2026年8月16日 主日礼拝説教
聖書:エフェソの信徒への手紙 4:25‐32
本日は第2朗読において、パウロがエフェソの教会に書き送った手紙が読まれました。今日は4章25節から読みましたが、その直前にはこう書かれています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(22-24節)。信仰者として生きるということが、このような言葉で表現されているわけです。
古い人を脱ぎ捨てる。そして、新しい人を着る。身に着ける。そのような言葉で表現されているのは「生き方」であり「生活」です。信仰はただ頭や心の中の事柄ではありません。生活です。その人がどう生きるのか、日々、どのように生活するのか、ということに関わっているのです。ですから、「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と語られているわけです。
しかし、「真理に基づいた正しく清い生活」と言われても、具体的にイメージできますでしょうか。言葉としては分かりますが、では実際に具体的にどのように生きたらいいのかという話になると、どうも漠然としていてよく分からない。ですから、パウロは今日の箇所で、具体的な生活の話を始めるのです。それは6章9節まで続きます。
もちろん生活の全ての場面が扱われているわけではありません。語られているのはごく一部のことです。しかし、そこから見えてくるものがある。それが大事なのだと思います。それでは、そこに列挙されている勧めを見ていきましょう。
新しい生き方
まず、「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」という言葉から始まります。「真実を語りなさい」とはどういうことでしょうか。偽りではない、本当のことを語りなさい、ということでしょうか。では、「本当のこと」とは何でしょう。本当に「偽りではないもの」とは何でしょうか。
実は、この「真実」とは、前の節の「真理」と同じ言葉なのです。パウロは「真理を語りなさい」と言っているのです。この世界は偽りに満ちています。人間は皆偽りに満ちています。しかし、そのような世界のただ中で、そのような人間である私たちに、本当の意味で偽りでないもの――真理――が知らされたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と宣言される御方を通して、偽りのない神の愛、神の救い、すなわち福音の真理を知らされたのです。
だから「それぞれ隣人に対して真理を語りなさい」と言われているのです。そこで、その「隣人」とは誰でしょう。その次に「わたしたちは、互いに体の一部なのです」と書かれています。「体」と言えばキリストの体なる教会のことです。すなわち、この場合、「隣人」とは教会におけるお互いのことです。私たちはお互いの間で、何を口にしているのでしょう。24節に語られている、「真理に基づいた生活」を送りたいならば、まず教会の中で互いに福音の真理を語り、また聞くということが起こらなくてはならない。言われてみれば当たり前のことであるとも言えるでしょう。
続いて、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」と語られています。これもまた、教会の中の話です。もちろん正しい意味で怒りが必要な時はあるのでしょう。「怒ること」自体がすべて罪であるわけではありません。しかし、怒り続けていると、悪魔にすきを与えることになるというのは本当でしょう。「怒り」が悪魔に利用されて「罪」となってしまう。「怒り」によって神から引き離されてしまう。そのようなことは起こります。ですから、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」と言うのです。ユダヤの数え方では日が暮れると次の日です。次の日まで怒りを持ち越さないように、ということです。そして、先ほども言いましたように、このことも重要になってくるのは教会の中においてです。教会の中におけるお互いの話です。
その次には「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません」と言われています。教会の中には、かつて泥棒だった人もいたのでしょう。キリスト者になってからも、どうも手癖が悪い人がいたようです。しかし、パウロはただ「盗みは悪いことだ」ということを言っているのではありません。むしろ「困っている人々に分け与えるようにしなさい」と言うのです。
これも教会の中のことです。初期の教会には、特に奴隷や被差別階級の人など貧しい人が多かったのです。ですから、互いに支え合って教会を形づくっていたのです。そのように他の兄弟を助けることができるように働きなさい、とパウロは勧めるのです。そのように、これは一般的な道徳の話ではありません。キリストの体の部分であるお互いの間でどうあるべきかという話です。
続いて、「悪い言葉を一切口にしてはなりません」と言われています。「悪い言葉」が何であるかは後で考えることにして、大事なことは、「ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と勧められていることです。実は、原文には「その人を」という言葉はありません。もちろん、「人」が恵みを得て成長するということでも間違いではないのですが、ここでパウロが念頭に置いているのはただ個人のことではなく、教会を「造り上げる」ことなのです。
