2025年6月29日日曜日

「星のように輝く人に」

2025年6月29日 主日礼拝説教 

聖書:フィリピの信徒への手紙 2:12-18

 今日の聖書朗読は次のような言葉で始まっていました。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)。

自分の救いを達成するように努める
 さて、「自分の救いを達成するように努なさい」と言われています。しかし、それはいかなることを意味しているのでしょうか。私たちが良き行いを積むことによって救いを獲得するということでしょうか。私たちが救われるにふさわしい人間になるということでしょうか。――いいえ、聖書は私たちが自分の行いによって救われるのではないことを繰り返し語っています。例えばパウロはエフェソの教会に宛てて、次のように書いています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8‐9)。

 そのように、救いは神の賜物なのです。恵みによって与えられるプレゼントであり、私たちはただ受け取るだけなのです。そのように神は一方的な恵みによってキリストをこの世にお送りになられ、キリストの十字架によってこの世の罪を贖われ、ただ十字架のゆえに私たちは罪を赦されて、神との交わりに入れられ、神の子どもたちとされたのです。「天にまします我らの父よ」と祈り、こうして共に礼拝していること自体が既に救いの現れなのです。

 その意味において、私たちは既に救われているのです。私たちは「恵みにより、信仰によって《救われました》」とパウロが言っているとおりです。ではなぜ、そのパウロがここにおいては、「自分の救いを達成するように努めなさい」と言っているのでしょうか。

 そこで実際に受け取ったプレゼントを手にしている姿を想像してみてください。それは私たちが獲得したものではありません。感謝して受け取っただけです。しかし、そのように受け取ったプレゼントを奪おうと狙っている敵があちらこちらに潜んでいるとしたらどうでしょう。私たちはそれを奪われないように注意深く歩いていくことでしょう。場合によっては奪われないために敵と戦わなくてはならないかもしれません。

 私たちは一方的な神の恵みによって神との交わりに入れられ、神の子どもたちとして生き始めました。そのような信仰生活を与えられ、教会生活を与えられました。もちろん、そこにおいて私たちが味わっているのは、まだ救いの一部に過ぎません。私たちは救いの完成に向かって歩んでいる途中にあるのです。

 しかし、私たちがそのように歩んでいるこの世界には、私たちを神から引き離そうとする力が働いているのです。せっかくいただいた信仰生活を破壊し、教会生活から引き離す力が、「誘惑」として、厳然として働いているのです。私たちを誘惑する悪魔については、聖書が繰り返し語っているとおりです。それは決しておとぎ話ではありません。私たちがこの世界において経験している事実なのです。

 それゆえに、私たちはただ恵みによって救われて、神との交わりを与えられ、信仰生活を与えられたなら、パウロが言うように、最後まで信仰を全うして、救いを達成するように努めなくてはならないのです。すなわち、最後まで神に従い、神と共に歩み続けることです。それをパウロは「従順」という言葉で表現するのです。信頼して離れることなく、どこまでも従い続けることです。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。

 そのように私たちが信頼して従うのは、他ならぬ神御自身が救いの完成を願っておられるからです。私たちの内に働きかけて救いの望みを与えてくださったのは神御自身です。そして、その神御自身が救いの実現へと導こうとしておられるのです。次のように書かれているとおりです。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神であるからです」(13節)。だからその神に信頼して、離れず従順に従い続けさえすれば、必ず救いの完成に至るのです。そうです。必要なのは従順であることです。

不平や理屈を言わずに行いなさい
 では、具体的には、どうしたらよいのでしょう。そこでパウロは次のような勧めを与えています。「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」(14節)。「理屈を言う」というのは「疑う」とも訳せる言葉です。信頼しないでブツブツ言うことです。

 さて、従順が語られるところで、どうして殊更に「不平を言わずに」という話が出てくるのでしょう。それは実際に、従順が非常に重要になる場面で、不平を言い、理屈をこねて、従おうとしなかった人々が現にいたからなのです。そのような人たちの話が旧約聖書に出てくるのです。

 ご存じのように、イスラエルの民は、かつてエジプトにおける奴隷でした。そのような彼らが、神によってエジプトから解放され、モーセに率いられて、神と共に歩む民となりました。それは神の恵みであり恵み以外の何ものでもありませんでした。神が葦の海を二つに分けてその中を通らせた話は有名ですが、それこそまさに恵みが何であるかを明らかにする出来事でした。

 そのように恵みによって救われた民が、神の恵みに感謝しつつ、安息の地に向かって旅をし始めたのです。昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれての旅でした。それは神が共におられることのしるしでした。主が共におられるゆえ、確実に安息の地へと向かうことのできる旅だったのです。ひたすら神に信頼して、離れずについて行けば良かったのです。

 しかし、聖書はなんと語っているでしょうか。すぐに彼らは不平を言い始めたのです。彼らは、水がない、食べ物がないと言ってつぶやき始めたのです。彼らを救ってくださった御方が真実であることを信じなかったのです。彼らはモーセに言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出16:3)。彼らは救いの恵みを忘れて、彼らの古い生活、エジプトの肉鍋を懐かしんでいるのです。彼らは繰り返しこのように不平を言いました。そしてついには、「エジプトに引き返した方がましだ」(民13:3)とまで言い出したのです。

 同じことが今日の私たちにも起こるかもしれません。ですから聖書は言うのです。「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」。不平を言うというのは、ある意味では小さなことです。他の人に対して極悪非道なことを行っているわけではないでしょう。しかし、その小さなことが、まことに小さなことが、救いの達成の大きな妨げとなるのです。

 エジプトの国で死んだ方がましだった。エジプトからの脱出なんてしなければよかった。そのようにイスラエルの民はつぶやきました。同じように私たちも試練の中を通される時に、後ろを向いて古い生活を懐かしむようなことがあるかもしれません。

 しかし、今もし荒れ野に導かれているとするならば、そこには神の意図があるのです。そこでしか見ることのできない神の恵みがあるのです。そして、そこにはまた、私たちに託されていることがあるのです。為すべき事があるのです。同じことを行うにしても、後ろを向いて不平を言いながら、ブツブツいいながら行うのと、神に信頼し、前に向かって、救いへの導きを信じて行うのとでは、雲泥の差があるのでしょう。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」。繰り返しますが、その小さなことが最終的な救いの達成と深く関わっているのです。

星のように輝いて
 しかし、ここでもう一つのことを考えたいと思うのです。パウロは単に、「何事も、不平や理屈を言わずに、従順でいなさい。そうすれば、あの不従順の民のように途中で滅んでしまうことはないから」と言っているのではありません。「途中で滅びてくれるな」というような、そんな消極的なつまらない意図をもってこの勧めを書いているのではないのです。なんとパウロはこのように続けるのです。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(15‐16節)。

 フィリピの信徒たちのことを考える時に、彼が思い描いていたのは、真っ暗な闇夜においてキラキラと輝いている星のような姿だったのです。確かにこの世界には罪の力が大きく働いています。それゆえに苦難の満ちている世界です。この世界の苦しみを用いて、悪魔は信仰者を神から引き離そうとするでしょう。その意味では、この世界は確かにいまだ救いの朝を迎えてはいない夜の世界です。暗闇としか表現できない世界です。

 しかし、そこにおいて神が見たいと願っているのは、なんとか信仰を保っている信仰者ではないのです。まだ救いの朝が来ていないこの世界において、いやそのようないまだ暗闇が覆っている世界だからこそ、そこに星のように輝く人々が生きていることを、信仰の光を輝かせて生きている人々の姿を、神は見たいと願っておられるのです。星は闇夜の中でこそ輝くのです。私たちがこの世界において、恵みの賜物として、信仰生活が与えられているとはそういうことなのです。

 もちろん、普通に考えるならば、ここに書かれていること自体は、はるか遠くに見える山の頂のような話であるとも言えます。「とがめられるところのない清い者」とか「非のうちどころのない神の子」などという言葉は、いかにも遠い理想に思えるかもしれません。しかし、それをお望みになり、そのように導いておられるのは神御自身なのです。だから私たちとしては、信頼して一歩一歩進んでいけばよいのです。その小さな一歩は何か。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」ということなのです。

 そもそも、不平を言いながら星のように輝くことなどできようはずもありません。救ってくださった方を信じ、与えられている状況の中で事々に感謝をもって受け止めて生きてこそ、確実に一歩一歩を踏み出すことになるのです。私たちは恵みによって救われました。その恵みを無駄にすることなく、救いの達成へと向かって主と共に歩んでまいりましょう。

2025年6月25日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 7:1~17

 サムエル記上 7:1-17

 神の箱はベト・シェメシュからキルヤト・エアリムに移されました。災いが起こった時に、ベト・シェメシュの人々が神の箱を留めることを嫌ったからです。それは、ダビデの時代にそこから運び出されるまで、丘の上のアビナダブの家に留まることになります(サムエル下6章)。本来ならば直接シロの聖所に戻すべきなのでしょう。しかし、そうできなかったのは、シロの聖所が神の箱を失って後、破壊され廃墟となっていたゆえであると思われます。

