レビ記 25:1‐17
25章には安息の年とヨベルの年に関する規定が記されています。その前半部分を群読しました。今日、私たちは、これらを命じられた主の意図がどこにあり、それが私たちにとって何を意味するのかを、御一緒に考えたいと思います。
「安息の年」という言葉は、私たちに耳慣れない言葉であるかもしれませんが、これが私たちの良く聞く「安息日」と関連があることは明らかです。そこでまず「安息日」についていかなることが語られていたかを思い起こしてみることにしましょう。「安息日」については、十戒の中に次のように定められていました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出20:8‐10)。
「安息日」という言葉は、「中止する」という言葉に由来します。考えてみれば、まことに不思議な命令です。「怠けずに働き続けろ」と命じるのではなくて、「働くことを中止せよ。休め。働いてはならない」と主は命じられるのです。聖書の神は、自ら休み、私たちに休むことを命じられる神なのです。
神が休みを命じられるのは、ただ私たち自身の休息のためだけではありません。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(同10節後半)と書かれています。これは何を意味するのでしょう。申命記のほうでは、その意図がより明確に記されています。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:14)。つまり、この命令は、周りの人々をも解放し、休ませるためでもあるのです。休まない人がいると、周りの人々は休めないのです。特に奴隷など、弱い立場の人は休めません。だから、神はあえて他者を解放して「休ませる」ためにもあなたが「休みなさい」と命じられるのです。
このように見てきますと、本日の箇所に記されています「安息の年」に関する律法は、「安息日」の律法の意図を、さらに拡張したものであることが分かります。解放して休ませるべきであるのは、奴隷や家畜までに留まりません。土地もまた休ませなくてはならないと言うのです。「七年目には全き安息を土地に与えねばならない」(4節)と主は言われるのです。そのためには、七年に一度、人間が休まなければなりません。種を蒔くことを休み、耕すことを休み、ぶどう畑の手入れを休むのです。
では、その間に自然に生えたものはどうするのか。「休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない」(5節)と書かれています。これは食べてはいけない、という意味ではありません。土地の持ち主が「この土地は私のものだから、そこに生じたものも私のものだ!」と主張して自分たちだけのためにそれらを集めてはならないということです。
食べることはかまわないのです。ただし皆で仲良く分け合って食べなくてはならない。「安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」(6‐7節)とはそういうことです。このように、「これは私のものだ!」という人間の所有者意識から解放されてこそ、初めて土地は完全に安息できるのです。これが安息の年に関する律法です。
そして、このことをさらに徹底したのが「ヨベルの年」に関する律法です。安息の年が七回繰り返され49年を経たその翌年、50年目には、さらに徹底した解放と安息の年である「ヨベルの年」がおとずれるのです。ヨベルとは雄羊の角のことです。「その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(9‐10節)。
このヨベルの年には、通常の安息の年のように、土地に安息が与えられるだけではありません。土地はすべてもとの所有者に戻されるのです。貧しさのゆえに先祖から受け継いだ土地を手放さざるを得なかった人は、その土地を離れなくてはなりません。土地を失った家族は生きるための糧を得なくてはなりませんから、必ずしも先祖伝来の土地で生活していたように、家族一緒に生活できるとは限りません。しかし、ヨベルの年には、その土地の返却を受け、離れて生活していた人も家族のもとに帰ることができるのです。
これらのことに伴い、すべての負債が免除され、貧しさのゆえに身売りした人も解放されます。このようにして、土地だけでなく、人間もまた解放されるのです。それはただ債務を負っていた者だけが解放されるという意味ではありません。そこには債権者の解放もあります。そこには、あらゆる所有欲からの解放もまた起こるのです。
このようにして、社会の中に生じた貧富の格差が五十年に一度是正されることになります。はたして、実際にこのようなことがイスラエルにおいて行われたのでしょうか。そのことに関する学者の見解は否定的です。しかし、少なくとも、神が求めておられることを理解することは重要です。神が求めておられるのは、土地が完全に原状に戻され、完全な安息を与えられることです。そして、その土地の上で、人間もまた解放され完全な安息を得ることです。そのようにして新たに皆が共に生きられるようになることなのです。それがヨベルの年に関する律法です。
さて、私たちはここで、安息の年とヨベルの年に関する律法の根底にある信仰そのものに目を向けることにいたしましょう。安息の年やヨベルの年の律法について考えます時、当然のことながら次のような問いが生じてくるに違いありません。「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか」(20節)。そうです、この世の声は言うのです。「神の言葉に従うなんてことを言っていて、現実生活が成り立つものか。そんなことを言って、食べていけるものか」と。
しかし、神の言葉は私たちにこう語ります。「わたしがあなたがたを養い生かすのだ」と。次のように書かれております。「わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる」(21‐22節)。七年目には種を蒔きません。八年目に種を蒔いたとしても、すぐに収穫できるわけではありません。しかし、それに先立つ六年目に、二年分余計に収穫を与えると主は言われるのです。人に命じる神は、備えてくださる神でもあるのです。信頼し従うことを求める神は、信頼する者を支えてくださる神でもあるのです。
そして、さらに収穫を生じさせる土地そのものが主のものなのだ、と語られております。「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない」(23節)。レビ記の言葉が語られている場面は、まだ約束の地に入る前です。イスラエルの民は荒れ野にいるのです。ならば、与えられると約束されている土地が、本質的には彼ら自身に属してはいない、ということは良く分かるはずです。それは主のものなのであり、彼らはその土地の上に寄留させていただき、土地を利用させていただく者に過ぎないのです。
大事なことは、実際に約束の地に入っても、そのことを忘れないということです。そのためにも、この安息の年とヨベルの年の律法は大きな意味を持っているのです。なぜなら、安息の年にしても、ヨベルの年にしても、そこで命じられていることは、何ら特別なことではなく、結局は《主のものを主のものとして生きる》ということに尽きるからです。
さて、このように約束の地の上に寄留し滞在する者とされたイスラエルの民は、この世界の中に生かされている人類全体の縮図であると言えるでしょう。この世界は神の創造された世界です。神の創造ということを考えない人でありましても、少なくともこの世界が本質的に人間に属するものではないことは認めざるを得ないでしょう。これは人間が造った世界ではないからです。私たちは、そこに滞在することを許されている寄留者に過ぎません。神は恵み深く、私たちをこの世界に住まわせ、そして私たちを養い、生かしてくださっています。この世界を我がもののようにして生きているところに、私たち人間の罪があります。本当の解放と安息は、この世界を主のものとして生きるところにこそあるのです。
といころでイエス様は、ナザレの会堂において預言者イザヤの書を朗読されました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。主の恵みの年とは「ヨベルの年」のことです。そして、イエス様はこの朗読の後に、こう宣言されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)。このように、まことにイエス様は、私たちを救い、本当の解放と安息を与えるためにおいでくださったのです。
2024年11月27日水曜日
祈祷会用:レビ記 25:1~17
2024年11月24日日曜日
「世の終わりまで、いつも主は共に」
2024年11月24日 主日礼拝説教【宣教150周年感謝礼拝】
聖書:マタイによる福音書 28:16-20
行きなさい
今日は、この教会の宣教開始から150周年の節目において、皆で主に感謝の礼拝をささげるために集まっております。その150年の半分近くをこの教会で過ごし、主の御業を見てこられた小山田小八郎兄に証しをしていただきました。もちろん、証しで語られたのは、主の御業のごくごく一部に過ぎません。イエス様がこれまでに、この教会を通して成してこられた救いの御業は、私たちには計り知ることができません。私たちはただ、主を礼拝し、感謝をささげるばかりです。
そのような礼拝において、私たちは主の御言葉に耳を傾けたいと思います。今日の福音書朗読において、主は私たちに「行きなさい」と語っておられます。今日読まれましたのは、マタイによる福音書28章、大宣教命令と呼ばれる聖書箇所です。宣教開始から150年。もちろん、ここが終着点ではありません。主は私たちに「行きなさい」と語られ、新たな教会の歴史の中へと送り出されるのです。
