2026年10月18日日曜日

「幸せな人はだれか」 

2026年10月18日 主日礼拝説教 

聖書:マタイによる福音書 5:1‐12

弟子たちへの言葉
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(1‐2節)と書かれていました。ちなみに原文では「そこで、イエスは口を開き、《彼らに》教えられた」となっています。つまり近くに寄って来た「弟子たち」に教えられたと書かれているのです。

 もちろん、そこには群衆もまたいるのです。今日の箇所の直前には「大勢の群衆が来てイエスに従った」(4:25)と書かれていますから。この大群衆を見て、イエス様は山に登られたのです。もちろん群衆も付いていったことでしょう。しかし、そこで主は群衆全体に語りかけるのではなくて、近くに寄って来た弟子たちに語られた。それがこの5章から7章の山上の説教です。

 ですから構図的にはそこに二重の輪があることを心に留めなくてはなりません。内側には弟子たちがいます。外側には群衆がいます。内側にはイエス様の語りかけを自分自身に対する語りかけとして聞いている人々がいます。外側には、いわば外からそれを見ている人々がいる。彼らはイエス様が弟子たちに語りかけるのを見ています。その「教え」について外側から評価します。その評価は彼らの反応として現れます。山上の説教の最後にはこう書かれています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(7:28)。その教えはまことに驚くべきものであった。――それは外側からなされた評価です。

 さて、そこで問題は「では私たちはどこにいるのか」ということです。もしかしたら群衆がいる外側の輪であるかもしれません。外から見て、外から聞いて、外から評価して、判断を下して、それで終わり、ということは起こり得ます。しかし、福音書に記されている言葉は、明らかに群衆の位置から読まれることを意図されてはいないのです。今日お読みした言葉もそうです。それは《私への語りかけ》として聞くように書かれているのです。

山上の説教の第一声
 そのように、《私への語りかけ》としてイエス様の言葉を聞く時に、まず耳に飛び込んでくるのがこの言葉です。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)。これが第一声です。

 「心の貧しい人々は、幸いである」。一度聞いたら忘れられないような強烈な言葉です。それはあまりにも意外だからでしょう。しかも、イエス様の言葉は私たちが考える以上にインパクトが強かったはずなのです。というのも、ここで言われている「貧しさ」というのは、少々不足しているとか何かが足りないというレベルの話ではないからです。これは物乞いを表現する言葉なのです。いわば何も持っていない。そのような極度の貧しさを意味する言葉なのです。

 「物乞い」であるならば、誰かに乞い願わなくてはなりません。頭を下げて、「憐れんでください」と言わなくてはなりません。そのように極度に欠乏していて、誰かに憐れみを乞わざるを得ない人は幸いでしょうか。むしろ誰に対しても「助けてください」などと言わずに済む人の方が幸いに見えるのでしょう。しかし、イエス様はそうは言われない。幸いなのは憐れみを乞う必要のない人ではなくて、頭を下げて憐れみを乞わざるを得ないような人こそが幸いなのだと言うのです。

弟子たちが直面することになる貧しさ
 そして、これが弟子たちに対して語られているということに大きな意味があるのです。なぜなら、イエス様の弟子として、イエス様の言葉を自分への語りかけとして生きていくならば、貧しさを経験しなくてはならないからです。

 実際、迫害の時代を生きていく弟子たちは、文字通りの意味で貧しさを経験するということにもなるでしょう。ですから、ルカによる福音書の方では「心の貧しい人々」ではなく、「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)という表現になっています。しかし、イエス様が言っておられるのは単に経済的な問題の話ではないということは、この山上の説教をさらに読んでいきますと分かってくるのです。弟子たちが直面しなくてはならないのは、もっと根源的な貧しさなのです。

 このことは、この5章から7章までを一度でも読んだことがある人は分かるはずです。これを《立派な道徳的な教え》であると思っている人は、それこそ外から眺めているだけの人です。自分自身への言葉として聴くならば、そうはいきません。

 例えば、今日お読みした箇所の後には、次のような言葉が続きます。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。このような言葉は、外から眺めている限りにおいては、美しい良い教えで済むのです。しかし、これを自分に対する語りかけとして聞くならどうでしょう。私たちがイエス様によって、実際に地の塩として、世の光として生きる人生へと引き出されるとするならどうでしょう。