 主の箱がキルヤト・エアリムに安置されてから二十年を経ました。「二十年を経た」というのは、士師記などに出てくるのと同じ表現で、正確な年数を表しているものではないでしょうが、長い時を経たことを意味しています。そこで「イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた」と書かれています。これはどういうことでしょうか。

 「主を慕い求めていた」というのは、「主を嘆き求めた」とも訳せる言葉です。つまり、これは苦しみの中からの求めであったということです。その具体的な苦しみとは、3節に「ペリシテ人の手から救い出してくださる」とあるように、ペリシテ人の支配であったと思われます。アフェクでの敗戦の後、イスラエルの民はペリシテ人の支配のもとに圧迫されていたということでしょう。

 さて、私たちはサムエル記から読み始めましたが、この書は既に読者が士師記を読んでいることを前提として書かれています。ですので、ぜひ士師記をまだ読んでいない人は読んでおいてください。士師記には繰り返し現れる一つのパターンがあるのです。一つのサイクルと言ってもよいかもしれません。「イスラエルが神に背く」→「背いた民に大して外敵の圧力が加えられる」→「人々が苦難の中から主に叫び求める」→「神が士師を立てて民を救う」→「平和が訪れる」というパターンです。そうして見ますと、ペリシテ人に支配される苦しみの中で民が主を嘆き求めるところに、同じパターンが現れていることが分かります。そうしますと、続くのは救済者としての士師が立てられることでしょう。その士師こそ、ここで改めて登場するサムエルなのです。

 そこでサムエルはイスラエルの全家に語ります。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる」(3節)。この言葉を読みますと、これまでの一連の出来事がすべてここへと向かっていたことが分かります。

 これまでの流れを思い起こしてください。アフェクにおける戦いの時、イスラエルの民は、敗戦色濃くなってきた際に、主が共にいないことが問題なのだと気付きました。その時、彼らは本来ならば異教の神々を取り除き主に立ち帰るべきでありましたが、彼らはそうするのではなく、神の箱を戦場へと持ち出しました。彼らは神の箱を異教の神々と同じように、すなわち偶像のように扱ったのです。そして、結果的に神の箱は勝利をもたらすどころか、むしろペリシテ人に奪われてしまったのです。

 一方、神の箱を奪ったペリシテ人は、これを偶像のように扱い、ダゴンの支配下に置きました。しかし、生ける主は、ペリシテ人の地に災いをもたらしたのです。そのとき、ペリシテの人々は本来ならばダゴンをはじめ諸々の偶像を捨て、主に帰依するべきでありましたが、彼らはむしろ神の箱をたらい回しにし、あげくの果てに、イスラエルへと送り返したのです。彼らは偶像を留め、生ける神を遠ざけたのでした。

 神の箱を送り返されたベト・シェメシュの人々も同じでした。主はベト・シェメシュの人々を打たれました。神の箱の覆いの中を(あるいは箱の中まで)見たゆえでした。本来ならば、その時、ベト・シェメシュの人々は悔い改めて主に立ち帰るべきだったのでしょう。しかし、彼らは神の箱をキルヤト・エアリムへと送ったのでした。

 すべて同じパターンです。人が神を自分の思い通りにし、自分の手の支配下に置こうとしている限り、近づけるにせよ、遠ざけるにせよ、何も解決しないのです。神が人と共におられないとするならば、人が神に立ち帰らなくてはならないのです。偶像を捨てて、心を正しく主に向け、主に立ち帰って、主をのみ礼拝する者とならなくてはならないのです。このことが起こるまで、人はしばしば苦しみのもとに置かれることになるのです。重い主の御手のもとに置かれるのです。主は人が立ち帰ることを求めておられるからです。

 そして、ついにその時が来たのです。彼らはサムエルの言葉に従い、バアルとアシュトレトを取り除き、ついに主に立ち帰り、ただ主にのみ仕える者となりました。サムエルは人々をミツパに集め、悔い改めの祈りの集会を開きます。彼らは共に断食し、「わたしたちは主に罪を犯しました」と告白しました。(その後の「裁きを行った」は、サムエルが士師としてイスラエルを治めたことを表現しています。)

 しかし、そのように彼らが主に立ち帰った時、一つの出来事が起こります。「イスラエルの人々がミツパに集まっていると聞いて、ペリシテの領主たちはイスラエルに攻め上って来た」(7節)のです。それはイスラエルにとって非常に恐ろしいことでした。このように、人が主に立ち帰り、偶像を捨て、罪を捨て、主にのみ仕えて生きようとするとき、それを妨げようとする力が働きます。言い換えるならば、悔い改めと信仰は、試練によってその内実を問われるのです。そこであくまでも主に信頼するのかを試されることになるのです。

 彼らは主に信頼し、あくまでも主を求め、主の助けを求めました。そこには、かつて彼らが寄り頼んだ神の箱はありません。しかし、主は確かに共におられました。彼らが罪を悔い改め、サムエルが執り成し祈ったとき、すなわち神に対する背きの罪が取り除かれた時、彼らは確かに主は共にいてくださったのです。そして、勝利は主の手によって与えられました。「ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた」(10節)と書かれております。イスラエルに残されていたのは、敗走するペリシテ人を追撃することだけでした。

 サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けました。このエベン・エゼルという名に聞き覚えがありませんか。それはかつてペリシテ軍が陣を敷いていた場所です(4:1)。すなわち、あの惨めな敗北を喫した場所だったのです。しかし、その敗北の場所が、主に立ち帰った今、主の助けを証しする場所となったのです。

 さて、13節以下には大変不思議なことが書かれております。「ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた」と書かれているのです。サムエル記にこの先何が書かれているかを知っている人は、現実にはそうなってはいなかったことを知っているでしょう。有名なダビデとゴリアトとの対戦なども、この後に書かれていることです。ペリシテとの戦いは現実には続くのです。

では、なぜこのように書かれているのでしょうか。実は、これもまた士師記に繰り返し出てきた記述のパターンなのです。一人の士師が民を救ったあと、その士師の存命中は平和であった、という記述が繰り返されてきたことを思い起こしてください。(士師8:28など)。つまり、ここであくまでサムエルは士師として書かれているのです。(「裁きを行った」が繰り返されていることにも注意。)士師記のパターンならば、本当は、平和が訪れるはずでした。しかし、そうならなかった。それはなぜなのか。それこそが、この後、読み進むにつれて、考えていかなくてはならないことなのです。実は、そこにはこの後の王国形成の問題があるのです。

2025年6月22日日曜日

「知られざる神は知り得る神」

2025年6月22日 主日礼拝説教 

聖書:使徒言行録 17:22-27

知られざる神に
 今日の第二朗読は、アテネにおいて語られたパウロの説教でした。それはアレオパゴスにおいて語られたものです。「アレオパゴス」とはアテネにある一つの丘の名前です。しかし、この場合は、そこにあった評議所、すなわちアテネ最古の裁判と会議の場所を指しています。パウロはそのような場所に連れて行かれることとなりました。その経緯を簡単にお話ししますと、こういうことです。

 当初、パウロはアテネでの宣教は予定していませんでした。パウロがアテネに滞在したのは、後から来るシラスとテモテと落ち合うためでした。しかし、二人を待っている間に、パウロはその町の至るところに偶像があるのを目にします。その夥しい数は、当時、人の数よりも神々の数の方が多いとさえ言われたほどでした。パウロはそれを見て心を動かされます。彼はアテネにおいてイエスとその復活とを宣べ伝え始めました。安息日にはユダヤ人の会堂において人々と論じ、他の日には広場で居合わせた人々と論じ合うこととなりました。

 パウロと討論をしていたエピクロス派やストア派の哲学者たちの中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣 伝をする者らしい」と言う者もいた、と書かれています。「おしゃべり」と訳されているのは極めて侮蔑的な言葉です。そのような人々が、パウロをアレオパゴスに連れて行ったわけです。

 その際に、彼らはこう言いました。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19‐20節)。丁寧な言葉に訳されていますが、状況的に考えて、純粋に興味関心から話を聞こうというのでないことは明らかです。パウロは好意的に迎えられたわけではありません。恐らくパウロは尋問されるためにアレオパゴスに連れて行かれたのです。新しい宗教や哲学が入ってくるのを監督するのは、アレオパゴスの議員の権限であり責任でもあったからです。

 そのようなアレオパゴスの真ん中に立つこととなったパウロは口を開き語り出しました。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(22‐23節)。

 先にも触れましたように、アテネの町には夥しい数の偶像がありました。それは一面において、アテネの人たちの信心深さを表していると言えるでしょう。彼らは極めて宗教的な人々でした。パウロはそのことに敬意を払いつつ語り始めます。しかし、すぐに問題の核心に迫ることになります。「知られざる神に」と刻まれている祭壇を見たことに触れ、彼らの信心深さの中に存在する問題を取り上げることになるのです。

 そもそも、なぜ「知られざる神に」と刻まれているような奇妙な祭壇が存在するのでしょう。どうして、そのような祭壇が存在し得るのか。人々にとって、そこで拝まれているのが誰であるかは、さして重要なことではないからです。礼拝において祈っている相手がだれであるかは、大して重要なことではないからです。

