2025年3月30日日曜日

「暗闇の中に輝くともし火」

2025年3月30日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書17:1-8、ペトロの手紙二 1:16-19

復活の光が射し込んで
 本日の福音書朗読で読まれたのは、山の上においてイエス様の姿が変わったという出来事でした。それだけではありません。ペトロを初めとする3人の弟子たちは、そこでモーセとエリヤがを見たというのです。モーセは律法を代表する人物であり、エリヤは預言者を代表する人物です。この二人で旧約聖書全体を代表していると言うこともできるます。そのような二人が現れてイエス様と語り合っていたのをペトロたちは見たのです。

 イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書が立っている。それは、イエス様がこれから受けようとしている苦難は、旧約聖書と無関係ではない、ということを意味しています。それは起こるべきこととして、旧約聖書の預言の言葉によって既に語られていたのです。言い換えるなら、キリストの御受難はすべて神のご計画によって起こったことだ、ということです。

 神のご計画によって起こったことであるならば、苦難は苦難で終わりません。キリストは十字架にかけられて死んで、それで終わりとはなりません。それが神のご計画であるならば、その先があるはずです。そして、事実その先があったのだ、と聖書は私たちに伝えているのです。私たちが毎年イースターに祝っている、キリストの復活です。

 今日の聖書箇所において、あの日、あの山の上でペトロたちが見たキリストの顔は太陽のように輝いていたと書かれていました。服は光のように白くなったと書かれていました。ペトロたちがあの山の上で見せていただいたのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きに他なりませんでした。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。

 それはなぜでしょう。彼らはやがてキリストの悲惨な姿を見ることになるからです。この御方が捕らえられ、不当な裁きにかけられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架につけられるのを見ることになるのです。そして、見捨てられた者として死んでいくのを見ることになるのです。だからこそ、神は彼らに前もって見せてくださったのです。すべては神の御手の中にあり、ご計画の中にあることを。そして、その御心において十字架の先には復活があることを、ペトロたち三人に、先に見せてくださったのです。

キリストの変容
 いやそれだけではありません。彼らが目にしたキリストの御姿の変化には、さらに大きな意味があったのです。そこには「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれていました。実はこの「変わる」という言葉ですが、本当は「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。「変わる」のと「変えられる」のでは意味合いが違いますでしょう。

 イエス様は神の御子でありながら、神の側にではなく、人間の側に身を置いて、「(神によって)変えられた」という書き方がされているのです。この御方は神だから栄光の姿を現した――のではなく、私たちと同じ人間として、栄光の姿に「変えられた」のです。

 ならばペトロが見たものは、ただキリストの復活を指し示すだけではありません。それは私たちの復活をも指し示す出来事なのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということをペトロは前もって見せていただいたのです。

 先ほどの続きを御覧ください。キリストの御姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。

 「ここにいるのは、すばらしいことです!」そうペトロが言っているように、山の上における神秘的な体験は、この上ない幸福感に満ちたものだったのでしょう。「仮小屋を三つ建てましょう」という無茶苦茶な提案も、単純にその幸福な山の上に留まりたいという気持ちの表れだったのかもしれません。

 しかし、ペトロたちは山の上に留まっているわけにはいかないのです。やがて光り輝く雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。神自らペトロたちにこう語られたのです。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。

 父なる神は、確かにイエス様について「これはわたしの愛する子」と宣言されました。しかし、その神の「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。人々が生活する山の下へと向かわれるのです。そして、エルサレムへと、十字架へと向かわれるのです。その御方に聞き従っていくならば、どうなりますか。弟子たちも山の上に留まっているわけにはいきません。弟子たちは山の下で、現実のこの世界のただ中で、キリストに従っていくことになるのです。

 山の下において、現実のこの世界において、神を愛し人を愛しキリストに従って生きようとするならば、何が見えてきますか。キリストに少しで「従おう」とした人なら知っています。そこでは本当の意味で自分の罪深さも見えてくるのです。自分がいかに愛に欠けているか、いかにキリストの姿からかけ離れ、いかに自分が醜いエゴイストであるかが、どうしたって見えてくるのです。

私たちの希望はどこに
 しかし、だからこそ、私たちはあの時、あの山の上にいたペトロの言葉に耳を傾けなくてはならないのです。今日の第二朗読において読まれたペトロの手紙には、次のように書かれていました。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(2ペトロ2:16)。

 一読してわかりますように、ペトロは実際に目撃したこと、また実際に聞いたこと、すなわちそれが事実であるということに、非常にこだわっています。「作り話」ではない、と。この「作り話」とは「神話」と訳せる言葉です。ペトロは「神話ではない。事実なのだ」と言っているのです。

 宗教的な思想を伝えるために多くの神話が用いられていた、そんな時代です。ペトロはそのように数多くの神話が語られている世界だからこそ、あえて断言するのです。イエス・キリストの力に満ちた来臨を宣べ伝えるのに用いたのは、神話ではなく、イエスという御方における出来事として、実際に見たり聞いたりしたことなのだ、と。

 さらに言うならば、ペトロがそう語るのは、自らが世を去る時が近いことを知っているからなのです。今日の箇所の直前にはこう書かれています。「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」(同14節)。「仮の宿」とはこの世を生きるために与えられたこの体のことです。この体は一時的な仮の宿に過ぎません。そして、やがて役割を終える時が来るのです。

 そのようにこの世の生を終える時が近いことを悟ったペトロが、まず考えていたのは自分自身のことではありませんでした。そうではなくて、信仰の仲間のことだったのです。「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます」(同15節)。

 彼らは福音の真理を既に知っているのです。だから「思い出してもらう」と言うのです。知らないわけではない。しかし、お互いによって、絶えず思い起こされる必要があるのです。信仰を励まし合うとはそういうことです。ペトロは自らが世を去る時が近いことを知るゆえに、残された時を用いて彼らの信仰を励まし支えようとしているのです。だからこそ伝えられている真理が事実に基づいていることにこだわるのです。

 先ほど、「現実のこの世界において、神を愛し人を愛しキリストに従って生きようとするならば、自分がいかに愛に欠けているか、いかにキリストの姿からかけ離れ、いかに自分が醜いエゴイストであるかが見えてくる」と申しました。そこで見えてくるのは、自分自身についての「事実」なのです。自分の内にある「罪」という「事実」なのです。

 そして、人間の罪が事実であるならば、罪の赦しも事実でなくてはならないのです。罪からの救いも事実でなくてはならないのです。事実でないならば、言葉そのものはどんなに慰めに満ちていたとしても、所詮は気休めにしかなりません。自分に残された時間が短いならば、語るべき言葉は厳選されていきます。気休めを語っている暇はありません。だから、ペトロは、実際に目撃したこと、確かに耳にしたことをに基づいて希望を語るのです。

 今私たちはレントの期間を過ごしています。悔い改めの期間、それは私たちが実生活の中で御言葉に聴き、私たちの現実と正直に向き合う期間でもあります。自分が見えてくるならば、悔い改めと罪の赦しを求める祈りも切実なものとなるでしょう。また、自分は変わりたい、変えていただきたいという願いも切実なものとなるのでしょう。

 今のままで別に良いではないか、と思っている人には今日の箇所は大して意味を持たないかもしれません。しかし、今の姿が神の子どもたちの本来の姿でないことを知るならば、今日の聖書の言葉は大きな意味を持つことになるでしょう。キリストの姿が変えられた。その姿を指し示して神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはやがて栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ、と。

 「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」という招きは、そのような最終的な救いの完成に向けて語られているのです。そうです、私たちに救いが完成する夜明けが来るのです。聖書が語る救いの言葉、救いの預言の言葉はキリストにおいて、その十字架の死と復活を経て、いよいよ確かなものとなりました。それゆえに、あの日イエス様の栄光を目撃したペトロはこう書いているのです。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(2ペトロ1:1)。

2025年3月26日水曜日

祈祷会用:ホセア書 11:1~11

 ホセア書 11:1‐11

 このような質問を受けることがあります。「私の周りには神を信じていなくても、しっかりしている人はたくさんいます。神を信じていなくても、誠実で真面目な人、愛情の深い人はたくさんいます。そのような人たちに信仰は必要なのでしょうか。」このように、往々にして信仰に関して出される問いは、人間には信仰が必要であるか、神が必要であるか、という観点から出されます。しかし、そのような信仰の観点と、人が神の像を作りそれを拝むという行為は、実は、極めて密接に結びついているのです。

 人は偶像を作ります。それは人間が偶像を必要としているからです。古代オリエントの世界において、神の像は神々や諸霊の「居場所」と考えられていました。ですから、一面においては、偶像の製造は人が神を必要としているという心の現れであると言うことができます。必要としているからこそ、確かにそこにいて欲しいのです。だから、そこに偶像を設置します。

 しかし、もう一方では、神がいて欲しくない場合もあるわけです。古代世界においては、見えざるものに対する恐怖というものは、現代におけるよりも遙かに大きかったのです。ですから、やたらにどこにでもいてもらったら困るのです。そこで居場所を定めておきたい。だから人は偶像を作ります。このように、いずれにせよ、偶像というのは、人が神を必要とするかしないかという観点と結びついているわけです。

 しかし、十戒の第2戒は偶像を作りそれを拝むことを禁じます。聖書は神と人との関係を、そのような“人間の必要”という一方向から語ることを許さないからです。神と人との関係は、人間と偶像のような関係ではありません。ホセア書において、神と人との関係は、ある時は夫婦の関係に喩えられ、ある時は親子の関係に喩えられるのです。その関係は生きた双方向の関係です。

