2024年12月29日日曜日

「喜びに溢れた人々」

2024年12月29日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 2:1‐12

遠くに及ぶ神の招き
 今日の説教題の「喜びに溢れた人々」というのは、今日の聖書箇所に登場した、「東の方」から来た学者たちのことです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と書かれている、その学者たちのことです。「東の方」が具体的にどこを指すのかは定かではありません。古来から「アラビア」、「バビロン」あるいは「ペルシャ」と、様々な憶測がなされてきました。いずれにしても、もともと遠いところにいた人たちです。

 いや、彼らは単に地理的に遠いところにいただけではありません。彼らは「占星術の学者たち」だったと書かれています。これは原文では「マゴス」という言葉です。「魔術師たち」とも訳される言葉です。彼らは異教の世界の占い師であり魔術師の類だったということです。占いや魔術などは、旧約聖書において厳しく禁じられています。ですから、そのようなことを行っている東方の占星術師たちは、聖書の見方からするならば、いわば神に背くことを行ってきた人たちであり、救いから最も遠いと見なされる人たちだったのです。

 今日お読みしたのは、そのような遠いところにいた占星術の学者たちが、星に導かれて東の方からメシアのもとにやってきたという話です。現実には「星」が人を導くことはありませんから、導いたとするならば、それは神様です。要するに、ここに書かれているのは、わざわざ救いから最も遠いように見える遠くにいた人たちを、神様はあえて選んで、彼らを導いて、メシアに出会わせ、喜びに溢れさせたという話です。

 このような話が聖書に記されて伝えられてきたのは、明らかにこれが一つの象徴的な出来事だからです。どんなに救いから遠くにいる人であろうが、どんなに神に逆らって生きてきた人であろうが、救い主のもとに導いて、救いを与えて、喜びに満ち溢れさせたい。この出来事は、そのような神様の胸の内を現している出来事として記されているのです。

 ですから、神様があの時に現された御心は、後にこの世界に実現していくことになるのです。イエス様が三十歳ぐらいの時に公の宣教の働きを開始した時、そこに集まってきたのは、救いから遠いと見なされ軽蔑されていた徴税人や罪人たちでした。後に教会がキリストを宣べ伝えていった時、礼拝の場所に集まって喜びに溢れたのは、ユダヤ人たちではなくて、救いから遠いと見なされていた異邦人だったのです。

 そして、ここにいる私たち自身を見ても、その神の御心が実現しているのを見ているのでしょう。まさに神様の救いから遠くにいた、まことに罪深い私たちが、神に導かれて今ここにいるのです。

 これが神の招きというものです。神の招きは人間の計り知れないほど遠くにまで及ぶのです。そして、また彼らの言葉は、その神の招きが、決して単純なものではないことをも示しています。

 彼らは言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。神は、彼らが既に持っていた占星術の知識を用いられました。それだけではありません。そこには東方に離散していたユダヤ人たちの宗教的な影響もあったに違いありません。それなくしては、ユダヤ人の王として生まれるメシアに関心を持つことはなかったでしょうから。

 実際、私たちにおいても同じでしょう。ある人はクリスチャンホームで育ちました。ある人は、学校にクリスチャンの先生がいて、大きな影響を受けました。ある人は友人に誘われて初めて教会に足を踏み入れました。大きなきっかけと思えるようなこと以外にも、それに先だって、既にいくつもの神様からの働きかけがあったに違いありません。それらすべてが神の招きを構成しているのです。単純ではありません。神の招きと導きには、あらゆる形における神の準備があり、働きかけがあるのです。彼らが言う、「わたしたちは東方でその方の星を見たので」とはそういうことです。

 そのように、神はありとあらゆる仕方で人をメシアのもとに、また大きな喜びの内に招かれます。そして、繰り返しますが、その招きは人の思いを遥かに超えて遠くにまで及ぶのです。ならば、そこで重要になるのは、人間の側の応答です。

招きに対する人間の応答
 神の招きと導きに対する応答は、この占星術の学者たちの場合、旅に出ることでした。実際にその体をもってメシアにまみえ、ひれ伏し、献げ物を献げるために旅に出るということでした。ただ心と考えの中で応答したのではなく、実際にその体をもって、行動をもって応答したのです。彼らは言うのです。「拝みに来たのです」と。

 見た星について調べることは学問的にも行うことはできます。古代の占星術の世界にはそれなりに学問的な体系があったようですから。あるいは離散のユダヤ人たちを通してメシアについての知識を得ることもできたでしょう。しかし、実際に出会うためには、そして礼拝するためには、立ち上がって、自分の場所を後にして旅に出なくてはなりません。それは、安全な場所に身を置いて、外から、上から眺めるようにして、「神とは何ぞや」「キリストとは何ぞや」と言って調べるのとは、根本的に異なることです。具体的な応答がなければ、彼らが喜びに溢れることもなかったのです。

 実際、この箇所には全くその逆を行った人々も出て来るのです。ヘロデという王様です。あるいはエルサレムの人々です。祭司長や律法学者たちも同じです。実に皮肉な話です。「メシアはどこに生まれることになっているか」と質問された時、彼らはすぐに「ユダヤのベツレヘムです」と答えることができました。知識は既にあるのです。彼らには既に神様の働きかけがなされていたということです。ユダヤ民族として考えるならば、既に何百年という神様の備えがあり、働きかけがあり、既に彼らは招かれていたのです。

 しかも彼らがいたエルサレムからベツレヘムまで、せいぜい10キロぐらいしか離れていないのです。行こうと思えばすぐに行けるのです。占星術の学者たちがそこに行こうとしていることも知っているのです。同行しようと思えばできるのです。しかし、彼らは一歩を踏み出さなかったのです。

 踏み出さなかったとは、単に場所的なことだけではありません。彼らは、今まで自分たちが生きてきた自分の世界、馴染んできた自分の世界から一歩も踏み出そうとはしなかったのです。むしろ踏み出さなくても済むように、自分の生きてきた世界をなんとしても守ろうとしたのです。ヘロデは自分が王様でいられる世界をなんとしても守って確保しておきたかったのです。他の人たちも皆同じです。自分が変わらないで、今までどおりいられる世界に留まっていたかった。異邦人より先に、まず招かれていたのは、彼らであったはずなのに!