 「知られざる神に」という祭壇が造られた背景には、一説によれば紀元前六世紀に流行した疫病があるとも言われます。確かにそれは考えられることです。人間が神々を祭るとき、当然のことながら、そこには神々にして欲しいことがあるわけです。免れさせて欲しい災いがある。また、その一方において、叶えて欲しい願望がある。そういうものでしょう。そこにあるのは願望と恐れです。

 人間の願望が多岐にわたるなら、その願望を満たしてくれる神々の数も増えていきます。一つの災いが起こった。その災いが二度と起こらないように神を祀るとするならば、災いの数だけ神々の数も増えていくことになります。そうなりますと、場合によっては、どの神に願って良いか分からないということも起こってまいります。ならばとりあえず「知られざる神に」と刻んで祭壇を造ったらよいということにもなります。

 そのように、欲求の満たしと災いの回避が目的であるならば、それを実現してくれるのが誰であってもよいのです。「知られざる神」でもよいのです。人間の信心深さは、必ずしも神を知ることへの願いと結びついているわけではありません。それが偶像礼拝というものです。

 しかし、それは偶像礼拝の話であるから私たちには無関係だと言えるでしょうか。キリスト教会は偶像礼拝はしていません。神々を拝んでいるわけではありません。唯一の神を礼拝していますと私たちは言います。しかし、そのような私たちもまた、願っていることが叶うか、災いを免れることができるかにしか関心が向いていないとしたらどうでしょう。神を知ることにではなく、教会生活によって「何を得られるか」ということにしか関心が向いていなかったとしたらどうでしょう。

 実際、キリスト者がいつの間にか「知られざる神に」という祭壇に向かって礼拝していることはあり得ることだと思います。キリスト者となって既に長い年月を経ているにもかかわらず、神様がどのような御方であるのか、キリストがどのような御方であるのか、聖書はいったいどのように伝えているのかを知らない。神様がどのような御方であるかには関心がないし、実際知ろうともしていない。そのように、「知られざる神に」ということで良しとしているということは、今日の教会においても起こり得ることだと思います。

わたしはお知らせしましょう
 だからこそ、私たちもまた、ここでパウロが言っていることに耳を傾けなくてはならないのです。パウロはそこでこう言っているのです。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(23節)。

 「お知らせしましょう」。パウロはそう言いました。それはアテネの人たちにとっては余計なお世話であったかもしれません。欲求の満たしと災いの回避については「知られざる神」で事足りているわけですから。「何を得られるか」ということについては、夥しい数の神々でもう十分なのですから。しかし、それでもなおパウロは「お知らせしましょう」と言うのです。ある意味では、そのために危険な宣教旅行を続けてきたとも言えます。命をかけて「お知らせしましょう」を続けてきたのです。

 それはなぜなのか。神が望んでおられるからです。「知られること」を神が望んでおられるからです。神は知られることを望んで、独り子さえもこの世界に送られる神であるからです。そのようなことをすれば罪ある人間によって十字架にかけられてしまうことも承知の上で、あえて自らを啓示するために御子を遣わされた神だからです。パウロはそのことを知るゆえに宣教旅行を続けてきたのです。

 ですからここでも「お知らせしましょう」とパウロは言って、こう続けるのです。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(24‐25節)。

 先に触れましたように、パウロについては「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言われていたのです。そのような人たちが、パウロをアレオパゴスに立たせたのです。同じようにこの国においても、かつて宣教師たちは言われたのでしょう。「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と。

 しかし、そうではないのです。この国の神も外国の神もないのです。神は世界とその中の万物とを造られた神だからです。神は天地の主なのです。だからユダヤ人である彼がアテネのギリシア人にまで、このことを語るのです。命と息と、その他すべてのものを与えられていることについては、ユダヤ人もギリシア人もないからです。

 さらにパウロは続けます。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(26節)。命を吹き入れられた多くの民族は、同じ神によって導かれ、定められた季節と定められた居住地の中に生かされているのです。神はすべての民族にかかわって治めていてくださる。それは何のためなのか。パウロは言います。「人に神を求めさせるためだ」と。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」(27節)。そのようにパウロは語るのです。

 そのように神は知られることを望んでおられる神なのです。見いだされることを望んでおられる神なのです。人間が知らなくても、求めていなくても、神は命と息と、その他すべてのものを与えてくださっているのでしょう。私たちが生きていられるのは、すべて神から与えられるものによってなのです。

 なので、私たち人間は「いただくものさえいただければ、それで十分だ」と言うかもしれません。「知られざる神」でも良いのです、と。しかし、神にとっては良くないのです。それはなぜでしょうか。神は私たちを愛しておられるからです。だから、神は神の持っている何かではなく、神御自身を与えようとしておられるのです。

 「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。――私たちの目の前に十字架がかかげられているように、その神は、キリストにおいてご自身を現してくださった御方です。さて、その御前において、私たちは何を求めているのでしょう。あるいは、ここに集まることができない主日に、それぞれの場において私たちは何を求めているのでしょう。

 私たちには、それぞれ様々な願いがあり、求めがあることでしょう。しかし、神がまず与えようとしているのは神様御自身なのです。私たちが神を知るようになることであり、神との交わりに生きることなのです。私たちの様々な求めを横に置いて、まず神様御自身を求めましょう。神御自身を知ることを求めましょう。そのような信仰生活を求めましょう。神は与えてくださいます。それは神様の求めていることでもあるからです。

2025年6月18日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 6:1~21

サムエル記上 6:1‐21

 アフェクにおける戦いに勝利したペリシテ人は、イスラエルから神の箱を奪い、それをアシュドドに運び、ダゴンの神殿に安置しました。いわばイスラエルの神、主を捕虜として連れてきて、ダゴンの支配下に置いたのです。ペリシテ人は、神の箱を運んだり置いたりできたように、主を自分たちの自由にできると思っていたのでした。しかし、主は偶像ではなく生ける神として行動された。それが先週見たところです。

 主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらしました。アシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせたのです。彼らは相談の上、ガトへと箱を移しました。軍事的に力を持っていた都市に送ったのです。しかし、それは単に被害を拡大させるだけでした。さらに彼らは神の箱をエクロンに送ります。

 今日の箇所を読みますと、主の箱は七ヶ月の間ペリシテの地にあったようです。七ヶ月もの間、ペリシテ人は神の箱と苦闘していたのです。いや、生ける神である主と戦っていたのです。この間、既に出てきましたアシュドド、ガト、エクロンだけでなく、ガザとアシュケロンにまで箱を送ったようです。なんとか主を支配しようとした。しかし、人の手によって支配される御方ではありません。行くところ行くところ災いが及んだようです(17節)。

 そして、ついに彼らは観念し、神の箱をイスラエルに送り返すことにしたのでした。ペリシテ人は自分たちの祭司と占い師に、どのように送り返すべきかを尋ねます。祭司たちは、賠償の献げ物と共に送り返すことを指示しました。その献げ物とは、金で造った腫れ物とねずみの模型です。それをもって、イスラエルの神に栄光を帰さなくてはならないと、祭司らは告げたのです。そんな子供じみたことを大真面目にやろうとしている姿が、この章にはなんともユーモラスに描かれています。

 さて、彼らが至った結論。まことに笑い話のような話ですが、私たちは彼らの行為をまずは肯定的に見ることができるでしょう。ペリシテ人がそのように神の箱を偶像のごとくに扱おうとも、主は自ら生ける神として振る舞われたことは既に見たとおりですが、主はペリシテ人の支配下にも、ダゴンの支配下にもないことが明らかになった時、ともかくペリシテ人たちは自分たちが間違っていたことを悟ったのです。イスラエルの主を正しく処遇せず、主に栄光を帰すことをしなかった。そのことに思い至ったのです。言い換えるならば、この災いの根本的な原因は自分自身にあることを認めたのです。それは正しいことでした。

 祭司たちの言葉に注目してください。「なぜ、あなたたちは、エジプト人とファラオがその心を固くしたように、心を固くするのか」と彼らは言うのです。イスラエルのエジプト脱出の出来事については、以前にもペリシテ人が口にしているのを見てきました。「あの神は荒れ野でさまざまな災いを与えてエジプトを撃った神だ」(4:8)。このようにわざわざ繰り返し出エジプトに関する伝承がペリシテ人の口に上るように書かれているのです。

 それは明らかにこの物語の読者のためです。読者が出エジプトの出来事を思い起こすようになるためです。この歴史物語は出エジプトの出来事を思い起こしながら読まなくてはならないということです。ファラオが心を固くして、結局は滅びていったあの出来事。後の時代の捕囚民も思い起こしながらこれを読まなくてはならない。もちろん、今これを読んでいる私たちも思い起こさなくてはならない。主の御手が重くのしかかっている時に、ファラオのように心を固くしてはならないのです。あの祭司たちが言うとおりです。

