2022年1月16日日曜日

「神によって備えられた出会い」

使徒言行録 9:1‐20

 使徒パウロ。彼を抜きにしてキリスト教会の歴史を語ることはできません。しかし、パウロはもともと教会の迫害者でした。神はよりによって教会の迫害者をお選びになりました。それまで迫害されてきた教会に、神は迫害者を加えられたのです。暴力を振るわれ仲間を殺されてきた人々の中に、暴力を振るい殺してきた人物を加えられました。そして、苦しめてきた人物と苦しめられてきた人々が、一緒に主を礼拝し、一緒に福音を宣べ伝えるようにされたのです。そんなあり得ないようなことが、この世界において、事実として起こりました。

 神を信じて生きるということは、あらゆる可能性に開かれた人生を生きることです。神は私たちの思いを超えたことを、私たちが絶対に思いつかないような仕方で実現されます。時として最悪としか思えない出来事を通して、神は最善のものを手渡されるのです。その極みはキリストの十字架に他なりません。人間が神の子を十字架にかけるという最悪の出来事を通して、神は罪の贖いを実現し、この世界に救いを与えられました。そのような神の救いにあずかって、そのような神を信じて生きるようにと、私たちは招かれて、今ここにいるのです。

迫害者サウロ
 今日は使徒言行録9章をお読みしましたが、パウロ、またの名をサウロという人物が初めて登場してきますのは7章においてステファノが殺害される場面です。「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」(7:57‐58)。

 7章の記述を読む限り、ステファノの処刑は明らかに合法的な処刑ではありません。非合法なリンチです。しかし、そこに「証人たち」と書かれていることは注目に値します。律法に定められている通り、まず証人が最初の石を投げたのです。少なくとも形においては、ステファノの殺害を、合法的な処刑の形式で行ったということです。そこには彼らの正義の主張があります。それはあくまでも彼らの正義に基づいての処刑だったのです。

 ステファノが石で打たれて血みどろになって死んでいくのを冷静に見守り、これに賛意を表明していたのが、このサウロという人でした。「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(8:1)と書かれています。なんと残酷なことか、と私たちは思います。しかし、このサウロという人も石を投げつけていた他の人々も、いわゆる悪人やならず者ではありません。恐らくそこにいたほとんどの人は律法を守り秩序を大切にする正しい人々なのです。

 ある意味では、本当に残酷なことは、正義の名のもとにしか為され得ないと言うことができます。人間は自分が悪いと知りながら積極的に残酷にはなれないからです。人と人との間でも、国家と国家の間にも言えることです。いじめにせよ、殺人にせよ、戦争にせよ、テロにせよ、そこにはそれなりの正義の理論があるのでしょう。正義の理論がある時に、人は自らの残忍さに気付かないまま、残酷なことをするのです。本当の罪深さは、罪深いと思わないで罪深いことをしているところにあるのです。

 ステファノの殺害に賛成していたサウロは、徹底的に教会を迫害し始めました。「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」(8:3)と書かれています。そして、ついに彼は迫害の手をシリアのダマスコにまで伸ばします。今日お読みした箇所には次のように書かれていました。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(1‐2節)。

 迫害するのも楽ではありません。そこには相当な労力が要求されます。しかし、サウロは労をいとわずダマスコにまで向かおうとしていたのです。正しいことをしていると信じていたからです。正義のための行動には喜びが伴います。それがたとえどんなに残酷な行為であっても、正義のための行動には喜びが伴います。そこで人は自分の存在意義を見出します。生きている実感を手にします。ですから、人はそこで労苦を惜しみません。

 しかし、神はサウロが正義の闘士としてダマスコに到着することをお許しになりませんでした。キリストが彼の行く手を阻んだのです。キリストがサウロを打ち倒されたのです。次のように書かれています。「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた」(3‐7節)。

 サウロは地に打ち倒されました。そして、サウロが再び立ち上がった時、彼の目は見えなくなっておりました。彼は人々に手を引かれてダマスコに向かうことになりました。自分がしっかりと正義の側に立っていると信じて疑わなかったサウロが打倒されました。自分には正しいことが見えていると信じていたサウロの目が見えなくなりました。自分が正しく立っていると思っていたこと、正しいことが見えていると思ってきたこと自体が間違いであったことを神によって思い知らされる、実に象徴的な出来事でした。

