2023年7月30日日曜日

「悪をもって悪に報いず」

ペトロの手紙一 3:13-16

「正しくない者たち」のために
 今日はペトロの手紙を読みました。この手紙が書かれたのは、既に教会に対する迫害が激しくなり初めていた頃です。今日の朗読箇所の少し前にはこう書かれています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)。このように書かれているのは、現実に悪意をもって苦しめられたり侮辱されたりすることがあったからです。

 そのような中で「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(15節)ということも語られているのです。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人」というのは、直接的には信仰を求めている人のことではありません。迫害の中での話です。そこで説明が要求される。それは個人的な悪意に満ちた問いかけかもしれませんし、公的な裁きの場に引き出されて訊問されるような場合かもしれません。

 いずれにせよ、そこでペトロは、「いつでも弁明できるように備えていなさい」と言い、そして、こう続けるのです。「それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)。

 そのように悪意をもって向かって来る人に対しても「穏やかに、敬意をもって」弁明しなさいというのです。もちろん、そのように語られているのは、自然にはそうならないからです。相手の敵意はこちらの敵意を引き出しますし、相手の悪意はこちらの悪意を引き出します。常日頃不当な苦しみを強いられているならば、なおさらそのような負の感情が引き出されてしまうものです。だからこそペトロはあえて念を押すように付け加えるのです。「穏やかに、敬意をもって」と。

 しかし、それはとても難しいことなのでしょう。ペトロの勧めの言葉は正しくても実行は極めて困難です。今日の聖書箇所の直後で、ペトロはさらにこう言っています。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(17節)。それはそうです。もっともです。しかし、だからと言って「善を行って苦しむこと」を簡単に受け入れられるかと言えば、それはとても難しい。悪を行って苦しむ方が受け入れやすいのです。自分に原因があれば納得も行く。善を行って苦しむことは、明らかにそれは不当な苦しみなのであって、それが「不当である」というだけで苦しみは増すのです。それを受け入れることは難しい。ましてや、そのような中で穏やかに敬意をもって語ることはなんと難しいことか。それはペトロも分かっているはずです。

 だからこそ、今日の朗読箇所は、それだけでは完結しないのです。今日の御言葉を受け止めるためにも、その先に語られていることに耳を傾けなくてはなりません。18節にはこう書かれています。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」(18節)。このキリストに目を注ぐことなくして、本当の意味で不当な苦しみに打ち勝つことはできないのです。

 不当な苦しみと言うならば、キリストこそまさに不当な苦しみを受けられた方でした。何も悪いことをしてはいないのに、十字架にかけられたのですから。しかし、主はその不当な苦しみを受け入れられたのです。神の御心として受け入れたのです。そして、耐え忍ばれたのです。その意味でキリストは苦しみを負うことにおける模範です。

 しかし、聖書が言いたいのはそれだけではありません。「キリストは正しくない者たちのために苦しまれたのだ」と語られています。「正しくない者たち」とは誰のことでしょうか。迫害者たちでしょうか。敵意をもって向かってくる人々でしょうか。そうではないのです。キリストが苦しまれたのは「あなたがたを神のもとへ導くためです」と言うのです。すなわち、その「正しくない者たち」とはあなたたちだ、とペトロは言うのです。キリストの苦しみは、他ならぬそんなあなたがたを神のもとへ導くためだったではないか、と。

 自分を「正しい者たち」の側に置き、相手を「正しくない者たち」の側に置く時、もはや「穏やかに、敬意をもって」語ることは不可能になります。そして、「正しくない者たち」によって苦しみを負わされることは耐え難いものとなります。

 しかし、十字架の前に立つ時、そこにいるのはもはや「正しい者たち」と「正しくない者たち」という二者ではなくなります。そうではなくて、ただ一人の「正しい方」と残りの「正しくない者たち」になるのです。そこには正しいキリストと、そのキリストに罪を負っていただいた者たちがいるだけなのです。迫害する者も迫害される者も同じところにいることを知る時に、語り方もまた違ってくるのです。

陰府に降られたキリスト
 しかし、ペトロはただキリストが私たちのために苦しまれたことを語ることに留まりませんでした。ペトロの手紙は次のように続きます。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(18-19節)。このように、ペトロはさらに続けて、「陰府に降ったキリスト」について語るのです。ここでは「捕われていた霊たちのところへ行って宣教された」と表現されています。

 私たちは、使徒信条においてキリストに関しての信仰を言い表す時、「十字架につけられ、死にて葬られ」という言葉の次には「陰府にくだり」と続くことを知っています。しかし、実はこの「陰府にくだり」という言葉はもともとの使徒信条にはなかったのです。これが加えられたのは紀元前4世紀の半ばであると言われています。その「陰府にくだり」が加えられた聖書的な典拠として知られているのが、今、お読みしたこの19節なのです。

 実際には、ここはかなり解釈の難しい箇所です。単純ではありません。しかし、この箇所が一つの問いを背景にしていることは考えられます。恐らく誰もが抱く問いです。「地上における生存中に福音を聞く機会を持たなかった人々はその後どうなるのか?」という問いです。先に引用した箇所はその問いに対する一つの答えでもあったと考えられるのです。実際、キリストが陰府にまで降って、キリストが来られる以前に死んだ人たち、あるいは福音を聞くことなく死んだ人たちに宣教したという理解は古くからあって、それは紀元2世紀まで遡ります。

 しかし、ペトロがキリストの苦難を語るだけでなく、さらに「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と語っているのは、単に死んだ人への関心からではないだろうと思います。そこには、もっと大きな理由があることが垣間見られるのです。続く20節をご覧下さい。「捕らわれていた霊たち」について、わざわざ「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」と説明されているのです。

 ノアが箱舟を作っていた期間、それは神が人々に警告を与えていた期間でもあったと言えます。神はその期間、人々が悔い改め、立ち帰るのを待っておられた。しかし、彼らは最後まで悔い改めなかったのです。ここに言及されているのは、そのような人々の話です。そこで洪水が起こりました。これは明らかに神の裁きです。彼らは神の裁きによって死んだということになります。ならば彼らはそれで終わりであるはずです。しかし、そのような人々のところにまで行ってキリストは宣教されたのだ、と言っているのです。

 ならば、このことを語っているのは、単に死んだ人への関心からではありません。ペトロが語りたいのは、キリストがどのような御方なのか、ということなのです。最後まで悔い改めることなく洪水によって死んだ人たちでさえ、神の裁きによって滅びたと見える彼らでさえ、キリストの目には、まだ終わりとは映っていなかったのです。彼らのところにまでキリストは向かわれたのです。

 ならば、まだこの地上にある人はどうでしょう。キリストの目にはどう映っているのでしょう。どのような人であれ、もう終わりだと映っている人など、一人もいないのでしょう。それがたとえキリストをあからさまに侮辱し、あるいはこの世の権力をもって教会を迫害する人であっても、キリストにとっては終わりではないのです。キリストは彼らのところにも行こうとしておられるのでしょう。あの最後まで悔い改めなかった人たちのところにまで行かれたキリストですから。

 実際、私たちは少なくとも一人は、その実例を知っているのではありませんか。かつて教会の迫害者であったパウロ。キリストはパウロのところにまで行ってパウロに出会われた。語られた。宣教されたのです。

 そして、考えてみてください。キリストがそのような御方であるからこそ、私たちもまたここにいるのではありませんか。本来ならば神に裁かれて終わりであったはずの私たちが、今ここにいるのはなぜですか。陰府にまで降られたキリストが、私たちのところにまで来てくださったからではありませんか。

 そのことが見えてきますと、なぜペトロが「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)と言っているのかがよくわかります。さらにさかのぼって、9節では「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)とも語られていました。それがなぜだか、よく分かります。キリストはわたしたちを神のもとに導くために苦難を耐え忍んでくださっただけではなく、私たちを追い求めてくださったキリストは、今もなおすべての人を追い求めておられるからです。それが、たとえ、私たちを苦しめている人であっても、それはキリストが愛しておられる人であり、出会おうとしておられる人であるに違いないのです。
(祈り)

2023年7月26日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 6:13~20

 ヘブライ人への手紙 6:13‐20

 前回お読みしたところには次のように書かれていました。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(11‐12節)。ここで読者が見倣ってほしい人たちの中で、まず誰を念頭に置いているかが、今日お読みしたところに明らかにされています。それはアブラハムなのです。

