2018年9月23日日曜日

「あなたがたの内におられるキリスト」

コロサイ1:21-29

キリストの死によって

 私たちはここに神を礼拝するために集まっています。私たちは神に祈りながら生活しています。しかし、そのような生活はこの国においては一般的ではないことを知っています。日曜日に教会に集まる人は、この国においては圧倒的に少数です。ですから、ともすると私たちは何か特別なことをしているかのように思ってしまいます。しかし、聖書の見方は違います。私たちは何も特別なことをしているわけではありません。本来の姿に戻って、本来のしているはずのことをしているだけなのです。

 今日の聖書箇所にはこう書かれていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(21節)。本来無関係であるならば、「離れていた」ことが語られる必要はありません。「神から離れていた」と語られているのは、人間が本来神と無関係ではないからです。人間が本来神と共にあるべき存在だからです。しかし、離れてしまっていた。いやそれだけではありません。「敵対していた」というのです。言い換えるならば、神に背いていたということです。

 遠ざけていたのは神の方ではありません。人間が、その行いによって、そして、その心において、神を遠ざけていたのです。イエス様はそんな私たちの姿を、父のもとから去って行った放蕩息子に喩えました。

 しかし、そのように神から離れていた私たちに対して、神がしてくださったことを聖書は次のように語っています。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(22節)。

 まず書かれているのは、神が和解してくださったということです。背いている者と和解してくださったというのですから、それは言い換えるならば「赦してくださった」ということです。しかし、そこにはただ「和解してくださった」「赦してくださった」ということだけが書かれているのではありません。「御子の肉の体において、その死によって」と書かれているのです。

 「御子の肉の体において」とは、御子が人となられたことを指しています。イエス・キリストという御方の話です。「その死によって」とは、そのイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったということです。そのことによって、そのことのゆえに、神は「赦してくださった」というのです。

 赦していただくとするならば、本来は赦していただく方が犠牲を払うのでしょう。これだけのことをしますから。これだけの苦しみを負いますから。だから赦してください、と。そして、償いきれなければ、赦しを求めることはできなくなるのでしょう。しかし、神は人間の側に償いの犠牲を求めることはしなかったのです。ただ「御子の肉の体において、その死によって和解してくださった」というのです。今日の福音書朗読に聞いたように、和解のために受けるべき杯は、私たちではなく、イエス様が苦しんで受けてくださいました。

 そして、「御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」と続きます。「してくださいました」と訳されていますが、原文では「立たせてくださいました」という言葉が使われています。「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として、御自分の前に立たせてくださった」と書かれているのです。

 私たちは「きずのない者」でも「とがめるところのない者」でもないことをよく知っています。「聖なる者」が私たちの完全であることを意味するならば、とても自分についてそのように語ることはできないでしょう。私たちは神から離れ、神に背いて生きていたというだけでなく、神から離れ、神に背いてきた私たちの罪は私たちの現在の生活の深いところにまで及んでいるのです。神に立ち帰った今もなお、罪との戦いは続いているのです。

 しかし、そのような私たちを、神は「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのです。神はそのような者として私たちを見ていてくださる。それは私たちが何をしたかではなく、ただ「御子の肉の体において、その死によって」なのです。それが「和解してくださった」「赦してくださった」ということです。だからこそ、私たちはこうして神の御前において礼拝しているのです。だからこそ、私たちははばかることなく神に顏を上げて祈ることができるのです。

 そして、そこにこそ私たちの希望があるのです。神が今、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのならば、やがて神がそのような者としてくださるからです。神の始められた救いは必ず完成するからです。そのような者として立たせてくださったのなら、終わりの日には、文字通り、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として立つことになるのです。

希望から離れてはなりません

 それゆえに、このように勧められています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。必要なことは多くはありません。信仰に踏みとどまり、希望から離れないことです。

 ここで「揺るぐことなく踏みとどまる」と訳されているのは、「土台の上にしっかりと立ち続ける」という意味の言葉です。既に述べてきたように、すべてはキリストによるのです。信仰の土台はキリストです。その土台の上に立ち続け、キリストを信じる信仰に踏みとどまるのです。そして、すべての希望はキリストによるのです。

