聖書:マタイによる福音書 20:1-16
風変わりな主人
今日お読みしたのは、イエス様の「天の国」のたとえです。天の国の話の中で「主人」が出て来たら、それは神様のことです。神様はどのような御方かを教えているたとえ話です。
主はこのように語り始めました。「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」(1‐2節)。ここに描かれているのは、ぶどうの収穫時期に見られる、ごくありふれた風景です。
収穫の時期には多くの労働者を必要とします。雨期に入るまでの短い期間に収穫を完了しなくてはならないからです。そこでぶどう園の主人は、できるだけ多くの良い労働者を得るために、夜明けと共に出かけました。日雇いの労働者が集まる広場へと向かったのです。彼は元気に働きそうな人々を見定め、それぞれに一日一デナリオンの賃金を約束して雇い入れました。これは当時の日当の相場であり、極めて常識的な契約です。ここまでは、どこにでもいそうな農園の主人の話です。
しかし、ここから先になりますと、この主人は少々奇妙な行動を取り始めます。彼はわざわざ朝早くに出かけて行って、必要な労働者を雇ったはずではありませんか。ところがこの主人は再び九時頃、広場へと向かうのです。そこで仕事にあぶれた人たちを見つけます。彼はその人たちにも相応しい賃金を約束して雇い入れました。よほど豊作で人手が足りなかったのでしょうか。しかし、それにしても、十二時頃、三時頃にまた出かけていき、ついには五時頃にもう一度広場に行くという行動は理解できません。明らかに常軌を逸しています。五時頃雇って、僅か一時間ばかり働かせて、いったい何になるというのでしょう。
このようにこの主人は、まるで農園の収穫のためではなく、労働者を招いて雇い入れること自体が目的であるかのように振る舞うのです。そのためにせっせと足繁く広場に足を運ぶのです。まことに風変わりな主人であると言わざるを得ません。
しかし、話はそれで終わりません。物語はさらに異常な展開を見せることになります。「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った」(8節)。これだけ見てもおかしな話です。一日中暑い中を辛抱して一生懸命働いてきた最初の者たちをまずねぎらって賃金を払ってやるのが筋というものでしょう。
しかも、この主人はわずか一時間しか働かなかった者に対して一デナリオンも払ってやったのです。よほど気前の良い主人だと思いきや、そうではなくて最初の者にも支払ったのは一デナリオンだけでした。どう考えても不公平です。
当然、最初に雇われた者たちは不平を言いました。「『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』」(12節)。最初の者たちが怒るのも無理ないでしょう。
これが天の国のたとえです。天の国の主人、神様の描写です。まことに風変わりな主人であると言わざるを得ません。しかし、考えて見ると、イエス様の話に変わった主人が登場するのは、何もこの話だけではありません。二週間前にお読みした箇所にも、一万タラントン(今のお金に換算すると約六千億円)の借金を帳消しにしてやった王様が出て来ました。無茶苦茶な話です。
イエス様は、このような変な人が登場する話を「天の国のたとえ」として語るのです。要するに《神様は変な方だ》と言っておられるのです。「神様はあなたたちが常識的な頭で思い描くような神様ではないのだ」と言っておられるのです。
神様は、まる一日暑さを辛抱して一生懸命働いた者にも、わずか一時間ばかり夕暮れの涼しい時に働いた者にも、同じものを与えられる神様だというのです。一生懸命仕えた者にも、そうでない者にも、同じものを与えられる神様だというのです。神様のために一生を捧げて労苦した人も、ほとんど神様のために何もしてこなかった者も、最終的に受けるものは変わらないのだというのです。
五時からの労働者
「ならば、人生好き勝手に生きて、最後の部分でちょこちょこっと神様に仕えて、それで同じものをいただいた方が良いではないか」――そんなふうに思う人がいても不思議ではないでしょう。しかし、そのようなつまずきに満ちた話をイエス様はあえてなさるのです。なぜでしょう。それは「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたち」と思っている人がたくさんいたからです。さらには「最後に来たこの連中は!」という目で他の人を見ている人がたくさんいたからです。
そんな人物が先週読んだ聖書箇所にも出てきました。金持ちの青年です。彼はイエス様の所に来ていいました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」こういう質問というのは、自分がある程度、善いことを積み重ねてきたと思っていなければ出て来ません。案の定、イエス様が、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と律法の一部を列挙すると、彼は言うのです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
そのように、「わたしはやってきました!」と自信を持って言える彼でした。明け方に雇われ、明け方から一日汗水流して働いてきた者の意識です。しかし、そんな青年にイエス様はこう言われたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。金持ちの青年はこの言葉に打ちのめされて帰っていきました。
しかし、そこで、さらに輪をかけて「わたしはやってきました」と思っている人物が口を開くのです。ペトロです。彼は言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(19:27)。実は、そのように思っていたのはペトロだけではなかったのです。弟子たちの間では、いつでも「誰が一番偉いのか」という議論が絶えなかったのですから。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(18:1)と。
そこにあるのは「わたしはやってきました」という者たちの争いです。「わたしは認められるべきだ。わたしは報いられるべきだ」という者たちの争いです。互いを比べ合っての争いです。
それはある意味でとても分かりやすいと言えます。私たちも現実に、そういう世界に生きていますから。労苦は比較されるのです。功績は比較されるのです。まる一日、暑い中を辛抱して働いた人たちと最後に来て一時間しか働かなかった連中は比較されるのです。それがこの世界では当然のことなのです。だから、私たちにとって、最初に雇われた人たちの不平もたいへん分かりやすい。そういう世界に生きていますから。
しかし、このたとえ話によって、私たちはお互いの比較の世界から、絶対的な神の御前に引き出されるのです。このたとえ話の主人は言うのです。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」と。これが答えなのです。この話は、そのような主人の話なのです。そのような神の話なのです。神の御前にいるということは、そのような絶対的な神の主権の前に身を置いているということです。私たちが礼拝の場所に身を置いているとはそういうことなのです。
そして、そのような礼拝の場においてこそ、人は神の恵みをも知ることができるのです。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」と言われる主人はまた、こう言っていましたでしょう。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。神がしたいようにされるのです。恵みたいように恵まれるのです。
私たちにも一デナリオンをくださる
そして、このたとえにおいて語られているような、絶対的な主権をもって恵まれる神こそ、私たちに救い主イエス・キリストをお送りくださった神であり、私たちをも救ってくださる神なのです。
考えてみてください。そもそも話は、あの青年の質問から始まっていたのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。ならばこの1デナリオンが本来指し示しているのは、永遠の命であり天の御国における救いであるはずです。
であるならば、どうでしょう。自分の働きの報酬として、永遠の命を要求できる人などいるのでしょうか。私はそれを得るために十分な働きをしてきましたと言える人はいるのでしょうか。私こそ天の御国にふさわしいと言える人などいるのでしょうか。いないだろうと思うのです。私たちは時として、神様のために大層なことをしてきたかのように思い上がっているかもしれませんが、実際には、この《最初に雇われた人》の位置に自分を置いてこの話を読める人など、一人もいないはずなのです。
この話を読む時に、私たちが本来身を置くべきところは、この「五時ごろに雇われた人たち」のところです。皆さん、私たちは皆、やがて本当に知る時が来るのです。私たちが本当は「五時ごろに雇われた人たち」であることを知ることになるのです。本当は神様のために何もできていなかった。いやそれどころか、神様の心を痛めるようなことしかしてこなかった自分であることを知ることになるのです。
その時に、私たちは神の恵みの大きさをも知ることになるでしょう。あの主人が何度も広場へと足を運んだように、神様が人間を神のぶどう畑へと招くために労苦して、手を尽くしてくださり、最後には落ちていた石ころを拾い上げるかのように、こんな私たちをも拾い上げ、ぶどう園へと招いてくださった。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ってくださった。既に1デナリオンを用意して!
そして、この天の国のたとえに語られていることが起こるのです。天の父なる神が、五時に雇われた労働者である私たちに、1デナリオンをくださるのです。私たちは、見合うようなことは何もしていないのに、天の父が1デナリオンをくださるのです。その時私たちは驚きをもって心の底からこう叫ぶことでしょう。「わたしたちは神の恵みによって救われました」と。
2025年10月12日日曜日
「神は公平?不公平?」
2025年10月5日日曜日
「神に愛されている子どもたちとして」
2025年10月5日 主日礼拝説教
聖書:マタイ19:13‐26
永遠の命を得るには
一人の男がイエス様のもとに来てこう尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。
この男は何者でしょう。22節では「青年」と呼ばれています。また、「たくさんの財産を持っていた」(22節)とも書かれています。他の福音書によれば、彼は最高法院に議席を持つ「議員」でもあったようです。彼はユダヤ人として、モーセの律法については、「みな守ってきました」(20節)と言っています。そのような言葉に、彼の生い育ってきた家庭環境が伺えます。ユダヤの伝統的な堅実な家庭に育ち、敬虔な父母のもとにあって、幼い時から良い宗教教育を受けてきた人なのだと思います。
ある意味では、人々が望む多くのものを既に手にしていた人でした。彼には若さがありました。財産もありました。地位も名誉も得ていました。良い家庭環境にも恵まれていました。このような人を世の中では幸福な人と呼ぶのでしょう。
しかし、彼のはわかっていたのです。この世で目にするもの、手にするものが全てではない。どんなに良いものであっても、それはみな過ぎ去るものだ。本当に良きものはまだ見ていない。まだ手にしていない。本当の喜びをまだ私は知らない。本当の幸福をまだ私は知らない。味わっていない。それは天において神によって、過ぎ去らない永遠なるものとして備えられている。――それを聖書は「永遠の命」と表現するのです。彼はまだ見ていない、手にしていない、味わっていない、神が与えてくださる完全な救い、「永遠の命」を求めてやまなかったのです。
その「永遠の命」を得るにはどうしたらよいのか。彼はその答えを求め続けてきたのでしょう。そして、そのような彼の前に、ナザレのイエスと呼ばれる人物が現れたのです。このラビは他のラビとは全く違う。この先生こそ、答えを持っているに違いない。ついに彼は意を決して、イエスのもとを訪ねました。彼は勇気を振り絞って、一つのことを問うためにやってきたのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。
しかし、驚いたことに、イエス様の口から返ってきたのは何ら特別な答えではありませんでした。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(17節)。そして、イエス様は挙げられたのは、十戒のいくつかと、レビ記の言葉だけでした。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」。――そんなことなら、どこのラビでも言いそうなことです。しかし、この人は、なんとかして本当の答えをイエス様の口から引き出そうと粘ります。彼は言いました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。
この人は本当に知りたいのです。何をしたらよいかを知りたいのです。どんな善いことをしたらよいかを知りたいのです。涙が出るほど真面目な人です。しかし、その人に対して、イエス様はこう言われたのでした。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。イエス様の言葉はこの青年の肺腑をえぐりました。この青年は、もうそれ以上主に問うことなく、悲しみながら立ち去って行きました。
よりによって、この裕福な青年にとって最も行うことが困難であると思えることを、あえて主は求められたのです。彼に対する意地悪でしょうか。いいえそうではありません。マルコによる福音書では、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ10:21)と書かれているのです。意地悪ではない。彼を愛するが故に言われた言葉でした。では、イエス様の意図はどこにあったのでしょう。
「善いこと」ではなく「善い方」
そこで私たちはもう一度、青年とイエス様との対話の最初に戻りたいと思います。この人がイエス様に尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。それに対して、イエス様はすぐに「どうしたらよいのか」を答えておられないのです。その前に奇妙な一言が置かれているのです。
「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」(17節)。――変だと思いませんか。この人は「善いこと」について尋ねているのです。それに対してイエス様は「善い方はおひとりだ」と言われる。明らかに食い違っています。しかし、この食い違いこそが決定的に重要なことを示しているのです。
この人は為すべき「善いこと」に関心があるのです。なぜですか。その「善いこと」をもって「永遠の命」を得ようとしているからです。言い換えるならば、神様と取り引きをしようとしているからです。自分の行う「善いこと」をもって、いわば「永遠の命」を買おうとしているのです。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とは、そういうことです。
しかし、イエス様は、「どんな善いことをすればよいのか」を教えるために来られたのではないのです。神様との効果的な取り引きの仕方を教えるために来られたのではないのです。そうではなくて、ただひとりの「善い方」を指し示すために来られたのです。私たちが、ただひとりの「善い方」と共に生きるようになるために来られたのです。
神が「善い方」だということは、言い換えるならば、私たちを愛していてくださる、愛なる御方だ、ということです。神は私たちを愛して、本当に善きものを豊かに与えたいと思っておられる。本当の喜び、本当の幸い、完全な救いを与えようとしておられる。永遠の命を与えようとしておられる。そのためには独り子さえもこの世に遣わされ、罪の贖いとして十字架にだっておかけになる。――「善い方」であるとは、そういうことです。そのような「善い方」である神を私たちが知り、そのような神の子どもたちとして、「善い方」共に生きるようになるために、イエス様は来られたのです。
この青年にも、自分の為しえる「善いこと」ではなく、「善い方」の方に向いて欲しかったのでしょう。だからあえて主は、この人にできそうもないことを言われたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)。神様との取り引きを推し進めて行くならば、ここにまで至るのです。
自分で買おうと思うならば、全額支払わなくてはならない。いや、たとえ全財産を売り払って、貧しい人々に施したとしても、それで永遠の命が買えるわけじゃない。ですからイエス様は「そうすれば永遠の命を得られる」とは言われませんでした。「そうすれば、天に富を積むことになる」と言われただけです。神の救いは、人間の善い行いで買えるほど安物ではないのです。
そうではなく、救いは「善い方」からの一方的な恵みとして来るのです。大事なのは、神様が「善い方」だと知ることなのです。「善い方」を信じることなのです。「善い方」と共に生きて行くことなのです。
この話の直前には、イエス様が子供たちを祝福したという話が出ていました。イエス様はその時こう言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」(14節)と。子供たちは神様と取り引きなどしないのです。「これだけのことを神様のためにしました」と胸を張ったりしないのです。
ただイエス様によって手を置いてもらって、神様に愛されていることを思いながら喜んでいる子供たち。目に見えるようではありませんか。こんな風に、私たちも「善い方」に信頼して、すべてを善意で満ち溢れている神の御業として受け取りながら、「善い方」の子供たちとして共に生きていくことこそ大事なのでしょう。
それが私たちに与えられている信仰生活なのです。週毎に集めていただき、共に礼拝をささげ、共に聖餐にあずかり、神に愛されている子供たちとしてこの世界に出て行く。そして、どこにあっても、どのような状態に置かれても、一日一日「善い方」と共に生きて行く。そのような生活が既に与えられているのです。
あの青年が悲しみながら立ち去った時、イエス様は弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23‐24節)。
「金持ち」とありますが、これは「富んでいる者」という言葉です。ですから、何も財産のことだけではありません。むしろこの人の場合、神様と取り引きができるくらい富んでいたのは、小さい頃から積み重ねてきた律法の行いと善行だったのかもしれません。彼はそれを手放して、何も神様に差し出すものがない、あの子供たちのようになる必要があったのです。そこでこそ、イエス様がこう言われた言葉が意味を持つのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。そうです。神様にはおできになる。人間を救うことも、永遠の命を与えることもおできになる。そして、神様はそうしてくださる。神様は善い方だから。
そして、本当に私たちが為すべき「善いこと」というのは、「善い方」と共に生きる生活から生み出されてくるものなのです。本日の第2朗読にもありました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1‐2)。
そのとき、ある場合には、イエス様が言われたように、全財産を処分して貧しい人々に施すということももしかしたら自発的に起こってくるかもしれない。様々なものを主の御名のために捨てることも起こってくるかもしれない。そのとき、その「善いこと」は、もうそれは、神との取り引きの代金などではないのです。
2025年9月28日日曜日
「憐れみ深い王の家臣として」
2025年9月28日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 18:21‐35
何回までですか
ペトロがイエス様のところに来て言いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)。ペトロがこのような質問をしたのには理由があります。その前に、イエス様がこんな話をしておられたからです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら・・」(15節)。そうです、先週の聖書箇所です。自分が誰かの罪のゆえに被害を受けた時、どうしたらよいのか、という話でした。そこで、まずはどうすべきか。イエス様はこう言われます。「行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。
「言うことを聞き入れたら」とは、「罪を認めたなら」ということです。相手が罪を認めた場合、そこで相手の罪を赦すことによって和解が実現します。主はそれを、「兄弟を得たことになる」と表現しました。そのような話を聞いていた「そのとき」、ペトロが尋ねたのです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)。
あくまでも、相手が罪を認めている場合の話です。簡単に言えば、相手が謝っている場合です。この後に出て来るたとえ話でも同じです。そこには多額の負債があることを認めて、ひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言っている家来が出て来きます。また、百デナリオンの借金があることを認めて、ひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼む人が出て来きます。
そのように、これは相手が罪を認めている場合の話です。赦しを乞うている人の話です。そのように罪を認めて赦しを求める人に、赦しを与え、和解を実現し、兄弟を得るということは大事なことなのでしょう。
しかし、問題はそれが繰り返される場合です。それが二度目になったらどうでしょう。三度目になったらどうでしょう。四回目になると恐らく「四回目」とは言いません。「いつも」という表現に変わると思います。ですから、世の中一般ではやはり三回が限度です。「仏の顔も三度まで」と言いますが、これはどうも万国共通のようで、ユダヤの世界においても、神の赦しは三度までと考えられていたようです。
ですからここでペトロが「七回までですか」と言ったことは、それ自体驚くべきことです。「七」はユダヤ人の世界では完全を表す数字です。ですから七回繰り返すことができたら、ペトロとしては完全なのです。「よくぞ言った、ペトロ」とイエス様のお褒めにあずかっても不思議ではない場面です。ところがイエス様から返ってきたのは驚くべき言葉でした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。七回の七十倍は四九〇回ですが、実際にはそんなに数えていられません。要するに「数えないで赦しなさい」ということでしょう。
イエス様の言葉はあまりにも極端に思えます。しかし、そこで主は一つのたとえ話をされました。それが今日お読みしました「『仲間を赦さない家来』のたとえ」なのです。まずはそのイエス様のたとえに耳を傾けてみましょう。
一万タラントンの借金
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った」(23‐26節)。
一万タラントン。これは一人の労働者が休みなく働いて約17万年分の給料に相当します。どう考えても、そんな多額の借金ができるはずありません。いくらなんでも無茶苦茶です。しかし、このイエス様の語られるこの無茶苦茶な話には、少なくとも私たちが聞くべき三つの大事なメッセージが込められているように思います。
その第一は、《私たちの罪は、私たちの想像を絶するほどに大きい》ということです。主は「そこで、天の国は次のようにたとえられる」と話し始められました。これは天の国、神の国のたとえです。神の国の話において、「王」が出て来たら、それは神様のことです。借金している家来は私たち人間です。そもそも罪と赦しの話をしていたわけですから、借金に喩えられているのは私たちが神に背いて犯してきた罪の数々です。そして、その罪の借金は想像できないほど莫大な額に上るのだ、と語られているのです。
確かに私たちは時として真剣に自分の罪の深さに悩むことはあるでしょう。罪深い自分に嫌気がさすこともあるでしょう。しかし、イエス様に言わせるならば、私たちは本当の意味で自分の罪の大きさなど、分かってはいないのです。一万タラントンという借金については想像も及ばないように、私たちがどれほど神に背いてきたか、神の目から見て悪と見なされることを、神に対しても人に対してもどれほど繰り返してきたか、まさに想像も及ばない。私たちの罪の負債のトータルがいかに莫大な金額になっているか、想像も及ばないのです。