 しかし、打ち倒されて見えなくされて、暗闇の中に置かれて、それで終わりではありませんでした。彼はそこで声を聞いたのです。「サウル、サウル」と彼の名を呼ぶ声を聞いたのです。キリストが呼んでくださっていた。それはサウロが迫害してきたキリストでした。しかし、それはまたサウロのためにも十字架にかかられたキリストでした。サウロが耳にしたのは、彼の罪を赦し、もう一度立ち上がらせ、彼に未来を与えようとしておられるキリストの声だったのです。

 そのようにキリストは思いもよらない仕方で、サウロの人生に入ってこられました。そして、人間の思いを遙かに超えた赦しと救いを与えられたのです。しかし考えてみれば、そのように人間の思いを超えた仕方で神が行動されたと言うならば、形は違えども、私たちに対しても同じなのではありませんか。だから私たちは今ここにいるのでしょう。

主によって備えられた出会い
 しかし、神が人の思いを超えた仕方で行動される時、神は全てを御自分でなさろうとは思われないようです。その中に人間を取り込んでいかれる。神は人の思いを超えた仕方で、人間を用いられるのです。

 主はダマスコにいるアナニアという弟子にも、幻の中に現れました。そして主は、驚くべきことを彼に命じられました。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」(11‐12節)。

 思いも寄らぬ仕方で二人の人間が出会います。そのようなことを私たちも経験いたします。そのように主によって備えられ、与えられる出会いは、必ずしも望ましく思えるものばかりではありません。「なんでこんな人と一緒にいなくてはならないのか」。「なんでこんな人と関わらなくてはならないのか」。そう思わずにはいられないこともあるのでしょう。アナニアにとってサウロは決して「出会いたかった人」ではありませんでした。関わりたかった人ではなかったのです。

 アナニアには、サウロを拒否すべき、ありとあらゆる理由がありました。ダマスコには、エルサレムから逃れてきた多くの人々がいるのです。アナニアの周辺には、この憎きサウロによって仲間を殺され、平和な生活を奪われた、数多くの人々がいたことでしょう。アナニアはそのような人たちの話をたくさん聞かされてきたに違いない。そして今や、アナニア自身にも迫害の手が伸ばされようとしているのです。そのような男の元へなど、行きたいはずがありません。

 当然のことながら、アナニアは抵抗いたします。このサウロがいかなる人物であるかを主に説明して、主の導きに対して不平を申し述べるのです。しかし、主は、「行け」と言われます。その理由は単純でした。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(15節)。「わたしが選んだのだ。」――それ以上の理由は与えられませんでした。そして、主は「行け」と言われるのです。

 アナニアは主の御言葉であるゆえに従います。サウロのもとに赴きます。そして、彼の上に手を置いてこう言いました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」(17節)。

 「兄弟サウル」――かつての迫害者サウロを、アナニアはそう呼びました。アナニアが特別に寛容な人だったからではありません。彼はただ、出会わせてくださった神の選びと御計画を受け入れたのです。主がサウロを、アナニアのまことの「兄弟」とされたのです。その事実を、アナニアは主の御前で受け止めたのです。

 言い換えるならば、アナニアは、神の御計画が人間の想像を超えていることを受け入れたということです。今はよく分からないけれども、確かに神は私たちが想像もしない仕方で良きことをなさっている。そう信じて、主に信頼して従ったのです。信仰によって、アナニアはサウロに呼びかけました、「兄弟サウルよ」と。

 サウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになりました。サウロは身を起こして洗礼を受け、主の教会に加えられました。しかし、ある意味では目からうろこが落ちたのは、アナニアも同じであろうと思います。かくして、迫害してきた者が迫害されてきた者たちと共に、主を礼拝し、主に仕え、主を宣べ伝えることとなりました。そのように、人間の思いを超えた神の御業が一方にあり、神の御業を受け入れる人間の信仰がもう一方にある。それが一つとなって、神の御業が目に見える形で実現していくのです。私たちもまた、信じて、期待して、私たち自身を捧げ、従ってまいりましょう。
 (祈り)
 憐れみ深い主よ、
 天地の造り主であるあなたを、いつも私たちのちっぽけな頭の中に閉じこめようとしている不遜な私たちを赦してください。私たちの思い測ることから少しでも外れたことが起こると、つぶやいたり、腹を立てたり、うろたえたりしている私たちです。主よ、憐れんでください。私たちの思いや私たちの心よりも大きなあなたが、計り知れないほどに大きな御業によって、私たちの罪を赦し、新しく生かしてくださったことを思い起こし、そのようなあなたに信頼して、ここから歩み出すことができますように。感謝と喜びと期待とをもって、この週を歩み出すことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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