「行きなさい」。その言葉を最初に聞いたのは、ペトロを初めとする最初の弟子たちでした。「行きなさい」。それは何のためでしょう。主は言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。
「すべての民」というこの「民」は複数で書かれています。他の箇所ではほとんどの場合「異邦人」と訳されています。「すべての民」というのは、「ユダヤ人」という枠を越えた、全世界のあらゆる国々の人々という意味合いです。キリストの最初の弟子たちは皆ユダヤ人でした。しかし、イエス様は初めから、ユダヤ人社会の中に彼らを留め置くつもりはありませんでした。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って、全世界に向けて送り出されたのです。
そのように全世界に向けて送り出されているのが教会です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。代々の教会はこの言葉を文字通りに受けとめてきました。だから遠いカナダからこの日本にまで宣教師が送られてきたのです。だからこそ、この教会も存在するのです。だからこそ、ここに私たちがいて、同じ御言葉を聞いているのです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。
洗礼をさずけよ
その具体的な内容が二つ書かれています。「洗礼を授けること」と「教えること」です。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主は言われるのです。
イエス様は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われました。洗礼とは何でしょう。「洗礼」について、パウロが次のように語っています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。
「洗礼によってキリストと共に葬られ」と書かれていました。「葬られる」――誰によって葬られるのでしょうか。神様によってです。神様が私たちを葬ってくださる。言い換えるならば、神様が、私たちを死んだ者として見なしてくださるのです。そのように、一度葬られるのは何のためか。「新しい命に生きるため」、と聖書は教えているのです。一度死ぬのは新しく生きるためです。その意味において洗礼は古い自分の葬りであると同時に、新しい自分の誕生でもあるのです。
この世において新しい命が生まれたなら、その子がこの世に生きていくことができるように生活の仕方を教えられることでしょう。同じように、洗礼によって新しく生まれた人もまた、新しい生活の仕方を学んでいくのです。キリストの弟子として生きる新しい生活の仕方がしっかりと伝えられていかなくてはなりません。主はそのことを弟子たちに託されたのです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。そのようにして、イエス様が最初の弟子たちに教えたことが今日の私たちにまで伝えられているのです。私たちがしっかりと受け取り、それを手渡していくためです。
世の終わりまでいつも共にいる
さて、そのように主は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って教会を全世界に送り出されました。「行く」ことも、「洗礼を授ける」ことも「教える」ことも、すべて人間が行うことです。しかし、イエス様は「頑張ってあなたがたの力でこれを成し遂げなさい」とは言われないのです。この命令は「だから」という言葉から始まるのです。この命令には前提があるのです。
その前には何が言われていますか。18節において主はこう言っておられます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。これが大前提です。そして、最後はこう締めくくられているのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。天と地の一切の権能を授かっている御方が、世の終わりまで、いつも共にいてくださる。このことなくして、主の命令はナンセンスです。このことなくして、今日に至るまで教会が存続することはあり得なかったのです。
あの最初の弟子たちのことを考えてみてください。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)と書かれていました。なぜガリラヤに行ったのか。イエス様が「行きなさい」と言われたからです。イエス様が復活された時、婦人たちに現れてこう言われたのでした。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。
そのようにイエス様は「ガリラヤへ行け」と言われた。その時にイエス様はあの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれたのです。イエス様が捕らえられた時、見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのことです。その中には、あからさまに三度もイエスを知らないと言ったペトロもいるのです。そのような弟子たちへの言葉です。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。
本当ならば、イエス様に会わせる顔もない、そんな弟子たちだったはずです。しかし、イエス様はそんな彼らを「わたしの兄弟たち」と呼んでくださり、そんな彼らをガリラヤで待っていてくださると言ったのです。「そこでわたしに会うことになる」と。
だから彼らはガリラヤへ行ったのです。イエス様が指示しておられた山に登ったのです。イエス様が招いてくださったからです。こんな者をイエス様が招いていてくださったから。こんな者でもなおイエス様が許して、兄弟として迎えてくださるから。だからその山に登ったのです。
イエス様が指示しておられた山に着くと、そこには確かにイエス様がおられて彼らを待っていてくださいました。「そして、イエスに会い、ひれ伏した」(17節)と書かれています。それは「礼拝した」という意味の言葉です。その山はイエス様に招かれた者の礼拝の場となりました。皆さん、弟子たちが招かれたあの山に当たるのが、今、私たちが身を置いている礼拝堂なのです。招かれた者の礼拝の場所です。
その礼拝の場において主は言われたのです。恵みによって集められた彼らに言われたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。ただ御前にひれ伏すことしかできない弟子たちに、主はこのとてつもない命令を与えたのです。本来ならば、どう考えてもできっこない、担い得るはずがないのです。どだい彼らには無理な話だったのです。しかし、そこで主は言われたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。そして、言われたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。
心を合わせて熱心に祈っていた
それから2000年近くの月日が経ちました。彼らがいたところから約8500キロ離れたところにいる私たちが、同じように礼拝の場に集まり、キリストを礼拝しているという事実がここにあります。これはただ人の力によって実現したことではありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主はその言葉どおりになさったということです。
実際、あの弟子たちは、ただ人間の力や人間の持っているものによってこれを実現しようとはしなかったのです。今日の第二朗読は、教会の宣教の歴史がまさに始まろうとしている、その直前の彼らの姿を私たちに伝えているのですが、そこにはこう書かれていました。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:13‐14)。
「天と地の一切の権能を授かっている」その御方の権能が地上に現されることを彼らは祈り求めたのです。心を合わせて熱心に祈っていた。そこに天から聖霊が降ったのでした。教会の宣教の歴史はそのように開始したのです。
そして、今も継続していることを私たち確かに目にしています。それはイエス様が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われた、その事実を目にしているということです。主は確かに私たちと共にいてくださいます。その主は「世の終わりまで」と言われました。私たちは終着点ではありません。教会の歴史は世の終わりまで続きます。150周年の節目は、新たな出発でもあります。主と共に、ここから新たに歩み始めましょう。
2024年11月20日水曜日
祈祷会用:レビ記 19:1~18
レビ記 19:1‐18
前回は16章を読みました。そこには贖罪日(ヨーム・キップール)に関する規定が書かれていました。それに続く17章から26章のまとまりは「神聖法集」と呼ばれます。この部分については19章と25章を取り上げることにします。今日は19章です。
今日は特にその前半部分をお読みしたわけですが、3節以下は二つに区分することができます。まず3節から8節までは、大まかに言いまして、十戒の前半部分に対応しています。申命記の言葉を借りるならば、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉でまとめることができるでしょう。