そして、第二に、ここにおいて語られていますのは、《神は正しく裁かれる御方だ》ということです。主君は全額の返済を要求しました。この家来に対して、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」と命じました。殊更に残酷な要求をしているのでしょうか。いいえ、そうではありません。主君は当然のことを求めているのです。そもそも、自分も妻も子も持ち物も、全部を売り払ったとしても、一万タラントンには遠く及ばないのですから。神は正しく裁かれる御方です。神こそが、償いを正当に要求することのできる御方です。果たして神から全て返済することを要求されたら、完全な償いを要求されたら、私たちはいったいどうなるのでしょうか。
しかし、イエス様が本当にお語りになりたいのは、第三のことなのです。《神の憐れみは私たちの想像を絶するほどに大きい》ということです。イエス様のたとえ話は、驚くべき展開を見せることになります。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)。一万タラントンの借金の帳消し!そんな馬鹿な!そんなことはあり得ない!イエス様の話を聞いていた誰もがそう思ったに違いありません。しかし、それが神の赦しだ、神の憐れみだ、とイエス様は言われるのです。
私たちの罪が私たちの想像も及ばないほどに大きいとしても、神の憐れみはそれよりもはるかに大きいのです。このたとえ話に登場する家来は、突然、そのとてつもない王の憐れみの中に置かれることになりました。彼は自分の負債を認めて、主君の裁きの正しさを認めて、ただ御前にひれ伏していただけです。その彼が神の憐れみによって救われたのです。私たちが罪を赦していただくとは、そういうことなのです。
神の期待に応えて
彼はその驚くべき憐れみによって借金を帳消しにされて、そこから外に出ていきます。彼は憐れみを受けた人として、生きていくのです。彼はもはや単なる「一人の主君の家来」ではありません。「この上なく憐れみ深い特別な主君の家来」として生きていくのです。――それがあなたたちだ、とイエス様はペトロに言っておられるのです。そして、これを読んで礼拝している私たちにも言っておられるのです。「あなたたちは、この上なく憐れみ深い主君の家来だ。想像を絶する憐れみを受けた者として生きて行くのだ」と。そうです。それがキリスト者として生きるということなのです。
そして、「憐れみ深い主君の家来」として行動するチャンスは、この世の中にいくらでもあるのです。自分が受けた王の憐れみをこの世に現すチャンスはいくらでもあるのです。特に、誰かが罪を犯したなら、誰かがあなたを傷つけたなら、あなたの赦しを必要としている人がこの世に存在しているならば、王の憐れみを示すチャンスはいくらでもあるはずなのです。
この家来にも、その時がすぐに訪れました。「自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと」と書いてあります。憐れみによって与えられたチャンスです。そうでしょう。もし一万タラントンの負債を帳消しにされていなかったら、外でこの仲間に出会うこともなかったのですから。まさに王が自分にしてくれたように、この人にも行うことのできる絶好のチャンスなのです。
しかし、この家来はどうしたか。「捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた」(28‐30節)。せっかくの機会を棒に振ってしまいました。
そのことが主君の耳に入ります。そして、こう書かれています。「主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」(34節)。一万タラントンを返せなかった時でさえ、「主君は怒って」とは書かれていないのです。しかし、ここで主君は怒ったのです。
この主君の怒りは、いわば主君の期待の裏返しであると言えます。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。これこそが主君の望んでいた唯一のことだったからです。主君が望んでいたのは、一生かかってでも償いをするという類のことではなくて、憐れみを受けた者として憐れみを示して生きることだったのです。
ペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と言いました。三回にせよ七回にせよ、数を数えているうちは、まだ意識においては何かを積み上げているということでしょう。これだけあの人には貸しがあります。また一つ貸しが増えました。そのような意識であるならば、七回でも八回でも同じです。イエス様が言っておられるのは、まったく別のことです。私たちは憐れみ深い主君の家来として、主君の憐れみ深さを表す機会を生かすのです。そのようなチャンスはいくらでもあります。そのように生きようとするならば、もはや赦した数を数えはしないでしょう。七の七十倍とは、そのような意味なのです。
2025年9月21日日曜日
「和解のために祈る」
2025年9月21日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 18:15‐20
兄弟を得るため
今日の福音書朗読は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉から始まっていました。この場合、「兄弟」とは肉親のことではありません。信仰における兄弟のことです。すなわち、神の子どもたちとして共に「天にまします我らの父よ」と祈り、こうして教会において一緒に神を礼拝しているお互いのことです。
教会は天使の集まりではありません。それは私たちそれぞれ自分のことを考えても分かります。天使の集まりであったら、自分がここにいるはずはないからです。ある時、イエス様は言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)。その意味では、私たちは皆、イエス様によって招いていただいた、癒されつつある病人であり、変えられつつある罪人です。
そのように、お互いが天使のような者でなくても、イエス様に招かれた者として、主のみもとに身を置くことができるということは、それ自体が大きな恵みです。しかし、もう一方において、お互い天使のような者ではありませんから、互いの間に問題が生じることもあり得ます。一人が他の人に対して罪を犯し、苦しめるということも起こり得ることです。それはイエス様には、初めから想定内のことだったようです。主は言われるのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら…」と。
特にここでは、「兄弟が《あなたに対して》罪を犯したなら」と語られています。つまり自分が被害者である場合です。苦しみを受けた場合です。その時にどうしたら良いのか、という話です。
誰かの罪により害を受けた場合、どうするでしょうか。「やられたら、やり返す。倍返しだ!」ひと昔前に、そんな言葉が流行りました。教会においては「倍返しだ!」と当然のごとく言う人はそういないだろうと想います。しかし、「やり返す」ということは考えないとしても、「もう関わりを持つことはやめよう。縁を切ろう」ということは考えるかもしれません。そのように、こちらから相手を切り捨ててしまうということは起こり得ることなのでしょう。
今日の聖書箇所ですと、17節に書かれているのはそういうことです。「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。少々差別的な表現のような気もしますが、当時のユダヤ人的な表現を用いるとこうなります。要するに、ここで言われているのは「関係を切る」ということです。「もはや兄弟とは見なさない」ということです。
時として、これが一番手っ取り早い解決策に思えることは、確かにあるだろうと思うのです。「倍返し」しなかっただけでも、まだ良かったと言えるかもしれません。しかし、イエス様は、私たちが一足飛びにその結論に至ることを望まれないようです。その前にすべきことがあると言われるのです。
では、どこから始めるべきなのでしょうか。主は言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。
まず、二人だけのところで語り合うのです。何のためですか。相手を責めるためではありません。目的は罪の悔い改めが起こることにあります。そして、赦しを与えることにあります。目的は和解が実現することにあるのです。そのような和解へのアクションは、苦しんだ方が先に取らなくてはならないのだ、主は言われるのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と。苦しんだ方から歩み寄るのです。兄弟を得るためです。
しかし、実際には、それで和解とが実現することは難しいかもしれません。そこで主は言われます。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(16節)と。
一人か二人を連れていくのは、二人がかり三人がかりで相手を責めるためではありません。法廷においては、複数の証言によって事実が確定します。そのように、事実に基づいて話をするためです。そのような客観性を持った話をするためには、時として第三者の助けを必要といたします。
しかし、それでもなお解決しない場合にはどうしたら良いのでしょう。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と主は言われます。そのように、苦しんだ方から行動を取るところから始まって、最終的には教会全体が解決を望んで取り組むところまで行って、それでもなお解決しなかった時に初めて「異邦人か徴税人と同様に見なす」ということが起こるのです。しかし、それは最後まで起こってはならないと主は考えておられるのです。
このように、イエス様が語っておられるのは、罪人を処分するための手順ではありません。主が望んでおられるのは、悔い改めと赦しが起こることなのです。和解が実現し、関係が回復することなのです。「兄弟を得たことになる」――これが実現することなのです。
心を一つにして求める
そして、主はさらにこう続けられます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18節)。
実はこれと全く同じ言葉を、既にイエス様は16章において語っておられました。その箇所も見ておきましょう。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表した時、主はペトロにこう言われたのです。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(16:18‐19)。そのように、主は「天の国の鍵」との関連でこのことを語られたのです。
天の国の鍵とは何でしょうか。天の国が閉ざされるとするならば、それは人間の罪のゆえに閉ざされるのです。ですから、罪人に対して天の国が開かれるとするならば、それは罪の赦しによるのです。その意味で、天の国の鍵とは「罪の赦し」です。その天の国の鍵を与えるため、罪の赦しを与えるため、イエス様は来られたということもできます。主はそのために十字架への道を歩まれ、自分自身を罪の贖いの犠牲として献げられたのです。イエス様は、文字通り、命がけで私たちに天の国の鍵を与えてくださったのです。
だから私たちは福音を宣べ伝えることができるのです。キリストによる罪の赦しを語ることができるのです。教会は洗礼を授けて罪の赦しを宣言することができるのです。キリストの恵みを分かち合う聖餐を行うことができるのです。この地上の教会で行われることは、天において、神の御前において意味を持つのです。それが「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」ということです。
しかし、ここで問わねばならないことは、何のために天の国の鍵、罪の赦しが与えられているのか、ということです。もちろん、罪ある者が赦されて、天の国に入るためであるには違いありません。しかし、それだけではないのです。それは地上において和解が実現するためでもあるのです。「兄弟を得たことになる」ということが本当の意味で実現するためでもあるのです。
つまりこういうことです。――誰かがあなたに対して罪を犯しました。あなたはイエス様の御言葉のとおり、二人だけのところで話をします。あなたは悔い改めを求め、赦しを与えようとします。しかし、それは単に、「あなたが悔い改めて私に謝罪するなら、私は赦してあげましょう」ということではないのです。そうではなくて、そこで重要なのは、「あなたが悔い改めて神に立ち帰るならば、神はあなたを赦してくださる」と伝えることなのです。そのためにこそ、神の赦しは与えられているのです。そして、あなたに対して罪を犯し、あなたを苦しめた者が神に立ち帰る時、そして神の赦しを得る時に、本当の意味であなたは「兄弟を得たことになる」のです。
私たちは間違ってはなりません。誰かに悔い改めを求めるとするならば、それは自分に謝罪させるためではないのです。悔い改めを求め、赦しを与えようとしているのは《神》なのです。私たちは、神の御心を代行するのです。そのために、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という約束の言葉は与えられているのです。
そしてさらに主は言われました。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(19節)。これも文脈と切り離してはなりません。「どんな願い事であれ」と言われているからこそ、二人が心を合わせて《何を願うのか》が重要になってくるのです。
私たちは心を一つにして何を求めるべきなのでしょうか。それはここまでの流れで明らかであろうと思います。悔い改めと赦しが起こり、和解が実現することです。「兄弟を得たことになる」ということが実現することです。それは自分自身と誰かの関係についてであるかもしれません。その時には他の誰かに共に祈ってもらうのです。あるいは他の二人の間に生じた亀裂であるかもしれません。その時には、自分が誰かと心を合わせて祈るのです。
最初に申しましたように、教会は天使の集まりではありません。イエス様によって招いていただいた、癒されつつある病人、変えられつつある罪人の集まりです。それゆえに、自分の罪によって他者を苦しめる時もあれば、他者の罪によって苦しめられる時もあります。しかし、そこで悔い改めが起こる。赦しが起こる。和解が実現する。そのことを主は望んでおられる。
しかし、実際には、それは容易なことではありません。だから祈るのです。心を合わせて祈るのです。そのように祈る恵みが与えられているのです。そして、そのように、共に祈る集まりのただ中にこそ、イエス様御自身がいてくださると、主は言われるのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。
2025年9月7日日曜日
「毒麦でも抜いてはなりません」
2025年9月7日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 13章24節~30節
今日はイエス様のなさったたとえ話をお読みしました。マタイによる福音書にしか出てこない「毒麦のたとえ」です。そして、今日の福音書朗読には入っていませんでしたが、36節以下ではイエス様がこのたとえ話について解説してくださっています。
畑は世界、敵は悪魔
たとえ話そのものは至って単純です。ある人が麦の種を蒔きました。すると人々が眠っている間に、敵が来て、毒麦を蒔いて行きました。毒麦と良い麦は、ある程度成長しなければ見分けがつきません。やがて僕たちが異変に気づきます。自然に雑草が生えてきたという程度ではありません。明らかに異常な量の毒麦が生えています。僕たちは主人に報告して言いました。「どこから毒麦が入ったのでしょう」。主人は、「敵の仕業だ」と言いました。
毒麦は有害な植物です。ですから僕たちは一刻も早く抜き集めようとしました。ところが主人は言うのです。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」(29‐30節)。これがイエス様の語られたたとえ話です。
次にイエス様の説明も見ておきましょう。38節に「畑は世界」と語られています。そして、39節には「毒麦を蒔いた敵は悪魔」であると語られています。悪魔がこの世界に毒麦を蒔いている。――なるほど、言われてみれば、その通りでしょう。誰の目にも明らかなことは、この世界には良い麦と呼べるものだけが成長しているのではない、ということです。確かに毒麦が存在しているのです。しかも力強く成長しているのです。
実際、悪魔の仕業としか思えないような事が起こります。なぜこんなことが起こるのか?なぜこんな人々が野放しにされているのか?なぜ不正を行う者が繁栄し、正直で善良な人々が詐欺に遭うようなことが起こるのか?実際、毒麦は良い麦以上に成長するものです。
しかし、聖書が語っているのは、蒔かれた種とその成長だけではありません。39節以下には、刈り入れの時についても語っているのです。「刈り入れは世の終わりのこと」と語られています。つまり、この世界がこのままで永遠に続くのではない、ということです。刈り入れの時が来るのです。結論が出る時が来るのです。それが私たちの死んだ後か死ぬ前か分かりません。しかし、いずれにしても毒麦は集められ、火で焼かれることになる。最終的に神様が正しく裁かれるということです。イエス様が語っておられるのはその意味で世界全体に関わる話です。
たとえ話の中に身を置いてみると
さて、このたとえ話の中に身を置くと何が聞こえてくるでしょう。
ある人はこの「毒麦」のところに身を置いて聞くかもしれません。「わたしは外側は取り繕って良い麦のような顔をしているかもしれないけれど、本当は神様から見たら毒麦かもしれない。ならば、最終的には毒麦として集められ、滅ぼされてしまうのではないだろうか。」そのように、「毒麦」のところに身を置く時、このたとえ話はたいへん恐ろしい話としてとして聞こえてまいります。
しかし、ある人は、「良い麦」のところに身を置いてこの話を聞くかもしれません。「確かにこのたとえ話のとおりだ。良い麦だけではなく、毒麦もいるというのは本当だ。いるいる、毒麦!あの人とこの人は、ぜったいに毒麦ですよね。今は、表面はいい顔して良い麦と区別つかないようにしているかもしれないけれど、最後には絶対に火で焼かれるね。」
いや、「良い麦」のところに身を置いて、他の人を毒麦と見なすだけではありません。このたとえ話には「僕たち」が出て来るのです。彼らは言うのです。「では行って抜き集めておきましょうか!」この僕たちのところに身を置くと、もしかしたら、ある種の共感を覚えるかもしれません。毒麦はいない方がいい。放っておいたら大変なことになる。早く対処しなくてはならない。そのようなことを心に抱いている自分自身を見出すことになるかもしれません。
実際、この僕が提案する「毒麦抜き」は、様々な形で歴史において起こってきたのです。ある場合には、文字通り、毒麦と見なされた人々が集められ、抹殺されるという形で起こりました。それは今も世界のどこかで起こっていることです。皆さん、本当に恐ろしいことは、「自分はもしかしたら毒麦かも」と思っているところからは起こらないのです。そうではなくて、正義感に燃えた正しい僕が「では行って抜き集めておきましょうか」と言い出すところから起こるのです。
刈り入れまで育つままに
そのように、この「毒麦」のたとえ話は、「毒麦」のところに身を置いて聞くこともできるし、「良い麦」のところに身を置いて聞くこともできる。「僕」のところに身を置いて聞くこともできるでしょう。そして、それぞれ聞こえて来ることがあるのです。しかし、このたとえ話の中心は、実は「毒麦」でも「良い麦」でも「僕」でもありません。中心はあくまでも「主人」なのです。
主人は何と言っているでしょう。「では行って抜き集めておきましょうか」と言う僕たちに、主人は答えます。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。その理由は何ですか。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」――これが理由です。
農業の話に限るなら、常識的なセンスを持っているのは、この「僕たち」の方です。毒麦は雑草です。成長すれば良い麦に根がからみもします。影響が小さいうちに、早いところ引っこ抜いてしまうのが良いのです。その時に、多少良い麦が抜かれてしまっても仕方ない。それがこの世の常識です。
しかし、この風変りな主人はそれがいやなのです。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」。そのように、この主人は異常なほどに、あくまでも一本一本の麦が正しく扱われることにこだわるのです。それゆえに途中でではなく、最終的にすべてが正しく扱われる時まで待ちなさいと言うのです。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と。
そして、もちろんイエス様は天の父の話をしておられるのです。神様は十把一絡げではなく、私たち《一人ひとり》が正しく扱われることを望んでおられるのです。一人ひとりに異常なほどに関心を向けられるのです。私たちは神にとってどうでもよい存在ではないのです。だから神は真剣に取り扱われるのです。
それゆえに、刈り入れの時まで待つのです。終わりの時まで待つのです。神様はそのような御方なのだ、というのです。神様は、早急に裁くことをされないのです。終わりの時までは、純粋に良い麦だけの畑を求められないのです。じっくりと忍耐をもって、時が来るまで待たれるのです。聖書が「終末における神の裁き」について語っているということは、言い換えるならば、その終わりの時までは、神は忍耐強く待たれる、ということなのです。
毒麦は良い麦に
このように、このたとえ話の中心は「主人」であり、最も大事なのは主人が語られた言葉です。しかし、実はもっと大事なことがあるのです。それは、このたとえを《イエス・キリストが語られた》ということです。教会は、このたとえを、「イエス・キリストが語られたたとえ話」として伝えてきたのです。そのイエス・キリストとは、私たちの罪を贖うために十字架にかかられて死なれたイエス・キリストです。
確かに神は良い麦と毒麦を一緒くたにはされません。「どちらであっても良いのだ」とは言われません。最終的に、良い麦と毒麦は区別されます。「刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と主人は言うのです。そのような、ある意味でとても恐ろしい話でもあります。
しかし、このたとえ話はイエス・キリストの語られたたとえ話なのです。救い主が語られたたとえ話です。救い主によって悔い改めが呼びかけられ、罪の赦しの扉が開かれているところで語られているたとえ話なのです。
罪の赦しの扉が開かれているということは、言い換えるならば、本来ならば滅びるはずの毒麦が、良い麦として倉に取り入れられる可能性があるということです。自然の農業においては、毒麦はあくまでも毒麦です。良い麦にはなりません。しかし、神の農業においては、毒麦が良い麦になり得るのです。良い麦としてスタートできるのです。罪の赦しがあるならば、そこには悔い改めと、新しいスタートもあり得るのです。毒麦に留まっている必要はない。毒麦であり続ける必要はないのです。
どうでしょう。もし神様という主人が、あの僕たちの提案に従って、「今すぐ毒麦を抜き集めてしまいなさい」と言われる御方なら、私は、とうの昔に抜き集められ滅ぼされていたに違いありません。それは皆さんにしても同じであろうと思います。しかし、神はそのような主人ではありませんでした。神は終わりの日まで待たれます。結論を出さずに待たれます。人がイエス・キリストを通して与えられた恵みを受け取り、罪の赦しにあずかって、良い麦として生き始めることを待たれます。そして、良い麦として生き続け、失敗したとしても何度でもやり直し、最終的に良い麦として刈り入れられることを神様は望んでおられるのです。そのことのために、神様はどこまでも忍耐強く私たちに関わってくださるのです。
「行って毒麦を抜き集めておきましょうか」――神はその提案に対して「ノー」と言われます。神がそう言われるならば、私たちもまた、他の人に対して、早急に結論を出してはならないのです。断罪するのではなくて、神様の忍耐と寛容とを思いつつ関わっていくことが求められているのです。
いや、他の人に対してだけではありません。私たちが本当に忍耐強く寛容をもって関わらなくてはならないのは、自分自身に対してであるかもしれません。自分を毒麦として早急に断罪してしまわないことです。本当に大事なことは、毒麦が発見されることでも、毒麦が抜き集められることでもないからです。大事なことは、毒麦が良い麦に変えられていくことだからです。