 しかし、私たちはペリシテ人たちの行為の問題性を見落としてはなりません。、彼らは祭司たちと占い師たちを呼んで尋ねました。「主の箱をどうしたものでしょう。どのようにしてあれを元の所に送り返したらよいのか、教えてください。」すると祭司たちはこう答えたのです。「イスラエルの神の箱を送り返すにあたっては、何も添えずに送ってはならない。必ず賠償の献げ物と共に返さなければならない。そうすれば、あなたたちはいやされ、神の手があなたたちを離れなかった理由も理解できよう」(3節)。

 彼らが用いた「賠償の献げ物(アーシャーム)」という言葉は、レビ記にもそのまま出てきます(レビ5:15)。以前学びましたように、イスラエルにも「賠償の献げ物」は献げられていたのです。しかし、意味合いは全く異なります。それをもって主に栄光を帰するのは、主を礼拝する者として生きていくためです。罪の赦しをいただいて、栄光の主と共に歩むためなのです。ところがペリシテ人はここで何をしているのか。彼らは主に栄光を帰しながら、結局は主を遠ざけようとしているのです。

 しかも、ペリシテ人たちは、これから見ますように、最後に決定的なしるしを与えられることになるのです。にもかかわらず、結局、彼らは主を遠ざけてしまうのです。それでは7節以下を見ていきましょう。

 祭司たちは次のように提案しました。乳を飲ませている雌牛二頭を車につないで神の箱と賠償の献げ物を引かせ、子牛は引き離して小屋に戻すというものです。当然のことながら、雌牛は引き離された子牛の方に向かうはずでしょう。しかし、そこでもし雌牛が自然に反してベト・シェメシュへ上っていくならば、それはもう特別なしるしとして見る他ない。それは、この一連の災難が単なる偶然ではなく、主の手によることを示すしるしとなることでしょう。

 人々はその通り行いました。すると、「雌牛は、ベト・シェメシュに通じる一筋の広い道をまっすぐに進んで行った」のです。子牛がいないので「歩きながら鳴いた」のですが、「右にも左にもそれなかった」のでした。ペリシテの領主たちはベト・シェメシュの国境まで後をつけて行きます。彼らは、確かにこの箱がそこについたことを見届けました。

 こうして、主が確かに生ける神として働いておられたこと、その御前にダゴンが倒れたことが明らかになったのです。主が自らダゴンを倒し、破壊したのだだということ、そして警告に応じなかったペリシテ人の町々に主が災いを下されたことは明らかなのです。しかし、それにもかかわらず、ペリシテ人は倒された方のダゴンを留め、主を遠ざけたのです。

 人は災いのゆえに、自分のなしたことを悔います。災いを遠ざけるために一生懸命に償うことさえします。ペリシテ人たちのしたことはそのようなことでした。しかし、悔いることと悔い改めることは異なります。悔い改めるとは、生ける神に立ち返ることです。最終的に、主と共にあることです。その意味において、ペリシテ人たちは悔いはしましたが、悔い改めることはありませんでした。それはペリシテ人の問題に留まらず、後のイスラエルの民の問題でもあったのです。それはその後の展開にも現れております。

 主の箱が帰って来るのを見たベト・シェメシュの人々はたいへん喜びました。もちろん彼らはダゴンのそばに神の箱を置くようなことはしませんでした。彼らは大きな石を用いて祭壇とし、そこにおいて主に犠牲をささげました。また、主の箱を運んだのはレビ人であり、このことについても、彼らは律法に基づき正しく事を行いました。しかし、なんと皮肉なことに、そのイスラエルの町において、ペリシテの地で起こったのと同じことが起こるのです。

 主がベト・シェメシュの人々を打たれました。具体的にどのような災いが降ったのかは記されておりません。しかし、ともかくそれは大きな打撃であり、民は喪に服しました。その原因について、聖書は「主の箱の中をのぞいたからである」と記しています。あるいは、これは「主の箱(自体)を見た」という意味かもしれせん。なぜなら、主の箱が運ばれる時、それは箱自体が見えないように、覆い隠されて運ばれることになっていたからです(民数記4:5-6,20)。恐らく、主の箱が戦場に運び出された時も、そのまま裸で運ばれることはなかったでしょうし、返される時にもそのままで返されることはなかったと思われます。しかし、ベト・シェメシュの人々はそれを(あるいは中身まで!)見たのです。

 しかし、本当の問題はその後です。彼らはこう言いました。「この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか。我々のもとから誰のもとへ行っていただこうか」。なんと、彼らはペリシテ人がしたことと、そっくり同じことをしているではありませんか。しかし、主の名をかたりながらも行うことは異教の民と同じであるというこの姿は、私たちの姿でもあるかもしれません。忘れてはなりません、主が望んでおられるのは、単に災いを嘆いたり自分の愚かさを悔いることではないのです。そうではなくて、私たちが立ち返って真に主と共に生きる者となることなのです。


2025年6月15日日曜日

「どんなときにも神を賛美して生きる」 

2025年6月15日 主日礼拝説教 

聖書:エフェソの信徒への手紙 1:3-14

神をほめたたえて生きる
 本日の第2朗読で読まれた箇所には、神が私たちのためにしてくださったことが書かれています。そして、その合間合間に、パウロはこう書いています。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)。「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(12節)。「こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(14節)。

 信仰生活とは、神をほめたたえて生きる生活です。喜びの中にあって神を賛美し、悲しみの中にあっても神を賛美し、豊かさの中にあって神を賛美し、困難と窮乏の中にあって神を賛美し、健康な時に神を賛美し、病気の床において神を賛美して生きる。そのような生活です。ちなみに、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と書いているパウロは、獄中からこれを書き送っているのです。彼は獄中において神を賛美しているのです。

 この世界は変わります。私たちの置かれている状況も刻一刻と変わっていきます。しかし、信仰をもって生きるということは、何が変わったとしても、私たちの人生を貫く変わらざる一本の太い柱を持つことです。それは、神を賛美し神を礼拝して生きるということです。

 そのように、いかなる時にも神を賛美し、神を礼拝して生きるためには、神がいかなる御方であるかを良く知らなくてはなりません。神が何をしてくださったのかを知らなくてはなりません。そして、知るだけでなく、常に意識して生活することが大事です。そのためにも、今日のような箇所が繰り返し読まれるということは、私たちにとって必要なことなのです。

一方的な恵みにより
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」。そのように私たちがほめたたえて生きるその神は、いかなる神であるのか。――私たちを祝福してくださった神様です。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(1:3)と。

 私たちは既に、天のあらゆる霊的な祝福をもって、祝福されているのです。それは「天の」と書かれているように、神のみが与えることができる祝福です。「霊的な」とはそういうことです。単に「精神的な」ものならば人間でも与えることができるのです。しかし、人間にとって本当に必要なのは、人が与えることのできるものではなく、天に属する霊的なもの、神のみが与えることのできるものです。そして、それは既に与えられているのです。それは神が与えてくださった祝福ですから、人が奪うことはできません。人はパウロを牢獄に放り込むことはできましたが、天のあらゆる霊的な祝福を奪うことはできませんでした。ですから牢獄の中にさえ賛美が満ちていたのです。

 それはすべて神の恵みによるものです。それを聖書は「選び」という言葉で表現します。この「選び」という言葉は誤解を生みやすい言葉でもあります。「神に選ばれた」などと言いますと、それは実に鼻もちならないエリート意識に聞こえるかもしれません。しかし、パウロが「選ばれた」と言うときには意味合いが全く違います。要するに、「私たちが何かをしたからではない。私たちの功績じゃない」と言っているのです。祝福されたとしても、「私たちの側に根拠はない」という意味です。すなわち「それは神の一方的な恵みです」と言っているのです。

 ですから「天地創造の前に、神は…お選びになりました」などという奇妙な表現が出てくるのです。「神は私が生まれる前から私を選んでくださいました」と言えば、それは「私の行いや功績にはよらない」ということになるでしょう。「生まれる前」ならまだ何もしていないのですから。それを究極まで押し進めると「天地創造の前から」となるのです。どのような表現にせよ、要するに、「私たちの功績じゃない」ということです。一方的な恵みだということです。

神の子とされて
 それは5節において、神の子でない者を神の子とすることとして、言い換えられています。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(5節)。ここで用いられているのは養子縁組を表す言葉です。神の養子にされるということです。神はここに書かれているように、「主イエス・キリストの父である神」です。しかし、そのキリストと父なる神との関係の中に、私たちも入れていただいたのです。イエス様が「父よ」と祈られたように、私たちも天と地の造り主なる方を、「天にまします我らの父よ」と呼ぶことが許されているのです。そして、御子を長子とする家族へと加えられたのです。その理由と根拠は私たちの側にはありません。パウロは、ただ神が「御心のままに前もってお定めになった」からだ、と言うのです。

 実は、この「御心のままに」と訳されている言葉は、「神の喜びとするところに従って」とも訳せる表現です。要するに、私たちが神の子とされたのは、それが「神の喜びであるから」という単純な理由によるのです。これは驚くべきことでしょう。まことに神の子とされるに相応しからぬ私たち、自分で自分のことを持て余しているような私たちを、神の子とすることが、神にとっては喜びなのだと聖書は教えているのです。私たちが神を「父よ」と呼ぶようになることが、神の喜びだというのです。私たちは神の喜びなのです。

