2026年4月19日日曜日

「神が心にかけていてくださるから」

2026年4月19日 主日礼拝説教 

聖書:ペトロの手紙一 5:6-11

自分を低くしなさい
 今日は、ペトロの手紙一5章6節からお読みしました。その直前には、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」(5節)という勧めが書かれています。今日の箇所はその続きです。

 「互いに謙遜を身に着けなさい」という言葉は、ここにいる私たちには、恐らく何の違和感もなく耳に入ってくるだろうと思います。教会の中はもちろんのこと、教会の外においても、「謙遜」は広く美徳と見なされているからです。また、「謙遜」は、より良い人間関係の土台であると考える人も少なくないでしょう。

 しかし、この手紙が書かれた当時の人々が、同じこの言葉を耳にしたら、私たちとはまったく異なる印象を受けただろうと思うのです。というのも、当時のギリシア・ローマ世界においては、「謙遜」は美徳どころか、否定的な意味合いを持つ言葉だったからです。その社会で尊ばれていたのは「名誉」であり「誇り」であり、「人より高くあること」でした。そのような世界において、低くあること、身を小さくすることは、弱さや卑屈さの表れとして軽蔑の対象とされたのです。

 「謙遜」と訳されているのはギリシア語で「タペイノフロシュネー」という言葉です。元になっている「タペイノス」は文字通り「低い」という意味の言葉です。名誉と誇りが人の価値を決める世界において、この「低さ」はまことにネガティブなものとして受け取られていたのです。なのでタペイノフロシュネーが結びつくのも、「卑屈」「自己卑下」「惨めであること」という響きだったのです。

 その「タペイノフロシュネーを身に着けなさい」とペトロは勧めるのです。当時の社会の価値観に真っ向から逆らうような言葉です。それをペトロは当たり前のように手紙に書いて送るのです。それはどうしてか。――これは「教会」に宛てた手紙だからです。すなわち、これは信仰を前提とした勧めなのです。あくまでも、神との関わりにおいて聞かれ、理解されるべき言葉なのです。一般的な謙遜という美徳の話として聞いてはならないのです。

 ですから、ペトロはそこで旧約聖書の箴言を引用してこう続けるのです。「なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです」と。これが理由なのです。それゆえに、お互いに対して謙遜であるかを問う前に、そもそも私たちは「神に対して」謙遜であるかどうかを省みる必要があるのです。実際どうなのでしょう。私たちは人に対してどころか、神に対してさえ、なかなか謙遜になれない者ではないでしょうか。神に対してさえ高ぶって生きているのではないでしょうか。

 かつてスポルジョンという人が説教の中でこう語っていました。「高ぶりは最初の罪であり最後の罪である」と。実際、聖書が語る最初の罪は、アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べ、自らが神のようになろうとした高ぶりの罪でした。そして、その高ぶりの罪は私たちの人生が終わるまで、そして世の終わりまでついて回ることでしょう。その意味では確かに「最後の罪」とも言えます。

 だから、ペトロはさらにこう続けるのです。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」(6節)。繰り返しますが、これは教会に宛てた手紙です。毎週集まって神の御前に礼拝をささげている教会に宛てた手紙なのです。神を礼拝しているはずの信仰者に宛てた手紙です。神を礼拝している私たちが、本当に神の前で自らを低くしているならば、このような勧めの言葉をペトロは書く必要はなかったのでしょう。このような勧めが聖書に記されているのは、往々にして、私たちはそうなっていないからであるに違いありません。

 そして、そこにもう一つの勧めの言葉が続くのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。ところで、今、「もう一つの勧めの言葉が続く」と申しましたけれど、しかし、それはあくまでも日本語訳の場合です。実は、原文においては、6節と7節は途中で切れない一つの文なのです。つまり6節の「高ぶり」と7節の「思い煩い」は切り離すことができない、ということです。

 それは、ある意味では当然のことであるとも言えます。先ほど、アダムとエバの話に少しだけ触れましたが、あの創世記の物語を読んでもよく分かります。

 神は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と命じました。しかし、蛇はこう言って誘惑しました。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と。

