊です。そして、上よりの力を与えてキリストの証人としてくださる神の霊です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。

 私たちの罪は、イエス様を十字架につけて殺しました。しかし、神はそれでもなお私たちと共にいようとしてくださったのです。さらには、私たちを用いようとしていてくださるのです。キリストの証人とし、世界に向かって神の偉大な御業を語り伝える者にしてくださるのです。「あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」。そうです、私たちもその事実を見聞きしているのです。教会が誕生したとはそういうことです。宣教が開始したとはそういうことです。今ここに教会があるとはそういうことなのです。私たちもまたその事実を見聞きしているのです。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。

2023年5月21日日曜日

「備えて待ち望む」

使徒言行録 1:12‐26

エルサレムに留まって
 本日の第2朗読では、使徒言行録1章12節以下をお読みしましたが、その冒頭には次のように書かれていました。「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」。イエス様が十字架にかけられ、そして復活してから40日後のことです。今日お読みした箇所の直前には、その日にイエス様が天に昇られたことが記されています。イエス様が昇天されて後、弟子たちはエルサレムに戻っていきました。そして、彼らはエルサレムに留まろうとしていたのです。

 これはある意味で不思議なことです。彼らの大部分はガリラヤ出身ですから、エルサレムに生活基盤があるわけではありません。もともとエルサレムに留まらなくてはならない理由はなかったのです。しかも、エルサレムは、弟子たちにとって、決して居心地の良い場所ではなかったはずです。そこにはイエスに敵対していた人々が大勢いたのですから。イエスを憎んでいた人々は彼らをも憎んでいます。弟子たちにとって、そこは極めて危険な場所でした。そのエルサレムに彼らは留まったのです。

 なぜでしょう。理由は単純です。イエス様がエルサレムに留まれと言われたからです。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)。しかし、彼らはしぶしぶ従ったのではありません。ルカによる福音書によりますと、なんと彼らは「大喜びでエルサレムに帰った」(ルカ24:52)と言うのです。なぜでしょうか。彼らには希望があったからです。待ち望むべき未来があったからです。

 もう一度、イエス様の言われた言葉をお読みします。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)。父の約束とは、聖霊が与えられるという約束です。父なる神が約束してくださったのです。彼らはやがて神の霊に満たされることになるのです。言い換えるならば、神様御自身が、彼らを通して力強く働き始められるということです。神様が行動を開始されるのです。

 自分自身だけを見つめているならば、そこに一縷の望みもありません。現実は極めて厳しいことは、百も承知でした。しかし、彼らは喜んでいたのです。彼らは喜んで困難の中に留まったのです。なぜなら、どんなに貧相な器でありましても、神が用いられるならば話は違ってくるからです。たとえ自分自身には期待できなくても、神に期待して待ち望むことができる人は現実に負けません。自分の弱さという現実にも負けません。私たちが弱かったとしても神は弱くはないからです。私たちは、最初の弟子たちの姿を通して、神に期待し、神を待ち望むことを学ばなくてはなりません。

彼らは熱心に祈った
 さて、彼らは、期待して待ち望むゆえに、具体的にはどうしたのでしょうか。13節をご覧ください。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。」何のために上がったのでしょうか。祈るためでした。14節にはこう書かれています。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」

 彼らは祈りました。熱心に祈りました。イエス様は「待ちなさい」と言われたのです。しかし、期待して待つことの具体的な形は「祈り」です。神に期待する人は祈ります。神に期待しない人は祈りません。

 そこにおいて心を合わせて祈っていた人々のリストが簡単に記されています。まず、イスカリオテのユダを除く十一人の使徒の名前が記されています。改めてここを読みますときに、その多様性に驚かされます。熱心党のシモンがそこにいます。熱心党とは、ユダヤ民族主義者の戦闘的集団です。一方、マタイはもと徴税人です。祖国を売り、ローマの手先となって同胞を苦しめていた、いわば売国奴です。普通に考えるならば、どうしたって一つになれない人々です。しかも、彼らを弟子として招いたイエス様は、もう目に見える姿では共におられないのです。

 にもかかわらず、そのような人々が「心を合わせて」祈っていたのです。これは驚くべきことです。しかし、当然起こるべくして起こったこととも言えます。ただ神様への期待と待望のみがあるならば、その集まりには一致があるはずだからです。

 また、そこに婦人たちについて言及されていることも注目に値します。婦人たちが弟子の群れに加わったことは、ルカによる福音書にも記されていました(ルカ8:2‐3)。しかし、当時の社会的状況において、これは決して当たり前のことではなかったのです。女性の社会的地位は今日と比べものにならないほどに低かったからです。それはユダヤ人の宗教的なコミュニティ一般においても同じでした。例えば、当時の敬虔なファリサイ派の男性が生涯を通して捧げる感謝の祈りの一つは、「天の父よ、わたしは女に生まれなかったことを感謝します」という祈りでした。それが、当時の女性を取り巻く宗教的な環境だったのです。

 ですから、ここで婦人たちが使徒たちと同じように、聖霊の満たしを求め、神の霊の働きを期待して祈り求めているということは、それ自体がとても重要なことを語っているのです。そこにおいて世の人がどう評価するか、どう判断するかは、大して重要ではないということです。ファリサイ派の人がなんと言おうと、女性であっても神の霊に満たされて、神の器として神の働きのために用いられる時代が来たのです。

 同じ事は、女性についてだけでなく、他の人々についても言えるでしょう。お年寄りについても言えるでしょう。障碍を持っておられる方についても言えるでしょう。病弱な人についても、過去に傷を持つ人についても言えるでしょう。世間の人がどう見るかは大して重要なことではありません。神はどのような人をも聖霊に満たして用いることがおできになるのです。いやむしろ、神の力は弱いところにこそ現れるのです。だから、どのような人であっても、神の霊に満たされて、神に用いられる器となるおとを祈り求めるべきなのです。

彼らは具体的に備えをした
 さて、彼らが共に集まり祈り始めて数日が経った頃、既にそこには百二十人ほどが集まるようになっていました(15節)。そこでペトロが皆に一つの提案をしました。それはユダの代わりとなる使徒を選出しようということでした。

 本日お読みしたところによりますと、ユダはイエスを売り渡した報酬で土地を買い、その地面にまっさかさまに落ちて、死んでしまったとのことです。今日は、ユダについてこれ以上触れることはいたしません。ここで注目したいのはペトロの提案の内容です。イエス様が選ばれた十二人の弟子のうち、欠けた一人を補充しようということです。これは明らかに将来に対する備えです。ペトロはイエス様のお働きが自分たちを通して継続されることを見ているのです。

 やがて広くキリストが宣べ伝えられていくことになる。多くの人々が仲間に加えられることになるだろう。ペトロは、そのような事態を既に見越しているのです。その時のために、具体的な準備をしているのです。