 考えても見てください。子供が「わたしには親が必要か否か」という見方しかできないとすれば、それはどう考えても健全な親子の関係ではありません。そのように、聖書は、単に人間には神がどれほど必要であるか、ということについて語ることをいたしません。それよりも、神が人をどれほど愛し、求めてくださっているか、ということについて語るのです。

 しかし、人はなかなかそのような神の心に思いを馳せようとはいたしません。いつでも頭を占領しているのは、自分のことばかり、人間のことばかりです。それゆえに、聖書は、不完全な人間の言葉を用いつつも、言葉を尽くして「神の心」を語るのです。今日お読みしました箇所においても、私たちはそのような「神の心」を聞いているのです。

 「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」(1-4節)。

 神はまだ幼かったイスラエルを愛されました。成人して立派になり、力を得、役に立つようになったから愛されたのではありません。幼子のように何もできず、手がかかるだけの時に、神はイスラエルを愛されたのです。それは申命記においても次のように書かれているとおりです。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記7:7‐8)。

 神とその民との関係は、神の愛と選びによって始まったのでした。神が欲しておられたのは、イスラエルの持っている何かではありませんでした。もとより、神に提供することのできる何かを持っていたわけではないのです。「まだ幼かったイスラエル」なのですから。そうではなくて、神が欲しておられたのは、彼ら自身なのです。神が欲しておられたのは、彼らがただ神の愛に留まることでした。神の子とされたのですから、神の愛の内にあって子として生きることなのです。神の愛に留まり、神の愛に応えて、神を愛して生きる民となることを、神は求めておられたのです。

 しかし、神が預言者を通して語りかけ、呼びかければ呼びかけるほど、彼らは神から離れていきました。彼らの罪とはなんでしょうか。それは、彼らが愛なる神との関係を見失い、離れていったことでありました。彼らが親を忘れてしまったことにこそ、彼らの罪の根はあったのです。

 「エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった」(3節)と主は嘆きの声を上げられます。これはホセアの個人的な経験、一人の親としての経験を通して、神が語られた言葉であるかも知れません。既に見てきましたように、ホセアの妻ゴメルは淫行の女でありました。ホセアは淫行による子らを受け入れ、愛し、育ててきたのです。生まれ出た赤ん坊は一人で生きることはできません。大きくなった子供が偉そうなことを言っても、決して自分一人で育ってきたわけではないのです。

 子供を育てるというのは大変なことです。子供が育つためにはどれほど親の労苦と忍耐が必要とされることでしょう。そのように、イスラエルの歴史において、彼らを愛し、育ててきたのは神でした。彼らが病む時に、彼らをいやされたのは、他ならぬ神御自身でした。幼子が病に伏したなら、親は寝ずの看病だってするでしょう。丁度そのように、神は御自分の民に関わってこられたのです。旧約聖書を読みますときに、なるほどそうだと思います。

 神は、彼らを御自分の子とされたゆえに、無理矢理に服従させないと使いものにならない牛馬のごとくには扱いませんでした。あくまでも人間として扱われたのです。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼を導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」と書かれているとおりです。

 「神はどうして人に罪を犯す可能性を与えておいて、なおも罰するのか」などと言う人がいます。「初めから罪を犯せないようにしておいたらよいのに」と。――そのように言う人は、自分を馬か牛のようにしか見ていない人です。私たちは馬や牛ではありません。人間なのです。神は私たちが人間であるゆえに、強制的な服従によってではなく、愛による応答を求められたのです。それこそ神が人間を人間として扱われる仕方なのです。愛の対象として見ておられるということなのです。その愛の関係こそ、神がイスラエルに与えられた契約の意味でありました。

 ところが人間の方が一方的にその契約を破り、神に背いたのです。そして、人は蒔いたものを刈り取ることになります。神の愛への背きを蒔くならば、滅びを刈り取ることになるのです。

 「彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない」(5‐7節)

 この預言が語られた時、既にアッシリアのイスラエル侵攻は始まっており、北部は占領されていたものと思われます。ホセアは、やがて完全にアッシリアによって滅ぼされてしまうことを預言します。「アッシリアが彼らの王となる」と。

 表面的に見るならば、それは外交政策における失敗によってもたらされたと言えます。しかし、主はそう言われません。「彼らが立ち帰ることを拒んだからだ」と言われるのです。この差し迫っている国家の危機は、まさに彼らが蒔いてきた背信の種が結ぶ実を刈り取っているのだ、と主は言われるのです。

 しかし、私たちはここで驚くべき言葉を耳にするのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(8‐9節)。

 「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と主は言われるのです。「わたしは激しく心を動かされ」と訳されていますが、単純に訳せば「心が変わる」ということです。ここは「神の変心(心変わり)」と呼ばれる有名な箇所です。何によって神の心が変わるのでしょうか。憐れみによってです。義なる神は、契約に背き、神の愛に背いたイスラエルに怒りを向けられ、その罪を裁かれます。しかし、憐れみによってその心が変わるのです。

 この心変わりによって、神の心はその内において分裂することになります。これまで激しい裁きの言葉を語っておられた神が、そして7節においても「たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない」と最終的な滅亡を宣告していた神が、今やこう叫び出すのです。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」と。このように、神の内には相反する思いが共存することになります。それは神の自己矛盾とも言えるでしょう。そのような自己矛盾を抱えこんでいる神の姿を私たちはここに見るのです。

 このような姿は、あまりにも「神らしくない」と思われますでしょうか。あまりにも生々しく人間臭い描写であると思われますでしょうか。しかし、主はこう言われるのです。「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(9節)。神は御自分が神であり、人間ではないことを主張されます。聖なる者であると言われるのです。聖なる者であるということは、人間とは全く区別された異なる御方であるということです。この自己矛盾をかかえた神の姿は、人間的な描写を用いているからそのように描かれているのではありません。そうではなくて、まさにこれが、神が神であられるということなのです。神が神である御自分を貫かれるということは、罪をその極限まで憎み、完全に裁かれる神となられると同時に、人間を極限まで愛し、完全に赦される神となられることなのです。

 そして、そのような神の姿は、後に十字架にかけられたキリストにおいて完全に啓示されることになるのです。罪なき御方が十字架にかけられて死んでいくその凄惨な死の様は、私たちの罪を明らかにし、その罪に対する神の憎しみと怒りとを明らかに示します。神は罪を裁き給う神であることを貫かれるのです。しかし、そこにはまた御子をさえ惜しまずに与えてくださる神の愛が明らかにされているのです。神は愛と赦しの神であることを貫かれたのです。完全な義と愛は神において一つであることが明らかに啓示されているのです。

 「獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声をあげるとき、その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると、主は言われる」(10‐11節)。

 「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」と叫ばれた神の声は、やがて御自分の御子をこの世に送り給うことにおいて、見える形を取るに至りました。その御子は、十字架の上で叫びます。「成し遂げられた」と。いや、このキリスト御自身の存在そのものこそ、この世界のただ中で上げられた神の義と愛の叫びに他なりませんでした。

 それはホセアの言葉を借りるならば、この世界のただ中に響き渡る「獅子の雄叫び」です。「獅子のようにほえる主に彼らは従う」。神が声を上げられたのは、散らされた神の子らが真に悔い改め立ち帰るようになるためでした。その主の御声によって、神の子らは海のかなたから恐れつつやって来るのです。「恐れつつ」――それは「こわがって」ということではありません。神を神とする真の畏れをもって彼らは帰ってくる、ということです。この神の御声によって、私たちもまたみもとに呼び集められ、畏れをもって主と共に生きる者とされたのです。

2025年3月23日日曜日

「本当の命はどこにあるのか」

マタイによる福音書 16:21‐28

自分を捨ててわたしに従いなさい
 今日の聖書箇所は、「このときから」という言葉から始まっていました。その直前には、ペトロが、「あなたはメシアです」という信仰を言い表しています。この「あなたはメシアです」という言葉を受けて、イエス様は、御自分がメシアであるとはいかなることかを、語り始められたのです。「このときから」とはそういうことです。

 しかし、そこで弟子たちが耳にしたのは、まことに驚くべき言葉でした。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)というのです。これがメシアであるということなのです。主は御自分がメシアであるゆえに、「必ず」苦しみを受け、殺され、復活することになっている、と語られたのです。

 この「必ず~することになっている」という表現は、しばしば「神的必然」などと呼ばれます。これが神の御心であることを表しているのです。イエス様は父なる神の御心に従おうとしているのです。そして、さらに言うならば、それは私たちに対する愛のゆえなのです。イエス様は、私たちを救うために、父なる神の御心に従い、自ら罪の贖いの犠牲となることを受け入れたのです。

 そのようなイエス様が言われるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。これが今日、私たちに与えられている御言葉です。

 大事なことは、この言葉を語っているのがイエス様であるということです。この言葉を、語っておられるイエス様と切り離してはならないのです。なぜなら、「自分を捨てること」を勧める言葉自体は、この世において、イエス様以外のところからでも、いくらでも耳にすることがあるからです。

 かつては日本という国家が「滅私奉公」というスローガンのもとに「自分を捨てること」を要求しました。自分を捨てた若者たちは、神風特攻隊として250キロ爆弾を積んだゼロ戦に乗りました。今から30年前、カルト集団のために自分を捨てた人々は、その結果として地下鉄サリン事件を起こし、14人もの命を奪いました。人が「自分を捨てること」によって、このようなことがいくらでも起こります。ですから、単純に「自分を捨てること」そのものが尊いことであるかのように、美化してはなりません。

 主は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、【わたしに】従いなさい」と言われたのです。私たちはこれをイエス様の招きとして聞くことが重要なのです。すなわち、神を愛し、人を愛し、この私たちを愛された方の言葉として聞くことが重要なのです。