 そのように、一方において神の招きと導きがあるならば、もう一方において人間の側の応答が大きな意味を持つのです。占星術の学者たちは自らの体をもって礼拝するために旅に出ました。そして、そのような彼らについてこう書かれているのです。「学者たちはその星を見て喜びに溢れた」(10節)。

溢れる喜び
 ところで、彼らについては「その星を見て」喜びに溢れたと書かれています。明らかに、その星のもとに、尋ね求めてきたメシアのいる家があったからです。まだメシアにはまだお会いしていません。にもかかわらず、既に彼らは喜びに溢れているのです。

 ならばその扉を開いた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。母マリアと共にいる幼子を実際に見た時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。幼子イエスを礼拝し、実際に献げ物を献げた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。その喜びによって、長い旅の疲れなど吹き飛んでしまったに違いありません。国に帰るためにはまた長い旅を続けなくてはならないのでしょう。しかし、そんな先行きの心配など吹き飛んでしまったに違いありません。本当の喜びとはそういうものでしょう。

 そこにいるのは幼子のイエス様です。ただそこに寝ているだけのイエス様です。まだ何をしてくれたわけでもありません。神の力によって彼らを奇跡的に癒してくれたわけでもなければ、奇跡的に食べ物を増やして与えてくれたわけでもありません。ただ寝ているだけのイエス様です。しかし、そのイエス様にお会いして、礼拝して、献げて、彼らはこの上ない喜びに溢れていたのです。イエス様がそこにいるだけで、もう他には何も要らない。そう言えるような、そんな喜びに溢れていた彼らの姿が目に浮かぶようです。

 しかし、イエス様と共にいるということは、本来そういうことなのでしょう。ここに見る学者たちの喜びはまた、代々の教会が経験してきた喜びでもあったのです。たとえ迫害があったとしても、苦難の中にあったとしても、先行きが見えない不安の中にあったとしても、日曜日がやってくるのです。週の初めの日に主の食卓を囲んで集まるのです。みんなイエス様を求めて集まってくる。そして、主の聖餐に与りながら、イエス様と共にあることを喜び、イエス様を礼拝し、賛美を捧げ、心からの献げ物を献げる。そのようにして救いの希望の中に身を置く人々の喜びがそこにあるのです。

 もちろん、それで迫害がなくなるわけではないでしょう。それで苦難がなくなるわけではないでしょう。いや、むしろ集まっていればますます迫害は激しくなるのです。しかし、そこには喜びがある。溢れる喜びがあるから、その喜びを携えて、また新たな旅路に踏み出すことができる。力強く歩んでいくことができる。それが代々の教会の経験してきたことだったのです。

 そして、代々の教会が伝えてきた、そのような礼拝の喜びが私たちにも与えられているのです。私たちの週毎の歩みは、星に導かれた学者たちと同じように、御子にお会いするための歩みであると言えます。そして、その週毎の旅を繰り返しながら、私たちは終わりの日に、文字通り御子にお会いするところへと向かっているのです。私たちの人生そのものが、またこの世界の歴史そのものが、御子にお会いするための旅路に他ならないのです。私たちは、最終的にイエス様にお会いする時に与えられる計り知れない喜びを、今、前もって少しだけ味わわせていただいているのです。やがてその全てを味わう時が来る。そこに向かっているのが、主の日の礼拝を中心とした私たちの信仰生活です。

2024年12月22日日曜日

「イエスという名の救い主」

  2024年12月22日 クリスマス主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 1:18‐23

本当のクリスマスを祝うため

 本当のクリスマスを祝おうと思うなら、二つのことを退けなくてはならない。エミール・ブルンナーという神学者がそう言っていました。その二つとは何でしょうか。第一は現代社会の不安によってクリスマスの喜びを失ってしまうことだと彼は言います。確かに不安に満ちた社会に私たちは生きています。不安要素を数えれば切りがない。個人的にも、お互い多かれ少なかれ問題を積み残しにしたまま年を越していくのでしょう。しかし、それでもなお私たちはクリスマスの喜びを奪われてはならないのです。「それは悪魔の望むところである」と彼は言います。すべての悪は喜びの喪失から生まれる、と。私たちは喜びを失うことによって、悪魔を喜ばせてはならないのです。

 しかし、退けなくてはならない第二のことがあります。それは、人為的なクリスマスの喜びに溺れないことだと彼は言うのです。人為的なクリスマスの喜びとは、現実逃避の喜びです。「今がどんな悪い時代であるか、そんなことなど忘れてしまおう。少なくとも今日はクリスマスなのだから」。――そのような喜びのことです。そのような麻薬中毒のような喜びを悪魔は奪おうとはしません。悪魔には都合のよいものだからです。

 私たちはここに、ただクリスマス気分に一時酔いしれるために集まっているのではありません。そのようなものは、この場所を出て寒い風に当たれば吹き飛んでしまいます。私たちは、どんな寒い風が吹こうが、嵐の中に置かれようが、絶対に奪われない喜び、悪魔に奪われることのない本当の喜びに生き、また生き続けるためにここにいるのです。

罪からの救い
 そのような私たちに与えられているのは、マタイによる福音書の御言葉です。こう書かれていました。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。聖霊による懐胎。いわゆる「処女降誕」の話です。しかし、強調されているのは、その受胎の不思議さではありません。この物語の中で、アンバランスとも言えるほど強調されているのは、名前とその意味です。「イエス」という名。そして、「インマヌエル」という呼び名とその意味。マタイは名前の意味にかなりこだわっているようです。

 そこでまず、私たちはその名前に注目することにしましょう。21節以下を御覧ください。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。

 「イエス」という名前。それはユダヤ社会においてはごくありふれた名前でした。その名は旧約聖書に現れる「ヨシュア」という名前に相当します。「ヨシュア」とは「主は救い」という意味です。その名の通り、こうして生まれた方は救い主なのです。何から救ってくださるのでしょう。聖書は言います。「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と。

 「罪から救う」。――当たり前のように書かれていますが、私たちの日常において、「罪から救う」という表現はほとんど耳にすることはありません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的に用いられている表現ではないので、ある程度の説明を要します。

 例えば、こんなことを考えてみてください。皆さんが教会の帰りに下北沢東口近くで小さな男の子が泣いているのを見かけたとします。迷子のようです。お母さんが買い物をしている間に、ちょろちょろと歩き回ってはぐれてしまったようです。さて、皆さんはその男の子を助けたいと思います。お昼時です。随分お腹も減っているようです。そこで頌栄教会のAさんは、その男の子をマクドナルドまで連れていってハンバーガーを買ってあげました。そして、そのハンバーガーを渡すと、東口まで連れていって「バイバイ」と言って駅の中に入っていきました。

 次にBさんが通りかかりました。男の子はハンバーガーを持ったまま泣いています。優しいBさんは思いました。「ひとりでずっとここにいたんだな。寂しかったに違いない。」そこでBさんはその子と遊んであげました。確かにその子は泣きやみました。もう泣いてはいません。そこでBさんは少し遊んであげると「ああ、泣きやんだね。じゃあね」と言って、駅に入って行ってしまいました。

 そこにCさんが通りかかりました。Cさんは既に泣きやんでいたその子と一緒に、お母さんを捜して歩きました。そして、ついにお母さんのもとにその子を連れていくことができました。男の子はお母さんに抱っこされて、本当の笑顔が戻りました。

 さて、その男の子を本当に助けることができたのは誰でしょうか。――最後のCさんでしょう。迷子は親に抱かれて初めて救われます。人間も同じです。必要を満たされることも大事です。寂しさを癒されることも大事です。しかし、人は神のふところに抱かれてこそ、本当の意味で救われるのです。それを聖書は「罪から救う」と表現しているのです。

 「罪」とは、神に背いて、自分勝手に歩んで、神から離れてしまった状態です。羊飼いの声に聞き従わずに、群れから離れて迷子になった小羊のような状態です。迷子のような状態なのですから、不安で寂しくて苦しいのも無理はありません。そのように、神から離れたこの世界が不安に満ちているのも無理ないことなのです。

 しかし、そんな迷子のような私たちを神様は憐れんでくださいました。そんな私たちを本当の親である神のもとに立ち帰らせるために、イエス様を救い主として送ってくださったのです。イエス様は神を示してくださっただけではありません。神を離れ、神に背いて自分勝手に生きてきた私たちが赦されるために、そして、神に赦された者として、神との交わりに生き、神の子供として生きることができるように、イエス様は十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったのです。イエス様は罪から救うために来られたのです。

