2024年2月28日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 10:1~20

 出エジプト記 10:1-20


 前回は7つ目の「雹の災い」までを見てきました。災いを三つ1ラウンドと考えると3ラウンド目に入ったことになります。そこでは新しいこととして、具体的にエジプトの中にイスラエルの側に着く人々が現れてまいります。実際、彼らの中に、主のなさることに目を向けている人、主の言葉を聞いている人がいるのです。

 「見よ、明日の今ごろ、エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる。それゆえ、今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう』と」と主は言われました。そのように語られる主を畏れ、警告に従おうとする人々が出てくるのです。「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた」。そして、大きな雹が降る。エジプトはまた、イスラエルの人々が住むゴシェンには降らないのを見ることになります。

 ファラオは言いました。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」(27‐28節)。しかし、ただ災いを免れようとすることと、真に主を畏れることは異なります。災いが過ぎ去れば、「ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの人々を去らせなかった。主がモーセを通して仰せになったとおりである」ということになるのです。

 そして、今日お読みしたのは8番目の災いです。主はまず、再びモーセに、「ファラオのもとに行きなさい」と命じます。これまで何度となく足を運んだファラオのもとに、また行かなくてはなりません。人間的に見るならば、実に不毛な戦い、進展しない戦いが延々と続いているように見えなくもありません。しかし、だからこそ主は改めて「彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である」と主は語られるのです。この戦いがどんなに手間取っても、完全に神様の御支配のもとにあるのです。神がなさろうとしていることは必ず実現するのです。しかし、そこに至るまでにあえて時間をかけるとするならば、そこには神様の目的があるのです。ゆえにその目的を主はモーセに繰り返し語られるのです。

 エジプト脱出までの話ではありません。実はこのことを、イスラエルの民は繰り返し経験していくことになるのです。脱出しても、すぐに約束の地には入りません。荒れ野を通されることになります。そこで厳しいプロセスを経ることになる。「主は滅ぼすために導き出されたのか」と言いたくなるような状況を通されるのです。しかし、そこには目的があるのであり、主の支配下にあってすべては導かれているのです。

 そのように主はモーセに繰り返し目的を語られるのですが、ここには新しい要素が入ってきています。「それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである」(1-2節)。これと同じ言葉は、ここ以降、12章、13章にも出て来ます。

 子孫に語り伝えよという命令は、主が彼らの子孫までを既に心に留めて語っておられるということです。つまり脱出して後のこと、さらには約束の地に入れられてから後のことまでが視野に入れられ、語られているということです。出エジプトというのは、そういう出来事なのです。もともとはアブラハムに約束されたことの実現です。あなたを大いなる国民とすると主はかつてアブラハムに言われたのです。祝福の源とすると言われたのです。この土地を与えると言われたのです。そうです、彼らは地上に定住する祝福の民となるのです。今、ここで延々と続いている戦いは、ただ今のイスラエルが救われるための戦いではないのです。ただ苦しみから解放されるための戦いではないのです。これは子孫に関わっているのです。神の民の歴史に関わっているということです。

 新約聖書に目を転じると、例えば、教会が迫害によって散らされるという話が出て来ます。ステファノが殉教した時、もちろんステファノは正しいことを語り、正しいことを行ったゆえに殺されたのですが、結果的に見るならば、彼の行為は教会に対する迫害を加速させる結果となったのです。誕生して間もない教会は、散らされることになりました。しかし、そのゆえにフィリポがサマリアまで行くことになり、サマリア人に福音が伝えられることになりました。さらには、地の果てまで福音が伝えられることになりました。そして、それは初めから弟子たちに復活のキリストから語られていたことなのです(使徒1:8)。最初の弟子たちが救われることだけが重要ならば、教会は散らされる必要はありませんでした。しかし、主は神の民の歴史までを視野に入れておられたのです。