 しかし、今日の箇所において、著者がまずアブラハムの模範的な姿を提示しているかと言えば、そうではないのです。アブラハムがどれほど忍耐強かったか、信仰が深かったかということを語り出すのではなくて、まず、神様のことを語り出しているのです。特に神がアブラハムに対して「誓った」ということを取り上げているのです。「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす』と言われました」(13‐14節)。その上で、初めて、「こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです」と、アブラハムの忍耐のことに触れているのです。

 神がアブラハムに対して誓われたように、「何かにかけて誓う」という行為は、ある意味では今日の私たちにとって馴染み深いものではないと言えるでしょう。しかし、この手紙の読者にとっては極めて身近なものだったのです。とにかくユダヤ人の世界においては、信用が問題となるところでは、頻繁に「何かにかけて誓う」という行為がなされたのです。今日で言うならば、判をついて契約書を交わすという感覚に近いかもしれません。それで信用問題については、ある意味でけりがつく。そのような類のものです。

 しかし、人間ならまだしも、神様が「誓う」というのは、やはり何か変です。人間の世界では、誓いの効力を保証するために自分より偉大な者にかけて誓うのです。しかし、神様の場合、自分より偉大なものはありません。ですから、「自分にかけて誓う」という変なことになります。まさに、その変なことが実際に聖書に書かれているではないかと、この著者は指摘しているのです。それは後で見ますけれど、創世記の22章に実際に出てくるのです。

 神様があえてそんな変なことをなさったのは何のためか。なぜそんな変なことが聖書に書かれているのか。それは次のように説明されています。「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです」(17節)。

 それは一方において、「神の計画が変わってしまったのではないか」という状況があるということでしょう。言い換えるならば、神様は先に約束したことを勝手に変更してしまって約束を守らないかのように見えるということです。そのような状況の中で、なおも神様は「計画は変わっていないんだよ」と示そうとした。それがこの「神の誓い」という変な出来事だというのです。

 神は「御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきりと示したい」と考えられた。――それは要するに「信じ抜いて欲しい」という神の心の現れでしょう。どんなに状況が約束の実現に反するように見えても、神が不真実に見えたとしても、信じて欲しいと神は願っている。それを示しているのが、この「神の誓い」なのです。私たちはその奇妙な記述に、そのような神の心を読み取らなくてはならないのです。

 そして、実際アブラハムは、神が望んでいるように、そのように神を信じたのです。信じ抜いたのです。実際、この「神の誓い」が聖書のどこに書かれているかと言うと、先に申しましたように、それは創世記22章なのです。それは有名な、イサク奉献の物語が書かれているところです。

 その内容はご存じでしょう。神様はアブラハムにこう言われたところから始まります。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)。これは明らかに神様の当初の約束の言葉である「わたしはあなたを多くなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(同12:2)という約束に反するでしょう。また、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる」(同15:5)という約束の言葉に反するでしょう。イサクはたった一人の子なのであって、その子を殺したら、子孫はもはやあり得ないのですから。

 彼がイサクを連れてモリヤの山を登って行った時、彼が見続けていたのは、約束に反する現実だったのです。神の不真実と見える現実だったのです。彼が刃物を振り上げた時、彼が目にしていたのは、神の不真実としか見えない現実だったのです。にもかかわらず、彼は神を信じ続けたのです。

 この著者がまず念頭に置いているのは、このアブラハムなのです。このような人を「見倣う者となってほしいのです」と彼は言うのです。実際、「神の誓い」はこの出来事の直後に書かれています。信じ抜いたアブラハムに対して為された誓いです。ならば、それは単にアブラハムのためだけではないでしょう。その後の人々のためでもあるのです。それはこの手紙の読者のためでもあり、今日の私たちのためでもあるのです。

 ですから、こう書かれています。「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません」(18節)。そうです、「わたしたち」がこの二つの不変の事柄、すなわち神の約束と誓いによって励まされるためなのです。

 その「わたしたち」ということについて、特に「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたち」と言われています。細かい話になりますが、実は、原文には「世を」という言葉はありません。ただ「逃れて来たわたしたち」と書かれているのです。何から逃れてきたのかということは書かれていません。ですから「世から逃れてきたのだ」という解釈が一つあって、それがこの訳です。しかし、その訳では、信仰を持つということは世捨て人になることであるかのように誤解される恐れがあります。

 ということで、これを「世を逃れて来たわたしたち」ではないとする解釈があります。わたしは、それが正しいと思っています。確かに、彼らは迫害の恐怖に直面しています。世の人々が敵対してくるのです。しかし、人を滅ぼすのは「世」ではないのです。この手紙は、そうは言っていないのです。本当に恐ろしいのは「世」ではないのです。既に見てきましたでしょう。人は何によって滅びるのか。不信仰によってなのです。だから、本当に逃れなくてはならないのは、不信仰からなのです。そこから逃れて「目指す希望を持ち続けようとしているわたしたち」と言っているのです。その私たちを神は励まそうとしておられるのです。

 なぜなら、その目指す希望、すなわち神の国の希望、神の安息にあずかる希望こそ、魂にとって頼りになる錨だからです(19節)。錨がなかったら流されていってしまうのです。滅びへと流されて行ってしまうのです。だから不信仰から逃れて、希望を保ち、錨をしっかりと降ろしていなくてはならないのです。

 そしてもう一つのことが付け加えられています。この希望こそ、「至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」(19節)と。至聖所の垂れ幕の内側に入って行くとは、言い換えるならば、神との交わりに入るということです。それは現在における神の交わりであると共に、最終的に完全な神との交わりに入るということをも含みます。その垂れ幕の内側に、既に先にキリストが入ってくださいました。そして、私たちのために大祭司として執り成していてくださいます。それは同じ交わりへと私たちも入るためなのです。だから「目指す希望を持ち続けようとしているわたしたち」であることが大事なのです。どんなに神は不真実であるかのように見える現実があったとしても、私たちは不信仰と絶望から逃れ、希望を持ち続けなくてはならないのです。あのアブラハムのように。そのような私たちを神は励ましていてくださいます。


2023年7月23日日曜日

「一つとなって主に仕える」

ルカによる福音書 8:1-3

思いを一つにして仕える婦人たち
 イエス様は神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けておられました。その旅には「十二人も一緒だった」(ルカ8:1)と書かれています。実際にはその他の弟子たちも大勢伴っていたものと思われます。

 しかし、今日朗読された箇所においては、十二人ではなく、その他の弟子たちでもなく、共にいた婦人たちに目が向けられています。そこには心を一つにしてイエス様とその一行に仕える多くの婦人たちの姿がありました。彼女たちは自分の持ち物を出し合って、共に一行に奉仕していたのです。

 その中で特に三人の名前が挙げられています。「マグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ」。これらの名前が記されているのは、ルカによる福音書が書かれた時代においてもなお、これらの名前が諸教会に記憶されていたということでしょう。特にマグダラのマリアとヨハナについては、後にキリストが復活した朝、墓に向かった人々の中に名前が記されています。彼らはキリストの復活の証人としても覚えられていたのだと思います。

 しかし、福音書においてはここで初めて登場するのですが、次のように紹介されていることは注目に値します。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ」(2‐3節)。つまり、彼らについては、キリストの復活の証人であるということよりも、あるいは後の教会において良い働きをしたということよりも、もともと「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人たちなのだ」ということの方が重要だったということなのです。

 ちなみに、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」とありますが、厳密に言いますと、ここは原文では「悪霊と病気からいやしていただいた」と書かれています。悪霊からの解放と病気の癒しは並べて書かれているのであって、必ずしも病気の原因が悪霊であったという意味合いではありません。ですから、マグダラのマリアについては病気とは関係なく「七つの悪霊を追い出していただいた」とだけ書かれているのです。要するに彼女たちには病気だけではなく、悪霊に支配されていた過去があったということです。言い換えるならば、神に背いて生きてきた生活があったということなのです。そこから癒された人たちなのです。

 マグダラのマリアについては「七つの悪霊を追い出していただいた」と書かれているわけですが、彼女はいったい何者なのでしょう。いったいどんな罪を犯して生きてきたのでしょうか。実際、「七つの悪霊を追い出していただいた」という表現はこれまで多くの人々の想像をかき立ててきました。そして、マグダラのマリアの人物像について多くの理解が生まれることとなりました。

