2019年10月27日日曜日

「光あれ!」 

創世記1:1‐5

 本日の第一朗読では、創世記に書かれています天地創造物語の冒頭部分が読まれました。私たちは今日、特に3節の言葉を心に留めたいと思います。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)。

地は混沌であり
 その前の節において、「光あれ」と神が言われる前の状態が次のように描写されています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(2節)。「地は混沌であって」という部分は、以前の聖書協会訳では「形なく、むなしく」と訳されていました。二つの言葉からなる熟語です。聖書に三回しか出て来ません。地は形なく、むなしく、秩序もなく、存在の意味もない。まさに底なしの深みを闇が覆っているような虚無の世界。聖書は「地」――すなわちこの世界――の初めの状態を、そのような言葉をもって表現しているのです。

 その混沌と闇の世界に神が語りかけます。「光あれ」と。すると光があった。そこから全く新しいことが始まります。光と闇とが分けられます。一つ一つの秩序が生まれます。今日は「第一の日」の部分しか読まれませんでしたが、その後続くのは、神の創造の御業によってこの世界が形を取り、秩序があり意味がある世界になっていく物語です。「神は言われた」「そのようになった」が繰り返され、混沌の世界が、神の栄光の表現として造られた世界となっていくのです。

 この素朴な物語には、私たちが生きている「地」をどう見るか、この目に見える世界をどう見るかということについての、聖書の強烈な主張が込められています。それは何か。――この世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えてくださったのは神なのだということです。神の言葉と神の御業がなければ、この世界はもともと混沌であり闇でしかなかったのだ、ということです。そして最も重要なことは、今述べたことの当然の帰結となるわけですが、神から離れてしまうならば、この世界は初めの混沌と暗黒に戻らざるを得ないのだ、ということです。神が光を与えたのですから。神が秩序を与え、意味を与えたのですから。その神から離れてしまうならば、最初に書かれていた、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という状態に逆戻りしてしまうことになるのです。

 今申し上げたことは、聖書の別の箇所において、もっとあからさまに語られております。今から二千五百年以上も前、紀元前七世紀から六世紀にかけて、このメッセージを人々に激しく語った一人の人物がいたのです。その人の名はエレミヤと言います。彼は神に背いたイスラエルの民に、このような神の言葉を語りました。「まことに、わたしの民は無知だ。わたしを知ろうとせず、愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく、善を行うことを知らない」(エレミヤ4:22)と。

 そして、そのような人々が迎えることになる結末を、エレミヤは既に目の前に見ているかのように、このように語るのです。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた」(同23‐26節)。

 そこに書かれています「大地は混沌とし」という表現に見られるのは、先ほど創世記に見た「地は混沌――形なく、むなしく」という言葉なのです。旧約聖書に三回出てきますと言いましたが、その一つです。地は混沌としていた。そのような大地を「わたしは見た」と彼は言うのです。地は形なく、むなしくなり、光を失って真っ暗闇になってしまうことをエレミヤは見ていたのです。この世界に秩序を与え意味を与える神を離れるなら、そのように神に背いた世界はやがて確実に崩壊し、暗闇の中に落ちていくことを、エレミヤは心の目をもって見ていたのです。

 そして、エレミヤが語っていたことが真実であることを、イスラエルの民はやがて自ら歴史において経験することとなりました。ユダの王国は崩壊し、人々が依り頼んでいた神殿は焼き払われ、エルサレムの城壁は崩されて瓦礫の山となり、主だった人々はバビロンに連れ去られ捕囚となったのです。「大地は混沌とし、空には光がなかった。」――確かに、人々は現実にそのような世界を見ることとなりました。「大地は混沌とし、空には光がなかった」――その言葉はまさに彼らの人生における実感だったのです。

 そのような人々にとって、あの天地創造物語は、単なる遠い昔話やおとぎ話ではありませんでした。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」。そう語る初めの状態の描写は、まさに彼らの生きている世界の描写、彼らの生活の描写に他ならなかったのです。

神は言われた「光あれ」
 さて、《彼ら》の話をしてきました。ではそれから二千五百年以上後の《私たち》はどうなのでしょう。現代の多くの人にとって、この創世記の物語は、あまりにも原始的な、あまりにも素朴な物語に聞こえるに違いありません。しかし、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」というこの言葉は、私たちにとっていよいよ身近な言葉となっているのではないかと思うのです。実際私たちは、それこそ文字通り全地について、すなわち地球規模において、その現実を目にし始めているのではないでしょうか。

