2020年10月25日日曜日

「良きものを心に留めて生きること」

 箴言 8:22‐31


天地創造に関わっていた神の知恵

 今日の第一朗読では箴言が読まれました。そこには「わたし」という言葉が繰り返されていました。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」(22‐24節)。

 この「わたし」とは何者でしょうか。少し前の12節に「わたしは知恵」と書かれています。今日朗読された聖書箇所においては、「知恵」が語っているのです。続く25節以下にはこう書かれています。「山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが/わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵も/まだ造られていなかった」(25‐26節)。

 そこにはまだ人間は登場してきません。創世記には「主なる神は、土の塵で人を形づくった」(創世記2:7)と書かれていますが、その地上の塵すらもまだ造られていない時に、既に「わたしは生み出されていた」と言うのです。知恵は人間が人間に伝えます。知恵を伝えることのできる知恵ある者は知者とか賢者と呼ばれます。しかし、「知恵」そのものは人間に由来するのではありません。人間などまだ影も形もなかった時に、既に「知恵」は存在していたというのです。

 そして、さらに27節以下にこう書かれています。「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」(27‐29節)。

 ここに語られているのは神の天地創造の話です。天地創造において、知恵が、「わたしはそこにいた」と言っているのです。「そこにいた」というのは、ただ存在していたということではなく、「関わっていた」という意味です。天地創造に関わっていたというのですから、この「知恵」とは天地を造られた神の「知恵」です。

 この世界の成り立ちに神の知恵が関わっているという認識は、古代から、この世界を見つめる人々に共通した、一番素朴な認識であると言えます。例えば、他にも詩編104編などにも見られます。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」(詩104:24)。この自然界にはまさに神の知恵が働いたとしか言いようがない美しい秩序があり、法則があり、仕組みがあります。詩編の詩人はその神の知恵に圧倒されているのです。そのような、この被造物世界に現れている神の「知恵」がここで語っているのです。


同じ神に造られた人間として

 さて、続く30節以下に進む前に、今日お読みした「箴言」の言葉を伝えてきたイスラエルの民のことを考えてみたいと思います。

 イスラエルの民は、常に異なる宗教と文化を持つ諸国民との関わりの中に置かれていました。ソロモン王の時代、周辺諸国との貿易は盛んに行われるようになり、急速に国際化が進みました。ソロモン王の後、王国は分裂し、やがて北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国はバビロニアによって滅ぼされます。生き残ったイスラエルの民は、固有の国土を失い、異教の大国の支配下に置かれました。こうして、イスラエルの民は、バビロニア、ペルシア、ギリシアの支配のもとに生き続けたのです。そのように諸国民との関わり、あるいは諸国民の支配下に置かれている民として、イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことでした。彼らは存続し続けるために、自分たちが何者であるかを、常に意識し続ける必要があったのです。

 それゆえに彼らは自分たちの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの物語を忘れることなく子から孫へと伝えていきました。出エジプトの物語を忘れることなく伝えていきました。シナイ山における主との契約について語り伝えました。イスラエルに与えられた律法を保ち続けました。メシアの到来について語り続けてきました。そのようにして、彼らは、強烈なアイデンティティを保持し続けました。イスラエルがイスラエルであり続けることなくして、私たちは今このようにして聖書を手にしていることはなかったでしょう。

 しかし、そのような聖書の中に今日読んだ「箴言」も含まれているのです。それはある意味でとても不思議なことであると言えます。というのも、この「箴言」の中には、イスラエルのアイデンティティとは何の関係もない、むしろイスラエル以外の国々に由来する格言が少なからず入っているからです。

 例えば、箴言の中には「マサの王レムエルが母から受けた諭しの言葉」(31:1)というものも含まれているのです。「マサの王レムエル」というのは異国の王です。その王が母親から受けた教訓が入っているのです。ゆえに、この部分をアラビアの格言集からの引用であると考える学者もいます。そのような言葉が入っているのです。実際、「箴言」を読んだ人はすぐに気づくと思うのですが、ここに含まれる格言の多くは、何もイスラエルに固有のことではないのです。人間なら誰でも「そうですよね」と言える言葉がたくさん書かれているのです。例えば、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(27:1)という格言。語られていることは、イスラエルの民であろうがなかろうが関係ないでしょう。

 そこで先ほどの続きをお読みしたいと思うのです。天地創造に関わった「知恵」が、30節以下において、このように語っているのです。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」(30‐31節)。

 良く聴いてください。「知恵」は「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と言っているのです。そこにはイスラエルだけではなく「主の造られたこの地上の人々」全体が視野に入っています。それは「神の土地である世界」というのが直訳です。そこではまた「人の子ら」が視野に入っているのです。すべての人間です。神の知恵は、「人の子らと共に楽しむ」と言っているのです。「人の子ら」ですから、そこでは当然のことながら、イスラエルと他の人々との違いよりも、むしろ人間として共通のことに目が向けられているということです。言い換えるならば、神に造られた人間としてイスラエルの民も他の諸国民も同じ地平に立っているのです。


この世に置かれている教会として

 さて、先ほど「イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことであった」と申しました。同じことはキリスト教会とキリスト者についても言えるでしょう。教会もまた、この世界において、様々な異なる宗教と文化を持つ人々との関わりの中に置かれています。私たちが日常生活を共にし、仕事を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そのような国に存在する教会として、教会がキリストの教会として、またキリスト者がキリスト者としてのアイデンティティを保ち続けることは極めて重要なことです。今日の福音書朗読においても、イエス様が言っておられましたでしょう。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」(マタイ10:32)。そこではキリスト者であることを意識し、人々の前で表明して生きることが求められているのです。

 しかし、そこでなお私たちは、今日読みました「知恵」の語りかけを聞かなくてはならないのです。私たちは、神が、イエス・キリストを遣わされた救いの神であると同時に、天地を創られた創造の神でもあると信じているのです。神がその知恵をもってこの世界を造られた。そこで必然的に教会とキリスト者だけでなく、創造された人間と世界全体が視野に入ってくることになります。そこでは教会とこの世の違い、キリスト者と他の人々との違いよりも、むしろ共に神によって造られた人間として、共通のことに目が向けられることになるのです。キリスト者はただこの世に福音を伝える者として《向き合って》立つだけでなく、同じ人間として、この世界の全ての人間と《並んで》創造の神の御前に立つのです。

 そのように《並んで》立つということとの関連で思い起こされるのは、フィリピの信徒への手紙に書かれているパウロの言葉です。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(フィリピ4:8、新366頁)。

 ここで語られています「真実なこと」「気高いこと」「正しいこと」云々といった徳目は、何もキリスト教会やキリスト者に固有のものではありません。ギリシアの思想家もまた語っていたことなのです。パウロはここで教会の中のことを語っているのではなく、フィリピの教会が置かれているギリシア・ローマ世界を念頭に置いて語っているのです。パウロはそこで、「あなたがたが生きている異教的世界は迷信と偶像礼拝と不道徳だけの真っ黒な世界だ」とは言っていないのです。そこに良きものを見いだしたら、それを心に留めなさい、と言っているのです。

 先に申しましたように、私たちが日常生活を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そこには未信者の夫、未信者の妻、未信者の同僚や友人たちが共にいます。それらの方々に対して、キリスト者として向き合うことは大事ですが、それと共に重要なことは、神に創造された者として、同じ人間として、並んで立つことでもあるのです。そして、身近な人々の中に、パウロが言いますように、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することを見出してそれを心に留めることが大事なのです。そのように同じ人間として共に立ってこそ、「人間」に与えられたキリストの救いの恵みもまた共有されていくことになるのです。


(祈り)

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