2025年8月31日日曜日
「キリストの家族としての生活」
2025年8月31日 主日礼拝説教
聖書:マタイ12:43‐50
汚れた霊が出て行くと
今日の福音書朗読の前半は、イエス様がなさったたとえ話です。こんな話でした。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(43‐45節)。
人が家に喩えられていますから、形の上では「たとえ話」です。しかし、汚れた霊が人から出て行ったり、戻ってきたりすること自体は、単純にたとえ話とも言えません。というのも、福音書には、実際にイエス様が「汚れた霊」あるいは「悪霊」を追い出したという話が繰り返し記されているからです。
度々申し上げていることですが、このような「汚れた霊」や「悪霊」に関する記述を読むにあたって二つの誤った態度があります。一つは、「悪霊」の類に過度に不健全な関心を向けることです。私たちの経験する災いをやたらに「悪魔」や「悪霊」の仕業と考えることは極めて不健全な信仰生活をもたらすことになります。聖書は悪魔や悪霊よりもはるかに多くの言葉をもって神様について語っていることを忘れてはなりません。
しかし、もう一方で、「悪魔」や「悪霊」を単なる前近代的な迷信として片付けてしまい、関心を全く向けないことも、健全であるとは思えません。なぜならイエス様は実際に「悪霊」について語り、使徒たちもまた語り、そして、教会が長い歴史において語ってきた事実があるからです。そして、その背景には人類がその初めから経験してきた悪の力のリアリティがあるからです。先週もお話ししたことですが、それを「悪霊」と呼ぼうが「汚れた霊」と呼ぼうが、何と呼ぼうが、現にこの世界には人を悪へと誘惑する力、神から引き離そうとする力がリアルに働いているのです。信仰者に対しては、信仰生活を損なわせ、神に背を向けた生活へと誘い、滅ぼそうとする力が働いているのです。
だからこそ、古くからこの悪霊を「追い出そうとする」営みもまたあるのです。先にも触れたように、福音書にはイエス様が悪霊を追い出した話が繰り返し出てきます。しかし、これはイエス様が始めたのではないのです。それ以前から、悪霊追放の営みや儀式はユダヤ教の世界にはあったのです。そして、さらに言うならば、ファリサイ派に代表される、戒律順守を重んじるユダヤ教そのものが、悪霊追い出しの試みであったとさえ言えるのです。
実際、イエス様の時代のユダヤ人たちは、特にファリサイ派の人たちは皆、生活の隅々に至るまで律法を適用し遵守して、自分の内からも、また生活からも、神の御心に反する悪いもの、汚れたものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願ったのです。それは広い意味における悪霊の追い出しであり、それ自体、極めて真面目な、崇高な営みであったとも言えるのです。
しかし、イエス様はそのようなユダヤ人社会に身を置いて、そのような人々の間に身を置いて、このたとえ話をされたのです。そして、言われたのです。「この悪い時代の者たちもそのようになろう」と。つまり、このたとえ話のようになるだろう、と言われるのです。汚れたものを追い出して、お掃除したって、あいつらは自分より悪い友達を連れて帰ってくるようになりますよ、と。
実際、福音書を読んでいますと、イエス様の言われることは本当だと、改めて思わわれます。汚れたものを追い出して、遠ざけて、清くあろうとした人たちの内側には、実は彼らも気付かない内に、汚れた霊の友達が一杯住み着いていたのです。例えば、妬み、憎しみ、敵意、殺意などの形をとって、神に反する力、神から人を引き離す力が住み着いていたのです。そして、結局それらは全て、イエス様に対して正体を表すことになるのです。既にこの章の14節には、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(14節)などとも書かれています。これが清さを求めた人たちのリアルです。汚れた霊がたくさん顔を覗かせているではありませんか。
さて、ユダヤ人社会の話をしてきましたが、皆さん、これって私たちもまた多かれ少なかれ、経験してきていることではありませんか。私たちの心を一生懸命に綺麗にし、私たちの生活もまた綺麗にして整えることは良いことのように思えるのです。実際、そのように自分の心をなんとかしようと、自分の生活をなんとかしようと、一生懸命にお掃除しようと頑張ったこと、私たちにもあるのではありませんか。しかし、イエス様に言わせるならば、それだけでは掃除をして整えられた空き家のようなものだというのです。そのままでは、そこに悪いものがさらに満ちることになりかねないのです。
心を空き家にしないため
そこでこの福音書はさらに46節以下の話を続けるのです。今日の朗読の後半部分です。「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(46‐50節)。
「汚れた霊が戻ってくる」という話とこのエピソードは一見関係なさそうに見えるかもしれません。実際、ルカによる福音書ではそれぞれ別の章に記されています。しかし、マタイは「イエスがなお群衆に話しておられるとき」という言葉をもって、あえて関連づけて書いているのです。そこで私たちは今日、43節から50節までを一つのまとまりとして読んだのです。
イエス様は言われました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。まるで、外に立っているのは母親でも兄弟でも何でもない、と言わんばかりです。しかし、イエス様はこれを母マリアや兄弟たちに向かって言ったのではありません。そうではなくて、彼らが外に立っていることを伝えにきた人に言ったのです。
さらに言うならば、ただその人に聞かせるためでもありません。「弟子たちの方を指して言われた」と書かれていますでしょう。そこには何人かの律法学者たちとファリサイ派の人たちもいたのです。その彼らの面前で、弟子たちを指して、イエス様はこう言われたのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(49‐50節)。
そのようにイエス様は「ここにいるのはわたしの家族だ」と言われたのです。「わたしにとって外にいる肉親と同じくらい、いやそれ以上に大事なわたしの家族だ。わたしの天の父の御心を共に行っていく家族なのだ」と主は言われたのです。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と。
弟子たちは、このイエス様の言葉を忘れることができなかったに違いありません。そして、その意味するところを後に深く悟ったことでしょう。まさにそのために、イエス様が十字架にかかられ、罪を贖ってくださったのだ、ということを知ることになったのです。それはここにいる私たちも同じです。イエス様が私たちの罪を代わりに負って十字架におかかりくださることなくして、私たちはイエス様の兄弟でも神の家族でもあり得ないのです。罪の赦しなくして、「天にまします我らの父よ」という祈りはあり得ないのです。
私たちにとっても、何よりも重要なのは、イエス様から「あなたたちはわたしの家族だ」と言われているのだという認識です。そして、イエス様の家族として、イエス様と共に、イエス様が示してくださった天の父の御心を行おうとして生きていくことなのです。
それは心や生活をきれいにしようと努力することよりも、ずっと大事なことなのです。追い出してきれいに整えることよりも、良きものに満たされていることの方が大事なのです。イエス様の兄弟として天の父の御心を行おうとしている限り、心は空き家にはなりません。そこにはキリストが住んでおられるからです。だから汚れた霊が出て行くならば、友達を連れて戻ってきて、より悪いものが住み着く余地はないのです
身近な人間関係においても
さて、本日の第二朗読(コロサイの信徒への手紙3:18~4:1)においては、私たちにとって最も身近な人間関係である「家庭」の事柄が取り上げられていました。「家庭訓」と呼ばれます。ユダヤ人の間においては古くからしばしば論じられてきた事柄です。ここでは夫婦の関係、親子の関係、そして奴隷と主人との関係が取り上げられています。もっとも奴隷と主人の関係は、当時においては家族の事柄だったのですが、現代の私たちにとってはむしろ社会生活における労使関係として適用できるかも知れません。いずれにせよ身近な人間関係において私たちがいかに生きるべきか、具体的な勧めを与えている聖書箇所です。
しかし、ここに書かれていることは、単に身近な人間関係から悪いものを追い出して、より良いものにするための知恵ではありません。実は、ここで大事なのは、本日の第2朗読の直前に書かれていることなのです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(16‐17節)。
そのように、ここに書かれている勧めの大前提となっているのは共に御言葉を聞き、心に宿し、共に神を礼拝し、感謝して生きる生活なのです。つまりは生活のあらゆる領域においてイエス様を思い、天の父を思い、聖霊に満たされて生きる生活です。きれいに整えられた空き家ではなく、良きものに満たされ、良き御方によって治められている生活です。
だからこそ、そこには妻については「主を信じる者にふさわしく」と書かれ、子供については「それは主に喜ばれることです」と書かれているのです。奴隷については、「何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心から行いなさい」と語られ、主人については「知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです」と語られているのです。明らかに、そこでまず大事になってくるのは、主との関係です。主が家の外ではなく、家の中に、しかも中心にいてくださることなのです。
2025年8月24日日曜日
「蛇のように賢く、鳩のように素直に」
2025年8月24日 主日礼拝説教
聖書: マタイによる福音書 10:16‐25
希望を放棄しないこと
「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。――先ほどお読みしましたマタイによる福音書10章22節の言葉です。実は、この福音書の24章にもそっくり同じ形でこの言葉が出て来ます。語順も全く同じままマルコによる福音書にも出て来ます。恐らく初期の教会において、このままの形で記憶され、皆がしばしば口にしていたイエス様の御言葉だったのです。そして、この言葉が繰り返し口にされたのは、現実に苦しみがあったからです。
私たちも知っているとおり、信仰は必ずしも苦しみの免除を約束するものではありません。キリストを信じたら苦難に遭うことはありません、などと聖書は約束していません。迫害の時代であるならば、それは自明のことでした。信仰を言い表しているゆえに、かえって苦難に遭うということが現実にあったからです。
それは今日の聖書箇所において、イエス様も言っているとおりです。地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれることも起こる。すなわち宗教的な権力によって苦しめられることも起こります。あるいは総督や王の前に引き出されるということも起こってくる。ローマ帝国の国家権力によって苦しめられることも起こってきます。
しかし、恐らく一番大きな苦しみは、家族から苦しめられることだったのでしょう。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」(21節)とさえ主は言われます。国家権力による迫害よりも、愛する者から理解されないこと、憎まれるようになることほど、辛いことはありません。そのような中で、彼らは互いにこう言って励まし合っていたに違いありません。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。そうイエス様は言っておられたではないか、と。
「最後まで」と言われているということは、すなわち「最後がある」ということです。終わりがある。永遠じゃない。迫害は永遠ではありません。迫害に限らず、いかなる苦しみも永遠ではありません。それは限られた期間です。必ず最後がある。トンネルに必ず出口があるように、夜明けは必ず訪れるように、必ず「最後」があるのです。だから「耐え忍ぶ」のです。
「耐え忍ぶ」とはどういうことでしょうか。苦しくても我慢することでしょうか。いいえ、そういう意味ではありません。これはもともと「留まる」という言葉から来ているのです。「耐え忍ぶ」とは「留まる」ということです。どこに留まるのでしょう。信仰に留まるのです。聖書が語っている「忍耐」とはそういうことです。信仰に留まることです。
実はこれと同じ言葉が詩編に何度も何度も出て来るのです。詩編はもともとヘブライ語で書かれているのですが、七十人訳というギリシア語訳聖書があります。そのギリシア語訳の詩編にこの言葉が何度も出て来るのです。興味深いことに、ほとんどの場合、「待ち望む」という意味で用いられているのです。主を待ち望むということです。例えば、「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27:14)というように。この「待ち望む」と新約聖書の「耐え忍ぶ」は同じ言葉なのです。
そのように、「耐え忍ぶ」「忍耐する」とは「待ち望む」ことなのです。主を待ち望むことです。どこまでも待ち望むことです。希望を放棄しないことです。信仰に留まって、希望に生きる、どこまでも希望に生きることです。「忍耐する」とはそういうことです。
教会はその初めから、そのような意味で「忍耐すること」を大事にしてきたのです。教会は苦難が永遠でないことを常に心に留めてきたのです。終わりは神の御手の内にあることを知っていた。神は必ず夜明けをもたらすことができることを知っていたのです。だから互いに励まし合い、共に信仰に留まったのです。互いにこう言い交わしながら。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。
蛇のように賢く、鳩のように素直に
そして、この「最後まで」と語られているこの期間を私たちが生きる上で、イエス様はとても大事なことを今日の箇所で語っておられるのです。それは今日の説教題にもなっています。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。
イエス様は弟子たちに言われました。「わたしはあなたがたを遣わす」(16節)。今日の箇所は先週お読みした聖書箇所の続きです。ですから、この言葉が実際に語られた時点では、まだ彼らは近隣の町々村々に遣わされるに過ぎません。しかし、やがて彼らは、そして彼らから始まる教会は、この広い世界に遣わされることになるのです。今日の箇所は、そのことを見越して語られているのです。
先週も申し上げましたとおり、私たちはこの世に遣わされているのです。キリスト者として生きるということは、主によってこの世に遣わされた者として生きるということなのです。私たちがどのような状態にあろうと、どこに身を置こうと、そこが私たちの遣わされた場なのです。主が目的をもって置いてくださっているのです。それは本当はとても幸いなことなのです。私たちはいかなる時にも無意味な存在ではあり得ないからです。遣わされているとはそういうことです。
しかし、主はこうも言われました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と。主は最初から分かっておられたのです。弟子たちが遣わされた者として生きる時には、忍耐が必要となる時が来る、と。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と互いに励まし合うことも必要になる。なぜなら、この世界は狼がいる世界だからです。
それは、迫害の時代の教会にとっては、具体的には迫害者を意味したことでしょう。実際、弟子たちは迫害者の群れの中に遣わされることになったのです。しかし、本当に恐ろしいのは、迫害する人間そのものではありません。そこに働いている力です。神から引き離そうとする力です。信仰生活を損なわせ、神に背を向けた生活へと誘い、滅ぼそうとする力です。
それを悪魔、サタンと呼び、また悪霊と呼ぶこともできるでしょう。神から引き離すサタンの力は、必ずしも迫害という形をとって現れるとは限りません。迫害はある意味ではとても分かりやすいのです。しかし、実際には、迫害のない時代の私たちが経験しているように、もっともっと巧妙な形で、もっともっと複雑な仕方で、時として全く気付かないうちに、神から引き離す力は働いているものなのです。だからこそ、主は言われたのです。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)。
「蛇のように賢く」という言葉の元になっているのは、恐らく創世記の物語です。エバが蛇に誘惑されて禁断の木の実を食べてしまったという話です。その蛇が聖書に登場する際に、こう書かれているのです。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3:1)。
確かに創世記に出て来る蛇の誘惑は実に巧妙です。確かに賢い。ずる賢い。しかし、悪魔の誘惑とはそういうものではありませんか。先にも述べたように、しばしば全く気付かないうちに、神から引き離そうとする力は働いているのです。そのように、悪魔が賢いとするならば、私たちもまた、賢くあらねばならないのです。主は言われます。「蛇のように賢くなりなさい」。
実際、もしこれが迫害の時代ならば、集会を一つ行うにしても賢さが必要だったと思います。キリスト者としてこの世で生活し、キリストを証しして生きるにしても、そこには賢さが必要だったと思います。いや、それだけではありません。迫害されれば迫害者と闘いたくなる誘惑もあったことでしょう。しかし、人間相手の戦いにしないで、悪魔と戦うためには、賢さが必要だったと思います。実際に彼らが世に遣わされた時、イエス様から言われたこの言葉の意味は、身に染みてよくわかったに違いありません。
先にも述べましたように、今日においては、ある意味では、迫害の時代以上に、巧妙な形でサタンの力は働いているとも言えます。ならば、なおさら賢さが必要とされるのでしょう。目先のことに振り回されて、目に見えることに翻弄されて、やすやすと信仰生活が壊されるようなことがあってはならないのです。そこに働いている力は何なのか、本当の敵は誰なのか。絶対に奪われてはならないもの、失ってはならないものは何なのか。しっかりと見極めなくてはなりません。主は言われます。「蛇のように賢くなりなさい」。
そして、主はまたこうも言われました。「鳩のように素直になりなさい」と。「素直に」というのは「混じり気のない」とか「純真な」という意味合いの言葉です。それはただひたすら神に依り頼む、素朴な信仰を意味するのでしょう。主は具体的に、こう言われたのです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(19‐20節)。
たとえ地方法院に引き渡されるようなことになったとしても、そこで父の霊が語ろうとしていることがあるのです。総督の前に引き出されるようなことになったとしても、そこで父なる神がしようとしていることがあるのです。そのように、人間の目には最悪の事態が訪れたように見えたとしても、それでもなおそこで神がなさろうとしていることがあるのです。神の計画は進んでいるのです。人はただ鳩のように素直に、純真に、素朴に信頼したらよいのです。
そのように主は「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われます。私たちはこの御言葉をしっかりと携えて、この世に遣わされていきたいと思います。そして、希望を手放すことなく、主を待ち望み、終わりの日に向かって、共に信仰の歩みを続けてまいりましょう。
2025年8月17日日曜日
「キリストによって遣わされて」
2025年8月17日 主日礼拝説教
聖書: マタイによる福音書 10:1‐15
今日の聖書箇所はイエス様が十二人の弟子を呼び寄せたところから始まります。弟子と呼ばれる人たちは、この時点で既に数多くいたものと思われます。しかし、ここで特に十二人が他の者と区別されて呼び寄せられたのです。そして、彼らの内、イスカリオテのユダを除いだ十一人こそが、後の教会の歴史の出発点に立つことになるのです。すなわち、彼らは後の日に、復活したキリストから、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28:19)と命じられ、この世界に遣わされることになるのです。そして、その先に二千年に及ぶ教会の歴史があり、私たちは今、その中に身を置いているのです。
その意味において、私たちはあの十二人と深いつながりの内にあると言えます。彼らがキリストから教えられたこと、彼らが体験的に学んだことは、後の教会にとっても非常に重要なこととして伝えられてきたのです。だから十二弟子がキリストによって周辺の町々村々に遣わされた話もまた、聖書に書き記されて二千年後の私たちがこうして読んでいるのです。私たちは今日、この与えられた物語を読むに当たり、私たちに深く関わっていることとして、特に三つのことに注目したいと思います。
キリストによって遣わされて
第一は、彼らが「十二使徒」(2節)と呼ばれているということです。「使徒(アポストロス)」とは「遣わされた者」という意味です。先にも申しましたように、彼らはこの世界に遣わされることになるのです。それは彼らから始まる教会が何であるかをはっきりと示しています。教会はこの世に遣わされた存在である、ということです。私たちは「遣わされた者」なのです。
教会がこの世に遣わされた存在であるとは、教会自体のために存在するのではない、ということです。派遣してくださる主のために、また、その対象であるこの世界のために存在するのです。それはまた教会を形づくる私たち一人ひとりも自分のために存在するのではない、ということです。「遣わされた者」として、主のために、またこの世のために存在するのです。
そのように、私たちが「遣わされた者」として生きるなら、少なくとも、「わたしは何のために生きているのか」という類の悩みとは縁が無くなります。私たち自身が存在する目的は、私たち自身が持っているのではなくて、遣わしてくださる主が持っておられるからです。私たちは、どのような者であれ、いついかなる時にも、無意味な存在にはなり得ないのです。
また、「遣わされた者」として生きるなら、自分が身を置いている場所はすべて「遣わされた場」という意味を持つことになります。家庭にせよ、学校にせよ、職場にせよ、入院先の病院にせよ、それはすべて遣わされた場所となるのです。遣わされた者として生きるなら、人との関わり、また生き方そのものが変わることになります。
しかし、「遣わされた者」として生きるということは、単に「使命感を持って生きる」ということではありません。そこで重要なのは、5節後半のキリストの言葉です。主は弟子たちに言われました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(5b‐6節)。これは極めて排他的な、差別的な響きをもっている言葉に聞こえます。しかし、私たちは、異邦人やサマリア人を排除し、差別するかのように聞こえるこの言葉を、後の教会が大切に伝えてきたことを良く考えねばなりません。
キリストはやがて復活の後、弟子たちをサマリア人の町にも、異邦人の方にも遣わされるのです。しかし、その時には、「今は行くな」と言われたのです。そして、弟子たちは従ったのです。その事実を、重要なこととして教会は伝えたのです。それが「派遣される」ということだからです。
この世の中には為した方が良いと思えることがいくらでもあるのです。為すべきであると思えることもいくらでもある。しかし、一般的な意味で「行った方が良いこと」「行うべきこと」と、「今、私が行うべきこと」は必ずしも同一とは限りません。「遣わされた者」にとって重要なことは、遣わす御方の御心に従うことであって、自分の使命感に従うことではないからです。その意味において、人の求めに耳を傾ける以上に、私たちはキリストの御声に耳を傾けなくてはなりません。主の日の礼拝において、また日々聖書を開くことにおいて、主の御言葉に耳を傾ける。それは「遣わされた者」として生きるために何よりも大事なことなのです。
天の国を宣べ伝えるために
そして、注目すべき第二は、主が十二弟子を派遣するに当たり、為すべきこととして、まず「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と命じられた、ということです。
キリストは弟子たちにこう言われました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(7‐8節)。
