2026年11月1日 召天者記念礼拝説教
聖書:ペトロの手紙一 4:7-11
本日は聖徒の日です。召天者を記念してご遺族と共に礼拝をおささげいたします。いつものように召天者のお名前が礼拝堂に掲げられています。もちろん、やがては私たちもまた、これらの方々の列に加えられることになる。そのことを私たちは良く知っています。その意味において、既に地上の人生を終えられた方々を記念する時は、私たち自身の人生の終わりについて考えさせられる時でもあります。
人生の終わりに向き合うあり方というものは、この20年の間に大きく変わりました。「終活」という言葉も広く使われるようになりました。「終活セミナー」などでは、エンディングノートの書き方や、相続や遺言に関すること、葬儀やお墓に関することが扱われます。どれもこれも大事なことかもしれません。しかし、人生が終わりに向かっているならば、本当はもっと大事なことがあるはずです。それは、終わりに至るまでどのように生きるのか、ということです。
思慮深く、身を慎み、よく祈り
その意味で、今日の第2朗読においては、終わりに向かう者がどのように生きるべきかについて、とても大切なことを語っていると言えます。もっとも、聖書の視点は「各個人の人生の終わり」にとどまらず、もっとずっとスケールが大きくて、「万物の終わり」について語ります。次のように書かれていました。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(7節)。
私たち個々の人生の終わりについては思い描くことはさほど難しくはありません。しかし、「万物の終わり」となりますと、にわかに思い描くことは困難になります。「万物」ですから。「地球最後の日」というレベルではありませんから。「万物の終わり」となりますと、とたんに現実とは無関係な話になってしまうかもしれません。
しかし、「万物の終わり」に向かおうが、「人生の終わり」に向かおうが、「終わりに向かう」という意味においては同じです。ならばどう生きたらよいのか。大切なことは何なのか。聖書はこう教えるのです。「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と。こういう言葉は「終活セミナー」には出てきません。まさに、聖書ならではの言葉と言えるでしょう。
そこで「身を慎んで」と訳されていますが、もともとこれは「酔っ払っていない」「しらふである」ということを意味する言葉です。落ち着いて、冷静に、ものを考えられる状態にあるということです。その反対は酔っ払いです。しかし、必ずしもアルコールの話だけではありません。冷静な判断を失わせるものには、たとえば人間が熱狂することなども含まれます。
実際、世の終わりが語られる「終末思想」と簡単に結びつきやすいのは宗教的な熱狂です。聖書の時代から今日に至るまで、いつの時代でも「終わりが近い」と言って熱狂し、異常な行動を取る人々、あるいは刹那的な生き方を選ぶ人はいくらでもいるものです。しかし、だからこそ聖書は言うのです。終わりが近づいているからこそ、終わりに向かっているからこそ、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と。
それは世の終わりに限らず、人生の終わりを考える時も同じなのでしょう。大事なことは、落ち着いて、醒めた心でものを考えられる状態にあることです。よく祈り、神と共に歩み、真に思慮深く歩むことです。
神の恵みの善い管理者として
聖書はそこでさらに具体的に三つの事柄を挙げています。その第一は、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」(8節)ということです。第二は「不平を言わずにもてなし合いなさい」(9節)ということです。そして、第三は、「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(10節)ということです。どれも大切なことですが、今日は、特にこの第三のことに思いを向けたいと思います。
やがて私たちの人生もまた終わりを迎えます。その事実は、私たちが今持っているものは本当の意味で私たちの所有ではない、ということを意味します。能力にせよ、財産にせよ、他のものにせよ、私たちは人生の途上で手放しながら生きていきます。やがてすべてを手放す時がやってきます。
もともと私たちは何も持ってはいませんでした。ですからすべては与えられたものです。神から与えられたものです。それゆえに「賜物」と表現されているのです。繰り返しますが、どのようなものであれ、やがて手放す時がやってきます。それらはすべて、ある期間私たちに託されているに過ぎません。ならば、大事なことは、自分に託されているものを管理することです。善い管理者となることです。
託してくださった神様が喜ばれるように管理するとはどういうことでしょう。管理者には何が期待されているのでしょう。「その賜物を生かして互いに仕えなさい」と書かれています。これが神様の望んでおられることです。最終的に問われるのは、どれだけ他者のために用いることができたか、お互いのために用いることができたか、ということです。それをもって、どれだけ人に仕えることができたか、ということです。