 福音が宣べ伝えられ多くの新しい人々が加えられていくとき、いったい何が重要になってくるでしょう。イエス様についての伝承(言い伝え)が正しく伝えられることです。だから十二人目はそれに相応しい人が選ばれなくてはならないのです。それゆえに、ペトロは次のように提案したのでした。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」(21‐22節)。

 彼らが、宣教の働きの進展を思い描き、具体的に準備をしたということは、それ自体驚くべきことです。というのも、そこに集まっていたのはせいぜい百二十人に過ぎないからです。百二十人という人数は多いように思えるかもしれませんが、せいぜいこの会堂がいっぱいになった程度の人数です。一方、彼らの前に立ちはだかっているのはユダヤ人社会を統括する、強力な宗教的支配体制です。パレスチナだけでも四百万人ほどいたであろうユダヤ人を支配する彼らにとって、百二十人の凡人が集まっていることなど、ものの数ではなかったに違いありません。常識的に考えるならば、将来的な展望などは、まったく持ち得ない状況だったのです。

 にもかかわらず、彼らは具体的な準備を始めたのです。自分たちの力にではなく、神のみに期待していたからです。だから、神を待ち望み、祈り続けた時に、具体的な導きを得たのです。逆説的ではありますが、事を為すのは人間ではなく、神様御自身であることを知った時、本当に人間として為すべきことが見えてくるのです。その意味において、祈りは、神への期待に基づく具体的な行動――今為すべき具体的な行為――へと導くのです。それが、彼らの場合には使徒の補充ということだったのです。

 イエス様は弟子たちに、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と言われました。今日の箇所に記されていたように、神に期待して待つということは、何もせずにボーッとしていることではありません。具体的に「祈る」ということであり、また祈りによって今為すべき具体的な行動へと導かれることなのです。




2022年9月4日日曜日

「目に見えない神に目を向けて生きる」

使徒言行録 13:44‐52

 

会堂に押し寄せた異邦人たち
 本日の第2朗読で読まれましたのは、パウロの第一回目の伝道旅行において起こった出来事です。

 パウロとその一行は、ピシディア州のアンティオキアに到着しました。アンティオキアは今日のトルコの内陸部に位置します。紀元前一世紀にローマの植民地となりましたが、そこにはユダヤ人のコミュニティがありました。パウロたちはアンティオキアに着きますと、安息日にユダヤ人たちが集まる会堂に向かいます。集まった人々にキリストの福音を伝えるためです。

 パウロがアンティオキアの会堂で何を語ったか、その内容は13章16節以下に記されています。今日は全体を読むことはできません。38節以下の結論部分だけをお読みしておきます。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(38‐39節)。

 パウロは、「この方」、すなわちイエス・キリストによる罪の赦しについて語ったのです。そして、信じる者は皆、イエス・キリストによって「義とされる」と語ったのです。「義とされる」とは、言い換えるならば、神に受け入れ、救われるということです。

 パウロの説教は会堂にいた多くの人々に受け入れられたようです。「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」(42節)と書かれています。さらには、「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」(43節)と書かれています。

 「神をあがめる改宗者」と訳されているのは、この場合、ユダヤ人ではないけれど会堂に出入りしていた異邦人です。彼らも含めて、「神の恵みの下に生き続けるように」と勧めたということは、ユダヤ人だけでなく異邦人の中にもキリストを信じた人たちがいたことを意味するのでしょう。

 そして、次の安息日がやってきました。そこからが本日の聖書箇所です。「次の安息日にも同じことを話してくれ」ということでしたので、パウロは彼らの願ったように、再び会堂へと向かいました。ところが、そこで恐らくユダヤ人たちが全く想定していなかったことが起こったのです。「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」(44節)。

 町には確かにユダヤ人の共同体がありますが、ピシディアのアンティオキアの住民のマジョリティはユダヤ人ではありません。「ほとんど町中の人」が集まったというのはかなり誇張された表現であるにせよ、そこには普段会堂での礼拝には参加していない異邦人たちが大挙して押し寄せてきたということでしょう。

 どのような経路を経てかは分かりませんが、確かに救いをもたらす福音の言葉は、人から人へ伝えられ、異邦人の間にも広がっていったのでした。「信じる者は皆、この方によって義とされる」という福音は、大きな喜びをもって受け入れられ、伝えられていったのでしょう。その結果、多くの異邦人たちが会堂を満たすに至りました。

口汚く反対するユダヤ人たち
 すると、もう一度パウロの話を聞こうとしていたユダヤ人たちの態度が変わりました。「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(45節)というのです。前の週には特に反対してはいなかったユダヤ人たち、むしろ好意的に受け止めていたように見えたユダヤ人たちが、突如として、手のひらを反したように反対しはじめたのです。

 ユダヤ人たちの内に何が起こったのか。ある程度、想像することは出来ます。集まってきた大勢の異邦人たちを見て、パウロの説教が結論とすることの重大性に気付いたということです。つまり、パウロが「信じる者は皆、この方によって義とされる」と言ったその言葉の本質に気付いたのです。

 「信じる者は皆、この方によって義とされる」ということは、もはやユダヤ人であるか異邦人であるかという区別は意味を持たなくなるということです。それはユダヤ人たちにとっては大問題なのです。ユダヤ人からすれば、今までユダヤ人としてモーセの律法を守ってきた努力や熱心は何だったのだ、ということになるでしょう。今まで神に対して熱心に仕えてきた自分たちと、律法を知らずに今まで神に背を向けてきた人々がまったく同じ扱いを受けるということは、まことに許しがたいことに思えたに違いありません。

 しかも、福音を信じ、キリストを信じた異邦人たちの内には、罪が赦され、義とされた平安と喜びがあるのです。そうです。彼らは喜んでいるのです。一方、救われるために一生懸命に戒律を守り、自分の熱心と努力によって救いを得ようとしていた人々の内には、平和も喜びもないわけです。もともとなかったのです。だからねたんだのです。そのように書いてありますでしょう。自分たちが持っていないものをパウロたちは持っている。キリストを信じた異邦人たちも持っている。だからねたんだのです。ねたみに支配された彼らは、もはや口汚くののしることしかできませんでした。

 その前の週には、彼らも同じ言葉を聞いていたはずです。何が問題だったのでしょう。彼らがあくまでも人間中心にしか考えられなかったということです。宗教的な生活についても、救いについても、彼らは人間中心にしか考えられなかった。明らかに問題はそこにありました。

 先ほど引用した結論部分だけを読んでも分かるように、パウロは、救いについて、一から十まで神の御業として語ったのです。その必然的な帰結は「この方(イエス・キリスト)による罪の赦し」だったのです。しかし、彼らには、「神が何をしてくださったか、そして神が何をしてくださるのか」ということよりも、「人間が何をしているか、自分は何をしているか」ということの方が重要だったのです。

 彼らの目は神の方にではなくて、人間の方にしか向いていなかった。その結果、一方的な恵みの宣言である福音を拒否してしまったのです。それゆえに、一方的な神の恵みである、義も平和も喜びも得られないでいたのです。