 しかし、そのように「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という言葉が自分自身との関わりにおいて読まれ、天地創造の物語がまさに《私たちの物語》として読まれる時にこそ、続く3節の言葉が私たちにとって大きな意味を持つのです。その混沌と闇の中に神の言葉が響き渡るのです、「光あれ」と。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)。そこから神の御業が始まりました。混沌と闇の状態を決定的に変えてしまう神の御業が始まりました。そしてこの後、物語は実に秩序正しく進んでいきます。「神は言われた」「そのようになった」「神はこれを見て、良しとされた」という言葉の繰り返しの中で、神の良しとされる秩序ある世界が造り出されていくのです。想像して見てください。この単純な繰り返しによる物語は、バビロンに連れ去られた民、混沌と暗闇を見ていた人々にとって、どれほど大きな慰めと希望を与える物語であったことかと思うのです。

 先ほど、「この世界に秩序と意味を与える神から離れてしまえば、この世界は初めの混沌に戻らざるを得ないのだ、という主張がここにある」と申しました。しかし、本当はもっと大きなことが語られているのです。それは「神が初めにこの世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えたのだから、混沌となった世界にも再び形を与え、秩序を与え、意味を与えることがおできになるはずだ」というメッセージです。世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできになる》ことを語る物語でもあるのです。

 あの「初め」において、混沌とした大地、闇が深淵を覆っているような世界を、神はそのまま捨てて置かれませんでした。ならば、今のこの世界も、神は混沌と暗闇の中に、そのまま捨てて置かれるはずがありません。混沌と暗闇の中にある人生も、神はそのまま捨てて置かれるはずがありません。神が語られるならば、神が「光あれ」と言われるならば、そこには光がもたらされるのです。そこには新しい秩序が生まれ、新しく意味が生まれるのです。新しい創造がそこで起こるのです。そこにこそ彼らの希望はあったし、そこにこそ私たちの希望もあるのです。

二度目の「光あれ」
 そして事実、神はこの世界に向かって、もう一度、決定的な仕方で、「光あれ」と語られたのです。そのことを私たちに伝えているのが、今日の福音書朗読で読まれた聖書の言葉です。ヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。

 この箇所が創世記の天地創造物語を念頭に置いて書かれていることは一目瞭然です。ここでキリストは「言」と呼ばれています。そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と語られているのです。言は人間となって、ナザレのイエスという人間として、この地上を歩まれました。すなわち、そのようにして神は、最終的に決定的な仕方で語られたのです。父なる神と一つである御子なる神をこの世界に送られることによって、神はこの世界に語られたのです。かつてこの世界の創造にたずさわった《言》が、神に背いて混沌となった世界に来られました。その言の内には命がありました。神の命がありました。そして、「命は人間を照らす光であった」と書かれています。そうです、あの時と同じ「光」です。いわば、神はあの初めの時と同じように、もう一度「光あれ」と言って、御子をこの世界に遣わされたのです。

 そして、神が「光あれ」と語られたのですから、既にこの地上に光がもたらされているのです。イエス様はこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。光は既に与えられているのです。ですから、イエス様と共にあるならば、その人は命の光を持つのです。もはや混沌の暗闇の中を生きていく必要はないのです。

 先ほど、「世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできになる》ことを示している」と申しました。神は二度目の「光あれ」を語られました。ですから新しい創造の御業は既に始まっているのです。馬小屋の中で生まれ、あのゴルゴタの十字架の上で死なれ、空になったあの墓において復活され、あのオリーブ山から天に挙げられた、あの御方を通して神が語られた「光あれ」。そこから新しい創造は始まっているのです。

 パウロもこう言っています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)と。そのような新しい創造がキリストの到来と共に始まっているならば、それは完成へと向かっているのです。そのキリストが私たちにも宣べ伝えられました。光なるキリストが私たちの人生にもたらされました。キリストに結ばれた私たちにおいても新しい創造が始まっています。そして、その善き神の御業は完成へと向かっているのです。

(祈り)