 ですから、その幼子はまた「インマヌエルと呼ばれる」と語られているのです。その名は「神は我々と共におられる」という意味です。イエス様が来られたのは、まさに私たちが「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と腹の底から喜んで言えるようになるためなのです。

 どんなことがあろうと、辛い現実があろうと、涙にくれるようなことがあろうとも、神に愛されている子供として「神が共におられる」と言うことができるなら、既にその人は救われているのです。ちょうどさっきの迷子の男の子が母親に抱きかかえられたように。その救いの喜びこそ、神が与えてくださったクリスマスの喜びなのです。何によっても奪われないクリスマスの喜びなのです。

苦しみを引き受けた人々
 しかし、私たちはここでもう一つの事実に目を向けなくてはなりません。そのような罪からの救い主、「インマヌエル」と呼ばれる御方が誕生するためには、そのために苦しみを引き受けた人々がいたのだ、ということです。そして、神の御計画を信じて、身を献げた人がいたということです。ご存じ、マリアとヨセフです。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。これは何よりもまずマリアにとって恐るべきことでした。いったいどこの誰が「聖霊によって身ごもった」なんていう話を信じるでしょう。この出産がユダヤ人社会において全く受け入れられないであろうことは火を見るより明らかでした。

 一方、このことがヨセフにも深い苦悩をもたらしたことは言うまでもありません。当初、ヨセフも「聖霊によって身ごもった」ということを信じてはいませんでした。「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていることから分かります。それは悩み抜いた末の決心だったのでしょう。そのヨセフが夢を見ました。主の天使が夢に現れて言ったのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)。ヨセフは信じました。そして、マリアを迎え入れることにしました。

 しかし、ヨセフの苦悩が終わったわけではありません。いや、むしろ始まりだったのです。ヨセフは信じたかもしれない。けれど他の人は信じないでしょう。マリアを迎え入れるということは、マリアと一緒に苦しみを担っていくことを意味したのです。そのように、マリアもヨセフもいわば苦しみを引き受けたのです。神のなさっていることがあることを信じて、神の御計画が進んでいることを信じて、その神が「恐れるな」と言われる言葉を信じて、苦しみを引き受けたのです。

 私たちの喜びであるクリスマスの物語には、そのような、苦悩に満ちたヨセフやマリアが出て来るのです。イエス・キリストは罪からの救い主として来てくださいました。しかし、この物語に見るように、誰かが救いに与り、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と喜びをもって語れるようになるためには、誰かが身を献げて、苦しみを引き受けるということが必要なのです。ヨセフやマリアのような人たちが必要なのです。実際、私たちが今こうしてクリスマスを喜び祝っているのは、ここに至るまでに多くの人々が身を献げ、労苦を引き受けてきたから実現していることなのです。

 私たちはクリスマスを喜び祝うためにここに集まっています。誰によっても、この世のいかなることによっても、このクリスマスの喜びを奪われてはなりません。しかし、それは単に私たち自身のためではないのです。私たちは、この喜びを抱きかかえるようにしてここから出て行くのです。それは、今度は私たちが、誰かの喜びのために、誰かの救いのために、誰かが「インマヌエル」と言えるようになるために、神の御計画を信じて、身を献げて、自分の負うべき十字架を背負って生きていくためなのです。

2024年12月18日水曜日

祈祷会用:ホセア書 2:16~25

ホセア書 2:16‐25

 今日は2章16節からお読みしました。その最初の言葉は「それゆえ」です。この言葉によって、前の節につながっていることが分かります。その前には何と書いてあるでしょう。「バアルを祝って過ごした日々について、わたしは彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、わたしを忘れ去った、と主は言われる」(15節)。

 彼女というのはイスラエルの民です。夫を忘れ去った淫行の女に等しいイスラエルの民を、主は罰すると主は宣言されたのです。その処罰の宣言に続いて「それゆえ」と言われております。当然、私たちは、処罰に関する言葉が続くと考えます。しかし、予想に反して、そこで私たちが耳にするのは、まったく驚くべき言葉です。主は、御自分に背いた民について、次のように言われるのです。「それゆえ、わたしは彼女をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう」(16節)

 これまで読んできたところを振り返ってみましょう。先週読みました箇所において、主は背く民に対して激しい裁きの言葉を投げかけておりました。「それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を、取り入れのときに新しい酒を取り戻す。また、彼女の裸を覆っている、わたしの羊毛と麻とを奪い取る。こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。この手から彼女を救い出す者はだれもない。わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち、祭り、新月祭、安息日などの祝いをすべてやめさせる」(11‐13節)。主は、これまで豊かに与えていたものをすべて取り去ると言われるのです。そして、事実、ヤロブアムの治世において人々が享受していた繁栄と平和はやがて失われ、やがて国家は滅び、民は捕囚とされることになります。

 しかし、主は16節以下において、「それゆえ」と語り、その驚くべき真意を明らかにされるのです。彼らが神の裁きにおいて経験することは、確かに、乳と蜜の流れる地、神の約束の地を失って、再び荒れ野へと逆戻りすることに他なりません。しかし、ここで主は「わたしは彼女を荒れ野に追いやる」とは言われません。「わたしは彼女をいざなって荒れ野に導く」と言われるのです。荒れ野に追いやるのではなくて、荒れ野に導くということは、他ならぬ神が荒れ野にまで共に行かれるということです。豊かさを失い、楽しみを絶たれたその苦しみの荒れ野へと、神が共に行かれるということです。何のためでしょう。その心に語りかけるためです。

 神は御自分に背き、心をかたくなにしている者たちに語りかけられるのです。そのようなどうしようもない淫行の女に等しい彼らを、なおも御自分の民として取り戻すために、何とかしてその心を動かすために、神は荒れ野へといざなってその心に語り掛けられるのです。

 そして、その荒れ野において、主は彼女にぶどう園を与えると言われます。かつて肥沃な地にあったぶどう園は、茂みに変えられ、野の獣によって食い荒らされてしまいました(14節)。しかし、荒れ野において再びぶどう園が与えられるのです。それは荒れ野におけるぶどう園なのであって、それゆえに、主の恵みによっていただいたことは明らかなのです。そのようなぶどう園です。

 そして、主は、「アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える」と言われるのです。このアコルの名前の由来はヨシュア記7章に出てきます。そこは、罪を犯したアカンという者とその一族が、裁かれ滅ぼされた場所です。「彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている」(ヨシュア7:26)。このように、アコルの谷の名前の由来は人間の罪、また罪に対する刑罰と関わっているのです。

 つまり、その谷によって象徴されているのは、罪の結果としての災いであり苦悩なのです。確かに、繁栄を失い、国を失ったイスラエルがいたのは、そのような意味におけるアコルの谷であったに違いありません。そして、誰もが知っているように、苦悩が己の罪と結びついている時、そこには希望がありません。罪の結果としての苦悩には希望がないのです。

 その希望がない苦悩に希望をもたらすことができるとするならば、それは苦悩から罪を取り除くことのできる御方だけです。それは罪を赦すことのできる主なる神だけなのです。淫行の妻に等しきイスラエルの民をなおも赦し、愛し、語り給う主なる神であるゆえに、苦悩の谷は苦悩の谷のままではないのです。主は、アコルの谷を希望の門として与えることができるのです。