この世界は病気のある世界です。死のある世界です。病気や死に代表される様々な具体的な苦悩に満ちている世界です。「病人をいやし、死者を生き返らせる」ということは文字通り起こるのでしょうか。文字通りの仕方で起こるかもしれませんし、文字通りの仕方では起こらないかもしれません。しかし、いかなる形にせよ、主が私たちを遣わし、私たちを用いられる時、そこでは広い意味での癒しが起こります。
しかし、重要なことは、ただ癒しのために仕えるのではなく、その前に告げ知らせるべき言葉があるということです。主は言われました。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と。
「天の国は近づいた」――これはキリスト自身が宣べ伝えていた言葉です。この福音書では4章17節に記されています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)。そのように、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるということは、「悔い改めよ」と呼びかけることでもあります。「悔い改める」とは、ただ「悪い行いを改める」ということではなく、「神に立ち帰る」ということです。
神が恵み深く近づいてきてくださる。天の国は近づきました。しかし、そこに入るには、人間が方向を変えて神に立ち帰らなくてはなりません。弟子たちは、そのことを告げるために送り出されたのです。そのように教会もこの世に遣わされているのです。
ですから、そこではまた、「悪霊を追い払いなさい」とも命じられております。「悪霊」と聞いて、オカルト的な憑依現象のようなものだけを考えてはなりません。憑依現象などは特殊な片鱗に過ぎません。悪霊とは、人間を神から引き離そうとする力です。それはありとあらゆる形をとって、この世界に現れている、神に逆らう力です。
主は、その悪霊を追い払え、と命じられたのです。それは悪霊の支配から、神の恵みの支配のもとへと人間を回復することに他なりません。私たちは、大局的には、人間を、この世界を、神のもとに取り戻すために遣わされているのです。
キリストの権威によって
そして、注目すべき第三は、主が十二弟子を派遣するに当たり、彼らの持ち物のほとんどを没収してしまわれた、ということです。
イエス様は言われました。「帯の中には金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(9‐10節)。このように、弟子たちは大きな務めを与えられて遣わされるにもかかわらず、その働きのために必要と思われるものを、彼らは何一つ持っていくことは許されませんでした。
しかし、彼らには何も無かったのではありません。1節にはこう書かれています。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」(1節)。これは彼らに恵みの賜物として与えられたものです。ですから、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)と命じられているのです。彼らの働きは、このただで与えられもの、神の恵みとして与えられたものによって成し遂げられるのであって、彼らが携えていける他の何かによるのではないのです。
さて、私たちには、この話はあまりにも極端に思えます。何も無かったら、宣教の働きはおろか、旅を続けることさえ不可能ではないか――。そう思えるかもしれません。
一方、今日の教会は状況がずいぶん違います。私たちの教会はコロナ以降、経済的に難しい状況であるとはいえ、まだ自立しているとは言えます。教会にはまた、多種多様な才能を持った人もいます。それぞれが受けてきた教育もあります。積んできた経験もあります。なので、往々にして、私たちはそのように自分たちが持っているものによって、自分たちが能力的にできることによって、教会の働きというものは続けられると考えてしまいがちです。
あるいは教会には逆のことも起こりえます。自分たちは豊かでもないし、能力も乏しく、教育もなく、知識も経験もないから、与えることのできる何をも持っていない。だから神のお役には立てない。――教会として、あるいは個人として、そのように考えてしまうことがあるかもしれません。
実際、教会にせよ個人にせよ、置かれている状況は時と共に変わります。豊かにもなれば貧しくもなります。健やかな時があれば、病む時もあるのでしょう。しかし、だからこそ、イエス様があの時弟子たちに語られたこの言葉を、教会は大切に伝えてきたのです。この世的に見るならば何も持っていない弟子たちだからこそ、何も差し出すことのできるもののなかった弟子たちだからこそ、ただで受けたもの、すなわち神の恵みを人々と分かち合うことができたのだ、と。、
だからこそ、遣わされた者の働きは、主に依り頼むこと、そして祈ることなくして成され得ないのです。実際、あの弟子たちにしても、手元に何もないならば、天を仰ぐしかなかったわけでしょう。教会として、個人として、私たちが何を持っているかは問題ではありません。どのような状態に置かれているかも問題ではありません。遣わされた者として、真に遣わしてくださったキリストに寄り頼み、キリストの御声を聞き、御心を行いたいと願っているかどうかが重要なのです。
2025年8月10日日曜日
「罪人を招くため」
2025年8月10日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 9:9‐13
教会の礼拝堂にはテーブルが置かれています。聖餐卓と言います。キリスト教会ならどこの教会にも必ずあります。このテーブルを用いて、月一回聖餐式が行われます。私たちの教会では、聖餐において、小さなパンを食べ、小さなグラスから葡萄ジュースを飲みます。しかし、初期の頃の教会では、通常の食事と変わらない仕方でこれが行われていました。その食事は「パン裂き」あるいは「主の晩餐」と呼ばれ、教会生活の中心として重んじられました。そのように、キリストを記念して、一緒に食事をすることが、すなわち礼拝だったのです。それが形を変えて今日のような聖餐となっています。しかし、形が変わったとしても、それが食事であることに変わりありません。礼拝とは、主と共に食事をする、食卓への招きなのです。それは聖餐が行われない週の礼拝においても同じです。ですから聖餐卓は聖餐が行われない週でも置かれたままになっているのです。
さて、そのように教会が「パン裂き」「主の晩餐」と呼ばれる食事を重んじてきたことと、聖書に繰り返し《食事の話》が出てくることは、無関係ではありません。今日の聖書箇所にも、食事の話が出てきました。このような食事の話は、まさに聖餐卓を囲んで行う主の日の礼拝が何であるかを指し示す物語として、語り伝えられてきたのです。ですから、私たちもまたこの物語を読む時に、食卓を囲んでいる私たち自身のことを考え私たち自身を重ね合わせながら読むことが大事になってくるのです。
わたしに従いなさい
今日お読みしました物語は、ある徴税人が主によって招かれたところから始まります。その人の名は「マタイ」です。他の福音書では「レビ」と呼ばれています。彼は十二弟子の一人でありまして、伝統的にはマタイによる福音書はこの人によって書かれたとされています。
ところで、今日の聖書箇所にも出てきます「弟子」という言葉は、ユダヤ人の言葉では通常「タルミード」と言います。そして、「タルミード」と言いますと、一般的には、ユダヤ教の教師(ラビ)のもとで律法を学ぶ生徒を意味する言葉です。そのように、外から見るならば、明らかにイエス様は一人のユダヤ教のラビであり、シモンやアンデレたちはタルミードでありました。ですから福音書において、イエス様がしばしば「ラビ」とか「先生」と呼ばれているのです。
しかし、もう一方において、イエス様はユダヤ教のラビとしてはあまりにも異質な存在であったことも事実です。その故に、他のラビたち、律法学者たちと繰り返し衝突が起こったことを聖書は伝えています。
そもそも、弟子の取り方からして、異質でした。一般的には、タルミード(弟子)になりたい人がラビを選び、「弟子入り」するのです。それは私たちに身近な習い事などを考えても、容易に理解できるでしょう。しかし、イエス様の場合、そうではありませんでした。十字架にかかられる前夜、イエス様はこんなことを言われたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15・16)。普通のラビはそんなことは言わないのです。しかし、イエス様の言われたことは確かに事実です。ペトロやヨハネがイエス様を教師として選んだのではありませんでした。漁をしていた彼らの生活の中に、イエス様の方から入り込んできたのです。そして、イエス様が彼らを呼びだして弟子としたのです。
今日お読みした場面のマタイも同じです。マタイはもともとイエスに関心を持っていたわけではありません。カファルナウムに帰ってきたイエスに人々が群がっている時にも、マタイは行かなかったのです。彼は仕事をしていたのです。ナザレのイエスが帰ってきたことなど、どうでも良かったのです。
彼は「収税所に座って」いました。彼は徴税人です。今日の聖書箇所で、繰り返し徴税人は罪人と並べられています。それは理由のないことではありません。異邦人であるローマ人のために同胞から税金を取り立てる仕事が神に逆らうものとして蔑まれていただけではありません。実際、その業務には不正が入り込む余地がいくらでもありました。また事実、不正の利得が蓄えられることが行われてきたのです。ですから、「収税所に座っていた」と何気なく表現されているのですが、その言葉は、このマタイという人が、その時まさに罪深い生活の中にどっかりと腰をおろしていたことを暗に示しているとも言えるのです。
しかし、そのようなマタイに、イエス様の方から目を止められたのです。そして、彼に言いました。「わたしに従いなさい」と。そこで何が起こったのでしょうか。「彼は立ち上がってイエスに従った」と書かれております。そして、この「立ち上がる」という言葉は、別の場面では「復活する」という意味で用いられる言葉でもあるのです。
罪深い生活の中にどっかりと腰をおろして、もはや神との関わりについても、最終的な救いの希望についても、まったく考えることさえできない状態を霊的に《死んでいる状態》と表現するならば、そこから立ち上がることは、確かに《復活》と表現することができるでしょう。もちろん、それで突然正しく立派な人間になるわけではないでしょう。しかし、ともかく立ち上がったのです。そして、キリストと共に新たに歩みはじめ、神と共に生き始めた。それがマタイに起こり、代々のキリスト者に起こり、そして私たちに起こったことなのです。
わたしが来たのは罪人を招くため
そして、今日の聖書箇所に描かれているのは、そのような者たちの食事の場面なのです。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」(10節)。この箇所を読んで、「イエス様は、社会から排斥された人々を差別することなく、自ら彼らと共に食事をされました」――と感動をもって語られることがあります。しかし、話はそれほど単純ではありません。というのも、普通に考えるならば、さほど美しい光景ではないからです。
ここにはファリサイ派の人々も登場してまいります。ファリサイ派の人たちは通常、手ずから働いて経済的な独立を保っている人たちです。パウロが天幕作りをしていたようにです。それがファリサイ派の特徴です。一方、イエス様とその一行を考えてみてください。どうも自給自足の生活をし、経済的に自立しているようには見えません。この場面だけでなく、四つの福音書には、イエス様とその一行が、様々な人に食事を食べさせてもらっている場面がやたらに目立ちます。この食事も恐らくマタイの大盤振る舞いだったのでしょう。ルカによる福音書ではもっとはっきりと、「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」(ルカ5:29)と書かれています。
一般的に徴税人は金持ちでした。先にも触れたように、一般的に言いまして、彼らは不正の蓄財によって潤っていたからです。そんな連中が招待して食べさせてくれる食事など、ファリサイ派の人間だったら、死んでも口にしないと思います。どんなに落ちぶれたとしても、どんなに腹がへっていたとしても、神の律法にも神の国にもまったく興味も関心もない俗物に、飯を食わしてもらったり、資金供与をしてもらったりすることは、絶対に考えないだろうと思うのです。それならば飢え死にした方がましなのです。
ところが、このイエスと弟子たち連中は違うのです。イエスは平気で徴税人から食べさせてもらうのです。それは、ファリサイ派の人たちからすれば、「あんた、相手が金持ちだったら誰だっていいのか!」と罵られても仕方がないことなのです。もっともファリサイ派の律法学者はお上品ですから、イエス様に面と向かって罵ったりはしません。ですから弟子たちをつかまえて詰っているのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。
こうして見ますと、イエス様の行動は、どうも単純に「この人は貧しい人や社会から排斥されている《かわいそうな人》に寄り添って共に生きたのだ」とは表現できないように思えます。そうではなくて、イエス様は、《かわいそうな人》と共にいたのではなくて、文字通りの意味において《罪人》と共におられたのです。そして、罪人ということであるならば、富んでいようが貧しかろうが、排斥する側にいようが排斥される側にいようが、抑圧する側にいようが抑圧される側にいようが、罪人は罪人なのです。罪によって神から離れているならば、その人は罪人なのです。
ですから、イエス様は金持ちに招かれて、ご飯を食べさせてもらっていながら、このように宣言してはばからないのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13節)と。聞きようによっては、極めて失礼な言葉でしょう。しかし、マタイには、その意味することが良く分かっていたのだろうと思います。確かにマタイもまた、イエス様に招かれた罪人の一人であったからです。そして、代々のキリスト者は、そこに自分の姿を重ね合わせてきたのです。
「なぜ、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。主は答えられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12‐13節)。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。イエス様が引用された言葉は、お気づきと思いますが第一朗読で読まれたホセア書6章6節の御言葉です。ホセア書では「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく」となっていました。そうです、それが神の喜ばれることなのです。イエス様は父なる神が喜ぶことをしておられたのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。それは徴税人や罪人を神が愛しておられ、立ち帰ることを求めておられたからです。それゆえにイエス様もまた徴税人や罪人を愛しておられたからです。そこにあったのは、それまで神に背を向けて生きてきた人たちに対する、深い深い憐れみだったのです。
そのようなイエス様が、私たちの罪のために十字架にかかられ、そして復活して、今も私たちを食事の席に招いてくださっているのです。私たちがこの礼拝堂に身を置いているとは、そういうことなのです。この物語を読む時には、食卓を囲んでいる私たち自身のことを考え私たち自身を重ね合わせながら読むことが大事であると最初に申しました。この礼拝堂はマタイの家です。私たちは皆、マタイの家において主と共に食事をする徴税人であり罪人です。そして、私たちもまた、マタイと同じように立ち上がり、復活し、ここからキリストと共に新たに歩み始めるのです。
2025年7月27日日曜日
「拠って立つ土台は何ですか」
2025年7月27日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 7:24‐29
イエスの言葉を聞いて行うとは
イエス様は今日の箇所でこう言っておられます。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と。「これらの言葉」と言われているのは、直接的にはマタイによる福音書5章から7章までの部分、いわゆる「山上の説教」と呼ばれる部分を指していると考えられます。そうしますと、この言葉は、ある意味では驚くべき言葉であるとも言えます。
例えば、「山上の説教」と言えばすぐに思い出すのは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5:39)という言葉でしょう。あるいは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:44)という言葉でしょう。あるいは「思い悩むな」(6:34)。これって簡単なことですか。普通に読むならば、「不可能だ」と思わざるを得ないようなことを、イエス様は次々と語っておられるのです。
かつてわたしが学生だったころ、ある人が、「お前はクリスチャンだと言うけれど、右の頬をなぐったら、左の頬を出すのか」と挑んできたことがありました。その時わたしは言いました。「試してみてもいいですよ。」――しかし、私自身は、もしそいつが本当に殴ったら、思い切り殴り返すつもりでいたのです。要するに、当時の私はこのイエス様の言葉が実行可能だとは微塵も思ってはいなかったのです。しかし、それは私だけではなかったと思うのです。皆さんにとってはどうですか。
しかし、そのような言葉について、今日の箇所においてイエス様は、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言っておられるのです。イエス様は、はじめから、これが実行可能か不可能かなどということは全く問題にしていないのです。当然、聞くだけに終わらないことを前提として語っておられるのです。
今日の聖書箇所を読みますと、改めて思います。私たちから見ると不可能としか思えないことが、イエス様の目にはまったく不可能と映っていない。それが良く分かります。つまりイエス様の目には、私たちが見るのとは全く違ったものが見えているのです。
例えば、イエス様は言われました。「天の国は近づいた」(4:17)。それはキリストと共に、天の国は来ているのだ、という意味合いです。私たちの目には悲惨なこの世界の現実しか見えないのです。しかし、イエス様の目には、神の国が、神の支配のリアリティがもうこの世界に到来しているのが見えているのです。
また、イエス様は言われました。「こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも』」(6:9‐10)。イエス様の目には、そこにいる弟子たちがもう神の子どもたちに見えているのです。「天の父よ」と呼んで、天に行われていることを地上にも求めることができる神の子どもたちに見えているのです。
さらに言うならば、イエス様は御自分がどこに向かい、何を成し遂げようとしているか分かっているのです。イエス様には、御自分が十字架にかかられ、罪の贖いが成し遂げられるその時が来ることが分かっているのです。いわば、イエス様には、既に罪が贖われた神の子どもたちが見えているのです。もはや天の父との間を隔てるものが何もない、そのような神の子どもたちの姿を見ているのです。
ですから、人から見てどんなに不可能であっても、イエス様から見たら不可能ではないのです。神の子どもたちならば、この世にあって神の子どもたちとして生きることができる。この世にありながら天に属する民として生きることができる。やられたらやり返すのが当たり前のこの世界にあって、敵を愛するということも起こり得る。世界中が思い悩んでいる時であっても、思い悩みから解放されて生きるということが起こり得る。――そうです、イエス様から見るならば、それは全て可能なことなのです。天の父が御自分の子どもたちに望んでいることであるならば、すべては可能なことなのです。
だからイエス様は御自分の言葉によって、神の権威を持った言葉によって、そのような新しい生活へと、神の子どもたちとしての新しい生活へと、弟子たちを、私たちを招かれるのです。それが信仰をもって生きるということなのです。
それゆえに信仰生活には、常に「不可能への挑戦」という側面があるのです。イエス様が見ておられるように神の国の到来を見、イエス様が見ておられるように自分自身を神の子として見、イエス様が見ておられるように教会を神の子どもたちの群れとして見るならば、そのようにイエス様の御言葉を信じるならば、私たちはその信仰に基づいて行動すべきなのでしょう。信仰と行為は切り離し得ないものです。
ヤコブの手紙には「行いの伴わない信仰は死んだもの」(ヤコブ2:26)と書かれています。そのように、イエス様が可能であると見ておられるならば、信仰に基づいて私たちもまた不可能に挑戦するのです。信仰に基づいて、愛し得ない敵を愛することにも挑戦するのです。迫害する者のために祈ることにも挑戦してみるのです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」であるとは、そういうことです。
神の御業が現れる時
そして、信仰に基づいて行動する時に、そこにこそ神の御業は現れるのだ、と私たちは聖書から繰り返し教えられているのです。
旧約聖書ヨシュア記6章にこんな話があります。その頃、イスラエルはエリコの町と戦っていました。エリコの町は、堅固な城壁に囲まれていました。そのようなエリコの町を攻略することは、人間の目から見て不可能に見えたに違いありません。しかし、そこで神はイスラエルに、不思議なことを命じられたのです。神はイスラエルの民に、エリコの城壁の周りを一日一回、六日間回るように命じられた。そして、七日目には七周回るようにと命じられたのです。
馬鹿げた話です。しかし、イスラエルの民は、神の言われるとおり、エリコの城壁の周りを一日一回、六日間回り、七日目には七周回りました。なぜですか。神がエリコの町を、既にイスラエルの手に渡しておられると信じたからです。どんなに人間の目に不可能に見えても、神が城壁を打ち崩してくださると信じたからです。だから彼らは信仰に基づいて回り続けたのです。
そして、七日目に神の御業によって城壁は崩れ落ちました。しかし、注目すべきは次の聖書の言葉です。「民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した」(ヨシュア6:21)。たとえ城壁が崩れ落ちたとしても、剣も何も持っていなかったら、突入なんてできないじゃないですか。しかし、彼らはそうでなかった。彼らは重い剣をさげて、重い武具を身につけて回っていたということです。城壁が崩れる時を思い描いて、すぐにでも突入できるように、そのつもりで準備して回っていた。彼らは城壁の周りをまわっていた時、彼らは城壁が崩れることを本気で信じて、いわば不可能に挑戦していたのです。
イエス様が言っている「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」とは、いわばエリコの周りを回ったあの人々のような人のことです。「既に神の国は始まっているのだから、私たちは神の子どもたちなのだから、聞いたことは行うことができると信じます」と言って、不可能の壁の周りをまわるのです。そして、イエス様の御言葉に従い、不可能に挑戦する人は、エリコの城壁のように、不可能の壁が崩れ落ちるようなことを見ることになるのです。
嵐に耐え得る信仰生活とは
そして、そのような信仰生活こそ、嵐に耐え得るものとなるのだと、イエス様は言っておられるのです。それこそが岩の上に建てた家だ、と。
「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という言葉は様々な意味に取れます。それはこの世における様々な試練であるとも言えるし、最終的に誰もが直面しなくてはならない自分自身の「死」の問題であるとも言えるし、終わりの日の裁きであるとも言えるでしょう。洪水や風に象徴されるのは、いずれにせよ、人間の力が及ばない現実です。私たちがこの世に生きる限り、人間の力が及ばない現実は襲って来るのです。そのような力によって、私たちの存在が根底から揺さぶられるような時は来るのです。
もし私たちの信仰生活が、「イエス様の言葉は聞いて知っています」というだけのものならば、そこで嵐に耐えることはできないでしょう。「イエス様の言葉は言葉として良いけれど、現実には不可能だ。聖書の教えは知っているけれど、現実にはそのとおりには行かないよ。」そのように現実には不可能だと言って、エリコの城の周りを回るような小さなことすら実行しようとはしない。そのような信仰生活がいざという時、役に立つのでしょうか。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」とイエス様が表現される信仰生活であるならば、洪水と風によって倒れてしまうことになるのでしょう。