2019年10月20日日曜日

「愛によって動くのか、恐れによって動かされるのか」

2019/10/20  ルカ19:11-27

遠い国に旅立つ主人
 今日の福音書朗読ではイエス様のたとえ話が読まれました。なぜイエス様がこの話をなさったのかについては、次のように説明されています。「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」(11節)。

 エルサレムへと向かうイエスの一行の後に多くの人々が従いました。なぜでしょう。ナザレのイエスにおいて現れる神の力を見たからです。人々は神の力を持つ偉大な王となるべき人物を見たのです。だから大群衆がその後に従ったのです。今日の箇所の直後にはエルサレム入城の様子が次のように記されています。「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光』」(37‐38節)。

 そのようにイエス様のエルサレム入城は、まさに力ある王の入城に他なりませんでした。さらに言うならば、エルサレムはかつてダビデの王座があった場所です。そこにイエス様が入られるということは、ダビデの子孫として待ち望まれてきたまことの王メシアが即位して、神の国が実現し、完全な救いの世界が出現することを意味したのです。

 そのような人々の期待がピークに達していた。今日お読みしたのは、そのような場面です。そこで人々はまさに「神の国はすぐにも現れるものと思っていた」のです。そんな人々に向かってイエス様が話されたのが、今日お読みしたたとえ話なのです。

 イエス様は次のように語り始められました。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」(12節)。ここで語られている「立派な家柄の人」というのは明らかにイエス様御自身を指しています。イエス様の言わんとしていることは明白です。要するに、「神の国はすぐにも現れる」などということはない、と言っているのです。自分がすぐにメシアとして王座にすわり、神の国を実現することはない、と。自分はむしろ「遠い国」に旅立つのだと言われるのです。エルサレムは自分が王位に就く場所ではない。むしろそこから「遠い国」に旅立つのだ、と。

 そう主が言われるとおり、エルサレムにおいてイエス様は王として即位し救いの世界を実現することはありませんでした。私たちの知っているとおりです。イエス様はエルサレムで王となるのではなく、十字架にかけられて死ぬのです。その十字架において、その死において私たちの罪の贖いを成し遂げられ、復活されたイエス様は天に帰られることになるのです。このルカによる福音書は、イエス様の昇天の場面で終わります。

 もちろん、このたとえ話にあるように、イエス様はやがて王として再び帰って来られます。これを教会は「キリストの再臨」と呼んできました。私たちも使徒信条において「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白しているとおり、キリストが王として再び帰って来られることを信じているのです。

 しかし、ここで主はあえて「遠い国に旅立つ」という話にしています。つまりそれは「すぐに帰って来ることはない」ということを意味します。確かに帰って来る時には、王位を受けて帰って来ることになります。しかし、それは遠い先になると主は言われるのです。実際、キリストが再び来られるという約束から既に約二千年経ちました。まだ戻っては来られません。神の国は現れていません。救いの世界は実現していません。

 これがこのたとえ話を聞いていた人々の立ち位置であり、今日これを読んでいる私たちの立ち位置でもあります。私たちはまだ神の国の到来を見ていません。しかし、やがて到来することは知らされています。ならば重要なのは待望しつつある「今」をどう生きるのかということです。それゆえイエス様もこのたとえ話において、主人の帰りがいつになるのかという話はなさいません。そうではなく、主人が旅に出ている間にどう生活すべきなのか、という話をなさるのです。すなわち、この世における信仰生活の仕方です。そこでイエス様は今日お読みした「ムナのたとえ」をなさったのです。

主人を待つ僕として生きる
 この「ムナのたとえ」に良く似た話をご存じでしょうか。マタイによる福音書に書かれている「タラントンのたとえ」です。ただ、この二つは確かに似ているのですが、それだけに違いもまた顕著です。例えば、タラントンという通貨の単位とムナという通貨の単位。「タラントンのたとえ」では、ある人は五タラントン、ある人は二タラントン、ある人は一タラントン受けています。一番少なく託された人でも一タラントン。一タラントンと言えば、だいたい今日の六千万円に相当すると思ってください。これに対して、今日の話に出て来る一ムナとは、その六十分の一に相当すると思っていただいたら良いでしょう。それを渡して「わたしが帰って来るまで、これで商売しなさい」(13節)と言うのです。

