2023年8月30日水曜日

祈祷会用 ヘブライ人への手紙 9:15~28

ヘブライ人への手紙 9:15‐28

 先週お読みしたところには、キリストが動物犠牲の血によるのではなく、御自分の血によって、ただ一度、写しではない真の聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたことが記されていました(9:12)。そのキリストの血こそが、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」させるのです。

 なぜなら、私たちの良心は知っているからです。私たちは罪人であり、本来、神との交わりの内にはあり得ないことを。ですから、生ける神ならぬ偶像に逃げるか、あるいは生ける神との交わりをもたらしはしない自分の業に寄り頼むかのどちらかになるのです。しかし、キリストの血は私たちの良心をそのような「死んだ業」から清めて、神との交わりに入れ、生ける神を礼拝するようにさせるのだ、と語られているのです。

 そして話は再び、「新しい契約」に戻ってまいります。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」(15節)。

 既に新しい契約については8章においてエレミヤ書31章31節以下に基づいて語られておりました。その約束の中心は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という言葉です。これが神と人との契約というものです。本来、神に対して「あなたはわたしの神です」と言えない者に対して、神様の方から「わたしはあなたたちの神である」と言ってくださる。また「わたしはあなたの民です」と言えないような者に対して、神様の方から「あなたたちはわたしの民だ」と言ってくださる。それが新しい契約です。そして、それは神が罪を赦してくださることがあってこそ、初めて成り立つのです。罪の赦しは、新しい契約の大前提なのです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」とエレミヤの預言に語られているとおりです。

 この契約の仲介者となってくださったのがイエス様なのです。どのようにしてか。「罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので」と書かれています。このゆえに、私たちは神に対して「あなたはわたしたちの神」と言うことができるし、自分については「わたしたちはあなたの民」と言うことができる。

 だからこそ希望が持てるのです。神の民として神の国を待ち望むことができるのです。それを聖書は「永遠の財産を受け継ぐ」と表現しています。私たちが受ける最終的な完全な救いが、神の民として相続すべき「永遠の財産」として表現されているのです。そもそも永遠という言葉は、神との関わりにおいてしか使えないのです。「あなたはわたしの神です」と呼べるからこそ、永遠の希望を持てるのです。キリストはそのような契約の仲介者です。

 ですから、私たちにとって大事なことは、この新しい契約が「有効」であるとの確信なのです。それゆえにその有効性が言葉を尽くして語られているのです。まず取り上げられているのは、「遺言」の例です。なぜいきなり「遺言」が出てくるかと言うと、ギリシア語では「契約」という言葉と「遺言」という言葉は同じだからです。遺言は遺言者が死んだら有効になるでしょう。だから同じように、この遺言(契約)もキリストが死んだゆえに有効なのだと言っているのです。

 一読して分かりますように、この議論は「新しい契約」が有効であることの証明には全くなっておりません。遺言者が死ぬことと、キリストが死んだことは意味合いが全く違うからです。そもそも彼は「遺言」の例もって「新しい契約」の有効性を証明しようとしているのではないのです。これは「有効性」の話の導入に過ぎないのです。本当に言いたいのはその次なのです。

 「だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。」最初の契約においてもやはり血が流されたのです。契約締結の時だけでなく、その後の祭儀において繰り返し血が流されたのです。血によって清められたのです。なんのためですか。罪の赦しのためです。22節に「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」と書かれているとおりです。

 最初の契約、すなわちエジプトの奴隷であった者たちがエジプトから導き出されて与えられた契約もまた、それは神と人との契約ですから、神が彼らに「わたしはあなたたちの神である」と言ってくださることであり、「あなたたちはわたしの民である」と言ってくださることを意味しました。その時に律法が与えられました。

 しかし、彼らは律法遵守を根拠として神の民とされたのではないのです。彼らは律法を守ったから神の民とされたのではないのです。そうではなくて、そこには既に罪の赦しが前提とされていたのです。ですから、繰り返し動物が屠られ、血が流されたのです。最初の契約もまた、血が流されての契約、罪の赦しがあってこその契約だったのです。

 しかし、既に語られてきたように、それはあくまでも本当のものの「写し」に過ぎなかったのです。天の聖所においては、そのようなコピーではなく、完全な清めが行われねばならなかったのです。

 かつては旧い契約における大祭司が、契約の箱を挟んで、見えざる神の前に立って動物の血を注いだわけですが、まことの大祭司キリストは、そのようなママゴトのような仕方ではなくて、本当の意味で完全な罪の贖いのために父なる神の前に立ってくださったのです。「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(24節)。

 最初の契約が動物の血が流されることにおいて有効とされたのなら、ましてやキリストの血によって、新しい契約は完全に「有効」となったはずではありませんか。しかも、最初の契約においては、大祭司が毎年、血を携えて至聖所に入らなくてはならなかったのですが、キリストにおいてはそうではありません。既に繰り返し語られていたように、一回限り、決定的なことが行われたのです。ここにおいても、キリストが聖所に入られたのは、「度々御自身をお献げになるためではありません」と書かれているとおりです。キリストは「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れて」くださったのです。

 さて、ここに書かれているような、新しい契約が有効であるのか、そうでないのかという議論は、私たちにとって重大なこととして響いているでしょうか。私たちが本当に神の民であり得るのか、私たちは本当に神を「わたしたちの神よ」と呼び得るのか。それは私たちにとって重大な問題となっているでしょうか。もし、なっていないとするならば、それはなぜなのでしょうか。

 その場合、恐らく私たちに一つ言えることは、私たちが自分の置かれている立場を理解していないということであろうと思うのです。神様を礼拝できて当たり前。神様にお祈りできて当たり前。信仰生活ができて当たり前。ともすると、私が決心して神様を「信じてあげた」ぐらいに思っている人さえいるかもしれません。「わたしたちの神よ」と呼べることを当然のことのように考えているのではありませんか。

 しかし、私たちの置かれている立場は、本来はいわば未決囚なのです。正しい裁判にかけられるのを待っている囚人なのです。27節にはこう書かれています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と。このことを真剣に受け止めるならば、どうですか。新しい契約が有効であることは極めて重大な問題ではありませんか。罪の赦しが有効でなかったら、御子が執り成してくださるのでなければ、その裁きの座の前で、自分一人で自らについて語らなくてはならないのです。有罪判決は免れないでしょう。

 私たちが、罪の赦しを告げられて、新しい契約に入れられて、安心して神を「父よ」とさえ呼ぶことができて、裁きを恐れず死ぬことができる。それは、本当は天地がひっくり返るような驚くべきことなのです。そうです、だからこそ、その実現のためにまさに天地がひっくり返るような驚くべきことが起こったのです。神の子キリストが大祭司ともなって、自らの血をもって罪の贖いをしてくださるということが起こったのです。ヘブライ人への手紙は、そのことを私たちに告げているのです。
 

2023年8月27日日曜日

「生きるにしても死ぬにしても主のものです」

ローマの信徒への手紙 14:1-9

食べるか、食べないか
 今日の第2朗読は、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(1節)という言葉から始まりました。

 まずローマの教会に起こっていた特定の状況に目を向けて見ましょう。「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」(2節)と書かれています。そこには肉を食べる人と食べない人がいます。5節をご覧ください。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」(5節)。肉を食べるか食べないか、特定の日を守るか守らないか。どうもこれらのことを巡って裁き合いと対立が生じていたようです。

 「野菜だけを食べている人」「ある日を尊ぶ人」――これらがいったいどのような人々であったかはよく分かりません。パウロがコリントの信徒に宛てた手紙にも、肉を食べることを避けた人々の話が出てきます(1コリント8章)。一般的に市場に出回っている食用の肉は、多くの場合、一度異教の神々に捧げられたものでした。ですからある人たちは、知らずにそのような肉を食べてしまうと、異教の神々と関係を持ってしまうことになると考えたのでした。それゆえに肉を食べることを恐れたのです。ローマの教会にも、そのような人々がいたのかも知れません。あるいは当時の様々な思想や他の宗教的な理由に由来する禁欲主義であったのかも知れません。