それでもなお神の御業は進んでいく
 そのような彼らにパウロは語りました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも、救いをもたらすために。』」(46‐47節)。

 パウロの責任は福音を伝えるところまでであって、それ以上ではありません。太陽が上ったことを知らせても、窓もカーテンも開けずに真っ暗な部屋に人がいるとしたら、それはその人の問題です。神が「永遠の命を得るに値しない者」として人を断罪するのではありません。人は神の一方的な愛と赦しを拒否することによって自らを神の愛から締め出し、永遠の命から締め出すのです。ユダヤ人が拒むなら、パウロは異邦人の方に行くしかありません。

 このようにして、アンティオキアにおける宣教では、神の言葉はむしろ異邦人たちに受け入れられました。彼が「異邦人の方に行く」と言った時、異邦人たちはこれを聞いて喜びました。そして多くの人々が信じ、キリスト者になったのでしょう。

 しかし、このことについても、聖書はパウロの努力や能力のゆえであるとは言いません。「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」(48節)と書かれているのです。これは、異邦人が多数信じたのはパウロの功績ではなく、神の御業だったのだ、ということを言っているのです。パウロが為したことは福音を伝えるところまでであって、それ以上ではないということです。

 最終的にパウロは町から追い出されます。ユダヤ人たちが、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動したからです。ユダヤ人たちはアンティオキアの当局を味方につけ、公的に彼らを追放したということでしょう。人間の方にしか目が向いていなければ、彼らは公的な権力に屈した敗北者としか見えません。この世の力に負けて追い出されていくのです。

 しかし、それは神とその御言葉そのものが敗北したことを意味するのか。――そうではないと聖書は語っているのです。神に目を向けるならば、それでもなお神の御業は進んでいるのです。この世の力はパウロたちを追放できたとしても、福音を追放することはできないからです。

 そこにはパウロたちが追放されたにもかかわらず、「主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)と書かれています。パウロたちが追放されて、誕生したばかりの弟子の群れ、教会は非常に厳しい状況に置かれたことでしょう。しかし、聖書は次のように伝えています。「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」(52)。彼らの目は、人間の酷い仕打ちにではなく、彼らを義としてくださった神に向かって開かれていたからです。

(祈り)

2022年7月10日日曜日

「報われようが、報われまいが」

使徒言行録 13:13‐25

神の御業を語るパウロ 
 本日の第二朗読では、パウロの伝道旅行の様子を伝える箇所が読まれました。第一回目の伝道旅行です。 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに到着し、さらにそこからピシディアの山を越えて一路アンティオキアに向かいます。そこにはユダヤ人居留地があり、安息日には会堂において礼拝が行われていました。パウロとバルナバは安息日に会堂に入って席に着きます。いつものように礼拝は進められ、聖書が朗読されました。そこで会堂長たちが人をよこしてパウロたちに励ましの言葉を語るよう促します。パウロが立ち上がり語り出しました。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」(16節)と。

 聖書が朗読された後に人が立って何かを語る。人々は何が語られることを期待していたのでしょう。皆さんだったら、何が語られることを期待しますか。今日お読みしたのは、そこで語られたパウロの言葉の一部です。一部だけを聞いても分かります。パウロがまず語り出したのは、聖書の言葉に従って生活しなさいということではありませんでした。神の戒めを守りなさいということでもありませんでした。パウロが開口一番語り出したのは、神が何をしてくださったのかということです。主語は「わたしたち」ではなく「神」なのです。

 パウロはエジプト脱出の物語から語り出します。ユダヤ人の先祖はもともとエジプトにおける奴隷たちでした。その奴隷たちを率いてエジプトを脱出させたのはモーセという人物でした。しかしパウロは、偉大なる指導者モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したのだ、とは語りません。「この民イスラエルの神は、…導き出してくださいました」(17節)と言うのです。

 同じように、「神は」およそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍ばれた。「神は」カナンの地を彼らに相続させてくださった。「神は」預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさった。そのようにパウロは語るのです。「裁く者たち」というのは、聖書において「士師」と呼ばれている人々です。特にイスラエルが危機に陥った時に現れてきた救済者たちです。しかし、パウロは「偉大な救済者が立ち上がってイスラエルを救ったのだ」とは言わないのです。事をなさったのは、あくまでも「神」なのです。

 後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、サウルを王として与えました。これも、「人々は王を求め、王国を建設した」とは言いません。そして、「神は」サウルを退けダビデを王の位につけました。そのダビデの子孫から、神は約束に従って救い主イエスを送ってくださいました。

 そのように、パウロは人間が何をすべきかではなくて、神が何をしてくださったかについて語ります。そのように、神の救いの歴史について語るのです。神の救いの歴史を貫いている神の計画について語るのです。

 これは先にも申しましたように、パウロの最初の伝道旅行の途中における出来事です。それは多くの困難が予想される旅であったに違いありません。実際、同行していたヨハネは早くもペルゲにて戦線離脱してしまいました。そのような困難な宣教旅行を、パウロは少なくとも三回行ったことが使徒言行録には記されています。その宣教旅行により小アジアからさらにはヨーロッパに至るまで、各地において教会の基礎が据えられることとなりました。

 このパウロの働きなくして、キリスト教の歴史は語ることができません。そのように、まさに命がけで、自分自身を捧げ尽くして、神に仕えていたパウロであり、実際に大きな成果を残すことになるパウロです。しかし、そのパウロが開口一番に語ったのは「わたしたちは」ではありませんでした。そうではなく「神は」なのです。神がしてくださったこと、してくださっていることを語るのです。

 逆に言えば、そのようなパウロであるからこそ、困難な宣教旅行を続けることができたとも言えるのです。「わたしは」「わたしたちは」ということしか言えなければ、人間のしていることしか考えられなければ、思い上がったり落ち込んだり、そんなことを繰り返して本当に為すべきこともできなくなるのです。神のなさっていることが先にあり、神の御業の中に自分がいるということを知るからこそ、安心して人の為し得るところを行うことができるのです。

思い上がらず、落ち込まず
 実際、このアンティオキアの宣教を見ると、そのことが良く分かります。一方において、パウロの宣教は豊かな実を結ぶことになります。パウロの話を聞いた人たちは、次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼みました。そして、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」(44節)と書かれています。その意味合いは、ユダヤ人ではない人たち、今まで会堂に足を踏み入れたことのないような人たちまでが大勢集まって来たということです。その結果、異邦人たちがイエス・キリストを信じるに至りました。その意味において、パウロの働きは実りを見たと言えます。

 しかし、もう一方において、ユダヤ人たちは口汚くののしって、パウロの話すことに反対しました。そして、町の有力者たちを扇動してパウロを迫害させたのです。パウロたちはその地方から追い出されることとなりました。