 そこには主の目的があります。主なる神が望んでおられるのは、その希望の門において、彼らが神の語りかけに応えることなのです。主と共に荒れ野を歩んだ初めの頃に戻って、彼らが応えることなのです。エジプトから導き出され、シナイの荒れ野において主なる神と契約を結んだあの時に戻って、主と結ばれた妻として、彼らがもう一度主の語りかけに応えることなのです。

 そして、背いたイスラエルの民において、主が最終的に何を実現しようとしているかが、18節以下に語られております。主は繰り返し、すべてが成就する「その日」について語られるのです。「その日が来ればと主は言われる。あなたはわたしを、『わが夫』と呼び、        もはや、『わが主人(バアル)』とは呼ばない。わたしは、どのバアルの名をも、彼女の口から取り除く。もはやその名が唱えられることはない」(18‐19節)

 このところを読みますと、バアル化したヤハウェ祭儀においては、バアルという呼び名とヤハウェという呼び名が区別なく用いられていたことが分かります。バアルという名そのものは「主人」という意味であったので、それはある意味では仕方がないことだったのかも知れません。しかし、名前が区別されなくなるということは、その内容も区別されなくなることを意味します。実際、彼らの礼拝は、カナンの豊穣神礼拝と区別がつかないようなものとなっていたのでした。そこでは、信仰の民と神との関係は、もはや妻と夫の関係ではなくなっていたのです。

 主は、そのような彼らの口からバアルの名を取り除くと言われます。彼らは繁栄と自らの欲望の満たしを求める宗教から解放され、主との愛の関係へと回復されねばなりません。主が荒れ野へと導かれたのは、この関係へと回復されるためでした。先に「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」(4節)と叫んでいた夫の、本当の願いは、妻の口に「わが夫よ」という心からの呼びかけが取り戻されることだったのです。

 そして、さらに主は言われます。「その日には、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。弓も剣も戦いもこの地から絶ち、彼らを安らかに憩わせる。        わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる」(20‐22節)。

 「野の獣」「空の鳥」「土を這うもの」の三者によって、この自然界が代表されています。主は、自然界をも契約の内に置かれます。ここで語られているのは、この自然界もまた神との関係において回復せられるということです。また、人間世界から争いが取り除かれ平和が訪れると語られているのです。弓も剣も絶たれるのです。その平和は、人と神との正しい関係が回復することによって成就すると語られているのです。

 これは逆を考えてみれば、理解できるでしょう。人間が主を忘れ、バアルを追い求め続ける時、すなわち繁栄の追求、欲望の充足にのみ心を向ける時、自然界は荒廃し、滅びに向い、人の世には争いと流血が絶えないのです。現実にそうなっていることが4章の冒頭において次のように語られております。「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」(4:1‐3)。

 これは実に身につまされる言葉です。しかし、主は既に見てきたように、その限りない愛をもって、この現実を覆そうとされるのです。主は、そのことが成就する時を待ち望みつつ、御自分の民に関わられるのです。

 こうして、主は立ち帰った民と契りを結ばれます。この「契り」というのは「婚約」に当たる言葉です。壊れた夫婦が回復するというのではありません。裏切った妻であるのに、まったく新たに、初めて結婚するかのように、主は契りを結ばれると言うのです。そして、この新たに与えられた関係は、五つの言葉によって表現されています。それは「正義」「公平」「慈しみ」「憐れみ」「まこと(真実)」です。夫と妻との関係が本物であるためには、この五つがなくてはなりません。それは、イスラエルの民には、まったく欠けていたものでした。それゆえ、正義も公平も慈しみ、憐れみ、真実も、すべてまず夫である神が示して下さったのです。そして、そのことを通して、これらは神の民に与えられるのです。これらが神の民において実現するのです。こうして、まことに主を知る民となるのです。

 そして、さらに主は言われます。「その日が来れば、わたしはこたえると主は言われる。わたしは天にこたえ、天は地にこたえる。地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ、それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。わたしは彼女を地に蒔き、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ、ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって、『あなたはアンミ(わが民)』と言う。彼は、『わが神よ』とこたえる」(23‐25節)。

 ここで再び、ホセアの三人の子らの名前が挙げられます。イズレエルの名のごとく、再び神の民は約束の地に蒔かれ、豊かな実を結びます。本来であるならば、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)でしかない者が、神に憐れまれる者となります。本来ならばロ・アンミ(わが民でない者)であり、到底神の民ではあり得ない者が、「アンミ(わが民)」と呼ばれるようになります。既に見てきましたように、このことが起こるとするならば、それはただ一方的な神の愛と赦しの御業に他なりません。

 新約聖書を読みますと、このように語られるホセア書の神こそ、イエス・キリストを世に遣わし、私たちを召してくださった方であることが分かります。ペトロは言います。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」(1ペトロ2:9‐10)。

 今、私たちがこうして神の民として礼拝を捧げているのは、既にホセア書に見てきたように、ただ神の愛と赦しによるのです。そして、私たちはまことに主を知る民となる「その日」の完成へと向かって導かれているのです。


2024年12月15日日曜日

「神に打ち明けなさい」

 2024年12月15日 主日礼拝説教

聖書:フィリピの信徒への手紙 4:4-7

喜びなさい

 アドベントの第三週となりました。アドベントに灯される三番目のキャンドルは「喜びのキャンドル」と呼ばれます。その「喜びのキャンドル」を灯した礼拝において、先ほど第2朗読において、フィリピの信徒への手紙が読まれました。この手紙は「喜びの手紙」とも呼ばれます。この手紙には「喜び」という言葉が繰り返されているからです。今日お読みした箇所にも次のように書かれていました。

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4節)。

 ある意味では、とても不思議な言葉です。「喜びなさい」と言われて、人は喜べるものではありません。感情は自由にコントロールされ得ないことを私たちはよく知っています。しかも、喜べない理由を山ほど抱えている時にはなおさらでしょう。だから普通私たちは他の人に、やたらに「喜びなさい」とは言いませんし、誰かから「重ねて言います。喜びなさい」などと言われても困ります。

 にもかかわらず、この手紙には当たり前のように「喜びなさい」という言葉が繰り返されているのです。この手紙を書いているパウロにしても、この手紙を受け取っている教会にしても、喜べない理由はいくらでもあった――にもかかわらずです。実際、フィリピの教会には分裂や仲違いがありました。教会内部の問題だけではありません。外からの迫害もありました。実際、パウロはこの時、獄中にいるのです。思い返せば、福音の宣教のために働き始めてからというもの、彼の人生は苦難の連続でした。喜べない理由を挙げるなら、それこそ数限りなくあったはずです。しかし、そのパウロが言うのです。「喜びなさい」と。

 どうしてなのか。そこには喜ぶべき決定的な理由があるからです。そうでなければ「喜びなさい」という言葉はそもそも意味をなしません。その決定的な理由とは何か。パウロはそれを「主において」という短い言葉をもって表現しています。「主において」という言葉は、パウロの手紙に実によく出てくる言葉です。同じ言葉が他の箇所では「主に結ばれて」とも訳されています。主に結ばれている。それが理由です。