 キリスト者であるとは、イエス様に向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表して生きるということであり、さらには《苦難を受けられたメシア》であるイエス様について行くことに他なりません。イエス様について行くならば、いわばイエス様の背中を見つめて歩いていくということになるのでしょう。愛のゆえに御自分を捨てられた御方、愛のゆえに十字架を背負われた御方、そうです、他ならぬこの私を愛し、私のために自分を捨ててくださった御方――そのようなイエス様の後ろ姿を見つめながら歩いていくことになるのです。

 私たちがそのようにイエス様の後に従っていく時に、私たちが自分の思いに執着し、自分の願いだけを大切にして、神に対しても人に対しても我が儘を言い続け、自分を押し通しながら生きているとするならば、どうでしょう。私たちを愛するゆえに十字架を背負ってくださったイエス様の後についていくのに、私たちが何一つ背負おうとしないで、愛すること放棄して、負うべきものを放棄して歩いているならば、どうでしょう。それは決してあるべき姿でないことは明白なのでしょう。

 ですから、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、何ら特別なことが語られているのではないのです。それを語られた御方のことを考えるならば、ある意味で、至極当然の言葉なのです。

わたしのために命を失う者は、それを得る
 とはいえ、このような言葉を聞くことには注意が必要であろうと思います。讃美歌331番の歌い出しに、「主にのみ十字架を負わせまつり、我知らず顔にあるべきかは」という言葉があります。しかし、だからと言って、「イエス様だけ苦しませてはならないのだ。わたしも後についていくならば、知らん顔しているわけにはいかないのだ」と、悲壮感を漂わせながら、歯を食いしばりながら、必死の面もちでついていくだけならば、それはとても不健全な信仰生活となるのでしょう。主は、そのようなキリスト者の姿を望んではおられないだろうと思うのです。

 この御言葉を、語ってくださったイエス様から切り離してはならないことは既に申しました。しかし、それだけではありません。私たちはその後に記されているイエス様の言葉からも切り離してはならないのです。

 主はさらにこう言われたのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(25-26節)と。 つまりイエス様の言葉の主眼点は。「捨てさせる」ところにあるのではないのです。そうではなくて、「得させる」ところにあるのです。イエス様は、まことの命、決して失われることのない命を得させようとしているのです。

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と主は言われました。「自分の命を救いたいと思う」ということは、自分の命にしがみついているということです。それは単に「死にたくない、死にたくない」と言っている、ということではありません。人間が自分の命にしがみつくのは、死に直面する時だけではないからです。死に直面していなくても、人は自分の命にしがみついているものです。「これは私の命だ!私の人生だ!」と言って。人はあくまでも自分の命として、自らの人生を全うしたいと思っているのです。なんとしてでも「自分のために」使おうとするのです。そして、時として、自分のために、自分の命を満たすために、全世界を手に入れようとさえするのです。

 しかし、イエス様は言われるのです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。イエス様が言われるように、もし自分の望み通りに自分の命を用いて、実際に全世界を手に入れたとしても、全世界を手に入れた人としてただ死んでいくだけならば、それがいったい何になるというのでしょう。イエス様の言われるとおりです。

 それは結局は、命を失うことでしかないでしょう。「これは自分の命だ。これは自分の人生だ。自分は自分の命を十分に自分のために使えただろうか。自分は自分の命について思い残すことはないだろうか」と言いながら死んでいく。それは命を得たことになりますか。ならないでしょう。それは命を失うことでしかないのです。イエス様の言われるとおりです。

 イエス様は、本当の命を得よ、と言っているのです。命を得るのは誰か。「わたしのために命を失う者は、それを得る」と主は言われるのです。「わたしのために命を失う」とは、その前に書かれていることです。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従っていくことです。

 キリストに従いながら、父なる神への愛のゆえに、人に対する愛のゆえに、あえて自分を捨てる、あえて十字架を背負っていく――それは一見すると自分の人生の一部を無駄にしてしまうように、命を削り落としてしまうことのように、命を失ってしまうことのように、見えるに違いありません。

 それは「自分の十字架」ですから、それは人それぞれに違います。例えば、ある人は、キリストに従う者として、病気の家族の世話をすることを、神から与えられた自分の十字架として受け取り、背負い、そのゆえに人生の大半を費やすかもしれません。「自分のしたいこともできなくて、苦労だけで人生を費やしてしまって、なんて可哀想な人なんだろう」――そのように人は見るかも知れません。しかし、そうではないのです。そこにこそ、本当の命はある、その人は命を得るのだ、と主は言われるのです。

 そして、実際、イエス様はそのことを見せてくださったのです。イエス様の人生は、まさに十字架へと向かう人生でありました。イエス様の命は、文字通り十字架を背負い、その十字架にかかって死ぬために費やされてしまったのです。しかし、イエス様はただ命を失った可哀想な人なのでしょうか。いいえ、そうではありません。人々は、そのようなイエス様の内から輝き出る、まことの命の光を見たのです。

 そして、その命の輝きは、復活において完全に現されたのです。「三日目に復活することになっている」と主が言われたとおりでした。十字架の先に――そうです、その先に復活がありました。復活したキリストを弟子たちが見た。それはただ単に、死んだはずのイエス様に再びお会いした、ということではないのです。弟子たちは、キリストの内に本当の命を見たのです。決して失われることのない、永遠の命を見たのです。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。これは、イエス様が見せてくださった、まことの命を得るようにとの招きに他なりません。それゆえに、これを語ったイエス様が望んでいるキリスト者像は、「悲壮感を漂わせながら、歯を食いしばりながら、必死の面もちで着いていく」というようなものではないのです。主が望んでおられるのは、十字架を背負いながらも、命に溢れ、喜びと希望に溢れている、そんな姿であるに違いありません。そのような歩みへと、主は招いていてくださっているのです。


2025年3月19日水曜日

祈祷会用:ホセア書 10:1~15

ホセア書 10:1‐15

 「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒される」(1‐2節)。

 ここでイスラエルがぶどうの木に喩えられています。そのぶどうの木は「伸びほうだい」であったと言われています。しかし、このように否定的に訳されておりますが、もともとは悪い意味の言葉ではありません。外に溢れるように繁栄している状態を表現する言葉です。実際、ヤロブアム二世の治世において、イスラエルはそのような繁栄を享受していたのでした。外に向かって枝が豊かに茂り、その実も豊かに実っていたのです。

 その時、彼らはどうしたでしょうか。「実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた」と書かれております。彼らは、聖所を増やしたのです。そして、それぞれの聖所を豪華な立派なものにしたのです。国が豊かなのですから、それを礼拝に還元していったわけです。聖所が増え、聖所が立派になることは望ましいことではないでしょうか。

 しかし、主はそのことを喜ばれませんでした。むしろ、主は自ら、「彼らの祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒される」と宣言されるのです。なぜでしょうか。主が喜ばれないのは、彼らの心が偽っているからです。「彼らの偽る心は罰せられる」と言われているとおりです。そこが問題なのです。

 「偽る心」と言われているのは、そこで行われていることが、神への純粋な愛から生まれたものではないからです。それは神の恵みに対する純粋な感謝の応答ではなかったのです。それを良く表しているのは、彼らが「聖なる柱を飾り立てた」という事実です。聖なる柱とは、元来、カナンのバアル祭儀において用いられていたものでした。それは、多産と豊穣を願い求めるバアル祭儀から取り入れられたものです。それを飾り立てたということは、イスラエルの人々もまた同じものを求めていたことを示しています。国が栄えた時、その繁栄が継続し、さらに豊かになることを求めて、彼らは聖所を増やし、飾り立てたのです。

 「偽る」と訳されている言葉が、他の箇所で、へつらいの言葉を語る滑らかな舌を表現するために用いられていることも、同じことを示していると言えるでしょう。人にへつらうのは見返りを期待してのことです。何かを引き出すために、へつらいの言葉は用いられるのです。同じように、彼らの行為は、神から良きものを引き出すための行為でしかありませんでした。聖所は増え、立派になっても、そこには真実なる神への愛も、神の恵みに応えて生きる生活もなかったのです。

 そのような偽る心が具体的にどのような事態をもたらすかが、次のように語られています。「今、彼らは言う。『我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか』と。彼らは言葉を連ね、偽り誓って、契約を結ぶ。裁きが生え出ても、わが畑の畝に毒草が生えるようだ。サマリアの住民は、ベト・アベンの子牛のためにおびえ、民はそのために嘆き悲しむ。神官たちがその栄光をたたえても、それは彼らから取り去られる。偶像はアッシリアへ運び去られ、大王の貢ぎ物となる。エフライムは嘲りを受け、イスラエルは謀のゆえに辱められる。サマリアは滅ぼされ、王は水に浮かぶ泡のようになる。アベンの聖なる高台、このイスラエルの罪は破壊され、茨とあざみがその祭壇の周りに生い茂る。そのとき、彼らは山に向かい、『我々を覆い隠せ』丘に向かっては、『我々の上に崩れ落ちよ』と叫ぶ」(3‐8節)。

 ベテルには子牛の像が祀られていました。彼らはこれをカナンの神々として拝んでいたわけではありません。彼らはエジプトから導き出した彼らの主を礼拝していたのです。ヤロブアム一世が、初めてベテルに子牛を造って置いた時、彼は次のように言いました。「見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」(列王上12・28)。

 もちろん、子牛そのものがヤハウェの神とされたのではなくて、それは見えざる神の台座と考えられていたようです。いずれにせよ、子牛の像を指して、「見よ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」と語られた時点で、もはや神の救いの恵みの大きさは真剣に受けとめられることはなくなりました。そのような偶像礼拝からは、神の恵みに対する真実な応答としての生活が生み出されようはずもありませんでした。

