2022年8月10日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 2:11~17

ペトロの手紙一 2:11‐17

 今日の箇所には「悪人呼ばわり」(12節)という言葉が出てきます。当時のキリスト者が、人々から「悪人呼ばわり」されていたという事情が伺えます。具体的にどのようなことを言われていたのかは分かりませんが、まだ国家レベルの迫害が始まる以前から、様々な謂われのない誹謗中傷を受けていたようです。15節に書かれている「愚かな者たちの無知な発言」も同じです。これはもう少し広く、キリスト者や教会に対する誹謗中傷だけでなく、キリスト御自身やキリストの父なる神、あるいは神を信じる信仰そのものに対する暴言を含むものと考えられます。

 そのように、キリスト者となってからその信仰の故に嫌な思いをすることがあったとしても決して驚くに価しないということは、私たちの心に留めるべきことなのでしょう。それはキリスト者が初めから経験してきたことなのです。そのようなことが起こり得るこの世に、私たちは「仮住まい」の生活をしているのです。「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」(11節)と書かれているとおりです。

 旅人であるとは目的地があるということです。放浪者ではありません。モーセに率いられていたイスラエルの民が約束の地に向かっていたように、私たちもまた神の国へと向かっているのです。この世界は、辛いこともたくさんありますが、これが私たちの最終的な目的地ではないのです。

 しかし、だからと言って、「旅の途中で嫌なことがあったとしても気にするな」という話をするために、このことを言っているのではありません。この地上に生きるキリスト者には、この世における責任があるのです。イスラエルが諸国民の祝福のために地上に置かれていたように、私たちもまた諸国民(異教徒と訳されている言葉を直訳すれば「諸国民」)のために置かれているのです。

 9節に次のように書かれていたことを思い起こしてください。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(9節)。それゆえに、その民が地上の諸国民の間でどう生きるかが問題になってくるのです。そこで具体的に心に留めるべきことがあります。それが今日お読みした箇所に書かれている内容です。

 消極的には「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(11節)ということです。「肉」というのは肉体のことではありません。人間の罪深い性質のことです。その肉が欲するところに従うとどのような形で現れてくるかはガラテヤ書5章に列挙されています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5:19‐21)。このようなことを行う肉の欲するままに生きてはならないということです。

 肉は救われた魂(1:9)に戦いを挑んできている敵なのですから、仲良くしてはならないのです。遠ざけなくてはなりません。キリスト者として謂われのない中傷を受けるのなら良いのですが、肉に従って生きて肉の業をばらまいて「謂われのある中傷」を受けるようであってはならないのです。

 これはより積極的に表現をするならば、「立派に生活しなさい」(12節)となります。この「立派に生活すること」あるいは「立派な行い」というのは、信仰から生じる行いのことです。キリストを信じ、キリストを愛するところから、そのようなキリストとの生き生きとした交わりから生まれる行いです。そうでなければ人々は「神をあがめるようになる」のではなくて、あなたを誉めるようになるでしょう。

 そこには「よく見て」という表現があります。これは観察するという意味です。しかも、継続的に観察しているという表現になっています。私たちがキリストについて語ったり救いについて語ったりする言葉を人々は聞いてくれないかもしれません。しかし、キリスト者の生活を見てはくれています。観察してくれています。そこにおいては、言葉よりも姿そのものが雄弁に語ります。そこでは見せかけは通用しません。家族の中では特にそうでしょう。本当にキリストから来ていることが重要なのです。すなわち根底にある信仰生活そのものが問われるということです。

 13節以下には、より具体的に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(13‐15節)と書かれています。そのように語っているのはペトロだけでなく、既にパウロも語っていることです(ローマ13:1以下)。

 どうしてこのようなことが語られなくてはならないのでしょうか。それは宗教的熱心あるいは熱狂主義というものが反社会的な行動を生み出すことがあるからです。特にその熱心が「怒り」という要素と結びついた場合はそうなります。実際、熱心党と呼ばれるセクトはその道を行ったのです。今日においても実例に事欠くことはないでしょう。

 そのような方向に対して、ペトロはノーと言っているのです。キリスト者が誹謗されるなら、キリスト御自身が中傷されるなら、その口を封じるために必要なのは暴力でも議論でもないのです。善を行うことだ、とペトロは言うのです。この「善」もまた、当然のことながら信仰から生じる善き行動を意味するのでしょう。ですから「主のために」と書かれているのです。あえて暴力を選ばない、あえて論争を選ばない、そうではなくて愛することを選ぶ時、人々はそこに「主のために」生きているキリスト者の姿を見ることになるのです。

 そして、さらにペトロは言います。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(16節)。パウロも言っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。

 キリスト者は律法のもとに生きてはいません。キリスト者の生活は戒律に支配された生活ではありません。「このことは禁じられているから、わたしはしない」という生き方はしません。「このことは禁じられていないから、やっていいのだ」という考え方もしません。

 そうではなくて、「私を愛していてくださる神は何を望んでおられるのだろうか」を考えるのです。「神の僕として行動しなさい」とはそういうことでしょう。本当の自由とは、肉に従う自由ではありません。それでは罪の奴隷になってしまいます。そうではなく、神の僕として仕えることのできる自由です。時には自分の権利を放棄することもできる自由、あえて仕えることもできる自由、愛することのできる自由です。

 そこには「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(17節)と書かれています。先に述べた、制度に従うこともそうですが、「そうせざるを得ないから」と言って従うのは自由人の姿ではありません。そうではなくて、神がお望みならば喜んでそうします、というのが本当の自由な人の姿なのです。自由な人として生きることを求めましょう。

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