2021年5月9日日曜日

「このように祈りなさい」

マタイによる福音書 6:5-15

 今日の福音書朗読は、私たちにとって馴染み深い「主の祈り」が書かれている箇所でした。私たちは、毎週の礼拝において必ずこの「主の祈り」を共に祈ります。今日もこの後に一緒に祈ります。ここに集まっている私たちだけでなく、それぞれの場所において共に主の御前に出て礼拝を捧げている人たちと共にに祈ります。

父から愛されている子どもたちとして
 「主の祈り」は呼びかけの言葉から始まります。呼びかけるのは、聞いていてくださる御方がおられるからです。私たちが祈るとき、私たちは聞いていてくださる御方の御前にいるのです。

 その御方は、聖書によるならば、天地の造り主であり、万物を統べ治めておられる全地の王なる御方です。そのような御方の御前に身を置いて、その御方に呼びかけます。その時に「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさいと、イエス様は教えてくださいました。私たちは「主の祈り」を祈る時、天地の造り主に対して、「父よ」と呼びかけているのです。

 「父よ」。イエス様が使っておられたアラム語では「アッバ」という言葉です。原音の「アッバ」という言葉のままで、聖書には三回ほど出てきます。イエス様御自身が、祈りの時に使っていた言葉です。これは子どもが家庭において父親に呼びかける言葉です。圧倒的に大きな父親の権威に対して恐れおののきながら使う言葉ではありません。むしろ親しみと愛情を込めた呼びかけです。そのように「父よ―アッバ」と呼びかけなさいとイエス様は教えてくださいました。

 もちろん、天地の造り主であり全地の王である方を「アッバ、父よ」と呼ぶことができることは、決して自明のことではありません。どう考えても、本来、あり得ないことです。この計り知れない全宇宙の造り主ですから。いや、それだけではありません。その御方の前で私たちがどう生きてきたのかを振り返っても、それは本来あり得ないことです。私たち人間はどれほど神を侮ってきたことか。神に逆らって歩んできたことか。私たちがまことの神の御前に出るならば、本来ならただ恐れおののかざるを得ないはずです。罪ある私たちが、罪なき神の子と同じように、「アッバ、父よ」と親しみを込めて呼びかけることなど、本来できようはずがありません。

 しかし、そのあり得ないことが許されているのです。私たちが「主の祈り」を祈るとはそういうことなのです。神の子イエスが「こう祈りなさい」と言ってくださったのです。「父よ」と祈りなさい、と。いや、イエス様だから言うことができたのです。なぜならこのイエス様こそ、神の憐れみと赦しを携えて来てくださった御方だからです。

 罪ある人間がなお神の御前に出て「父よ」と呼ぶことができるために、何が為されなくてはならないかを、イエス様はよくご存じでした。それは父の御心に従って、イエス様御自身が罪の贖いの犠牲となることでした。十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださることでした。それはすべては父なる神の愛から出たことです。いわばキリストを通して、神が一方的な恵みによって、私たちに「父よ」という呼びかけを与えてくださいました。私たちが「アッバ、父よ」と祈れること自体が、実は既に神の愛の現れなのです。私たちは愛されている子どもとして、祈ることが許されているのです。

父を愛する子どもたちとして
 そのように神に愛され、神に赦され、「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子どもたちとされた私たちたちです。そのような者として私たちは父を愛して生きていく。それが私たちの信仰生活です。私たちは神の愛を獲得するために信仰に励むのではありません。神の好意を得るために敬虔な生活をするのではありません。自分が差し出す何かと引き替えに神の愛を獲得しようとするのは、子どもらしい姿ではありません。子どもたちは既に神に愛されているのです。だから愛されている者として、神を愛して生きていく。一方的に恵みを与えられた者として、その恵みに応えて生きていく。それが私たちの信仰生活です。

 子どもたちが父を愛する時、子どもたちは父の関心事を共有するようになります。父の関心事が子どもたちの関心事ともなります。父の望んでいることを子どもたちも望むようになります。そして、父が願っていることが実現することを、子どもたちも願うようになるのでしょう。

 そこで、父から愛され父を愛する子どもたちとして共に祈る、三つの祈りをイエス様は教えてくださいました。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(9‐10節)。主の祈りの前半部分です。