ここで、興味深いのは、最初に「父と母を敬いなさい」という言葉が置かれていることです。主を愛し、主を畏れる生活が形作られることにおいて、親の存在は極めて大きな意味を持っているということであろうと思います。そして、さらに言いますならば、主を愛して生活するということは、単に心情的なことではなくて、具体的に神を礼拝して生きることを意味するのです。ですから、ここでも礼拝に関することが語られております。「わたしの安息日を守りなさい」、「偶像を仰いではならない」、「和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげなさい」というようにです。
この「和解の献げ物」については、より多くの言葉が費やされております。これがレビ記の特徴でもあります。既に見てきましたように、レビ記にはまず犠牲の献げ方が延々と述べられています。このような記述が後々にまで伝えられたことには大きな意味があります。このような犠牲の献げ方を書き記し、それを伝えた人々には明確な一つの意識があったことが明らかだからです。それは《犠牲をささげるときは、それが受け入れられるようにささげなくてはならない》という意識です。言い換えるならば、《犠牲にはふさわしい献げ方があるのであり、神を礼拝するには、ふさわしい礼拝の仕方があるのだ》ということです。
神を愛し、神を礼拝しようとするならば、私たちがしたいように礼拝するのではなくて、神の望まれる礼拝をささげることが大事なのです。それは私たちがどのように神を礼拝するかということについて、神は決して無関心ではないからです。レビ記の記述は、そのことをはっきりと示しているのです。
そして、9節から18節は主に十戒の後半部分に対応しています。この部分は、18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉でまとめることができます。ご存じのように、主イエスは先の申命記の言葉とこの言葉をもって律法の全体をまとめられました。
レビ記には先に申しましたように、祭儀の規定が詳細に記されております。しかしもう一方で、ここに見ますように日常生活のあらゆる領域に渡る神の命令が記されているのです。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(9‐10節)ということまで書かれております。
このように、神はただ礼拝の場にいる私たちの姿にのみ関心を持っておられる御方ではありません。私たちの日々の生活を御覧になっておられるのです。特に、私たちが他者とどのように関わって生きているかということに大きな関心を抱いて御覧になっておられるのです。神にとって重要なのはただ日曜日の私たちの姿ではありません。月曜日から土曜日も同じように重要なのです。
それはある意味で当然のことです。なぜなら、神の求めは、2節に記されているように、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(2節)ということだからです。
「聖なる」という言葉は、本来、神にのみ用いることのできる言葉です。神のみが聖なる御方です。「聖なる」は本来、人間の特質を描写する言葉ではありません。どんなに清く正しい人であっても、そのことによって「聖なる者」になるわけではありません。物や人間が「聖なるもの」となるのは、《聖なる神のものとなることによって》なのです。祭儀のための聖具は、神のために聖別されて、神のものとなって、聖具となります。神のものでなければ、どんなに立派な器であっても、聖具とはなりません。人間も同じです。聖なる神のものとなって「聖なる者」となるのです。
ですから、ここで語られている「あなたたちは聖なる者となりなさい」という言葉は、取りも直さず、「神の民として生きなさい。完全に神のものとして生きなさい」ということに他なりません。そして、神のものとして生きるということは、ただ神を礼拝するということだけでなく、生活のあらゆる領域に関わることなのです。そのことを、レビ記は示しているのです。
そこで私たちは、「あなたたちは聖なる者となりなさい」という言葉の意味をより深く理解するため、さらに幾つかのことを考えたいと思います。
第一に、私たちはこの言葉が神の恵みに基づくことについて考えねばなりません。「あなたたちは聖なる者となりなさい」。この言葉をイスラエルの民がモーセを通して聞いているのはシナイの荒れ野においてです。彼らはエジプトにおいてこれを聞いているわけではありません。神は彼らを奴隷状態から解放し、エジプトから導き出されたのです。エジプトにおける苦役からの解放は人々の願いでありました。神は彼らの叫び声を聞き、御力をもって彼らを救い出されたのです。
しかし、苦しみからの解放は、彼らに備えられている大きな恵みの計画の、いわば出発点に過ぎません。出エジプト記19章を御覧ください。エジプトの国を出て三月目に、主はモーセにこう語られました。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(出19:3‐6)。
神はイスラエルを解放するだけでなく、彼らと契約を結ばれました。神が彼らと結ぼうとしておられた契約は、彼らを神の民とするための契約でありました。この契約によって、彼らは神の宝の民とされたのです。祭司の王国となり聖なる国民とされたのです。確かに神が苦難から解放してくださることは人間にとって喜ばしいことであるかもしれません。しかし、神が人を神の民としてくださること、神が人と共に生きようとしてくださること、そして人に対して大きな目的と計画を持っていてくださることは、もっと喜ばしいことであるに違いありません。そのように、「聖なる者となりなさい」という言葉は、神の側から一方的に示してくださった神の驚くべき恵みに基づく言葉なのです。
第二に、私たちはこの言葉が、神の限りない忍耐と寛容を前提としていることについて考えねばなりません。「聖なる者となりなさい」というこの言葉は、天使たちに語られたのではなく、意のままに動かせる人形に対して語られたのでもなく、現実にこの地上に生きている罪深い人間に対して語られた言葉です。苦難から解放されても、喉元過ぎれば熱さを忘れ、「エジプトのほうが良かった。エジプトに帰ろう」などと言い出す、そのような人間に対して語られた言葉なのです。実際、レビ記に続く民数記においては、神が驚くべき忍耐をもって、まことに罪深い人間の現実に関わり続けられる姿を見ることになるのです。
そして、第三に、「聖なる者となりなさい」というこの言葉には、神の忍耐と寛容だけでなく、目指すところを実現し給う神の熱情が秘められていることを知らねばなりません。私たちはイエス・キリストを通して、そのことを知らされているのです。
神はイスラエルの民とシナイにおいて契約を結ばれました。しかし、イスラエルはその契約を破ったのです。後に預言者エレミヤが語っているとおりです(エレミヤ31:32)。しかし、人間がどんなに不真実であっても、そのことをもって神を挫折させることはできません。神はこの地上に聖なる民を持つことを諦めることはありませんでした。契約の目的そのものを放棄することはありませんでした。神は、古い契約が破られたゆえに、罪の赦しに基づいて「新しい契約を結ぶ」と言われたのです。そのために御自分の御子をさえ地上に送られ、罪の赦しを与えるために十字架にかけられたのです。
この新しい契約のゆえに、私たちもまた神の民としてここに存在しています。この神の驚くべき熱情のゆえに、私たちは聖餐において、あの主イエスの御言葉――「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」――というあの御言葉を聞くことができるのです。私たちが聖餐にあずかることは、そのような新しい契約の杯にあずかることに他なりません。それゆえに、ペトロはかつてイスラエルに対して語られたあの主の言葉を、教会に対して再び語り直しているのです。「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」(1ペトロ1:14‐16)。
今日は特に「神聖法集」を読む上で大事であると思えることをお伝えしました。一つ一つ命じられていることについては、それぞれお読みください。そこから聞こえてくる神の思いに耳を傾けましょう。ここには、今日の私たちには直接当てはまらないと思えることや無縁に思えることも多く語られているかもしれません。しかし、私たちはそれらの記述を含めたこれらの書の全体から、神の民として生きるとはどういうことであるのか、神のものとして、聖なる者として生きるとはいかなることであるのかを、聞き取っていく必要があるのです。共に神の民としての生活が真に形作られることを祈り求めてまいりましょう。
2024年11月17日日曜日
「それでも神は手を伸ばされる」
2024年11月17日 主日礼拝説教
聖書:使徒言行録 3:11-19
体の癒し以上のこと
エルサレムの神殿に「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所がありました。そこにいたペトロとヨハネのもとに大勢の民衆が集まってきた。そこでペトロは彼らにイエス・キリストを宣べ伝えた。今日読まれたのは、そのような話です。
なぜ民衆が集まってきたのか。ひとりの人が奇跡的に癒されたからです。事の顛末は3章前半に書かれています。生まれながら足の不自由だった男が癒されたのです。しかし、彼に起こったのは、単なる肉体の癒し以上のことでした。彼は、「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)と書かれているのです。
