2023年1月29日日曜日

「いざという時に惑わされないために」

ルカによる福音書 21:1‐9

貧しいやもめの献金
 今日の朗読箇所の前半部分は献金の話です。「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである』」(1-4節)。レプトン銅貨は当時の一番小さなコインです。それが二つ。小さな、とても小さな献げものです。しかし、大事なポイントは二つあります。第一に、これは「乏しい中からの献げ物」であるということ、第二に、これは「信頼の献げ物である」ということです。

 第一に、これは「乏しい中からの献げ物」でした。イエス様は言われました。「あの金持ちたちは皆、《有り余る中から》献金したが、この人は、《乏しい中から》…入れたからである」。ここに明らかな対比があります。お金について言えば、これはとても分かり易い話です。ある人は自分の状態を、この貧しいやもめに重ねて見るでしょう。ある人は自分の状態を「あの金持ちたち」に重ねて見ることができるでしょう。また、ある人は「その中間ぐらい」と言うかもしれません。

 しかし、考えてみますなら「乏しい中から」という言葉が関係するのは、必ずしもお金の話だけではありません。経済的に豊かな人が「乏しい」という言葉と全く無縁かと言えば、決してそうではないでしょう。「お金はあるけれど、時間がない」という人だっているでしょう。お金も時間もあるけれど、年老いて体力が乏しいという人だっているでしょう。あるいは能力に乏しい、愛に乏しいと感じている人もあろうかと思います。

 そのような乏しさの中で、私たちはしばしば考えるのです。豊かだったら献げられるのに、と。時間がもっとあったら神様に奉仕できるのに。体力があったら、若さがあったら、もっと仕えることができるのに。もっとあの人のように有能だったら、あの人のように愛に溢れた人だったら、神様のお役に立てるのに、と。

 しかし、あのやもめは「乏しい中から」神に献げたのです。乏しい中からの献げ物だからレプトン銅貨二つなのです。そんな献げ物が、実際的に何の役に立つかと言われても仕方ない、そんな献げ物かもしれません。しかし、それが役に立つかどうかなんて考えないで、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。同じように、忙しい人はレプトン二つ分の時間しか献げられないかもしれない。病気の人は、レプトン二つ分のことしかできないかもしれない。でも、イエス様は言われるのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と。イエス様はそのように見ていてくださる御方です。

 そのようにイエス様は貧しいやもめを指し示します。その一つの理由は、イエス様と一緒にこのやもめを見ていた弟子たちが、やがては同じ立場に置かれることになるからです。やがて迫害の中にあって、様々な制約の中にあって、その乏しさの中から自分自身を献げて教会を形作っていくことになるのです。ですからこの「やもめ」の姿は「教会」と関係しているのです。その意味で私たちもまた、目を向けなくてはならない姿がそこにあります。

 そして、第二に、これは「信頼の献げ物」でした。イエス様はこうも言われました。「この人は…持っている生活費を全部入れたからである」と。生活費を全部入れたのは、明らかにそれでも大丈夫だと思っているからでしょう。自分が自分の生活を支えているのではない。神様が生かしてくださっている。その信頼があってこその献げ物です。

 ここに書かれているように持っている生活費を全部献げるというようなことは、恐らくはある特別な日における特別な献げ物だと思います。彼女が毎日同じことを繰り返しているとは思えない。しかし、その特別な献げ物に見る「神への信頼」は一朝一夕で形作られるものではありません。貧しい生活の中にあって、この日だけでなく、これまで毎日毎日、神に信頼して生きてきたということです。ならば、彼女の献げたレプトン二つは、信頼に生きる毎日の生活をお献げしたものであるとも言えるでしょう。

 これもまた弟子たちがしっかりと見ておかなくてはならないことでした。やがて彼ら自身、神への信頼の生活を神に献げることになるからです。迫害の時代にあって、信仰生活そのものが命がけになるのですから。その点では私たちは置かれている状況が違うとも言えます。しかし、献げ物において大事なのは、その背後に信頼の生活があることであるという点は同じです。私たちの献金にしても、私たちの献身にしてもそうなのです。時として様々な乏しさの中からほんの僅かばかりのものを献げるにしても、大事なのは、それを受け取ってくださる神様に毎日信頼して生きている、その神様と共に生きているということなのです。

