2023年2月5日日曜日

「豊かな実りのために必要な忍耐」

 ルカによる福音書 8:4‐15

神の言葉という種
 「聞く耳のある者は聞きなさい」。そうイエス様は言われました。ルカによる福音書ではわざわざ「大声で言われた」と書かれています。「聞く耳」の話が出て来るのは、もう一方において「語られる言葉」があるからです。その言葉とは、もちろんイエス様の語る言葉です。宣教の言葉です。今日は4節からお読みしたのですが、8章の始めには次のように書かれています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」(8:1)。イエス様は「神の国」を宣べ伝えていたのです。福音(良き知らせ)を告げ知らせていたのです。

 「すぐその後」とありましたが、その直前にはこんな話が書かれています。イエス様がファリサイ派の人に招かれて、一緒に食事をしていた。すると一人の女がそこに入ってきた。その女が香油の入った石膏の壺を持って来て、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」その後の展開は割愛しますが、最終的にイエス様はその女にこう語っています。「あなたの罪は赦された」(7:48)。そして、さらに言うのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(同50節)。

 ここには、イエス様の宣教の中心が何であったか良く現れています。それは罪の赦しと救いです。イエス様は神の権威をもって罪の赦しを宣言し、救いを宣言されたのです。

 そのようにイエス様は語られました。単に言葉をもって神の国の福音を宣べ伝えただけではなく、行動をもって宣べ伝えたのです。神の赦しと救いへの招きをただ語るだけでなく、行動をもって宣べ伝えられた。この罪深い女のエピソードもその一つです。イエスという存在そのものが語っている。いわばイエス・キリストという存在そのものが神の言葉だったのです。

 「神の言葉」に限らず、「言葉」はそれ自体の内に力をもっています。何かをもたらし、何かを引き起こす力を持っています。しかし、言葉が何をもたらすかは言葉自体によっては決まりません。受け取る側によって左右されるのです。実際、ある言葉がある人には喜びをもたらします。しかし、同じ言葉が別な人には怒りをもたらします。そのように、何をもたらすかは、受け取り手によって左右されます。

 その意味で「言葉」は「種」に似ています。「種」はその内に実りをもたらす力を持っています。しかし、実りは「種」だけによって決まるのではありません。それを受け入れる「土地」によって左右されるのです。ですから、今日の箇所でもイエス様は種蒔きのたとえ話をするのです。神様はキリストを通して神の言葉を語られました。キリストの言葉によって、その行動によって、最終的には十字架と復活によって、神の言葉をこの世界に与えられました。そして、キリストの体なる教会を通して御言葉が今も宣べ伝えられています。

 宣べ伝えられている神の言葉は、人間を救う力を持っていますし、救いの実りを豊かに実らせる力を持っています。しかし、救いをもたらすか否かは、神の言葉だけによって決まるのではありません。それを聞く側によって左右されるのです。ですから、イエス様は種蒔きのたとえ話をして、そして大声で言われたのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。種が蒔かれたならば、後は聞く耳の問題だ、ということです。

種は百倍の実を結ぶ
 さて、たとえ話の内容は極めて単純です。イエス様は種が落ちた四種類の土地について語っておられます。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(5‐8節)。

 道端に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(12節)。神の言葉が蒔かれた。しかし、そこで実りが見られないことがある。その一つの場合がこれです。道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。道端に落ちた種は「人に踏みつけられ」と書かれています。いかにも受け入れられないで粗末にされている感じがイエス様の言葉に表れています。

 イエス様の宣教の言葉、イエス様の行為、イエス様の存在が受け入れられない――そのような事は現実に起こっていました。イエス様の周りに集まる群衆の中には、ファリサイ派の人たちや律法学者たちもいたのです。敵意と反感をもって聞いている人たちです。彼らは初めから受け入れる気がありません。既に踏み固められた道のように、固まってしまっている自分の考えがあるのです。自分の考えていることと同じような考えならば受け入れます。自分の考えていることと異なるならば受け入れません。自分の既に持っているものが基準です。だから福音が入っていきません。せっかく蒔かれた種は悪魔が持っていってしまいます。そのようなことはイエス様に対しても起こりましたし、今も起こり得ることです。