 「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と主は言われるのです。これを他ならぬ私への語りかけとして聴いたらどうなるでしょう。たちまち、私は窮地に立たされることになります。

 「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい!」そんなことできるのですか。私たちが本気でそのように生きようとするならば、私たちはどうしたって自分自身の貧困さ、さらには自分自身のどうにもならない罪深さと対面せざるを得なくなるに違いありません。

 さらに私たちがイエス様の次のような言葉を聞くとしたらどうでしょう。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。外から眺めている間は、「すばらしい愛の教えだ」と言って感動していられるのです。しかし、私たち自身への語りかけとなったなら、感動などしていられません。あなたを苦しめている人、あなたを攻撃し、傷つける人を指して、「その人を愛しなさい。その人のために祈りなさい」とイエス様は言われるのです。最も身近な者さえ真実に愛することができないのに、いったいどうやって敵を愛したら良いのでしょう。私たちの心のどこを捜したら、そのような愛があると言うのでしょうか。たちまち私たちは自分自身の愛の貧困さと向き合わなくてはならなくなるのです。

 しかも困ったことに、これは《イエス様の言葉》なのです。牧師が言っているだけだったら、痛くも痒くもないでしょう。「そういうあなたはできるのか。偽善者め!」そう言って斥けることは簡単です。「理想的ではあるけどね」と言って横に置いておくこともできるでしょう。しかし、これはイエス様の言葉なのです。

 「あなたがたは世の光である」と言われた方は、自ら「わたしは世の光である」と語られたのです。そして実際にそのように生き、そのように死なれたのです。敵を愛しなさいと言われた方は、自ら敵を愛されたのです。自分を十字架につけた人々、罵り、嘲っている人々を愛し、彼らのために執り成し祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。

貧しい人々は幸いだ
 私たちがこの御方と向き合い、この御方の語りかけを自らへの語りかけとして聞き始めるならば、たちまち私たちは恐るべき根源的な貧しさを自覚せざるを得なくなるのです。天に向かって叫ばざるを得なくなるのです。「主よ、わたしを憐れんでください」と。

 いったい誰が好きこのんで自分の貧しさなど認めたいと思いますか。私たちは元来、貧しい自分など認めたくないのです。「憐れんでください」などと言いたくないのです。だから、群衆の位置に身を置いておく方が気が楽なのです。

 いや、いっそのこと、イエス様のもとを立ち去ってしまう方が気が楽であるかも知れません。そこでは、自分の貧困さと向き合う必要もないでしょう。それなりの善人でいられるかも知れません。そんな自分を喜んでいることができるかも知れません。その方がよほど幸せではないでしょうか。自分の貧しさを認めて生きるより、そこそこの善人であることを自負して生きる方が、よほど幸せではないでしょうか。

 しかし、そうじゃない!とイエス様は言われるのです。本気で主の言葉に耳を傾け、自分への語りかけとして聞いて生きようとする人、それゆえに自分の罪深さに涙し、愛の乏しさに涙し、まさに霊的な物乞いのような状態であることを認めざるを得ない人に対して、主は言われるのです。「心の貧しい人々は、幸いである」と。

 それはどうしてですか。主は言われます。「天の国はその人たちのものである。」そうです、「自らの貧しさを嘆かざるを得ない人よ、あなたがたは幸いだ。最も天の国から遠いと思っている人々よ、あなたがたは幸いだ。天の国はむしろあなたがたのものなのだ」と主は言っておられるのです。

 貧しい人は求めます。求めざるを得ないのです。求めなくては生きていけません。だから神に求めます。神に依りすがるしかありません。一生、神に依りすがって、神の恵みに依りすがって生きていかなくてはなりません。「主よ、憐れんでください」と言い続けながら生きなくてはなりません。

 しかし、そのような霊的な貧困の極みにおいて、「主よ、憐れんでください」と求め続ける人生においてこそ、人は生ける神のリアリティを経験するのです。天の国を経験するのです。自分の内にはなかったはずのもの、神からのもの、天からのものが人生に現れ出てくることを経験するのです。まさに天から来たとしか言えない現実、貧しい自分自身を通して神の愛が現れ、神の御業が現れるのです。神のお働きのために、貧しい私たち自身が神に用いられるのです。そのとき、天の国はもはや単に将来の希望ではありません。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。アーメン。

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