洪水と風によって倒れてしまわないのは、イエス様が見ているように現実を見、イエス様が見ているように自分自身を見、イエス様が見ておられるように教会を見て生きる信仰生活です。神の国が既に到来していること、神の驚くべき大いなる御業の中にあること、私たちはそのような中に生きている神の子どもたちであること。そこに目を向けて、「わたしはイエス様の言葉に従います。神に寄り頼む私たちに不可能はありません」と言いながら生きていく。岩の上に家を建てるとはそういうことです。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった」イエス様はそのような信仰生活を与えようとしておられるのです。しっかり受け取ろうではありませんか。
2025年7月20日日曜日
「天の父に求め続けなさい」
2025年7月20日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 7:7‐12
神の国を求めなさい
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)。これが今日、私たちに与えられているイエス様の御言葉です。
イエス様は「求めなさい」と言われました。これは「お願いしなさい」という意味の言葉です。ちょうど子どもが親に願い求めるように、天の父に必要なものを願い求める、ということです。「お祈り」が何であるかを知りたかったら、イエス様が他の箇所で言っておられるように、まずは幼子のようになることです。「最終的には自分だけが頼り」なんて淋しいことを言わないで、いつも天の父のことを思いながら生活し、事々に天の父にお願いすることです。パウロもこう言っています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)。
そのように、主は「求めなさい」「お願いしなさい」と言われました。そう言われれば、願い求めたいものはたくさんあるようにも思います。しかし、物事には優先順位というものがあります。まず最初に願い求めるべきものがあります。それは何か。実は既に先週お読みしたマタイによる福音書6章に書かれていたのです。主は言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(6:33)と。
まず求めるべきは神の国と神の義です。何を願い求めても良いのだけれど、私たちはこのことを忘れてはなりません。「神の国と神の義を求めなさい」。「神の国」とは「神のご支配」のことです。「神の義」はこの場合は「神の救い」と言い換えてよいでしょう。
実際、「主の祈り」において、私たちは毎週神の国を求めて祈っているではありませんか。「御国を来たらせたまえ(御国が来ますように)」と。私たちは「御国に入れてください」と祈っているのではありません。「御国が来る」ことを祈り求めているのです。神の支配が来ることです。救いが来ることです。それは言い換えるならば、「御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」ということです。神が御支配くださり、神の御心が地上に成ることを祈り求めているのです。
イエス様が言われるように、天には御心が成っているのです。しかし、地上には実現していません。人間が憎みあい、殺し合っているこの世界は、明らかに神の御心が実現している世界ではないし、神の国でもありません。私たちの職場は、私たちの家庭は、どうでしょう。子どもたちの通う学校はどうでしょう。天に神の御心が実現しているように、この地上に実現していますか。いいえ、明らかに御心に反することが行われている現実がそこにあります。
そのような悲惨なこの世界について、それはあなたがたの責任なのだから、あなたがたの手でなんとかしなさいとイエス様は言われないのです。「求めなさい」と主は言われるのです。「御国を来たらせたまえ」と祈り求めたらよいのだ、と。
ならば、私たちは求めるべきなのです。私たちの人生に「御国が来ますように」と祈り求めるべきです。神の国が来て、私たちを罪から解き放ち、私たちの生活を変えてくださるように、神の愛の光が満ち溢れた生活へと変えてくださるように、祈り求めるべきなのです。同じように、私たちの家庭についても「御国が来ますように」と祈り求めるべきなのでしょう。共に神を礼拝し、神を愛し互いに愛し合う家庭となるように、家族が救われることを祈り求めるべきなのでしょう。
もちろん、教会にも「御国が来ますように」と願い求めるべきです。教会こそ変わらなくてはなりません。神の支配が現れ、神の御心が実現していくところとならねばならないのでしょう。そして、私たちはこの世界に、「御国が来ますように」と祈り求めるのです。最終的にキリストの再臨と共に、この世界に神の支配が打ち立てられ、神の救いが完成することを祈り求めるのです。
そうです、私たちは神様にお願いすべきなのです。求めるべきなのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」と主は言われるのですから。そもそも問題は求めないところにあるのです。この世の様々な問題についても、あれこれと論じているばかりで、あるいは他の人を責めるばかりで、私たち自身が一向に父なる神に真剣に求めようとはしない。それこそが問題なのであって、本当の問題は私たちの無力さにあるのでも、努力の欠如にあるのでもないのです。信じて祈ろうとはしない。求めない。そこにこそ私たちの本当の問題があるのです。
求め続けなさい
そして、さらに言うならば、イエス様が言っておられる「求めなさい」という言葉は、「求め続けなさい」という意味合いの言葉なのです。イエス様は、失望することなく、倦むことなく祈り続けることの大切さを弟子たちに繰り返し教えられました。なぜでしょう。時として神様の御業は全く進んでいないように見えるからです。また、しばしば逆行しているかのように見えるからです。そのことについて、イエス様は人が聞いて納得するように、説明しようとはされませんでした。イエス様は、ただ父を信頼して祈り続けるようにと教えられたのです。
主は言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(9‐11節)。そのように、諦めないで祈り続けるために必要なことは、神を「良い物をくださる」善き父として信じることです。
実際、私たちが諦めないで祈り続ける時、その祈り続けるプロセスの中で、既に天の父からの「良い物」を受け取り始めているのです。そのことを私たちはしばしば経験するのです。その最も大きな一つは何でしょう。祈り続ける時に、神に向かい続ける時に、祈っている私たち自身が変えられていくということです。教会が熱心に祈り始める時、その教会自身が変えられていくのです。キルケゴールは言いました。「祈りは神を変えるのではなく、祈る者を変えるのだ」と。まずこの良き物が与えられるのです。
例えば、主は続けて、「探しなさい。そうすれば、見つかる」と言われましたでしょう。そのように祈り続ける中で、私たちは「探す人」になっていくのです。「探す」という言葉は、「尋ね求める」と訳せる言葉です。誰を尋ね求めるのでしょう。――神様御自身です。
かつて預言者エレミヤは言いました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。
私たちは当初は「祈ることによって何が起こるのか」ということにしか関心がないかもしれません。しかし、祈り続ける中で、私たちは「何かを」ではなく、心を尽くして「神御自身を」求めるようになるのです。そして、神様と本当の意味で出会うのです。
さらにイエス様は「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とも言われました。そのように祈り続ける中で、私たちは「門をたたく人」にもなっていくのです。神様と出会い、神様をまことの父として知っていき、その父こそが現実の門を開いてくださる御方であることを知っていく時、人は自らの手で「門をたたく人」になっていくのです。すなわち、そこに具体的な行動が生まれるのです。神が開いてくださることを信じて、できることから始める人となるのです。その人は勇気をもって自分の為しえる具体的な一歩を踏み出す人に変えられるのです。
それは同じ行動を起こすのであっても、自分の力で門をこじあけようとする行動とは明らかに異なります。自分の力で「門をこじ開けよう」とすれば、そこには苛立ちが生じます。焦燥感にかられます。しかし、門をたたく人は、そうではありません。そこには期待と待望あります。それに伴う喜びがあります。門を開けるのは自分ではなく神様であることを知っているからです。だから、門をたたき続けることができる。
そのように祈り続ける中で、私たちは変えられていきます。既に良き物を受け取り始めているのです。そして、やがては天において成っているすべての良きことが地上においても完全に実現することを期待して、喜び待ち望むのです。
そして、私たちは最後に、とても大事な事実に目を向けなくてはなりません。すなわち、「求めなさい」と言われたイエス様は、自ら父に求めて、御心が天になるごとく地にもなることをひたすら求めて、そのために自らを献げて十字架へと向かわれたということです。
「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とイエス様は言われました。これは本当は驚くべき言葉なのです。どうして神が私たちの「天の父」なのですか。どうして「天の父」と呼べるのですか。この地上において、神をないがしろにし、神の御心に逆らって生きてきた私たちが、どうして事も無げに神を「天の父」と呼べるのですか。本来ならば、「良い物をくださるにちがいない」ではなくて、「あなたたちは自らの罪に相応の報いを受けるに違いない」と言われても仕方がないのでしょう。そのような私たちが、安心して神を「天の父」と呼ぶことができるのはなぜですか。それは一重にキリストが私たちの罪を贖ってくださったゆえなのです。
いわば、キリストは御自分の命を献げて、私たちが「天の父よ」と祈れるようにしてくださったのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」この言葉には、キリストの命の重さがかかっているのです。そのような言葉を、私たちは与えられました。どうしたらよいのでしょう。父に求めるべきなのでしょう。神の国と神の義を求めて生きるべきなのでしょう。御心が天に成るごとく地にも成ることをひたすら求めて生きるべきなのでしょう。キリストが十字架にまでかかってくださったのに、私たちは簡単に諦めてよいのでしょうか。祈ることに倦み疲れていてよいのでしょうか。良いはずがありません。求め続けましょう。探し続けましょう。門をたたき続けましょう。
2025年7月13日日曜日
「神を仰いで今日を生きる」
2025年7月13日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 6:25‐34
思い悩むな
「思い悩むな」。そうイエス様は言われます。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と主は言われるのです。
今はとりあえず食べ物があるし、飲み物もある。しかし、食べればなくなります。無くなったら食べるものを得なくてはなりません。明日、あるいはその先に、何を食べたらいいのだろう。はたして生きていけるのだろうか。そのような心配が起こります。
今はとりあえず裸ではありません。しかし、着飾らなくてはならない場面になれば、今着ているものでは間に合わなくなります。他の着物を得なくてはなりません。いったい何を着たらよいのかという心配が起こります。
そのように「思い悩み」というものは、未来に関わっています。だからイエス様は特に「明日のことまで思い悩むな」と言われたのです。それはイエス様の目の前にいた人たちだけでなく、時代的にも文化的にも異なる、ここにいる私たちにしても同じです。思い悩みの種類は違うかもしれません。必ずしも食べるものや着るもののことで思い悩んでいるわけではないかもしれない。しかし、明日のこと、未来のことについて思い悩んでいる姿は、あの時、あの場所にいた人々と変わりません。
しかし、そのような私たちに「思い悩むな」と語ってくださる方おられます。私たちが信じているイエス様は、「明日のことまで思い悩むな」と言ってくださる方なのです。本気でこういうことを言ってくださる方がいるというのは嬉しいことです。
もっとも言葉だけなら、似たようなことを言う人は私たちの周りにもいるかもしれません。「先のことばかり心配しなさんな。なるようにしかならないんだから」と。それはそれでありがたいことではありますが、イエス様が「思い悩むな」と言われるのは、それとは意味合いが全く違うのです。
イエス様はこう言われたのです。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない」(26節)。なるほど、種を蒔いたり、倉に収めたりというのは、未来を想定しての作業です。鳥は基本的にそういうことはしない。未来を考えて生きるというよりも、今を一生懸命に生きていると言えるでしょう。ですから、「鳥を見なさい。今を一生懸命に生きているじゃないか。君も今を力一杯生きたらいいんだ。先のことばかり心配しなさんな」という教訓話もあり得ます。イエス様でなくても、このくらいのことを言う人はいくらでもいるでしょう。
しかし、イエス様が言おうとしている大事なことは、実は、その先にあるのです。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。――そのように、イエス様は、本当は鳥について話したいわけではないのです。そうではなくて、天の父について話しておられるのです。「思い悩むな」と言って、本当は鳥を指し示しているのではなくて、私たちに天の父を指し示してくださるのです。
皆さん、聖書を読むとよく分かるのですが、イエス様は、神の存在について議論していることは一度もないのです。そうではなくて、神の子として生きる姿を見せてくださっているのです。神の子として、天の父と共に生き、天の父に信頼し、天の父に感謝して生きている姿を、見せてくださっているのです。そのような神の子が、私たちに「天の父」を指し示して、そして言われるのです。「思い悩むな」と。
あなたがたの天の父
いや、イエス様はただ「天の父」について語ってくださっただけでなく、「あなたがたの天の父は」と言ってくださったのです。「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」と。また後の方ではこうも言っています。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(32節)と。
「あなたがたの天の父は」ってどういうことですか。それは「あなたがたは神の子どもたちだ」と言っているのと同じではありませんか。イエス様は天の父との交わりを見せてくださいました。そのように、信仰に生きる生活を見せてくださいました。そして、天の父と共に生きる生活へと、弟子たちを招いてくださったのです。そして、主はここにいる私たちをも招いてくださっているのです。
だから、礼拝では毎週、「主の祈り」を祈るのです。今日も後ほどみんなで祈ります。その最初は、「天にまします我らの父よ」という呼びかけなのです。信仰をもって生きるとはそういうことなのです。イエス様と同じように、神を「天にまします我らの父よ」と呼びながら生きるのです。すなわち、天の父の子どもたちとして生きるのです。
いや、イエス様はそのような祈りを与えてくださっただけではありません。「あなたがたの天の父は」と言ってくださっただけではありません。今日はマタイによる福音書の6章をお読みしましたが、この先をずっと読んでいきますと、やがてイエス様が十字架におかかりになる場面に行き着くのです。
イエス様が十字架にかかられたのは、天の父と私たちとの隔てが完全に取り除かれて、私たちが真に神の子どもたちとして生きられるようになるためでした。すなわち、神に背いて生きてきた私たちのすべての罪を自ら背負って、十字架にかかって、私たちの罪の負い目を完全に取り去ってくださったのです。私たちは罪を赦された者として、ためらうことなく、「天にまします我らの父よ」と祈ることができるのです。
そのように、イエス様が私たちの罪が赦されるために、私たちの救いのために、十字架への道を歩まれたのは、天の父が私たちをどのように見ているかを知っておられたからです。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と。私たちは、ある程度長く生きていれば、自分が全く価値のないもののように思えたり、自分なんて存在しない方がよいように思えたりするという経験は、一度ならずともするものなのでしょう。
しかし、私たちが自分をどのように見ようとも、私たちの目にどれほど無価値に映ろうとも、天の父は私たちを価値ある存在として見ていてくださるのです。天の父の子どもたちですから。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」私たちは既に天地を創造された神、王の王なる御方の子どもたちです。だから主は言われるのです。「思い悩むな」と。
信仰の薄い者たちよ
そして、もう一つ、今日の聖書箇所には、主が語られた、とても嬉しい言葉があります。それは「信仰の薄い者たちよ」(30節)という言葉です。皆さん、意外だと思われますか。しかし、実はこれは私たちにとって、とても喜ばしい言葉なのです。
皆さん、この世に生きる限り、思い悩みの種はいくらでもあるのです。未来のことについて、心配し始めたら切りがない。家庭の問題、仕事の問題、様々な人間関係、病気のこと、などなど。心配を解決するためには、満たされなくてはならない必要が山ほどあるのでしょう。その一つ一つの必要を満たして行って、問題の一つ一つを取り除いていかなくては思い悩みは解決しないのです。
しかし、実際には、そのように、一つ一つ必要を満たし、一つ一つ問題を取り除いていかなくては思い悩みから解放されないとするならば、もはや絶望的としか言いようがないではありませんか。だいたい、一つ思い悩みを始末したと思っても、また別なところから思い悩みが雑草が生えてくるのですから。
しかし、皆さん、イエス様はそういう個々の事柄が問題なのではない、と言われるのです。「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という個々のことを解決していけばよいのではない、と言われるのです。それは異邦人、すなわち信仰のない人たちがすることだ、と。イエス様に言わせれば、これは信仰の問題なのです。だから「ああ、信仰の薄い者たちよ」と主は言われるのです。
ならば希望があるではありませんか。「信仰の薄い者たち」と書かれていますが、原文では「信仰が小さい」と書かれているのです。今の信仰が小さいならば、信仰が成長して大きくなることを求めたら良いだけの話です。必要なものは山ほどあるように見えるかもしれない。しかし、思い悩まないで生きるために、本当に必要なのは、それだけなのです。信仰が成長して大きくなることを求めることです。
しかも、大きい信仰って、どれくらい大きければよいのだと思いますか。イエス様はこの福音書の後のほうで、こんなことを言っておられます。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(17:20)。そのように、「からし種一粒ほど」で良いのだとイエス様は言われるのです。
イエス様の言われる、「信仰の薄い者たちよ」という言葉を大いに喜びましょう。私たちにはなお希望があると言って喜びましょう。「わたしは信仰が薄いからダメなんだ」なんて言って落ち込む必要はありません。そもそもダメな人間などいないのです。成長の途中にある人間がいるだけの話です。信仰が小さいならば、大きい信仰を求めたらよい。からし種くらいで良いってイエス様は言われるのですから。からし種はとても小さいものです。でも、それで良いって言われるのですから、今日から求め始めたらよいのです。
2025年5月4日日曜日
「しるしを見たら本当に信じますか」
2025年5月4日 主日礼拝説教
聖書:マタイ12:38‐42
しるしを見せてください
何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に言いました。「先生、しるしを見せてください」。「しるし」とは証拠です。神から遣わされたメシアである証拠です。「証拠を見たらあなたがメシアだと信じましょう」ということでしょう。それに対して、イエス様はこうお答えになりました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(39節)。
注意してください。「しるしを欲しがることはよこしまで神に背くことだ」とは言っていません。しるしを欲しがること自体が悪いことだと言っているのではないのです。「よこしまで神に背いた時代の者たちは往々にしてしるしを欲しがるものだ」と言っているのです。しるしを求めること自体は悪いことではなく、むしろ昔から受け継いできたユダヤ人の伝統的なものの考え方なのです。
例えば、神がモーセが人々のもとに遣わされた時、モーセが杖を地面に投げると、その杖が蛇になった。そんな話が聖書に出てきます。神がそうしろと言われたのです。そのようにして、しるしを見せるのです。そして、そのしるしを見て人々が信じたということが書かれているのです。今日の第一朗読(列王記上17:17‐24)で読まれたエリヤの物語もそうです。エリヤによって死んだ息子を生き返らせてもらった母親が言うのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。
神から遣わされた者にはしるしが伴う。つまり、神が遣わされたのなら神自らがそれを証明なさるということです。それはユダヤ人の伝統的な考え方なのです。ですから逆に言えば、どんなに有能な人物であっても、どんなに説得力を持った力強い言葉を語っても、主の御名によってどんなに有り難いことを言ってくれたとしても、やたらに信じたりはしないのです。しるしを求める。本当に神から来たものかを確認するのです。それはそれとして大事なことであるとも言えるのです。
信じないためにしるしを求める人
しかし、同じ「しるしを求める」にしても、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」という場合は、意味合いが違ってまいります。それは今日の聖書箇所を少し前から読んでみますと良く分かります。今日の箇所は「すると」という言葉から始まっているのです。つまりその前に何かあったから、「しるしを見せてください」という要求が出て来たのです。その前に何が書いてありますか。実は、イエス様がファリサイ派の人たちに対して、実に辛辣なことを言っているのです。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(34節)。
実際そうでしょう。心にあふれているものが口から出て来る。その前の話を見ても、それが真実であることが良く分かります。22節を見ますと、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエス様のもとに連れて来られたらしい。いつものように、イエス様は憐れに思って彼を癒されました。長い間苦しんできた人が癒され解放されました。どれほど嬉しかったことか。いや、彼だけではありません。その人が癒されることを願っていた人たち、イエス様のもとに彼を連れてきた人たちがいたのです。どれほど嬉しかったことか。イエス様が病人を癒されたその場は喜びに包まれていたに違いありません。その喜びの出来事の中に、メシアの到来のしるしを見た人たちがいたのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」と彼らは言ったのです。
一方、そこには宗教的な指導者たちもおりました。そこにはファリサイ派の人たちがいたのです。もし彼らが常々、人々の解放と癒しを願っていたならば、そのような愛と憐れみが心に満ちていたならば、そこからあふれてくる喜びの言葉が口から出たことでしょう。
しかし、もし人の苦しみなどには関心が無く、人々の解放や癒しを願ってもなく、ただ自分より力ある者に対する妬みと敵意が心にみちているならば、そのような言葉が口から出て来るに違いありません。そして、実際に出て来たのです。彼らは冷ややかにこう言ったのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。