 そのように、アンティオキアの宣教には喜びがあり、そして悲しみがありました。そこには実り豊かな働きがあり、徒労に終わった働きがありました。しかし、そこでパウロは思い上がるでもなく、落ち込むでもなく、その両方を受け止めて前に進んでいくのです。なぜなら人間の働きが全てではないと知っているからです。「わたしたちは」ではなく、「神は」なのです。

 人間の働きの前に、神がしておられることがある。まず神の救いのご計画が先にあるのです。その中でパウロは働いているのです。だから安心して、為し得ることを行うために先に進むのです。彼は次なる宣教地、イコニオンへと向かって旅立つのです。

その方はわたしの後から来られる
 そして、パウロと同じように、神の救いのご計画に目を向けていたもう一人の名前が今日の聖書箇所には出てきます。洗礼者ヨハネです。パウロは次のように語っていました。「ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない』」(24‐25節)。

 洗礼者ヨハネは、まさに一世を風靡した預言者でした。「イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とパウロは言います。マルコによる福音書には、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:5)と書かれています。その意味において、ヨハネがたった一人で始めた働きは豊かな実を結んだと言うことができます。

 しかし、先のパウロの言葉には「その生涯を終えようとするとき」とありました。その生涯を終えようとするとき――どのように?まさに今日の福音書朗読において、ヨハネの生涯の最後の日がどのようなものであったかが読み上げられました。「そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した」(マルコ6:24‐25)。そのように、ヨハネは獄中で首をはねられて死んだのです。しかも、余興の口約束のために首をはねられたのです。

 それがパウロの言うヨハネの生涯の終わりです。パウロも当然、ヨハネがどのように死んだかは知っているはずです。しかし、その生涯の終わりにおいて、ヨハネはこう言っていたというのです。「その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない」。実際には前々からヨハネはそのことを口にしていたのでしょう。しかし、パウロはあえて「その生涯を終えようとするとき」と語ります。なぜなら、その言葉はまさに人生の最後に至るまで、彼にとって何が大事であったかを示しているからです。

 「その方はわたしの後から来られる」。イエス・キリストがわたしの後から来られる。神の救いのご計画によって、イエス・キリストが来られる。そのことだけがヨハネにとっては重要だったのです。神がしてくださったことがある。そして神がなさっていることがある。その中で、自分の働きが報われたか、どれほど実りある働きをすることができたかはどうでも良いことだったのです。神がなさっていることに比べたら、自分のしていることなど取るに足りない。神が遣わされた御方の「足の履物をお脱がせする値打ちもない」と言うのです。

 そのようなヨハネによって、自分がどのように生涯を終えるかということさえも、大して重要なことではありませんでした。だからヨハネはただ為すべきことを行ったし、行い得たのです。安心して悔い改めを宣べ伝え、洗礼を授け、ヘロデ王をいさめもしたのです。

 今、私たちもまた、神の大きな救いのご計画の中にいることに思いを向けたいと思うのです。神の御業が先にあるのです。その中において、私たちは私たちの為すべきことを行うのです。私たちはまずここにおいて大いなる神の御業をほめたたえ、そして、安心して一週間の生活へと歩み出しましょう。
(祈り)

2022年1月16日日曜日

「神によって備えられた出会い」

使徒言行録 9:1‐20

 使徒パウロ。彼を抜きにしてキリスト教会の歴史を語ることはできません。しかし、パウロはもともと教会の迫害者でした。神はよりによって教会の迫害者をお選びになりました。それまで迫害されてきた教会に、神は迫害者を加えられたのです。暴力を振るわれ仲間を殺されてきた人々の中に、暴力を振るい殺してきた人物を加えられました。そして、苦しめてきた人物と苦しめられてきた人々が、一緒に主を礼拝し、一緒に福音を宣べ伝えるようにされたのです。そんなあり得ないようなことが、この世界において、事実として起こりました。

 神を信じて生きるということは、あらゆる可能性に開かれた人生を生きることです。神は私たちの思いを超えたことを、私たちが絶対に思いつかないような仕方で実現されます。時として最悪としか思えない出来事を通して、神は最善のものを手渡されるのです。その極みはキリストの十字架に他なりません。人間が神の子を十字架にかけるという最悪の出来事を通して、神は罪の贖いを実現し、この世界に救いを与えられました。そのような神の救いにあずかって、そのような神を信じて生きるようにと、私たちは招かれて、今ここにいるのです。

迫害者サウロ
 今日は使徒言行録9章をお読みしましたが、パウロ、またの名をサウロという人物が初めて登場してきますのは7章においてステファノが殺害される場面です。「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」(7:57‐58)。

 7章の記述を読む限り、ステファノの処刑は明らかに合法的な処刑ではありません。非合法なリンチです。しかし、そこに「証人たち」と書かれていることは注目に値します。律法に定められている通り、まず証人が最初の石を投げたのです。少なくとも形においては、ステファノの殺害を、合法的な処刑の形式で行ったということです。そこには彼らの正義の主張があります。それはあくまでも彼らの正義に基づいての処刑だったのです。

 ステファノが石で打たれて血みどろになって死んでいくのを冷静に見守り、これに賛意を表明していたのが、このサウロという人でした。「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(8:1)と書かれています。なんと残酷なことか、と私たちは思います。しかし、このサウロという人も石を投げつけていた他の人々も、いわゆる悪人やならず者ではありません。恐らくそこにいたほとんどの人は律法を守り秩序を大切にする正しい人々なのです。

 ある意味では、本当に残酷なことは、正義の名のもとにしか為され得ないと言うことができます。人間は自分が悪いと知りながら積極的に残酷にはなれないからです。人と人との間でも、国家と国家の間にも言えることです。いじめにせよ、殺人にせよ、戦争にせよ、テロにせよ、そこにはそれなりの正義の理論があるのでしょう。正義の理論がある時に、人は自らの残忍さに気付かないまま、残酷なことをするのです。本当の罪深さは、罪深いと思わないで罪深いことをしているところにあるのです。

 ステファノの殺害に賛成していたサウロは、徹底的に教会を迫害し始めました。「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」(8:3)と書かれています。そして、ついに彼は迫害の手をシリアのダマスコにまで伸ばします。今日お読みした箇所には次のように書かれていました。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(1‐2節)。

 迫害するのも楽ではありません。そこには相当な労力が要求されます。しかし、サウロは労をいとわずダマスコにまで向かおうとしていたのです。正しいことをしていると信じていたからです。正義のための行動には喜びが伴います。それがたとえどんなに残酷な行為であっても、正義のための行動には喜びが伴います。そこで人は自分の存在意義を見出します。生きている実感を手にします。ですから、人はそこで労苦を惜しみません。

 しかし、神はサウロが正義の闘士としてダマスコに到着することをお許しになりませんでした。キリストが彼の行く手を阻んだのです。キリストがサウロを打ち倒されたのです。次のように書かれています。「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた」(3‐7節)。