 それゆえ、主は、この子牛を取り除かれるのです。人々はそれゆえに嘆き悲しむようになる、と語られております。「ベト・アベン」というのは「悪の家」という意味です。本当の名前は「ベテル」です。ホセアが言い換えているのです。ベテルというのは本来「神の家」という意味でありました。しかし、もはや、その場は「悪の家」になっているということです。悪の家の偶像はアッシリアに運び去られることになります。

 皮肉なことに、今まで献げ物を受け取っていた偶像は、アッシリアの大王への献げ物となるということです。そして、「サマリアは滅ぼされる」と主は言われます。彼らは、主との真実な関係をないがしろにしながら、もう一方でこの子牛があれば大丈夫であると思っていたかもしれません。しかし、その子牛もろともアッシリアに奪い去られるのです。その時、自分が真に神を拝んでいたのではなく、偶像を拝んでいたに過ぎないことに気付くようになるのです。

 もちろん、そのように裁きが臨む前に、主は繰り返しイスラエルに対して立ち帰るよう呼び掛けられました。ホセアの時代の前には、アモスが現れて彼らに神の言葉を語ったのです。しかし、人々は立ち帰りませんでした。悔い改めませんでした。そのような、かたくなな態度は、何もその時代に始まったことではありません。昔からそうなのです。9節以下にこう書かれています。

 「イスラエルよ、ギブアの日々以来お前は罪を犯し続けている。罪にとどまり、背く者らにギブアで戦いが襲いかからないだろうか。いや、わたしは必ず彼らを懲らしめる。諸国民は彼らに対して結集し二つの悪のゆえに彼らを捕らえる」(9‐10節)。

 「ギブアの日々」については、前の章においても語られておりました。士師記20章以下に出てくる物語を指しているものと思われます。そこには罪を悔い改めず、心を頑なにし、他の部族に戦いを挑んで滅びに瀕したベニアミン族のことが記されています。今のイスラエルの民は、罪を悔い改めようとしなかったあの人々と同じだ、ということです。「お前は罪を犯し続けている」と主は言われます。彼らが不覚にも罪に陥ったということではありません。神の呼びかけにもかかわらず立ち帰ろうとしない者であること、「罪にとどまり、背く者ら」(9節)であることが問題なのです。その彼らに対して、「わたしは必ず彼らを懲らしめる」と主は言われるのです。

 そして、主の為されることが主の懲らしめであるならば、そこには主の意図があるのです。11節以下に次のように語られております。「エフライムは飼い馴らされた雌の子牛、わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。わたしはその美しい首の傍らに来た。エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く」(11節)。

 「わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ」と訳されていますが、多くの訳は、「彼女(子牛、すなわちエフライム)は脱穀するのを好んだ」となっています。その方が自然な読み方です。脱穀する牛がそれを好むというのは、申命記を読めばわかります。「脱穀している牛に口籠を掛けてはならない」(申命記25:4)と書かれているのです。牛は脱穀している間に、麦を食べることが許されていたのです。そのように、主はこれまでイスラエルを扱ってこられました。つまり、イスラエルが豊かに「食べる」ことを許されたのです。しかし、もはやそうではない、というのがホセアの預言としてここで語られていることです。神は、牛の「美しい首の傍らに来た」と言います。何のためでしょうか。「エフライムに働く支度をさせよう」と書かれています。主は子牛に重い軛を負わせて、畑を耕させようとしているのです。

 イスラエルの繁栄は続きませんでした。ヤロブアム二世の後には内政において政情不安が続きます。そればかりではありません。紀元前732年にシリアが完全にアッシリアの手に落ちて後、アッシリアはイスラエル北部に侵攻してくるのです。これは最終的に紀元前721年にサマリアが陥落するまで続きます。

 「働く支度をさせる」というのは、そのような非常に厳しい状況を指しているものと思われます。もはや、麦を食いながら脱穀している時ではありません。彼らは軛を負わされ、労働に駆り出される牛となります。そこで主が求めておられるのは何でしょうか。12節に書かれています。「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて、恵みの雨を注いでくださるように」(12節)。これこそが主の意図するところでありました。

 彼らは恵みの業をもたらす種を蒔くのです。そして、愛の実り、慈しみの実りを刈り取るのです。そのためには、「新しい土地」を耕さなくてはなりません。「新しい土地を耕せ」という言葉は、エレミヤ書にも出てきます。「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」(エレミヤ4:3)。訳は随分違いますが、原文は全く同じフレーズです。もとは恐らく古い諺であろうと思われます。その意味は、ごく簡単に言えば、「一から出直せ」ということです。古いものから決別して、完全に新しくやり直せ、ということであります。その後に「茨の中に種を蒔くな」と言われているように、古いものが残ったままで、いくらそれに手を入れてもだめなのです。

 そして、「主を求める時が来た」とホセアは叫びます。主を求めることなくして、同じようなものを求めているならば、何も新しくなりません。主を求めて初めからやり直す。それが悔い改めです。そうするときに、豊かな「恵みの雨」が注がれるのだ、と言われているのです。

 これがイスラエルに軛を負わせる神の意図でありました。神が背く者たちに対して「新しい土地を耕せ」と言ってくださることは、それ自体、神の大きな恵みです。しかし、イスラエルの民はそれを理解しませんでした。実際は、相変わらず悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べているような状態です。国難においてもまだ自分の力と勇士の数を頼りにしているのです。結局、神を求める者、新しい土地を耕す者はいないのです。次のように書かれているとおりです。
 「ところがお前たちは悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ。どよめきがお前の民に向かって起こり、砦はすべて破壊される。それはシャルマンがベト・アルベルを破壊し、母も子らも打ち殺したあの戦の日のようである。ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる」(13‐15節)。

 ここに書かれているシャルマンによるベト・アルベルの破壊については聖書には出てきませんので、実際にはどのような出来事であったのかは分かりません。これを聞いていた人々にとっては馴染みの深い出来事だったのでしょう。いずれにせよ、くびきを負わされ、畑に出された時に、「新しい土地を耕す」ということをしなければ、最終的には国の滅亡にまで至るというのが、ホセアの預言でありました。そして、事実、イスラエルはサマリアの陥落と共に滅亡してしまうのです。私たちは、悔い改めを求められる神の豊かな忍耐と憐れみに目を向けると同時に、その呼びかけを無視したゆえにイスラエルが滅びを刈り取ったという事実を、私たち自身へのメッセージとして厳粛に受け止めねばなりません。


2025年3月16日日曜日

「見よ、あなたたちの神を」

2025/3/16 主日礼拝説教

聖書:イザヤ書 35:1-10

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る
 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ」(1節)。今日の第一朗読でそのような言葉が読まれました。

 荒れ野や砂漠は、突然荒れ野や砂漠になったわけではありません。荒れ野や砂漠であり続けた過去があり、そして現在があるのです。この世の常識から言えば、荒れ野の過去と現在を考えるなら、喜び躍るべき未来があるとは思えません。砂漠の過去と現在を考えるなら、花が咲き乱れている未来があるとは思えません。それがこの世の常識というものです。

 しかし、ここに全く異なる見方でこの世界を見ている人がいます。人は彼を預言者と呼びます。この人は、過去は砂漠であり現在も砂漠であったとしても、未来に砂漠を見てはいないのです。預言者はそこに、バラの花が咲き乱れている未来を見ているのです。

 さらに彼は言葉を続けます。「花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる」(2節)。

 レバノンはレバノン杉で有名な森林を有する地域です。砂漠にレバノン杉は絶対に生えません。過去に生えたことはないし、現在も生えてはいないのです。しかし、この人は砂漠がレバノン杉の森林になった姿を見ているのです。「砂漠はレバノンの栄光を与えられる」と。

 そのように彼は、単純に過去と現在から未来を予測しようとはしないのです。それはなぜなのか。彼が目を向けているのは荒れ野や砂漠だけではないからです。また、そこで人間が何を為し得るかということでもないからです。この人は信仰をもって神に目を向けているのです。神がなさることに目を向けているのです。

 荒れ野が喜び躍り、砂漠に花が咲き乱れるとするならば、それは神がなさることです。砂漠がレバノン杉の森林になるとするならば、それは神がなさることです。それゆえに、そこで人々が見るのは人間の栄光ではありません。主の栄光なのです。「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と彼は言うのです。

 人が荒れ野の過去を思い、荒れ野の現在を思い、そして、そこで自分の手を見つめている限り、そこには希望はありません。人間の為し得るところだけを見つめている限り、荒れ野は未来も荒れ野なのでしょう。しかし、預言者は本当に求めるべきことを語るのです。それは人々が主の栄光を見ることなのです。私たちの神の輝きを見ることなのです。

見よ、あなたたちの神を
 さて、預言者がこのように語るのには、実はそれなりの理由がありました。そこには「弱った手」を持つ人々がいたからです。本当はなさなくてはならないことがあるのに、できなくなっている人々がいたからです。そこにはまた、「よろめく膝」を持つ人々がいたのです。本当は立ち上がって前に進んでいかなくてはならないのに、それができなくなっている人々がいたのです。そして、そこには「心おののく人々」がいたのです。本当は心を向けなくてはならないことがあるのに、恐れと思い煩いで心がいっぱいになっている人々がいたのです。

 だからこそ、彼らに向かって預言者は語るのです。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ」と。さらに彼は言います。「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」(3‐4節)。

 弱った手。よろめく膝。心おののく人々。具体的にどのような状況がそこにあるのか、この預言の言葉がどのような時代背景において誰に対して語られたのかは定かではありません。いや、むしろあえて特定の時代状況や人々と結びつかないような書き方がされているとも言えます。実際、弱った手やよろめく膝、心おののく人々の存在は、ある特定の時代背景に限定されているわけではありませんから。それは今日、ここにいる私たちの話でもあるのでしょう。