 いずれにせよ、そのような人々は「信仰の弱い人」と呼ばれております。パウロも一応そのような呼び方を承認しているように見えます。野菜だけを食べ、特定の日を重んじる禁欲的な人々が「信仰の弱い人」と呼ばれていることは奇異に聞こえるかも知れません。しかし、パウロがあえてそのように呼ぶことを良しとしているのは、彼らの禁欲が本質的には信仰とは無関係なところから来ていたからなのでしょう。

 ある事柄について「どう思うか」「どう感じるか」ということには、その人の過去の経験が大きく影響します。それは受けてきた教育であるかも知れません。あるいは育ってきた環境からの影響であるかも知れません。周りの人々から植え付けられた迷信的な恐怖であるかも知れません。ある過去における強烈な体験やそこで受けた心の傷であるかもしれません。その人が引き摺っているものによって物事の感じ方は違ってきます。ある人にとって些細なことが、他の人にとっては人生の一大事に思えます。ある人には容認できることが、他の人にとっては耐え難いこととなるのです。

 そのような過去から引き摺っているものが、信仰生活にもある程度持ち込まれることになります。聖書よりも、神の言葉よりも、そちらの方が大きく影響することも起こり得ます。その結果、信仰とは本質的に関わりないことが重大なことであるかのように扱われてしまうことがあります。ある人にとっては肉を食べようが食べまいが、大したことではありませんでした。しかし、他の人にとっては、重大なことだったのです。そこで裁き合いが起こりました。食べる人が食べない人を軽蔑します。食べない人が食べる人を裁きます。だからパウロは、「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」と言っているのです。

 もちろん、パウロは「裁いてはなりません」という言葉をもって、「何をしたって良いではないか」ということを言っているのではありません。確かに信仰生活の根幹に関わることはあります。人間の救いに本質的に関わっていることはあるのです。それらの事柄についてはいい加減にしてはならないのです。そのような事柄に関しては、パウロ自身、「然りは然り、否は否」と言うのです。

 例えば、異端の教説で人々を惑わそうとする教師たちについては、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気を付けなさい」(フィリピ3:2)とさえ言っています。別な手紙では、「あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」(ガラテヤ1:9)とまで言って激しく非難しています。性的な不道徳を悔い改めようとしない人々について、「そのような生き方もありますよ。彼らを裁いてはなりません」などと言いません。「わたしは体では離れていても、霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」(1コリント5:3)と言っています。みだらな行いは、聖霊の神殿である体に対して罪を犯すことだからです。

 神との関係において本質的に重要なことは厳しく判断されねばなりません。しかし、実際には、私たちの間に起こってくる裁き合いは、往々にしてそのような事柄を巡ってではないようです。本当に大事なことはいい加減にしておきながら、もう一方で自分が過去から引きずっている感覚や理解に基づいて裁き合っていることの方が圧倒的に多いのでしょう。ほとんどの場合、肉を食べるか食べないか、という次元の争いなのです。

どちらも主のもの
 それゆえ、私たちはここに書かれていることに、よく耳を傾けなくてはならないのです。「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。」なぜでしょう。その理由は明白です。「神はこのような人をも受け入れられたからです。」

 私たちは人を裁きたくなった時、軽蔑したくなった時、この言葉を心の内で繰り返す必要があります。「神はこのような人をも受け入れられたからです。」神が受け入れられたということは、その人は神のものである、ということです。すなわち、神様がその人の主人なのだ、ということです。ですから、パウロはこう言うのです。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」(4節)。誰かが他人の召し使いを裁くならば、その召し使いの主人は「あなたのしていることは余計なお世話だ」と言うでしょう。私たちが、食べるか食べないかという次元のことで他人を裁いている時、ほとんどの場合は余計なお世話なのです。普段、永遠の命に関わる本当に大切なことをいい加減にしていながら、やっていることは余計なお世話ばかりなのです。

 しかも、よく考えますと、私たちが人を裁いている時、結局その人に本気で関わっているわけではないのです。ほとんどの場合、その人が立つか倒れるかということを本気で心配しているわけではないのです。本気で関わってくださっているのはだれなのでしょう。それは主御自身です。そして実際、倒れているならば、その人を立たせてくださるのは主なる神なのです。だから、パウロは言うのです。「しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」(4節)。人を本当に立たせるのは、本気で関わろうとはしていない人の不真実な裁きの言葉ではありません。主御自身なのです。

 そして、その人が主のものであるというだけでなく、大事なことは、私たち自身もまた「主のもの」である、ということです。私たちの行動は、他人をどう見るかによって左右されますが、それ以上に、自分をどう見るかによってより大きく左右されるからです。

 私たちは、どちらも「主のもの」なのです。「主のもの」であるならば、本当は「何を」するかということよりも、「誰のために」するのかということの方が重要であるはずです。主のものであるならば、何をするにしても、「主ために」してこそ初めて意味を持つのです。主は単に外側に現れた行動やその結果に関心があるのではなく、その内にある心をご覧になっておられるからです。

 ですから、パウロはこのように話を続けます。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(6節)。食べるにしても、食べないにしても、もしそれが主のためだったら、それで良いではないか、ということです。

 「主のものである」ということは、単にある事をするかしないか、あるものを断つか断たないか、ではありません。「食べるか食べないか」の次元のことではないのです。そうではなく、パウロと共に次のように言い表して生きることなのです。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(7‐8節)。

 「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とは、実に衝撃的な言葉です。しかし、キリストが十字架にかかられ死なれたのは、そして死を打ち破って復活してくださったのは、まさに私たちがそのように言い得るようになるためなのです。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(9節)とパウロが言っているとおりです。

 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」私たちは、十字架で死なれ復活した主の前で、この言葉を繰り返し思い起こし、口にすることも必要なのでしょう。そうする時に、食べるか食べないかの次元で争っていることが、違って見えてくるに違いありません。

 そしてやがていつの日か、食べるか食べないかの次元で争っていたことの愚かさを本当の意味で知る時がくるのでしょう。なぜなら、最終的に、私たちは主のものとして、神の裁きの座の前に立つことになるからです。そして、そこで問われるのは、誰か他の人のことではなく、自分自身が主のものとしてどう生きてきたかということだからです。

2023年8月23日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 9:1~14

ヘブライ人への手紙 9:1‐14

 8章の後半において、二つの契約の話が出てきました。エレミヤ書31章31節以下の「新しい契約」について書かれている箇所が引用されて、「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです」(8:13)と語られていました。

 ですから、私たちは「新しい契約(新約)」に対して、「最初の契約」を「旧い契約(旧約)」と呼ぶのです。その旧約なる「最初の契約」とはエレミヤが言っているように、主が「彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約」のことです。そして、この手紙において重要なことは、レビの系統の祭司制度もまたこの旧約、「最初の契約」に属するということです。ですからそれもまた「年を経て古びたものは、間もなく消え失せます」と語られていたのです。

 では、そのようなレビの系統の祭司がしてきたことはいったい何だったのでしょう。これについては、「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えていたのだ」と8章5節において語られていました。それは本物に対するコピーなのであって、本物を指し示すものだったのだということです。

 さて、本日お読みした9章から、いよいよそのことについて詳細に論じられることになります。

 その天の聖所の写しである地上の聖所については最初の契約の中にその規定がありました。聖所の作り方、礼拝の仕方には定まった形があったのです。ここで著者は、読者にとって身近なエルサレムの神殿ではなくて、聖書に記されている幕屋の作り方と礼拝の規定に言及します。

 聖所である幕屋は入り口の垂れ幕とは別に「第二の垂れ幕」によって中が仕切られているのです。その手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、第二の垂れ幕の向こうは「至聖所」と呼ばれたのです。至聖所には契約の箱が置かれています。その中にはマンナの入っている壺、芽を出したアロンの杖、契約の石版が入っていました。そして、その蓋が「償いの座」もしくは「贖いの座」と呼ばれていたのです。