 私たち自身をどれだけ見つめていても、そこに希望が見えてきません。キリストこそが私たちの希望なのです。福音の希望から離れないということは、このキリストから離れないということです。

 それゆえに、今日の朗読の後半にはこのような言葉が出て来ます。「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」。今日の説教題はここから取りました。27節全体はこうなっています。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)。

 「秘められた計画」という言葉がありました。この「秘められた計画」は、以前の口語訳では「奥義」と訳されていました。日本語では通常「おうぎ」と読まれます。さて、「おくぎ」にせよ「おうぎ」にせよ、そのような表現から連想されるのは、特別な人々だけに知らされた秘密のようなものでしょう。実際、この「奥義」とも訳される言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パウロがそのような閉ざされた秘密を意味していないことは明らかです。それは「代々にわたって隠されていた」けれど、今や神によって明らかにされた神のご計画です。そして、それは特別な人に留められるのではなく、全ての人に宣べ伝えられねばならないものとして語らえているのです。

 すべての人に宣べ伝えられるべきその「奥義」とは何か。いや、この問いは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。その奥義、その「秘められた計画」こそ、キリストなのです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。

 先にも読みましたように、「神は御子の肉の体において、その死によって和解し」てくださいました。神は人間の側に償いの犠牲を求めることはせず、ただ「御子の肉の体において、その死によって」私たちを赦そうとされました。言い換えるならば、その奥義が、その「秘められた計画」が、「御子の肉の体において、その死によって」現されたのです。苦しみを厭わず十字架へと向かわれたあの御方を通して現されたのです。すなわち、このキリストによって、罪を赦して救われる神の愛が明らかにされたのです。神に背いたこの世界を、この私たちを、それでもなお愛される神の愛が明らかにされたのです。だからこそ28節においてパウロは「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだと言っているのです。そして、そのキリストが宣べ伝えられる時、それはもはや過去の人キリストではないのです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と。

 この「あなたがたの内におられるキリスト」は二通りに理解することができます。一つは「あなたがたの共同体の内に」という意味合い。その意味では「あなたがたの間に」とも訳すことができます。もう一つは「あなたがた一人ひとりの内に」という意味合いです。内住されるキリストです。実際、他の手紙を読んでみますと、パウロその両方を考えているように思います。いずれにしても、キリストとの関わりは現在における関わりです。

 それゆえに、キリストは私たちにとって、過去において屠られた和解のための犠牲に留まらないのです。もう一度27節と28節を続けてお読みします。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(27‐28節)。

 「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」。そう書かれていました。この「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。そこにおいて想定されているのは子どもから大人への成長です。

 先に見たように、神は既に私たちを「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として、御自分の前に立たせてくださいました。神は既に私たちをそのような者として見ていてくださいます。キリストの故に罪を赦し、そのような者として御前に立たせてくださっています。そして、私たちはその救いの完成へと向かっているのです。それが栄光の希望です。私たちはまだ子どもであるかもしれません。躓いたり、子どもじみた失敗を繰り返しているかもしれません。しかし、私たちはやがて成熟した大人になるのです。神から見ても、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」になるのです。

 そのためにキリストに結ばれているのです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この御方こそ「栄光の希望」です。ならば大事なことは多くはありません。もう一度23節の前半をお読みします。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」。

 たとえ自分や世の中に絶望することがあっても、キリストに絶望してはなりません。宣べ伝えられたキリスト、私たちの内にいてくださるキリストにしっかりと踏みとどまり、キリストから離れてはなりません。
(祈り)

2018年9月2日日曜日

「信頼という献げ物」

マルコ12:35-44ダビデの主
イエス様は言われました。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(35‐37節)。

 メシア(救い主)がダビデの子孫として生まれることは旧約聖書に預言されていたことでした。ですから、イエス様の時代においても、人々はダビデの子孫から生まれるメシアをひたすら待ち望んでいたのです。

 しかし、「ダビデの子」という言葉は、単にメシアがダビデの子孫として生まれること以上を意味していました。メシアが到来することは、失われたダビデの王座が回復されることを意味したのです。すなわち、メシアの統治する偉大なる王国の再建を意味したのです。人々は、イスラエルをローマ人の支配から解放し、独立した強大な王国を打ち建ててくれる偉大なる王の到来を待ち望んでいたのです。そして民衆は、このナザレのイエスこそ、まさしくそのような王となるべき御方だと信じていたのです。