 まさに荒れ野としか言いようのない過去があり、現在も変わらず荒れ野であるときに、人はもはや何も未来に期待することができなくなってしまうのです。もはやそこには待ち望むべき何ものもない。本当は為すべきことがあるのに手は弱り、本当は進まなくてはならないのに膝はよろめく。そのようなことが起こるのです。

 だからこそ預言者は言うのです。「見よ、あなたたちの神を」。そうです、だからこそ目を向けなくてはならない御方がいるのです。その御方は他ならぬあなたたちの神だと預言者は言うのです。「見よ、あなたたちの神を」。それは信仰への招きです。神が来られるのです。私たちの目には永遠に荒れ野としか思えないところに神が入って来られるのです。そして、神が行動を起こされるのです。「敵を打ち、悪に報いる神が来られる」とはそういうことです。

 ここもまた、あえて特定の歴史的状況とは切り離して書かれています。敵が誰であるかは語られていません。「悪」が具体的にどのような悪なのかは語られていません。それは大して重要なことではありませんから。それがいつの時代であれ、どのような状況であれ、苦しめる敵が何であれ、苦しめる悪がなんであれ、大切なことは「神は来て、あなたたちを救われる」という信仰だからです。

そのとき
 「見よ、あなたたちの神を」。神に目を向けるとき、そこには異なる未来が見えてきます。神は預言者を通して「そのとき」について語ってくださるのです。神が来て、救ってくださる「そのとき」について語ってくださるのです。私たちの想像を超えた仕方で神が救ってくださる「そのとき」について語ってくださるのです。

 彼はこう続けます。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる」(5‐7節)。

 神様は預言者を通して、実に様々な表現を用いて、「そのとき」について語られます。それらの表現は全て、神様御自身が、神様にしかできないことを、神様の仕方によって実現することを言っているのです。「神は来て、あなたたちを救われる」とはこういうことなのです。

 しかし、あくまで神様は「そのとき」としか言われません。主は「いつであるか」については語られないのです。明日であるとも十年後であるとも千年後であるとも語られない。あくまでも「そのとき」です。その意味では、「そのとき」というのは「いつか必ず」と言っているのに近いと言えます。あるいは「最終的には」と言い換えることができるかもしれません。その意味では完全に実現するのは終末においてだとも言えます。

 そして、そこに語られているのは、荒れ野に水が湧き出ることだけではありません。荒れ地に川が流れるだけではありません。「そこに大路が敷かれる」(8節)と言うのです。大きな道が通る。それは何のための道でしょうか。10節にこう書かれています。「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(10節)。

 私たちの人生には最後まで嘆きと悲しみは残るのでしょう。この世の歴史には最後まで嘆きと悲しみは残るのでしょう。しかし、「そのとき」が来るのです。主に贖われた者たちが本当の喜びと楽しみによって迎えられる「そのとき」が来るのです。嘆きと悲しみが完全に永遠に逃げ去る「そのとき」が来るのです。

 ヨハネの黙示録は「そのとき」について次のように描いています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネ黙示録21:3‐4)。

 明らかに「そのとき」はまだ来ていません。それは「終わりの日」についての預言です。それはまだ未来に属することです。

 しかし、ある時、イエス様がこんなことを言われました。洗礼者ヨハネが二人の弟子たちをイエス様のもとに遣わして、こう尋ねさせた時のことでした。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」するとイエス様は二人にこう答えられたのです。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(ルカ7:22‐23)。

 「来るべき方は、あなたでしょうか」。そう、来るべき方は、その御方でした。イエス様の到来において、いったい何が起こっていたのか。メシアの到来において人々は何を見たのか。「そのとき」について語る聖書の言葉が、私たちが今日朗読した聖書の言葉が、生きた現実となっているのを見たのです。主は言われました。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き・・・」と。そうです、それは生きた現実となっているのです。

 聖書が語る救いの約束は、私たちにとって待ち望むべき究極の希望です。私たちは「そのとき」を信じて待ち望みます。しかし、同時に、聖書が語る救いの約束を、私たちは生きた現実として味わい始めているのです。そのような信仰の歩みの中において、私たちは今日も再び呼びかけられているのです。「見よ、あなたたちの神を」と。

2025年3月12日水曜日

祈祷会用:ホセア書 9:10~17

 ホセア書 9:10‐17

 今日の聖書箇所は、このような言葉から始まります。「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオルに行った。それを愛するにつれて、ますます恥ずべきものに身をゆだね、忌むべき者となっていった」(10節)。

 神が荒れ野のぶどうであるイスラエルを見出したのであって、イスラエルが神を見出したのではありません。神がイスラエルの先祖を初なりのいちじくのごとくに見られたのであって、その逆ではありません。神と人との関わりについて語るとき、聖書はまず神を求める人の求めや神を見出そうとする人間の努力から語り始めるのではありません。神を見出す者の深い洞察や敬虔さについて語るのではありません。まず先に神の求めがあり、神の愛があり、神の選びがあり、そして神の喜びがあるのです。神とイスラエルの関係は、そのような神の一方的な愛と、愛のみに基づく選びによって成り立ったのです。

 そのような神とイスラエルの関係は、例えば申命記には次のような言葉をもって表現されております。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記7:6‐8)。

 このように、神の愛と選びが語られるということは、人間の側には誇るべき要素が全くないということを意味します。荒れ野のぶどうのような存在であるから、神が見出してくださったのではありません。初なりのいちじくのような愛すべき民であったから、神が目を留めてくださったのではありません。ただ、人知を越えた神の愛のゆえに、奴隷の民、他のいかなる民よりも貧弱な民を、そのように見、そのように喜び、そのように関わってくださったのです。

 このように、神の求め、神の愛、神の選びが先にあるゆえに、そこで初めて、神の愛にいかに応えて生きるのか、という課題が生じます。人間の求めが中心の信仰からは、そのような課題は生じません。人間の求めが中心であるならば、「人間の求めに対して神はいかに応えてくださるか」ということとが一番重要なこととなるからです。聖書に記されている、神とイスラエルとの関係は、本来そのようなものではありませんでした。まず神が愛し、目を留めてくださったのです。その愛に応えて生きるところに、信仰者の生の基盤があったはずなのです。それが神との契約を与えられ、十戒を与えられたことの意味でありました。

 しかし、実際はどうだったでしょうか。荒れ野において遊牧生活をしてきたイスラエルの民が、約束の地に定着し、そこで農耕生活を営むようになりますと、カナンの豊穣神礼拝、バアル礼拝の影響を強烈に受けるようになりました。もはや生活の土台は、彼らに向けられた神の愛と選びではなくなりました。そこでは神が求め、神が愛し、神が選んでくださったということよりも、自分は何を得られるか、ということが重要になりました。豊作そのもの、豊かさと生活の安定こそが最重要関心事となりました。

 実は、そのような人々の誤った方向性は、荒れ野の時代から既に始まっていたのです。「ところが、彼らはバアル・ペオルに行った」と書かれているとおりです。これは民数記25章に記されている出来事です。次のように書かれています。「イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた」(民数記25:1)。

 そのような彼らについて、主は言われるのです。「それを愛するにつれて、ますます恥ずべきものに身をゆだね、忌むべき者となっていった」と。主の恵みによる救いの御業も、愛による選びも、主が示してくださった真実も、すべてどうでもよくなって、ただ今の喜び、今の幸せ、今の欲望の充足を求めている人々の姿。そうして、ますます神の目から見て恥ずべきものに身をゆだねた忌むべき者となって行った彼らの姿。そこにあるのは、初なりのいちじくのように神の喜びであった彼らが、いつのまにか忌むべき者となってしまったことを嘆く、神の嘆きに他なりません。

 そのようなイスラエルの民に対して、主はこう宣言せざるを得ませんでした。「エフライムの栄えは鳥のように飛び去る。もう出産も、妊娠も、受胎もない。たとえ、彼らが子供を育てても、わたしがひとり残らず奪い取る。彼らからわたしが離れ去るなら、なんと災いなことであろうか。緑に囲まれたティルスのように、わたしはエフライムを見なしてきた。しかし、エフライムは自分の子供たちを、餌食として差し出さねばならない。主よ、彼らに与えてください、あなたが与えようとされるものを。彼らに与えてください、子を産めない胎と枯れた乳房を」(11‐14節)。

 ここに多くの言葉を費やして語られていることは、要するにイスラエルには未来がない、ということです。彼らは、約束の地に生き続けることを求めました。確かな生活を求めました。そのために必要な豊かさを求めました。しかし、それらを求めることによって、神との関係がないがしろにされるならば、彼らはかえって自分たちの未来を閉ざすことになるのです。人は、自分の求めるものが得られてこそ未来は開かれるのだと考えます。しかし、それらを得ることが、神の愛を失うことの代償であるならば、未来はかえって閉ざされることになるのです。それゆえに、「彼らからわたしが離れ去るなら、なんと災いなことであろうか」と語られているのです。

 主は言われます。「たとえ、彼らが子供を育てても、わたしがひとり残らず奪い取る」。なんと恐ろしい表現でしょうか。しかし、これは真実です。人は子供たちの将来のために繁栄と平和と幸福を確保しようといたします。しかし、もし神の御心に背いて生きるならば、かえって子供たちの将来を奪うことになるのです。いつでも、犠牲になるのは子供たちです。「エフライムは自分の子供たちを餌食として差し出さねばならない」と書かれているとおりです。