 信仰によってキリストと結ばれているのです。キリストの内にいるのです。そのキリストとは、私たちを愛し、御自身を献げてくださったキリストです。私たちの罪の贖いのために十字架にまでおかかりくださったキリストです。その御方と結ばれて、私たちは罪を赦された者として、救われた者として、愛されている者として、今生かされているのです。

 この世界は移り変わっていきます。人間が置かれる状況も教会が置かれている状況も刻一刻と変化していきます。幸いの絶頂にあった人が、次の日には奈落の底にいるということも起こり得るのがこの世の中です。この世のことだけを見ているならば、過去を悔い、未来を思い煩いながら生きざるを得ないのかもしれません。この世界は移り変わるからです。

 しかし、ここで語られている「主において」という事実は、主に結ばれているという事実は、何が起ころうと変わらないのです。どのような状況に置かれても変わらないのです。パウロのように投獄されても変わらないのです。さらに言うならば、死んでも変わらない。迫害いよって命を奪われても変わらないのです。パウロは別の手紙で言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」(ローマ8:35)と。誰もできない、ということです。

 そのような決定的な理由があるのです。それは変わらないのです。要はその事実に目を向けているか否かということです。信仰によって歩んでいるのか、それともこの世のことだけ見て生きているのか、ということです。だからパウロは、見るべきところに目を向けさせて、つまり「主において」という事実を指し示して、「喜びなさい」と言うのです。いや「喜びなさい」だけではありません。「常に喜びなさい」とさえ言うのです。変わることのない理由があるからです。

 皆さん、私たちは毎週毎週、相も変わらず、このように変わらないことを繰り返しています。しかし、これは大きな恵みなのです。私たちの人生に何が起こったとしても、この世界に何が起こったとしても、絶対に変わらず必ず日曜日は来るのです。その日には、神が礼拝へと招いてくださるのです。私たちには、変わらない神の愛の内にあることを共に喜び、共に感謝をささげ、私たちは共に変わらないものを土台として生きる人生が備えられているのです。そうです、ここにいる私たちだけではありません。私たちはパウロとも同じ土台に立って生きているのです。だからこそ、この言葉も意味を持つのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。

広い心が知られるように
 そして、さらにパウロは言います。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(5節)。主から来る「喜び」はただ「喜び」として人間の内に留まるのではありません。その「喜び」は「広い心」となって他者へと向かうものとなるのです。

 それはある意味では当然のことです。主によって罪を赦された喜びは、他者を赦す心を生み出すのです。主によって受け入れられた喜びは、他者を受け入れる心を生み出すのです。主の広い心が私たちの喜びなら、その喜びは私たちの内に広い心を生み出すのです。

 ですから、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とは、要するに、「主において常に喜びなさい。その喜びをもって人々と共に生きていきなさい」ということに他ならないのです。大事なのは「喜び」なのです。そして、その源である「主にあって」という事実なのです。主との関係なのです。ですからここでパウロは一言付け加えるのです。「主はすぐ近くにおられます」(5節)と。

 このアドベントに思い巡らすべき大事なテーマの一つはキリストの再臨です。キリストが再び来られることを私たちは信じているのです。しかし、そのことをずっと遠い所からやってくるように思い描く人がいるかもしれません。しかし、初代教会が持っていたイメージは異なるのです。そうではなくて、「戸の外に立っておられるキリスト」なのです。もうすぐにでも戸を開けて入ってこられる。救いをもたらすために入ってこられる。そのようなイメージです。

 それは二千年経ってしまった今でも同じはずなのです。やがて主が来られる。今にでも来られる。その時、私たちははっきりと知ることになるのです。主に赦されているとはどういうことか。主によって愛されているということがどういうことか。救われているとはどういうことか。やがて私たちは知ることになるのです。この世界が過ぎ去っても変わることのないものを、その事実を、はっきりと見ることになるのです。そして、それは思いの外近いのかもしれません。「主はすぐ近くにおられます」とパウロは言うのです。

思い煩うのはやめなさい
 それゆえに、さらにパウロは、「思い煩うのはやめなさい」と語るのです。喜ぶことと思い煩わないことは、同じ主に結ばれた生活の裏と表です。積極的な側面と消極的な側面と言っても良いでしょう。それゆえに「主は近い」と語ったパウロは、さらに具体的な勧めとして、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めるのです。つまり、「主において」生きる生活は、先にも触れましたように、祈りと礼拝という具体的な形を取るのだということです。

 パウロにしても、フィリピの信徒たちにしても、喜びを奪っていく要因、思い煩いの種は数え切れないほどあったに違いありません。しかし、そこにおいて思い煩わないで生きるために必要なことは、思い煩いの種を必死になって取り除くことではないのです。そうではなく、主にある者として生き、神に祈り、変わることなく神を礼拝して生きることなのです。

 パウロはここで「神に打ち明けなさい」と言っています。これは単なる願いごと以上のことです。それは「感謝を込めて」という言葉が伴っていることからも分かります。しかしながら、「感謝を込めて」というのは、無理をして、表面だけをとり繕って、感謝の言葉を神に捧げるということではありません。そうではなくて、いかなる言葉をもって祈ったとしても、その祈りの根底に変わらぬ神への信頼と感謝があるということなのです。

 そこで重要になるのが、先ほどから語っています「主において」ということなのです。祈りが「主において」なされるということです。それは主によって赦され、救われた感謝と喜びをもって献げる祈りであるということです。そのように祈りがなされる時に、それはまた「神は私たちを愛しておられて、私たちに最善を為してくださる」という神への信頼に基づいて献げられる感謝の祈りともなるのです。

 では、そのように「神に打ち明ける」時に、いったい何が起こるのでしょうか。パウロはこう言うのです。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。

 人において本当に守られなくてはならないものは何か。それは「心と考え」です。ここで語っているパウロは、獄中にいるのです。いつ引き出されて処刑されるかも知れぬ身なのです。彼は自分の命を自分で守ることができません。しかしパウロは、人知を越える神の平和によって、心と考えとを守られているのです。そのような人をこそ、私たちは「神に守られている人」と呼ぶべきでしょう。

 一生懸命に自分の身を守り、立場を守り、メンツを守り、病気から肉体を守り、経済的な困窮から生活を守ろうとするうちに、そのように自分を守ることに一生懸命になっているうちに、いつの間にか本来の喜びを失って、心と考えがボロボロの雑巾のようになってしまうことは起こり得ます。私たちは、神の平和によって、まずは心と考えとを守っていただかなくてはなりません。パウロと同じ土台に立って、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」という言葉をしっかりと受け止めることができる状態に、私たちの心も考えも守っていただかなくてはならないのです。


2024年12月11日水曜日

祈祷会用:ホセア書 2:4~15

ホセア書 2:4‐15

 先週に引き続き、ホセア書を読んでまいります。先週も申し上げましたとおり、ホセア書の最初の3章には、断片的にではありますが、預言者ホセアの個人的な結婚生活の消息が伝えられております。1章では他者による報告の形をとって三人称によって語られ、3章では本人による報告の形をとって一人称で語られているのです。そして、この1章と3章に挟まれる形で、2章の韻文による預言の言葉が記されております。