 サウロは地に打ち倒されました。そして、サウロが再び立ち上がった時、彼の目は見えなくなっておりました。彼は人々に手を引かれてダマスコに向かうことになりました。自分がしっかりと正義の側に立っていると信じて疑わなかったサウロが打倒されました。自分には正しいことが見えていると信じていたサウロの目が見えなくなりました。自分が正しく立っていると思っていたこと、正しいことが見えていると思ってきたこと自体が間違いであったことを神によって思い知らされる、実に象徴的な出来事でした。

 しかし、打ち倒されて見えなくされて、暗闇の中に置かれて、それで終わりではありませんでした。彼はそこで声を聞いたのです。「サウル、サウル」と彼の名を呼ぶ声を聞いたのです。キリストが呼んでくださっていた。それはサウロが迫害してきたキリストでした。しかし、それはまたサウロのためにも十字架にかかられたキリストでした。サウロが耳にしたのは、彼の罪を赦し、もう一度立ち上がらせ、彼に未来を与えようとしておられるキリストの声だったのです。

 そのようにキリストは思いもよらない仕方で、サウロの人生に入ってこられました。そして、人間の思いを遙かに超えた赦しと救いを与えられたのです。しかし考えてみれば、そのように人間の思いを超えた仕方で神が行動されたと言うならば、形は違えども、私たちに対しても同じなのではありませんか。だから私たちは今ここにいるのでしょう。

主によって備えられた出会い
 しかし、神が人の思いを超えた仕方で行動される時、神は全てを御自分でなさろうとは思われないようです。その中に人間を取り込んでいかれる。神は人の思いを超えた仕方で、人間を用いられるのです。

 主はダマスコにいるアナニアという弟子にも、幻の中に現れました。そして主は、驚くべきことを彼に命じられました。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」(11‐12節)。

 思いも寄らぬ仕方で二人の人間が出会います。そのようなことを私たちも経験いたします。そのように主によって備えられ、与えられる出会いは、必ずしも望ましく思えるものばかりではありません。「なんでこんな人と一緒にいなくてはならないのか」。「なんでこんな人と関わらなくてはならないのか」。そう思わずにはいられないこともあるのでしょう。アナニアにとってサウロは決して「出会いたかった人」ではありませんでした。関わりたかった人ではなかったのです。

 アナニアには、サウロを拒否すべき、ありとあらゆる理由がありました。ダマスコには、エルサレムから逃れてきた多くの人々がいるのです。アナニアの周辺には、この憎きサウロによって仲間を殺され、平和な生活を奪われた、数多くの人々がいたことでしょう。アナニアはそのような人たちの話をたくさん聞かされてきたに違いない。そして今や、アナニア自身にも迫害の手が伸ばされようとしているのです。そのような男の元へなど、行きたいはずがありません。

 当然のことながら、アナニアは抵抗いたします。このサウロがいかなる人物であるかを主に説明して、主の導きに対して不平を申し述べるのです。しかし、主は、「行け」と言われます。その理由は単純でした。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(15節)。「わたしが選んだのだ。」――それ以上の理由は与えられませんでした。そして、主は「行け」と言われるのです。

 アナニアは主の御言葉であるゆえに従います。サウロのもとに赴きます。そして、彼の上に手を置いてこう言いました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」(17節)。

 「兄弟サウル」――かつての迫害者サウロを、アナニアはそう呼びました。アナニアが特別に寛容な人だったからではありません。彼はただ、出会わせてくださった神の選びと御計画を受け入れたのです。主がサウロを、アナニアのまことの「兄弟」とされたのです。その事実を、アナニアは主の御前で受け止めたのです。

 言い換えるならば、アナニアは、神の御計画が人間の想像を超えていることを受け入れたということです。今はよく分からないけれども、確かに神は私たちが想像もしない仕方で良きことをなさっている。そう信じて、主に信頼して従ったのです。信仰によって、アナニアはサウロに呼びかけました、「兄弟サウルよ」と。

 サウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになりました。サウロは身を起こして洗礼を受け、主の教会に加えられました。しかし、ある意味では目からうろこが落ちたのは、アナニアも同じであろうと思います。かくして、迫害してきた者が迫害されてきた者たちと共に、主を礼拝し、主に仕え、主を宣べ伝えることとなりました。そのように、人間の思いを超えた神の御業が一方にあり、神の御業を受け入れる人間の信仰がもう一方にある。それが一つとなって、神の御業が目に見える形で実現していくのです。私たちもまた、信じて、期待して、私たち自身を捧げ、従ってまいりましょう。
 (祈り)
 憐れみ深い主よ、
 天地の造り主であるあなたを、いつも私たちのちっぽけな頭の中に閉じこめようとしている不遜な私たちを赦してください。私たちの思い測ることから少しでも外れたことが起こると、つぶやいたり、腹を立てたり、うろたえたりしている私たちです。主よ、憐れんでください。私たちの思いや私たちの心よりも大きなあなたが、計り知れないほどに大きな御業によって、私たちの罪を赦し、新しく生かしてくださったことを思い起こし、そのようなあなたに信頼して、ここから歩み出すことができますように。感謝と喜びと期待とをもって、この週を歩み出すことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2021年11月24日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:9~14

コロサイの信徒への手紙 1:9-14

 今日の箇所にはパウロの祈りが記されております。これは今日の私たちにも大きな意味を持っています。信仰者として何を切に求めるべきかを教えてくれるからです。しかし、今日は祈りの内容に入ります前に、先に13節14節をお読みしたいと思います。というのも、ここにパウロの祈りの根拠が明らかにされているからです。この部分は当時の教会における信仰告白の一部であると言われています。パウロはコロサイの人たちに、主から教会に与えられている正統的な信仰を思い起こさせているのです。その信仰こそが、パウロの祈りの根拠であり、またこの後に展開していく手紙の内容の根拠となっているのです。

 ここには父なる神が私たちに与えてくださった救いが、実に簡潔に表現されています。救いが必要なのは救われなくてはならない状態にあるからです。それをこの信仰告白では「闇の力から」と表現しています。つまり人間は闇の力のもとにあるのだ、ということです。ここに書かれていることに一番近いのは、恐らく使徒言行録26章16節以下でパウロが証ししているキリストの言葉でしょう。

 「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。…それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」(使徒26・16‐18)。

 ここで、「闇から光へ」という言葉が「サタンの支配から神に」と言い換えられています。このように、闇の力とは神に敵対する力であり、サタンの支配に他なりません。私たちがそのような闇の力から救われるためには、より大きな権威のもとに移されなくてはならないのです。そして、そのように父なる神はしてくださったと言うのです。父なる神の愛する御子、すなわち復活されたキリストの御支配のもとにおいてくださったのです。復活のキリストこそ「天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)と言われる御方です。その御方の支配下に移されたのです。