 そのことを考えるならば、初めから子供がいないほうが幸いだとさえ言えるでしょう。預言者ホセアには、どうしてもそう思えてならなかったに違いありません。彼はは具体的には外敵が襲来し、国家が滅亡するであろうことを予見しているのでしょう。次の世代は殺され、あるいは捕囚として生きなくてはならない。彼は、その悲惨さを嘆かざるを得なかったのです。それゆえに、彼はこう祈らざるを得なかったのです。「彼らに与えてください、子を産めない胎と枯れた乳房を」。

 さらに主はホセアを通して語られます。「彼らの悪はすべてギルガルにある。まさにそこで、わたしは彼らを憎む。その悪行のゆえに、彼らをわたしの家から追い出し、わたしは、もはや彼らを愛さない。高官たちは皆わたしに逆らう者だ。エフライムは撃たれた。彼らの根は枯れ、実を結ぶことはない。たとえ子を産んでも、その胎の実、愛する子をわたしは殺す。わが神は彼らを退けられる。神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国にさまよう者となる」(15‐17節)。

 ギルガルとは主要な聖所の一つです。礼拝が行われていた場所です。しかし、そこで行われていたのは、偶像礼拝であり、バアル礼拝に他なりませんでした。神の言葉が軽んじられ、人間の欲望が礼拝の場、聖所さえも支配するとき、もはや人は正しく神を礼拝することができなくなります。そのように、人が正しく神を礼拝できなくなるところにこそ、すべての悪の源があるのだと主は言われるのです。悪はすべてギルガルにこそあるのです。

 そして、そのように正しい礼拝を失い、神との交わりを失い、神の愛を失うならば、それは約束の地に下ろされた根が枯れてしまうようなものです。ホセアの時代のイスラエルは、木に譬えるならばまだ葉は幾分残っている状態であったかもしれません。当面の国家的な危機を乗り越えて、生き残ることはできたかもしれません。しかし、ホセアの目に映っていたのは、既に根の枯れてしまった国だったのです。根が枯れていれば、やがて全体が枯れていくのです。もはや実を結ぶことはありません。

 滅亡は外的な危機によって周囲からもたらされるのではありません。滅亡は神との関係が崩壊するという内的な危機によってもたらされるのです。根が枯れて木は滅びるのです。切り倒されて滅びるのではありません。

 こうして最終的に、彼らは諸国にさまよう者となると預言されております。イスラエルの民は、神の愛に応えて生きるために、約束の地を与えられました。それが彼らの信仰生活であり、神の民としての生活であったはずでした。しかし、彼らが神の愛を忘れ、神の恵みを忘れ、神に従順に生きることを忘れたので、もはや約束の地に生きることができなくなったのです。「わが神は彼らを退けられる。神に聞き従わなかったからだ」とホセアは語るのです。その結果は放浪以外のなにものでもありません。このことを私たちもまた、しっかりと心に留めなくてはなりません。私たちが神の愛に根ざし、神に従順に生きる生活を失えば、この世にさまよう者となってしまうのです。

 「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た」。それがすべての発端でありました。イスラエルの民が根の枯れた枯れ木にならぬことを、神に退けられた放浪者とならぬことを、誰よりも望んでおられたのは神御自身でありました。神が御自分の見出した者、かけがえのない喜びであった者に滅亡を宣告しなくてはならない痛みを、ホセアは誰よりも深く知らされた人であるに違いありません。そのような預言の言葉を私たちは今、耳にしているのです。それは、神の一方的な恵み、キリストの十字架において現された神の愛によって神の教会とされた私たちが、神を離れて根の枯れた木とならぬため、世にさまよう放浪者とならぬために、今私たちに語られている言葉でもあると言えるでしょう。私たちは、この預言の言葉を私たちに対する言葉として重く受けとめねばならないと思うのであります。


2025年3月9日日曜日

「試練のただ中で神の善意を信じること」

2025/3/9 主日礼拝説教

聖書:ヤコブの手紙 1:9-18

 今日の第2朗読はヤコブの手紙1章9節からでした。その直前に書かれていることはすべて「試練」ということに関係しています。2節から8節までは一つのまとまりなのですが、その部分は、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」という言葉から始まっているのです。

 当時のキリスト者にとって、具体的に最も身近な試練と言えば、それは「迫害」であったと言うことができます。しかし、「いろいろな試練」と書かれているところを見ますと、ヤコブが念頭に置いているのは、もっと広い意味での様々な苦難であろうと思われます。

 さて、そのような試練を「喜びと思いなさい」と書かれているわけですが、それは明らかに信仰を前提として勧めです。この世と同じ見方をしている限り、「試練」が「喜び」になるはずはないのですから。「試練」を喜ぶことができるとするならば、そこには神の御心を見出すことができる「知恵」が必要なのです。この世の「知恵」とは異なる「知恵」が必要なのです。

 ですから、その後には、「あなたがたの中で知恵に欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」と勧められているのです。そこで言及されている「知恵」とは、明らかにこの世から来る「知恵」ではなく、神から来る「知恵」の話です。そして、この内容は、直接的には今日お読みした12節へと続くのです。

貧しい者、富める者
 ちなみに、9節以下の部分は、ちょうどその間に挟まれているような形で書かれています。そこには、貧しい兄弟と富んでいる者について書かれているのです。ここを読んでどう思われますか。一見すると、前後とは全く脈絡がないように見えないでしょうか。実際、この部分をスポッと抜いても、話は通じるのです。いったいなぜここで、突然、貧富の話が出てくるのでしょう。

 その一つの理由として考えられることは、現実にこれを読んでいる教会の中に、貧富の問題があったということです。初期の教会を構成していたメンバーの多くは貧しい人々でした。奴隷の身分であった人も少なくありませんでした。しかし、貧しい人たちだけがいたのかと言えば、決してそうではありません。そこにはまた富んでいる人々もいたのです。奴隷とその主人が、主にある兄弟として、一緒の食卓を囲んでいるようなことも起こっていたのです。

 経済的格差による身分の違いというものが厳然として存在していた当時の社会において、奴隷とその主人が一緒に食事をしているというようなことは、常識的には絶対にあり得ないことだったのです。しかし、教会にはそのあり得ないようなことが現実に起こっていた。それ自体が、まさに神の救いの御業の証しでもあったのです。

 しかし、地上にある教会は完全ではありません。それゆえに、そこにまた貧富の問題、差別の問題が生じることもあったのです。そのような事情はパウロの手紙にも見られます。そして、同じように、このヤコブの手紙においても、後に大きな部分を裂いて、その問題が扱われているのです。ここで貧富の話が出てくるのは、後に扱われる問題に、前もって触れておくという意味もあったのでしょう。

 しかし、理由はそれだけではありません。あえて「試練」の話の中に置かれているのは、ここに書かれていることが「試練」に関係しているからです。実際、「試練」というテーマは、貧しい者にも富める者にも関係しているのでしょう。

 貧しい者の苦しみの多くは欠乏から来ます。あるいは「貧しい者」と訳されているこの言葉は、直訳すると「身分が低い者」という言葉ですから、他者から見下されたり、卑しめられたりすることも含まれているのだと思います。しかし、そのような貧しい者に対して、「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と言われているのです。

 ここで「高められること」と訳されていますが、これは必ずしも未来のことを意味する表現ではありません。口語訳ではむしろ「自分が高くされたこと」と訳されています。もっと直訳に近いのは、「自分の高い身分」と訳している新改訳聖書です。「貧しい兄弟は、自分に与えられている高い身分を誇りに思いなさい」と言われているのです。

 ここであえて「貧しい《兄弟》は」と言われているのは、どんなに貧しくても、この世において身分の低い者であっても、あくまでも「兄弟」であることが強調されているということです。つまり神の家族に属しているのです。つまり、互いに兄弟であると同時にキリストの兄弟でもあるのです。神の子とされているのです。

 それは、王の王、主の主である方の家族とされていることを意味します。ある説教者が言っていました。「あなたたちは神の国の王女であり王子なのですよ!」と。まさにその通りなのです。既に、この上なく高貴な者とされているのです。この世における貧しさや身分の低さではなく、神によって与えられているその驚くべき事実に目を向けなくてはならない。そのことを喜び、そのことを誇れ、とヤコブは言っているのです。

 一方、富んでいる者の苦しみは、失うことへの恐れから、あるいは実際に失うことから来るものなのでしょう。事実、当時のキリスト者は、財産を没収されることも少なくなかったのです。キリスト者となったために全財産を失い、名誉も失い、人々から卑しめられるようになることもあったのです。そのようなことは、それまで人々からの誉れを受けてきた人にとっては実に辛いことであったに違いありません。しかし、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」とヤコブは言うのです。なぜか。「富んでいる者は草花のように滅び去るからです」(10節)。

 これは必ずしも富んでいるから裁きを受けるという話ではありません。富は永遠ではなく、永遠に富んでいる者であり続けることはできない、という至極当たり前のことを言っているのです。いわば草花のようなものだと言われれば、それはそうでしょう。草は枯れ、花は散るときが来るのです。そして、富める者も必ず死を迎えます。富は死を免れさせはしません。続くと思っている人生は途中で絶たれるのです。そして当然のことながら、富をその向こうまで持って行くことはできません。全部手放すことになるのです。

 富んでいる者が低くされることを「誇る」とするならば、富が永遠ではなく草花のようなものだということを、身をもって知ることになるからでしょう。そして、もっと大きな価値、天の富に目を向ける者となれるからなのです。

神の善意を信じる
 さて、そのように貧しい者、富んでいる者の話を経て、12節において再び「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という話に戻ります。なぜ幸いなのか。4節においては、その理由として、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と語られていました。そして、ここでは同じことが、次のように表現されています。「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と。

