2026年9月27日日曜日

「聖霊の賜物」

2026年9月27日 主日礼拝説教 

聖書:コリントの信徒への手紙一 12:1-11

特別な力が与えられたら?
 福音書を読みますと、そこにはイエス様のなさった悪霊の追放や病気の癒しなど、神の力による数々の奇跡が描かれています。使徒言行録を読みますと、イエス様だけでなく、使徒たちによっても数々の奇跡がなされている場面に出会います。

 そして、今日お読みしましたコリントの信徒への手紙にも、このようなことが書かれていました。「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」(8‐10節)。

 「知恵の言葉」「知識の言葉」「奇跡を行う力」など、ここに書かれているのが具体的にどのようなものであるか明確に説明されているわけではありません。しかし、ともかく超自然的な能力について書かれていることはわかります。コリントの教会には、このような超自然的な能力が与えられている人が少なからずいたようです。

 もちろん信仰生活とは神と共に生きることですから、信仰生活において人間の理解を超える神の力の現れがあっても、それ自体はある意味では不思議なことではありません。私たちもまた気づいていないだけで、本当は人知を超えた神の力の現れによって守られ、支えられ、助けられて今ここにいるとも言えるのでしょう。しかし、そのような超自然的な神の力が顕著に日常的に現れていたのが、この手紙が宛てられているコリントの教会だったのです。

 さて、そのような神の力が与えられたらどうなるかを考えてみましょう。先ほどのリストの中で一番わかりやすいのは「病気をいやす力」(9節)だと思います。例えばそのような力について考えてみましょう。ある日、「病気をいやす力」が与えられました。その人が手を置いて祈ると、病気の人が次々にいやされていきます。その人はいったい何を考えるでしょうか。

 その人はこう考えるかもしれません。「この特別な力が与えられたのは、これをもって神と人とに仕えるためだ。わたしには特別な務めが与えられているのだ。」そのように「務め」が与えられたと理解して、一生懸命に仕える。その結果として、病を負って苦しんでいる人たちの間において具体的な働きが進められていくでしょう。まさにその人を通して神の働きが現れることになるでしょう。

 しかし、それとは異なったシナリオも考えられます。その人は他の人にできないことができることによって、自分は他の人よりも優れていると考えるようになりました。そして、他の人たちを自分より下に見るようになりました。自分の特別な力を利用して、他の人々を支配するようになりました。こういうこともあり得ます。人は自分に与えられた能力をもって仕えることもできるし支配することもできるのです。

 さらにもう一つのことを考えてみましょう。そのような特別な力を与えられた人が二人いたとします。一人には「病気をいやす力」が与えられた。もう一人には「預言する力」が与えられたとします。さてこの二人は何を考えるでしょう。

 彼らは考えました。「自分に与えられていない力がもう一人には与えられている。また自分に与えられている力がもう一人には与えられていない。それはなぜか。それぞれ務めが異なるからだ。仕える仕方が違うからだ。それらが異なるのは互いに補い合うためなのだ」と。そして、協力して働くようになりました。こうして彼ら二人を通して、苦しみを負っている人々の間で、神の働きが進められていきました。

 しかし、この場合も違うシナリオが考えられます。彼らは互いに与えられている能力を比較し合うようになりました。いったいどちらが優れているのか、と。こうして互いは対立するようになりました。周りの人々もこの対立に加わるようになりました。いったいどちらが優れているのか。どちらに付くべきか。こうして対立する二つのグループができあがりました。このようなこともまたあり得ることでしょう。人は自分に与えられた能力をもって仕える者として協力することもできるし、支配しようとする者として対立することもできるのです。

 さて、ここまでの話で分かりますように、このようなことは何も超自然的な能力に限ったことではありません。人は与えられている力をもって仕えることもできるし支配することもできる。協力することもできるし対立することもできるのです。

いろいろありますが
 そこで実際、コリントの教会はどうであったのか。どうもこの手紙を読む限り、第一のシナリオではなく、第二のシナリオに従って事は進んでいたようです。仕えるのではなく支配する方向に、協力し補い合うのではなく、対立し争い合う方向に事は進んでいたようです。それゆえにパウロは次のように書いているのです。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(4‐6節)。

