2024年2月21日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 9:1~35

 出エジプト記 9:1-35

 前回お読みした箇所に書かれていた第4の災いは、「あぶの災い」でした。そこで見られた新しい要素は「区別」でした。主はイスラエルを区別されるのです。イスラエルはエジプトに属さない。ファラオの民ではないのです。それはイスラエル自身も理解していなくてはならないことでした。ただ、主はただ苦しみから解放しようとしているのではないのです。「わたしの民」としてエジプトを去らせようとしているのです。そして、この「区別」は、続く「疫病の災い」においてもよく現れています。

 第5の災いは「疫病の災い」です。これまで血の災いから始まってあぶの災いまでは、ある意味では人間にとっても家畜などにとっても、まだ生活が極めて不快になるというレベルの話でした。しかし、ここから次第に神の御手による災いは直接的に彼らを打つものとなってまいります。主は言われるのです。「ファラオのもとに行って彼に告げなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ』と。もしあなたが去らせるのを拒み、なおも彼らをとどめておくならば、見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる」(1-3節)。

 しかし、重要なのはその次です。「しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別される。イスラエルの人々の家畜は一頭たりとも死ぬことはない。」これは単に、「神を信じていると災いには遭いませんよ」というご利益の次元の話ではありません。ここで重要なのは、あくまでも「区別」なのです。「主が区別しておられる」という事実を見せようとしているのです。それを見なくてはならないのは、もちろん第一にはファラオです。しかし、同時にこれはイスラエルも見なくてはならないことなのです。ただ「自分たちの家畜は死ななくてよかった!」ということであってはならないのです。そこで本当に畏れをもって、自分たちは区別された民である、神の民であるという自覚を持たなくてはならないのです。

 つまりこの戦いは、一方においてはファラオの力が打ち破られるための戦いなのですが、もう一方では、イスラエルがエジプトには属さないこと、主に属することを学んでいくための戦いでもあったのです。前回申し上げたことを繰り返しますが、出エジプトは、ただイスラエルが苦しみから解放されることが目的ではないのです。エジプトから区別された、この世から区別された「神の民」、神に属する民が本当の意味で形作られることが目的なのです。そのような意識をもった民を通して、主が御自身をこの世に現すためです。主のみを信じ、主のみを礼拝する民を通して、主がこの世に御自身を現そうとしているのです。

 それは私たちも同じです。私たちは、「キリスト者であってもそうでなくても同じです」などと言ってはならないのです。主は区別しておられるのです。イエス様も言っておられます。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」(ヨハネ17:16)。洗礼を受けたとはそういうことであり、聖餐を受けているとは、そういうことなのです。

 続く第6の災いは「はれ物の災い」です。 主はモーセとアロンに言いました。「かまどのすすを両手にいっぱい取って、モーセはそれをファラオの前で天に向かってまき散らすがよい。それはエジプト全土を覆う細かい塵となって、エジプト全土の人と家畜に降りかかり、膿の出るはれ物となるであろう」(8-9節)。二人はかまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセがそれを天に向かってまき散らしました。すると、膿の出るはれ物が人と家畜に生じたのです。

 いよいよ災いは直接的になってまいります。ついに家畜だけでなく、人間が直接打たれることになります。また、ついに魔術師も、「このはれ物のためにモーセの前に立つことができなかった」と書かれています。前の章において、「ぶよの災い」の時には、魔術師がぶよを出そうと思ったができなかった、ということが書かれていました。最初は魔術師にも同じことができました。次に、同じことができなくなりました。ついに魔術師自身が災いに遭いました。――ここにも主が御自分の力を次第に明らかにしていることが分かります。

 そのように主は、順次事を進めておられます。それが主のなさり方です。主は一気に事を進められるのではなく、時間をかけられるのです。人間が考え、悔い改めることができるためです。主は忍耐強く、寛容を示されるのです。それは旧約聖書に一貫した一つのテーマです。例えば、後の時代、主に背いた北王国イスラエルにしても、南のユダ王国にしても、預言者が「滅びる」と語って、すぐに滅びることはないのです。彼らは歴史のプロセスの中に置かれるのです。

 しかし、パウロは言っています。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(ローマ2:4)。神の忍耐と寛容を軽んじてはならないのです。そこで人間はどのように応答するかが神によって問われているのです。その事実が、続く災いにおいて明らかにされます。

 続く第7の災いは「雹の災い」です。 主は言われます。「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす」(13-14節)。章の区分ではここまでが今日の範囲ですが、9の災いは三つずつ一組になっていまして、ここからが第3サイクルに入ります。災いは新しい段階に入るのです。ここに至って、具体的にエジプト人の中にイスラエルの側に着く人々が現れてくるのです。

 前にも述べたように、イスラエルがエジプトから脱出するのに、かなり時間がかかります。トータルで10の災いが繰り返されるまで、イスラエルは救い出されないのです。以前も話しましたように、それは一見すると、ボクシングで言えば最終ラウンドまでもつれ込んだ試合のように見えるのです。最終ラウンドまでもつれ込むというのは、通常は力が拮抗しているときです。青コーナーのファラオと赤コーナーの神様に、力の差なかったから最終ラウンド決着になったように見えるのです。

 しかし、神様は言われるのです。そうではない。本当はKOしようと思えばいくらでもできた。しかし、あえて相手に持ちこたえさせ、最終ラウンドKOにすることにしたのだ。相手のしぶとさをわざわざ引き出すような試合にしたのだ、と。「主がファラオの心をかたくなにされた」という表現はそういうことです。試合は完全に主の主導のもとで進んでいるのです。

 それが15節以下でも語られています。「実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた」。それは主の力を示すためであったというのです。

 なぜ悪の力が支配し続けるように見えるのか。なぜ救いはすぐに成就しないのか。なぜすぐに終わりにならないのか。それはすべて、主が御自身を現されるプロセスだということを、私たちは忘れてはならないのです。

 「わたしの力を示して」ということは、それを見なくてはならない人々がいるということです。実際、主に目を向けている人、主の言葉を聞いている人、主の支配を確かに見ている人々がいるのです。主はこう言われました。「見よ、明日の今ごろ、エジプト始まって以来、今日までかつてなかったほどの甚だ激しい雹を降らせる。それゆえ、今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。野に出ていて家に連れ戻されない家畜は、人と共にすべて、雹に打たれて死ぬであろう』と」(18-19節)。

 それまでエジプト人は、奴隷の民イスラエルを馬鹿にしていたのでしょう。彼らが「ヤハウェ」と呼ぶ神をも馬鹿にしていたのでしょう。エジプト人のことを、主はファラオに「あなたの民」と言っています。確かに彼らはファラオに属するファラオの民だったのです。しかし、主はイスラエルという区別された民を通して力を現される。そして、それをファラオの民が見ているのです。それゆえに、彼らの中にも、主を畏れて警告に従おうとする人々が出て来るのです。実質的に「主の民」の側に、イスラエルの側につき始める人々が出て来るのです。「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた」(20-21節)。

 ここでついにファラオは言います。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない」(27‐28節)。

 「主は正しい」というファラオの言葉。それは確かに、「主を畏れる」ということの表現に見えます。しかし、避難した人々については「主の言葉を畏れた者」と言われていますが、ファラオについては次のように語られているのです。「しかし、あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていないことを、わたしは知っています」(30節)。つまり、ただ災いを免れたいと思っている人と、本当に主を畏れる人とは違うということです。主を正しいとする。そうでなければ、災いを免れたらまた同じところに戻ります。

 実際そうなりました。「ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの人々を去らせなかった。主がモーセを通して仰せになったとおりである」(34-35節)。

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