律法学者とファリサイ派の人々は、模範的なユダヤ人です。最も敬虔であると見なされていた人たちです。しかし、イエス様には彼らの心に何が満ちているのかが見えていたのです。だからイエス様は彼らに言ったのです。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」と。
そのように、「あなたたちは悪い人間だ」と言われた人たちが、イエス様に尋ねたのです。「先生、しるしを見せてください」。意味合いは明らかでしょう。信じるためにしるしを求めているのですか?いいえ、そうではありません。信じないためにしるしを要求しているのです。相手の言葉を拒否して、自分は悪い人間だと認めないために、自分を守るために、しるしを要求しているのです。
例えばこんなことを考えて見てください。ある人があなたを見て言いました。「わたしは医者です。あなたの様子を見る限り、あなたはかなり重い病気です。大きな病院で検査を受け、早く治療した方がいいですよ」。実際に具合も悪い。そこで自分が病気だと認めた人はすぐに病院に行くと思います。しかし、どうしても自分が病気だと認めたくなかったらどうしますか。もしかしたらこう言うかもしれません。「そんなことを言うあなたが本当に医者だという証拠を見せてください」。医者だと信じたくない。医者の言葉だと信じたくない。ならば退けるためにしるしを求めるのではないでしょうか。今日読んだ場面はそれと同じです。
そのように、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」のです。よこしまで神に背いているから、しるしを求めるのです。そのような自分であることを認めたくないから、しるしを求めるのです。実際にはたとえどんなしるしを見せられても、信じないのです。目の前で人が癒されて、神の国の喜びが地上に満ちるような出来事を見せられたとしても、信じない理由はいくらでも付けられるのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によって追い出したのだ」とさえ言えるのです。そうです、不思議な出来事は、いくら起こったとしても、信じないためにしるしを要求している人は絶対に信じることはないのです。
与えられているヨナのしるし
要は明らかにされた自分自身を認めるか、認めないかなのです。そこで人は二通りに分かれることになるのです。キリストは私たちの内にあるものを明らかにされます。内にあるものが外に出て来ているという事実を私たちに示されます。私たちの内にある罪を、神に赦していただかなくてはならないこと、神によって清めていただかなくてはならないこと、神によって救っていただかなくてはならないことが、キリストによって明らかにされます。そのような、自分ではどうにもならない自分自身を認めるか認めないか、なのです。
明らかにされた自分自身を認めて、主の御前にひれ伏して、わたしの罪を赦してください、わたしを清めてください、わたしを癒してください、わたしを変えてください、わたしを救ってください、と願い求めるのか。それとも、自分自身を認めないで、「しるしを見せてください」と言うのか。ならばどんなに不思議な出来事を見せられても、おそらくは意味がないでしょう。しかし、もし主に赦しと救いを求めるならば、主が与えてくださる特別なしるしが意味を持つのです。イエス様はそのしるしを「預言者ヨナのしるし」と呼びました。
それはどのようなしるしでしょうか。イエス様は言われました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(39‐40節)。
人の子が三日三晩大地の中にいるというのは、十字架にかけられて死なれたイエス様が葬られて三日目に復活することを指しています。 神様から遣わされた者にはしるしが伴う。だからしるしは求めてもよいのです。しかし、メシアの到来に伴う決定的なしるしは十字架と復活だと主は言われるのです。主に言わせれば、それこそが唯一のしるしなのです。
実際、主は様々な奇跡を行われましたが、その奇跡をもって御自分がメシアであることを証明しようとはなさいませんでした。むしろ癒された人には多くの場合「誰にも言ってはならない」と口止めされたのです。十字架と復活こそがしるしだからです。
それは信じようとしない人が否応なく信じざるを得なくなるような、いわゆる客観的な「証拠」ではありません。もし神がそれをお望みだったなら、弟子たちが人々に示すことができるように、復活したキリストをエルサレムの中心街に常駐させたことでしょう。しかし、神はそうなさらなかった。人間にとって本当に必要なのは悔い改めだったからです。神の光のもとにありのままの自分を認めること、神に立ち帰り赦しを求めること、救いを求めること――それは客観的な「証拠」によっては起こりません。
主が明らかにされたように自分が罪人であり救いを必要としていることを認めた時、はじめて罪の贖いの十字架と復活がメシアのしるしとして心に迫ってくることになるのです。そして、この御方こそ確かに私たちを罪と死から救うために来てくださったメシアである、と御前にひれ伏すのです。そのように、主を礼拝して生きるようになる。そして、私たちの罪のために十字架にかけられ復活して永遠に生きておられるメシアに従って生きていく者となるのです。
2025年4月13日日曜日
「救い主が成し遂げてくださったこと」
2025年4月13日棕櫚の聖日 礼拝説教
聖書:マタイ27:32-56
今日の福音書朗読は、イエス様が十字架にかけられ、息を引き取られるまでのことを伝えている聖書箇所でした。
それは世界の片隅で起こった小さな出来事でした。特殊な力をもったあるユダヤ人が宗教裁判にかけられ、後にローマ人の法廷において裁かれ、十字架刑に処せられて死んだ。この世的に見るならば、それだけの話です。当時は十字架刑で処刑された人などいくらでもいた時代ですから、そこで起こった出来事も、やがて時の流れと共に忘れ去られたとしても、決して不思議ではなかったのです。
しかし、現実にはそうはなりませんでした。その人の話は二千年後の遠く離れた日本においても語り継がれ、あの日の出来事はこの世界を変えた出来事として記憶されてきたのです。それゆえに、なんと、あの時用いられた死刑の道具が、二千年後の日本の教会にもこうして掲げられているのです。
あの日、あそこで何が起こったのか。あの方が十字架の上で死んだことは、いったい何を意味するのか。聖書は実に様々な仕方で、言葉を尽くして、あの出来事の意味を伝えようとしているのです。今日読まれた箇所もその一つです。
そこには確かに、今日の私たちからすると、首をかしげてしまうようなことが書かれています。昼の十二時に全地は真っ暗になった。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。さらには墓が開いて、死者が生き返ったという話まで出て来ます。――明らかにマタイが伝えようとしているのは、人間が行った何かではありません。あの十字架の出来事は、ただ人間が人間に対して行ったことではないのだ、ということを伝えようとしているのです。そこには神がなさった特別なことがあるのです。では、それは何なのか。一つ一つ見ていきましょう。
全地は暗くなった
まず書かれているのは「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(45節)ということです。
かつてイスラエルには、最も明るいはずの真昼が暗闇となることを預言した人がいました。預言者アモスです。アモス書には次のように書かれています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8:9‐10)。
アモスが語っているのは裁きの預言です。彼は神が最終的にこの世の罪を裁かれる「その日」について語るのです。アモスは「その日」を「主の日」と呼びます。そして、その「主の日」が、暗闇として到来することを預言したのです。
そして、今日の聖書箇所は、ついに「その日が来た」と伝えているのです。旧約聖書の預言のとおり、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と。神が白昼に大地を闇とする日、そして、神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変えられる日、苦悩に満ちた日が、ついに到来したのです。
しかし、地上に神の裁きが行われる「その日」が到来したにもかかわらず、現実に起こったことは、アモスの預言の通りではありませんでした。地上の人々は嘆きの歌など口にしていませんでした。――そうです、たった一人を除いては。
嘆きの歌を口にしていたのは、ただ一人、十字架の上のキリストだけだったのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明されています。それは嘆きの歌と呼ばれる詩編の一つ、詩編22編の言葉です。そのように、ただキリストだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、嘆きの歌を口にし、苦悩の叫びを上げておられたのです。
他の人々は、主の日が到来し、神の裁きが地上に行われているなどと夢にも思ってはいませんでした。本当は神の正しい裁きのもとに苦悩しながら滅びるしかなかった自分であることを誰も知りませんでした。そんなことはつゆ知らず、人々はキリストに向かってあざけりの言葉を投げつけていたのです。そして、そのただ中で、罪なきキリストが、まるで避雷針のように、すべての人に代わって、すべての人の罪をその身に負って、神の裁きを一身に受けられたのです。
そして、主は死なれました。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(50節)と書かれています。主の最後の叫び、それは「成し遂げられた」という叫びであったとヨハネによる福音書は伝えています。救い主が成すべきことを成し遂げられたのです。ならば、それはまた、この地上に決定的な何かが始まった瞬間でもあるのでしょう。
それゆえに、マタイは「そのとき」という言葉をもって、さらに神のなされた二つのことを伝えるのです。ちなみに「そのとき」というのは、「すると、見よ!」というのが直訳です。「見よ!」という言葉で、その瞬間から始まった出来事に注目させているのです。そこで注目すべきは単に事柄の不思議さでも異常さでもありません。大事なのは、それが「何を意味しているのか」ということです。先にも申しましたように、聖書は言葉を尽くして、あの日の出来事の「意味」を伝えようとしているのです。
垂れ幕が裂かれた
まずそこに語られているのは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たということです。
「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には通常誰も入ることができません。ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることが許されています。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。贖いの血を携えなければ通ることができない神殿の垂れ幕は、神と人間との関係を象徴的に表しています。人間には罪があるゆえに、本来、聖なる神に近づくことはできない、ということです。その事実を示しているのが、この垂れ幕です。
しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれているのです。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。ですから「上から下まで」と書かれているのです。あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いたのです。
キリストが成し遂げてくださったことのゆえに、もはや神と人間とを隔てるものはなくなりました。神によって垂れ幕は引き裂かれた。そこにあるのは罪の赦しです。罪の赦しによって、人間が神に近づく道が、永遠に開かれました。その道が神の御手によって開かれました。これが、あの瞬間にこの地上において起こった第一のことです。
墓が開いた
そして、さらにこう書かれております。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51‐52節)。
私たちの目に大地は動かざるものと映ります。人間はその確かさの上に家を建て、町を築きます。しかし、大地は決して動かざるものではありません。地震が起これば揺れ動きます。そして、決して裂けるとは思えなかった岩が裂けるのです。
キリストの死において始まったのは、まさにそのような出来事だったというのです。最も確かに思えたものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。
人間にとって最も確かなことって何ですか。それは人間が「死ぬ」ということでしょう。死の支配ほど確かなものはありません。死の中に閉じこめられない者は誰もいません。墓に入った者は、二度と外に出てくることはありません。それが最も確かなことです。そうです、確かなことであった……はずでした。しかし、その最も確かなものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。死の支配が打ち壊されたのです。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」という描写が意味しているのは、そういうことです。
そして、墓が開かれたことが、神殿の垂れ幕が裂かれたことと共に記されているのです。この二つは切り離すことができないのです。
考えてみてください。私たちが死んだ後で、再び墓から出てくることが出来れば、それが救いになるでしょうか。本当の意味で死の克服になるでしょうか。あるいは、そのまま永遠に長生きして死なないとするならば、それは死の克服になるでしょうか。いいえ、ただそれだけならば、それはきっと地獄を意味するに違いありません。
本当に必要なのは、罪の赦しであり、隔てが取り除かれた者として神との交わりが回復されることなのです。そのこと抜きにして、ただ墓から出てくるだけなら、苦悩の日々が永遠に伸びるだけなのです。
今日は4月の召天月礼拝でもあります。4月に天に召された方々を記念して礼拝を捧げています。それらの方々をも含め、私は、今まで病の床において共に祈り、そして亡くなっていった幾人もの人たちを思い起こします。人が人生の終局にさしかかる時、もはや富も名誉も大きな意味を持ち得ません。豪華なご馳走も、意味を持ちません。食べられないんですから。最終的に死が克服されるために必要なのは、何ですか。それは、キリストの十字架であり、「あなたの罪は赦された」という神の宣言であり、神と人との隔てが取り除かれて、人が神と共に生きるようになることなのです。そこにこそ真の救いはあるのです。
私たちは十字架におけるキリストの死において実現したことを見てきました。今日から受難週に入ります。イースターまでの一週間、キリストの十字架において成し遂げられた救いの恵みを深く思い巡らす時として過ごしましょう。
2025年3月23日日曜日
「本当の命はどこにあるのか」
マタイによる福音書 16:21‐28
自分を捨ててわたしに従いなさい
今日の聖書箇所は、「このときから」という言葉から始まっていました。その直前には、ペトロが、「あなたはメシアです」という信仰を言い表しています。この「あなたはメシアです」という言葉を受けて、イエス様は、御自分がメシアであるとはいかなることかを、語り始められたのです。「このときから」とはそういうことです。
しかし、そこで弟子たちが耳にしたのは、まことに驚くべき言葉でした。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)というのです。これがメシアであるということなのです。主は御自分がメシアであるゆえに、「必ず」苦しみを受け、殺され、復活することになっている、と語られたのです。
この「必ず~することになっている」という表現は、しばしば「神的必然」などと呼ばれます。これが神の御心であることを表しているのです。イエス様は父なる神の御心に従おうとしているのです。そして、さらに言うならば、それは私たちに対する愛のゆえなのです。イエス様は、私たちを救うために、父なる神の御心に従い、自ら罪の贖いの犠牲となることを受け入れたのです。
そのようなイエス様が言われるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。これが今日、私たちに与えられている御言葉です。
大事なことは、この言葉を語っているのがイエス様であるということです。この言葉を、語っておられるイエス様と切り離してはならないのです。なぜなら、「自分を捨てること」を勧める言葉自体は、この世において、イエス様以外のところからでも、いくらでも耳にすることがあるからです。
かつては日本という国家が「滅私奉公」というスローガンのもとに「自分を捨てること」を要求しました。自分を捨てた若者たちは、神風特攻隊として250キロ爆弾を積んだゼロ戦に乗りました。今から30年前、カルト集団のために自分を捨てた人々は、その結果として地下鉄サリン事件を起こし、14人もの命を奪いました。人が「自分を捨てること」によって、このようなことがいくらでも起こります。ですから、単純に「自分を捨てること」そのものが尊いことであるかのように、美化してはなりません。
主は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、【わたしに】従いなさい」と言われたのです。私たちはこれをイエス様の招きとして聞くことが重要なのです。すなわち、神を愛し、人を愛し、この私たちを愛された方の言葉として聞くことが重要なのです。
キリスト者であるとは、イエス様に向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表して生きるということであり、さらには《苦難を受けられたメシア》であるイエス様について行くことに他なりません。イエス様について行くならば、いわばイエス様の背中を見つめて歩いていくということになるのでしょう。愛のゆえに御自分を捨てられた御方、愛のゆえに十字架を背負われた御方、そうです、他ならぬこの私を愛し、私のために自分を捨ててくださった御方――そのようなイエス様の後ろ姿を見つめながら歩いていくことになるのです。
私たちがそのようにイエス様の後に従っていく時に、私たちが自分の思いに執着し、自分の願いだけを大切にして、神に対しても人に対しても我が儘を言い続け、自分を押し通しながら生きているとするならば、どうでしょう。私たちを愛するゆえに十字架を背負ってくださったイエス様の後についていくのに、私たちが何一つ背負おうとしないで、愛すること放棄して、負うべきものを放棄して歩いているならば、どうでしょう。それは決してあるべき姿でないことは明白なのでしょう。
ですから、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、何ら特別なことが語られているのではないのです。それを語られた御方のことを考えるならば、ある意味で、至極当然の言葉なのです。
わたしのために命を失う者は、それを得る
とはいえ、このような言葉を聞くことには注意が必要であろうと思います。讃美歌331番の歌い出しに、「主にのみ十字架を負わせまつり、我知らず顔にあるべきかは」という言葉があります。しかし、だからと言って、「イエス様だけ苦しませてはならないのだ。わたしも後についていくならば、知らん顔しているわけにはいかないのだ」と、悲壮感を漂わせながら、歯を食いしばりながら、必死の面もちでついていくだけならば、それはとても不健全な信仰生活となるのでしょう。主は、そのようなキリスト者の姿を望んではおられないだろうと思うのです。
この御言葉を、語ってくださったイエス様から切り離してはならないことは既に申しました。しかし、それだけではありません。私たちはその後に記されているイエス様の言葉からも切り離してはならないのです。
主はさらにこう言われたのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(25-26節)と。 つまりイエス様の言葉の主眼点は。「捨てさせる」ところにあるのではないのです。そうではなくて、「得させる」ところにあるのです。イエス様は、まことの命、決して失われることのない命を得させようとしているのです。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と主は言われました。「自分の命を救いたいと思う」ということは、自分の命にしがみついているということです。それは単に「死にたくない、死にたくない」と言っている、ということではありません。人間が自分の命にしがみつくのは、死に直面する時だけではないからです。死に直面していなくても、人は自分の命にしがみついているものです。「これは私の命だ!私の人生だ!」と言って。人はあくまでも自分の命として、自らの人生を全うしたいと思っているのです。なんとしてでも「自分のために」使おうとするのです。そして、時として、自分のために、自分の命を満たすために、全世界を手に入れようとさえするのです。
しかし、イエス様は言われるのです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。イエス様が言われるように、もし自分の望み通りに自分の命を用いて、実際に全世界を手に入れたとしても、全世界を手に入れた人としてただ死んでいくだけならば、それがいったい何になるというのでしょう。イエス様の言われるとおりです。
それは結局は、命を失うことでしかないでしょう。「これは自分の命だ。これは自分の人生だ。自分は自分の命を十分に自分のために使えただろうか。自分は自分の命について思い残すことはないだろうか」と言いながら死んでいく。それは命を得たことになりますか。ならないでしょう。それは命を失うことでしかないのです。イエス様の言われるとおりです。
イエス様は、本当の命を得よ、と言っているのです。命を得るのは誰か。「わたしのために命を失う者は、それを得る」と主は言われるのです。「わたしのために命を失う」とは、その前に書かれていることです。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従っていくことです。
キリストに従いながら、父なる神への愛のゆえに、人に対する愛のゆえに、あえて自分を捨てる、あえて十字架を背負っていく――それは一見すると自分の人生の一部を無駄にしてしまうように、命を削り落としてしまうことのように、命を失ってしまうことのように、見えるに違いありません。
それは「自分の十字架」ですから、それは人それぞれに違います。例えば、ある人は、キリストに従う者として、病気の家族の世話をすることを、神から与えられた自分の十字架として受け取り、背負い、そのゆえに人生の大半を費やすかもしれません。「自分のしたいこともできなくて、苦労だけで人生を費やしてしまって、なんて可哀想な人なんだろう」――そのように人は見るかも知れません。しかし、そうではないのです。そこにこそ、本当の命はある、その人は命を得るのだ、と主は言われるのです。
そして、実際、イエス様はそのことを見せてくださったのです。イエス様の人生は、まさに十字架へと向かう人生でありました。イエス様の命は、文字通り十字架を背負い、その十字架にかかって死ぬために費やされてしまったのです。しかし、イエス様はただ命を失った可哀想な人なのでしょうか。いいえ、そうではありません。人々は、そのようなイエス様の内から輝き出る、まことの命の光を見たのです。
そして、その命の輝きは、復活において完全に現されたのです。「三日目に復活することになっている」と主が言われたとおりでした。十字架の先に――そうです、その先に復活がありました。復活したキリストを弟子たちが見た。それはただ単に、死んだはずのイエス様に再びお会いした、ということではないのです。弟子たちは、キリストの内に本当の命を見たのです。決して失われることのない、永遠の命を見たのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。これは、イエス様が見せてくださった、まことの命を得るようにとの招きに他なりません。それゆえに、これを語ったイエス様が望んでいるキリスト者像は、「悲壮感を漂わせながら、歯を食いしばりながら、必死の面もちで着いていく」というようなものではないのです。主が望んでおられるのは、十字架を背負いながらも、命に溢れ、喜びと希望に溢れている、そんな姿であるに違いありません。そのような歩みへと、主は招いていてくださっているのです。
2025年3月2日日曜日
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」