 確かに、悪魔は今も猛威を振るっています。私たちの生活にも影響を及ぼします。しかし、キリストのもとにある限り最終的には勝利が定まっているのです。滅びることはないのです。悪魔は私たちの持ち物を攻撃することができるかもしれません。あるいは私たちの肉体を攻めることができるかもしれません。しかし、私たちを最終的に神の愛から引き離し、滅ぼすことはできないのです(ローマ8:38‐39)。

 神様は、御子による贖いによって、罪の赦しによって、このことをなしてくださいました。ここに救いの根拠があります。14節に書かれている通りです。神はサタンの下にあって罪を犯してきた私たちを裁いて滅ぼしてしまうのではなく、キリストの十字架のゆえに罪を赦してくださり、キリストの支配のもとに移し、キリストの下で新たに生きる者としてくださったのです。

 そのような恵みに与った私たちは何を切に求めるべきなのか。それを示しているのが9節から12節に記されているパウロの祈りです。この祈りの言葉において多くの事が祈られているように見えますが、実は、中心となる動詞は一つしかありません。それは「神の御心を十分に悟り」と訳されている言葉です。これこそが第一に求められているのです。

 コロサイの人たちも私たちも、もともと神の御心に無頓着な生活をしていたのです。造られたものが造り主の目的とは外れたところで、自分の欲するままに生きていたのです。それこそがまさに闇の力のもとにあることの現われでした。私たちを造られ、私たちを愛しておられる御方の御心を知らないことは不幸なことです。しかし、神はそのような私たちをキリストの支配のもとに移してくださいました。そうして神との交わりの中に生きる者とされたのです。ならば、私たちがまず求めるべきことは、神の御心を知ることです。

 神の御心が知られるのは、「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって」であると書かれています。人間の知性や理性の働きによるのではないのです。あくまでも聖霊の働きによるのです。ですから、そのためにはどうしたらよいのでしょうか。パウロがしているように祈り求めなくてはならないのです。

 では御心を知るのは何のためでしょうか。10節に書いてありますように、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩むためです。「歩む」という言葉は生活を意味します。つまり、特殊な宗教的な場においてではなくて、日常の生活においてということです。そこで主に喜ばれることを求め、主に従って生活するのです。「主に従って」とは、直訳すると「主にふさわしく」という言葉です。主に喜ばれるように主にふさわしく生活するということです。それでは「主にふさわしく生活する」とはどういうことでしょうか。ここに3つのことが挙げられています。

 第一に、「あらゆる善い業を行なって実を結び、神をますます深く知る」ということです。善い業とは神の御心にかなった業のことです。大切なことは、御心を行なって神の御業としての実が結ばれるのを見せていただき、ますます神様深く知るようになることです。善い行いとして、外側の行為としては同じであっても、それによって自分に栄光を帰し、神にではなく自分に思いが向けられていくならば、「主にふさわしく生活する」ことにはならないのです。

 そして、第二に、「神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように」ということです。ここでパウロは平穏無事な生活を求めてはおりません。なぜならキリスト者の生活は、キリストの支配の内に置かれたと言っても、やはり戦いだからです。人との戦いではありません。なお私たちに影響を与えようとする闇の力との戦いです。そのためには力が必要なのです。耐え忍ぶ力が必要です。「耐える」と訳されている言葉は艱難に対して持ちこたえることを意味します。「忍ぶ」と訳されている言葉は人の悪意や迫害に対して愛をもって受け止めることを意味します。そのためには力が必要です。主によって強められ、戦いの中にあっても安きに逃げずに、耐えかつ忍ぶことこそ、主にふさわしい生活なのです。

 そして最後は、「御父に感謝するように」ということです。父は闇の力から救い出し、キリストの支配に移してくださいました。それは、最終的には私たちが滅びることなく永遠の御国を嗣ぐためです。御父はすでにそのようにしてくださったのです。ならば、私たちがどんな時にも、どんな状態にあっても、その御父に感謝し、誉め讃えて生きることは当然のことです。救いの感謝を忘れぬこと、これこそ主にふさわしい生活です。

 パウロは以上のようなことをコロサイの信徒たちのために絶えず神様に願い求めていました。神の御心を知り、主に喜ばれるように主にふさわしく生きられるようにと、求め続けたのです。この祈りが書き記されているのは、私たちもまた同じことを求めるようになるためです。


2021年8月8日日曜日

「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」

使徒言行録20:17-38

 パウロはエルサレムへと向かっていました。途中、彼らを乗せた船がミレトスに到着しますと、パウロはエフェソに人をやって教会の長老たちを呼び寄せました。ミレトスからエフェソまで片道50キロ以上はあります。決して近くはありません。しかし、船出する前にどうしても彼らと会って話がしたかった。なぜでしょう。パウロはもう二度と生きて彼らに会うことはないことを知っていたからです。

 「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(22‐23節)。またパウロはこうも言っています。「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」(25節)。だから、どうしても会って話をしたかったのです。

 船が出るまでのわずかな時間、もうこの世では二度と会うことはないであろう人々に、私たちでしたら何を話すでしょう。話したいと思うでしょう。余計なことは一切省いて、本当に伝えたいこと、知って欲しいこと、心に刻んでおいて欲しいことだけを話すに違いありません。今日お読みしたところに綴られているのは、そのようなパウロの言葉なのです。そして、それが聖書に書かれて伝えられているということは、後の時代の教会もまた、どうしても聞いておかなくてはならない言葉だからす。

悔い改めと信仰
 ではパウロは何を語ろうとしたのでしょう。彼はこう語り始めます。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました」(18‐20節)。

 パウロは涙を流しながら主に仕えてきた。また苦難をも耐え忍びつつ主に仕えてきたのです。どのようにして。彼らに伝えるべきことを伝え、教えるべきことを教えることによってです。「役に立つことは一つ残らず」伝えてきたし教えてきたとパウロは言うのです。

 「役に立つこと」。パウロはどんな「役に立つこと」を話してきたのでしょう。確かに人生をより良いものとするために「役に立つこと」はいくらでもあるでしょう。様々な悩みや実際に直面している問題を解決するために「役に立つこと」はいくらでもあるのでしょう。しかし、「役に立つこと」と言っているのは苦難を覚悟でエルサレムへと向かおうとしているパウロです。「この命すら決して惜しいとは思いません」(24節)と断言する人なのです。その彼が「役に立つこと」と言うならば、それは人間の生と死を越えて決定的に重要となることを意味するのでしょう。人間はいつか必ず己の人生が神の御前において総括される時を迎えなくてはならないのです。そのような人間にとって真に重要になることを意味するのでしょう。

 そのような意味での「役に立つこと」は多くはありません。ですからパウロはこう続けます。「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」(21節)。究極的にはこれだけです。これをどうしても思い起こして欲しかったのです。これは救いに関わることだからです。

 「神に対する悔い改め」と彼は言いました。「悔い改め」とは単に「悔いる」ことではありません。過去の自分の行いについて後悔する人はいくらでもいますが、後悔をいくら繰り返しても救いにはなりません。「悔い改め」とは神に立ち帰ることです。ですから「神に対する悔い改め」と語られているのです。重要なのは神との関係なのです。