そうすると「悪い言葉」とは、教会を「造り上げる」のとは反対の言葉、破壊する言葉であることが分かります。通常、そのような言葉は、怒りや悪意から生じてまいります。なので、少し飛びますが、31節では「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言われているのです。そのようなものから生じる言葉が、教会を造り上げることに結びつかないのは明らかだからです。またそれは30節にあるように、聖霊を悲しませることでもあるのです。むしろ大切なことは、その後に書かれているように、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」ということなのです。
神に倣う生活
さて、最初に申し上げましたように、これらは24節の「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」という勧めの具体的な展開なのです。今日は6章まで続く具体的な勧めの一部分を見てきました。しかし、これだけを読みましても、この世において語られる、いわゆる「清く正しい生活」というのとは、ずいぶんイメージが異なりますでしょう。個人として清く正しい人間になることではなく、これらの勧めは教会を造り上げること、すなわち教会におけるお互いが「共に生きる」ということに関わっているのです。
しかし、それにしても難しいことだと感じた人も、少なくないに違いありません。私自身、勧めとしては理解できるけど、やはり難しいことであると感じます。しかし、だからこそ5章に入って、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)と語られていることが大きな意味を持つとも思えるのです。
「神に倣う」という表現は聖書の中でここにしか出てきません。極端な表現にも思えます。そもそも神に倣うことなどできるはずがない、とも思えます。しかし、もう一方において「倣う」とは「まねる」という意味の言葉ですから、ここで求められているのは、所詮は「ものまね」に過ぎないとも言えます。神になれるわけではない。同じことができるわけでもない。所詮は不完全な真似事の話です。
例えば、一流の料理人である人がいて、その人に小学生の息子がいたとします。その息子は料理人である父親を尊敬して、憧れて、その仕事を真似したくなる。その子が父親を真似して何かを作ったとしても、恐らくできるのは料理とはとても呼べない代物だろうと思うのです。しかし、それを見て父親は、「こんなもの店に出せるか」と言って叱りつけたりはしないでしょう。父親に憧れて、見よう見まねで息子がやったことを、大いに喜んで誇りに思うだろうと思うのです。
教会生活とはそのようなものだと、この箇所を読む度に思うのです。「あなたがたは神に愛されている子供ですから」と聖書は言うのです。私たちは神に愛されている子供たちなのです。ここに書かれていることが完全にできたら愛されるのではなくて、既に愛されている子供たちなのです。
そこで、愛されている子供として、父である神を愛して、神にあこがれて、神様が私たちを愛して、私たちにしてくださったことを真似てみるのです。神様と私たちとの違いは、料理人とその息子の腕の違いどころではありません。ですから、それこそ私たちが真似てみたところで、似ても似つかぬことをすることになるのでしょう。食べられないような料理を作るのでしょう。しかし、それでも愛されている子供として真似てみるのです。
それが例えばその直前に書かれている「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4:32)ということであったりするのです。さらに言うならば、先ほど見て来た一つ一つの具体的な勧めもまた同じです。これらはすべて、私たちを愛して、とてつもなく大きなことを私たちのためにしてくださった神の「ものまね」なのです。
「ものまね」ですから、恐らく実際に私たちがやることは、あまり似てないのです。「わたしはこれだけ親切にしました」「人を赦しました」「怒りと悪意を捨てました」と言っても、なんら誇るほどのことでもないのです。たぶん神には全く似ていないのですから。恐らくは猿まね以下のことなのです。
しかし、それでもよいのです。私たちは「神に愛されている子供たち」として生きるようにと招かれているのです。神に愛されている子供たちとして共に生きるようにと、神に愛されている子供たちとして共に教会を造り上げて行くようにと、招かれているのです。だから、似ていようがいまいが、それでも神の「ものまね」をして生きるのです。ただただ私たちを赦して愛してくださった天の父に感謝して、天の父に憧れて、父の愛を目に見える姿で現してくださったイエス・キリストに憧れて、神に倣って生きるのです。そのような思いをもって、今日見て来た一つ一つの勧めにしても、まずやってみるのです。取り組んでみるのです。それこそが、私たちに恵みとして与えられている、「真理に基づいた正しく清い生活」に他ならないのです。