 そのように、託されている額が違う。桁が違うのです。今日の聖書箇所において語られているのは、明らかに託されている「小さな事」についての話です。10節にも「ごく小さな事」と語られているとおりです。先にも申しましたように、この話は私たちの信仰生活の話です。そこで私たちに託されている「ごく小さな事」がある。それをどうするのか、という話です。私たちの人生には確かに「大きな事」もあります。しかし、人生を構成する大部分は、日常の「ごく小さな事」です。そして、「ごく小さな事」に対する態度によって人生そのものが決まってくる。それもまた事実です。

 今日お読みした福音書には三人の場合が取り上げられています。明らかに重要なのは三人目です。まずそこから見ておきましょう。彼は主人が帰ってきた時、託されていた一ムナを差し出してこう言うのです。「御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」

 「恐ろしかったのです」と彼は言いました。そのように、彼を動かしていたのは「恐れ」でした。託された小さなこと。一ムナ。これについて何かをすれば、失敗をするかも知れません。主人に叱られるかも知れません。罰せられるかもしれません。ならば主人の機嫌を損ねるようなことはしないほうがよい。何もしないほうがよい。「布に包んでしまっておきました」というのは、要するに「何もしませんでした」ということです。何もしないのですから、失敗もありません。

 この言葉の背景として、当時のユダヤ人たちの姿を考えることもできるでしょう。ユダヤ人、特にファリサイ派の人たちは、律法に記されていることを生活の隅々にまで適用して生きようとしていました。それ自体は真面目な志です。しかし、それが「恐れ」によって支配されるとどうなりますか。一つ一つの小さな行動について、「もしかしたら神の律法に違反をしているかもしれない。神から罰せられるかもしれない」と恐れを抱くことになるのでしょう。

 例えば、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と律法にあります。では火をつけることはどうなのか。これは仕事になるかもしれない。律法違反になるかもしれない。ならば禁止しておいた方がよいでしょう。ということで、多くの禁令が定められました。最終的に安息日についてだけでも1521の禁止事項が定められるに至ったのです。

 確かに、それをしないことによって違反はしない。失敗はしない。しかし、そのようにして戦々恐々として、「とにかく背くような行動は何一つしませんでした」という人生、「一ムナは布に包んでしまっておきました」という人生を神は喜ばれるのでしょうか。あるいは律法違反の話に限らず、もっと広い意味で、とにかく落ち度なく、失敗なく、無難にやり過ごすだけの人生を、神は喜ばれるのでしょうか。

 いいえ、そうではないのです。イエス様はたとえ話をこう続けるのです。「主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう』」(22節)。「その言葉」というのは、「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」と言った僕の言葉です。つまりその言葉自体を主は問題にしているのです。

 確かに間違ったことはしなかったかもしれない。失敗はしなかったかもしれない。しかし、その言葉自体、その思い自体が間違いであり、失敗だということです。よくよく考えてみれば、彼が言っていることは、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言っていた人々と、少しも変わらないのです。

 信仰生活において重要なのは、間違ったことをしない、ということではないのです。「あれをしてはならない」「これをしてはならない」を守ることが信仰生活なのではないのです。もっと大事なことがあるのです。それを私たちは他の二人に見るのです。

 最初の者が進み出て言いました。「御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました」。明らかなことは、この男、主人のために何かをしたということです。「一ムナ」でできることは小さなことかもしれません。でも、とにかく主人のために、主人のことを思って何かをやったのです。「十ムナもうけました」はその結果に過ぎません。主人は何と言っているでしょう。「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」。主人は、「ごく小さな事に忠実だった」と言ったのです。そこを見ておられた。忠実であるとはどういうことでしょう。小さな事についても、主の僕として行ったということでしょう。すなわち、主人に喜んでいただくために、主人のことを思って行ったということでしょう。

 このイエス様のたとえ話を読みますと、イエス様に出会って変えられた、元ファリサイ派パウロのことを思い起こします。彼はコリントの人たちに次のように書いています。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(2コリント5:9)。生きても死んでも、とにかく主に喜ばれる者でありたい。それがパウロの最大の願いであり人生の意味だったのです。そして、コロサイの信徒たちにこう勧めます。「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように」(コロサイ1:10)。どう見ても彼はもはや「一ムナは布に包んでしまっておきました」という人ではありません。