2025年3月2日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 14:22‐33
今日はマタイによる福音書14章22節からお読みしました。この直前には、五つのパンと二匹の魚を五千人以上の人々に分け与えたという奇跡物語が記されています。そこにはパンを裂いて弟子たちにお渡しになるイエス様、そのパンを運ぶ弟子たち、パンを受け取る人々の姿が描かれています。
弟子たちは、イエス様から受けたものを人々のもとに運び、彼らと分かち合ったのです。そこには大きな喜びがありました。これは教会の一つの姿です。イエス様は十字架にかかられて、パンのみならず、御自分のすべてを私たちに与えてくださいました。私たちは、その十字架において与えられた恵みを共に分かち合って喜びます。そのようにして、教会は御国の祝宴の前味を味わうのです。これが教会の一つの姿です。
しかし、これがすべてではありません。この世に存在する教会には、もう一つの姿があります。そのことを今日の聖書箇所ははっきりと示しています。弟子たちは共に食事をする喜びの中に留まることを許されませんでした。弟子たちはイエス様の指示に従って、向こう岸へと向かう一つの舟の中にいます。そして、その舟は嵐に遭うのです。彼らは逆風に悩まされて苦しむことになります。これが教会のもう一つの姿です。
わたしだ。恐れるな
弟子たちを強いて舟に乗せたのはイエス様でした。彼らは、主の言葉に従って漕ぎ出したのです。しかし、主の言葉に従った彼らを待ち受けていたのは、嵐でした。風と波に翻弄されて、思うように前に進むことができません。しかも、悪いことに、頼りのイエス様は、目に見える姿において、その舟の中におられないのです。
イエス様の不在。それゆえの不安と恐れ。あの舟の上にいた弟子たちの経験は、その後の時代における、教会の経験でもありました。キリストは十字架にかかられた後、復活して弟子たちに現れましたが、復活のキリストの現れは、その後ずっと続いたわけではありません。聖書は、その期間が四十日であったと伝えています。そして、その期間の終わりを、「キリストの昇天」として書き記しているのです。
その後二千年にわたる長い教会の歴史において、キリストは目に見える姿で教会と共におられたわけではありません。教会が迫害の嵐の中にあった時、キリストは目に見える姿では、教会におられませんでした。教会が異端の教えによって内部からかき乱されている時、キリストは目に見える姿において、共にいることはありませんでした。多くの人が幾たび思ったことでしょう。ああ、イエス様が見える姿で共にいてくださったら良いのに、と。
しかし、物語は次のように続くのです。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(25‐27節)。
「湖の上を歩いて」という表現は実に印象的です。「そんなことあり得ない」と誰もが思いますでしょう。そうです、その通りです。ここで第一に重要なことは、まさに「そんなことあり得ない」という仕方でキリストが近づいて来られた、ということなのです。つまり、キリストが教会に近づいて来られ、キリスト者と共にいてくださり、語りかけてくださるのは、まさに人間の思いを越えた現実であり、聖霊による奇跡なのだ、ということです。そして、それこそが、主日礼拝において、また日々の生活において、代々の教会が経験してきたことなのです。キリスト者が経験してきたことなのです。もちろん、ここにいる私たちに与えられている恵みでもあるのです。イエス様は私たちの思いを超えた仕方で近づいて来られ、共にいてくださいます。
そして、もう一つ重要なことがあります。キリストが特に「湖の上を」歩いて来られた、ということです。「湖」と訳されていますが、これは「海」という言葉です。そして、「海」というのは、古代の人々にとって、人間の手に負えない悪魔的な力を象徴していたのです。まさに、舟はそのような力によって翻弄され、滅びに瀕しているのです。しかし、キリストはその恐るべき悪魔的な力を踏みつけて近づいて来られたのです。
そして、そのようなキリストであるからこそ、彼らにこう語られたのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と。これは単に、「幽霊ではないよ、わたしだよ。怖がらなくていいよ」という意味ではありません。「わたしだ」という言葉は、「わたしはある」とも訳せる言葉です。
「わたしはある」という言葉で思い起こしますのは、かつてモーセに神が現れた時に語られた言葉でしょう。それは旧約聖書に記されている神の名前なのです。出エジプト記に次のように記されています。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」(出エジプト3:14)。
この「わたしはある。わたしはある者だ」という神の御名を、ある旧約学者は「わたしがいるのだ。確かにいるのだ」と訳していました。ここでも、荒れ狂う海をその足の下に踏みつけて来られたキリストが、その言葉をもって弟子たちに向かって語られるのです。「安心しなさい。わたしがいるのだ。確かにいるのだ。恐れることはない」と。そして、同じ言葉を、代々の教会もまた聞き続けてきたのです。
主よ、お救いください
そして、物語はさらに、舟の中にいた一人の人物にスポットライトを当てます。ペトロです。そこに見るのは、教会という舟の中にいる一人の人間である私やあなたの姿です。
この場面では、イエス様だけでなく、ペトロもまた水の上を歩いています。彼もまた、イエス様と共に嵐の海を足の下に踏みつけて歩くのです。彼はもはや悪魔的な力に支配されてはいません。イエス様と共に支配する者として立っているのです。それは彼の勇敢さによるのではありません。ここで特にペトロがイエス様の「御言葉」を求めていることは重要です。イエス様の「来なさい」という御言葉によって、彼は歩き出すのです。力を持っているのはペトロ自身ではありません。主の御言葉なのです。
しかし、この物語が強調しているのは、ペトロが水の上を歩くことができた、ということではなさそうです。物語は次のように続くのです。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」(30‐33節)。
このように、どちらかと言えば、強調点はペトロが水の上を歩いたことよりも、むしろペトロが沈んだところにありそうです。ペトロは強い風に気づきました。恐怖が彼を襲います。その時、彼は水に沈み始めたのでした。水の上を歩いたペトロの姿を読んだ時には、聖書が身近に感じられなかった人でありましても、ペトロが沈んだところにおいては、一気に聖書が身近になったことでしょう。
さて、その私たちに身近なペトロは、いったいどうしたでしょう。彼は叫んだのです。「主よ、助けてください」と。そして、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ…」と記されているのです。ペトロがイエス様の腕にしがみついたのではありません。イエス様がペトロを捕まえたのです。海に沈ませまいとして、しっかりと捕まえてくださったのです。人は沈みます。しかし、イエス様は沈みません。そして、決定的に重要なことは、ここでペトロが沈みはじめたということではなくて、沈まないイエス様がしっかりと捕まえていてくださる、ということなのです。
そして、他ならぬこの「捕まえていてくださるイエス様」が、こう言われたのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。ブクブクと水に沈み行くペトロを見つめながら、「お前は信仰が薄いから、沈んでいくのだ。さらば、ペトロよ」と言ったのではないのです。
「なぜ疑ったのか」――、主は「疑い」という言葉を使われました。これは元々心が二つの方向に分裂することを意味する言葉です。ペトロの心は、あの時、あの瞬間、確かに二つに分裂していました。一方において心はイエス様とその御言葉に向き、もう一方において、心は強い風と波立つ海に向いていました。確かにイエス様の言われるとおりです。
しかし、ペトロが沈みはじめた時にはどうだったでしょう。「主よ、助けてください」と叫んだ時はどうだったでしょう。波風などにかまってなどいられません。一心にイエス様に向かって手を伸ばして叫んだに違いないのです。そこでは二つに分裂していた心が、再び一つになっていたはずです。そうです、それでよいのです。
「主よ、助けてください。」――これは文字通りに訳せば、「主よ、お救いください」という言葉です。これは昔から教会が、共にささげる礼拝において、幾度となく繰り返してきた祈りの言葉です。この場面の描写には、明らかにその後の時代の信仰生活が重ね合わされています。ですから、「『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」という言葉が出てくるのです。これはイエスを神の子と言い表す信仰の告白です。
ですから、私たちにとっても、本当に大事なことは、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉をもって、自らを責めることではないのです。「私は信仰が足りないのだ。疑ってしまうからだめなのだ」と、自らを叱咤激励することではないのです。そうではなくて、代々の信仰者がしてきたように、そのままでは沈んでしまう自分であることを認めて、「主よ、お救いください」と祈ることなのです。ひたすら祈ることなのです。
決定的な意味を持っているのは、私たちが疑いのない揺るぎない信仰を持っているか否かではありません。そうではなくて、海を足の下に踏みつけて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださる御方がおられる、ということなのです。そして、決して沈まない方が、「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださることなのです。それでよいのです。私たちが沈むことはあっても、主が沈むことはないからです。
2024年12月29日日曜日
「喜びに溢れた人々」
2024年12月29日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 2:1‐12
遠くに及ぶ神の招き
今日の説教題の「喜びに溢れた人々」というのは、今日の聖書箇所に登場した、「東の方」から来た学者たちのことです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と書かれている、その学者たちのことです。「東の方」が具体的にどこを指すのかは定かではありません。古来から「アラビア」、「バビロン」あるいは「ペルシャ」と、様々な憶測がなされてきました。いずれにしても、もともと遠いところにいた人たちです。
いや、彼らは単に地理的に遠いところにいただけではありません。彼らは「占星術の学者たち」だったと書かれています。これは原文では「マゴス」という言葉です。「魔術師たち」とも訳される言葉です。彼らは異教の世界の占い師であり魔術師の類だったということです。占いや魔術などは、旧約聖書において厳しく禁じられています。ですから、そのようなことを行っている東方の占星術師たちは、聖書の見方からするならば、いわば神に背くことを行ってきた人たちであり、救いから最も遠いと見なされる人たちだったのです。
今日お読みしたのは、そのような遠いところにいた占星術の学者たちが、星に導かれて東の方からメシアのもとにやってきたという話です。現実には「星」が人を導くことはありませんから、導いたとするならば、それは神様です。要するに、ここに書かれているのは、わざわざ救いから最も遠いように見える遠くにいた人たちを、神様はあえて選んで、彼らを導いて、メシアに出会わせ、喜びに溢れさせたという話です。
このような話が聖書に記されて伝えられてきたのは、明らかにこれが一つの象徴的な出来事だからです。どんなに救いから遠くにいる人であろうが、どんなに神に逆らって生きてきた人であろうが、救い主のもとに導いて、救いを与えて、喜びに満ち溢れさせたい。この出来事は、そのような神様の胸の内を現している出来事として記されているのです。
ですから、神様があの時に現された御心は、後にこの世界に実現していくことになるのです。イエス様が三十歳ぐらいの時に公の宣教の働きを開始した時、そこに集まってきたのは、救いから遠いと見なされ軽蔑されていた徴税人や罪人たちでした。後に教会がキリストを宣べ伝えていった時、礼拝の場所に集まって喜びに溢れたのは、ユダヤ人たちではなくて、救いから遠いと見なされていた異邦人だったのです。
そして、ここにいる私たち自身を見ても、その神の御心が実現しているのを見ているのでしょう。まさに神様の救いから遠くにいた、まことに罪深い私たちが、神に導かれて今ここにいるのです。
これが神の招きというものです。神の招きは人間の計り知れないほど遠くにまで及ぶのです。そして、また彼らの言葉は、その神の招きが、決して単純なものではないことをも示しています。
彼らは言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。神は、彼らが既に持っていた占星術の知識を用いられました。それだけではありません。そこには東方に離散していたユダヤ人たちの宗教的な影響もあったに違いありません。それなくしては、ユダヤ人の王として生まれるメシアに関心を持つことはなかったでしょうから。
実際、私たちにおいても同じでしょう。ある人はクリスチャンホームで育ちました。ある人は、学校にクリスチャンの先生がいて、大きな影響を受けました。ある人は友人に誘われて初めて教会に足を踏み入れました。大きなきっかけと思えるようなこと以外にも、それに先だって、既にいくつもの神様からの働きかけがあったに違いありません。それらすべてが神の招きを構成しているのです。単純ではありません。神の招きと導きには、あらゆる形における神の準備があり、働きかけがあるのです。彼らが言う、「わたしたちは東方でその方の星を見たので」とはそういうことです。
そのように、神はありとあらゆる仕方で人をメシアのもとに、また大きな喜びの内に招かれます。そして、繰り返しますが、その招きは人の思いを遥かに超えて遠くにまで及ぶのです。ならば、そこで重要になるのは、人間の側の応答です。
招きに対する人間の応答
神の招きと導きに対する応答は、この占星術の学者たちの場合、旅に出ることでした。実際にその体をもってメシアにまみえ、ひれ伏し、献げ物を献げるために旅に出るということでした。ただ心と考えの中で応答したのではなく、実際にその体をもって、行動をもって応答したのです。彼らは言うのです。「拝みに来たのです」と。
見た星について調べることは学問的にも行うことはできます。古代の占星術の世界にはそれなりに学問的な体系があったようですから。あるいは離散のユダヤ人たちを通してメシアについての知識を得ることもできたでしょう。しかし、実際に出会うためには、そして礼拝するためには、立ち上がって、自分の場所を後にして旅に出なくてはなりません。それは、安全な場所に身を置いて、外から、上から眺めるようにして、「神とは何ぞや」「キリストとは何ぞや」と言って調べるのとは、根本的に異なることです。具体的な応答がなければ、彼らが喜びに溢れることもなかったのです。
実際、この箇所には全くその逆を行った人々も出て来るのです。ヘロデという王様です。あるいはエルサレムの人々です。祭司長や律法学者たちも同じです。実に皮肉な話です。「メシアはどこに生まれることになっているか」と質問された時、彼らはすぐに「ユダヤのベツレヘムです」と答えることができました。知識は既にあるのです。彼らには既に神様の働きかけがなされていたということです。ユダヤ民族として考えるならば、既に何百年という神様の備えがあり、働きかけがあり、既に彼らは招かれていたのです。
しかも彼らがいたエルサレムからベツレヘムまで、せいぜい10キロぐらいしか離れていないのです。行こうと思えばすぐに行けるのです。占星術の学者たちがそこに行こうとしていることも知っているのです。同行しようと思えばできるのです。しかし、彼らは一歩を踏み出さなかったのです。
踏み出さなかったとは、単に場所的なことだけではありません。彼らは、今まで自分たちが生きてきた自分の世界、馴染んできた自分の世界から一歩も踏み出そうとはしなかったのです。むしろ踏み出さなくても済むように、自分の生きてきた世界をなんとしても守ろうとしたのです。ヘロデは自分が王様でいられる世界をなんとしても守って確保しておきたかったのです。他の人たちも皆同じです。自分が変わらないで、今までどおりいられる世界に留まっていたかった。異邦人より先に、まず招かれていたのは、彼らであったはずなのに!
そのように、一方において神の招きと導きがあるならば、もう一方において人間の側の応答が大きな意味を持つのです。占星術の学者たちは自らの体をもって礼拝するために旅に出ました。そして、そのような彼らについてこう書かれているのです。「学者たちはその星を見て喜びに溢れた」(10節)。
溢れる喜び
ところで、彼らについては「その星を見て」喜びに溢れたと書かれています。明らかに、その星のもとに、尋ね求めてきたメシアのいる家があったからです。まだメシアにはまだお会いしていません。にもかかわらず、既に彼らは喜びに溢れているのです。
ならばその扉を開いた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。母マリアと共にいる幼子を実際に見た時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。幼子イエスを礼拝し、実際に献げ物を献げた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。その喜びによって、長い旅の疲れなど吹き飛んでしまったに違いありません。国に帰るためにはまた長い旅を続けなくてはならないのでしょう。しかし、そんな先行きの心配など吹き飛んでしまったに違いありません。本当の喜びとはそういうものでしょう。
そこにいるのは幼子のイエス様です。ただそこに寝ているだけのイエス様です。まだ何をしてくれたわけでもありません。神の力によって彼らを奇跡的に癒してくれたわけでもなければ、奇跡的に食べ物を増やして与えてくれたわけでもありません。ただ寝ているだけのイエス様です。しかし、そのイエス様にお会いして、礼拝して、献げて、彼らはこの上ない喜びに溢れていたのです。イエス様がそこにいるだけで、もう他には何も要らない。そう言えるような、そんな喜びに溢れていた彼らの姿が目に浮かぶようです。
しかし、イエス様と共にいるということは、本来そういうことなのでしょう。ここに見る学者たちの喜びはまた、代々の教会が経験してきた喜びでもあったのです。たとえ迫害があったとしても、苦難の中にあったとしても、先行きが見えない不安の中にあったとしても、日曜日がやってくるのです。週の初めの日に主の食卓を囲んで集まるのです。みんなイエス様を求めて集まってくる。そして、主の聖餐に与りながら、イエス様と共にあることを喜び、イエス様を礼拝し、賛美を捧げ、心からの献げ物を献げる。そのようにして救いの希望の中に身を置く人々の喜びがそこにあるのです。
もちろん、それで迫害がなくなるわけではないでしょう。それで苦難がなくなるわけではないでしょう。いや、むしろ集まっていればますます迫害は激しくなるのです。しかし、そこには喜びがある。溢れる喜びがあるから、その喜びを携えて、また新たな旅路に踏み出すことができる。力強く歩んでいくことができる。それが代々の教会の経験してきたことだったのです。
そして、代々の教会が伝えてきた、そのような礼拝の喜びが私たちにも与えられているのです。私たちの週毎の歩みは、星に導かれた学者たちと同じように、御子にお会いするための歩みであると言えます。そして、その週毎の旅を繰り返しながら、私たちは終わりの日に、文字通り御子にお会いするところへと向かっているのです。私たちの人生そのものが、またこの世界の歴史そのものが、御子にお会いするための旅路に他ならないのです。私たちは、最終的にイエス様にお会いする時に与えられる計り知れない喜びを、今、前もって少しだけ味わわせていただいているのです。やがてその全てを味わう時が来る。そこに向かっているのが、主の日の礼拝を中心とした私たちの信仰生活です。
2024年12月22日日曜日
「イエスという名の救い主」
2024年12月22日 クリスマス主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 1:18‐23
本当のクリスマスを祝うため
本当のクリスマスを祝おうと思うなら、二つのことを退けなくてはならない。エミール・ブルンナーという神学者がそう言っていました。その二つとは何でしょうか。第一は現代社会の不安によってクリスマスの喜びを失ってしまうことだと彼は言います。確かに不安に満ちた社会に私たちは生きています。不安要素を数えれば切りがない。個人的にも、お互い多かれ少なかれ問題を積み残しにしたまま年を越していくのでしょう。しかし、それでもなお私たちはクリスマスの喜びを奪われてはならないのです。「それは悪魔の望むところである」と彼は言います。すべての悪は喜びの喪失から生まれる、と。私たちは喜びを失うことによって、悪魔を喜ばせてはならないのです。
しかし、退けなくてはならない第二のことがあります。それは、人為的なクリスマスの喜びに溺れないことだと彼は言うのです。人為的なクリスマスの喜びとは、現実逃避の喜びです。「今がどんな悪い時代であるか、そんなことなど忘れてしまおう。少なくとも今日はクリスマスなのだから」。――そのような喜びのことです。そのような麻薬中毒のような喜びを悪魔は奪おうとはしません。悪魔には都合のよいものだからです。
私たちはここに、ただクリスマス気分に一時酔いしれるために集まっているのではありません。そのようなものは、この場所を出て寒い風に当たれば吹き飛んでしまいます。私たちは、どんな寒い風が吹こうが、嵐の中に置かれようが、絶対に奪われない喜び、悪魔に奪われることのない本当の喜びに生き、また生き続けるためにここにいるのです。
罪からの救い
そのような私たちに与えられているのは、マタイによる福音書の御言葉です。こう書かれていました。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。聖霊による懐胎。いわゆる「処女降誕」の話です。しかし、強調されているのは、その受胎の不思議さではありません。この物語の中で、アンバランスとも言えるほど強調されているのは、名前とその意味です。「イエス」という名。そして、「インマヌエル」という呼び名とその意味。マタイは名前の意味にかなりこだわっているようです。
そこでまず、私たちはその名前に注目することにしましょう。21節以下を御覧ください。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。
「イエス」という名前。それはユダヤ社会においてはごくありふれた名前でした。その名は旧約聖書に現れる「ヨシュア」という名前に相当します。「ヨシュア」とは「主は救い」という意味です。その名の通り、こうして生まれた方は救い主なのです。何から救ってくださるのでしょう。聖書は言います。「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と。
「罪から救う」。――当たり前のように書かれていますが、私たちの日常において、「罪から救う」という表現はほとんど耳にすることはありません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的に用いられている表現ではないので、ある程度の説明を要します。
例えば、こんなことを考えてみてください。皆さんが教会の帰りに下北沢東口近くで小さな男の子が泣いているのを見かけたとします。迷子のようです。お母さんが買い物をしている間に、ちょろちょろと歩き回ってはぐれてしまったようです。さて、皆さんはその男の子を助けたいと思います。お昼時です。随分お腹も減っているようです。そこで頌栄教会のAさんは、その男の子をマクドナルドまで連れていってハンバーガーを買ってあげました。そして、そのハンバーガーを渡すと、東口まで連れていって「バイバイ」と言って駅の中に入っていきました。
次にBさんが通りかかりました。男の子はハンバーガーを持ったまま泣いています。優しいBさんは思いました。「ひとりでずっとここにいたんだな。寂しかったに違いない。」そこでBさんはその子と遊んであげました。確かにその子は泣きやみました。もう泣いてはいません。そこでBさんは少し遊んであげると「ああ、泣きやんだね。じゃあね」と言って、駅に入って行ってしまいました。
そこにCさんが通りかかりました。Cさんは既に泣きやんでいたその子と一緒に、お母さんを捜して歩きました。そして、ついにお母さんのもとにその子を連れていくことができました。男の子はお母さんに抱っこされて、本当の笑顔が戻りました。