 そして、神が御子イエスを世に遣わされたのは、まことに相応しからぬ私たちを神の子にするためでした。「イエス・キリストによって」(5節)とあるとおりです。その事実を6節では「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」と呼んでおります。その恵みが何であるかは、7節において明らかにされています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」

 人間の罪は、自分が忘れても、相手が忘れても、世間が忘れても、それで消えるわけではありません。それは借金のように残ります。イエス様はある時、人間の罪を一万タラントンの借金に喩えました(マタイ18:24)。それは到底返済できない負債であるということです。罪の負債を抱えたままでは、私たちは神の子となり得ませんでした。しかし、神は私たち人間の罪を、御子に肩代わりさせたのです。その罪の負債を、御子が十字架において、血をもって、その命をもって、完済してくださいました。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」とは、そういうことです。そして、言うのです。「これは、神の豊かな恵みによるものです」と。

救いの完成に向かって
 そして、神の恵みはそこに留まりません。さらにこの恵みを私たちの上にあふれさせ、神の秘められた計画を知る者としてくださったというのです。次のように書かれています。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(8‐10節)。

 私たちが罪を赦され、神の子とされ、御子のもとに集められていることは、ただ私たち個人に関わることなのではありません。神は、御子を通して、この世界に対する計画を明らかにされたのです。それは、私たちがこうしてキリストのもとに集められているように、やがて頭であるキリストのもとに世界が一つとされるということです。いや、天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのだ、と聖書は教えているのです。

 目を転じて見るならば、この世界はまさにずたずたに引き裂かれた世界です。互いに対立し、反目し、争い、殺し合っている世界です。私たちの身近なところにも、人と人とが共に生きられない現実があります。しかし、私たちには望みがあります。神には神の計画があるからです。救いの完成へと向かう計画があるからです。そして、やがて時が満ちるのです。「時が満ちるに及んで、救いの業は完成する」と私たちは信じているのです。

 そして、それは単に未来に待ち望むべき希望であるだけではありません。今、こうしている時に、既に私たちはその救いの豊かさの一部を味わい始めているのです。

 13節でパウロは「あなたがたもまた」と語りかけます。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。これはエフェソの異邦人キリスト者たちです。彼らが宣べ伝えられた言葉を聞いて、信じて、バプテスマを受け、互いに異なった者たちが共に主を礼拝していること自体が、既に聖霊の働きです。それはここにいる私たちも同じです。私たちもパウロから見たら異邦人ですから。その私たちが今こうしていることは、聖霊の働きです。私たちは聖霊によって「証印」を押されたのです。「証印」とは所有者を現すしるしです。私たちは既に神のものなのです。

 そのように私たちにこのような信仰生活を与えてくれた聖霊こそ「わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」(14節)と語られています。この「保証」と訳されている言葉は「手付け金」を意味します。やがて全体を受けとることの保証として、その一部を受け取るのです。それが聖霊によって私たちに与えられる信仰生活です。私たちは、救いの完成へと向かう者として希望に生きるだけでなく、その一部を手付け金として受け取り、救いの恵みを今この時に味わいつつ生きることが許されているのです。そして、その手付け金によって、さらに確かな希望に生きる者とされるのです。

 これらはすべて神が恵みによって私たちに対してしてくださったことでした。私たちは祝福されています。それは神の一方的な恵みによるのです。それゆえ、最初に申し上げたように、信仰生活とは神をほめたたえ、神を礼拝して生きる生活となるのです。私たちがここにおいて、歌声をもって神を賛美するように、私たちの生活そのものが、そして人生全体が神への賛美となりますように。

2025年6月11日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 5:1~12

サムエル記上 5:1-12

 アフェクにおける戦いにイスラエルは破れ、エリの二人の息子ホフニとピネハスは死に、神の箱は奪われました(4:17)。ペリシテ人は奪った神の箱をエベン・エゼルの陣営からダゴンの神殿があるアシュドドに運びます。「ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた」と書かれています。

 彼らはなぜそんなことをしたのでしょう。――実は、彼らの行為は古代オリエント世界において一般的であったの宗教的なものの考え方をよく現しているのです。当時の世界においては、戦争はただ国と国の戦いではないのです。そうではなく、ある国の神と他国の神との戦いであると信じられていたのです。なので、一つの国が破れるということは、その国の神が破れたことを意味したのです。

 この場合、ペリシテ人が勝ったわけですから、当然のことながら、イスラエルの神はペリシテ人の主神ダゴンの支配下におかれることになります。いわばイスラエルの神は、ペリシテの主神ダゴンに負けて彼の子分になったのです。ということで、ダゴンのそばに置かれたのです。ちなみに、モーセの律法はこのようなことを禁じ、偶像を破壊するように命じているのですが(申命記7:5)、それはこのような外国の神々をいわば捕虜のようにして取り込むことを禁止しているのです。

 さて、もともとペリシテ人はイスラエルの神ヤハウェについては一目置いていたことが、前の章に書かれていました。神の箱が運び込まれた時、彼らはこう言っていたのです。「大変なことになった。あの強力な神の手から我々を救える者があろうか。あの神は荒れ野でさまざまな災いを与えてエジプトを撃った神だ」(4:8)。そのイスラエルの神を捕虜にし、さらにはダゴンの子分にしたのですから、それはそれはとても喜ばしいことでした。彼らは大喜びで、神殿の中に神の箱を安置したのです。

 しかし、生ける神を偶像のごとくに扱うことは、いわば真っ赤に焼けた鉄の塊を素手でつかんで持ち運ぼうとするようなものです。そんなことをすれば火傷をするのです。神がまことに生ける神であるならば、誰の助けを得ずとも自ら生ける神として行動されるのです。人が神を持ち運んだり、安置したり、神の領域を制限しようとしたりするならば、神は人間の思惑の通りに支配することなどできない、まことの生ける神であることを思い知らされることになるのです。そのことが、今日の箇所において、非常にユーモラスに描かれているのです。

 ペリシテ人たちは神の箱をダゴンの神殿に運び入れたのですが、翌朝、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れておりました。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据え直します。そうです。ダゴンは人々の手によって持ち上げられなくてはならず、元の場所に据えてもらわなくてはならなかったのです。すると翌朝、またもやダゴンが倒れており、しかもダゴンの頭と両手が取れてしまっていたのです。

 さて、ダゴンの像が倒れているのを見せられたこと、しかも一度ならず二度までも見せられたことは、ペリシテ人にとって決定的な意味を持つ出来事でした。真っ赤に焼けた鉄の塊を持ち運ぼうとすれば火傷をすると申しましたが、ダゴンの倒壊はペリシテ人が火傷をしないための警告でもあったのです。

 神が生ける神として行動されることが、人間にとって裁きをもたらすことになるならば、そうならないために前もって警告が与えられる。それは旧約聖書に繰り返し見られるパターンです。しかし、彼らはそこで「偶像から離れて神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになった」(1テサロニケ1:9)のではなく、迷信に基づくくだらない習慣を一つまた造り出しただけした。「そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない」(5節)。しかも、その迷信は、「今日に至るまで」と書かれているように、代々に渡って受け継がれ、悔い改めなかった自らの愚かさを証しするものとなったのです。

 丁寧に二度も与えられた主の警告を斥けてしまったのですから、当然のことながらアシュドドの人々の上に、その後、主の御手が重くのしかかるようになりました。ちなみに、「御手が重くのしかかる」という表現は、詩編32編にも出てきます。悔い改めぬ者に対する神の裁きを表現した言葉です。それは神の裁きを感覚的にイメージできる言葉です。

 「重くのしかかる」はもともとの言葉で「カーベード」といいます。ちなみに「栄光」は「カーボード」です。似てますでしょう。二つは同根の言葉です。悔い改めて神に立ち返り、自らへりくだって神の栄光を誉めたたえる者となるのか。それとも頑なに逆らい続けて生ける神の重い御手を経験するのか。神が生ける神として行動されるなら、人はそのいずれかとならざるを得ないのです。

 実際、アシュドドの人々の上には神の御手が重くのしかかりました。具体的には彼らの間に腫れ物が生じたと書かれています。6章には「腫れ物」と共に「ねずみ」が出てきますので、実際的にはねずみを媒介とした疫病が広まったということなのでしょう。いずれにせよ、聖書はこれが主によることを告げています。申命記28章にも、腫れ物が神の呪いとして記されております(申28:27)。

 ついにペリシテ人も、これがイスラエルの神によることを認めざるを得なくなりました。そこでペリシテの領主たちは緊急会議を開きます。彼らは「イスラエルの神の箱をどうしたものか」と語り合いました。しかし、本来は、神の箱をどうするかが問題なのではないのです。そうではなく、イスラエルの神との関係をどうするかを考えねばならなかったのです。

 しかし、彼らは神の箱を移動して解決しようと試みました。何か思い出しませんか。かつてイスラエルが敗戦色濃くなった時、アフェクに神の箱を持って来れば勝てると思っわけでしょう。神の箱を移動して起こっている事態を解決しようとしたのです。ペリシテ人たちは、あの時、イスラエルがしたのと基本的には全く同じことをしようとしているのです。

