2026年7月26日日曜日

「私たちを造り変える聖霊」

2026年7月26日 主日礼拝説教 

聖書:コリントの信徒への手紙二 3:12‐18

 今日は7月の第4主日ですので、年度主題を覚えて礼拝をおささげします。毎月、確認していますが、今年度の年度主題は「聖霊の神殿である私たち」です。私たちを神殿として私たちに宿っておられる聖霊のお働きに思いを向けて、今日も御言葉に耳を傾けます。今日は特に、私たちを造りかえる聖霊のお働きに私たちの思いを向けることといたしましょう。

主と同じ姿に
 さて、世の中には、「自分を変えたい」「自分は変りたい」と思っている人、思ったことのある人は少なくないことと思います。しかし、それは何のためでしょう。また、どのように変わることを願っているのでしょうか。ここにいる私たちが変わることを願うとするならば、どのような自分になることを求めたらよいのでしょう。

 聖書は、私たちが変わっていくべき方向を明確に示しています。例えば、ローマの信徒への手紙8章29節には次のように記されています。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8:29)。

 そして、本日与えられている聖書箇所の中にも次のように書かれていました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。

 そのように、「御子の姿に似たものに」と書かれ、「主と同じ姿に」と書かれています。これが聖書の指し示す方向です。それは、キリストの似姿です。しかし、主と同じ姿に変えられるとは、具体的にはどのように変わることなのでしょうか。それは言葉としては理解できますが、意味するところは必ずしも明白ではありません。また、ともすると、自分勝手なキリストのイメージを持ち込んでしまうことにもなりかねません。私たちは、あくまでも聖書の語るところに即して考えなくてはならないのです。

 ちなみに、この章はパウロが神から与えられた自らの職務について語っている箇所です。彼は使徒としての職務を与えられたことを次のように表現しています。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました」(3:6)。そして、その新しい契約に仕える務めについて、古い契約に仕えたモーセの職務と対比させながら語っているのです。

 先ほどお読みしました18節は、そのような流れの中において語られているのです。ならば、「主と同じ姿に造りかえられる」ということに関しても、これを「新しい契約」との関連で理解しなくてはならないのです。

心に記される神の律法
 では、その「新しい契約」とは何でしょう。この言葉は本日の第一朗読において読まれたエレミヤ書に出てきました。次のように書かれています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・31‐34)。

 かつて神はイスラエルの民をエジプトから導き出し、十戒を与えて彼らと契約を結びました。彼らは神の民となり、神は彼らの神となられました。その契約に仕えたのがモーセです。イスラエルの民は、モーセを通して与えられた律法に従い、この世界に神の支配と神の救いの計画を指し示す民となるはずでした。しかし、彼らは神の戒めに背きました。神との契約を破ったのです。旧約聖書はその不従順な民の罪の歴史をごまかすことなく記しています。

 しかし、神は御自分の民を、そしてこの世界を、見捨ててしまうことはありませんでした。神の救いの計画はイスラエルの不従順にもかかわらず進められていったのです。「古い契約」が無効とされて終わりではありません。神はエレミヤに「新しい契約」の預言を与えられたのです。

 神は、罪の赦しに基づいて、新しい契約を結ばれるのです。そこで主は言われます。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と。古い契約において、律法は石の板に刻まれました。しかし、イスラエルの民はその律法を守れませんでした。それゆえ、新しい契約において、神はその律法を心に記すと言われるのです。

 ここで聖餐式の度に読まれる御言葉を思い起こしてください。キリストは、最後の晩餐において、杯を取って感謝の祈りをささげ、こう言われたのです。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:25)。――このキリストの言葉が、今日も繰り返し語られてるとはどういうことですか。それは、エレミヤの預言がここに実現しているということを意味するのです。

 キリストが十字架にかかられて流された血によって、新しい契約が立てられました。今日もなお同じ主の言葉が語られ、聖餐が行われております。キリスト者となって聖餐に与るということは、この新しい契約の中に生きていることを意味します。教会は、キリストの血によって立てられた新しい契約による神の民なのです。ですから、使徒パウロは自分自身を、新しい契約に仕える者として語っているのです。

 新しい契約においては、律法は石の板ではなく、心に記されます。心に記されるべき律法が何であるかは、既に十戒において示されています。キリストはこの律法を二つの最も重要な戒めとして要約されました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:29‐31)。律法が心に書き記されるということは、この戒めが私たちの内に実現することに他なりません。すなわち、私たちがまことに神を愛し、人を愛する者となることです。

 新しい契約に生きる者にとって、人生の意味と目的は単純明快です。人生の意味と目的は、神を愛し、人を愛することにあります。家庭生活、社会生活における人生の課題のすべてはこの原則の応用問題に他なりません。

 私たちは変わらねばなりません。その方向は明瞭に示されています。神を愛し、人を愛する者となることです。その完成はどのような姿となるでしょう。それが「主と同じ姿」なのです。キリストこそ、まことに父なる神を愛し、そして人を愛された方だからです。その愛の真実は十字架に向かう歩みにおいて現され、その栄光は復活において現されました。私たちは、その姿へと向かっているのです。これは人生の大目標であり、教会の歴史の大目標なのです。


主の霊によって
 しかし、まことに神を愛し、人を愛する者となり、主と同じ姿となるということであるならば、それは単純に私たちの努力によって実現され得ることでないことは明らかです。ですから、パウロはここで、主と同じ姿に「造りかえられていきます」と語るのです。人間はあくまでも受け身です。人間は、自分の心に律法を書き記すことはできません。書き記していただくしかないのです。それゆえに、「これは主の霊の働きによることです」と言われているのです。これは聖霊のお働きなのです。

 しかし、ここではあえて聖霊が「主の霊」と呼ばれています。そして、主と同じ姿に変えられることが、「主の霊」によるならば、そこで最も重要なのは主とどのような関係にあるか、ということなのでしょう。「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」と書かれています。パウロがこのように書くのは、同胞であるユダヤ人のことを考えているからです。相変わらず、モーセの律法の書が読まれています。彼らは律法を遵守するために真剣に努力しています。しかし、キリストには背を向けたままであり、心には覆いがかかったままなのです。

 覆いは取り去られねばなりません。そのためには、心に律法を書き記すのは主の霊のお働きであることを認めて、主の方に向き直って生きていくことなのです。主に向き直るということは、観念的なことではありません。単に心情的なことでもありません。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われる主に向いて生きていく生活は、具体的な形を取るのです。それは御言葉を聞き、共に礼拝をささげ、聖餐に与りながら形づくられる生活です。そのように具体的に主に向く生活を重んじることをしないで、「私は少しも変わらない」と嘆いても何の意味もありません。

 一方、私たちが新しい契約の民として主に向いて生きていくならば、「私は少しも変わらない」と思えたとしても、少しも心配する必要はありません。主の霊が私たちを主と同じ姿に造りかえてゆくのです。それは私たちの努力を越えた、主の救いの御業なのです。私たちが新しい契約の中に生きるなら、その御業がやがて完成する時が来るでしょう。パウロはこう言いました。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1・6)。私たちもまた主の約束に信頼し、パウロのこの言葉に喜びと感謝をもって「アーメン」と唱和してまいりましょう。

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