 ある人は直前の7章に出て来た「罪深い女」こそ、マグダラのマリアに他ならないと言います。確かに今日の聖書箇所は「すぐその後」という言葉から始まっていまして、明らかに前の章と結びつけられています。ならばマグダラのマリアはイエス様に出会った「罪深い女」であり、具体的には娼婦であったのかもしれません。

 しかし、聖書があえて具体的なことを明示しないで、また前に出て来た「罪深い女」と同一人物であるか否かも明らかにしないで、ただ「七つの悪霊を追い出していただいた」としか書いていないことには、そのこと自体に意味があるようにも思います。その内容は誰にも知られる必要はないということです。彼女が何に支配され、どんな罪を犯してきた人であるのかは、もはや重要ではない。もっと重要なことがあるからです。それは何か――キリストの恵みにあずかって救われた人だということです。

 だからこそ、彼女の名前は当たり前のように「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」と並べられているのです。繰り返しますが、マグダラのマリアが何をしてきた人かは分かりません。娼婦であったかもしれないし、なかったかもしれない。しかし、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」とは全く違った生活をしてきたであろうことは想像できます。「ヘロデ」とはガリラヤを治めていた領主であるヘロデ・アンティパスのことです。ヨハナはいわば高級官僚の妻であった人ですから。

 しかし、クザの妻ヨハナもまた悪霊から解放された人としてここに名前を記されているのです。そこにはまた、マグダラのマリアの場合とは異なった形での悪霊の支配があったということです。彼女は彼女として神に背いた生活があったということです。しかし、ヨハナにおいても重要なことは、彼女が何に支配され、どんなことをしてきた人であるかではありません。キリストの恵みにあずかって救われた人であるということです。それは詳しいことは何も書かれていないスサンナについても言えることでしょう。だから彼らはそれぞれ全く異なる背景を持つ婦人たちであるにもかかわらず、当然のように並べて書かれているのです。

 そして、名前を挙げられている彼らは代表に過ぎないのです。その他にも大勢いたからです。「そのほか多くの婦人たちも一緒であった」と書かれていましたでしょう。その一人一人にもまた、それぞれ生きてきた背景があるのでしょう。しかし、それらは何一つ語られません。語られる必要もありません。大事なことは一つだけだからです。彼らがキリストの恵みにあずかって救われた人だということです。

 だからこそ、彼女たちは全く異なる背景を持ちながら、心を一つにしてイエス様とその一行に奉仕しているのです。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(3節)と書かれていました。「持ち物」とありますが、それはただ金品だけを意味するのではありません。自分の「持っているもの」という言葉ですから、そこには金品だけではなく、自分の能力や資質も含まれます。もちろん「持ち物を出し合う」ということもあったでしょうが、さらに広く彼女たちが自分のできることを出し合って、分かち合って、共に仕えたということなのです。

 マグダラのマリアとクザの妻ヨハナは、差し出せるものもできることも異なっていたに違いありません。しかし、それぞれ持てるものを出し合って、一緒に仕えていたのです。そこにおいて一つになれたのです。なぜなら、彼らは同じイエス様の恵みにあずかり、同じイエス様によって救われた者であり、それぞれ差し出すものは、同じイエス様に対する感謝の応答に他ならないからです。

主において同じ思いを抱きなさい
 そのように、今日、私たちに与えられている福音書朗読では、互いに異なる者でありながら、思いを一つにしてイエス様とその一行に仕える婦人たちの姿が描かれていました。しかし、もう一方において本日の第2朗読では、思いを一つにして仕えることのできない婦人たちのことが書かれていました。

 「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」(フィリピ4:2‐3)。

 フィリピの教会はパウロの伝道によって生まれた教会です。そして、パウロの伝道を支えてきた教会です。フィリピの教会はパウロの喜びであり誇りだったのです。パウロは彼らを「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」(1節)と呼んでいます。それはパウロの嘘偽りのない心情だったと思います。

 しかし、その教会にとても残念なことが起こっていました。エボディアとシンティケという二人の婦人が、同じ思いを抱いて、一つとなって奉仕することができなくなっていたのです。彼らはいい加減な人たちでも、不敬虔な人々ではありません。「福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」とパウロが言うほどの二人です。それぞれ熱心に一生懸命に仕えてきたのでしょう。しかし、往々にして対立は、そのような熱心に真剣に仕えている人たちの間に起こるものなのです。

 そこでパウロは言うのです。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」と。非常に印象的な語り方です。対立している二人を自分の前に並べるようにして、「わたしはエボディアとシンティケに勧めます」とは言わないのです。あくまでも個別に、それぞれに、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」と言うのです。それぞれがパウロの勧めを聞かなくてはならないからです。相手がどうであるかではなく、それぞれが自分のこととして聞かなくてはならないからです。

 「主において同じ思いを抱きなさい」。ここで重要なのは「主において」という言葉です。しばしば「主に結ばれて」とも訳されます。同じ思いを抱くことができるとするならば、それは「主において」「主に結ばれて」なのです。そして、「主において」「主に結ばれて」という言葉で表現されている主との関係は、「どれだけ主に仕えているか」という関係性ではあるなせん。それが先に来るのではないのです。イエス様と共に旅をしていた婦人たちの姿を思い起こしてください。マグダラのマリアとクザの妻ヨハナが同じ思いを抱いて仕えていたのは、どちらも同じキリストの恵みにあずかって、同じキリストによって救われた人だったからです。それこそが彼らにとって最も重要なことだったからです。「主において」とはそういうことです。

 「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」。エボディアは、シンティケのことはとりあえず横に置いて、「主において」「主に結ばれて」という言葉をしっかりと受けとめなくてはならないのでしょう。それはシンティケにおいても同じです。主の恵みにあずかって、主の赦しにあずかって、主によって救われた者として新しく生かされて、そのような自分が今ここにいるのだということをしっかりと受けとめなくてはならないのでしょう。そこで初めて同じ思いを抱いて仕え、一つとなって主に仕えるということが生まれてくるのです。


2023年7月19日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 6:1~12

 ヘブライの信徒への手紙 6:1‐12

 前回のところでは、読者に対して「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」と語られていました。要するに、あなたがたは幼子だから固い食物を食べることはできない、と言っていたのです。しかし、今日の箇所を読みますと、「だからあなたがたにはまだまだ乳を与えることが必要だ」とは言っていません。そうではなくて、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と言っているのです。これを読みますと、先週も申し上げましたが、既に述べられたことは、いわば多分に挑発的な言葉であったことが分かります。読者に発奮して欲しいのです。そのままで満足していて欲しくないのです。成熟したいという願いを持って欲しいのです。固い食物を食べる必要性を知らずに乳を飲んでいて満足している人は、いつまで経っても乳を飲んでいることになるでしょう。そうあってはならないのです。

 「キリストの教えの初歩を離れて」と書かれています。その「初歩」の例として、「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」が挙げられています。「死んだ行い」というのは、永遠の命の源なる神から自らを切り離してしまう行い、すなわち神に対する背きのことです。そのような行いを悔い改めること。生ける神に立ち返るということは観念的なことではありません。実際的なことです。「神への信仰」については特に言葉を加える必要はないでしょう。次に「種々の洗礼」と複数になっているのは、「洗礼(バプテスマ)」そのものは、必ずしもキリスト教会だけが行っていたのではないからです。異邦人がユダヤ教へと改宗する時に洗礼が行われました。またヨハネの授けたバプテスマがありました。そのような中において、教会において主の御名によって授けられる洗礼はいかなるものか。主イエスが聖霊によって授けるバプテスマとは何であるか。そのことについての教えが「種々の洗礼についての教え」です。手を置く儀式とは、聖霊を与えるものとして、また伝道者の任職として行われていたものです。そして続く「死者の復活」「永遠の審判」は終末に関する教えです。

 どうでしょう。これらが「基本的な教え」と呼ばれ「キリストの教えの初歩」と呼ばれているものです。どれ一つ取っても、大変な内容を持つものでしょう。しかし、これらはキリスト者ならば当然弁えていなくてはならないものであり、これらについての教えは「乳」だと言うのです。そうしますと、私たちが「乳」として求めているものは、もしかしたら「乳」にもなっていないかもしれないのです。私たちの標準といかに違うかを思わずにはおれません。