 しかしイエス様は、メシアがそのような意味における「ダビデの子」であることを否定されたのです。単なる政治的解放者でありダビデの王座を回復する者ではなくて、それ以上の者なのだというのが、ここでイエス様の言っておられる事です。

 ここでイエス様が引用しているのは詩編110編です。最初の「主」は旧約聖書における主なる神ヤハウェを指しており、二番目の「主」はメシアを指しています。つまり、メシアはダビデの子であるだけでなく、それ以上に、ダビデの主でもあるのです。この御方は、この世の王以上の御方なのです。詩編110編に歌われているように、神の右の座に就くべき御方、永遠の王として天の王座に就くべき御方なのです。

 ここに引用されている詩編110編は使徒言行録やパウロの手紙、ヘブライ人への手紙などに、繰り返し引用されています。何を意味しますか。教会はイエス・キリストがそのような御方であると信じてきたということです。私たちもまた使徒信条において、その信仰を言い表しています。イエス・キリストは「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」。ダビデの主でもあるその御方は、永遠に生きておられる私たちの主でもあるのです。私たちはその御方を礼拝しているのです。

律法学者に気をつけなさい

 そして、続く二つの物語は私たちに一つのことをはっきりと示しています。その御方は神の眼差しをもって私たちに目を向けておられるということです。表面的なことではなく、私たち人間の最も深いところにまで目を向けておられるということです。

 まず38節以下を御覧ください。主は言われます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(38‐40節)。

 そのように語られている律法学者ですが、そもそも彼らは何を思って律法学者となることを志したのでしょうか。律法学者になることは決して容易なことではありません。長い年月をかけて律法を学び訓練を受けます。そして、正式に任命されて律法学者となるのです。何を思ってその長い準備の期間を過ごしてきたのでしょう。もしその人が敬虔なユダヤ人であるなら、何よりも神に仕える大きな喜びをいだきつつ、律法を学び訓練を受けて備えてきたに違いありません。

 パウロもキリスト者になる以前はガマリエルという有名な先生のもとでそのように神の律法を学んでいた人でした。使徒言行録において、そのパウロがかつての自分を振り返って次のように語っています。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」(使徒22:3)。パウロだけが特別だったのではないでしょう。誰でも当初は、神に仕える純粋な熱意をもって律法を学んでいたであろうと思うのです。

 しかし、そのようにして律法学者となった人たちが、イエス様の目にはこのように映っていたのです。こうなってしまったということでしょう。純粋な志をもって歩み始めた彼らが、いつの間にか、長い衣をまとって歩き回ることを好むようになりました。長い衣は権威の象徴でした。人々が彼らの権威を認めるということは、彼らにとって非常に大事なことでした。また、広場で挨拶されることを求めるようになりました。人々から敬われることが彼らの関心事となりました。会堂では上席、宴会では上座に座ることを望むようになりました。他の人より上に位置すると見なされることを望むようになりました。人々から敬虔な人として尊敬されることは極めて大事なことでした。祈りさえも敬虔さをアピールするための手段となりました。

 いったい何が起こったのでしょうか。何が変わってしまったのでしょうか。問題は明らかです。関心が神から人へと移って行ったということです。神がどう御覧になるかということよりも、人がどう見るか、どう評価するか、どういう扱いをするかということの方がはるかに重要になっていったということです。イエス様の眼差しは確かにそこに向けられていました。そして、イエス様はよくご存知だったのです。いや、彼らも本当は知っているはずでした。そして、ここにいる私たちも知っているのでしょう。本当に意味を持つのは人がどう見るかではないし、どう評価するかでもないということを。主は言われます。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と。

乏しい中から献げた人

 そのようにイエス様は神の眼差しをもって人に目を向けておられます。そんな話がさらに続きます。

 「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』」(41‐44節)。

 レプトン銅貨二枚というと、今日の金銭感覚で言えば数十円といったところです。しかし、イエス様はそれが「乏しい中からの献げ物である」ことを確かに見ておられました。「皆は有り余る中から」、そして、「この人は、乏しい中から」。イエス様の言葉の中には明らかな対比があります。

