2025年3月30日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書17:1-8、ペトロの手紙二 1:16-19
復活の光が射し込んで
本日の福音書朗読で読まれたのは、山の上においてイエス様の姿が変わったという出来事でした。それだけではありません。ペトロを初めとする3人の弟子たちは、そこでモーセとエリヤがを見たというのです。モーセは律法を代表する人物であり、エリヤは預言者を代表する人物です。この二人で旧約聖書全体を代表していると言うこともできるます。そのような二人が現れてイエス様と語り合っていたのをペトロたちは見たのです。
イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書が立っている。それは、イエス様がこれから受けようとしている苦難は、旧約聖書と無関係ではない、ということを意味しています。それは起こるべきこととして、旧約聖書の預言の言葉によって既に語られていたのです。言い換えるなら、キリストの御受難はすべて神のご計画によって起こったことだ、ということです。
神のご計画によって起こったことであるならば、苦難は苦難で終わりません。キリストは十字架にかけられて死んで、それで終わりとはなりません。それが神のご計画であるならば、その先があるはずです。そして、事実その先があったのだ、と聖書は私たちに伝えているのです。私たちが毎年イースターに祝っている、キリストの復活です。
今日の聖書箇所において、あの日、あの山の上でペトロたちが見たキリストの顔は太陽のように輝いていたと書かれていました。服は光のように白くなったと書かれていました。ペトロたちがあの山の上で見せていただいたのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きに他なりませんでした。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。
それはなぜでしょう。彼らはやがてキリストの悲惨な姿を見ることになるからです。この御方が捕らえられ、不当な裁きにかけられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架につけられるのを見ることになるのです。そして、見捨てられた者として死んでいくのを見ることになるのです。だからこそ、神は彼らに前もって見せてくださったのです。すべては神の御手の中にあり、ご計画の中にあることを。そして、その御心において十字架の先には復活があることを、ペトロたち三人に、先に見せてくださったのです。
キリストの変容
いやそれだけではありません。彼らが目にしたキリストの御姿の変化には、さらに大きな意味があったのです。そこには「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれていました。実はこの「変わる」という言葉ですが、本当は「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。「変わる」のと「変えられる」のでは意味合いが違いますでしょう。
イエス様は神の御子でありながら、神の側にではなく、人間の側に身を置いて、「(神によって)変えられた」という書き方がされているのです。この御方は神だから栄光の姿を現した――のではなく、私たちと同じ人間として、栄光の姿に「変えられた」のです。
ならばペトロが見たものは、ただキリストの復活を指し示すだけではありません。それは私たちの復活をも指し示す出来事なのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということをペトロは前もって見せていただいたのです。
先ほどの続きを御覧ください。キリストの御姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。
「ここにいるのは、すばらしいことです!」そうペトロが言っているように、山の上における神秘的な体験は、この上ない幸福感に満ちたものだったのでしょう。「仮小屋を三つ建てましょう」という無茶苦茶な提案も、単純にその幸福な山の上に留まりたいという気持ちの表れだったのかもしれません。
しかし、ペトロたちは山の上に留まっているわけにはいかないのです。やがて光り輝く雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。神自らペトロたちにこう語られたのです。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。
父なる神は、確かにイエス様について「これはわたしの愛する子」と宣言されました。しかし、その神の「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。人々が生活する山の下へと向かわれるのです。そして、エルサレムへと、十字架へと向かわれるのです。その御方に聞き従っていくならば、どうなりますか。弟子たちも山の上に留まっているわけにはいきません。弟子たちは山の下で、現実のこの世界のただ中で、キリストに従っていくことになるのです。