 それは教会の置かれた状況を考えても分かります。この手紙は試練に直面している教会に宛てて書かれたものであることは既に述べました。そこには様々な困難の中で、どのようにして信仰を保っていくかという死活問題があるのです。人が信仰を保っていこうとするときに、その土台として基本的な事柄が身についていることが必要なことは誰でも分かります。しかし、この著者に言わせるならば、それでも十分ではないのだ、と言うのです。「成熟を目指して進みましょう」と。

 確かにそれは私たちの置かれている状況とは違います。しかし、どのようにして信仰を保っていくかという死活問題についてはある意味では変わらないのでしょう。その意味では、私たちには危機感が欠落しているとも言えます。私たちは本当に試練を耐え抜くことのできる信仰者なのだろうかと改めて自らに問わなくてはなりません。

 実際それは決して小さなことではないのです。試練の中において信仰を捨てるということ、すなわち棄教するということがどういうことかを、この著者は極めて厳しい語り口で次のように語ります。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(4‐6節)。

 信仰者として、この言葉を読んで恐れを抱かない人はいないだろうと思います。もっとも、「再び悔い改めに立ち帰らせることはできない」のはあくまでも人間の側としてのことであって、人にはできなくても神にはできるということが留保されているとは言えます。しかし、それは神の恵みとしての留保なのであって、神が立ち帰らせてくださることを当然のこととすることはできません。やはり私たちは恐れなくてはならないのです。神を離れても、後で立ち帰ることができるなどと安易に考えてはならないのです。信仰を捨てても、また後で持つことができるなどと安易に考えてはならないのです。

 もちろん、ここに書かれていることは、既に信仰を捨てた人々について、「彼らが立ち帰ることは不可能なのだ」と断罪するために書かれているのではありません。そうではなくて、あくまでもこれは信仰に立っている人々に対して書かれているのです。警告として語られているのであって、願いはもちろん、信仰に留まって欲しいということです。

 ですからこの著者は、次のように語りかけています。「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」(9節)。そして、神様がこれまでの信仰生活をちゃんと見ていてくださって決して忘れることはないのだと励ましているのです。「あなたがたの働き」、そして「聖なる者」すなわち他の信徒に対して示してきた愛、しかもそれが神の名のために行われてきたこと、すべて神様は覚えていてくださると言うのです。信仰の実りが必ずしも人の目に留まるわけではないし、また覚えられているわけではありません。また自分でも覚えていないことがあるかもしれません。しかし、神様は覚えていてくださる。なぜなら神様は不義な方ではないから。

 先にこの著者は読者に対して、あなたがたは乳を飲んでいる幼子だと語りました。確かにそうだったのでしょう。しかし、そうであっても信仰者として生きてきたことは、神の御前において決して小さなことではないのです。それは私たちについても同じであろうと思います。このヘブライ人への手紙のスタンダードから言えば、私たちの状態は幼子以下かもしれません。しかし、それでもなお神様はその信仰生活に目を留め、心にかけ、覚えていてくださるのです。私たちは卑下する必要はないし、そのことよりも、「成熟を目指して進みましょう」という言葉をしっかりと受け止めたらよいのです。

 8節に至までかなり厳しい辛辣なことを語ってきたこの著者の真意は次のように語られています。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(11‐12節)。

 「怠け者」というところに用いられているのは、5:11の「鈍くなっている」と同じ言葉です。鈍くなったままでいてほしくない。むしろ信仰と忍耐によって約束されたものを受け継ぐ人たち、すなわち信仰の先達たちを見倣ってその後に続く者となって欲しいのです。その信仰の先達たちの代表として挙げられるのはアブラハムです。彼についてはこの直後に言及されていますし、また後に11章に登場します。私たちも知るとおり、アブラハムは人間としては完全な人と言うにほど遠い人でした。またその信仰は度々試練に遭い、振るわれました。しかし、彼は忍耐強く待って信仰を全うしたのです。そのようにわたしたちも最後まで希望を持ち続けることができるようにとこの著者は願っているのです。そのためにも、信仰の基本的なことがらはもとより、そこからさらに常に成熟を目指して進む必要があるのです。


2023年7月16日日曜日

「互いに重荷を担いなさい」

ガラテヤの信徒への手紙 6:1ー10

互いに重荷を負いなさい
 聖書の中にこんな話が出てきます。ペトロがイエス様に尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。するとイエス様が答えます。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)。

 人を赦すこと。人を赦し受け入れることのできる広い心を持つこと。それが大事であることは私たちもよく分かっています。憤ってばかりいる人、恨みを抱き続けている人よりは、人を赦すことのできる人になりたいとも思いますし、心の広い寛容な人になりたいとも思います。

 しかし、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」となると、話は別です。七の七十倍になったら、もはや実際的には数えられません。「今回赦したら490回目ですよ」ということは起こり得ない。要するに何回赦したか「数えるな」ということです。数えないで赦しなさい、ということです。そうなりますと話は違ってまいります。

 どんなに人を赦すことが大事だと思っていても、さすがにこのイエス様の言葉はあり得ない。それこそ赦しがたい人々の顔がちらちらと思い浮かんでくるかもしれません。そんな人たちを何度も赦すなんて、絶対にあり得ない!――それが自然な反応だと思います。

 いや、これは単純に《できるかできないか》の問題ではないのです。「そもそもそれは正しいことなのか」という問いが生じてくるからです。何度も赦して本当に良いのか。その人が同じことを繰り返すだけではないか。赦してやるのではなくて、二度と同じ過ちを犯さないように、むしろ一度徹底的に痛めつけた方が、本人のためなのではないでしょうか。

 いずれにせよ、徹底的に痛めつけるかどうかは別として、人はただ赦されるだけでなく、正されなくてはならない。それは誰もが普通に考えることだろうと思うのです。実際、今日の第二朗読において、パウロもまたこう言っていました。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(1節)。この「正しい道に立ち帰らせなさい」というのは意訳でありまして、「正しなさい」というのが直訳です。

 パウロも、誰かが罪に陥ったなら、その人はただ赦されるだけでなく、正されなくてはならないと言うのです。ただ、「もう二度としないように徹底的に痛めつけて正しなさい」とは言いません。「柔和な心で(正しなさい)」と言うのです。どうも、これがとても重要なポイントであるようです。

 パウロが、あえて「柔和な心で」と言うのは、実際には柔和になれない状況があるからなのでしょう。考えてみてください。教会内の人間関係においても、この社会の人間関係においても、問題になるのは一般的な意味で「だれかが何かの罪に陥ったら」という場合ではないのです。そうではなくて、ペトロが言っているように「わたしに対して罪を犯したなら」という場合なのです。つまり誰かによって《自分が》苦しい思いをする、痛い思いをする、理不尽な重荷を負わされる。そのような場合なのです。あるいは直接的に自分が被害を受けないとしても、間接的に、誰かが被害を受けることによって、自分も不快な思いを強いられる。あるいは共同体全体が不利益を被る。そんな場合もあるでしょう。

 自分に重荷がやってこない「どこか他所の誰かの罪」の話なら、恐らくいくらでも柔和になれるのです。おだやかに対処もできるのです。しかし、現実には往々にしてそうはならない。私たちが気づく罪というのは、私たち自身にも関わってくるから気づくのです。何らかの形で私たち自身の重荷にもなるから気づくのです。ですからパウロもまたこれを一般的な話にしないで、すぐさま続けてこう言うのです。「互いに重荷を担いなさい」(2節)。

 他人の罪や悪に気づくのはそれほど難しいことではありません。その罪に怒りを向けることも難しくはありません。それは努力しなくても自然に起こります。人を裁くことは簡単です。非難することも簡単です。断罪することも簡単です。こちらが強ければ、徹底的に痛めつけることも、あるいは簡単なことなのかもしれません。

 しかし、本当の意味で「正すこと」はとても難しい。「互いに重荷を担いなさい」とあるように、それはあえて重荷を背負うことでもあるからです。重荷を背負うつもりがなくても、人に怒りを向けることはできます。人を裁くことも、非難することもできます。重荷を背負うつもりがなくても、痛い目に遭わせることはできるかもしれません。しかし、重荷を背負うつもりがなければ、正すことはできません。