 一ムナを用いる。それは小さな事です。私たちの人生はそのような小さな事の連続です。小さなことを、何を考えて行うのか。――そのことによって私たちの人生は決まってきます。一ムナを用いれば、もしかしたら一ムナを失うかもしれません。しかし、それでも良いのです。主の目から見るならば、恐れに捕らわれて「一ムナは布に包んでしまっておきました」と言うよりもずっと良いことなのです。

 どのような状況にあっても、私たちが主のために為し得る「小さな事」が必ずあるはずです。それを主に喜ばれることを考えて行っていく。それが今、この時を生きる信仰生活において重要なことなのです。

(祈り)

2019年10月6日日曜日

「小さな事に忠実でありなさい」

ルカ16:1-13 

風変わりなたとえ話
 今日読まれましたのは、イエス様の一風変わったたとえ話です。イエス様の語られたたとえ話そのものは8節前半までと見て良いでしょう。こんな話です。

 ある金持ちに一人の管理人がいました。管理人というのは、主人の財産と商売の一切を託され、取り仕切っている人です。信頼されてその務めを与えられているのです。しかし、その管理人が主人の信頼を裏切りました。財産の無駄遣いが発覚したのです。管理人は主人から責任を問われることとなりました。解雇は確実です。彼は危機に直面することになりました。ここで信用を失った者が、他で同じ仕事に就けることはまず考えられません。とはいえ肉体労働する力もない。物乞いをするのはプライドが許さない。困った彼はいろいろと考えたあげく、ついに名案を思いつきます。「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ!」

 早速彼は計画を実行に移します。主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に言いました。「わたしの主人にいくら借りがあるのか」。その人は油百バトスの借りがありました。百バトスとは約2300リットル。相当な量です。単なる個人的な借りというよりは、商売における取り引きの話でしょう。管理人は彼に言いました。「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。」なんと証文の額を半額にしてしまったのです。当然、減額された人は大喜びしたに違いありません。すかさず管理人は言っただろうと思います。「この恩を忘れるなよ」と。

 次の人にも彼は言いました。「あなたは、いくら借りがあるのか」。小麦百コロスの借金がありました。小麦約23,000リットル分です。管理人は彼にも言いました。「これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。」そして、彼にも言ったことでしょう。「この恩を忘れるなよ。」――このように、自分の立場を利用して、不正に不正を上塗りするようなことを管理人がしたという話です。

 今日の第一朗読では、アモスの預言が読まれました。「エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう」と悪い商売人たちが言うわけです。だれにも分からないと思っている。けれど神様は見ておられるのです。「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」と神様は言われるのです。このような聖書の言葉を聞いて育った人たちが、イエス様のこのたとえ話を聞いたなら、何を考えるのでしょう。この管理人の不正のようなことも神様は絶対に許されるはずがない、と当然そう思うでしょう。

 ですから、イエス様の話を聞いていた弟子たちは、物語の結末をある程度予想していたと思います。きっとこう続くに違いない。――「しかし見よ、この悪事は主人の知れるところとなった。この管理人は厳しい裁きを受けることとなった。人は蒔いたものを必ず刈り取ることになるのだ!」…と、イエス様が続けると思いきや、なんとイエス様はこう締めくくられたのです。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」。

 さて、この予想を裏切るような展開において、イエス様はいったい何を仰りたいのでしょう。続きを聞いてみましょう。

主人がほめた賢さ
 イエス様はこのように言われます。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」(8節後半)。聞く人にとっては、この管理人の「不正」が気になるわけですが、イエス様が取り上げておられるのは「賢さ」というテーマのようです。主人の言葉を思い起こしてください。主人は何もこの管理人の不正をほめたわけではありません。「抜け目のないやり方」――直訳すれば「賢く行ったこと」をほめたのです。

 彼の賢さとは何でしょう。それは、終わりに備えた、ということでした。解雇は確実でした。彼は管理人としての終わりに直面していました。しかし、彼はその終わりのことだけを考えてはいませんでした。終わりのことを思い煩って、そこに留まってはいませんでした。大事なのは「終わりの時」ではなく「今」だからです。今、与えられている選択肢は何なのか。今、どのような行動が可能なのか。具体的には、今、与えられているものをどのように用いることができるのか。彼はそのことを考えて、行動したのです。

 「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」。この点に関しては、信仰者よりも世の人の方が優っているではないかと主は言われます。実際、危機が訪れた時、破局が近づいた時、終わりが近づいた時、この不正な管理人が見せたような賢さは、この世においていくらでも見られるのでしょう。