世の中には、「わたしは満足です。幸せな人生でした。もういつ死んでも思い残すことはありません」とおっしゃる方もいます。言葉だけの人もいるでしょうが、本気でそう言うことのできる人もいないわけではない。しかし、善い人生であったかを計る尺度は、どれだけ自分を満足させられたかではありません。どれだけしたいことができたかではありません。どれだけ幸福であったかでさえありません。神の判断において重要なのは別のことです。主は言われるでしょう。「満足でしたか。幸せでしたか。それは何よりです。しかし、あなたは賜物をどれだけ他者のために用いましたか。それを互いに仕えるために生かしましたか。」
逆に言えば、苦難に満ちていたとしても、人から何一つ評価されることがなかったとしても、あるいは何もかもが中途半端に終わるように見えたとしても、それで人生が無意味になるわけではない、ということです。そこで自分の賜物を精一杯用いたならば、他者のために用いたならば、それでよいのです。神様にとって重要なのはそのことなのですから。この手紙を書いたペトロにしても、この世においては決して絵に描いたような幸福な人生を全うしたわけではありません。むしろ、苦難の連続であったとも言えるでしょう。しかし、そこにあっても善い管理者として生きた。神様の目には、それで十分なのです。
忠実なしもべよよくやった
そのように、重要なのは託されているものが何であるかということよりも、どう管理するか、どう用いるかなのです。そのことをイエス様はたとえ話を用いて生き生きと描き出しています。今日、福音書朗読として読まれた箇所です。
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」(マタイ25:14‐15)。
先ほどのペトロの手紙ですと「賜物」や「さまざまな恵み」と表現されていましたけれど、イエス様のたとえ話では、これが「五タラントン」「二タラントン」「一タラントン」として表現されています。確かに私たちそれぞれ、託されているものが異なります。ある人は五タラントン、ある人は一タラントン。それは私たちがよく知っている人生の現実です。
いずれにしても、あくまで期間限定です。「旅に出かけた」のですから、出たままではありません。必ず帰ってくるのです。必ずお返ししなくてはならない時が来るのです。そして、どう用いたかが問われる時が来るのです。ですから、イエス様の話においても、「その時が来た」という展開になっているのです。
さて、主人が帰ってきました。その場面においてすぐに気づきますのは、僕の報告はそれぞれ異なるけれど、それに対する主人の言葉は同じだということです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。
一人は五タラントンもうけた。一人は二タラントンもうけた。しかし、主人にとっては五タラントンだろうが二タラントンだろうが問題ではないのです。主人が喜んでいるのは「忠実な良い僕」だということなのです。忠実な良い僕というのは、主人が望んでいることを行う僕です。主人である神様が望んでおられることは何ですか。先ほどのペトロの手紙にありました。「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。
ある人は託されているものを用いて大きなことをするのでしょう。ちょうど五タラントンもうけた人のように。ある人は様々な制約のもとにあって地味な小さなことをして一生を終えるのでしょう。二タラントンもうけた人のように。しかし、神様にとってはどちらでもよいのです。託されているものを神様の喜ぶように用いさえしたならば。ペトロの言葉によるならば「その賜物を生かして互いに仕えること」です。その時、「忠実な良い僕だ。よくやった」と言われる人は幸いです。
ところで、ここには一タラントンを託された僕も出てきます。彼は一タラントンを土に埋めておきました。無くしはしなかったのです。しかし、彼は主人から咎められました。この僕はそんなに悪いことをしたのでしょうか。そうは見えないでしょう。預かった金はちゃんと返したのですから。しかし、イエス様の言わんとしていることは明確です。大事なのは「用いたかどうか」だということです。
今日記念している方々も、託されたものを神様にお返しになりました。私たちはその方々から、多くのものを受け取ってきました。それは、その方々が賜物を用いて、生かして、私たちに仕えてくださったということなのでしょう。
そして、ここにいる私たちもまた、例外なく、終わりへと向かっています。終わりに向かう者として、どのように生きるのでしょうか。善い管理者として、賜物を生かして互いに仕えるためにも、ペトロが言う「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」という勧めは大きな意味を持っていると言えるでしょう。