 ちなみに「正す」が直訳だと言いましたが、これはまた「修繕する」という意味の言葉でもあるのです。破れたところを繕う。ボロボロになってしまったものを繕う。誰かが罪を犯すなら、その人に必要なのは、ただ怒りを向ける人でも、非難する人でも、痛めつける人でもないのです。そうではなく、重荷を負うつもりで、こつこつと修繕する人、ボロボロになっているところを繕ってくれる人、そのように関わり続けてくれる人こそが必要なのです。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい、修繕しなさい」とはそういうことです。

 するとそこで、やはりあのイエス様の言葉が響いてまいります。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」そこに語られている、最も深いところにおける赦しの心が必要となってくるのです。

私たちの重荷を負ってくださった神
 とはいえ、それは難しい。なんと難しいことかと思います。しかし、だからこそ私たちは、そのように生き、そのように私たちに関わってくださったイエス様に目を向け続けなくてはならないのでしょう。「赦しなさい」と言われたあの御方は、私たちのちっぽけな「赦しの心」とは比較にならない、とてつもなく大きな、神の「赦しの心」をその身をもって現してくださった方だからです。

 今日の福音書朗読は、食事の席に着いておられたイエス様のところに、突然、その町で罪深い女として知られていた女性が泣きながら入ってきたという話でした。彼女は後ろからイエスの足もとに近より、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻して香油を塗り始めたというのです。

 食事の席に赤の他人が入って来ること自体は当時の社会において決して珍しいことではありませんでした。また、食事をする人は、今日のように椅子に座っているわけではなくて、横になって肘をつきながら食事をしていますから、足元に近寄ったということも、さほど不自然な行動ではありません。しかし、それらを差し引いても、やはりこれは本来起こりえない話です。それはファリサイ派のシモンの家だったからです。

 神の律法を厳格に守り、清く敬虔な生活をしているファリサイ派のシモン。その家に、罪深い女として知られている人が入ってくることは、まずあり得ません。入ってくれば、裁かれ、非難され、断罪されるに決まっているからです。そのあり得ないことが起こったのはなぜか。理由は一つしか考えられません。イエス様がそこにおられたからです。

 つくづくイエス様という御方は不思議な方だと思います。シモンが「先生」と呼んでいるように、イエス様は一面においてはユダヤ教の一教師なのです。ラビです。しかし、普通の教師になら絶対に近づかないような罪人や徴税人たちが、イエス様に引き寄せられるように集まってくるのです。なぜですか。イエス様の言葉、行動、その存在そのものに、神の大きな「赦しの心」が現れていたからでしょう。

 そして、この場面では罪深い女として知られている女性が近づいてきた。この女性にとってもイエス様は、罪深い自分をそのまま持って行くことのできる御方だったのです。罪深い者が自分の罪に泣きながらでも安心して近づくことのできる御方だったのです。そこには神の赦しがあるから。大きな神の「赦しの心」が現れているから。イエス様は彼女に宣言されました。「あなたの罪は赦された」と。そして言われたのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

 しかし、そう言われたイエス様は、重荷を背負うつもりでおられたのです。私たちすべての者の罪の重荷を背負うつもりでおられたのです。苦しみを自ら引き受けるつもりでおられたのです。そのように神は重荷を負うつもりで私たちと関わってくださったのです。罪ある私たちを断罪するのではなく、滅ぼすのではなく、大きな赦しの心をもって、自ら重荷を負うつもりで、私たちと関わってくださったのです。この世に御子を遣わされ、十字架にかけられたとは、そういうことなのです。

 私たちもまた、今ここにおいて、キリストに現れた大きな神の「赦しの心」に触れています。そこから、私たち自身に必要な小さな「赦しの心」をいただくのです。それはすぐに失われてしまうようなものですから、繰り返し福音の言葉と共に受け取らなくてはならないのです。そのようにして、神によって重荷を負っていただいた者として、互いに重荷を負いながら生きていくのです。裁き合いながらではなく、決裂を繰り返しながらでなく、柔和な心をいただいて、お互いの破れを繕いながら共に生きていく者となりたいと思います。

2023年7月12日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 5:11~14

 ヘブライ人への手紙 5:11‐14

 前回のところでは、イエス様が偉大な大祭司であり、しかも大祭司というものは「すべて人間の中から選ばれ」るものである、ということの意味を考えたわけですが、そこでは6節の「メルキゼデクと同じような祭司である」という部分には触れませんでした。しかし、これは読み飛ばすことができない重要なテーマであることは、10節において繰り返されていることからも分かります。実は、そこで触れなかったのは、7章以下でかなり詳しく展開されるからなのです。

 今日お読みした箇所、及び6章全体は、その「メルキゼデクと同じような祭司」ということが語り出される前に挟まれた形になっています。言い換えるならば、7章から「メルキゼデクと同じような祭司」について語られる前の「前置き」となっているのです。6章の終わりには、再び「メルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」と語られて、そのテーマに戻ってくるのです。

 なぜ、すぐにそのテーマに入っていかないで、前置きを入れたのでしょうか。その理由は11節に記されています。「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」。

 そうです、このことは話さなくてはならない。語るべきことはたくさんあるのです。しかし、聞く側の問題があるのです。この著者はさらに手厳しい言葉を続けます。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。」

 こうしてみると、「メルキゼデクと同じような祭司である」というテーマは、明らかに「神の言葉の初歩」すなわち、信仰入門に属してはいないということが分かります。それは「義の言葉」と呼ばれています。それが何を意味するかはさておき、これは赤ん坊のための「乳」ではないことは確かです。かなり固い食物なのです。だから、乳ばっかり飲んでいるあなたたちには食べられないし、理解もできないのだ、と言っているのです。

 恐らくこれを読んでいるのは、信仰を持って間もない人ではありません。「もう教師となっているはずなのに」と言われているのですから。もっとも「教師」と言っても、いわゆる教会の職制における「教師」という意味ではないでしょう。「少なくとも神の言葉の初歩くらいは、誰かに教えられるぐらいの人」という程度の意味であると思われます。新しく信仰を持った人の成長を助ける信仰の先輩ということです。しかし、実際にはそうなっていない。そうではなくて、自分自身が乳を飲ませてもらうことばかり考えている。そんなあなたたちに固い食物を与えることは難しい。分かるわけがない。そのようにこの著者は言っているのです。

 かなり辛辣な言葉だと思います。私たちがそう言われたらどうですか。しかし、これは多分に挑発的な意味合いで語られているということを理解しなくてはなりません。あなたがたは幼子であって、義の言葉を理解できない、と言いながら、では「メルキゼデクと同じような祭司」という話をすることは止めてしまうかというと、そうではないのです。7章以下で、それこそ固くて食べるのに一苦労するような食べ物を差し出しているのです。ちゃんと理解できることを期待して、本気で事柄の非常に深遠な部分に至るまで語っているのです。

 要するに、この著者は辛辣な言葉を投げかけてでも、その固い食物に取り組む姿勢を造りだそうとしているのです。その本心は6章2節に現れています。「成熟を目指して進みましょう」。これが言いたいのです。逆に言えば、成熟を目指して進む気がないならば、固い食物を与えることは意味がないのです。いつまで経っても食べられないでしょうから。

 さて、私たちはヘブライ人への手紙を読んでいるわけですが、この7章から10章にかけて書かれていることは、いわばこの手紙の心臓部分に当たります。ここをしっかり捉えなくては、この手紙を読んだことにはならないのです。しかし、この部分に入っていくに当たって、私たちもまた、今日の言葉をしっかりと心に留める必要があろうかと思います。というのも、これから旧約聖書を背景としたかなり細かい議論が展開されるからです。それが恐らく何週も続きます。ですから、私たちも心の内にも、とっつきにくいと感じて、真剣に取り組む思いが損なわれることがあるかもしれません。

 なので、7章に入る前に、私たちは「成熟を目指して進みましょう」という呼びかけを一緒に聞いてから、そこに入っていきたいと思うのです。乳を飲むことに満足していないで、固い食物を食べられる成熟した信仰の大人になることを目指して進みましょう、と。この著者が語る、いささか挑発的な言葉をも自分に対する言葉として正面から受け止めて、相応しい姿勢で7章以下を読んでいきたいと思うのです。