 石地に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」(13節)。この場合、神の言葉は受け入れられたのです。喜びをもって。しかし、喜びが与えられた、というだけで満足しているならば、それは根が深く降ろされていない種のようなものなのです。根が降ろされていなければ、やがて枯れてしまいます。試練が起こってきた時に「身を引いてしまう」、すなわち信仰から離れてしまう。それが石地に落ちた種の場合です。

 茨の中に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(14節)。茨の方が麦よりも成長が速いのです。なので茨があると覆われて、成長が妨げられてしまいます。

 その茨とは、第一に「思い煩い」だと言います。思い煩いが生じるのは不足や困窮の場合です。もう一方で茨とは「富や快楽」だと言います。富や快楽が問題となるのは、満ち足りている場合です。不足していても、満ち足りていても、そこには成長を妨げるものがあるということです。思い煩いや富や快楽の方が大きくなれば、成長はストップしてしまいます。それが茨の中に落ちた種です。

 さて、このようなたとえ話を通してイエス様が仰りたいのは、「あなたはこの三つの内のどれですか」ということではなかろうと思います。主は「聞く耳のあるものは聞きなさい」と叫んでおられるのです。イエス様は聞いて欲しいのです。さらにはその蒔かれた種が豊かな実を結ぶことを望んでおられるのです。農夫ならば当然です。収穫を期待して蒔くのです。

 先に道端、石地、茨の地という三通りの土地について見てきましたが、これらは別々の場所にある三種類の土地の話ではなく、一つの畑の話です。繰り返しますが、道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。石地とは、畑の中で取り除ききれなかった石が残った場所のことです。茨もまた、根っこを取り除ききれなくて、残っていた根から生え出た茨が麦と一緒に伸びてきたという話です。

 ですから、道端や石地や茨の地が永遠にそのままであるとは限らない。皆、良い土地になり得る一つの畑です。イエス様が本当に語りたいのは、良い土地についてなのです。主は言われました。「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(8節)。

 「百倍の実を結んだ」という言葉を聞いて、私たちは過去の偉大なキリスト者を思い浮かべる必要はありません。ジョン・ウェスレー、マルチン・ルーサー・キング牧師、マザー・テレサなどを思い浮かべる必要はありません。確かにそこには神の言葉の結んだ豊かな実りがあったことでしょう。しかし、それらの人々は決して特別な人々ではないのです。蒔かれているのは、同じ種なのです。私たちに蒔かれているのと同じ種。私たちに蒔かれているのも、私たちが生きている場において、百倍の実を結ぶことのできる同じ種なのです。

 主は言われました。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。まずは聞き方です。「立派な善い心で御言葉を聞き」と主は言われます。別に立派な人間になれと言っているのではありません。聞き方の話です。「立派な善い心で御言葉を聞き」とは、これまで見た三種類の土地の逆を考えたらよいのでしょう。御言葉を受け入れ、そこに留まることです。

 ですから、「よく守り、忍耐して」と書かれているのです。ただ最初の喜びで満足しているのでなく、受け入れた種が自分の内にしっかりと根を降ろすことを求めていくことです。そのような信仰生活を妨げたり、そこから引き離そうとしたりするものはいくらでもあります。試練があり、困難がある。富や快楽への誘惑がある。しかし、そのような中で信仰の生活に留まり、共に神を礼拝し、主の御言葉に耳を傾ける生活に留まるのです。そこには忍耐が必要とされます。忍耐強く留まることは、私たちがすることです。そして、神が豊かな実りを与えてくださいます。

 実際、どうでしょう。コロナ禍の三年間は私たちの忍耐が問われた三年間だったのではないでしょうか。私たちは御言葉に留まってきたでしょうか。信仰に留まってきたでしょうか。私たちの信仰生活はこの三年間を経てどうなったでしょうか。忍耐を経て豊かな実を結んできたでしょうか。道端も、石だらけの地も、茨の地も、良い地になり得る一つの畑です。私たちは本来の私たちのあるべき姿に立ち帰りたいと思います。神の与えてくださる豊かな実りのために。


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