キリストの死によって
私たちはここに神を礼拝するために集まっています。私たちは神に祈りながら生活しています。しかし、そのような生活はこの国においては一般的ではないことを知っています。日曜日に教会に集まる人は、この国においては圧倒的に少数です。ですから、ともすると私たちは何か特別なことをしているかのように思ってしまいます。しかし、聖書の見方は違います。私たちは何も特別なことをしているわけではありません。本来の姿に戻って、本来のしているはずのことをしているだけなのです。
今日の聖書箇所にはこう書かれていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(21節)。本来無関係であるならば、「離れていた」ことが語られる必要はありません。「神から離れていた」と語られているのは、人間が本来神と無関係ではないからです。人間が本来神と共にあるべき存在だからです。しかし、離れてしまっていた。いやそれだけではありません。「敵対していた」というのです。言い換えるならば、神に背いていたということです。
遠ざけていたのは神の方ではありません。人間が、その行いによって、そして、その心において、神を遠ざけていたのです。イエス様はそんな私たちの姿を、父のもとから去って行った放蕩息子に喩えました。
しかし、そのように神から離れていた私たちに対して、神がしてくださったことを聖書は次のように語っています。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(22節)。
まず書かれているのは、神が和解してくださったということです。背いている者と和解してくださったというのですから、それは言い換えるならば「赦してくださった」ということです。しかし、そこにはただ「和解してくださった」「赦してくださった」ということだけが書かれているのではありません。「御子の肉の体において、その死によって」と書かれているのです。
「御子の肉の体において」とは、御子が人となられたことを指しています。イエス・キリストという御方の話です。「その死によって」とは、そのイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったということです。そのことによって、そのことのゆえに、神は「赦してくださった」というのです。
赦していただくとするならば、本来は赦していただく方が犠牲を払うのでしょう。これだけのことをしますから。これだけの苦しみを負いますから。だから赦してください、と。そして、償いきれなければ、赦しを求めることはできなくなるのでしょう。しかし、神は人間の側に償いの犠牲を求めることはしなかったのです。ただ「御子の肉の体において、その死によって和解してくださった」というのです。今日の福音書朗読に聞いたように、和解のために受けるべき杯は、私たちではなく、イエス様が苦しんで受けてくださいました。
そして、「御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」と続きます。「してくださいました」と訳されていますが、原文では「立たせてくださいました」という言葉が使われています。「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として、御自分の前に立たせてくださった」と書かれているのです。
私たちは「きずのない者」でも「とがめるところのない者」でもないことをよく知っています。「聖なる者」が私たちの完全であることを意味するならば、とても自分についてそのように語ることはできないでしょう。私たちは神から離れ、神に背いて生きていたというだけでなく、神から離れ、神に背いてきた私たちの罪は私たちの現在の生活の深いところにまで及んでいるのです。神に立ち帰った今もなお、罪との戦いは続いているのです。
しかし、そのような私たちを、神は「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのです。神はそのような者として私たちを見ていてくださる。それは私たちが何をしたかではなく、ただ「御子の肉の体において、その死によって」なのです。それが「和解してくださった」「赦してくださった」ということです。だからこそ、私たちはこうして神の御前において礼拝しているのです。だからこそ、私たちははばかることなく神に顏を上げて祈ることができるのです。
そして、そこにこそ私たちの希望があるのです。神が今、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのならば、やがて神がそのような者としてくださるからです。神の始められた救いは必ず完成するからです。そのような者として立たせてくださったのなら、終わりの日には、文字通り、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として立つことになるのです。
希望から離れてはなりません
それゆえに、このように勧められています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。必要なことは多くはありません。信仰に踏みとどまり、希望から離れないことです。
ここで「揺るぐことなく踏みとどまる」と訳されているのは、「土台の上にしっかりと立ち続ける」という意味の言葉です。既に述べてきたように、すべてはキリストによるのです。信仰の土台はキリストです。その土台の上に立ち続け、キリストを信じる信仰に踏みとどまるのです。そして、すべての希望はキリストによるのです。
私たち自身をどれだけ見つめていても、そこに希望が見えてきません。キリストこそが私たちの希望なのです。福音の希望から離れないということは、このキリストから離れないということです。
それゆえに、今日の朗読の後半にはこのような言葉が出て来ます。「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」。今日の説教題はここから取りました。27節全体はこうなっています。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)。
「秘められた計画」という言葉がありました。この「秘められた計画」は、以前の口語訳では「奥義」と訳されていました。日本語では通常「おうぎ」と読まれます。さて、「おくぎ」にせよ「おうぎ」にせよ、そのような表現から連想されるのは、特別な人々だけに知らされた秘密のようなものでしょう。実際、この「奥義」とも訳される言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パウロがそのような閉ざされた秘密を意味していないことは明らかです。それは「代々にわたって隠されていた」けれど、今や神によって明らかにされた神のご計画です。そして、それは特別な人に留められるのではなく、全ての人に宣べ伝えられねばならないものとして語らえているのです。
すべての人に宣べ伝えられるべきその「奥義」とは何か。いや、この問いは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。その奥義、その「秘められた計画」こそ、キリストなのです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。
先にも読みましたように、「神は御子の肉の体において、その死によって和解し」てくださいました。神は人間の側に償いの犠牲を求めることはせず、ただ「御子の肉の体において、その死によって」私たちを赦そうとされました。言い換えるならば、その奥義が、その「秘められた計画」が、「御子の肉の体において、その死によって」現されたのです。苦しみを厭わず十字架へと向かわれたあの御方を通して現されたのです。すなわち、このキリストによって、罪を赦して救われる神の愛が明らかにされたのです。神に背いたこの世界を、この私たちを、それでもなお愛される神の愛が明らかにされたのです。だからこそ28節においてパウロは「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだと言っているのです。そして、そのキリストが宣べ伝えられる時、それはもはや過去の人キリストではないのです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と。