 しかし、「終わりに」について言うならば、私たちこそ、本当は決定的な危機、決定的な「終わり」について主から聞かされているはずなのです。私たち自身の人生もいつか必ず終わりを迎えます。この世もまた必ず終わりを迎えます。そして、必ず神の御前に立つことになるのです。この管理人と同じように、「会計の報告」を出すことになる。私たち自身の人生が問われることになるのです。

 必ずすべての人に訪れる終わりに備えるならば、終わりのことだけを考えていてはなりません。終わりについて思い巡らして、そこに留まっていてはなりません。大事なのは「終わりの時」ではなく「今」なのです。今、与えられている選択肢はなんなのか。今、どのように行動することが可能なのか。今、与えられているものをどのように用いることができるのか。

不正にまみれた富で友達を作れ
 そこでイエス様は次のように話を続けられます。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)。――イエス様は、誰もが受け入れることができるようなお上品な表現を用いません。極めて大胆かつ過激な物言いで私たちに迫ります。

 「不正にまみれた富」。それは必ずしも「不正で得た富」という意味ではありません。「天の宝」に対する「この世の富」という意味合いです。この世の「お金」の話です。主は「お金で友達を作りなさい」と言われるのです。どう思われますか。イエス様、そんなこと言っていいのでしょうか、と言いたくなるかもしれません。

 しかし、「お金で作った友達なんて本当の友達ではない」――などと正論を言う前に、私たちは考えなくてはならないことがあると思うのです。私にしても、皆さんにしても、今こうして生きているのは、誰かがお金を使ってくれたからでしょう。今こうして誰かとの関わりに生きられるのも、誰かがわたしや皆さんのためにお金を使ってくれたからでしょう。

 ここに会堂が建っていて、誰かの信仰の友でいられるのも、誰かがお金を出してくれたからでしょう。今日は世界聖餐日ですが、「世界宣教の日」でもあります。そもそも、日本の教会が世界の教会にとって信仰の友でいられるのも、この国に宣教師を送ってくれた国々の人たちが、私たちのためにお金を使ってくれたからでしょう。私たちはそれぞれ誰かの愛によって支えられて生きているのです。それは抽象的なことではなくて、具体的にお金や時間や労力が費やされ、犠牲が払われることなのでしょう。そのように誰かによって友とされてきた私たちに対して、主は言われるのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と。

 そして、イエス様は言われるのです。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と。「永遠の住まいに迎え入れられる」と言う場合、その意味上の主語は第一には神様です。しかし、話の流れから言いまして、ここでは明らかに神様のことだけが考えられているのではありません。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」――その「友達」もまたそこにいるのです。誰が私たちを永遠の住まいに迎え入れてくれるでしょうか。それはすなわち、与えられているものを、誰のために用いてきたのでしょうか、ということでもあります。こうして見ると、「不正にまみれた富で友達を作れ」という言葉は極めて過激な表現ではありますが、今、この時に、富をどう使うかを考える上で、極めて重要なことを、イエス様は教えてくださっていることが分かります。

小事に忠実であれ
 そして、さらに主はこう言われます。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」(10‐12)。

 もちろんお金はあくまでもお金、この世に属するものであり、永遠の価値を持つものではありません。教会に託されているのは、神の国の福音であり、永遠の救いをもたらす神の御言葉です。信仰者が常に目を向けるべきは、この世の富ではなく、永遠なる神の国の豊かさです。私たちは上にあるものを求めるのです。その意味では、確かにお金に関わることは、所詮はこの世に属することであり、永遠なることに比べて、「小さいこと」とも言えるのでしょう。しかし、そこでイエス様は「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」と言われるのです。

 この世の富は、一時的に託されているものに過ぎません。管理人はあくまでも管理人に過ぎません。しかし、その託されているごく小さな事に忠実でなければ、大きなことを任せられるか、永遠なるものを任せられるか、と主は言われるのです。「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」と。

 そこでイエス様は最後にこのように締めくくられるのです。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(13節)。神に仕えるならば、富に「仕えて」はならないということです。富は「仕えるべきもの」ではなく、主人である神に託されたものとして「使うべきもの」です。その用い方において、私たちは小さなことに忠実であるかが問われます。その用い方において、終わりに向かう私たちの賢さが問われます。

(祈り)

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