山の下において、現実のこの世界において、神を愛し人を愛しキリストに従って生きようとするならば、何が見えてきますか。キリストに少しで「従おう」とした人なら知っています。そこでは本当の意味で自分の罪深さも見えてくるのです。自分がいかに愛に欠けているか、いかにキリストの姿からかけ離れ、いかに自分が醜いエゴイストであるかが、どうしたって見えてくるのです。
私たちの希望はどこに
しかし、だからこそ、私たちはあの時、あの山の上にいたペトロの言葉に耳を傾けなくてはならないのです。今日の第二朗読において読まれたペトロの手紙には、次のように書かれていました。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(2ペトロ2:16)。
一読してわかりますように、ペトロは実際に目撃したこと、また実際に聞いたこと、すなわちそれが事実であるということに、非常にこだわっています。「作り話」ではない、と。この「作り話」とは「神話」と訳せる言葉です。ペトロは「神話ではない。事実なのだ」と言っているのです。
宗教的な思想を伝えるために多くの神話が用いられていた、そんな時代です。ペトロはそのように数多くの神話が語られている世界だからこそ、あえて断言するのです。イエス・キリストの力に満ちた来臨を宣べ伝えるのに用いたのは、神話ではなく、イエスという御方における出来事として、実際に見たり聞いたりしたことなのだ、と。
さらに言うならば、ペトロがそう語るのは、自らが世を去る時が近いことを知っているからなのです。今日の箇所の直前にはこう書かれています。「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」(同14節)。「仮の宿」とはこの世を生きるために与えられたこの体のことです。この体は一時的な仮の宿に過ぎません。そして、やがて役割を終える時が来るのです。
そのようにこの世の生を終える時が近いことを悟ったペトロが、まず考えていたのは自分自身のことではありませんでした。そうではなくて、信仰の仲間のことだったのです。「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます」(同15節)。
彼らは福音の真理を既に知っているのです。だから「思い出してもらう」と言うのです。知らないわけではない。しかし、お互いによって、絶えず思い起こされる必要があるのです。信仰を励まし合うとはそういうことです。ペトロは自らが世を去る時が近いことを知るゆえに、残された時を用いて彼らの信仰を励まし支えようとしているのです。だからこそ伝えられている真理が事実に基づいていることにこだわるのです。
先ほど、「現実のこの世界において、神を愛し人を愛しキリストに従って生きようとするならば、自分がいかに愛に欠けているか、いかにキリストの姿からかけ離れ、いかに自分が醜いエゴイストであるかが見えてくる」と申しました。そこで見えてくるのは、自分自身についての「事実」なのです。自分の内にある「罪」という「事実」なのです。
そして、人間の罪が事実であるならば、罪の赦しも事実でなくてはならないのです。罪からの救いも事実でなくてはならないのです。事実でないならば、言葉そのものはどんなに慰めに満ちていたとしても、所詮は気休めにしかなりません。自分に残された時間が短いならば、語るべき言葉は厳選されていきます。気休めを語っている暇はありません。だから、ペトロは、実際に目撃したこと、確かに耳にしたことをに基づいて希望を語るのです。
今私たちはレントの期間を過ごしています。悔い改めの期間、それは私たちが実生活の中で御言葉に聴き、私たちの現実と正直に向き合う期間でもあります。自分が見えてくるならば、悔い改めと罪の赦しを求める祈りも切実なものとなるでしょう。また、自分は変わりたい、変えていただきたいという願いも切実なものとなるのでしょう。
今のままで別に良いではないか、と思っている人には今日の箇所は大して意味を持たないかもしれません。しかし、今の姿が神の子どもたちの本来の姿でないことを知るならば、今日の聖書の言葉は大きな意味を持つことになるでしょう。キリストの姿が変えられた。その姿を指し示して神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはやがて栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ、と。
「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」という招きは、そのような最終的な救いの完成に向けて語られているのです。そうです、私たちに救いが完成する夜明けが来るのです。聖書が語る救いの言葉、救いの預言の言葉はキリストにおいて、その十字架の死と復活を経て、いよいよ確かなものとなりました。それゆえに、あの日イエス様の栄光を目撃したペトロはこう書いているのです。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(2ペトロ1:1)。