癒されて嬉しかった。それはそうでしょう。しかし、体を癒されて喜んだ人が、必ずしも神を賛美する人になるとは限りません。神を礼拝するために神殿へと向かうとは限りません。彼は神を賛美し、神を礼拝するために神殿に入っていったのです。それは肉体の癒し以上のことです。人生の方向が変わったのです。彼は神に向いて、神と共に生きる人となったのです。
単に体が癒された喜びであるならば、次に困難に出会った時には、かき消されてしまうかもしれません。実際、今まで物乞いであった彼には、今後も生活の困難はついてまわるのでしょう。癒しは即、幸いな生活を約束するものではなかったはずです。
しかし、人生の方向が変わることは、神に向かって生き始めることは、一時的なことではありません。それは永続の意味を持つのです。さらに言うならば、永遠の救いに関わる意味を持つことになるのです。ですから、この話はただ一人の男の足が癒されたという話で終わらないのです。その先にはペトロが語るべきことがあるのです。人々が聞かなくてはならない言葉があるのです。ここにいる私たちもまた聞かなくてはならない言葉があるのです。それが今日の聖書箇所において語られていることなのです。
信仰によって
外見的には、その癒しはペトロによって起こりました。しかし、ペトロは集まって来た人々にこう言うのです。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(12節)。そのように、ペトロは自分に注目している人々の目を、キリストへと向けるのです。ただ人間に目を向け、人間に求めている限り、本当の救いは来ないからです。
重要なのは、キリストとの関係なのです。ですから、ペトロは、この癒された男についても次のように語ります。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。
さて、ここで一方において「イエスの名が強くした」と言い、他方において「イエスによる信仰が…いやしたのです」と言っていることに注意してください。「イエスの名が強くした」というのは、「イエスが強くした。イエスがいやした」という意味です。事をなさるのはあくまでもイエス様御自身なのです。しかし、それだけでは完結しないのです。そこにはまた「イエスによる信仰が」いやしたのだ、という事実がある。イエス様がなさることを、人間は「信仰」によって受け取らなくてはならない、ということです。
ペトロとこの男の間に起こったことは、ある意味で象徴的な出来事でした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」(7節)と書かれているのです。
もちろん、この男の手は動くわけですからペトロの手を払いのけることもできるわけです。払いのけても不思議ではありませんでした。彼は施しを期待していたのです。しかし、ペトロは「わたしには金や銀はない」と言うのです。しかも、生まれつき足が不自由な彼に、「立ち上がり、歩きなさい」と言うのです。それは彼が期待していたこととは異なるのです。しかし、この男はペトロの手を払いのけなかったのです。彼は神の恵みを信じて受け取ったのです。
その意味でペトロが彼の手を取って起こした姿は象徴的な姿であったと言えます。そして、彼に起こったことはまた全ての人にも起こり得ることなのです。先にも言いましたように、彼に起こったのは、体の癒し以上のことなのです。人生の方向転換なのです。神と共に生きる人、神との交わりに生きる人となることへの方向転換です。だからこそ、ペトロは13節以下の説教を語り始めたのです。
手を払いのけた人々
語り始めの言葉はこうでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(13‐15節)。
ここで繰り返されているのは「拒んだ」という言葉です。そして、最終的には「殺した」という言葉が出て来る。これは究極的な拒絶です。もはや自分に決して関わることがないように抹殺してしまうわけですから。そのようにあなたがたは拒んだのだ、とペトロは言います。誰を。「命の導き手である方」を。
「命への導き手」、それは他の翻訳では「いのちの君」「命の創始者」などと訳されている豊かな内容を持つ言葉です。真の命をもたらしてくださる御方ということです。真の命とは何でしょう。わたしは生きているのか。あなたは生きているのか。確かに生きているから、礼拝堂に集まっているのでしょう。しかし、聖書にはこんな言葉も出て来るのです。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)。何かを行っているのだから「生きている」のでしょう。しかし、その行いを知っている神から見るならば、「あなたは死んでいる」と言うのです。 そのように、真に命があるということは、単に肉体的に生きているということではないのです。
では何なのか。命とは交わりなのです。命の源であり、命そのものである神との交わりなのです。イエス様は、神の愛を示し、神との豊かな交わりの中にある真の命、永遠の命を見せてくださった方でした。そして、神との愛の交わりにある命へと導くために、イエス様は来られたのです。いわばイエス・キリストは、神の伸ばされた手なのです。私たち人間を御自身との交わりへと招くために伸ばされた手なのです。生きているとは名ばかりで実は死んでいる者を起き上がらせるための手なのです。真の命によって起き上がらせるために伸ばされた神の手なのです。
しかし、あなたがたはその手を払いのけてしまったのだ、とペトロは言っているのです。いやもう二度とこちらに向かって手を伸ばせないように、十字架の上に伸ばして釘を打ち付けてしまったのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」。それは究極の拒絶です。
それでも神は手を伸ばされる
ならばもう終わりでしょう。もうその先はないでしょう。それが当然の帰結だと思うのです。しかし、神はそうなさらなかったのです。人間が終わりにしても、神は終わりになさらないのです。ペトロはこう続けるのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)。
神はキリストを十字架にかけた人々を見捨てられませんでした。それはすなわち、神はこの世界を見捨てなかったということです。罪深く頑なで傲慢で、神の恵みの御手さえ払いのけてしまうような私たち人間を、神は見捨てなかったということです。神は、拒まれ殺されたイエス・キリストを復活させ、永遠に命の導き手なる方として、永遠の主として立ててくださったのです。神はそのようにして、なおも私たちを命へと招き、私たちに御手を伸ばしていてくださるのです。
それゆえにペトロは彼らにこう語りかけるのです。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(17‐19節)。
なおも御手を伸ばしてくださったということは、そこに神の赦しがあることを意味します。それは「メシアの苦しみを、このようにして実現なさった」という言葉からもわかります。それは罪の贖いのための苦しみです。それを神が実現なさったのです。そのようにして、神が罪を消し去ってくださる。これは「拭い去る」という意味の言葉でもあります。そのように、神の恵みを拒絶し続けてきた私たちの罪を完全にぬぐいとってくださるのです。
そのために「悔い改めて立ち帰りなさい。」とペトロは言います。「悔い改めて立ち帰る」とはどういうことでしょう。神の御手を払いのけて、命の導き手を十字架に釘付けしてしまった人間にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。それは命の導き手なる御方を信じて受け入れるということです。神が再び伸ばしてくださったその手を、今度はしっかりと握って、「立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞いた者として、立ち上がらせていただき、歩き出させていただくことです。
エミール・ブルンナーという神学者は、「信仰とはイエス・キリストにおいて差し出された神の手を握ることだ」と表現しました。まさにその信仰こそ、神が求めておられることなのです。私たちは信仰によって、罪を赦され、神との交わりに入れられるのです。そこにおいて、あの生まれながら足の不自由であった男に起こったことが、私たちにも起こるのです。私たちは神をほめたたえ、神を礼拝し、真に命あるものとして生きるのです。
2024年11月13日水曜日
祈祷会用:レビ記 16:1~34
レビ記16:1-34
今日お読みした16章に記されているのは贖罪日に関する規定です。贖罪日(ヨーム・キップール)は第7の月の10日です。太陽暦ですとだいたい9月から10月のどこかになります。
今日は群読しませんでしたが、29節以下にはこう書かれています。「以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである」(29~31節)。
「苦行をする」とは、具体的には断食することです。断食が定められているこの一日は、そこに書かれていますように、一年に一度、「すべての罪責が主の御前に清められる」特別な日です。31節にあるように、それはユダヤ人にとって「最も厳かな安息日」として守られてきました。これは直訳しますと「安息日の中の安息日」という言葉です。この特別な安息日は現代でもユダヤ人によって守られていまして、それこそ普段安息日を守らない人であっても、贖罪日にはシナゴーグに行く人が多いそうです。