 「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と書かれていました。そのように「なりなさい」と言われているわけではありません。それは人間の努力目標ではありません。救いを完成し、私たちを完全な者としてくださるのは神様です。人間にできることは、ただ忍耐することだけです。だから、「あくまでも忍耐しなさい」(4節)とだけ、語られているのです。

 そして、今日の箇所においても「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と語られているのです。4節の「忍耐」という言葉も、12節の「耐え忍ぶ」という言葉も、元々は「留まる」という言葉に由来します。信仰に留まることです。言い換えるなら、試練において、どこまでも神に信頼し続けることです。

 それゆえに、「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはならない」(13節)とヤコブは続けるのです。簡単に言えば、「神様が悪い」と言ってはいけない、ということです。苦しい時、辛い時、どうしても言いたくなるかもしれません。「私が神様を離れて罪を犯したとしても、それは神様が悪いんだからね」、と。苦しみが誘惑として働くとき、そう言って自分が罪を犯すことを正当化したくなるかもしれません。しかし、それは「神が罪へと誘惑したんだ」と言っているのと同じなのです。

 しかし、ヤコブはそうではないと言うのです。そこで罪へと引っ張って行くのは、神ではなく自分の欲望だと。それはそうなのです。同じ苦しみが「誘惑」にもなるし、忍耐から練達を生じさせる「試練」ともなる。神の意図は私たちを滅ぼすことではありません。私たちはそこで、忍耐強く信仰に留まることが求められているのです。

 そこで大切なことは、神の善意を信じることです。「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」とヤコブは言います。そして、こう続けるのです。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(17節)。

 御父は、良い贈り物をくださる御方です。良いだけでなく、「完全な賜物」と書かれています。御父がくださる賜物は完全です。神様は不完全なものを私たちにくださることは決してありません。この地上の父親は子どもに与えるものについて失敗することはありますが、天の御父が私たちにくださるものに、失敗はありません。

 そして、その御父は決して変わることはありません。イエス様を通して示された神の愛は、今日においても決して変わらないのです。天体には移り変わりがあります。変化があります。影があれば光が当たる部分もあり、それは刻一刻と変わります。しかし、御父は違います。神の善意は変わりません。その善意に満ちた御心によって、御父は真理の言葉を私たちに与え、新しく生まれさせてくださいました。私たちを神の国の初穂としてくださいました。私たちがキリスト者であるとはそういうことです。

 この賜物こそまさに完璧な賜物です。私たちには、既に全き救いが与えられているのです。私たちは既に与えられているものが完全に現れるのを待っているのです。忍耐強く信仰に留まりましょう。

2025年3月5日水曜日

灰の水曜日礼拝説教 ヨエル書 2:12~18

灰の水曜日礼拝 ヨエル書 2:12‐18
 
 預言者ヨエルが活動したのは紀元前5世紀ごろであったと言われます。それは、一度滅亡したユダの王国が、再び帰還民によって建て直され、神殿も再建され、城壁も再び築かれた後の時代です。ですので、国の滅亡を預言したアモスやイザヤなど、他の預言書とは随分趣きが違います。しかし、どのような預言者の書であれ、その背景となっているのは常に危機的状況です。ヨエル書の場合、それは「いなごの大群の襲来による大災害」でした。

 そのような災害は今日においても見られます。それは食糧にかかわることですから、まさに直接命にかかわる災害です。イスラエルの民は、その歴史において、いなごの災害を幾度となく経験してきたに違いありません。しかし、ヨエルの時代の災害は、まさに前代未聞の規模において起こったのです。

 「かみ食らういなごの残したものを移住するいなごが食らい、移住するいなごの残したものを、若いいなごが食らい、若いいなごの残したものを、食い荒らすいなごが食った」(1:4)。そのようにヨエルは語ります。彼らはそのように徹底的な打撃をこうむったのでした。ヨエルはそのようないなごの大群を、一国の軍隊にたとえます。たとえば1章6節には次のような表現が出てきます。「一つの民がわたしの国に攻め上って来た。強大で数知れない民が。」そして、イナゴはついに、神殿に捧げ物をするものさえ食い尽くしてしまったことが書かれています。

 これは天災です。不可抗力です。他国との争いであるならば、外交的な努力も為し得ましょう。しかし、いなごに対しては為すすべもありません。まったくの不可抗力によって、今までの労苦がまったく無駄になってしまいました。いや、苦労が水の泡になったというだけではすみません。自分や家族の存続さえ危ぶまれる状況に置かれているのです。昨日までの喜びがまったく絶たれ、絶望のどん底につきおとされてしまいました。

 考えてみますならば、人間はありとあらゆる不可抗力のもとにあります。どうにもならないことがたくさんあるのです。しかし、普段はそうは思っていません。人間は思った通りに生きられる、願った通りに進んでいけると思っているものです。しかし、しばしばそうならない現実につきあたります。そこでいったい人はどうしたらよいのでしょうか。

 驚いたことに、ヨエル書はそこで、「泣き悲しめ」と言うのです。1章8節。「泣き悲しめ、いいなずけに死なれて、粗布をまというおとめのように」。そこには安易な励ましや気休めの言葉は語られません。「泣き悲しめ」と。しかし、泣き悲しむことには二通りあります。死に至る悲しみと、命に至る悲しみです。

 死に至る悲しみとは、「災いを」悲しむ悲しみです。自分の失ったものを数えながら嘆く悲しみです。このような悲しみには救いがありません。これは死に至る悲しみです。しかし、そうでない嘆きと悲しみがあります。「災いを」悲しむのではなくて、そこにおいて「自分自身の罪を」悲しむ悲しみです。自分の神に対する在り方が根本的に間違っていたことを、人生の方向が間違っていたことを悲しむ悲しみです。この悲しみには希望があります。この悲しみは命に向かう悲しみです。なぜなら、失ったものは返らないかも知れませんが、人生の方向は変り得るからであります。

 ヨエルはその災害による危機に直面する民の中にあって、自分たちと神との関係がいかに破れているかを思ったのでした。この民がいかに神から遠く離れていたかを思ったのです。確かにエルサレムの都は再建されたかも知れません。神殿の再建されたかも知れません。城壁も立派に築き上げられました。彼らは、大きなことをしてきたかも知れません。しかし、現実においては、神から遠く離れていた。その心は神から遠く離れていたのです。

 ヨエルは、神の前に立ち得ない自分たちの姿を考えていました。それまでは、神のために何がしかのことを成し遂げてきたかのように思っていたかも知れません。しかし、神の真実なる光のもとにあるならば、何と人の営みとは罪深いものでしょう。いなごの害は、神の最終的な裁きではありません。しかし、それは神の最終的な裁きを指し示し、神の最終的な裁きについて考えさせる、そのような出来事でありました。

 ですから、ヨエルは「主の日」について語るのです。1章15節。「ああ、恐るべき日よ、主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る」と語るのです。「主の日」とは神が正しく世を裁かれるその日です。ヨエルは、神が正しく裁かれるならば、それは破滅でしかないことを悟るのです。人はとても神の前に立ち得ないことを悟るのです。

 人はしばしばこの世界に起る出来事によってへりくだらされます。その時、神の前にへりくだらされる人は幸いです。それは幻想に生きていた者が、真実に目が開かれる時だからです。自分が他者に対しても、神に対してさえも、誇り得るなにものかがあるような幻想に人は捕らえられているものです。

 人間はそのままで、土足の足で、泥だらけの手で、罪の垢とちりにまみれたままで、平気で神の前に行けるかのように思っているものです。そのままで何かを願って、かなえられて当然であるかのように思っているものです。人間によくしてくれてこそ神ではないか、とさえ考えている人もいるかもしれません。しかし、幻想はあくまでも幻想です。真実を知らねばなりません。

 神を真実に神として認識しはじめる時、自分がいかに不遜であったかに気づかされます。人間は皆不遜なものです。その契機となったのが、彼らにとってはいなごの大群の襲来でありました。

 しかし、先にも申しましたように、罪を悲しむ悲しみには希望があります。自分の破れを見せられる真実なる光に照らされて、おのれを悲しむ悲しみには希望があるのです。なぜなら、そこでまったく逆説的なことが起るからです。人間が神の前に立ち得ないものであることが明らかにされた時、まさにそこにおいて、《神の側から》呼び掛けがなされるのです。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」と。それが今日、与えられている御言葉です。主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで」。

 これは神に帰ろうと思えば帰れる人間だから、「わたしに立ち帰れ」と言われているのではないのです。神に顔向けできない、神に帰り得ない人間であるからこそ、神の側から、「わたしに立ち帰れ」と語られているのです。

 ですから、その根拠は人間の正しさや功績ではありません。13節に記されているように、それは主が「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富んで」おられるからです。しかし、「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富んでいる」ということは、神が自ら苦しみを背負うことでもあります。忍耐強く、慈しみ深くあるということは、そういうことでしょう。実際、私たちを考えれば分かります。私たちが憐れみ深く、忍耐強くあろうとすれば、そこには必ず苦しみが伴います。ですから、実際、本当に身近な小さなことでさえ、憐れみ深く、忍耐強くあることができないではありませんか。そのように、神が恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富むということは、神が苦しむということなのです。そこには、神の犠牲があります。

 神の前に立ち得ない者に、神が語りかけられる。その逆説は、すべてこの神の苦しみと犠牲に基づいております。神は常にそこから語りかけられる。そこから語り続けておられるのです。

 私たちはそこで改めてキリストの苦しみについて考えさせられます。神はキリストを私たちに遣わされました。それは、憐れみ深く、忍耐強い神の、最終的な語りかけでありました。神は苦しみを背負いつつ、語られたのです。ですから、それは必然的に、キリストの受難という形にならざるを得ませんでした。それが、神のもとに帰り得ないものを、神のもとに帰らせるということだったのです。それが、罪人に対して「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」と呼びかけるということだったのです。