 この至聖所にある「贖いの座」については、出エジプト記において次のように語られています。「この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」(出エジプト25:21‐22)。つまり、この贖いの座こそ、神の臨在するところであり、神とお会いする場所として定められているのです。

 しかし、その神の臨在の場、贖いの座がある至聖所には、通常、祭司たちは入ることができないのです。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。大祭司は、自分と民の罪の贖いをするために、贖いの血を携えていくのです。しかし、そのように罪の贖いがなされたとしても、祭司たちでさえ「第一の幕屋」までしか入れないということなのです。つまり本当の意味で神の御前には出られない。神の臨在の前に立つことはできないということです。

 このことは何を意味しているのでしょうか。「第一の幕屋」が至聖所の前に置かれているこの幕屋の構造は、基本的に聖所への道はまだ開かれていないということを意味するのです。贖いの犠牲の血をもってしても、人々は聖所の中心である臨在の場に行けないのです。

 この幕屋の構造は、「今という時の比喩」であると著者は言います。この場合、「今という時」とは、旧約に属するレビの系統の祭司がまだ存在する時を指しています。つまり、そこでは供え物といけにえとが献げられているのです。動物犠牲の血が罪の贖いとして流されているのです。年に一度は大祭司がその犠牲の血を携えて贖いの座の前に入っていくのです。それは他の律法の規定、すなわち食物規定や種々の洗いに関する規定と同じなのであって、やがては消え失せる、暫定的なものに過ぎないのです。それは「肉の規定」と呼ばれています。それはあくまでも外的な行為に過ぎないのであって、「礼拝する者の良心を完全にすることができないのです」(9節)。

 この最後の言葉は重要です。民が神の臨在の場に行くことができないのは、ただ単に垂れ幕が隔てているからではないのです。またそこに入ってはいけないという規定があるからではないのです。そうではなくて、動物犠牲は「礼拝する者の良心を完全にすることができないから」だと言うのです。

 真に神を求める人は、神を礼拝しようとする者は知っているのです。神が求めておられるのは、動物の犠牲そのものではない、ということを。既にダビデがそのことを語っています。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:18‐19)。

 本来人間の心はただ形だけの儀式としての礼拝ではなく、真に神が求めているものを献げ、まことの礼拝を捧げ、神との生きた交わりが与えられることを求めてやまないのです。それゆえにまた、良心は真の赦しを切望するのです。この詩編51編においても「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(同3‐4節)とダビデは祈っているのです。

 これは人間が聖なる神を慕い求める時に当然のごとく起こる良心の叫びなのです。良心は自らの罪を知っているからです。しかし、「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」という、この良心の求めは、旧約の祭儀においては完全に満たされることはなかったのです。

 神ならぬ偶像ならいくらでも気安く近づけるのです。ですから、神ならぬ代替物で人間は自分の良心をごまかすのです。そうです、イスラエルの人たちもごまかしてきたのです。彼らがしばしば偶像礼拝に陥ってきたとは、そういうことなのです。そして、まことの神に対しては、やはり近づけない。あの幕屋の構造が示している通りなのです。「供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができない」とはそういうことなのです。

 しかし、その不完全なるものの終わりの時が来たのです。真の大祭司が現れたからです。コピーではなくて、その実体なる聖所において執り成してくださる大祭司が現れたのです。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(11‐12節)。これまでコピーに仕える祭司たちの儀式によって幾度となく予告されていた、「ただ一度」にして永遠なる祭儀が執り行われたのです。それは完全な贖いです。そして、永遠の贖いなのです。

 そして、このキリストの血こそが、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」させるのです。ここで「死んだ業」が「生ける神」と対比されています。生ける神との交わりをもたらさない業。それは神に背いた悪い行いだけではありません。自分の力によって神との交わりを実現しようとして行う善い業、そして結局は良心の満足は得ず失望に終わる試み、あるいはその結果として神の代替物へと逃れていく偶像礼拝をも含まれているのでしょう。ただキリストの血のみが、そのような死んだ業から良心を解放し、まことの神との交わり、生ける神を礼拝することへと人を導くのです。

2023年8月20日日曜日

「不自由な人・解放された人」

ルカによる福音書 13:10-17

 ある安息日の会堂に、ひときわ喜びに溢れて神を賛美している女性がいました。その人は、つい先ほどまで腰が曲がったまま伸ばすことができませんでした。そのような姿で18年間も暮らしてきた人でした。「病の霊に取りつかれている女」と表現されていますから、高齢によって腰が曲がったのではなく、病的なほど極度に腰が曲がっていたのでしょう。しかし、その日会堂に来られたイエス様が側に呼び寄せてくださいました。そして、「婦人よ、病気は治った」と言って手を置いてくださった。するとたちどころに腰がまっすぐになり、まっすぐになった体をもって喜びに溢れて神を賛美していたのでした。

 しかし、そこにはまた、腹を立てている人もいました。会堂長です。彼はイエスが安息日に病人をいやしたことに腹を立て、群衆に言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(14節)。この人の怒りもこの人の言葉も、ある意味では私たちにはあまりピンと来るものではありません。ユダヤ人ではない私たちには安息日の戒律そのものが馴染みのないものですから。しかし、この人の姿に目を向けていますと、怒っているその姿は、ある意味で、私たちにとても馴染み深い姿として見えてまいります。今日お読みしたのは、そのような聖書箇所です。

安息日の律法の意味
 それでは、会堂の中で怒っていた会堂長に目を向けてみましょう。彼の怒りにはある正当な理由がありました。安息日については十戒に定められていることがあるからです。聖書には次のように書かれています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:8‐10)。これが安息日の戒律です。ですから、会堂長は「働くべき日は六日ある」と言ったのです。七日目は、働いてはならないのだ、と。

 実際、この「いかなる仕事もしてはならない」という部分については細かい規定がありました。何がこの「仕事」に当たるのか。例えば、火を焚くことも「仕事」に当たると考えられました。医療行為も、この「仕事」に当たります。ですから、会堂長からすれば、イエスのしたことは律法違反なのです。ところが当の本人には全く反省の色もない。しかもその横には違反行為によって癒されて喜んでいる女がいる。しかも群衆もまたイエスのしたことを見て喜んでいる。だから怒ったのです。責任感に駆られて怒ったとも言えます。こんなことが野放しにされてはならない、と。

 そのように彼が怒るのには正当な理由がありました。しかし、そもそも安息日に《働くこと》がなぜ問題なのでしょう。もともとイスラエルの民はエジプトの奴隷でした。「働け」という命令は死ぬほど耳にしていたでしょう。その意味で「仕事をしてはならない」という命令は当初十戒が与えられた時には、実に奇妙に響いたに違いありません。なぜ神様はそんなことを命じられたのか、と。

 実は、先ほどお読みした安息日の規定には続きがあるのです。「いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、云々」の後に、こう書かれているのです。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)。六日の間にこの世界を造られたというのは、創世記に記されている天地創造物語です。神様がこの世界をお造りになった。神様が全部成し遂げられた。七日目というのは、その次の日です。つまり、一から十まで神様がしてくださった。その神様の御業を思う日、それが安息日なのです。

立ち止まらねば神の御業は見えない
 私たちは実際、神様の御業に包まれて存在しているのです。しかし、私たちが動き続け、働き続けていると、そのことが分からなくなります。人間のしていること、人間の成し遂げることがすべてを支えているかのように思ってしまうからです。だからこそ、あえて人間の業を中断して、立ち止まって、休むことが必要なのです。そして、意識的に神の御業に思いを向けるのです。そこから神様への讃美、神様への感謝が生まれます。それゆえに安息日は礼拝の日ともなるのです。

 そのような安息日に、一人の女性が癒されました。この癒された女の人は、もちろんイエス様に感謝したことでしょうが、これを単にイエス様の医療行為とは見ていなかったことは明らかです。この人は腰が伸びてまっすぐになった体をもって、まず神を賛美したのです。その意味では、イエス様のなさったことは、律法違反どころか、まさに安息日に起こるべきことを引き起こしていると言えるでしょう。彼女は確かに神の御業を見て喜んで、神を賛美しているのです。