 しかし、「固い食物」を食べられるようになるとは、どういうことでしょうか。成熟した大人になることを目指すとは、どういうことでしょうか。誰でも分かるような話ではなく、旧約聖書を背景とした、込み入った難しい話を理解できるようになる、ということならば、ある程度勉強すればそうなれるでしょう。神学校で教えられているようなことを勉強すれば、ここで語られている議論そのものは理解できるようになるでしょう。しかし、それが成熟するということなのでしょう。そうではないでしょう。

 ここで「固い食物」については、こう言われているのです。「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」つまり、たとえ神学者であっても、このことを経験によって訓練されなければ、霊的な幼子のままであるということは、あり得るということです。

 成熟した大人とは、「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された」人です。確かに、この世においても、物事の善し悪しが分かる人が「大人」と呼ばれます。それが分からない人は「まだまだ子供ね」と言われます。しかし、ここで「善悪」と言われているのは、この世において一般的に言われる道徳的判断ではありません。あくまでも信仰の事柄が重要なのです。信仰において重要なのは神様なのです。

 この箇所を理解する上で一番助けになるのは、恐らくパウロが語った次の言葉でしょう。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。これが成熟した大人です。現実の生活の中で「何が神の御心であるか。何が神に喜ばれることであるか」ということが考えられるようになることです。何が自分の望んでいることか、何が自分の喜ぶことであるか、しか考えられないのは、信仰の世界においても幼子でしかありません。御心を求めて生きる。そのようにして、信仰の理解と現実の生活とがしっかりと結びついてくる。それは現実の信仰生活における経験によって身につけていかなくてはならないことなのです。

 そのような大人になることを求めていく。そのような信仰における成熟を求めていく。そこにおいて、固い食物も食べられるようになっていくのです。神の御心を求めて生きる。この世界に対する神のご計画、その中にいる私たちに神が望んでおられること、それを真剣に求めていくならば、御言葉に対する姿勢も変わっていくはずです。単に「今日の話は分かりやすかった」とか「分かりにくかった」とか、「感動した」「恵まれた」というところで終わらないはずなのです。

 御言葉に対する姿勢を変えていきましょう。そして、成熟を目指して進みましょう。


2023年7月9日日曜日

「週の初めの日に」

使徒言行録 20:7-12

週の初めの日に
 私たちは週の初めの日である日曜日に毎週こうして集まっています。今日は行われませんが、月の第1主日と第3主日には聖餐が行われます。聖餐を行うことを、昔の教会は「パンを裂く」と表現しました。今日のような小さなパンを食べる聖餐ではありません。普通の食事の形で、パンを裂いて行われた聖餐です。

 今日の第2朗読にも、その言葉が出てきました。「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると」(7節)。彼らは聖餐を行うために、すなわち、主の食卓を囲んで共に礼拝するために、週の初めの日に集まっていたのです。その意味では、彼らが行っていることと、ここで行われていることは、本質的には変わりません。

 翌日、パウロは出発する予定でした。次はいつトロアスを訪れることができるか分かりません。いつ彼らに会えるか分かりません。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。――実際、パウロは二度とトロアスを訪れることはできなかったのです。

 そのような出発の時、別れの時を翌日に控えていたならば、別れを惜しんで少しでも長く語り合いたいと思うものでしょう。しかし、ここには「別れを惜しんで語り合うために集まっていると」とは書かれていないのです。彼らはパンを裂くために集まっていた。言い換えるならば、共に主を礼拝するために集まっていたのです。もう二度と会えないかもしれないお互いであるからこそ、ただ語り合うのではなくて、パンを裂くために集まったのです。

 それは「週の初めの日」の集まりでした。日曜日に集まるということは、決して自明なことではありませんでした。ユダヤ人の安息日は週の終わりの日、すなわち土曜日でしたから。しかし、教会は極めて早い時期から週の終わりの日ではなく週の初めの日に集まるようになりました。なぜでしょう。言うまでもなく、週の初めの日にキリストが復活されたからです。

 彼らはパンを裂くために集まりました。それはキリストの言葉に基づきます。かつてキリストが弟子たちと最後の晩餐を行った時、主はパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えてこう言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)。

 そのように聖餐はイエス様を記念して行う食事です。それはイエス様を思い起こして行う食事です。しかし、それを「週の初めの日」に行うならばどうなりますか。キリストの復活を思いながら行うならばどうなりますか。ただ過去の人イエスを思い起こしての食事にはならないでしょう。それは復活されたイエス様を思ってあずかる食事になるはずです。さらには復活されたイエス様と共に食卓を囲む食事となるのです。

 実際、第一巻目である「ルカによる福音書」には、復活されたキリストが二人の弟子に現れて、一緒に食卓についてくださったこと、パンを裂いてわたしてくださったことが書かれています。そのように、復活されたイエス様がパンと杯を分かち与えてくださるのです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言って分け与えてくださるのです。

 ならばそれは当然、感謝の食事となるはずです。なぜなら食卓の主は、私たちが罪を赦され救われるために苦しみを負い、十字架におかかりくださった御方だからです。そこで受ける体と血は、まさに「わたしが赦されるために裂かれた体、わたしが救われるために流された血」として受けることになるのです。ならば当然、それは感謝の食事になるはずです。

 そして、罪を赦された者にとって、それはまた希望の食事ともなるのです。なぜなら食卓の主は復活された御方として、私たちの復活を指し示してくださるからです。それは、私たちが最終的に完全な救いに与る希望、すなわち神の国の希望を指し示す食事となるのです。その意味で、聖餐は神の国の祝宴の先取りでもあるのです。

 そのような時間をこそ、パウロもトロアスの人たちも、一緒に持ちたかったのです。もしかしたらこの世ではもう二度と会えないかもしれないから。だから、ただ別れを惜しむのではなく、復活のキリストと共にあって、共に感謝し、共に神の国を仰ぎ望む者でありたい。そのために集まったのです。それが「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると」と書かれていることの意味なのです。

居眠りして落ちた若者
 そのためにも、パウロはトロアスの信徒たちに、キリストの福音を、言葉を尽くして語ったのでしょう。彼は福音の真理をひたすら語り続け、伝えるべきことはすべて伝えておきたかったに違いありません。「その話は夜中まで続いた」と書かれているとおりです。

 するとそこで事件が起こりました。エウティコという青年がパウロの説教中に眠気を催し、眠りこけて三階から転落してしまったのです。ということで、その青年の名前は説教中に居眠りをして落ちた人として、二千年後にまで語り継がれることとなりました。

 しかし、その青年にとってははなはだ不名誉なことではありますが、わたしはその青年が転落してくれたことに感謝したいと思います。なぜならその出来事は、週の初めの日に集まるということがどういうことかを、後の人々にもはっきりと指し示す出来事となったからです。

 恐らくその集まりは夜に始まったのです。教会の多くの者たちは主人に仕える身でしたから、夜にしか集まれなかったのです。恐らくこのエウティコも日暮れまで激しい労働をしてきたのでしょう。そして、夜中まで人々の詰めかけた部屋の中で話を聞いていたのです。そんな彼が居眠りしたとしても無理はありません。

 ただ、窓に腰掛けていたのはまずかった。三階から転落した彼は「起こしてみると、もう死んでいた」と書かれています。当然、大騒ぎになりました。するとそこにパウロが駆けつけます。彼は青年の上にかがみ込み、抱きかかえて言いました。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、一同を部屋に戻して礼拝を続けたのでした。

 さて、この出来事をどう捉えたらよいのでしょう。ある人は、実際にはエウティコは死んではいないのに、ただ人々が誤って大騒ぎをしていただけと考えるかもしれません。その場合、パウロは単に冷静に対処しただけ、ということになるでしょう。あるいは、「起こしてみると、もう死んでいた」(9節)と書かれ、12節にはことさらに「生き返った青年」と書かれていますから、これは純粋に神の奇跡として受け止めるべきだとも言えるでしょう。

 いずれにせよ、はっきりしていることがあります。エウティコにとっては、これが最後の礼拝となったかもしれない、ということです。この青年はトロアスの弟子たちと共に、毎週、週の初めの日にパンを裂くために集まっていたのでしょう。しかし、次の週の初めの日には、彼がいない集まりになっていたかもしれないのです。しかし、実際には彼は生き返って集まりの中に残された。一方、パウロは次の日に出発し、その後、ついに地上において彼らと再び相見え、パンを裂くこともなかったのです。