 そこで「神に対する悔い改め」と共に、どうしても必要となるのが「主イエスに対する信仰」なのです。ここで「主イエス」と言われている時、それが意味するのは、私たちの罪のために十字架にかけられ、三日目に復活されたキリストです。十字架において私たちの罪の贖いを成し遂げて、復活して今も生きておられて、私たちを救ってくださる御方です。

 このキリストによる罪の赦しと救いがなければ、私たちは神に立ち帰ることはできないでしょう。あのアダムとエバのように神の顔を避けて隠れるしかない。私たちは主イエスを信じるからこそ、神に立ち帰ることができるのです。主イエスによって成し遂げられた罪の贖いを信じるからこそ、確かな罪の赦しが主のもとにあることを信じるからこそ、平安と喜びをもって神に立ち帰ることができるのです。「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」は切り離すことができない一つのことなのです。

 そのことをパウロはエフェソの教会に余すことなく伝えました。語られるべきことは語られた。聞かれるべきことは聞かれた。伝えられるべきことは伝えられた。ですからパウロは言うのです。「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」(26節)。

 パウロは去っていきます。もう二度と会うことはありません。長老たちはここでパウロと話をしていますが、エフェソの教会の人たちは、もう二度とパウロに会うことはないでしょう。しかし、それでも良いのです。大事なのは伝えた「人」ではなく、伝えられた「福音」だからです。彼らの永遠の救いに関わっているのはパウロという人物なのではなく、伝えられた「神の恵みの福音」なのです。永遠の救いに関わっているのは、彼らとパウロとの関係なのではなくて、彼らと神との関係なのであり、彼ら自身が信仰に留まるということなのです。

神とその恵みの言葉とにゆだねます
 そこでパウロはエフェソの長老たちに教会の信仰に関わる事柄を託すのです。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(28節)。

 エフェソの人々に最初に福音を伝えたのはパウロでした。エフェソの教会はパウロの伝道によってできた教会であると言うこともできます。しかし、それはパウロの教会ではありません。それは「御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」なのです。パウロは長老たちに、まず「自分」と「群れ全体」に気を配ることを求めます。神は彼らを「神の教会の世話」をさせるために任命されたのだと語るのです。「気を配る」「世話をする」という言葉でパウロが思い描いているのは羊飼いです。

 羊飼いが必要なのはなぜか。狼がいるからです。次のように語られているとおりです。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」(29‐30節)。実際にこの使徒言行録が書かれた頃には、このパウロの言葉はそのまま実現していたのです。小アジアの教会には異端の教えが嵐のように吹き荒れていたのです。

 そのように、「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」とは相容れない教えが、教会の中に、信仰者の生活の中に入り込んでくるのです。狼が入り込んでくる。狼が狼らしい姿で来るならばわかりやすいのです。しかし、時に狼には見えない姿で入り込んでくるのです。そのような狼によって信仰生活が荒らされ、教会が荒らされるということが起こってきます。長老たちはそのような教えから守るために任命されているのです。いや、その長老たちの中からも邪説を唱える者たちが出てくるかもしれません。だからパウロは「あなたがた自身」に気を配りなさいと言うのです。

 今、パウロは彼らに言います。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)。この世にいる間にどうしてもエフェソの長老たちに会って話をしたかった理由が、ここにはっきりと現れています。思い起こさせ、確認したかったのです。いったい何を伝えられたのか。何が真に人を生かすのか。何が永遠の救いに関わるのか。何を信じているのか。どこに留まらなくてはならないのか。そのことについて目を覚ましていて欲しかったのです。今、パウロの目の前にいるのは教会の代表です。しかし、パウロにはそこにエフェソの教会が見えていたに違いありません。その教会全体に、目を覚ましていて欲しかったのでしょう。

 そして、今、パウロは去っていきます。もう二度と彼らに会うこともないでしょう。しかし、それでもよいのです。パウロが伝えた神の恵みの言葉、彼らが聞いた神の恵みの言葉は、彼らを信仰者として建て上げ、造り上げ、完成し、永遠なる神の恵みを共に受け継ぐ者とすることができるからです。

 パウロは言います。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(32節)。そうです。共に受け継ぐのです。パウロは永遠なる神の恵みを共に受け継ぐ神の国を思いながら、これを語っているのです。ならばこの地上において別れがあったとしても永遠の別れではありません。永遠の神の恵みが互いを結びつけているからです。

 もちろん、この地上における別れは悲しい。今日の聖書箇所において最後に見るのは激しく嘆き悲しむ彼らの姿です。しかし、嘆き悲しみながらも、彼らは一緒にひざまずいて祈っているのです。彼らは永遠なる神に共に向かい、共に祈っているのです。そこには何によっても引き離されることのない永遠の命の交わりがあるのです。これこそが、この世の言葉ではない神の恵みの言葉を共有する「神の教会」に与えられている、永遠の命の輝きなのです。

(祈り)

2021年8月1日日曜日

「神が与えてくださる慰めと平和」

使徒言行録 9:26-31

何のためにエルサレムに
 今日の第2朗読は、「サウロはエルサレムに着き」という言葉から始まっていました。この直前にはサウロが命からがらダマスコを脱出した様子が描かれています。ユダヤ人たちがサウロを殺そうと陰謀を巡らしていたからです。彼らは昼も夜も町の門で見張っていました。町の外に出たところを襲撃するつもりだったのでしょう。そのたくらみを知ったサウロは夜の間に城壁づたいにつり降ろしてもらい、まさに九死に一生を得てダマスコから脱出したのです。そのサウロが向かったのはエルサレムでした。「サウロはエルサレムに着き」とはそういうことです。

 ある意味では不可思議な行動です。エルサレムは、サウロの命を狙ったユダヤ人たちのいわば本拠地です。そこに帰るならば、さらに大きな危険に身をさらすことになるでしょう。サウロはエルサレムにおいて迫害を受けていたキリスト者たちの姿を決して忘れることはなかったはずです。殊に自分の目の前で石に打たれて血みどろになって死んでいったステファノの姿は生涯脳裏に焼き付いて離れなかったに違いない。そして、エルサレムに帰れば、サウロ自身が彼らと同じ立場に置かれることになるのです。もし身の安全を確保するためのダマスコ脱出であったなら、エルサレム行きという選択肢は本来あり得ません。むしろ少しでも安全を確保できる、故郷のタルソスに向かうべきだったと言うことができます。

 いったいなぜ、サウロは危険を承知の上で、エルサレムへと向かったのでしょうか。一つの大きな目的は、イエスがキリストであることを、同胞であるユダヤ人たちに宣べ伝えることにありました。実際、今日の箇所でもユダヤ人に宣教するサウロの姿が描かれていました。ダマスコにおいては、イエスのことを宣べ伝えたゆえに、ユダヤ人たちから憎まれて命まで狙われることになりました。しかし、憎まれること自体は伝道をやめる理由にはならなかったのです。彼はエルサレムにおいて憎まれようが、たとえ命が危険にさらされようが、エルサレムにいる同胞にイエス・キリストを宣べ伝えたかったのです。