 受難節に入りました。この期間は、キリストの御苦しみを覚える時です。しかし、私たちはセンチメンタルに、その苦しみを忍んで「イエスさま、かわいそう」と考えるような期間ではありません。そうではなくて、私たちはキリストの苦しみの中に、神の呼び掛けをきかなくてはならないのです。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」という呼び掛けを聞くべき時なのです。

 それは不遜で傲慢な自己と向かい合って、私たちが心を引き裂くべき時です。「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」と言われているのです。衣を裂くようなことは、誰だってするのです。形だけの嘆き、形式だけの罪の悔い改め。しかし、心は他者に対しても、神に対しても、不遜で傲慢なままであるということはいくらでもあるのです。だから、「衣はそのままでいいから、心を引き裂け」と言うのです。それが神ご自身の指定された、神への帰り方です。

 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」と。


2025年3月2日日曜日

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」 

2025年3月2日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 14:22‐33

 今日はマタイによる福音書14章22節からお読みしました。この直前には、五つのパンと二匹の魚を五千人以上の人々に分け与えたという奇跡物語が記されています。そこにはパンを裂いて弟子たちにお渡しになるイエス様、そのパンを運ぶ弟子たち、パンを受け取る人々の姿が描かれています。

 弟子たちは、イエス様から受けたものを人々のもとに運び、彼らと分かち合ったのです。そこには大きな喜びがありました。これは教会の一つの姿です。イエス様は十字架にかかられて、パンのみならず、御自分のすべてを私たちに与えてくださいました。私たちは、その十字架において与えられた恵みを共に分かち合って喜びます。そのようにして、教会は御国の祝宴の前味を味わうのです。これが教会の一つの姿です。

 しかし、これがすべてではありません。この世に存在する教会には、もう一つの姿があります。そのことを今日の聖書箇所ははっきりと示しています。弟子たちは共に食事をする喜びの中に留まることを許されませんでした。弟子たちはイエス様の指示に従って、向こう岸へと向かう一つの舟の中にいます。そして、その舟は嵐に遭うのです。彼らは逆風に悩まされて苦しむことになります。これが教会のもう一つの姿です。

わたしだ。恐れるな

 弟子たちを強いて舟に乗せたのはイエス様でした。彼らは、主の言葉に従って漕ぎ出したのです。しかし、主の言葉に従った彼らを待ち受けていたのは、嵐でした。風と波に翻弄されて、思うように前に進むことができません。しかも、悪いことに、頼りのイエス様は、目に見える姿において、その舟の中におられないのです。

 イエス様の不在。それゆえの不安と恐れ。あの舟の上にいた弟子たちの経験は、その後の時代における、教会の経験でもありました。キリストは十字架にかかられた後、復活して弟子たちに現れましたが、復活のキリストの現れは、その後ずっと続いたわけではありません。聖書は、その期間が四十日であったと伝えています。そして、その期間の終わりを、「キリストの昇天」として書き記しているのです。

 その後二千年にわたる長い教会の歴史において、キリストは目に見える姿で教会と共におられたわけではありません。教会が迫害の嵐の中にあった時、キリストは目に見える姿では、教会におられませんでした。教会が異端の教えによって内部からかき乱されている時、キリストは目に見える姿において、共にいることはありませんでした。多くの人が幾たび思ったことでしょう。ああ、イエス様が見える姿で共にいてくださったら良いのに、と。

 しかし、物語は次のように続くのです。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(25‐27節)。

 「湖の上を歩いて」という表現は実に印象的です。「そんなことあり得ない」と誰もが思いますでしょう。そうです、その通りです。ここで第一に重要なことは、まさに「そんなことあり得ない」という仕方でキリストが近づいて来られた、ということなのです。つまり、キリストが教会に近づいて来られ、キリスト者と共にいてくださり、語りかけてくださるのは、まさに人間の思いを越えた現実であり、聖霊による奇跡なのだ、ということです。そして、それこそが、主日礼拝において、また日々の生活において、代々の教会が経験してきたことなのです。キリスト者が経験してきたことなのです。もちろん、ここにいる私たちに与えられている恵みでもあるのです。イエス様は私たちの思いを超えた仕方で近づいて来られ、共にいてくださいます。

 そして、もう一つ重要なことがあります。キリストが特に「湖の上を」歩いて来られた、ということです。「湖」と訳されていますが、これは「海」という言葉です。そして、「海」というのは、古代の人々にとって、人間の手に負えない悪魔的な力を象徴していたのです。まさに、舟はそのような力によって翻弄され、滅びに瀕しているのです。しかし、キリストはその恐るべき悪魔的な力を踏みつけて近づいて来られたのです。

 そして、そのようなキリストであるからこそ、彼らにこう語られたのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と。これは単に、「幽霊ではないよ、わたしだよ。怖がらなくていいよ」という意味ではありません。「わたしだ」という言葉は、「わたしはある」とも訳せる言葉です。

 「わたしはある」という言葉で思い起こしますのは、かつてモーセに神が現れた時に語られた言葉でしょう。それは旧約聖書に記されている神の名前なのです。出エジプト記に次のように記されています。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」(出エジプト3:14)。

 この「わたしはある。わたしはある者だ」という神の御名を、ある旧約学者は「わたしがいるのだ。確かにいるのだ」と訳していました。ここでも、荒れ狂う海をその足の下に踏みつけて来られたキリストが、その言葉をもって弟子たちに向かって語られるのです。「安心しなさい。わたしがいるのだ。確かにいるのだ。恐れることはない」と。そして、同じ言葉を、代々の教会もまた聞き続けてきたのです。

主よ、お救いください
 そして、物語はさらに、舟の中にいた一人の人物にスポットライトを当てます。ペトロです。そこに見るのは、教会という舟の中にいる一人の人間である私やあなたの姿です。

 この場面では、イエス様だけでなく、ペトロもまた水の上を歩いています。彼もまた、イエス様と共に嵐の海を足の下に踏みつけて歩くのです。彼はもはや悪魔的な力に支配されてはいません。イエス様と共に支配する者として立っているのです。それは彼の勇敢さによるのではありません。ここで特にペトロがイエス様の「御言葉」を求めていることは重要です。イエス様の「来なさい」という御言葉によって、彼は歩き出すのです。力を持っているのはペトロ自身ではありません。主の御言葉なのです。

 しかし、この物語が強調しているのは、ペトロが水の上を歩くことができた、ということではなさそうです。物語は次のように続くのです。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」(30‐33節)。

 このように、どちらかと言えば、強調点はペトロが水の上を歩いたことよりも、むしろペトロが沈んだところにありそうです。ペトロは強い風に気づきました。恐怖が彼を襲います。その時、彼は水に沈み始めたのでした。水の上を歩いたペトロの姿を読んだ時には、聖書が身近に感じられなかった人でありましても、ペトロが沈んだところにおいては、一気に聖書が身近になったことでしょう。

 さて、その私たちに身近なペトロは、いったいどうしたでしょう。彼は叫んだのです。「主よ、助けてください」と。そして、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ…」と記されているのです。ペトロがイエス様の腕にしがみついたのではありません。イエス様がペトロを捕まえたのです。海に沈ませまいとして、しっかりと捕まえてくださったのです。人は沈みます。しかし、イエス様は沈みません。そして、決定的に重要なことは、ここでペトロが沈みはじめたということではなくて、沈まないイエス様がしっかりと捕まえていてくださる、ということなのです。

 そして、他ならぬこの「捕まえていてくださるイエス様」が、こう言われたのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。ブクブクと水に沈み行くペトロを見つめながら、「お前は信仰が薄いから、沈んでいくのだ。さらば、ペトロよ」と言ったのではないのです。

 「なぜ疑ったのか」――、主は「疑い」という言葉を使われました。これは元々心が二つの方向に分裂することを意味する言葉です。ペトロの心は、あの時、あの瞬間、確かに二つに分裂していました。一方において心はイエス様とその御言葉に向き、もう一方において、心は強い風と波立つ海に向いていました。確かにイエス様の言われるとおりです。

 しかし、ペトロが沈みはじめた時にはどうだったでしょう。「主よ、助けてください」と叫んだ時はどうだったでしょう。波風などにかまってなどいられません。一心にイエス様に向かって手を伸ばして叫んだに違いないのです。そこでは二つに分裂していた心が、再び一つになっていたはずです。そうです、それでよいのです。

 「主よ、助けてください。」――これは文字通りに訳せば、「主よ、お救いください」という言葉です。これは昔から教会が、共にささげる礼拝において、幾度となく繰り返してきた祈りの言葉です。この場面の描写には、明らかにその後の時代の信仰生活が重ね合わされています。ですから、「『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」という言葉が出てくるのです。これはイエスを神の子と言い表す信仰の告白です。

 ですから、私たちにとっても、本当に大事なことは、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉をもって、自らを責めることではないのです。「私は信仰が足りないのだ。疑ってしまうからだめなのだ」と、自らを叱咤激励することではないのです。そうではなくて、代々の信仰者がしてきたように、そのままでは沈んでしまう自分であることを認めて、「主よ、お救いください」と祈ることなのです。ひたすら祈ることなのです。

 決定的な意味を持っているのは、私たちが疑いのない揺るぎない信仰を持っているか否かではありません。そうではなくて、海を足の下に踏みつけて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださる御方がおられる、ということなのです。そして、決して沈まない方が、「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださることなのです。それでよいのです。私たちが沈むことはあっても、主が沈むことはないからです。

以前の記事