見事な石と奉納物によって飾られた神殿
 そして今日の聖書箇所の後半に入り、話は次のように続きます。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた」(5節)。要するに、イエス様がレプトン銅貨二つを献げるやもめに注目させているのに、そのもう一方で人々は神殿の見事な石と奉納物で飾られていることに見とれている。そのように話はつながっていくのです。

 どうしたって人の目はそちらに向くのでしょう。紀元前20年にヘロデ大王によって修復・増築が開始された神殿。それから数十年を経たイエス様の時代においてもまだ工事が続いているような大建築。完成したら未来永劫に残ると思えるような壮麗な建物。そちらの方に、どうしたって目が向きます。一人のやもめの貧しい献げ物。そこにどんなに神への信頼の生活が現れていたとしても、それは実に些細な小さな不確かなものとしか見えない。

 実際、生活費全部献げて、その後どうなったかは書いていません。普通に考えるならば、すぐにこの女は困ったことになったとしか思えない。信仰生活というものは、見ようによってはそんな不確かなものにしか見えないものです。「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたんだよ」と言われても、聞く人によっては、「はあ、でもそれが何なの」というような話です。それよりは、目の前の大きな神殿の方がよほど重要に見えるし、また確かなものに見える。人の目はそちらに惹かれていきます。

 しかし、イエス様はその神殿についてこう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。要するに、重なった石が一つも残らないほどに完全に崩壊するということです。

 これを聞いた弟子たちは、「そんな馬鹿な」と思ったことでしょう。その巨大な神殿が崩壊などということはあり得ない、と。しかし、イエス様は正しかったのです。紀元70年、威容を誇ったヘロデの神殿はローマ軍によって徹底的に破壊されることとなりました。

 しかし、それは何も特別なことではないことを私たちは知っています。確かに見えるもの、絶対に崩れそうにないものが瞬くまに間に崩壊することがあることを、私たちは、本当はよく知っているのです。建物ばかりではありません。同じように、絶対的な権力を誇っていた国家の体制が崩壊することがある。絶対に倒れるように見えない大企業が崩壊することもある。「健康には自信があります」と言っていたその健康がガラガラと崩れていくこともある。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と主が言われたことは、現実には様々な形で起こります。

 そのような崩壊が起こる時、社会においても個人の人生においても、何かが崩れてしまうという危機的状況に置かれる時というのは、ある意味で本当に大事なことに目が開かれる転機となり得ます。わたしはいったい何に目を向け、何を追い求め、何に寄り頼んで生きてきたのかを問わざるを得なくなるからです。本当に変わらない確かなものは何か、失われない価値あるものは何か。そちらに真剣に目を向けることにもなる。もしそうなるならば、崩壊の経験というものも大きな意味を持つことになります。

 しかし、現実にはそうならないことが多いのも事実です。人は危機に置かれる時に、安易な救いに飛びつきやすいからです。それこそイエス様が言われるように、偽メシアについて行ってしまうということが起こり得る。だからイエス様は言われたのです。「惑わされないように気をつけなさい」(8節)。人々はこう質問したのです。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」。しかし、イエス様はその質問を無視するかのように言われたのです。「惑わされないように気をつけなさい」。

 いざという時に「惑わされない」ためにはどうしたら良いのでしょう。「わたしがそれだ」「時が近づいた」という言葉、様々なこの世の言葉に翻弄されないためにはどうしたら良いのでしょう。そのためには、普段のあり方が重要になってくるのでしょう。いざというときには、普段どう生きているかが、どうしても出てしまうものなのです。この世の目に見えるもの、確かそうに見えるものにしか目を向けていなければ、それが崩壊した時に、他の似たようなものを求めますし、飛びつきたくなるものです。

 ならば、どこに目を向けるべきなのでしょう。あの貧しいやもめです。神に信頼して貧しさの中から全てを献げた、あのやもめの生活の方が、見事な石で出来た神殿よりも、イエス様の目にはよほど確かなものと見えたに違いありません。そのように、変わることのない御方、崩れることのない御方と共に生きる生活をしっかりと築いていくことです。神を礼拝し、神に信頼し、貧しい自分自身を献げながら生きる生活を築いていくことなのです。今、もし今、平穏無事であり安定の中にいるとするならば、いざという時にではなく、今この時の信仰生活を大切にすることです。いざという時に惑わされないために。

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