 今日は2章4節から15節までをお読みしました。この部分は妻を断罪する夫の激しい怒りの言葉から始まります。4節から7節前半までをご覧ください。

 私たちがまずここに聞きますのは、ホセア自身の怒りの声であることには間違いないでしょう。「告発せよ」という言葉から、場面としては法廷を考えることができます。しかし、実際の訴訟がなされていると考える必要はありません。後の方を読みますと、このような表現はあくまでも形式に過ぎないことが分かります。いずれにせよ、この場合、4節で「彼女」と呼ばれているのはホセアの妻であるディブライムの娘ゴメルです。また、6節において「その子ら」と呼ばれているのは、妻が不貞によって身ごもった子供たちということになります。

 しかし、その先を15節まで読んできますと、この部分では単純にホセアとゴメルの個人的な関係のみを語っているのではないことが分かります。15節には、「バアルを祝って過ごした日々について、わたしは彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、わたしを忘れ去った、と主は言われる」と書かれているのです。

 つまり、これはあくまでも預言の言葉、すなわち神の言葉なのです。単にホセアの個人的な感情から出た言葉ではないのです。ここで怒りをもって語っているのは、明らかに主(すなわちヤハウェ)なる神なのです。その場合、彼女と言われているのは、主に背いたイスラエルの民なのです。このように、この箇所に語られている預言の言葉においては、二つの関係が重ね合わされているのです。一つは、ホセアとゴメルの不幸な関係です。もう一つは、主なる神とイスラエルの民の間の不幸な関係です。ここに響いているのは、妻の不貞を怒るホセアの声であると同時に、イスラエルの民の不貞を怒る神の声なのです。

 まさに、この二重の関係こそが、ホセア書のメッセージを独特なものとしているのです。ホセアが預言者として神の言葉を聞き、民に語るということは、単に超自然的な神秘体験の中で神のメッセージを聞き、そして伝えるということではなかったのです。そうではなくて、ホセアは自らの崩壊した家庭という現実の痛みの中で、その痛みを通して、神の御心を知り、そして語ったのです。まさにその預言の言葉において、ホセアの苦悩と神の苦悩が一つとなっているのです。

 そのことを踏まえた上で7節の後半に目を向けましょう。ここで「彼女」と呼ばれているのは、ホセアの妻であり、同時にイスラエルの民です。もちろん、ここに書かれていることを、そのままホセアの妻ゴメルが不貞に走った理由として読むことには無理があるでしょう。結婚の破綻の原因はこんなに単純ではないでしょうから。

 しかし、そのことを弁えつつも、なお聖書独特の仕方で単純化されたこの言葉に耳を傾けることには意味があろうかと思います。聖書は、この不貞の妻をどう描いているのか。彼女は、夫との真実な関係よりも、物質的な豊かさと欲望の充足を求めた愚かな女として描かれているのです。そして、この愚かな女の姿こそ、主に背いた愚かなイスラエルの民の姿に他ならないと預言者はここで語っているのです。

 イスラエルの民にとっての「愛人たち」とは、カナンの地においてもともと地方ごとにまつられていた、通常「バアル」として知られている神々でありました。それはいわゆる生産の神であり豊穣の神なのです。「バアル」という言葉自体は、「主人」あるいは「所有者」という意味です。その名のとおり、バアルは各地方ごとに、その地域の所有者とされていたのです。そして、その所有者である男性神バアルと大地の女神との性的な関係において生じるのが大地の産物であると考えられていたのです。

 半遊牧生活をしていたイスラエルの民がカナンの農耕地帯に移住した時から、このような豊穣神礼拝、バアル礼拝は様々な形において、イスラエルの民に関わってきました。バアル祭儀は、常にイスラエルの民の心を引き付け、そして深くその生活に入り込んでいったのです。私たちはそのようなイスラエルとバアルとの関わりを、旧約聖書の中の多くの部分に見いだすことができます。

 それはホセアが活動した時代においても同じでした。ホセアが活動を開始した頃、ヤロブアム二世の時代、それはまだ繁栄と平和の時代でありました。そして、そこには、経済的な繁栄の中で、さらなる豊かさを求め欲望の充足を求めて、豊穣の神であるバアルを慕い求めるイスラエルの民の姿がありました。そこには国を挙げて主なる神から離れ、バアルを求めるイスラエルの姿、より正確にはバアル化したヤハウェ礼拝において豊穣の神を求める民の姿がありました。そのイスラエルの姿は、まさに欲望に動かされて愛人を求め、不貞に走った愚かな妻の姿と同じであることを、主はホセアに示されたのです。

 主なる神とイスラエルの民との関係は、本来ホセア書に見るとおり、結婚における真実な愛の関係にたとえられるものなのです。それは妻と夫との関係なのです。申命記には「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4‐5)という言葉があります。このように、主に愛されている者として主を愛して生きる。主の恵みに応えて、主への信頼と従順に生きる。それが主を礼拝する者の本来の姿であるはずでした。

 しかし、往々にして、人は主御自身に関心を向けるのではなく、自分の願望の実現、欲望の充足にしか関心を向けていないものです。しかし、もしそうならば、主を礼拝していると言いながら、実際には求めているのは豊穣の神バアルに他ならないのです。神が何を与えてくれるか、ということにしか関心がないならば、それはバアル礼拝でありバアル宗教なのです。それは夫との関係を捨てて、「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ」と言っている愚かな女の姿と同じなのです。

 このような妻に対して、夫は行動を起こします。彼は何をしようとしているのでしょうか。先にも見ましたように、この箇所は妻に対する夫の激しい怒りの言葉から始まりました。夫は、「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」と叫んでいたのです。

 しかし、ここを読み進んで行きますと、奇妙なことに、その言葉の通りには展開していないことに気づきます。もはや妻でも夫でもないならば、当然の帰結は「離縁」でしかないでしょう。あるいは、モーセの律法によるならば、不貞は死罪に当たりますから、石で打って殺してしまうこともできるのでしょう。しかし、この夫はそのように事を進めないのです。

 8節をご覧ください。夫が願っていることは、妻との関係を断ち切ることでも滅ぼすことでもありませんでした。そうではなくて、妻が帰って来ることだったのです。私たちはここに至って、あの怒りの叫びは愛するゆえの叫びでもあったことを知ることになるのです。妻でも夫でもないという激しい怒りの言葉は、真に妻と夫の関係であることを求めているゆえの叫びであったのです。主は、ホセアを通して激しく叫びます。「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない!」しかし、これと同じほど激しく、主は背いている御自分の民を求めておられるのです。主は人が立ち帰ることを求めておられるのです。どんなことをしてでも、取り戻そうとされるのです。そのためには、茨で道をふさぎ、石垣で遮り、道を見いだせないようにさえするのです。

 それが具体的にどのようなことを指すかは、10節以降に記されています。聖書は、物質的な豊かさそのものを悪であるとは言いません。それは主が与えたものだ、と言うのです。しかし、豊かさを追い求めることが主の愛を見失わせ、主との真実な関係を失わせるならば、主は自ら与えていたものを取り戻すこともされるのです。ここで語られているのは、具体的にはヤロブアムの時代に人々が享受していた繁栄を主が自ら取り去るということを意味していたのです。