 「乏しい」というのは、「足りない」ということです。「必要な分さえ欠けている」ということです。むしろ自分が必要としている。お金について言えば、これはとても分かり易いと思います。ある人は自分の経済的な状態を、この貧しいやもめに重ねて見るでしょうし、ある人は自分の状態をここに出て来る「大勢の金持ち」に重ねて見ることができるかもしれません。実際には多くの人は「その中間ぐらい」と言うかもしれません。

 しかし、考えてみますなら「乏しい中から」という言葉が関係するのは、必ずしもお金の話だけではないはずです。経済的に豊かな人が「乏しい」という言葉と全く無縁かと言えば、決してそうではない。「お金はあるけれど、時間がない」という人だっているでしょう。お金も時間もあるけれど、年老いて体力が乏しいという人だっているでしょう。あるいは能力に乏しい、愛に乏しいと感じている人だっているのでしょう。

 そのような乏しさの中で、私たちはしばしば考えるのです。豊かだったら献げられるのに、と。時間がもっとあったら神様に奉仕できるのに。体力があったら、若さがあったら、もっと仕えることができるのに。もっとあの人のように有能だったら、あの人のように愛に溢れた人だったら、神様のお役に立てるのに、と。

 しかし、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。乏しい中からの献げ物だからレプトン銅貨二つなのです。そんな献げ物が、実際的に何の役に立つかと言われても仕方ない。そのような献げ物なのでしょう。しかし、それが役に立つかどうか、意味があるかどうかなど考えないで、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。

 僅かばかりのものです。忙しい人はレプトン二つ分の時間しか献げられないかもしれない。病気の人は、レプトン二つ分のことしかできないかもしれない。でも、イエス様はちゃんと見ておられるのです。「この人は乏しい中から献げたのだ」と。

 先ほど、律法学者たちについて、「問題は明らかです。関心が神から人へと移って行ったということです」と申しました。しかし、そこで言う「人」とは「他人」だけではないのです。そこには「自分」という人間も入るのです。そして、しばしば「自分」という人間の評価が何よりも重要になってしまう。そのようなことも起こります。

 このやもめは他人の目など気にしていなかった。それだけでなく、自分の目も気にしていなかったのです。もっともっと大事なことがあるから。もっともっと大事な方がおられるから。その方を思って、その方のために、「乏しい中から」精一杯献げたのです。そんな彼女にちゃんと目を向けている方がおられました。彼女にとってもっとも大切な神様の眼差しをもって見ていてくださる方が!主は弟子たちを呼び寄せて言われたのです。「「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。

信頼の献げ物

 そして、もう一つ。イエス様はこうも言われました。「この人は、・・・生活費を全部入れたからである。」と。生活費を全部入れたのは、明らかにそれでも大丈夫だと思っているからでしょう。自分が自分の生活を支えているのではない。神様が生かしてくださっている。その信頼があってこその献げ物だったはずです。

 ここに書かれているように持っている生活費を全部献げるというようなことは、恐らくは彼女にとって特別なことなのでしょう。彼女が毎日同じことを繰り返しているとは思えない。その日は彼女にとって特別な日だったのかもしれません。

 しかし、その特別な献げ物に見る「神への信頼」は一朝一夕で形作られるものではないでしょう。貧しい生活の中にあって、この日だけでなく、これまで毎日毎日、神に信頼して生きてきたということです。ならば、彼女の献げたレプトン二つは、「信頼に生きる日々の生活」をお献げしたものであるとも言えるでしょう。そのように、彼女がこれまでの生活において培ってきた「信頼」という献げ物。イエス様は確かにしっかりと見ておられました。

 そして、彼女のすべてを献げた「信頼」という献げ物にイエス様が目を留められたのは、他ならぬイエス様御自身が同じように「信頼」を献げようとしておられたからです。どのような形で。十字架の上で死ぬという仕方で。この世の目から見たら、まさに犬死にではありまあせんか。しかし、イエス様は自分の全てを献げてその命を神に信頼してゆだねたのです。そして、神はその御方を、復活させ、御自分の右の座に着かせられました。これがダビデの主でもあり、私たちの主でもある御方です。主は生きておられます。その主が、この聖書箇所に見るように、今ここに生きている私たちにも目を留めていてくださいます。

(祈り)

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