 そして、同じことを会堂長も見ているはずなのです。しかし、彼は神の御業を見て喜ぶことはありませんでした。どんなに奇跡を経験しても、神様の御業を見ない人は見ない。本当は神の創造の御業の中に存在しているのですから、私たちの人生もまた神の奇跡に満ちているのでしょう。しかし、見ない人は見ない。会堂長はどうして見ることができなかったのでしょう。――立ち止まっていないからです。休んでいないからです。自分がしなくてはならないこと、人間がすべきことで頭がいっぱいだからです。

立ち止まらねば隣の人も見えない
 いや、立ち止まることがなければ、休むことがなければ、神の御業が見えなくなるだけでなく、一緒にいる人間、隣人も目に入らなくなります。

 安息日の律法には、先ほどお読みしましたように、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」と書かれています。「あなた」だけではないのです。息子、娘のみならず、男女の奴隷も、家畜までも入っているのです。男女の奴隷は勝手に休むわけにはいかないのです。休ませなくてはならないのです。つまり安息日は、他の人をも視野に入れ、心にかけ、休ませ、共に神の御業を喜ぶ日なのです。家畜のことまで心にかけて休ませる日なのです。

 このようなことは、自分が神の御業の中に憩うことがなければできないことです。神の御業を思い、一から十までただ神の恵みの御業によって支えられ、生かされていることに感謝しなかったら、できないことなのです。神の御業の内に安らぐことがないと、隣人もまた見えなくなってくるのです。

 18年間腰が曲がっていた人は、たまたまこの日だけ会堂にいたのでしょうか。そんなことはないでしょう。この会堂長は初めてこの女性を見かけたのでしょうか。そんなことはないでしょう。恐らくそこに集っていた人も、この会堂長も、もう長い間、その曲がった体を目にしていたはずなのです。前を向くことも困難な、ましてや天を仰ぐことはとうていできない、そんな姿をもって礼拝している姿をいつも目にしていたはずなのです。

 「安息日ではなくて、他の日に治してもらえ。安息日はだめだ」と彼は言いました。確かに一日待てば律法違反にはなりません。正論です。しかし、彼の言葉からはっきり分かることがあります。この人は少なくとも、長い間病的に腰の曲がったこの人を見ても、「かわいそうにな。辛いだろうな。いやされるといいのにな」と思ってきた人ではない、ということです。その曲がった体は目に映っても、本当の意味で苦しみや痛みを背負った生身の人間が見えていない。だから、彼女が解放されて喜んで神をほめたたえていても、それが自分の喜びにならないのです。

キリストは束縛から解いてくださる
 このように会堂長の姿を見つめていると、それは決して遠い世界の話ではないことが見えてきます。神の御業を見て喜ぶべき時に喜べない。また神の御業を喜んでいる人と共に喜べない。むしろ怒りを抱き批判的なまなざしを向けている人。それはしばしば私たち自身が陥っている姿かもしれません。しかし、だからこそイエス様があえてこの癒しの業を安息日に行った意味も見えてくるのです。

 イエス様はあの女性に、「婦人よ、病気は治った」と言われました。しかし、そう訳されていますが原文では「解放された」という言葉が使われているのです。そして、後にイエス様はこう言われています。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)と。そのように、イエス様は今日の箇所において、御自分のしていることを「治療」ではなく、「解放」として語っておられるのです。

 確かに、この女性は不自由な体をもってサタンに縛られていたと言えます。そして、イエス様は彼女をその束縛から解放されました。しかし、縛られていたのは彼女だけだったのでしょうか。解放されなくてはならなかったのは彼女だけだったのでしょうか。そうではないでしょう。まさに縛られている不自由な姿をさらしていたのはあの会堂長ではありませんか。そして、それはしばしば私たちの姿でもあるのでしょう。

 だからこそ解放してくださる方が必要なのです。この女性に起こった解放は実に象徴的な出来事であったと言えます。体が極度に曲がっているならば、その目の先にあるのは自分の足もとです。まず目に入ってくるのは自分自身です。前の人や隣にいる人を見るのは難しい。ましてや、天を仰ぐことは困難です。しかし、彼女はイエス様によって解放され、その体はまっすぐになりました。彼女はまっすぐになった体をもって神を誉め讃えているのです。彼女は神の御業の中に安らぎ、前の人とも、隣の人とも一緒に神を誉め讃えて生きていくのでしょう。

 そのように解放されてまっすぐになった姿をあの会堂長も必要としていたし、私たちも必要としているのです。そのような私たちのためにイエス様は来てくださいました。イエス様はサタンに縛られている者を解放してくださる御方として来てくださいました。イエス様が真の安息日を私たちに与えてくださいます。事実、彼女において現された解放の御業は、既に私たちの内にも始まっているのです。私たちが礼拝の場所に共に集められているとはそういうことです。主の霊による全き解放、神の御業を隣人と共に喜ぶことのできる真の自由、サタンから解き放たれてまっすぐにされた姿を求めてまいりましょう。

2023年8月16日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 8:1~13

ヘブライ人への手紙 8:1‐13

 先週は、イエス様が「永遠に祭司」であるということについてお話ししました。イエス様は永遠に生きていて、変わることのない祭司職を持っていること。常に生きていて、私たちのために執り成しておられるので、イエス様を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになること。しかも聖であり、罪なき方であるゆえに、まず自分の罪のためにいけにえを献げる必要がないこと。これらが先週の箇所を通して私たちに与えられたメッセージでした。

 さらにイエス様がメルキゼデクと同じような祭司であることについての話は続きますが、この著者は語ろうとしていることをここで短く要約しておくのが良いと思ったようです。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」(8:1‐2)

 ここにすべてが言い尽くされていると言えるでしょう。そして、このことが本当に分かったなら、これから先どんなに大きな困難が待ち受けていたとしても、必ずやそれを乗り越えることができると信じて語っているのです。これは私たちにおいても同じです。私たちが毎週こうしてヘブライ人への手紙を読んでいるのは、このことを悟ることを主が望んでおられるということです。

 私たちには大祭司が与えられています。大祭司というのは、犠牲を献げるために任命されているのです。ですから、「この方も、何か献げる物を持っておらなければなりません」(3節)。しかし、この著者はこの話を後に持っていきます。9章後半において、このことが明らかにされるのです。

 その前にこの大祭司がどこにおられるかに注目します。私たちの信仰告白においても言い表しているように、キリストは天に昇られ、全能の父なる神の右に座しておられるのです。つまりイエス様は天においてその務めを果たしておられるのだ、ということです。御子が地上に来られた時、地上には既に律法によって定められたレビの系統の祭司たちがおりました。ですから、復活と昇天がなければ、イエス様は祭司ではあり得ません。「もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう」(4節)と語られているとおりです。

 さて、ここには注目すべき対比があります。地上における祭司と天上における祭司です。そこで問題はどちらが本来的な祭司なのか、ということなのですが、既に明らかにされてきたように、それは天上における祭司なのです。では、地上の祭司がしてきたことは、いったい何であるのかということになります。そこで心に留めねばならないのは、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋」(2節)という言葉です。ここで語られているのは、天上の大祭司なるイエス様が仕えている天の聖所のことです。

 「天の聖所」と言いますと、それに対応しているのはもちろん「地上の聖所」です。地上の聖所と言えば、これを読んでいる読者にはすぐに一つのイメージが思い浮かびます。それはエルサレムの神殿です。特に神殿の一番奥にありまして垂れ幕によって仕切られています至聖所と呼ばれる部分です。イエス様が十字架にかかられた時、上から下まで真っ二つに裂けたと言われているのは、この垂れ幕のことです。この一番奥に至聖所があるという神殿の形はモーセの時代にまで遡ります。もちろん、その時には建造物としての神殿ではなく幕屋です。しかし、構造は同じなのです。