これまで見ましたように、この日に限らず、祭司によって罪の贖いの儀式は行われるのです。しかし、この日についてはあえて「あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである」と語られているのは、大祭司によって行われるその日の罪の贖いの儀式」があるからこそ、その他の日に祭司によって行われる罪の贖いの儀式は意味を持つということなのでしょう。だからこそ、この日には人間の罪、自分の罪にしっかりと目を向ける日でもあるのです。それは悲しみ嘆く日であって、喜び祝う日ではありません。だからその日には「苦行」すなわち断食が定められているのです。
この日に行われることにおいて、最も大きな意味を持つのは、大祭司が垂れ幕の奥に入るということです。それは聖所と至聖所を分ける垂れ幕です。その垂れ幕が示しているのは、罪ある人間は神に近づくことはできないという厳粛な事実です。本来、人は神に近づくならば死ぬのです。だから「決められた時」すなわち、贖罪日以外には入ることはできないのです。「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように」(2節)と書かれているとおりです。
その主の言葉が語られる前提として、1節には次のように書かれています。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」(1節)。この事件については10章に書かれていました。「贖罪日」に関する規定が、この事件を前提として語られていることには大きな意味がありますので、その出来事を振り返っておきましょう。
それはアロンによる献げ物の初執行当日の出来事でした。その日に、アロンの長男と次男は「規定に反した炭火」をささげたのです。すると主の御前から火が出て二人を焼き殺したのでした。
彼らの献げた「規定に反した炭火」というのは、直訳すると「異なる火」という言葉です。火は、本来、神が天から与えた火が燃やし続けられているところから取らなくてはならないのです。しかし、彼らは別なところから、人間が点火した火から取ってきたのです。それが意味するのは、いわば人間から生じた礼拝です。「人間がこうしたい」ということが優先される礼拝と言ってよいかもしれません。しかし、そのように人間がしたいように神に近づくならば、神は御自身が聖なることを示されるのです。つまり神が本当に神であることを示される。それは人間にとって裁きとなるのです。
しかし、16章においては、彼らの死について「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件」と語られており、アロンに対して「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように」と告げられているのです。それはすなわち、彼らが安易に至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づこうとしたことを示していると考えられるのです。そのようにして彼らは自らに死を招いたのです。
繰り返しますが、16章はこの事件を前提として語られているのです。何を意味するのでしょう。神に近づくのには、人間がではなく、神が定めた近づき方があるということです。そして、神はその仕方を定めてくださったのです。アロンの二人の息子が死んで、それで終わりではないのです。主はモーセに「あなたの兄アロンに告げなさい」と言って、神が定めた近づき方を教えてくださったのです。それはとてつもなく大きな恵みなのです。
「まず、贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を用意する」(3節)というところから始まります。しかし、雄牛と雄羊をどうするかが語られる前に、まず大祭司の衣装について語られているのです。
大祭司には本来大祭司が着ることになっている衣装があることは既に8章に見たとおりです。「そしてアロンに長い服を着せ、飾り帯を付け、上着を着せ、更にその上にエフォドを掛け、その付け帯で締めた。次に胸当てを付けさせ、それにウリムとトンミムを入れた。 また頭にターバンを巻き、その正面に聖別の印の黄金の花を付けた」(8:7~9)。
大祭司が着るのは、かなり仰々しい衣装です。しかし、アロンはその衣装を一旦全部脱がなくてはならないのです。そして、亜麻布の白い衣に着替えます。それはどうしてか。着替えた後に、「アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う」(6節)と語られているからです。これをまずしなくてはならないのです。彼は、大祭司である前に、一人の罪ある人間として神の前に立たねばならないのです。
実際に何をするかは、11節以下に次のように書かれています。「アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく」(11~14節)。
彼は定められた仕方で、垂れ幕の奥に入ります。その時、定められた炭火を取って香炉に満たし、香を携えていきます。しかし、それ以上に重要なのは、その後に書かれているように「贖いの座」の東の面と前方に振りまくための「血」を携えているということです。それは「自分の贖罪の献げ物」の血に他なりません。そのように、まず自分のために贖いがなされる必要がある。これが神の定められた近づき方なのです。
その上で民のために罪の贖いが行われます。具体的に何がなされるかは15節以下に書かれています。民の贖罪のためには二匹の雄山羊が用意されます。7節以下に説明がなされていますが、一匹は犠牲として屠るための雄山羊です。そして、もう一匹は荒れ野に放たれるための雄山羊です。これは前もってくじ引きで決めておきます。伝承によれば、「主のため」「アザゼルのため」と書かれた木札が用いられたと言われます。
民の罪の贖いのために垂れ幕の奥に入る場合もまた、アロンは贖罪の献げ物の血を携えていきます。血を携えることなくして、神に近づくことはできません。しかし、民の罪の贖いにおいてやはり目を引くのは、「アザゼルのため」の雄山羊でしょう。この「アザゼル」が何を意味するのかは、よく分からないのですが、重要なのはその雄山羊がどのように用いられるかです。一匹は殺されて献げられるのですが、もう一匹については、21節以下に次のように書かれているのです。「アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる」(21-22節)。
「荒れ野に追いやられる」という言葉が意味しているのは、この山羊はもう二度と戻ってこないということです。それは実に象徴的なことであり、またこれは罪の贖いがなされるイスラエルの民に実際的に必要な儀式だったとも言えます。
例えば、詩編103編に次のように書かれています。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(詩編103:11-13)。
あるいはミカ書7章には、次のように語られています。「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(ミカ7:18-19)
このような聖書の言葉を読むと、どうしてアザゼルのための山羊が必要であったかが分かります。神の赦しにおいては「わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」のであり、「海の深みに投げ込まれる」のですが、それを信じることが難しい時もあるのでしょう。しかし、贖罪日において、彼らは、自分たちの罪が遠く離れて行って見えなくなるのを山羊の姿として実際に目にするのです。あの山羊はもう戻ってこないのです。罪の赦しとはそういうものだ、ということを彼らは目で見ることができたのです。
さて、ここで私たちは以前祈祷会でヘブライ人への手紙を読んだ時に、その手紙の9章に次のように書かれていたことを思い起こす必要があります。「しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(9:7)。これは今日お読みしたレビ記16章を背景として語られているのです。
そして、さらに次のように書かれていました。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(9:11-12)。
今日お読みした旧約の規定は、いわばキリストにおいて実現することを指し示す予型なのです。それは毎年繰り返されなくてはなりませんでした。今もユダヤ人がしているようにです。しかし、キリストはただ一度、決定的なことを私たちのために行ってくださったのです。次のように書かれています。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9:25-26)。
2024年11月10日日曜日
「わたしたちが祝福を受けるため」
2024年11月10日【子ども祝福礼拝】
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3:6-14
キリストは呪いとなって
今日は子どもたちと共に「子ども祝福礼拝」をお捧げしています。先ほど、私たちは子どもたち一人 一人のために祝福を祈りました。今日の聖書箇所にも「祝福」という言葉が繰り返し出てまいります。しかし、先ほど朗読された時に気づかれたと思いま すが、そこにはまた「呪い」という言葉も繰り返し出てくるのです。「祝福」の対極にある「呪い」について語ることなくして、「祝福」については語り得ないということなのです。