 いいえ、その言い方は正しくありません。本当は逆なのです。イスラエルはあの時、まさに主を知らない異教の民、ペリシテ人と同じことをしていた、ということなのです。エジプトから導き出された民として、生ける神を知っているはずのイスラエルが、現実には周辺諸国と少しも変わらないことをしていたのです。イスラエルの歴史において繰り返し現れてくるそのような現実が、このようなところにもかいま見えると言えるでしょう。

 さて、彼らは言いました。「イスラエルの箱をガトへ移そう」。ガトは後にそこからゴリアトが現れてくることからして、ペリシテ人の間でも、特に武力においてすぐれた都市国家だったのだと思います。しかし、そこに移動することは解決になったでしょうか。なりませんでした。皮肉なことに、それはさらに被害を拡大させるだけとなりました。「箱が移されて来ると、主の御手がその待ちに甚だしい恐慌を引き起こした。町の住民は、小さい者から大きい者までも打たれ、はれ物が彼らの間に広がった」(9節)。

 神が生きて働かれる時には、人の誇りとする力はその前に何の役にも立たないのです。さらに箱はエクロンに運ばれました。既に災いの知らせを受けているエクロンの住民は叫びました。「イスラエルの神の箱をここに移して、わたしとわたしの民を殺すつもりか」と。(10節)。

 さて、私たちはここで考えねばなりません。ペリシテの領地にイスラエルの神が共にいることは、彼らにとって決して喜ばしいことではありませんでした。私たちは彼らが当初は喜んでいたことを思い起こさなくてはなりません。神の箱をイスラエルからぶんどり物として奪ってきて、イスラエルの神である主を自分たちの支配下に置けていると思っていた時までは喜んでいたのです。彼らにとって神の箱は一つの偶像に過ぎませんでした。前にも申し上げたとおり、偶像であるということは、人間が思い通りにできる神であるということです。移動することもでれば捨てることもできる。人が「私の神」として自分の思い通りになると思っているうちは、神が共におられることは喜びなのです。しかし、そのような人にとっては、真に「生ける神」が共にいることは喜びとはならないのです。

 生ける神が共にいることが喜びとなるとするならば、それは神を私たちのものとしようとするのではなく、私たちが神のものとなろうとするときに、初めて可能となるのです。そうでない限り、神が共にいることは喜びとはならないのです。そして、私たちが神のものとなることを求めるときに、どうしても解決されなくてはならないのは、私たちの罪の問題なのです。

 それゆえに、イスラエルの神の箱の蓋が「贖いの座」となっているのです。また、そこには必ず祭司がおり、罪を贖う犠牲が捧げられるのです。そして、最終的にはキリストが自ら贖いの犠牲となり、大祭司となってくださったのです。当然のことながら、偶像を持っているだけの人にとっては、罪の赦しも問題にはならないし、キリストの血による贖いも必要とはなりません。さて、私たちが信じ、礼拝しているのは、本当に生けるまことの神なのでしょうか。

2025年6月8日日曜日

「神の霊に満たされて」

2025年6月8日 聖霊降臨祭 礼拝説教 

聖書:使徒言行録 2:1-11

御心が成るために
 私たちは礼拝において毎週「主の祈り」を祈ります。今日も後ほど、皆で祈りますが、その祈りの中に「御国を来らせたまえ」という言葉があります。「御国に入れてください」という祈りではありません。御国、神の国が「来ますように」と祈っているのです。どこにですか。この地上にです。

 神の国が来るとはどういうことでしょう。神の国とは神の支配のことです。神の支配が実現することです。その意味するところは、主の祈りにおいて、さらに明確に祈られています。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。私たちは、地の上に、御心が実現するように祈っているのです。

 「御心が行われますように」と祈っているということは、まだ御心は実現していない、少なくとも完全には実現してはいない、ということを意味します。この世界を見てください、人々が憎みあい、殺し合っているこの世界は、神の御心が実現している世界ですか。これが神の国ですか。とんでもない。私たちの仕事場は、神の御心が実現している仕事場ですか。神の国ですか。私たちの家庭はどうでしょう。神の御心が完全に実現している家庭ですか。神の国ですか。子供たちの通う学校はどうですか。天に神の御心が実現しているように、この地の上に実現していますか。いいえ、明らかに実現してはいません。

 だから、私たちは祈り続けているのです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と。イエス様は、「このように祈りなさい」と言って、主の祈りを与えてくださいました。イエス様は、私たちが一生をかけて一心に求めるべきものを明らかにしてくださったのです。言い換えるならば、イエス様は私たちの人生の目的を与えてくださったのです。それは神の御心が成ることを求めて生きることです。私たちの人生はそのためにこそあるのです。

 主の祈りを真面目に祈っている人は、少なくとも「私は何のために生きているのだろう」などという悩み方はしないはずです。なぜなら、求めるべきことははっきりしているからです。神の御心の成っていない悲惨極まりないこの世界に、神の御心が成るために、私たちは生きるのです。生きていくのです。

 しかし、私たちはもう一方で良く知っています。私たちは、この手で、この自分の力で、神の国を実現することはできません。神の御心を実現することはできません。この世界を支配する罪の力、死の力、悪魔の力が、圧倒的な現実として私たちの目の前にあるからです。私たちの為しえることは、あたかも山火事に向かってコップの水を投げかけるようなことでしかないと感じます。私たちは、身近な一人の人間をも変え得ない者ではありませんか。いやそれどころか、我が身一つ変えることもできないし、どうすることもできない。それが私たちの現実です。

 ですから、一つのことは明らかなのです。私たちが主の祈りを真面目に祈るならば、その実現のためには、神様においでいただかなくてはならない、ということです。神様に来ていただいて、御心を実現していただくしかありません。だから私たちの内に住んでくださり、私たちを用いて、私たちを通して働いてくださる神の霊、聖霊を求めるのです。聖霊によらずして、どうして地上に御心が実現するでしょうか。どうして、神の支配が実現するでしょうか。

 イエス様の弟子たちは、そのことを良く知っていた。骨身に染みて知っていたのです。彼らはキリストが十字架にかけられたときに、主を見捨てて逃げ去ってしまった人々だからです。つくづく自分の弱さと無力さを思い知らされた人でした。だから、彼らは神の霊においでいただくしかなかったのです。父の約束してくださった聖霊を待ち望むしかなかったのです。

 それゆえに、彼らは祈り求めて待ちました。待ち望みました。それが今日お読みした聖書箇所の背景です。そして、そのように祈り求めて待ち望んだ彼らは一同は、「聖霊に満たされた」と書かれているのです。その場面の描写は摩訶不思議なものです。しかし、重要なのは、ここに描かれている不思議な出来事そのものではありません。その結果です。「一同は聖霊に満たされた」ということです。

 私たちは、これを教会の誕生と見ることもできますし、教会の宣教の開始として見ることもできるでしょう。その意味において、これは歴史の中において起こった一回限りの決定的な出来事です。しかし、ここに語られていますような、「聖霊に満たされること」そのものは一回限りの事ではありません。すぐ後の4章において、彼らは再び聖霊に満たされます(4:31)。その後、私たちは聖霊に満たされて力強く働いているパウロの姿をも目にします。また彼自身、エフェソの信徒の手紙の中で次のように語っています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5:18)。

 要するに、ここに書かれていることは、ある意味では、私たちの誰もが求め、期待すべきことなのです。今日の箇所を読みます時に、単に「何か特別なことが起こった」と考えて読むことは、この箇所の正しい読み方ではありません。むしろ、「何か特別なことがそこから始まったのだ。そして今日に至るまで継続しているのだ。それはキリストの再臨に至るまで続くのだ」ということを考えて読まなくてはなりません。続いているのですから、私たちもまた同じことを求めるのです。

聖霊の満たしを求めましょう
 そこで残された時間、聖霊に満たされるとはいかなることかを、なおこの箇所から共に考えたいと思います。

 「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」という表現があります。新共同訳ですと「憤慨する」(ルカ4:28)と意訳されています。あるいは、「恐れに満たされる」という表現。「妬みに満たされる」という表現。いずれも意味合いは分かりますでしょう。

 皆さんは怒りに満たされたことありますか。もう腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができなくなってしまう。自分の押さえが利かなくなってしまう。怒りによって動かされるままに、言わなくてもいいことを言ったりいたします。叩いてはいけないのに叩いたりしてしまうこともあるかもしれません。そのように、「満たされる」というのは、「支配される」ことなのです。自分が自分を支配できずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。それが「怒りに満たされる」ということです。

 満たされるのが「怒り」であるのは決して望ましいことではありませんが、これが「聖霊」だったらどうでしょう。聖霊によって満たされ、神の霊によって支配されるのなら、それは実に喜ばしいことではありませんか。怒りや妬みではなく、神の愛によって動かされるならどうでしょう。すべての人を救いたいという神の思いによって動かされるなら、どうでしょう。