 そして、その誘惑に人間は負けました。人間は神を退けて、自らを神の位置に就けました。人間は自分が善悪を知るものと思い上がって、神をさえ裁く者となりました。神を退けて人間がこの世界を治め、神を退けて人間が自らの人生を治めようとする者となりました。「これは私の人生だ」と。

 しかし、人間は神の位置に身を置いても、神にはなれません。神なしにこの世界を治めようとしても人は神にはなれません。神なしに自らの人生を治めようとしても、神にはなれません。いや自らの人生を治めるどころか、今日一日の生活すら私たちは治めることができません。神にはなれないどころか、我が身一つどうすることもできないような私たちです。そんな私たち人間が、自分を頼りにすることと、他の人間を頼りにすることしか考えられなければ、思い煩いを抱えることになるのは、当然のことなのです。

 イエス様はそんな人間の現実を良く御存じでした。ですから、思い煩いで心がいっぱいの人々に、このように語られたのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)。最もパーソナルな自分自身の寿命の問題でさえ、私たちはそれに指一本触れることができないのです。そんな私たちですから、神に対して高ぶって、自らが神の位置に留っている限り、様々なことに思い悩まざるを得ないのです。

心にかけていてくださる神
  だからペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」という言葉に、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉を続けるのです。「お任せしなさい」とは、「投げかける」と訳すことのできる言葉です。手に握ったままで物を投げることはできません。投げるためには手放さなくてはなりません。手放すことができるのは、受け止めて下さる方がおられるからです。私たちの思い煩いを受け止めてくださる方がおられるのです。

 その方について、聖書にはこのように語られています。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。「心にかけていてくださる」というのは良い訳だと思います。聖書が伝えているのは、まさにそういうことだからです。いつか「心にかけてくださる」のではないのです。思い煩いをお任せする時に、心にかけてくださるのではないのです。過去においても、未来においても、そしてこの瞬間にも「心にかけていてくださる」のです。

 私たちが高ぶって、神を忘れていたときに、神様は心にかけていてくださったのです。私たちがそのお方に信頼して生きるのではなく、そのお方に背を向け、自分の力に頼って生きていたそのとき、神様は私たちを心にかけていてくださったのです。そして、神は私たちを今も心にかけていてくださるのです。

 これをペトロ自身の経験から出た言葉として聞く時に、これはまことに心を打つ言葉として迫ってまいります。

 最後の晩餐の席において、イエス様が弟子たちの離反を予告した時、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)と言いました。しかし、主は言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(同30節)。かくしてそのとおりになりました。

 そのような自分が今、使徒とされている。それはまさに驚き以外の何ものでもなかったに違いないのです。どうしてこのようなことがあり得たのか。――「神が心にかけていてくださったから」としか言いようがないでしょう。傲慢にも「わたしはつまずきません」と言い放ったあの時、神は既にわたしを心にかけていてくださった。大祭司の中庭において、三度「知らない」と言った時、神はわたしを心にかけていてくださった。イエス様の言葉を思い出し、自らの罪と弱さに打ちのめされて声を上げて泣いていた時、そんなわたしを神は心にかけていてくださった。

 ペトロにはよくわかったと思います。そしてやがて知るに至ったのです。既にイエス様が十字架にかかられるためにこの世に来られたそのこと自体が、まさに神が心にかけていてくださることを現していたのだと。

 それゆえに、ペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」と語るのです。そのような、心にかけていてくださる神の御前で身を低くするのです。その力強い御手の下で身を低くするのです。裁く者であることをやめて、身を低くするのです。ただひたすら信頼する者として、身を低くするのです。

 私たちはこうして礼拝の場に集められているわけですが、神を礼拝し、神に祈るとは本来、神の御前で自らを低くすることなのでしょう。心にかけていてくださる神の力強い御手の下で、自らを低くすることなのでしょう。私たちの礼拝の姿は、礼拝する教会の姿は、神様からどのように見えているのでしょうか。

 この神の御前において身を低くすること、それがペトロの語るタペイノフロシュネー(謙遜)です。それを身に着けなさいと言うのです。そして、神の前に身を低くした者として、お互いの関係も築いていくのです。それが「皆互いに謙遜を身に着けなさい」という勧めの意味するところです。それが本来のお互いの関係なのです。ならば、お互いの関係においても、共に神の御前に身を低くすること、共に礼拝することは、中心的な意味を持つのです。

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