「呪い」ということについては、次のように書かれていました。13節を御覧下さい。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(13節)。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなってくださった」とはどういうことでしょう。「呪いとなった」とは「呪われた者となっと」という意味です。呪われた者となる とは、言い換えるならば神から完全に見捨てられるということです。それがキリストの苦しみだったのです。磔にされて単に肉体的に苦しんだということではないのです。
それゆえ に、キリストは十字架の上で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。そのようにキリストは実際に捨てられたのです。愛する天の父から捨てられたのです。そこにこそキリストの最大の苦しみがあったのです。
人は神に見捨てられていないこと、神に愛されていることさえ信じることができれば、苦難に耐えていくことができるのです。かつてブレーズ・パスカルは病気の苦しみの中にこう祈りました。「主よ、わたしをどんな時にも、あなたの御心にかなう者にしてください。今のように病気をしている時には、自分の苦しみの中であなたをあがめさせて下さい。」そのように祈れるのは、見捨てられていないと知っているからなのです。 この手紙を書いているパウロもまた、そのような人のひとりです。多くの苦難を耐え忍んできましたが、そこには常に神の愛と希望の光が差し込んでいるのです。
しかし、逆に言えば、この神から見捨てられてしまうということは、もはや一筋の光も差し込むことのない、完全な絶望の暗闇に置かれるということを意味するのです。キリストが「呪いとなってくださった」とは、そういうことなのです。
律法の呪いから贖い出してくださった
それは何のためですか。私たちを「呪いから贖い出す」ためだと聖書は教えているのです。「呪いから贖い出す」とは「呪いから救い出す」という意味です。私たちが呪いを受けないためだ、というのです。これは何を意味しますか。キリストが呪いを受けてくださらなかったら、私たちが呪いを受けていたということです。本来、呪われた者となるべきであったのは、神から見捨てられるはずだったのは、私たちだったということなのです。
どう思われますか。もしかしたら多くの人は、このような箇所を読んで、「いや、私は神から呪われたり、見捨てられたりするほど悪い人間ではない」と思うかもしれません。真面目に生きてきた人ならなおさらそう思うことでしょう。
しかし、本当にそうなのでしょうか。この世の人間関係を考えてみてください。私たちの考えること、語っていること、行なっていることの大部分は人の目から隠されています。もし、仮にすべてがさらけ出されたらどうでしょう。心の中で考えていることまで、そのすべてがつまびらかにされたならどうでしょう。人はそれでも、なおあなたを愛するでしょうか。それとも、あいそをつかされ、軽蔑され、見捨てられることになるでしょうか。
もっとも人と人との間であるならば、それは「お互い様でしょう」ということにもなるかもしれません。しかし、神と人との間においては、そうはなりません。聖なる神の前にすべてが明らかにされたならどうでしょう。いや、既に神に御前においては全てが明らかなのです。そこで問題となるのは、人と比較して良いか悪いかということではないのです。だからあえて「律法の呪い」と言われているのです。人からどう見られるかと言うことではないのです。神がどう見られるかということが問題となるのです。ならば、そのような神の前において、「私は呪いではなく祝福を受けるにふさわしい人間です」と胸を張って言える人間ははたしてここにいるのでしょうか。正直に自分自身を振り返るなら、確かに私たちは、本来、神から呪われて、永遠に見捨てられても仕方のない者なのだろうと思うのです。
しかし、そのような私たちを、神は見捨てなかったのです。私たちのすべてをご存じの上で、私たちがどんな人間かをご存じの上で、また、この世がどれだけ罪に汚れているかをご存じの上で、それでもなお愛してくださったのです。それゆえに、私たちの罪をすべてキリストの上に置かれ、キリストを裁かれ、私たちの代わりに御子キリストを捨てられたのです。キリストが、わたしたちのために呪いとなってくださった、呪われた者となってくださった。それは私たちが呪いを受けないためなのです。見捨てられないためです。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。キリストが呪いとなってくださったので、呪いを受けてくださったので、私たちが受けるべき呪いはもう残っていません。あとは私たちが祝福を受け取るだけなのです。そうです。信じて、感謝して、受け取るだけなのです。そして、神に感謝しながら、神と共に生きたらよいのです。その時、もはや何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。もはや死でさえも神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
ただ信仰によって
そのように、ただ信じて、感謝して、受け取ったらよい。しかし、もう一方において、それが時として人間にとって難しいことも事実です。というのも、私たちはギブ・アンド・テイクの世界に慣れ過ぎているからです。ですから、単純に受け取ることができない。祝福を受け、救われるためには、まず人間の側から何かを差し出さなくてはならないと考えるのです。
この手紙を受け取ったガラテヤの人たちも、そのように考えていたようです。彼らはユダヤ人ではないのに、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなくてはならないと考えた。律法にかなった善い行いをまず差し出すことによって、救いを得ようと考えたのです。 いや、彼らが考え出したわけではありません。そのように教える人たちがいたのです。彼らは惑わされたのです。
確かに、ガラテヤの人たちにとっても、またいつの世の人にとっても、「ただ信じて、感謝して受けるだけ」というよりも、「救われるためには、律法を守らなくてはならない」という教えの方が分かりやすいのかもしれません。先にも申しましたように、何かを得るためには、代価を支払わねばならないと考える世界に慣れ過ぎていますから。
しかし、そのようなこの世界においても、例えば、既に代価が払われているものを受け取るのに、改めて代価を払って受け取ろうとしたら、それは愚かなことでしょう。いや、それは愚かであるだけでなく、悪しきことでもあります。それは代価を払ってくださった方の善意を踏みにじることでもあるからです。実際には、キリストにおいて支払われたのは、とてもなく大きな代価なのです。それはキリストの命ですから。それほどの代価を払ってくださった方の善意を踏みにじることになるのです。
さらにいえば、そこから感謝の生活は絶対に生み出されることはありません。自分の行いと引き換えに、神の祝福と救いを得るならば、そこに生まれてくるのは感謝ではありません。自分の正しい行いによって獲得したという誇りです。熱心になればなるほどますます自らを誇るようになるのでしょう。その熱心さは、世にも恐るべき傲慢な人間を造り出す。パウロは自らの経験から、そのことをよく知っているのです。
間違ってはなりません。救いは私たちの行いと引き替えに獲得するのではないのです。祝福を受けるのは、私たちが何かを行うことによってではないのです。求められているのはただ一つ。「信仰」です。信じて、感謝して、受け取ることだけです。
それゆえに、彼はアブラハムを引き合いに出すのです。彼こそは、まさに、ただ神の言葉を信じ、感謝して、受け取って、祝福を受け継いだ人だからです。そして、パウロは次のように断言するのです。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(9節)。
ここにいる私たちにも、同じ祝福と救いの約束は与えられています。今も神様は、私たちに対してキリストの十字架を通して語りかけてくださっているのです。キリストが私たちの受くべき呪いをすべて受けて下さった。もはや私たちは呪われた者として生きる必要はありません。もはや見捨てられた者のように絶望する必要はありません。どんなときにも神に愛されている者として、神と共に生きることができる。神は十字架を通して語っていてくださるのです。必要なことはただ一つ。信じて、感謝して、受け取り、感謝をもって神と共に生きることです。祝福され、救われた者を、もはや何ものも、死でさえも、神の愛から引き離すことはできないのです。
2024年11月6日水曜日
祈祷会用:レビ記 12:1~8
レビ記12:1‐8
前回は食物規定が記されている11章を読みました。食べるという行為は、どこまでも人間の主体的な行為です。「わたしが食べる」のです。しかし、その食物について、神が命令を与えます。神は「これを食べて良い」と言い「これは汚れたものである」と言われる。それは人間が区別するのではありません。神が区別するのです。その区別を受け入れるということは、すなわち神の主権を受け入れるということです。イスラエルの民は、まず食べ物において、神の主権に服するということを学んだのです。
それは11:45とも関係しています。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれていました。「聖なる」とはもともと「区別する」という言葉から来ています。区別された者として生きること、それが「聖なる者となる」ということです。つまり、他の民から区別された「神の民」として生きること、神のものとして生きること、そのアイデンティティをしっかり持つことです。