弟子の仲間に加わるため
 それは確かにサウロがエルサレムに戻った大きな目的だったと言えます。しかし、今日の聖書箇所はもう一つの目的に私たちの目を向けさせます。こう書かれているのです。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」(26節)。なぜまっすぐにタルソスに逃れなかったのか。なぜエルサレムなのか。そこには彼がどうしても会わなくてはならない人々がいたからです。それはかつてサウロ自身が迫害したエルサレムのキリスト者たちです。彼らとどうしても会わなくてはならない。迫害者サウロとしてではなく、キリスト者として、彼らと会わなくてはなりません。そして、「弟子の仲間に加わること」――それこそがサウロにとって大きな目的だったのです。

 そのことを考える時、彼がエルサレムに戻ってきたことは改めて驚くべきことだと言わざるを得ません。ダマスコでは、かの地のキリスト者との関係はおおむね良好でした。少し前の19節を見る限り、彼は回心後、ダマスコの弟子たちに、すぐに受け入れられたようです。しかし、ダマスコとエルサレムでは状況が違います。ダマスコの教会はサウロによって荒らされた経験はないのです。ダマスコに到着する前にサウロが回心しましたから。

 しかし、エルサレムのキリスト者たちは違います。サウロがどれほど酷いことをしたかを身近に見てきたし、実際に被害を被ってきたのです。サウロ自身、後にこう言っています。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)。エルサレムに残った信徒の多くは、そのような迫害を耐え忍んで留まった人たちなのでしょう。その中には、自分の家族を投獄された人がいるかも知れません。サウロが都を数年離れていたとしても、彼の暴力的な行為の記憶は決して薄れることはなかったでしょう。

 サウロがエルサレムに向かうということは、そのような人々に再会することを意味したのです。そこでどんなに謝罪したとしても、あるいは自分自身の回心について語ったとしても、容易に受け入れてもらえるとは到底思えなかったに違いありません。実際、彼は信じてもらえなかったのです。受け入れられなかったのです。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」。そんなことは始めから分かっていたのです。分かっていながら彼はエルサレムに来たのです。暖かく迎えられると思って来たのではないのです。そこに自分の居場所があると思って来たのでもないのです。それでもなお「弟子の仲間に加わろうとした」。それはなぜか。それがキリストの御心であると信じていたからです。それがキリストに従うことだったからです。

 それはサウロの回心の物語を思い起こせば分かります。サウロの回心の物語は使徒言行録に三回でてきます。一回はこの9章に、あとの二回はサウロ自身が物語っています。その描写は細かい点において違っています。しかし、一言一句違うことなく伝えられている言葉があるのです。サウロが聞いたキリストの言葉です。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(9:4,22:7,26:14)。この言葉をサウロは生涯忘れることはできなかったに違いありません。それは自分が迫害してきたキリスト者が、教会が、いったい何であるかを明らかに示している言葉でした。キリストは「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われたのです。キリストは教会を御自分と同一視しておられた。キリスト者を痛めつけることはキリストを痛めつけることに他ならなかったのです。教会とキリストとはそのように分かちがたく一つに結ばれていることを彼は知ったのです。

 ならばサウロがキリストを信じるということは、彼もまたその中に身を置くことに他ならないのです。キリストを信じるということは、自分もまた教会と一つになり、キリストと一つになって生きていくことを意味するのです。だから彼はエルサレムへと向かったのです。「弟子の仲間に加わろうとした」のです。キリストに従い、キリストを証しする共同体を一緒に形作っていくために、さらには彼らと苦しみをも共にするために、サウロは「弟子の仲間に加わろうとした」のです。それがキリストを信じるということだからです。

神の備えてくださる慰めがそこに
 そして、弟子の仲間に加わろうとして、案の定、不信と拒絶に遭ったサウロに、そこで何が起こったかを聖書は次のように伝えているのです。「しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した」(27節)。

 サウロがキリストに従って向かったエルサレムには、既に出会うべき人が備えられていたのでした。バルナバと呼ばれるその人の名前の意味は「慰めの子」です。仲間が恐れと敵意の目で見ていた時に、どこまでも自分を信じて行動してくれた人、バルナバ。サウロにとって、まさに彼は苦難の中に備えられていた神の慰めでした。そのひとりの執り成しによって、サウロは使徒たちに会うことができ、教会に受け入れられることになりました。

 いやそれだけではありません。その後、エルサレムにおいてサウロがユダヤ人たちに命を狙われた時、危険を省みずサウロを助けようと努めたのは、かつてサウロによって迫害された教会の人々だったのです。「それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた」(30節)と書かれていました。命を狙われているサウロを連れてカイサリアに下るということは、自らもまた危険に身を晒すことになるのです。しかし、彼らはそのことを覚悟の上で、かつての迫害者サウロを安全にタルソスへ出発させるために、カイサリアまで同行したのでした。その情景を思い浮かべます時に、まことに胸が熱くなる思いがいたします。

 先にも触れましたとおり、サウロの一つの目的はユダヤ人たちにキリストを伝えることでした。しかし、いくら語っても理解されません。エルサレムでもまた命を狙われるようになり、結局は都を後にしなくてはならなくなるのです。同胞を思う時に深い悲しみがこみ上げてきたことでしょう。しかし、そのような深い悲しみの中にあって、もう一方においてサウロは大きな慰めと平和とを経験していたのです。かつて自分が迫害した人々によって赦され、本来なら憎まれて然るべき人たちから愛され、助けられ、仲間とされている自分がそこにいるのです。彼は確かに、神のみが与えることのできる大きな慰めと平和とを目の当たりにしていたのです。

 そして当時の教会の状況が次のようにまとめられています。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(31節)。

 「こうして、教会は」――その言葉の重さを思わずにはいられません。6章にも似た言葉がありました。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」(6:7)。その6章から今日お読みした場面に至るまでに、どのようなことがあったでしょうか。ステファノが石で打たれて惨殺されました。それがきっかけとなって大規模の迫害が起こりました。教会は散らされることとなりました。しかし、そのような敵意と憎しみが激しく渦巻くただ中で、なんと迫害者サウロがキリストの教会に加えられるという出来事が神によって実現し、神の御言葉は伝えられて行くことになったのです。

 サウロはこの後しばらく表舞台から姿を消すことになります。外から見るならば、サウロは敗北者のようにタルソへと逃げ帰っていくことになります。しかし、カイサリアまで命がけで同行してくれている弟子たちと共にあるサウロには分かっていたはずです。すべては神の恵みの支配のもとにある。神の御業は進んでいるのだ、と。そして、どんな時にも慰めと平和を備えてくださる神を信じてサウロは旅立ったに違いありません。
(祈り)

以前の記事