 いや、「思い」すなわち「思考」だけでなく、実際に、この世界を救う神の力に満たされ、私たちを通して神の救いの力が現れ、神の御業が現れるならば、私たちの生活はどうなるでしょう。私たちの人生はどうなるでしょうか。実際に、その実例を私たちは使徒言行録に読むことができます。そのように、まさに神様御自身に支配され、神様が御自身を現してくださる。それが聖霊に満たされるということなのです。

 「一同は聖霊に満たされた」。神様はそこにいた一同を聖霊に満たしたのです。何のためですか。もちろん、彼らを用いるためにです。そのようにして、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に、救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。神はあらゆる言語を話すこの世界のあらゆる民族の救いのために、彼らを、教会を用いようとしておられたのです。そして、実際にその後の教会の歴史は、その神の計画が実現していったことを示しているのです。

 しかし、これはよくよく考えて見れば、かなり不思議なことであると言わざるを得ません。この世界を救うならば、人間など用いずに、神様が直接なさった方がうまくいくに決まっているからです。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くような仕方で、炎のような舌が現れるような不思議な仕方で、完全に超自然的な仕方で天から直接人々を救ったらよいではありませんか。

 ところが、どうしたわけか、神様はそのようなことを望んではおられないようなのです。あくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられるのです。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけでした。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りでした。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。

 そのようにして、この下北沢にも教会が存在しているのです。そのようにして、私たちもここに集められているのです。実際そうでしょう。突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれてここに来た人、ここにいますか?いないだろうと思います。誰かが神に用いられたから、わたしがここにいるし、皆さんもここにいるのでしょう。そのように、人間を通して働かれる神の御業の中に私たちも存在しているのです。ならば、今度は私たちの番ではありませんか。神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。

 聖霊に満たされることを求めましょう。あの弟子たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」ように、ひたすら祈り求めましょう。怒りや恐れに満たされて、妬みに満たされて、あるいは欲望に満たされて、支配されて、人生を消費してしまうのはとても悲しいことです。聖霊に満たされ、聖霊に支配されて生きることを求めましょう。それは単に私たち自身のためではありません。私たちの家族の救いのためであり、友人の救いのためであり、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神は私たちを用いて人を救おうとしておられる。神の恵みを運ぶ器とならせていただきましょう。

2025年6月4日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 4:1~22

 サムエル記上 4:1-22

 場面は聖所のあるシロから戦場へと移ります。その頃、ペリシテ人は支配の領域を拡大していきました。ペリシテ人をかろうじてエベン・エゼルでくい止めていたイスラエル軍は、戦闘が進むにつれ劣勢となり、ついに四千名の死者を出すに至りました。そこで長老たちが出した結論は、「主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう」(3節)ということでした。それが3節までに書かれていたことでした。

 彼らの敗北の一つの要因は、明らかに軍事力の差でした。イスラエル軍は召集された民兵から成るのに対し、ペリシテ軍の方は後に職業軍人のいる常備軍なのです。その軍人の代表は後に登場するゴリアトです。また、イスラエルが基本的に青銅器を用いていたのに対し、ペリシテは既に鉄器を用いていたのです。

 しかし、イスラエルの長老たちは、この敗北を単に戦力の違いによるものと見ませんでした。彼らは「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか」と問うたのです。

 それはある意味で正しい理解でした。なぜ主は――私たちは既にその理由を知っています。サムエルを通して主が裁きの言葉をエリの家に対してに語られたことを既に読んできましたから。もちろん祭司の家が堕落する背景にはイスラエル全体の堕落があるのです。それゆえに、イスラエルが「なぜ主は我々が打ち負かされるままにされたのか」と問うならば、それは正しいことであり、悔い改めの機会でもあったのです。

 しかし、そこで彼らが出した結論は極めて安易なものでした。彼らは戦場に契約の箱を持ってくることをもって解決しようとしたのです。「主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう」(3節)と。

 そもそも契約の箱とは何でしょう。その製造については出エジプト記25:10以下に記されております。「アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す」(出エジプト25:10‐14)。そして、大事なことはそこに「掟の板」が納められるということです。

 そして、もう一つ大事なことがあります。その箱の蓋は「贖いの座」と呼ばれるということです。その作り方がこう書かれています。「次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つを他の端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う」(同17‐20節)。そのようにして、「この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める」(同25:21)。

 「掟の板」というのは、十戒が刻まれた板のことです。また、「贖いの座」というのは、贖罪の犠牲の血が注がれるところです(レビ16:12‐15)。そして、その贖いの座に神が臨まれ、イスラエルの人々に命じることを語られるのです。このように、本来、契約の箱という存在は、神との契約、罪の贖い、神の臨在、神の言葉に関わっていたのです。すなわちそれは聖なる神と民とが出会い、共に生きることを指し示している箱なのです。そのためにこそ、罪の贖いが必要であり、そのためにこそ神の戒めが与えられていたのです。

 しかし、既に見てきましたように、聖書における祭司制度は腐敗し、犠牲を捧げる祭儀も形骸化していた。「宗教」なるものは存在していても、もはやそこに神と民との間の生ける交わりなどなかったのです。そして、この場面に至って、ついにこの贖いの座を持つ契約の箱そのものが「偶像化」されることとなったのです。

 そもそも古代オリエントにおいて、偶像の製造は、神の位置を限定し、神の霊を人間の意思のもとに置くという作業に他なりませんでした。ですから、偶像が作られる時、そこで神と人との人格的な関係は失われ、祭儀は魔術化することになります。

 人間はそこで自分と神との関係を問うことなく、もちろん自分の罪を悔い改めるということもなく、自分の思い通りに神を移動し、あるいは神を持ち運び、必要に応じて神の力を用いようとするのです。「主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう」と言ってイスラエルが行ったのは、まさにそのような行為なのです。人間は自分が神に立ち返るのではなく、神を自分の側に意のままに引き寄せようとするのです。

 しかし、主は人間の意のままに扱われる御方ではありません。主は「万軍の主」と呼ばれており、さらには「ケルビムの上に座しておられる万軍の主」(4節)と呼ばれているのです。「ケルビムの上に座しておられる」とは、すなわち、主は贖いの座の上に座しておられるということです。であるならば、神が共にいてくださるとするならば、それは罪が贖われることにおいてなのです。そのためには契約の箱を彼らのもとに来させるのではなく、彼らが罪を悔い改め、神に立ち返らなくてはならないのです。しかし、彼らはそうしなかったのです。

 さらに言えば、彼らが契約の箱を聖所から持ち出したこと自体に大きな問題があります。契約の箱は至聖所に置かれていたはずです。そこには定められた者しか入ることはできません。しかも、血を携えることなく入ることはできないはずです。しかし、彼らは神の定めを犯してそこに入り、箱を運び出したのです。

 実際に携わったのは、恐らくエリの息子たちであるホフニとピネハスであったに違いありません。箱と一緒に二人がついてきたことから分かります。彼らは本来戦場にいるはずの人々ではありませんでした。しかし、たいへん皮肉なことに、彼ら二人は契約の箱と共に戦場に来たために戦死するのです。こうして、かつてエリに語られた、「二人は同じ日に死ぬ」(2:34)という神の言葉が成就することとなりました。神はあくまでも偶像ならぬ生ける神として行動されたのです。

 かくしてイスラエルの民は大敗し、神の箱は奪われました。神の箱が奪われたということは、要するにイスラエルの民が敗北して退却する時に、神の箱を戦場に残して逃げ去ったということを意味します。人が崇めているものが偶像でしかないならば、やがて人は自分の身を守るためにそれを捨てることになります。人間の自由にできるものは、捨てることも自由だからです。しかし、生ける神は人から捨てられ、他の者に奪われるような御方ではありません。主なる神は自ら去られたのです。

 この章の最後には、ピネハスの出産について記されております。産まれた子は「イカボド」と名付けられました。それは新共同訳では「栄光は失われた」という意味であると説明が付いています。そのように「イカボド」と名付けたのは、「栄光はイスラエルを去ったと考えて」だと書かれています。そして、彼女は正しかったのです。

 古代世界においては一般的に、戦争における敗北は一つの国の神が他の国の神に負けることであると理解されていました。しかし、イスラエルの神は敗北したのではなく、自らイスラエルを裁き、自ら去られたのです。「栄光はイスラエルを去った」とはそういうことです。

 しかし、正しく見るならば、「神が自ら去られた」のならば、そこには希望があるのです。神が敗北したのなら希望はありませんが、神が自ら去られたなら、再び帰ってきてくださるかもしれないからです。事実、神の栄光は自分の御意志によって、誰の助けを得ることもなく、帰って来られるのです。それがこの後に続く話なのです。

 さて、一方において、神の栄光がイスラエルを去ってしまったことに真実に心を向けていたのは、晩年のエリであったと言えるでしょう。私たちは、この数章の間に、エリの内に明らかな変化を見ることができます。

 かつて神の栄光よりも自らの子供たちの方を大切にしていたエリでした。しかし、彼はサムエルの言葉を聞いた時に、神の裁きを認め、「主が御目にかなうとおりに行われるように」と言ったのです。彼は自分の子供たちが守られることよりも、また、自分の身が守られることよりも、もっと大事なことがあることを知ったのです。神が神として崇められることです。