そこで「食物規定」は大きな意味を持つのです。食べる度に、料理をする度に、自分たちは神の民なのだということを意識せざるを得ないからです。まさに、「食べ物を区別する神が、わたしを他の民から区別して神の民としていてくださるのだ」という恵みを強烈に意識させるのが、この食物規定だったのです。
そして、今日お読みした12章から15章にかけて、「出産」「重い皮膚病」「一般的な漏出」に関する規定が続きます。これらは人の内から生じる汚れに関する規定です。この部分については、一つ一つ細かく見て行くことはいたしません。この中で「出産」に関する規定だけを取り上げます。大事な事柄は共通していますので、重い皮膚病や一般的な漏出に関してはそれぞれ読んでいただくことにします。
まず「出産」に関する規定の内容を概観しておくと、最初に書かれているのは男児を出産した場合(2~4節)です。その時には当然出血するわけです。また、悪露(おろ)が続きます。このような血液や体液の流出は、一般的に「汚れ」と見なされます。それは15章に書かれている一般的な漏出にも共通しています。
この汚れには二段階あります。最初の段階は、男児を生んだ場合は七日間です。この間は何かに触れた場合、触れるものが全て汚れるので、当然、食事の準備等はできません。家事全般ができなくなります。これが2節に書かれている七日間です。これが終わると、触れることによっては汚れを移さない期間に入ります。男児の場合、8日目に割礼を施すことになりますが、母親は安心して息子の割礼にも立ち会うことができます。
しかし、一般的に何かに触れても汚れを移さなくはなるのですが、続く33日間は家に留まることが命じられています。また、「聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」と命じられています。言い換えるならば宗教的な行事には「汚れた者」として参加することはできないのです。
続いて簡単に書かれているのは、女児を出産した場合(5節)です。この場合は、最初の段階が14日間続きます。女児の場合は割礼がないので、ある意味では支障ありません。続く段階も66日間で男児の場合の倍になります。なぜ倍になるのかは分かりません。神様がそうお決めになったらそうなるのです。ただ一般的には、古代社会においては、女児を産んだ場合の方が出血期間が長く、肥立ちも悪いと考えられていたようではあります。
続いて書かれているのは、清めの期間が完了した時の祭儀です。ここでは焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物を献げることが規定されています。そこで、とても印象的なのは8節の規定です。産婦が貧しい場合の規定です。その場合は鳩でもよいのです。これは一般的な犠牲奉献の話にも出てきました神様の配慮です。この実際を、私たちはイエス様の誕生に関連して見ることができます。ルカ2:22の「清めの期間」とは、男児の場合の33日間のことです。その時に、マリアとヨセフは羊を買うことができなかったので、鳩を献げているわけです。
さて、12章から15章までを通じて、このような規定についても大事なことは、11章の食物規定と同様に、第一には神の主権を認めることです。神がお決めになったから、そのように行うのです。しかし、そこにはまた神の善意に満ちた温かい配慮を見ることができます。一つは衛生的な観点においてです。水がふんだんに使えない社会において、疫病が蔓延する速度は比較になりません。そこで血液や体液の「漏出」については、特に気をつけなくてはならなかったのです。血液にせよ膿にせよ、そこにはウイルスによる伝染の危険が常に存在するからです。それゆえに、漏出全般を「汚れ」として規定して、とにかく触れないように、距離を置かせるようにしたことは、まさに神の特別な配慮だったと言えるのです。
また、特に出産に関して言うならば、汚れたとされた産後の女性は、7日間あるいは14日間、とにかく汚れを移さないように、何かに触れないように気をつけることでしょう。しかし、これは裏を返せば、何かが産婦に触れないように気をつけさせることにもなるのです。体力的にも弱っている女性に、人であれ物であれ、何かが触れることは極力避けられることになる。それは衛生環境が整っていない社会においては、産後の女性にとって実に望ましいことなのでしょう。
そしてまた、この規定は産後の女性に十分な休息を与えることにもなるのでしょう。汚れているならば触れることはできません。なので気兼ねなく家事から離れることができるのです。神は、誰も産婦に家事を強制できない状況を造り出したのです。そして、それは宗教的な様々な義務からも解放するものでした。40日間、あるいは80日間は、とにかく家が関わる行事に携わらなくてよいのです。
実際に女性の立場が弱かった古代社会においては、こうでもしなければ女性を守ることはできなかったとも言えます。一般的に言いまして、特別な配慮は時として受ける側に負い目を負わせることになります。しかし、「あなたは汚れているのだから」ということならば女性は心理的にも負い目を負うことはありません。神はその意味で、本人が負い目を感じることなく配慮を受けることができるよう、特別な配慮をなさったと言えるのです。
そして、これらの規定に関してもう一つ重要なことは、これらの規定が霊的な事柄を象徴的に表現しているということです。この場合の霊的な事柄とは「人間の罪」ということです。神の御前における罪、人間の罪とはどのようなものであるか、ということを象徴的に表しているのです。
もちろん、このように言う時には注意が必要です。ここで語られている「汚れ」と人間の「罪」とは全く別次元の話です。それらを混同することは避けなくてはなりません。出産した時、女性は「汚れている」とされますが、それはその時、出産した女性がいかなる意味においても特に罪深いという意味ではありません。
しかし、繰り返しますが、この「汚れ」というものは、「罪の現実」を象徴的に表していると言えるのです。子どもは「汚れ」の中において生まれてきます。つまり出血を始めた時点で既に汚れているのだから、血の汚れの中に赤ん坊は生まれてくるのです。何を象徴しているか明らかでしょう。子どもは人間の罪の中に罪人として産まれてくるということです。
人間の自然な感性からすると、赤ん坊は「天使」に近く見えるのであって、罪がない、清い、真っ白な存在と見えるのです。しかし、聖書はそう言いません。人間は生まれながらの罪人であると言うのです。アダムとエバが、神の禁じられた木の実を食べた時、神がエバに言われたのは、「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」(創世記3:16)と語られています。つまり人間の罪と出産とが、最初の物語で既に結びつけられているのです。出産の苦しみは、人間の根源的な罪を指し示すものとして機能することになります。そして、この「汚れ」に関する規定も、その延長上にあるのです。人間の根源的な罪について、生まれながらの罪について考えるようにと、この規定は象徴的な意味を持つものとして機能するのです。
ですから、聖書は他のところでもやはり同じことを語っているのです。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51:7)これは聖書が語る、とても深い罪認識です。これをまずしっかりと心に留めるとき、もう一つのことがはっきりと見えてきます。イエス様もまた、この出産の「汚れ」の中に生まれてきたのだ、ということです。それはまさに人間の罪の世界の中に、私たちの一人として生まれてきてくださった、ということなのです。
最後に、清めの期間が終わった時に、焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物が献げられることについても、短く触れておくことにします。
焼き尽くす献げ物は、奉納者の献身を表すことについては既に見てきたとおりです。親となって汚れの期間が終わった時に、まず為すべきことは献身なのです。親となるとはそういうことだからです。それは献身的な親になるということではなくて、神に自分を献げるということです。
子どもは親に「与えられた」のではありません。親が作ったのではないし、親のものになったのでもありません。与えられたのは養育の責任です。言い換えるならば、その務めのために、親が自分を神に献げるのです。それが人の親になるということなのです。
それゆえにまた、贖罪の献げ物を捧げてスタートすることになります。それは罪の赦しを求めての献げ物です。赦しなくして親にはなれないのです。親は自分が罪のないものであるかのように、子どもに向かうことは許されません。子どもに指し示すのは神の正しさであって、自分の正しさではありません。親が求めるべきことは、子どもが神を畏れることであって、親を恐れることではないのです。親は神の正しさの前で自分もまた一人の罪人に過ぎないのだという認識をもって子どもに関わらなくてはなりません。親の公式の務めは焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物をもって始まるのだという原則は、実際に動物犠牲を献げることはない今日においても変わらないことを忘れてはなりません。
2024年11月3日日曜日
「受け継がれてきた信仰」
イザヤ書 51:1-3