さて、その男の子を本当に助けることができたのは誰でしょうか。――最後のCさんでしょう。迷子は親に抱かれて初めて救われます。人間も同じです。必要を満たされることも大事です。寂しさを癒されることも大事です。しかし、人は神のふところに抱かれてこそ、本当の意味で救われるのです。それを聖書は「罪から救う」と表現しているのです。
「罪」とは、神に背いて、自分勝手に歩んで、神から離れてしまった状態です。羊飼いの声に聞き従わずに、群れから離れて迷子になった小羊のような状態です。迷子のような状態なのですから、不安で寂しくて苦しいのも無理はありません。そのように、神から離れたこの世界が不安に満ちているのも無理ないことなのです。
しかし、そんな迷子のような私たちを神様は憐れんでくださいました。そんな私たちを本当の親である神のもとに立ち帰らせるために、イエス様を救い主として送ってくださったのです。イエス様は神を示してくださっただけではありません。神を離れ、神に背いて自分勝手に生きてきた私たちが赦されるために、そして、神に赦された者として、神との交わりに生き、神の子供として生きることができるように、イエス様は十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったのです。イエス様は罪から救うために来られたのです。
ですから、その幼子はまた「インマヌエルと呼ばれる」と語られているのです。その名は「神は我々と共におられる」という意味です。イエス様が来られたのは、まさに私たちが「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と腹の底から喜んで言えるようになるためなのです。
どんなことがあろうと、辛い現実があろうと、涙にくれるようなことがあろうとも、神に愛されている子供として「神が共におられる」と言うことができるなら、既にその人は救われているのです。ちょうどさっきの迷子の男の子が母親に抱きかかえられたように。その救いの喜びこそ、神が与えてくださったクリスマスの喜びなのです。何によっても奪われないクリスマスの喜びなのです。
苦しみを引き受けた人々
しかし、私たちはここでもう一つの事実に目を向けなくてはなりません。そのような罪からの救い主、「インマヌエル」と呼ばれる御方が誕生するためには、そのために苦しみを引き受けた人々がいたのだ、ということです。そして、神の御計画を信じて、身を献げた人がいたということです。ご存じ、マリアとヨセフです。
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。これは何よりもまずマリアにとって恐るべきことでした。いったいどこの誰が「聖霊によって身ごもった」なんていう話を信じるでしょう。この出産がユダヤ人社会において全く受け入れられないであろうことは火を見るより明らかでした。
一方、このことがヨセフにも深い苦悩をもたらしたことは言うまでもありません。当初、ヨセフも「聖霊によって身ごもった」ということを信じてはいませんでした。「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていることから分かります。それは悩み抜いた末の決心だったのでしょう。そのヨセフが夢を見ました。主の天使が夢に現れて言ったのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)。ヨセフは信じました。そして、マリアを迎え入れることにしました。
しかし、ヨセフの苦悩が終わったわけではありません。いや、むしろ始まりだったのです。ヨセフは信じたかもしれない。けれど他の人は信じないでしょう。マリアを迎え入れるということは、マリアと一緒に苦しみを担っていくことを意味したのです。そのように、マリアもヨセフもいわば苦しみを引き受けたのです。神のなさっていることがあることを信じて、神の御計画が進んでいることを信じて、その神が「恐れるな」と言われる言葉を信じて、苦しみを引き受けたのです。
私たちの喜びであるクリスマスの物語には、そのような、苦悩に満ちたヨセフやマリアが出て来るのです。イエス・キリストは罪からの救い主として来てくださいました。しかし、この物語に見るように、誰かが救いに与り、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と喜びをもって語れるようになるためには、誰かが身を献げて、苦しみを引き受けるということが必要なのです。ヨセフやマリアのような人たちが必要なのです。実際、私たちが今こうしてクリスマスを喜び祝っているのは、ここに至るまでに多くの人々が身を献げ、労苦を引き受けてきたから実現していることなのです。
私たちはクリスマスを喜び祝うためにここに集まっています。誰によっても、この世のいかなることによっても、このクリスマスの喜びを奪われてはなりません。しかし、それは単に私たち自身のためではないのです。私たちは、この喜びを抱きかかえるようにしてここから出て行くのです。それは、今度は私たちが、誰かの喜びのために、誰かの救いのために、誰かが「インマヌエル」と言えるようになるために、神の御計画を信じて、身を献げて、自分の負うべき十字架を背負って生きていくためなのです。
2024年12月8日日曜日
「天から差し込んだ光」
2024年12月8日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 13:53-58
つまずいた人々
イエス様が故郷のナザレに帰ってきました。かつて大工の子として生活していた場所、マリアの子として、ヤコブやその他の兄弟として知られていた場所に帰ってきたのです。もとの生活に戻るためではありません。宣教のためです。イエス様はカファルナウムでしていたのと同じように、ナザレにおいても会堂で教え始められました。
人々の反応は「驚き」でした。彼らは驚いてこう言ったのです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」(54節)。
彼らが注目したのはイエス様の語られる「知恵」でした。またイエス様の持っておられる「奇跡を行う力」でした。奇跡については今日の聖書箇所の最後に「あまり奇跡をなさらなかった」と書かれてはいますが、皆無ではなかったでしょうから、実際に目撃した人もいたのでしょう。あるいは自分で直接目撃していなかったとしても、既にイエス様のなさったことについては広く知れ渡っていましたから、彼らが既に伝え聞いていたことは少なからずあったに違いありません。
そのように人々はイエス様の「知恵」と「奇跡を行う力」に驚きました。それだけを聞くならば、その驚きはおおむね肯定的なものであると想像できるかもしれません。しかし、聖書はそう伝えてはいないのです。彼らの反応は極めて否定的なものでした。今日の箇所にはこう書かれています。「このように、人々はイエスにつまずいた」。知恵に驚こうが、その力に驚こうが、結局はイエスにつまずいた。イエスを受け入れることはなかったのです。
なぜイエス様の語られる「知恵」に驚きながらも、それを受け入れることができなかったのでしょうか。それは既に彼らの慣れ親しんできた宗教的な「知恵」があったからです。過去から受け継いできた、それぞれが宗教的コミュニティから受け取ってきた知恵があったからです。その彼らの受け継いできた「知恵」からすれば、イエスの「知恵」はあまりにも異質だったのです。
そして、彼らはイエス様の「奇跡を行う力」に驚いた。しかし、それを受け入れることができなかった。なぜでしょう。それは「奇跡」とは馴染みのない、「奇跡」とは無縁な彼らの宗教的な生活があったからです。神が権威を現され、力ある業をなさることを求めることもない、期待することもない、宗教的なしきたりを守るだけの生活がそこにあったからです。
そうです、彼らは宗教的ではあったのです。それはナザレという小さな村の共同体での話です。そこでは誰もが生まれて八日目に割礼を受け、幼い時から律法を学び、先祖からの言い伝えを大切にし、それぞれが宗教的な戒律を守って信心深い生活をしている、そんな信心深い共同体を形づくっていたのです。
そこにイエス様が帰って来られたのです。入って来られたのです。そして、イエス様という存在はあまりにも異質だったのです。今日お読みしたところには「故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると…」と書かれていますでしょう。しかし、本当は原文では「《彼らの会堂》で教えておられると」と書かれているのです。そうです、それは「彼らの会堂」だったのです。そこには彼らの会堂を中心とした彼らのコミュニティがあり、彼らの宗教的な生活があったのです。その生活にとって、イエス・キリストという存在はあまりにも異質だったのです。
いや、彼らの宗教的な生活があり、それが妨げになっただけではありません。そこには彼らが既に持っていたイエスについての理解がありました。「人間イエス」としての理解がありました。彼らは言います。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(55‐56節)。
「大工の息子」という言葉自体に軽蔑的なニュアンスはありません。この「大工」というのは家を建てる仕事ではなく、農具や家具を作る仕事であったと考えられています。決して卑しめられるような仕事ではありませんでした。ごく普通のユダヤ人の家庭なら、大工の息子は当然のように小さい時から父親の仕事を手伝うものです。ですからマルコによる福音書では「大工の息子ではないか」ではなくて「この人は、大工ではないか」と書かれているのです。
そのようにイエス様自身、大工として知られていたようです。あるいは、父親のヨセフは早くに他界していたと考える人も少なくありません。ならばイエス様は父亡き後、母と弟妹たちのために、一生懸命働いて家計を支えてきたのでしょう。イエス様のことです、コミュニティの中でも、ヨセフの家の良い息子として、評判は決して悪くなかったものと思われます。
ですから、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」という言葉は、決して軽蔑的なニュアンスで語られているわけではないのです。ただ、帰ってきたイエス様は、その言葉にせよ、その行いにせよ、明らかに彼らの既に良く知っているヨセフの息子ではなかったのです。明らかに異質だったのです。
もし、イエス様が彼らの知っている「人間イエス」の延長上にあったなら、つまずかなかったに違いありません。評判の良い人、親孝行な息子、人格的にすぐれた人、立派な模範的な人格者、という枠内に収まっていれば、彼らはつまずかなかったのです。むしろ、それこそ尊敬し、受け入れ、その生き方を模範にしたことでしょう。しかし、そうではなかった。イエス様は異質だったのです。
天の国が近づいたのだから
しかし、それはある意味では起こるべくして起こったことでした。なぜなら、イエス様がナザレに帰ってきたのは、ナザレでの元の生活に戻るためではなく、宣教のためだったからです。そして、「宣教」とは、ある意味では「異質なもの」を持って来ることに他ならないからです。
イエス様の宣教の始まりは、4章に次のように書かれていました。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(4:12‐17)。
「天の国は近づいた」と主は言われました。「天」というのは「神」の言い換えでもあります。ユダヤ人はそのように言い換えるのです。ですから、「天の国」は「神の国」と意味としては同じです。「国」が意味するのは領土ではなくて、王としての支配です。王としての神の支配が近づいたということです。天の方から近づいてこられるのです。
神が近づいてこられ、天が近づいてこられるならば、そこでは決定的に新しいことが始まるのです。今まで慣れ親しんできた生活、過去からの延長上にある未来ではなく、全く新しいことが始まるのです。人間が人間に対して行う水平の次元のことではなく、神が人間に対して行う垂直の次元のことが起こるからです。それはマタイがイザヤ書を引用して語っているように、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という出来事が起こるのです。そうです。天から光が差し込んでくるのです。
そのことが既に始まっているのだということをイエス様は語っておられたのです。それはイエス様の到来と共に始まっているのです。それを示していたのがイエス・キリストの言葉であり、そこに語られている知恵でした。また、それを示していたのがイエス・キリストの奇跡であり、奇跡を行う力だったのです。
そのように、イエス・キリストの宣教はこの世の知恵からすれば異質なのです。単なる「より優れた知恵」ではないのです。イエス・キリストの行為も、単なる「より良い行い」ではないのです。キリストの行為が示していたのは、神のあからさまな介入なのであって、それは垂直の次元のことだったのです。
そのように「天の国は近づいた」のです。イエス様が来られて、神様のなさる決定的に新しいことが既に始まっているのです。暗闇の中に光は差し込んできているのです。
ならば、そこで今度はこちら側が問われるのです。神が近づいてこられ、天が近づいてこられているのに、同じ生き方を続けるのですか。慣れ親しんできたそれまでの生き方をずっと続けていくのですか。人間のことだけ考えて、人間がしてきたこと、人間から受けたこと、人間にできること、人間がしなくてはならないこと、それだけを考え続けて、水平の次元のことだけを考えながら、これからも生きていくのですか。そうやって水平の次元のことだけを考えていても、宗教的には生きられるのです。あのナザレの人々のようにです。しかし、そんなセミの抜け殻のような信仰生活に何の意味があるのでしょう。
イエス様は「天の国は近づいた」という宣言と共に、こう言われたのです。「悔い改めよ」。それは単に悪い行いを正せという意味ではありません。方向を変えることです。生きる方向を変えることなのです。この世界にとっては異質なイエス様を受け入れ、「天の国は近づいた」という宣言を受け止め、そして神がなさっておられることに思いを向け、私たち自身の生き方の方向を変えることなのです。
そこで求められているのは信仰です。不信仰に留まるならば、これまで慣れ親しんだ生活が続いていくだけなのであって、天の国が近づいていることも、それにより全く新しいことが神によって始まっているという現実も、決して見ることはないでしょう。いみじくも今日の箇所にこう書かれているとおりです。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」(58節)。
さて、私たちは今年も御子の御降誕の祝いの日を迎えようとしています。天からの光がこの闇の世界に差し込んだことを祝おうとしているのです。そこに向かうアドベントの時がこうして毎年与えられています。天からの光を見るために、神の御業を見るために、生活の方向を変え、新たに歩み出す時が、こうして恵みとして与えられているのです。
2024年11月24日日曜日
「世の終わりまで、いつも主は共に」
2024年11月24日 主日礼拝説教【宣教150周年感謝礼拝】
聖書:マタイによる福音書 28:16-20
行きなさい
今日は、この教会の宣教開始から150周年の節目において、皆で主に感謝の礼拝をささげるために集まっております。その150年の半分近くをこの教会で過ごし、主の御業を見てこられた小山田小八郎兄に証しをしていただきました。もちろん、証しで語られたのは、主の御業のごくごく一部に過ぎません。イエス様がこれまでに、この教会を通して成してこられた救いの御業は、私たちには計り知ることができません。私たちはただ、主を礼拝し、感謝をささげるばかりです。
そのような礼拝において、私たちは主の御言葉に耳を傾けたいと思います。今日の福音書朗読において、主は私たちに「行きなさい」と語っておられます。今日読まれましたのは、マタイによる福音書28章、大宣教命令と呼ばれる聖書箇所です。宣教開始から150年。もちろん、ここが終着点ではありません。主は私たちに「行きなさい」と語られ、新たな教会の歴史の中へと送り出されるのです。
「行きなさい」。その言葉を最初に聞いたのは、ペトロを初めとする最初の弟子たちでした。「行きなさい」。それは何のためでしょう。主は言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。
「すべての民」というこの「民」は複数で書かれています。他の箇所ではほとんどの場合「異邦人」と訳されています。「すべての民」というのは、「ユダヤ人」という枠を越えた、全世界のあらゆる国々の人々という意味合いです。キリストの最初の弟子たちは皆ユダヤ人でした。しかし、イエス様は初めから、ユダヤ人社会の中に彼らを留め置くつもりはありませんでした。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って、全世界に向けて送り出されたのです。
そのように全世界に向けて送り出されているのが教会です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。代々の教会はこの言葉を文字通りに受けとめてきました。だから遠いカナダからこの日本にまで宣教師が送られてきたのです。だからこそ、この教会も存在するのです。だからこそ、ここに私たちがいて、同じ御言葉を聞いているのです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。
洗礼をさずけよ
その具体的な内容が二つ書かれています。「洗礼を授けること」と「教えること」です。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主は言われるのです。
イエス様は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われました。洗礼とは何でしょう。「洗礼」について、パウロが次のように語っています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。
「洗礼によってキリストと共に葬られ」と書かれていました。「葬られる」――誰によって葬られるのでしょうか。神様によってです。神様が私たちを葬ってくださる。言い換えるならば、神様が、私たちを死んだ者として見なしてくださるのです。そのように、一度葬られるのは何のためか。「新しい命に生きるため」、と聖書は教えているのです。一度死ぬのは新しく生きるためです。その意味において洗礼は古い自分の葬りであると同時に、新しい自分の誕生でもあるのです。
この世において新しい命が生まれたなら、その子がこの世に生きていくことができるように生活の仕方を教えられることでしょう。同じように、洗礼によって新しく生まれた人もまた、新しい生活の仕方を学んでいくのです。キリストの弟子として生きる新しい生活の仕方がしっかりと伝えられていかなくてはなりません。主はそのことを弟子たちに託されたのです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。そのようにして、イエス様が最初の弟子たちに教えたことが今日の私たちにまで伝えられているのです。私たちがしっかりと受け取り、それを手渡していくためです。
世の終わりまでいつも共にいる
さて、そのように主は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って教会を全世界に送り出されました。「行く」ことも、「洗礼を授ける」ことも「教える」ことも、すべて人間が行うことです。しかし、イエス様は「頑張ってあなたがたの力でこれを成し遂げなさい」とは言われないのです。この命令は「だから」という言葉から始まるのです。この命令には前提があるのです。
その前には何が言われていますか。18節において主はこう言っておられます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。これが大前提です。そして、最後はこう締めくくられているのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。天と地の一切の権能を授かっている御方が、世の終わりまで、いつも共にいてくださる。このことなくして、主の命令はナンセンスです。このことなくして、今日に至るまで教会が存続することはあり得なかったのです。
あの最初の弟子たちのことを考えてみてください。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)と書かれていました。なぜガリラヤに行ったのか。イエス様が「行きなさい」と言われたからです。イエス様が復活された時、婦人たちに現れてこう言われたのでした。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。
そのようにイエス様は「ガリラヤへ行け」と言われた。その時にイエス様はあの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれたのです。イエス様が捕らえられた時、見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのことです。その中には、あからさまに三度もイエスを知らないと言ったペトロもいるのです。そのような弟子たちへの言葉です。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。
本当ならば、イエス様に会わせる顔もない、そんな弟子たちだったはずです。しかし、イエス様はそんな彼らを「わたしの兄弟たち」と呼んでくださり、そんな彼らをガリラヤで待っていてくださると言ったのです。「そこでわたしに会うことになる」と。
だから彼らはガリラヤへ行ったのです。イエス様が指示しておられた山に登ったのです。イエス様が招いてくださったからです。こんな者をイエス様が招いていてくださったから。こんな者でもなおイエス様が許して、兄弟として迎えてくださるから。だからその山に登ったのです。
イエス様が指示しておられた山に着くと、そこには確かにイエス様がおられて彼らを待っていてくださいました。「そして、イエスに会い、ひれ伏した」(17節)と書かれています。それは「礼拝した」という意味の言葉です。その山はイエス様に招かれた者の礼拝の場となりました。皆さん、弟子たちが招かれたあの山に当たるのが、今、私たちが身を置いている礼拝堂なのです。招かれた者の礼拝の場所です。
その礼拝の場において主は言われたのです。恵みによって集められた彼らに言われたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。ただ御前にひれ伏すことしかできない弟子たちに、主はこのとてつもない命令を与えたのです。本来ならば、どう考えてもできっこない、担い得るはずがないのです。どだい彼らには無理な話だったのです。しかし、そこで主は言われたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。そして、言われたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。
心を合わせて熱心に祈っていた
それから2000年近くの月日が経ちました。彼らがいたところから約8500キロ離れたところにいる私たちが、同じように礼拝の場に集まり、キリストを礼拝しているという事実がここにあります。これはただ人の力によって実現したことではありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主はその言葉どおりになさったということです。
実際、あの弟子たちは、ただ人間の力や人間の持っているものによってこれを実現しようとはしなかったのです。今日の第二朗読は、教会の宣教の歴史がまさに始まろうとしている、その直前の彼らの姿を私たちに伝えているのですが、そこにはこう書かれていました。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:13‐14)。
「天と地の一切の権能を授かっている」その御方の権能が地上に現されることを彼らは祈り求めたのです。心を合わせて熱心に祈っていた。そこに天から聖霊が降ったのでした。教会の宣教の歴史はそのように開始したのです。
そして、今も継続していることを私たち確かに目にしています。それはイエス様が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われた、その事実を目にしているということです。主は確かに私たちと共にいてくださいます。その主は「世の終わりまで」と言われました。私たちは終着点ではありません。教会の歴史は世の終わりまで続きます。150周年の節目は、新たな出発でもあります。主と共に、ここから新たに歩み始めましょう。