 皆さん、週の初めの日にパンを裂くために集まるということはそういうことなのでしょう。日曜日の礼拝に集まるということはそういうことなのでしょう。実際、私はこの説教の準備をしている時、ここで礼拝を共にした人が翌週にはここにいなくて、もう二度とここで一緒に礼拝することはなかった、そんな人たちの顔を次々と思い起こすことになりました。

 最初に触れましたように、「週の初めの日」それはキリストが復活された日です。週の初めの日の中心には復活したキリスト、神の国を指し示すキリストがおられるのです。そして、神の国を指し示すキリストは、言い換えるならば終わりの日を指し示されるキリストでもあるのです。その意味においてこの集まりは常に終末に接しているとも言えるのです。

 もちろん、終末に接しているという意味では、本当はこの世界全体が常に終末に接しているのです。いつ終わりとなっても不思議ではない。しかし、この世界全体がそのことを認識しているわけではありません。そのことを啓示され、復活の主によって指し示されているのは私たちなのです。そこで私たちは終わりの時を思わざるを得ないのです。

 実際、これが私たち自身にとっても最後の礼拝となるかもしれないのでしょう。人生の終末のゆえに最後となるのか、世の終わりを迎えて最後となるのか、それはわかりません。しかし、いずれにせよ常にこれは最後の礼拝であり得る。聖餐を行うとしたならば、それは最後の聖餐であり得るのです。

 そのように終末を指し示され、終わりの時を思うなら、そこでは「何が本当に重要なのか」が問われることになるはずです。私たちが大事だと思っていること、それは終わりにおいても大事なことなのでしょうか。私たちがいつまでもこだわっていること、私たちが心に抱え続けてきた思い、私たちがしがみついて手放せないでいるもの――それは終わりにおいても重要なことなのでしょうか。この礼拝が最後だとしても、それでもそれは重要なことですか。もし終わりにおいて重要でないなら、恐らく終わりでなくても重要ではないのです。もし終わりにおいても重要なことならば、まだ終わりでなくても重要なことなのです。

 「居眠りして窓から落ちた若者」。彼は週の初めの日にパンを裂くために集まった一人でした。そして、彼はある意味では最も「週の初めの日の集い」らしい経験をしたと言えます。彼にもし次の日曜日があったなら、恐らく彼はそこで思ったに違いありません。今ここに集まっている人々と共に感謝を捧げ、希望を言い表しているこの時は、なんとかけがえのない尊い時間なのだろう、と。そうです、本当は私たちにとってもそうなのです。

(祈り)

2023年7月5日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 5:1~10

 ヘブライ人への手紙 5:1‐10

 今日お読みしましたところで、まず心に留めたいのは7節の言葉です。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5:7)。イエス様は、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら祈っておられた。ヘブライ人への手紙の著者がこの言葉を書いた時に念頭に置いていたのは、恐らくゲッセマネの祈りであろうと思います。

 キリストは祈っておられた。叫びながら、涙を流しながら祈っておられたのです。死から救ってください、と祈っておられたのです。そのような人間としてはごく自然な姿を、教会は大切に伝えてきたのです。イエス様は私たちとは全く別で、恐れることなく、目の前の十字架にひるむことなく、淡々と死の向こうの復活に向かって行ったかのように、教会はキリストを伝えてきたのではないのです。そのように信じてきたのではないのです。キリストは恐れていた。キリストは苦しんでおられた。死から救ってください、と、キリストは泣き叫びながら、父なる神にすがりついておられたのです。

 そして、そのような祈りについて、こう書かれています。「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。さて、キリストの祈りは本当に聞き入れられたのでしょうか。死から救う力ある御方は、聞き入れてくださいましたか。そう、確かに「聞き入れられた」と言うことはできます。キリストの復活を聞いて信じている私たちは、そう言うことができる。キリストは死に飲み込まれて滅びてしまったのではなかった、と。父は確かに死から救ってくださった、と言うことができるでしょう。

 しかし、今、あえて「キリストの復活を聞いて信じている私たちは」と言ったのには意味があります。信仰によらなければ、そうは見えないのです。信仰にはよらずに、この世の目によって、目に見えるところだけでキリストを見たら、どう見えるでしょう。この世が見たキリストは、十字架にかけられて、死んで葬られたところまでなのです。ですから、信仰によらなければ、先ほどの聖書の言葉はこうなります。――「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげたけれど、その畏れ敬う態度にもかかわらず、その祈りは聞き入れられませんでした。」

 そうでしょう。十字架にかけられて死んでしまったのですから。墓に葬られてしまったのですから。十字架の下で人々が何と言ってイエス様を罵ったかご存じですか。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」しかし、イエス様が十字架から降りることができたのは、死んでしまってからだったのです。信頼したって、叫び求めたって、やっぱりダメだったじゃないか、ということになるでしょう。

 さて、度々申し上げていますが、この手紙が書かれたのは、既に教会が大きな迫害を経験し、そしてまた新たな迫害が迫っていたという時代でありました。迫害の中においては、身近な指導者が、あるいは親しい友や家族が捕らえられていくわけです。「神様、助けてください。救ってください」と皆が必死で祈ったにもかかわらず、捕らえられてしまった、殺されてしまった、という人は少なくなかったに違いありません。それは祈りが足りなかったのでしょうか。神への信仰が足りなかったから、殺されてしまったのでしょうか。

 しかし、それは祈りが足りなかった、熱心さが足りなかったという単純な話ではないことをイエス様の姿は示しているのです。というのも、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に祈ったキリストも、しかも信頼と畏れ敬う態度においては完全であったはずのキリストもまた、それにもかかわらず死んでしまったからです。この世の目から見るならば、そうなのです。

 にもかかわらずヘブライ人への手紙は、はっきりとこう宣言しているのです。あの叫びは、あの涙の祈りは、神に「聞き入れられました」と。ヘブライ人への手紙の著者は、その事実を信仰によって見ているのです。主はもはや死の中にはいない。主は生きておられる。完全な命の輝きの中に生きておられる。そして、同じことが私たち自身についても見えてくるのです。祈りは聞かれなかったように見えるかもしれない。信頼は裏切られてしまったかのように見えるかもしれない。しかし、そうではない。復活が見えてくると、まだ目には見えていない永遠の命の世界、神が約束してくださっている神の安息が信仰によって見えてくると、祈りは確かに聞き入れられていることもまた見えてくるのです。

 とはいえ、信仰によって死を越えた確かな希望が見えてきたとしても、それでも苦しいものは苦しい、辛いものは辛いのです。永遠の命に至るなら、耐え忍ばなくてはならない苦しみが決して無駄な苦しみでないことは分かります。祈りが聞かれていないわけじゃないことは分かります。天の故郷に至る道を歩いているんだということも分かっています。しかし、それで苦しみそのものがなくなるわけではありません。

 それゆえに、5章冒頭に書かれている大祭司についての説明が大きな意味を持つのです。既にこれまでのところで度々イエス様が「偉大な大祭司」であることが語られていました。しかし、ここにはわざわざ「大祭司はすべて人間の中から選ばれ」ということが書かれていました。天使は大祭司になれないのです。あくまでも大祭司は人間でなくてはならない。つまり大祭司自身、人間としての弱さを持っているということです。そしてこう書かれています。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(2節)。

 イエス様は、そのような大祭司となってくださったのだ、とこの手紙は教えているのです。神の御子であるのに、弱さを身にまとう人間の一人として生きてくださったのです。そして自らは罪のない御方であるのに罪人と同じところに立ち、私たちと同じように死を免れぬ人間として生きてくださったのです。人間の一人として苦しみを味わってくださった。キリストは叫んだのです。泣いたのです。父にすがりついたのです。

 それだけでなく、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(8節)とさえ書かれています。私たちが信仰によってキリストの復活に目を向けることができるなら、確かに希望を失うことはないでしょう。神は確かに祈りを聞き入れてくださっている。そう語ることもできるでしょう。しかし、それでも苦しいことは苦しいし辛いものは辛いのですから、それでもなお神様に信頼して従順であり続けることは時としてとても困難であることは事実なのです。

 しかし、そのような私たちのために大祭司なるキリストがいてくださる、とヘブライ人への手紙は語るのです。その御方は「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれ」た御方です。だから分かってくださる。私たちの苦しみも、試練が誘惑となってしまうことも、私たちが無知で迷いやすい者であるということも分かってくださる。「完全な者となられた」とは、救い主としての完全です。