 最初に触れましたように、私たちは、毎週の礼拝において必ずこの「主の祈り」を共に祈ります。主日礼拝は、散らされていた神の子たちが、父の御前に集められ、愛されている神の子たちとして、心を合わせて「天におられるわたしたちの父よ」と祈る、そのような集いです。

 しかし、そこで続く三つの祈りの言葉を目にしますと、私たちは改めて考えざるを得なくなります。主の日の礼拝において、私たちはこの三つのことを本当に求めて集まっているのだろうか、ということです。私たちは本当に御名があがめられることを求めて集まっているのでしょうか。御国が来ることを求めて集まっているのでしょうか。御心が地の上に行われることを求めて集まっているのでしょうか。むしろ私たちが求めているのは、御名とか御国とか御心についてではなくて、私たち自身のことばかりではないでしょうか。神の御名があがめられるためならば、御国が来るためならば、愛する父の御心が地上において実現するためならば、わたしは喜んでこの身をおささげします、お仕えします、たとえ困難があっても耐え忍びます。そのような思いが果たして私たちの内にどれほどあるでしょうか。

神の子イエスの心と一つになって
 「御名があがめられますように。」これは「御名が聖とされますように」というのが直訳です。そのような祈りがなされるのは、もう一方において神の御名が汚されているという現実があるからです。この世においては、神が神とされていない。主の御名は侮られ、軽んじられ、他のものの方がずっと大事であるかのように扱われているのです。

 「御国が来ますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において今、現に目にしているのは御国ではない、という現実があるからです。神ならぬものの支配。私たちがこの世に目にしているのは罪と死の支配であり、悪魔の支配です。ですから、「御国が来ますように」と祈ることはまた、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることでもあるのです。私たちが目にしているのは、御心が成っていない世界です。神の御心に反することが行われている世界です。

 父の御名が汚され、父の御心に反することが行われているこの世界を見て、そして神の民の現実を見て、父を愛する御子であるイエス様は心を痛めておられたことでしょう。父の御名があがめられ、御心が地上で行われることを誰よりも願っていたのはイエス様であったに違いありません。そのような御子なるイエス様の心を共有して共に祈るようにと、イエス様は主の祈りの言葉を私たちに与えてくださったのです。

 「こう祈りなさい」とイエス様は言われました。「祈りなさい」ということは、それを実現するのは神様御自身だということです。そうです。神様の御名があがめられるようになること、神の御国が来ること、神の救いの御心がこの地上において実現すること。すべて神の御業なのであり、神様御自身の戦いなのです。しかし、父なる神はあえてそれを子どもたちと共に進めようとされるのです。父の心を共有し、「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈り願う子どもたちと一緒に、そのような子どもたちを用いて事を進めようとしておられるのです。

 「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」それが私たちの祈りとなっていくならば、それが私たちの心からの願いとなっていくならば、もはや苦難も困難も信仰のつまずきとはならなくなるのでしょう。教会生活を続けるゆえに生じた困難さえも、信仰のつまずきとはならなくなるはずです。愛する父の御名があがめられれば、御国が来れば、御心が行われれば、それで良いのですから。そのように、問題は苦難があるかないか、教会生活に困難があるかないか、ではないのです。そうではなくて、私たちがいったい何を求めて生きているのか、ということなのです。「主の祈り」が自分の祈りになっているかどうかの問題なのです。

 では、「主の祈り」を自分の祈りとするためにはどうしたらよいのでしょうか。先に申しましたように、これは父を愛する子どもたちとしての祈りです。父を愛するということがなければ、「御名があがめられますように」という祈りは出て来ません。そのように父を愛するようになるのは、父から愛されていることを知るからです。

 まず、そこから始める必要があるのでしょう。自分が罪を赦されて、全地の王なる御方を「アッバ、父よ」と呼べるということ。罪ある私が滅ぼされるのではなくて、神の子どもとされていること。どれほど大きな恵みを既に与えられているか、私たちが既にどれほど大きな赦しと憐れみの内にあるのか、その事実に繰り返ししっかりと目を向けたいと思うのです。そのようにして、「主の祈り」が本当の意味で私たちの祈り、そして教会全体の祈りとなることを求めていきましょう。

(祈り)

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