 そしてさらに13節以下で、主はイスラエルの礼拝祭儀をやめさせると言われます。ヤロブアムの時代に、神殿における祭儀がどれほど盛大に行われていたかは、預言者アモスが伝えています。しかし、それがどれほど盛大に行われていようが、それが人間の欲望の投影でしかなく、実質的にはバアル礼拝でしかないならば、主はそれをすべてやめさせる、と言われるのです。そして、主は言われるのです。「バアルを祝って過ごした日々についてわたしは彼女を罰する」(15節)と。

 主は御自分の民を罰せざるを得ません。主を忘れ去っている民を愛するゆえに、罰せざるを得ないのです。確かに、この箇所に聞くのは大変厳しい言葉であるに違いありません。しかし、私たちは、このような厳しい預言の言葉の中にこそ、主に背く者たちを見捨てることなく、なおも関わり続けようとされる主の真実を見るのです。    

2024年12月8日日曜日

「天から差し込んだ光」

2024年12月8日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 13:53-58 


つまずいた人々
 イエス様が故郷のナザレに帰ってきました。かつて大工の子として生活していた場所、マリアの子として、ヤコブやその他の兄弟として知られていた場所に帰ってきたのです。もとの生活に戻るためではありません。宣教のためです。イエス様はカファルナウムでしていたのと同じように、ナザレにおいても会堂で教え始められました。

 人々の反応は「驚き」でした。彼らは驚いてこう言ったのです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」(54節)。

 彼らが注目したのはイエス様の語られる「知恵」でした。またイエス様の持っておられる「奇跡を行う力」でした。奇跡については今日の聖書箇所の最後に「あまり奇跡をなさらなかった」と書かれてはいますが、皆無ではなかったでしょうから、実際に目撃した人もいたのでしょう。あるいは自分で直接目撃していなかったとしても、既にイエス様のなさったことについては広く知れ渡っていましたから、彼らが既に伝え聞いていたことは少なからずあったに違いありません。

 そのように人々はイエス様の「知恵」と「奇跡を行う力」に驚きました。それだけを聞くならば、その驚きはおおむね肯定的なものであると想像できるかもしれません。しかし、聖書はそう伝えてはいないのです。彼らの反応は極めて否定的なものでした。今日の箇所にはこう書かれています。「このように、人々はイエスにつまずいた」。知恵に驚こうが、その力に驚こうが、結局はイエスにつまずいた。イエスを受け入れることはなかったのです。

 なぜイエス様の語られる「知恵」に驚きながらも、それを受け入れることができなかったのでしょうか。それは既に彼らの慣れ親しんできた宗教的な「知恵」があったからです。過去から受け継いできた、それぞれが宗教的コミュニティから受け取ってきた知恵があったからです。その彼らの受け継いできた「知恵」からすれば、イエスの「知恵」はあまりにも異質だったのです。

 そして、彼らはイエス様の「奇跡を行う力」に驚いた。しかし、それを受け入れることができなかった。なぜでしょう。それは「奇跡」とは馴染みのない、「奇跡」とは無縁な彼らの宗教的な生活があったからです。神が権威を現され、力ある業をなさることを求めることもない、期待することもない、宗教的なしきたりを守るだけの生活がそこにあったからです。

 そうです、彼らは宗教的ではあったのです。それはナザレという小さな村の共同体での話です。そこでは誰もが生まれて八日目に割礼を受け、幼い時から律法を学び、先祖からの言い伝えを大切にし、それぞれが宗教的な戒律を守って信心深い生活をしている、そんな信心深い共同体を形づくっていたのです。

 そこにイエス様が帰って来られたのです。入って来られたのです。そして、イエス様という存在はあまりにも異質だったのです。今日お読みしたところには「故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると…」と書かれていますでしょう。しかし、本当は原文では「《彼らの会堂》で教えておられると」と書かれているのです。そうです、それは「彼らの会堂」だったのです。そこには彼らの会堂を中心とした彼らのコミュニティがあり、彼らの宗教的な生活があったのです。その生活にとって、イエス・キリストという存在はあまりにも異質だったのです。

 いや、彼らの宗教的な生活があり、それが妨げになっただけではありません。そこには彼らが既に持っていたイエスについての理解がありました。「人間イエス」としての理解がありました。彼らは言います。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(55‐56節)。

 「大工の息子」という言葉自体に軽蔑的なニュアンスはありません。この「大工」というのは家を建てる仕事ではなく、農具や家具を作る仕事であったと考えられています。決して卑しめられるような仕事ではありませんでした。ごく普通のユダヤ人の家庭なら、大工の息子は当然のように小さい時から父親の仕事を手伝うものです。ですからマルコによる福音書では「大工の息子ではないか」ではなくて「この人は、大工ではないか」と書かれているのです。

 そのようにイエス様自身、大工として知られていたようです。あるいは、父親のヨセフは早くに他界していたと考える人も少なくありません。ならばイエス様は父亡き後、母と弟妹たちのために、一生懸命働いて家計を支えてきたのでしょう。イエス様のことです、コミュニティの中でも、ヨセフの家の良い息子として、評判は決して悪くなかったものと思われます。

 ですから、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」という言葉は、決して軽蔑的なニュアンスで語られているわけではないのです。ただ、帰ってきたイエス様は、その言葉にせよ、その行いにせよ、明らかに彼らの既に良く知っているヨセフの息子ではなかったのです。明らかに異質だったのです。

 もし、イエス様が彼らの知っている「人間イエス」の延長上にあったなら、つまずかなかったに違いありません。評判の良い人、親孝行な息子、人格的にすぐれた人、立派な模範的な人格者、という枠内に収まっていれば、彼らはつまずかなかったのです。むしろ、それこそ尊敬し、受け入れ、その生き方を模範にしたことでしょう。しかし、そうではなかった。イエス様は異質だったのです。

天の国が近づいたのだから
 しかし、それはある意味では起こるべくして起こったことでした。なぜなら、イエス様がナザレに帰ってきたのは、ナザレでの元の生活に戻るためではなく、宣教のためだったからです。そして、「宣教」とは、ある意味では「異質なもの」を持って来ることに他ならないからです。

 イエス様の宣教の始まりは、4章に次のように書かれていました。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(4:12‐17)。

 「天の国は近づいた」と主は言われました。「天」というのは「神」の言い換えでもあります。ユダヤ人はそのように言い換えるのです。ですから、「天の国」は「神の国」と意味としては同じです。「国」が意味するのは領土ではなくて、王としての支配です。王としての神の支配が近づいたということです。天の方から近づいてこられるのです。

 神が近づいてこられ、天が近づいてこられるならば、そこでは決定的に新しいことが始まるのです。今まで慣れ親しんできた生活、過去からの延長上にある未来ではなく、全く新しいことが始まるのです。人間が人間に対して行う水平の次元のことではなく、神が人間に対して行う垂直の次元のことが起こるからです。それはマタイがイザヤ書を引用して語っているように、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という出来事が起こるのです。そうです。天から光が差し込んでくるのです。

 そのことが既に始まっているのだということをイエス様は語っておられたのです。それはイエス様の到来と共に始まっているのです。それを示していたのがイエス・キリストの言葉であり、そこに語られている知恵でした。また、それを示していたのがイエス・キリストの奇跡であり、奇跡を行う力だったのです。

 そのように、イエス・キリストの宣教はこの世の知恵からすれば異質なのです。単なる「より優れた知恵」ではないのです。イエス・キリストの行為も、単なる「より良い行い」ではないのです。キリストの行為が示していたのは、神のあからさまな介入なのであって、それは垂直の次元のことだったのです。