 そして、この大祭司が分かってくださるならば、生きていくことができる。耐え忍ぶことができる。そのような大祭司が執り成してくださるから、私たちは迷っても今一度立ち返り、神に信頼して生き始めることができるのです。多くの苦しみによって従順を学ばれた御方と共に、父なる神に信頼し、従っていくことができるのです。

 そのことを思いつつ、改めて先週の箇所をお読みしましょう。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:14‐16)。


2023年7月2日日曜日

「神の恵みを見て共に喜ぶ」

使徒言行録 11:4-18

異邦人のいる教会
 イエス・キリストの地上における最後の言葉は、使徒言行録によれば次のような言葉でした。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)。こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた、と書かれています。そして、イエス様の言葉の通り、それから10日後に、弟子たちの上に聖霊が降り、教会が誕生しました。

 そのように誕生した教会は、イエス様の言葉によれば、エルサレムに留まることなく、ユダヤとサマリアの全土に、さらには地の果てにまで広がっていくことになります。最初の教会のメンバーは全員ユダヤ人でした。しかし、サマリアにまで広がっていくならば、サマリア人が教会に加わることになります。さらに、地の果てにまで広がっていくならば当然、教会には異邦人が加わることになります。つまりイエス様は初めからサマリア人のいる教会、異邦人のいる教会を想定していたということです。

 さて、今日は使徒言行録11章をお読みしましたが、その直前の10章は異邦人の集団が洗礼を受けたという話で終わっています。つまり教会に異邦人が加わってきたのです。それはすなわちイエス様の想定通りに事が進んでいたことを意味します。聖霊の力によって進められるべき神の計画が進んでいたのです。それは実に喜ばしい事ではありませんか。

 しかし、そのことを喜べなかった人たちがいたのです。ですから「そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた」(4節)という言葉から今日の箇所は始まっているのです。喜べなかった人たちにペトロが説明しているのです。

 それまでユダヤ人しかいなかった教会に異邦人が加わるということは何を意味するのでしょうか。異邦人と一緒に聖餐を行うようになるということです。今日行うような小さなパンを食べる聖餐ではありません。当時は通常の食事の形で行っていたのです。つまり異邦人と一緒に食事をするということです。

 ユダヤ人には異邦人と一緒に食事をするという習慣はありませんでした。ユダヤ人には食べて良いものと食べてはいけないものを定めた戒律があるからです。ユダヤ人からすれば、異邦人は食べてはならぬ汚れたものを食べる人々なのです。律法に厳格な人々は異邦人の家にすら入りません。ですから、異邦人と一緒に食事をするということは、極めて忌むべきことであったのです。一緒に聖餐を行うとは、それまで絶対にしなかったことを行うということなのです。

 異なるものが一緒になるとはそういうことなのでしょう。そこにはこれまでの慣習にないこと、違和感を覚えるようなことが起こります。そこには不快なことが起こり、葛藤が生じます。他の人のしていることは非難すべきこと、赦しがたいことに映ります。ですから異なるものが一緒になることは往々にして喜ばしくはないのです。そうです、彼らは異邦人がいる教会を喜べなかったのです。彼らはそこに起こっていた出来事のゆえにペトロを非難したのです。「あなたは割礼を受けていない者たち(異邦人たち)のところへ行き、一緒に食事をした」(3節)と。

 そこでペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。それが今日の箇所に書かれていたことです。

 ペトロはまず、そもそも自分がどうして異邦人の家に行ったのかを説明します。ペトロが滞在していたのはヤッファというところです。そのペトロが向かったのはコルネリウスという百人隊長の家でした。それはペトロが滞在していたヤッファから直線距離で60キロ近く離れているカイサリアにあったのです。

 そんなに離れていたところにいた彼らがなぜ出会ったのか。ペトロの説明で語られているのは、「幻を見ました」とか「“霊”がわたしに…言われました」とか「自分の家に天使が立っているのを見たこと」など、おおよそ私たちの多くには馴染みのないことばかりです。しかし、何を伝えたいかは分かります。要するに、これらは全て神によるのだということです。神がペトロたちユダヤ人とコルネリウスたち異邦人を出会わせられたのです。異なる者たちが共にいることを他ならぬ神が望まれたのです。

 そして、ペトロは次のように話を続けます。「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」(15節)。ここで「最初わたしたちの上に降ったように」というのは、使徒言行録二章に記されている事です。その時とまったく同じように、今度は異邦人の上に聖霊が降ったのです。
 その時にペトロは何を考えたのでしょう。次のように書かれています。「そのとき、わたしは『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました」(16節)と書かれています。

 ここでペトロがこのイエス様の言葉を思い出したということは注目に値します。というのも、イエス様から「あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」と言われた時、その「あなたがた」とはペトロにとっては「ユダヤ人」以外の何ものでもなかったからです。ところが、ここでもう一度その言葉を思い起こしたのです。そして大事なことに気づいたのです。イエス様が言われる「あなたがた」には、ユダヤ人だけでなく、異邦人も入っているのだ、と。

 神がそのことをはっきりと示されたのです。異邦人たちの上にはっきりと分かる形で聖霊が降ったのは、いわば神のデモンストレーションでありました。神は異邦人のいる教会を望んでおられること、神はそのように異なる者が同じ霊を受け、共に食卓を囲む教会であることを望んでおられることを、ペトロははっきりと示されたのです。

 そこでペトロは言いました。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」(17節)。

神の御業に目を向けて
 神の計画が進んでいること、神の御業が進んでいることを喜べなかった人々は、このペトロの言葉に心動かされました。次のように書かれています。「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」(18節)。

 彼らは喜べなかったことを喜べるようになりました。かつて喜べなかった出来事について、神を賛美できるようになりました。どうしてですか。神の御業に目を向けたたからです。神のなさっていることを見ることができたからです。

 「異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださった」。「悔い改め」とは神に立ち帰るということです。彼らが神に立ち帰り、神を賛美し、礼拝する者とされている。神との永遠の交わりに入れられ、神の命に与っている。当初ペトロを非難していた人たちも、そこに神の御業を認めざるを得ませんでした。少なくとも彼らは自分自身が立ち帰ったことは神の賜物であることを知っていたからです。ならば、それがたとえ異邦人であっても、神に立ち帰り、神を礼拝している人々がいるならば、それは神から出たことであると認めざるを得なかったのです。だから神を賛美したのです。

 私たちもまた、同じ神の御業に目を向ける必要があるのでしょう。自分が今ここに身を置いて礼拝しているということ自体が、神の奇跡であり、神の驚くべき御業なのだ!自分についてそう思える人は、他の人の中にも同じ神の御業を見ることができるはずです。それは初代の教会において、教会が一つとなるために必要不可欠なことでした。それは今日の教会においても同じです。

 実際、教会には異なる背景を持ち、異なる感性を持ち、異なる価値観を持つお互いが集められています。ですから他の人について「なぜあんな人が教会に来ているのか」「なぜあんな人がクリスチャンなのか」と思うことは起こり得ることです。だから一緒に礼拝などできない、だから一緒に教会生活はできない、と思ってしまうこともあり得ることなのでしょう。

 しかし、「あんな人が教会に来ている」と言うならば、本当はそこに神の御業を見るべきなのでしょう。もし仮に、「あんな人が一緒に礼拝しているなんて、ほんとありえない!」と苦々しく思うことがあったなら、その「ありえない」ことが現実に起こっていることに、神の御業を見るべきなのです。

 神はユダヤ人と異邦人とが共にいる教会を望まれました。神は異なる者たちが共にいる教会を望んでおられます。なぜなら神はキリストを通して「地の果てまでも」と言われた神ですから。実際、神がそのような神であり続けていたからこそ、異邦人であり距離的にも遠く離れており、文化的にも全く異なるこの国にも教会が存在しているのです。

 実際には、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の問題も、この11章で解決したわけではありませんでした。使徒言行録では15章においてもっと深刻な形で現れてきます。後々まで問題を引きずることになりました。しかし、それでもなお神がなさっていることがそこにあるなら、それは良いことなのです。彼らは神の恵みを見て共に喜んだ。私たちも、常にそういうものでありたいと思います。

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