 さてこのように幕屋があり神殿がある。当然のことながら、読者にとって身近なのは、この目に見える聖所の方です。ですから「天の聖所」と聞きますと、まず「地上の聖所」があって、それを比喩に用いて天のことを表現していると思うものです。つまり「天にも、地上の聖所の《ようなもの》」があるのだな」というようにです。実際、他のことについても、常々そのような考え方をしているのだと思います。例えば、「天の父」と言いますと、神様を「たとえて言うならば私たちのお父さんのような方」として理解しているのだと考える。「父の家」と言いますと、まず地上の家があって、それを比喩的に用いて天の御国を表現するならば、「父の家」になるのだ、というように考えているのではないでしょうか。ですから、この場合も「天の聖所」というのは比喩的表現だと考えてしまいやすいのです。

 しかし、本当はそうではないのだと今日の箇所は教えているのです。まず地上の聖所があるのではなくて、まず天の聖所があるのだ、と。その根拠となっているのは、出エジプト記25:40です。ご存じのように、この部分は神様がモーセに幕屋建設の指示を与えているところです。モーセはシナイ山で律法を受けます。その時に幕屋建設の指示をも受けるのです。その時、神様はモーセにこう言われたのです。「あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい」(出25:40)。ここで「作り方」と訳されていますが、そのギリシア語訳がヘブライ8:5に引用されていますように、それは「型」あるいは「原型」と訳せる言葉なのです。つまりモーセが最初の聖所を作る前に、その原型があったということです。それを見せていただいて、「この型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。さて、その原型はどこにあるのでしょう。神様が示したのですから、それは神のもとに、天にあるのです。

 地上の聖所がまずあって、天の聖所は比喩的表現なのではないのです。まず天の聖所があるのです。そして、地上の聖所は「天にあるものの写しであり影であるもの」(5節)だと言うのです。その写しに仕えているのが地上のレビ系統の祭司だと言うのです。こうして千年以上も続いてきた地上の聖所とそこにおける祭司が存在することの意味が明らかにされました。それは天にあるものを不完全ながらも地上に示すものだったのです。

 そのように長い間、天にあるものの写しに仕えてきた祭司たちによって示されてきた、まことの祭司がついに現れたのです。それがわたしたちの大祭司、イエス・キリストです。その方の務めは写しに仕える務めよりもはるかに優っていることを、この著者はさらに新約と旧約ということからさらに説明します。

 ここで引用されているのはエレミヤ書31章31節以下の部分です。モーセが与えられた幕屋建設の指示は律法として与えられました。律法は神と民との契約に基づいて与えられました。その契約については「わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約」(9節。引用もとはエレミヤ31:32)と呼ばれています。この契約に基づいて律法が与えられ、その中に幕屋建設と祭司制度もあったのです。しかし、もしそれが完全であるならば「第二の契約」すなわち「新しい契約」が与えられる必要はなかったと言えます。しかし、実際には、神はエレミヤを通して「新しい契約」について語っておられるのです。「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る」と。

 「新しい契約」と表現されたということは、それまでの契約は古びてしまったということを意味します。つまり神様はこの地上の目に見える神殿も、そこにおける祭司制度も古びてしまったもの、消え去るべきものと見られたということです。「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」(13節)。

 そして、その新しい契約は実現したのです。イエス様が最後の晩餐において「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われたようにです。そして、事実イエス・キリストの血が流されることになったのです。もはや古き律法の時代、古き祭司制度の時代は過ぎ去りました。その写しが示していたように、本来の大祭司が本来の祭儀を行うために天の聖所に入られたのです。私たちはその永遠の執り成しのもとにあるのです。


2023年8月13日日曜日

「信仰と愛と希望によって」

テサロニケの信徒への手紙一 1:1-10

神とキリストとに結ばれて
 今日はパウロがテサロニケの教会に宛てた手紙の冒頭部分をお読みしました。テサロニケの教会はパウロの第2回伝道旅行において誕生した教会です。パウロのテサロニケ滞在については使徒言行録17章に記されています。使徒言行録によるならば、パウロとシラスがテサロニケに滞在したのはわずか四週間たらずでした。しかし、そのわずかな期間に、神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちが福音を信じるに至ったのです。しかし、一方、このことを快く思わないユダヤ人たちは、広場にたむろしているならず者たちを抱き込んで暴動を起こしました。その結果、パウロとシラスはテサロニケを去らざるを得なくなったのです。

 かくして、生まれたばかりのテサロニケの教会は、指導者を失うことになりました。しかもユダヤ人たちの敵意の中に置かれることになったのです。パウロはどれほど彼らのことを心配したことでしょう。テサロニケの信徒たちはどうしているだろうか。どのような迫害を受けているのだろうか。彼らは信仰をしっかりと保っているだろうか。――彼らを案ずるパウロは幾度かテサロニケに行くことを試みたようです。しかし、その願い叶わず、代わりにテモテを遣わすこととなりました。

 テモテはテサロニケにしばらく滞在し、やがて再びパウロのもとに戻ってきました。彼はパウロに、テサロニケの教会の様子を伝えます。それは実に喜ばしい知らせでした。テサロニケの信徒たちはしっかりと信仰を保ち、主に結ばれている(3:8)ことをテモテはパウロに伝えたのです。パウロはどれほど喜んだことでしょう。彼は大きな喜びをもって手紙をテサロニケに書き送りました。それがこの手紙です。

 そのような事情を踏まえて読みますと、この1節の単純な挨拶に込められたパウロの思いが強く迫ってまいります。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」――パウロは万感の思いを込めてこの言葉を記したに違いありません。まさにテモテのもたらした喜ばしい報告は、この事実を明らかにしていたのです。

 なぜ指導者を失った教会が多くの苦難の中においてなおもしっかりと立つことができたのか。それはその共同体がただ伝道者パウロとの関係で成り立っていたのではないからです。もしそうであったなら、パウロが去ったら簡単に崩壊していたに違いありません。しかし、そうではなく、彼らは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」でした。

 また、彼らはただ自分たちの利益や楽しみのために集まって、自分たちのために教会を作ったのではありませんでした。もしそうであったなら、苦難の中において集まることが困難になり不都合が生じたら、簡単に消滅してしまっていたことでしょう。しかし、テサロニケの教会はそうではなかった。それは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」に他ならなかったのです。

 「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている」という言葉は、「父である神と主イエス・キリストの中にある」というのが直訳です。これは父なる神とイエス・キリストにおける救いの御業の中にある、ということでもあるでしょう。教会は神の御業において初めて教会となるのです。

 ですから、教会の伝道の働きにおいて問われるのは、福音が真に伝えられ、一人一人が神の救いにあずかり、信仰によってキリストとしっかり結ばれているかどうか、というところにおいてなのです。言い換えるならば、教会がまことの教会として、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」として残るかどうかなのです。そして、テサロニケにはまさにそのような教会が残った。そのことをパウロは心から喜んで、その教会に書き送っているのです。

信仰と愛と希望
 さらにパウロは感謝の言葉を続けます。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」ということで、パウロが具体的に何を考えていたかが、その言葉から分かります。3節の言葉は、今日の私たち自身について考える上でも、非常に重要なことを語っているように思います。パウロが感謝しているのは、次のことでした。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(3節)。

 ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てきます。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。教会がただ人間に結ばれた人間の集まりではなく、神の救いの御業によってなるまことの教会であるということの現れを、パウロは「信仰」と「愛」と「希望」に見ているのです。

 では「信仰」と「愛」と「希望」があるとは、具体的にどのようなことなのでしょう。パウロはここで、それぞれに対して三つの言葉を結びつけています。「信仰」については「働き」、「愛」については「労苦」、「希望」については「忍耐」です。「信仰」「愛」「希望」は抽象的な概念ではありません。それは具体的な形を取るのです。それは「働き」「労苦」「忍耐」です。一つ一つ見てみましょう。

 第一は、「信仰によって働き」ということです。「働き」とは「行い」とも訳せる言葉です。直訳すれば「信仰の行い」です。

 これを書いているのはパウロです。そして、そのパウロが別の手紙において、人は行いによって救われるのではないことを語っていることを私たちは知っています。例えば、エフェソの信徒への手紙には次のように書かれています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8‐9)。