この「あなたがたの内におられるキリスト」は二通りに理解することができます。一つは「あなたがたの共同体の内に」という意味合い。その意味では「あなたがたの間に」とも訳すことができます。もう一つは「あなたがた一人ひとりの内に」という意味合いです。内住されるキリストです。実際、他の手紙を読んでみますと、パウロその両方を考えているように思います。いずれにしても、キリストとの関わりは現在における関わりです。
それゆえに、キリストは私たちにとって、過去において屠られた和解のための犠牲に留まらないのです。もう一度27節と28節を続けてお読みします。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(27‐28節)。
「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」。そう書かれていました。この「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。そこにおいて想定されているのは子どもから大人への成長です。
先に見たように、神は既に私たちを「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として、御自分の前に立たせてくださいました。神は既に私たちをそのような者として見ていてくださいます。キリストの故に罪を赦し、そのような者として御前に立たせてくださっています。そして、私たちはその救いの完成へと向かっているのです。それが栄光の希望です。私たちはまだ子どもであるかもしれません。躓いたり、子どもじみた失敗を繰り返しているかもしれません。しかし、私たちはやがて成熟した大人になるのです。神から見ても、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」になるのです。
そのためにキリストに結ばれているのです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この御方こそ「栄光の希望」です。ならば大事なことは多くはありません。もう一度23節の前半をお読みします。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」。
たとえ自分や世の中に絶望することがあっても、キリストに絶望してはなりません。宣べ伝えられたキリスト、私たちの内にいてくださるキリストにしっかりと踏みとどまり、キリストから離れてはなりません。
(祈り)
私たち自身をどれだけ見つめていても、そこに希望が見えてきません。キリストこそが私たちの希望なのです。福音の希望から離れないということは、このキリストから離れないということです。
それゆえに、今日の朗読の後半にはこのような言葉が出て来ます。「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」。今日の説教題はここから取りました。27節全体はこうなっています。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)。
「秘められた計画」という言葉がありました。この「秘められた計画」は、以前の口語訳では「奥義」と訳されていました。日本語では通常「おうぎ」と読まれます。さて、「おくぎ」にせよ「おうぎ」にせよ、そのような表現から連想されるのは、特別な人々だけに知らされた秘密のようなものでしょう。実際、この「奥義」とも訳される言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パウロがそのような閉ざされた秘密を意味していないことは明らかです。それは「代々にわたって隠されていた」けれど、今や神によって明らかにされた神のご計画です。そして、それは特別な人に留められるのではなく、全ての人に宣べ伝えられねばならないものとして語らえているのです。
すべての人に宣べ伝えられるべきその「奥義」とは何か。いや、この問いは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。その奥義、その「秘められた計画」こそ、キリストなのです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。
先にも読みましたように、「神は御子の肉の体において、その死によって和解し」てくださいました。神は人間の側に償いの犠牲を求めることはせず、ただ「御子の肉の体において、その死によって」私たちを赦そうとされました。言い換えるならば、その奥義が、その「秘められた計画」が、「御子の肉の体において、その死によって」現されたのです。苦しみを厭わず十字架へと向かわれたあの御方を通して現されたのです。すなわち、このキリストによって、罪を赦して救われる神の愛が明らかにされたのです。神に背いたこの世界を、この私たちを、それでもなお愛される神の愛が明らかにされたのです。だからこそ28節においてパウロは「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだと言っているのです。そして、そのキリストが宣べ伝えられる時、それはもはや過去の人キリストではないのです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と。
この「あなたがたの内におられるキリスト」は二通りに理解することができます。一つは「あなたがたの共同体の内に」という意味合い。その意味では「あなたがたの間に」とも訳すことができます。もう一つは「あなたがた一人ひとりの内に」という意味合いです。内住されるキリストです。実際、他の手紙を読んでみますと、パウロその両方を考えているように思います。いずれにしても、キリストとの関わりは現在における関わりです。
それゆえに、キリストは私たちにとって、過去において屠られた和解のための犠牲に留まらないのです。もう一度27節と28節を続けてお読みします。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(27‐28節)。
「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」。そう書かれていました。この「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。そこにおいて想定されているのは子どもから大人への成長です。
先に見たように、神は既に私たちを「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として、御自分の前に立たせてくださいました。神は既に私たちをそのような者として見ていてくださいます。キリストの故に罪を赦し、そのような者として御前に立たせてくださっています。そして、私たちはその救いの完成へと向かっているのです。それが栄光の希望です。私たちはまだ子どもであるかもしれません。躓いたり、子どもじみた失敗を繰り返しているかもしれません。しかし、私たちはやがて成熟した大人になるのです。神から見ても、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」になるのです。
そのためにキリストに結ばれているのです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この御方こそ「栄光の希望」です。ならば大事なことは多くはありません。もう一度23節の前半をお読みします。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」。
たとえ自分や世の中に絶望することがあっても、キリストに絶望してはなりません。宣べ伝えられたキリスト、私たちの内にいてくださるキリストにしっかりと踏みとどまり、キリストから離れてはなりません。
(祈り)