 ここで繰り返されている言葉があります。「いろいろありますが」という言葉です。そうです「いろいろある」のです。この世では、ある能力や資質が「あるかないか」が重要視されます。「あるかないか」で自分と誰かとの比較が起こります。しかし、聖書は「あるかないか」ではなくて「いろいろある」と言うのです。あの人に与えられているものが自分にないとするならば、自分には別なものが与えられているのです。「いろいろある」のですから。そうです。与えられているものが異なるだけの話なのです。

 今、「与えられているもの」と表現しました。今日の聖書の箇所においては「賜物(カリスマ)」という言葉で表現されています。「賜物(カリスマ)」というのは「恵み(カリス)」という言葉に由来しています。「恵み」というのは、要するに自分の努力によって獲得したものではない、ということです。あるいは、自分の行いに対する報酬ではない、ということです。純粋に恵みとして「与えられたもの」。それが「賜物」です。

 ならばそれはいかなる意味においても他者に対して誇るべきものではありません。それが恵みとして与えられているならば、それはあくまでも「仕えるため」なのです。これを聖書は「務めにはいろいろありますが」と表現します。この「務め」はもともと、例えば食卓で「給仕をすること」などに用いる言葉です。「奉仕」とも訳されます。ここに書かれているように「賜物」がいろいろあるのは、「務め」もいろいろあるからです。いろいろな仕え方があるからなのです。

 ならば大切なことは自分の仕え方を見いだすことなのでしょう。そのためには、自分に与えられている賜物について高ぶってはならないし、与えられていない賜物があるからといって卑下してもならないのです。高ぶりも卑下も自分に与えられている「務め」を見失わせるからです。

 そして、そのようにいろいろな「務め」が与えられているのは、いろいろな「働き」がこの世の現実において現れるためなのです。その「働き」は「私たちの働き」でありながら同時に「神の働き」でもあります。神がこの世界に働かれるのです。「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(6節)と書かれているとおりです。

 この「すべての場合に」という言葉は「すべての人の中で」とも訳せる言葉です。この世にはありとあらゆる人がいます。またありとあらゆる場合があります。そこで神が働かれるとするならば、それこそ、その働きは「いろいろある」はずです。そのように神がいろいろな働きをなさるために、いろいろな形において仕える人が必要なのです。

 そのように「いろいろありますが」という言葉を繰り返しながら、もう一方でパウロはもう一つの言葉を繰り返します。それは「同じ」という言葉です。「同じ霊です」「同じ主です」「同じ神です」。「霊」「主」「神」という言葉に、聖霊・キリスト・父なる神の三位一体を見る人もいます。いずれにせよ、同じ神によることを言い換えているのです。

 私たちはいろいろな賜物を与えられている。いろいろな務めを与えられている。そのように私たちの側は「いろいろ」です。しかし、それはあくまでも《同じ神に》仕えるための「いろいろ」なのです。ならば当然、共に仕えるための「いろいろ」なのであり、互いに補い合うための「いろいろ」なのです。

私たちに与えられている賜物は?
 さて、私どもの教会は、毎月第4主日の礼拝を「年度主題を覚えて捧げる礼拝」として行っています。月に一遍、改めて思い起こすのはよいことです。今年の年度主題は「聖霊の神殿である私たち」です。そのテーマに従い、既に半年、聖霊のお働きに思いを向けてまいりました。今月と来月は、特に聖霊の賜物に私たちの思いを向けたいと考えています。

 聖霊の賜物としては、最初に見たように、「知恵の言葉」「知識の言葉」「奇跡を行う力」など聖書の中に具体的に挙げられています。コリントの信徒への手紙では、主に超自然的な力がリストアップされていますし、ローマの信徒への手紙12章には、奉仕の賜物や教える賜物、施しの賜物のような別のカテゴリーが挙げられています。しかし、必ずしもそれらに限定する必要はないでしょう。聖霊は神ですから、そのなさることは私たちの思いを遥かに超えて豊かなはずです。そもそも「賜物はいろいろある」と書かれているのですから。

 それが何であれ、特別な務めのために神によって与えられているものがあるはずです。神がある働きをなすため、そこで私たちを用いるために、与えられているものがあるはずです。そして、互いに補い合いながら協力して仕えるために、与えられているものがあるはずです。それはもしかしたら、これまであまりうれしいと思ってこなかったものかもしれない。なんでこんなものが自分に与えられているんだろう……と。しかし、それこそが、もしかしたら他者を補い、特別な務めのために、特別な働きのために、与えられている聖霊の賜物かもしれません。そして、それが賜物(カリスマ)であるならば、それは恵み(カリス)によって与えられているのです。


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