 そのように、確かに私たちが救われるのは、私たちの行いによるのではありません。救いはイエス・キリストの十字架において現された神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。もし、私たちが自分の行いによって救われるのならば、そこから生じるのは自分の行いを誇る思いでしょう。しかし、私たちがただ神の一方的な恵みによって救われるならば、そこに誇りが入り込む余地はありません。生じるのは、ただ神への感謝です。そして、神への感謝が行動を生み出すのです。それこそパウロが「信仰の行い」と呼んでいるものです。

 私たちが生きているこの世界はギブ・アンド・テイクの世界です。信仰によらなければ、神に対してもギブ・アンド・テイクで関わろうとするのが人間です。自分の善い行いを差し出して、神様に「救いを与えてください」と願うのです。そのように神様と取引を始めるのです。また信仰によらなければ「行い」は常に比較の対象となってくるのでしょう。自分の「行い」と他人の「行い」を比較して、誇ってみたり卑下してみたり。あるいはある人の「行い」と別な人の「行い」を比較して褒めそやしてみたり軽蔑してみたり。

 取引や比較とは無関係な「行い」はただ感謝から生まれてくるのです。一方的な神の恵みに対する感謝の応答として生まれてくるのです。それが「信仰の行い」です。その「信仰の行い」こそが、まことの教会の原動力となるのです。そのような「信仰の行い」をパウロはテサロニケの教会に見たのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 次に挙げられているのは「愛の労苦」です。「愛」は単に「好きになること」ではありません。愛するとは隣人になることです。共に生きることです。

 私たちが築いている人間関係は往々にして自己中心です。「私のための誰か」を求めることによって成り立っています。私に優しくしてくれる人。私を助けてくれる人。私の欲求を満たしてくれる人。私を幸せにしてくれる人。私のためになるならば一緒にいるし、私のためにならないならばその人との関係は終わります。

 しかし、そのように「私のための誰か」を求めることを聖書は「愛」と呼びません。愛とは、「私のための誰か」を求めることではなく、「誰かのための私」になることです。誰かの隣人になることです。ですから、そこにはしばしば労苦が伴います。強いられてではない、自発的に愛のゆえに、共に生きるために、あえて労苦を引き受けること、それが「愛の労苦」です。

 その愛の労苦は、まずキリストが私を愛してくださった、という事実から生まれます。キリストが私の隣人になってくださいました。キリストが私を愛し、私のために労苦してくださいました。キリストが私のために十字架にかかってくださいました。キリストが、御自分のすべてを与えてくださいました。このキリストの大きな愛によって押し出されて生まれるもの、それが私たちの小さな「愛の労苦」です。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「愛の労苦」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 最後は、「希望の忍耐」です。その希望については、特に「わたしたちの主イエス・キリストに対する」という言葉が加えられています。その意味するところは10節に書かれています。「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(10節)。

 ここに語られているのは、「キリストの再臨」というテーマです。そして、実はそれこそがこの手紙で展開されている主要なテーマなのです。それは要するに、完全な救いはまだ実現していないけれど、それは必ず向こう側からやって来る、という信仰です。向こうから必ず来ると信じる人だけが、本当の意味で忍耐をもって待ち望むことができるのです。苦しくても、辛くても、待ち望むことができるのです。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「希望の忍耐」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 さて、そのようにテサロニケの教会のことを見てきました。たった四週間たらずの伝道によってでさえ、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」は形成されます。教会を真に教会とするのは神の御業だからです。ですから、私たちもまた求めることができるのです。それは神の御業だからです。私たち自身、父である神と主イエス・キリストに結ばれている教会として、父である神と主イエス・キリストに結ばれている信仰者として、「信仰の行い」「愛の労苦」「希望の忍耐」に生きられるよう祈り求めましょう。
(祈り)

2023年8月9日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 7:20~28

 ヘブライ人への手紙 7:20-28

 先週は、なぜキリストが「メルキゼデクと同じような祭司」と言われているのか、なぜそのことが重要なのかについてお話ししました。先週お読みしたところを少し振り返っておきましょう。

 「メルキゼデクと同じような祭司」というこの表現は詩編110:4から来ています。詩編110編はイエス様御自身も引用して語っておられますが、これはメシア預言として読まれてきた詩編です。

 メルキゼデクと同じような祭司ということは、要するに律法によって定められたレビの系統の祭司ではない、アロンと同じような祭司ではない、ということです。なぜこのようなことが語られなくてはならなかったかと言うと、メシアはダビデの子孫であり、ユダ族に属するからです。メシアが祭司であるとするならば、明らかにレビ族の祭司ではないのです。

 では律法によるレビの系統の祭司と、メルキゼデクと同じような祭司と、どちらが優っているのでしょう。すなわちどちらが本来的な祭司なのでしょう。それはメルキゼデクと同じような祭司なのだとこの著者は語ります。その根拠として挙げられていたのは創世記14章でした。そこに祭司メルキゼデクが出てきます。律法が定められるずっと以前に、アブラハムを祝福し、アブラハムから十分の一を受けた祭司がいる。つまり、アブラハムの中にいるレビもまた彼から祝福を受け、十分の一を献げたことになるのです。

 そのような本来的なメルキゼデクと同じような祭司が立てられたということは、律法による祭司制度が不完全であることを意味します。また、祭司としてのメシアが立てられたことによって、祭司制度が変更され、従って律法が変更されたことを意味し、さらには以前の掟が弱く無益なために廃止されたことを意味するのです。メシアが到来するとはそういうことなのです。

 そして、そのメシアは到来したのです。人類史上に決定的なことが起こったのです。イエスという御方こそ、完全なる祭司、メルキゼデクと同じような祭司であるのです。それが先週お読みした部分です。今日はその続きです。

 この著者はさらに詩編110編において「主が誓った」ということに注目します。こう書かれているからです。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である』」。レビの系統の祭司が立てられることについては、神が誓われたということは記されていません。しかし、メシアについては、神の誓いによってメルキゼデクに等しい祭司として立てられているのです。その点においても、メシアは律法に基づいて立てられた祭司たちよりも本来的な祭司であることがわかります。

 神は特別に誓いをもって祭司を立てられました。以前にも触れましたように、誓いというのは、現在の私たちで言えば、判をついて契約書を交わすようなものです。それは約束についての保証なのです。人間ならば通常は自分よりも偉大なものを指して誓うわけであって、自らよりも偉大なもののない神が誓うというのは変なのですが、その変なことを語るほどに、これは確実なことだということであり、信頼を求める言葉であるということです。何を信ずべきなのか。メシアこそレビ系統にまさった本来的な祭司であること、そしてさらに彼は永遠に祭司であることです。「あなたこそ、永遠に祭司である」と。

 このことが、当時の教会にとっても、また今日の私たちにとっても極めて重要なことなのです。イエス様は私たちにとっていかなる御方であるかを決定的な仕方で指し示す言葉だからです。

 レビの系統の祭司たちの場合には、律法に従って人間が祭司に任命されます。死に定められた人間が祭司となるのです。それゆえに、務めをいつまでも続けることはできません。次々と任命が繰り返されることになります。

 イエス様の場合も同じように、「大祭司はすべて人間の中から選ばれ」(5:1)と書かれているように、私たちと全く同じ人間として、人間の中から選ばれました。しかし、この御方がかつてのレビ系統の祭司と決定的に異なるのは、十字架のみならず復活を経て、永遠に生きておられるということです。「しかし、イエスは永遠に生きておられるので、変わることのない祭司職を持っておられるのです」(24節)。

 この手紙は「ヘブライ人への手紙」と呼ばれているように、読者としてはユダヤ人キリスト者が想定されています。そして、ユダヤ人にとっては、繰り返し任命されて連綿と続いてきたレビの系統の祭司という存在こそ、神との契約の目に見える保証であるのです。彼らが担っている務めこそが、罪を贖い交わりを回復する務めであったのです。少なくともそのように教えられて育ったのです。