 やがて神の箱が運び出されることとなりました。年老いたエリは阻止することはできなかったのでしょう。神の箱が運び出された後、その見えない目をもって目を凝らして、彼はひたすら神の箱を気遣っていたのです。

 そして、敗戦の報告が届けられました。エリは、息子たちの戦死を聞いた時にではなく、神の箱に報告が及んだ時に、席から落ちて死ぬのです。その時の様子は、殊更に彼が「あおむけに落ち」たのだと伝えられています。つまり、彼は上を向いたのです。そして、恐らく天を仰いで立ち上がろうとしたのです。それは祈りの姿勢です。そして、彼は後ろに倒れて落ちて死んだのです。既に、彼の目は既に見えなくなっていました。しかし、その最期の最期において、彼の目はまっすぐに神に向かっていたのです。

2025年6月1日日曜日

「天に上げられたキリストと 地上に生きるわたしたち」 

2025年6月1日 主日礼拝説教 

聖書:ルカによる福音書 24:44‐53

天に上げられたキリスト
 去る21日の木曜日は教会の暦では「昇天日」と呼ばれまして、キリストの昇天を記念する日でした。キリストの昇天については、今日の福音書朗読でも次のように語られています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(50‐51節)。キリストの体がまるで風船のようにフワフワと空に上っていった様子を思い描きますと何かとても不思議な感じがいたします。

 しかし、今日の聖書箇所において、本当に不思議なことは別にあるのです。弟子たちがキリストの昇天を悲しんでいないということです。そこには確かに「彼らを離れ」と書かれています。天に上げられるとはそういうことです。しかし、弟子たちは十字架の死においてキリストを失ったあの時のように、悲しみにくれるようなことはなかったのです。それどころか、こう書かれています。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52‐53節)。

 彼らは喜んでいました。大喜びでした。喜んだだけではありません。キリストの昇天は、彼らを神殿へと向かわせました。礼拝へと向かわせました。神へと向かわせました。彼らは神を礼拝し、神を誉めたたえていたのです。

 ここから一つのことが明らかになります。キリストが天に上げられるということは、弟子たちにとって、決してキリストが《遠くへ行ってしまう》という出来事ではなかった、ということです。そうではなくて、むしろ逆に、キリストが上げられることによって、《天そのものが近くなる》という出来事だったのです。天が近くなり、神御自身が近くなり、神の救いが近くなる。だから喜ばずにはいられない。だから天に向かわずにはいられない。神を礼拝せずにはいられない。神を誉めたたえずにはいられない。だから「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のです。

 しかし、彼らは天がどれほど近くなったかということを、本当の意味ではまだ知らないとも言えるのです。それを知るのは、聖霊が彼らに降った後に、自分たちが「教会」であることを意識するようになってからです。本日の第2朗読では、エフェソの信徒への手紙が読まれました。この手紙において、パウロは教会をくりかえし「キリストの体」と呼んでいます。天に上げられたキリストの「体」です。そして、こう言うのです。「わたしたちはキリストの体の一部なのです」。

 そして、何よりも喜ばしいのは、そのように天におられるキリスト、教会の頭であるキリストは、私たちの罪を贖うために十字架におかかりくださったキリストであるということです。私たちを愛し、私たちのために御自身を献げてくださったキリストであるということです。だからこそ、私たちは罪を赦された者として、キリストの体の一部でいられるのです。

 そのような仕方で、私たちは天に上げられたキリストに結ばれているのです。だから、今日の第2朗読において、パウロはこう言っているのです。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます」(エフェソ4:1)。彼は投獄されているのです。鎖につながれているのです。しかし、彼がどこにいようと、何につながれていようと、彼はキリストの体の一部なのです。天に上げられたキリストに結ばれているのです。すなわち、そのような仕方で天につながっているのです。これ以上近くにはあり得ないという仕方で、天につながっているのです。

 私たちがこの地上にある限り、私たちを取り巻く環境は変化していきます。パウロのように投獄されることはないかもしれませんが、様々な形で束縛を経験し、自由を奪われるという経験はするのかもしれません。しかし、私たちがどのような状態に置かれようとも、私たちは天につながっているのです。私たちは天に上げられたキリストの内にあり、キリストの体の一部だからです。

 だから、あの弟子たちがそうであったように、どのような状態にあっても、喜びをもって天に顔を上げ、喜びをもって神を礼拝することができるのです。天に上げられたキリストに結ばれているならば、私たちは本質的には既に天に属しているのであり、わたしたちは既に救われているからです。(ぜひ、今日、家に帰られたら、エフェソの信徒への手紙1章前半を読んでみてください。)

地上に生きる私たち
 さて、私たちは天に上げられたキリストに結ばれて、既に天に属する者だと申しました。しかし、話はそれで終わりません。キリストは天に上げられる前に、地上のことについて語られたのです。そして、地上における弟子たちの務めについて語られたのです。

 45節以下を御覧ください。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(45‐48節)。

 確かにメシアは苦しみを受けられました。そして、復活されました。そのようにして世の罪の贖いを成し遂げられました。しかし、キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの恵みは、人々に届けられ、手渡されなくてはなりません。つまり、宣べ伝えられなくてはならないのです。ですから、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と書かれているのです。誰が宣べ伝えるのですか。もちろん、弟子たちです。すなわち教会です。私たちです。

 「罪の赦しを得させる悔い改め」と書かれていました。「悔い改め」というのは、方向転換をして神に立ち帰ることです。神に立ち帰るならば、神はすべての罪を赦して受け入れてくださる。それが「罪の赦しを得させる悔い改め」です。その意味するところは、ルカによる福音書だけに書かれている有名な例え話に明らかにされています。「放蕩息子のたとえ」と呼ばれているものです。父親のもとを離れ、財産を放蕩の生活によって食いつぶし、飢饉の中で飢え死にしそうになった息子が、はたと我に返ります。自分は本来いるべきところにいない。問題は父のもとにいないことだ。そのことに気付くのです。そして、方向転換をして父のもとに帰って行くのです。そして、父の家に近づいた時に彼が目にしたのは、髪を振り乱して走り寄る父の姿でありました。すべてを赦し、迎えてくれる父の姿だったのです。父は既に息子を赦していました。罪の赦しは既に父のもとにありました。彼は父のもとに帰って、その赦しを受け取ったのです。

 このことが宣べ伝えられなくてはなりません。既に贖いの小羊は屠られました。罪の贖いは成し遂げられました。父のもとには赦しがあります。立ち帰るならば、父は赦しをもって迎え入れてくださいます。父のもとには赦しがあるのに、救いがあるのに、どうして父に背を向けたまま滅びてよいでしょうか。あらゆる国のあらゆる人々に、父のもとには赦しがあり救いがあることを宣べ伝えなくてはなりません。「罪の赦しを得させる悔い改め」が宣べ伝えられなくてはなりません。教会は、私たちは、その恵みの言葉を託されているのです。

 キリストは天に上げられました。私たちは確かに天に上げられたキリストの体です。しかし、私たちは天にのみ向いていてはなりません。地上に目を向けなくてはなりません。地上にいる間に、地上にいる人に、伝えるべきことを伝えなくてはなりません。地上にある間に、地上においてしかできないことを、しっかりとしておかなくてはならないのです。

 しかし、もう一方において、それが決して容易なことではないことは明らかでしょう。そもそも、教会が託された範囲は、「あらゆる国の人々」なのですから。身近な人に神の恵みを伝えることにさえ数多くの困難があるのです。ましてや「あらゆる国の人々」となったら、どれほど多くの隔ての壁を乗り越えなくてはならないことででしょう。

 それゆえに主は言われたのです。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)。「高い所」というのは、キリストが上げられた天です。そのように、イエス様が天に上げられた後に、今度はその天からの力に弟子たちが覆われるのだというのです。天に上げられたキリストが聖霊を地上に注いでくださる。弟子たちは聖霊に満たされ、天からの力に覆われるのです。それが父の約束だと主は言われたのです。

 「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。それは私たちに与えられた務めです。しかし、私たちは天に上げられたキリストの体として、天に属する者として、それを行うのです。そこで信ずべきことは、私たちに務めを与えてくださった御方は、また必要な力をも与えてくださるということなのでしょう。実際、私たちは「ルカによる福音書」に続く第2巻、「使徒言行録」において、神の力が生き生きと働かれた初期の教会の様子を見ることができるのです。そして、その同じ約束は私たちにも与えられているのです。

 私たちが天にしか関心がないならば、天からの力は必要としないでしょう。しかし、私たちが神の望んでおられるように、地上にいる人、私たちの家族、友人、地域の人々、この世の人々に関心を向けるなら、そして与えられている務めを果たそうとするならば、私たちが天につながっていることを意識し、天からの力を求めることは絶対に必要です。神の力に覆っていただかなくてはなりません。次週は聖霊降臨祭です。キリストの昇天後、弟子たちがひたすら聖霊に満たされることを求めて待ち望んだように、私たちもまた聖霊に満たされることを祈り求め、上よりの力に覆っていただくことを求めましょう。

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