 話しは戻りますが、モーセも、後のイスラエルも、このことが分かったようです。すぐに解放が起こらなかったのは、「わたしが主であることをあなたたちが知るためである」ということ。そして、その「あなたたち」には彼らの子孫も入っていること。だから実際、彼らは命じられたとおり、語り伝えたのです。この出エジプトの戦いは、イスラエルの民のいわば信仰の土台として、語り伝えられていくことになるのです。

 さて、そのようにして引き起こされる「いなごの災い」ですが、重要なポイントは、「雹の害を免れた残りのものを食い荒らし、野に生えているすべての木を食い尽くす」(5節)と語られていることです。同じことは12節にも15節にも語られています。せっかく残されたものが食い尽くされるのです。身を低くするのを拒むなら、そうなると主は言われ、そして事実、そうなったのでした。

 実際、残されたものがあったのです。それはただ主の憐れみによるのです。しかし、それでもなお、主の前に身を低くしないなら、残されたものさえも失うことになるのです。この「いなごの災い」とは、そういう話なのです。

 この災いが示していることは、人間にとって極めて重要なことです。極論を言うならば、人は罪によっては滅びないのです。神の憐れみは罪よりも大きいからです。人は罪によって滅びるのではなく、罪を認めず、頑なになり、悔い改めないことによって滅びるのです。「主の前に身を低く」しないことによって、せっかく現された神の憐れみを自ら投げ捨てることによって滅びるのです。それは後の時代の預言者によって繰り返されているテーマです。主は後の時代にも繰り返し預言者を遣わして「あなたたちの神、主に立ち返れ」と語られるのです。罪を犯したことではなく、立ち帰らないことによって人は滅びるからです。

 さて、前回見たように、ファラオの民の中には、既に主のなさることをしっかりと見、また語られることを聞いている人々がいるのです。この「いなごの災い」の予告の際には、今度はファラオの家臣がファラオに進言します。「いつまで、この男はわたしたちを陥れる罠となるのでしょうか。即刻あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてはいかがでしょう。エジプトが滅びかかっているのが、まだお分かりになりませんか。」

 ファラオはモーセとアロンを呼び戻して尋ねます。「誰と誰が行くのか」と。つまり、一部の人間だけ行かせて、残りはある意味で人質として残しておこうと考えたのでした。しかし、モーセは言います。「若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も羊も牛も参ります。主の祭りは我々全員のものです」。当然、これはファラオの拒絶に遭うことになりました。ファラオは激怒して言います。「よろしい。わたしがお前たちを家族ともども去らせるときは、主がお前たちと共におられるように。お前たちの前には災いが待っているのを知るがよい。」主が一緒だろうがなんだろうが、ただで済むと思うなよ、という脅しの言葉です。

 一部の人間が脱出するということならば、もうできるのです。しかし、モーセは言いました。「主の祭りは我々全員のものです」。実に味わい深い言葉です。救いに与るのは民全体でなくてはなりません。皆が出て行くのです。皆が救われることを、主は望んでおられるのです。だから少々困難があろうが手間取ろうが、耐え忍んでいくのです。

 私たちにも、そのような信仰は極めて重要なのではありませんか。自分が救われたらそれでよい。自分たちだけが神の民に加えられたらそれでよい。そう思っていれば回避できる苦難はあるかもしれません。しかし、そうあってはならないのです。主は、私たちの子供たちや友人たちまで視野に入れておられるからです。私たちが試練を経て、訓練され、整えられるのは、先にも申したとおり、私たちのためだけではないのです。「主の祭りは我々全員のものです」。

 さて、いなごの災いが起こり、大地にあるものが食い尽くされると、ファラオは言いました。「あなたたちの神、主に対し、またあなたたちに対しても、わたしは過ちを犯した。どうか、もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。こんな死に方だけはしないで済むように」(16-17節)。ファラオが「こんな死に方だけはしないで済むように」と言っているところを見ると、よほど危機的な状況だったに違いありません。しかし、ファラオは主の前にへりくだったわけではありません。ただ災いを免れようとしただけに過ぎませんでした。さて、このファラオの言葉、ファラオの姿に、私たちは何を見ているのでしょうか。


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