 一方、彼らはキリスト者としてはいわば第2世代ですから、生前のイエスを直接触れ合ったわけではありません。ですから、目に見えるという意味においてなら、神殿の祭司の方がずっと続いていて自分たちと関わっている存在なのです。(もっともAD70年における神殿の崩壊と共に祭司制度も崩壊していくわけですが。)

 それゆえに、イエス様が「永遠に生きている」として語られると共に、イエスが「常に生きていて」人々のために執り成していてくださることが、あらためて指し示されなくてはならなかったのです。「常に」という言葉が示しているのは、その時代その時代に生きる人々とイエス様との関わりであるからです。

 それは時間的な距離感としてはもっと遠い私たちにとっては、さらに重要な意味を持っていると言えるでしょう。二千年前のイエスと現代の私たちといかなる関係があるか、と世の人は問います。永遠なる祭司としての任命、またそれを現実とするイエス様の復活がなければ、せいぜいイエスの教えが今も生きていると言えるぐらいのことでしょう。しかし、この著者は言うのです。イエスは復活して「常に」生きておられる。だから私たちと関わりがあるのだ、と。「それでまた、この御方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(25節)。

 また、さらにこの御方がレビ系統の祭司と決定的に異なる点が語られています。律法による大祭司は、まず自分の罪のために、次の民の罪のために毎日いけにえを献げる必要がありました。しかし、この御方は自分のために罪の贖いの犠牲を献げる必要はありません。なぜなら、この御方は「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(26節)であるからです。

 しかも、この御方が献げる犠牲は、罪を取り除くことにおいて不完全であるために毎日献げられねばならない犠牲ではなく、ただ一度にして完全に人間の罪を取り除く犠牲である御自分の体だったのです。このことについては9章に詳細に論じられることになります。

 このように比較されてきましたレビ系統の祭司と大祭司キリストの両者は、共に神の言葉によって任命されたと言えます。一方は律法によって。もう一方は既に見てきたように神の誓いの言葉によってです。一方は弱さを持った人間を大祭司に任命するものでしたが、他方は永遠に完全な者とされている御子を大祭司として任命するものだったのです。

 このようにイスラエルの長い歴史の中で続けられてきた律法による祭司の任命は、この地上においてただ一度だけなされる完全な罪の贖いを為し、永遠に生きて執り成しを続ける真の大祭司の任命を予表するものであったことが分かります。そのように予告編を見続けてきた人類の歴史は、ついにキリストの到来をもって本編を見ることになったのです。私たちはそのような時代に生きているのです。この御方は、御自分を通して神に近づく私たちを完全に救うことがおできになるのです。


2023年8月6日日曜日

「善をもって悪に勝ちなさい」

ローマの信徒への手紙 12:17-21

せめてあなたがたは
 8月第一主日である今日は「平和主日」と呼ばれています。平和を祈り求める特別な礼拝の日として、今から61年前に制定されました。言うまでもないことですが、私たちがこのような日を特に定めて、平和を願い、平和を求めて祈るのは、国家的な規模においても、身近な人間関係においても、平和が失われているという現実があるからです。

 そこで私たちが平和を願い、平和を祈るとき、私たちの脳裏に浮かんでくるのは、実際に平和を妨げている人々の存在かもしれません。今こうしている時にも、平和を破壊している人々の顔が浮かんでいるかもしれません。真っ先にプーチン顔を思い浮かべた人もいるのではないかと思います。そのような私たちが平和を願い、平和を祈る時、もしかしたら、私たちの願いと祈りは、[そのような《平和を壊す人》がいなくなるように」という祈りになるかもしれません。それが世の支配者であろうが、身の周りにいる人であろうが、「こういう人がいなくなりますように」と。

 しかし、本日の第2朗読において、そのような私たちに与えられているのは、次のような御言葉でした。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)。

 「せめてあなたがたは」と言われているのです。まずは私たち自身なのです。平和を壊す誰かではなく、あるいは妨げる他の誰かではないのです。まずは私たち自身について考えなくてはならないのです。平和を願い、祈る私たち自身が、まず、すべての人と平和に生きようとしているのかどうか。そのことをまず自らに問わなくてはならない。それは私たちが日々接している人々との間における話です。あるいは今ここに集まっている教会の中での話です。

 もちろん、そこで聖書は「できれば」と言うのです。それは難しいことを知っているからです。また、私たちはそのつもりでも、私たちの側からはどうにもならないことがあることも知っているからです。実際、この箇所の少し前には「あなたがたを迫害する者」(14節)ということも書かれています。迫害する者に対しては、どんなにこちら側としては「平和に暮らしたい」と思っていても、そうできないことはあるでしょう。

 しかし、「できれば」という言葉はそのような消極的な側面のみにおいて語られるべきではありません。もう一方において、それは「できるかぎり」という意味でもあるのです。そうしようと思わなければ、そして、実際にやってみなければ、そして最善を尽くしてみなければ、聖書が「できれば」というその限界は見えてこないからです。ですから実際、「あなたがたは最善を尽くしなさい」と意訳している聖書もあるのです(New Living Translation)。

善をもって悪に勝ちなさい
 それでは、どのように最善を尽くすのでしょう。こちら側からできる最善はなんでしょう。続けてこう書かれています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)。まずは自分で復讐しようとしないことです。仕返しをしようとしないということです。

 しかし、聖書が語ることはそれに留まりません。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(20節)というのです。相手に対して復讐を放棄するだけでなく、むしろ積極的に善を行いなさいと言うのです。その目指すべきところは非常にシンプルに次のように表現されています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。今日の説教題はここから取りました。

 ここに至って、「すべての人と平和に暮らしなさい」と言われていたことの内容が見えてきます。さらに言うならば、私たちがすべての人のために平和を願い、平和を祈るということが何を意味するのかが見えてくるように思えるのです。

 平和とは何でしょうか。平和を願い、平和を祈るとき、私たちは何を求めているのでしょう。それはただ争いのない状態でしょうか。戦いを回避することによって実現される状態でしょうか。いや、今日の箇所を読む限り、平和とはそのようなものではなさそうです。先にも見たように、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という言葉は、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉に行き着くのです。

 「悪に勝ちなさい」ということは、そこには勝つか負けるかの戦いがあるということです。平和を願い、平和を祈るということは、戦いを極力回避することではありません。ある意味では戦いの中に入って行くということでもあるのです。しかし、それは人間相手の戦いではありません。そこに語られているように、悪そのものとの戦いです。悪そのものに打ち勝つための戦いです。

イエス様の戦いに加えられて
 それはいかなる戦いでしょうか。「善をもって悪に勝つ」とはどういうことなのでしょうか。その戦いを、実際に身をもって見せてくださった方がおられます。イエス・キリストです。パウロがキリストを念頭に置いてこれを書いていることは明らかです。今日の朗読の少し前に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」という勧めがありますが、これはもともとイエス様が言っておられた言葉です。主は言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43‐44)。

 最終的に重要なのは人間との戦いではないのです。悪そのものとの戦いなのです。どのようにして悪そのものと戦うのですか。どのようにして悪そのものを取り除くのでしょうか。悪を行う人間を取り除くことによってでしょうか。あるいは悪を行う人間を、支配することができたらよいのでしょうか。それで悪を取り除くことができるならば、こちらに必要なのは力です。より大きな力をもって、敵と戦ったらよいのです。完全に勝利するまで、人間相手の戦いを続けたらよいのです。

 しかし、イエス様はそうは見ていませんでした。イエス様自身は、明らかに力を持っていました。超自然的な力を行使することができました。武装して捕らえにきた人々を、超自然的な力を行使して、滅ぼすことさえできたと思うのです。しかし、それにもかかわらず、イエス様は敵を滅ぼすどころか、御自分を守ることにさえ、御自分の力を用いようとはされませんでした。悪が取り除かれるとするならば、それは力によるのではないことをご存じだったからです。