今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げする日です。この日、私たちにはそれぞれ思い起こす人がいることでしょう。しかし、この日はただ私たちの身近な人たちを思い起こす日ではありません。先に召された代々の聖徒たちを思い起こす日でもあります。私たちが今ここに身を置くまでには、長い教会の歴史があるのです。信仰者たちの歴史があるのです。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。そのことに思いを馳せる日でもあるのです。
アブラハムの信仰
そのような日に与えられているのは、先ほど読まれた御言葉です。こう書かれていました。「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。あなたたちの父アブラハム/あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした。」(1-2節)。
アブラハムとその妻サラ、そしてその子孫の物語が旧約聖書に記されています。それは、たったひとりのアブラハムから子孫が増え広がってイスラエル民族となったという話です。ですから、「わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした」と書かれているのです。
しかし、内容はそう単純ではありません。アブラハムとサラには子供がありませんでした。しかも、長い間ありませんでした。年老いてなお子供がありませんでした。神が誰かをイスラエル民族の祖先にするつもりならば、既に子供がいる人を選んだ方が早かったと思います。しかし、神はあえて可能性の見えない人たちを選ばれました。見込みのない人たちを選ばれたのです。しかも、もっと見込みがなくなるように、可能性がつぶれていくように、約束の実現を先延ばしにされたのでしょう。
なぜそのようなアブラハムを選ばれたのでしょう。なぜ可能性がなくなるようにアブラハムを待たされたのでしょう。――それはアブラハムが人、によって実現されることではなく、神によって実現されることを信じて待ち望むようになるためでした。アブラハムが人間の可能性にではなく、ただ神のなされることに信頼するようになるためでした。神はアブラハムに信仰を求められたのです。
それはどうしてでしょう。神はただ一つの民族をこの世に加えようとしていたのではないからです。そうではなく、「信仰の民」「主を信じる民族」を創ろうとしていたのです。アブラハムは信仰の民の祖先となるのです。だから、まずアブラハムに信仰を求めたのです。アブラハムをただ一民族の父ではなく、信仰の父にしようとしていたのです。
そして、アブラハムは信仰をもって神に応えました。聖書にこんな話が書かれています。子供のいないアブラハム(その時はまだアブラムという名前)が主に言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」すると主は言われるのです。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」さらに主は満天の星空を見せてこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。そして、言われます。「あなたの子孫はこのようになる」と。創世記15章に書かれている話です。その時、アブラハムはどうしたでしょうか。聖書にはこう書かれています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。
これがアブラハムの信仰です。このアブラハムの信仰を、第2朗読で読みましたローマの信徒への手紙において、パウロは次のように表現しています。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。そうです、アブラハムは望み得ない状況においてなおも望みを抱いて信じたのです。そのように神を信じるアブラハムにおいて、「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という祝福の物語が実現していったのです。
これが「切り出されてきた元の岩」です。これが「掘り出された岩穴」です。そこに目を注げと主は言われるのです。そこから切り出されてきたならば、そこから掘り出されてきたならば、元の岩と同じものを持っているはずだからです。同じものが与えられているはずだからです。同じ神との関わりが与えられており、その神に応えたアブラハムの信仰が与えられているはずだからです。人によって実現されることではなく、神によって実現されることを、信じて待ち望む信仰が与えられているはずだからです。つまり、「切り出されてきた元の岩」に目を注げとは、自分が何を受け継いでいるのかに目を注げ、ということでもあるのです。
荒れ野をエデンの園とする
さて、この「あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ」という主の言葉を、最初に耳にしたのは今から約2500年前のエルサレムの人々でした。主が預言者を通して彼らに「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」と語られたのは、彼らがその言葉を聞かなくてはならない状況があったからです。それは続く言葉からわかります。
「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。そのように預言者は語ります。そのように語るのは、人々が廃墟を目にしていたからです。荒れ野を目にし、荒れ地を目にしていたからです。そこには喜びがなく、楽しみもなく、感謝の歌声が響いてもいなかったからです。
エルサレムが廃墟となっていた時代がありました。バビロニアによって破壊されたのです。それから約五十年の時を経て、バビロニアからペルシャの時代へと移り変わりました。エルサレムへの帰還と再建が許可される時代となりました。その時を待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。
しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山でした。しかも、この再建を快く思わない人々による激しい妨害に遭うことになりました。どう考えても無理だ。荒れ野はこれからも荒れ野なのであって決して変わらない。そう思わずにはいられない状況がそこにありました。彼らは希望を失っていきました。
荒れ野は永遠に荒れ野なのであって、決してエデンの園にはならない。そのような思いはいつの時代の人の内にも根強く存在するものでしょう。荒れ野とは何でしょうか。「荒れ野」と聞いて、ある人は、毎日の生活を思うかもしれません。あるいは夫婦の関係、問題を起こす子供たち、職場における人間関係を思う人がいるかもしれません。そう、変わって欲しいと思うけれど、荒れ野は荒れ野であり続けるとしか思えない現実が、確かにこの世にはいくらでもあるのです。
しかし、本当はまず変わらなくてはならないのは「荒れ野」や「荒れ地」ではないのです。そうではなくて、荒れ野を見ているその人自身の心なのです。諦めに支配され、不信仰に支配されているその人の心なのです。だから主はまず彼らの心に向かって、「わたしに聞け」と言われたのです。そうです。その前に聞かなくてはならないことがある。聞いて変わらなくてはならないものが自分自身の内にあるのです。外にあるものが変わることを願うなら、その前に自分の内側にあるものが変わらなくてはならないのです。
だから主は言われたのです。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」。アブラハムとサラの信仰の物語に目を向けさせるのです。エルサレムで廃墟を見ていたあの人たちは、もう一度先祖から受け継いできた信仰、そして神が受け継がせようとしている信仰に、もう一度目を向けなくてはならなかったのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。そのように彼らもまた、まず主を信じる者となる必要があったのです。
いや2500年前のあの人たちだけではありません、教会もまた同じ岩から切り出されてきたのであり、同じ岩穴から掘り出されてきたのです。いやパウロに言わせれば、教会こそまさにアブラハムの信仰を受け継いでいるものなのです。希望するすべもないときに、なおも希望を抱いて、信じる者として生きる者とされているのです。
なぜなら、キリストが十字架にかかられ、そして復活されたことによって、もはや何ものによって私たちは絶望する必要のないことが明らかにされたからです。人間の罪がいかに絶望的な荒れ野をもたらしたとしても、人間にはどうすることもできない死の力が私たちの人生をもこの世界をも支配しているように見えたとしても、それでもなお私たちは絶望する必要がないことを、神はキリストにおいて語ってくださったからです。
いわば神はキリストを通して、「わたしは荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする」と宣言してくださったのです。私たちを罪と死から救い、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と宣言してくださったのです。
そして神はアブラハムに対してそうであったように、主は御自分が語られたことを実現されるのです。しかし、そこにおいて主が求めておられることがあるのです。それはただ信じることです。アブラハムの信仰です。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた。神によって義とされたこの信仰こそ、代々の聖徒たちが受け継いできたものであり、神が私たちに受け継がせようとしているものなのです。