2026年8月12日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 19:2~15

サムエル記下19:2~15

 ダビデの息子アブサロムが起こした反乱は、最終的にアブサロムが討ち取られることによって終結しました。ヨアブは角笛を吹いて戦闘の終わりを知らせ、兵士たちは追撃をやめさせます。そして、ダビデの待つ町に凱旋する前に、使者が送られダビデに事の結末が知らされることとなりました。

 ヨアブは、アブサロムが死んだという知らせをダビデが決して良き知らせと受け取ることはないと知っていました。事実そのとおり、ダビデはこの知らせを聞くや、身を震わせ、城門の上の部屋に閉じこもってしまったのです。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」そう言ってダビデは泣いていたのです。

 さて、ここで私たちが思い出さなくてはならないことがあります。ダビデがウリヤの妻とのことで大きな罪を犯したとき、ナタンはダビデに神の言葉を告げてこう言ったのです。「見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう」(12:11)。そして、神の言葉の通りになりました。

 しかし、さらに遡るとナタンを通してダビデはこのような約束をいただいていたことが書かれています。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(7:12)。この約束の言葉は、たとえダビデが罪を犯したとしても取り消されてはいないのです。この約束によればダビデはクーデターで王座を失うことはあり得ないのです。そして、神はその約束を確かに守られたのです。

 また、ダビデは、都落ちした時、神の箱を持って従おうとしていた祭司たちにこう言いました。「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう」(15:25)。また、アヒトフェルが裏切ったことを知った時、彼は「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(15:31)と祈りました。そして、実際にその通りになったのです。神はダビデの祈りを聞いておられました。

 人間は自分が祈ったことも、聞いたことも忘れてしまうものです。しかし、人間が忘れても神様は覚えておられます。だから人間の不真実にもかかわらず、神の真実は貫かれますし、神の約束は実現するのです。祈られたことには、人が忘れていても、神が応答してくださるのです。

 確かに、ダビデの悲しみの深さは理解できます。ダビデが大声で泣いたことも無理ありません。しかし、聖書はダビデの心情を単純に肯定しません。明らかに、このすべての出来事の背後に神が生ける御方として動いておられます。ならば、たとえ嘆き悲しんだとしても、ダビデはその嘆きの中に留まってはならないのです。ダビデが死ぬのではなく、アブサロムが死んでダビデが残されました。神によって残されたのです。主に油注がれた者として残されたのです。ならば残された者には責任があります。生かされている者の責任があります。彼は嘆きの中に留まっていてはならないのです。

 それゆえにダビデは強制的に涙の中から立ち上がらされることとなります。それが今日お読みした聖書箇所に書かれていることです。ダビデはヨアブによってそのことを強いられることとなるのです。もちろん、ヨアブは信仰的な観点からダビデを詰ったわけではありません。彼が与えているのは極めて常識的な忠告です。ダビデのため、王家のために戦った家臣たちの顔に泥を塗るようなことをすれば、彼を支持していた人々の心は離れ去ることになる。当たり前の話です。

 「とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう」というヨアブの言葉は、厳しくも正しい判断でした「王は立ち上がり、城門の席に着いた」と書かれています。それはまた、神がヨアブを用いてダビデを立ち上がらせた出来事でもありました。

 一方、アブサロムを失ったイスラエル軍が敗退した後、イスラエル諸部族の間に議論が起こりました。要するに、今後もなおダビデと対立を続けるのか、それとも和解してその支配下に身を置くのか、という議論です。

 イスラエル諸部族とは、ユダを除く北方の諸部族です。10節以下に記されているのは、和平推進派の意見です。アブサロムが死んだ今、諸外国に対する防衛を考えるならば、ダビデを亡命者のままにしておかないで、もう一度統一王国の王とする方が良い、というのが彼らの主張でした。しかし、ダビデ王家の支配体制に対する不満は、北の諸部族に依然として根強く残っていたようです。それが後にシェバの反逆(20章)として表面化することになります。

 また、ダビデと戦ったのは北方の諸部族だけではなかったことを思い起こさなくてはなりません。ユダ部族の保守層もまたアブサロムの側に着いていたのです。今日の箇所に「ユダの長老たち」と出てきますが、それはユダの保守層を代表していると見てよいでしょう。ヘブロンからエルサレムに都を移したり、外国人を多数登用したりするダビデの新体制に反発する彼らは、アブサロムの側に着いたのです。

 そのようなユダの保守層を再び統一王国に取り込むために、ダビデは先に述べた北の和平推進派の動きを使いました。ダビデは、エルサレムに留まっているツァドクとアビアタルを通して、ユダの長老たちに、「あなたたちは王を王宮に連れ戻すのに遅れをとるのか」(12節)と伝えさせたのです。そのように、北の動きを引き合いに出し、彼らを優遇する姿勢を見せたのです。「あなたたちはわたしの兄弟、わたしの骨肉ではないか」(13節)とは、そういうことです。

 また、ダビデはアマサに対して彼を軍の司令官にすることを約束するのです。これはまことに驚くべきことと言わざるを得ません。アマサはダビデに敵対した反乱軍の司令官だったのです。ダビデが復帰した後は、当然、アブサロムの側に付いたアマサは処刑され、ヨアブが統一王国の軍の司令官に収まるのが筋でしょう。ところが、ダビデは復帰後もアマサを司令官として残すことを約束したのです。

 その措置は対外的に何を意味したか。ダビデに敵対した彼らの罪状を問わないことを意味したのです。このダビデの説得は功を奏しました。「ダビデはユダのすべての人々の心を動かして一人の人の心のようにした」(15節)と書かれているとおりです。

 さて、このようにして内戦後の国家体制再建が始まりました。しかし、果たしてこれで良いのだろうかと、これを読んでいる私たちはひっかかります。これではまるで、アブサロムが罪を問われないで都に戻された時と同じではないかと思うのです。

 確かに一つの国家的危機が乗り越えられました。しかし、この出来事が神の目にどう映っているのかを考える人は誰一人として登場してこないのです。

 イスラエル諸部族において和平を進めようとしている人々は言いました。「我々が油を注いで王としたアブサロムは死んでしまった」。そうです。彼らがアブサロムを王としたのです。彼らにはその責任があるのです。その結果、多くの人が死に、王の息子も死んだのです。自分たちが油注いだ王がどうして死んだのか。アブサロムを王としたことは神の前に正しかったのか。それとも大きな罪であったのか。そのことを神の御前において問い直す人はいませんでした。

 ですから本当の意味における悔い改めもないのです。彼らが考えたことはただ何が今後自分たちの益となることなのかということだけでした。今後の自分たちにとっては、今、ダビデを連れ戻した方が益となる。その意味で「なぜあなたたちは黙っているばかりで、王を連れ戻そうとしないのか」と言っているのです。それはイスラエルの諸部族だけでなく、ユダの長老たちも同じです。今後を考えれば、イスラエル諸部族が動き出す前に、いち早くユダの主導でダビデ復帰を進めた方が自分たちに有利であるから、ユダの人々は一致して「家臣全員と共に帰還してください」(15節)と言ったのです。

 神の前に自らの罪を見いだし、神の御前において悔い改めるのでなく、ただ利益か不利益かということしか考えられなければ、結局は同じことが繰り返されることになります。そして、事実、そのようになりました。それはこの直後のシェバの反乱にしてもそうですし、イスラエルの歴史全体がそうであったとも言えるでしょう。それは最終的にイスラエルが滅びるまで続くのです。彼らが真に歴史を神の前に悔い改めをもって見直したのは、国が滅びた後のことでした。


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