 悪が取り除かれるとするならば、それは人間の内に起こる悔い改めによるのです。人間がへりくだって神に立ち帰ることによるのです。そして、明らかなことは、人間の悔い改めは、人間との戦いによっては起こらないということです。相手を叩きのめしても、悔い改めは起こらないのです。相手を力づくで支配しても、悔い改めは起こらないのです。悔い改めが起こるとするならば、それは愛に出会った時なのです。

 ですからイエス様は「敵を愛しなさい」と言われたのです。そして、本当の意味で敵を愛されたのはイエス様御自身なのです。その「敵」とは誰ですか。わたしでありあなたです。もしイエス様が私たちの内にある悪ではなく、私たち自身を憎まれたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの悪に対して、主がそのまま報いられたなら、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの内にある悪が明らかにされ、そのまま断罪されたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。

 しかし、イエス様は私たちと戦うのではなく、私たちを愛してくださいました。私たちを滅ぼすのではなく、私たちのために十字架にかかってくださいました。イエス様御自身が、私たちの内にある悪と戦ってくださいました。私たちが形づくっているこの世界の悪と戦ってくださいました。主御自身が文字通り血みどろの戦いをしてくださったのです。悪を取り除くために。私たちの内に真の悔い改めが起こり、真の平和がもたらされるために。

 そのようにイエス様によって愛され、赦された私たちです。その私たちが、今度はイエス様の戦いに加わるようにと招かれているのです。人間相手の戦いを繰り広げてきた私たちが、悪そのものとの戦いに加わるようにと招かれているのです。私たちは人間相手に憎しみをもって戦っていた時点で、既に悪に負けていたのです。そのような私たちが、本当の意味で悪そのものに勝つために、キリストによって立ち上がらせていただいたのです。

 そのような戦いの中で私たちは語られているのです。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と。そして、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と。キリストの勝利に共にあずかるために!そのような私たちとして、今日は心を合わせて、真の平和を願い、真の平和を求めて祈りましょう。

2023年8月2日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 7:1~19

 ヘブライ人への手紙 7:1‐19

 前回お読みした箇所の最後には、「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じ大祭司となられたのです」(6:20)とありました。5章10節からしばらく中断していましたが、再び「メルキゼデクと同じような大祭司」というテーマに戻ってきたことになります。イエス様が大祭司であるということについて言うならば、既に2章17節以降より繰り返し語られてきました。このことを理解することがいかに大事であるかが伺えます。

 ところでこれまで当然のごとくイエス様は大祭司であると語られてきて、わたしたちも特にそのことを問題にしなかったわけですが、実は一般的なヘブライ人、すなわちユダヤ人にとりましては、そこにどうしても見過ごすことのできない問題があるのです。何でしょう。イエス様は肉においてはダビデの子孫であるということです。

 ダビデはユダ族の出身です。ということでイエス様もユダ族の末裔ということになります。しかし、モーセの律法によるならば、祭司はレビ族でありアロンの子孫でなくてはなりません。今日お読みした13節以下にもその点が触れられています。「このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです」(13‐14節)。このように、本来キリストが大祭司であるという話は、まことに受け入れがたい話なのです。

 それゆえに、キリストがただ大祭司であると語られているだけでなく、「メルキゼデクと同じような大祭司」であると語られているのです。この「メルキゼデクと同じような」という言葉が決定的に重要な意味を持つのです。この言葉は詩編110:4から来ています。

 新共同訳では、「わたしの言葉に従ってあなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)」となっていますが、これは「あなたは永遠にメルキゼデクと同じような祭司である」とも訳せるのです。さらに言えば、「あなたはメルキゼデクの職制に従って永遠に祭司である」とも訳せます。

 この詩編はイエス様も引用して論じました(マルコ12:36)、メシア預言として読まれる詩編なのです。そこにおいてそう語られているということは、要するに、「メシアはモーセ律法に定められた職制によってレビ族から出る祭司なのではない。それとは別の職制によってメルキゼデクと同じような祭司なのだ」ということになるのです。そしてさらに、モーセ律法による祭司よりも、メルキゼデクと同じ祭司の方が優っているのだということを語ろうとしているのです。

 そこで私たちは、そもそもメルキゼデクなる人物はどこに出てくるのかを見ておきたいと思います。創世記14:17以下を御覧ください。この章に書かれているのはアブラハムの甥であるロトとその家族が連れ去られた時、アブラハムが彼らを救出したという話しです。そしてアブラハムが勝利を得て帰って来たとき、そこで出迎えた人物が二人いたのです。一人はソドムの王です。そして、もう一人が「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」なのです。彼はパンとぶどう酒を持ってきて、アブラハムを祝福するのです。するとアブラハムはすべての物の十分の一を彼に贈ったのでした。

 さて、このメルキゼデクなる祭司は何者か。聖書には何の説明もありません。謎に満ちた人物です。後にも先にもここしか登場しません。ですから、ヘブライ人への著者はこう語ります。「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(3節)と。

 そして、重要なのは彼がアブラハムを祝福し、すべての十分の一を受け取ったということなのです。確かにレビの子孫である祭司は、民から十分の一を受け取ることが律法によって定められていました。しかし、この時点はモーセが律法を受け取るずっと前であり、そもそもまだレビ族なるものは存在していないのです。レビはアブラハムのひ孫なのですから。レビの曽祖父であるアブラハムが十分の一を献げたということは、アブラハムの中に潜在的に存在するレビが十分の一を献げたということでもある、と言えるでしょう。

 しかももう一つ重要なことが書かれています。メルキゼデクがアブラハムを祝福したということです。祝福するとしたら、上の者が下の者を祝福するのです。ということで、メルキゼデクという謎の祭司の方が、アブラハムの中にいるレビよりも偉大なのであり、したがってレビ族の祭司よりも偉大だ、というわけです。なるほど筋が通っています。

 そのように詩編110編は、主なる神が、レビ族の祭司よりも偉大なメルキゼデクと同じような祭司を立てたのだということを語っているのです。それがメシア、すなわちキリストであると。しかも、主なる神は、あなたは永遠にそのような祭司であるとメシアに語っているのです。

 なぜこのことが重要なのでしょう。それは、モーセの律法に基づく祭司制度が不完全であることを意味するからです。「ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう」(11節)。そう言われれば、なるほどそのとおりでしょう。モーセの律法に基づく祭司が、人間に完全な罪の赦しをもたらし、神と人間との正しい関係を回復し、交わりを回復するのに十分であるならば、メルキゼデクと同じような別な祭司は必要ないはずです。しかし、神はあえてメルキゼデクと同じような祭司、すなわちモーセの律法に基づかない祭司を立てた。それはなぜか。先のものが不完全だからです。

 そして、それはもう一つのことを意味しています。それはモーセの律法に変更があったということです。「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです」(12節)と書かれているとおりです。

 モーセの律法に変更があったという主張は、ユダヤ人が聞いたら天地がひっくり返るような驚くべき主張です。しかし、その驚くべきことが起こったのだと著者は言っているのです。実際、先にも触れましたように、メシアはレビ族ではないのです。ダビデの子孫なのですから。そのメシアが永遠に祭司であるならば、それは明らかにモーセの律法に反するのです。ユダ族から祭司が出るなんてことは律法に書かれていないのですから。

 ということで、律法に変更があった。いや、さらに言うならば、無力だから廃止されたのだとさえ言えるでしょう。18節にははっきりと次のように書かれています。「その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました」。それはどのような仕方で廃止されたのか。既に16節にこう書かれていました。「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです」(16節)。そのように、新しい別の祭司は、もはや肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。ここで著者が念頭に置いているのはイエス様の復活でしょう。復活したキリストであるゆえに、永遠の祭司であり得るのです。それはまさに、命の力によって立てられたとしか言いようがないでしょう。

 このように不完全な律法が廃棄されたのは何のためか。他方において、もっと優れた希望がもたらされるためでした。「しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました」(19節)。メルキゼデクと同じ祭司が立てられたこと、すなわちイエス・キリストがそのような大祭司となってくださったのは、わたしたちが与えられた、もっと優れた希望によって、神に近づくためなのです。「わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」。

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