 そのように「天の国は近づいた」のです。イエス様が来られて、神様のなさる決定的に新しいことが既に始まっているのです。暗闇の中に光は差し込んできているのです。

 ならば、そこで今度はこちら側が問われるのです。神が近づいてこられ、天が近づいてこられているのに、同じ生き方を続けるのですか。慣れ親しんできたそれまでの生き方をずっと続けていくのですか。人間のことだけ考えて、人間がしてきたこと、人間から受けたこと、人間にできること、人間がしなくてはならないこと、それだけを考え続けて、水平の次元のことだけを考えながら、これからも生きていくのですか。そうやって水平の次元のことだけを考えていても、宗教的には生きられるのです。あのナザレの人々のようにです。しかし、そんなセミの抜け殻のような信仰生活に何の意味があるのでしょう。

 イエス様は「天の国は近づいた」という宣言と共に、こう言われたのです。「悔い改めよ」。それは単に悪い行いを正せという意味ではありません。方向を変えることです。生きる方向を変えることなのです。この世界にとっては異質なイエス様を受け入れ、「天の国は近づいた」という宣言を受け止め、そして神がなさっておられることに思いを向け、私たち自身の生き方の方向を変えることなのです。

 そこで求められているのは信仰です。不信仰に留まるならば、これまで慣れ親しんだ生活が続いていくだけなのであって、天の国が近づいていることも、それにより全く新しいことが神によって始まっているという現実も、決して見ることはないでしょう。いみじくも今日の箇所にこう書かれているとおりです。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」(58節)。

 さて、私たちは今年も御子の御降誕の祝いの日を迎えようとしています。天からの光がこの闇の世界に差し込んだことを祝おうとしているのです。そこに向かうアドベントの時がこうして毎年与えられています。天からの光を見るために、神の御業を見るために、生活の方向を変え、新たに歩み出す時が、こうして恵みとして与えられているのです。


2024年12月4日水曜日

祈祷会用:ホセア書 1:1~2:3

ホセア書 1:1‐2:3

 今日からだいたい20回くらいに分けてホセア書を読むことにします。その表題には「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉」(1:1)と書かれています。そこに列挙されているユダの王は、イザヤ書の冒頭に挙げられているのと同じです。彼は、預言者イザヤとほぼ同時期に活動した預言者です。イザヤが南のユダ王国において活動したのに対して、ホセアの活動の舞台となったのは北のイスラエル王国でした。

 イスラエル王国には、ホセアに先だって、アモスという預言者が現れました。彼が神の言葉を語ったのは、主に1節に挙げられていますヤロブアム(ヤロブアム二世)の治世です。それは平和と繁栄の時代でした。アモスは、そのような時代に現れ、民の罪を告発し、神の裁きを激しく語り、イスラエルの崩壊を告げたのです。そして、事実、ヤロブアムの死後、イスラエルは坂道を転げ落ちるように、崩壊への一途をたどったのでした。その時代の様子は、列王記下15章から17章に記されています。最終的に、イスラエル王国の都サマリアはアッシリアによって陥落せられ、王国は滅亡に至ります。預言者ホセアが活動したのは、まさに王国が滅亡に至る数十年、その激動の時代でありました。

 しかし、アモスと同じようにイスラエルの罪を告発し、神の裁きを語りながらも、ホセアの預言の論調はアモスのそれとはまったく異なっています。その違いをもたらした決定的な要因は、彼の個人的な家庭における経験でした。この預言書における最初の三つの章において、私たちは、彼の悲しみに満ちた結婚と家庭の状況を垣間見ることになります。そこに見ますように、ホセアにとって、神の言葉を聞き、そして語るということは、単に超自然的な神秘体験の類ではなかったのです。そうではなく、彼は現実の痛みと悲しみの中で、神の御声を聞いたのです。そのような彼でなければ聞き得ない言葉を聞き、そして語ったのでした。

 それでは内容に入っていきましょう。2節以下をご覧下さい。ここで「淫行の女をめとれ」という言葉だけを読みますと、既にみだらな生活をしている女性を、神があえてホセアと結婚させたように見えます。しかし、もしゴメルが淫らな女であることが初めから前提とされている結婚ならば、後に2章4節以下の怒りに満ちた告発の言葉は理解できません。これは明らかに信頼を裏切られた者の言葉です。それゆえに、ゴメルが実際に淫行の女となったのは、ホセアの結婚の後であったと考えるほうが良いようです。

 ならば、2節の主の言葉は、ホセアにとって、当初、全く理解不能であったに違いありません。なぜ、自分の妻となる女性が淫行の女と呼ばれているのか、なぜ「淫行の子らを受け入れよ」などと語られているのか、ずっと後になるまで分からなかったことでしょう。ホセアは、ごく当たり前の結婚として、ディブライムの娘ゴメルをめとったのです。

 やがて、そのようなホセアとゴメルとの間に子供が産まれます。最初の子供は、「イズレエル」と名付けられました。それは「神が種を蒔かれる」という意味でありまして、聖書には地名としても人名としても用いられています。その名前自体は何ら特別な名前ではありません。

 しかし、奇妙なのは、続く二人の子供の名前です。ホセアは次に産まれた女の子に「ロ・ルハマ」と名付けます。それは「憐れまれぬ者」という意味です。そして、次に産まれた男の子は「ロ・アンミ」と名付けられました。これは「わが民でない者」という意味です。なぜそのような名前を子供たちに付けたのか。主がそのように命じられたからだ、と聖書は説明します。

 もちろん、結論から言えばその通りなのです。しかし、人間はよほどのことがない限り、そのような無茶苦茶な名前を自分の子供に付けたりしないものです。そこで私たちはやはり考えざるを得ないのです。このロ・ルハマとロ・アンミがホセアの実の子たちではないのではないか。ホセアが受け入れるべき「淫行の子ら」とは彼らのことではないか、と。

 事実、3節の「彼女は身ごもり、男の子を産んだ」という部分の原文には「彼(ホセア)に」という言葉が入っているのですが、第二子と第三子については「彼に」という言葉はありません。そして、2章6節に至って、私たちは次のような言葉に出会います。「わたしはその子らを憐れまない。淫行による子らだから。その母は淫行にふけり、彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った」(2:6‐7)。

 このように読んできますと、神がホセアに語られ、神の命じる通りに子供たちに名前を付けたということは、それほど単純なことではないことが分かります。何も問題のないところで、あたかも占い師の言葉に聞くように、「あなたの子供にはこう名付けなさい」「はい、分かりました」と言って名前が付けられたのではないのです。ホセアは、妻の不貞と家庭の崩壊という現実の苦悩の中で、その嘆きと怒りの中で、神の言葉を聞いたのです。そのようにして、名前が付けられたのです。

 もう一度、子供たちに付けられた名前を見てみましょう。最初の子供はイズレエルと名付けられました。先にも申しましたように、イズレエルは地名としても聖書に出てきます。その美しい山間には、かつてイスラエルの王アハブと女王イゼベルの避暑地がありました。しかし、そこはまた血塗られた革命の舞台でもあったのです。当時、将軍であったイエフは、その地においてアハブの子ヨラムとその母イゼベルを殺し、さらにサマリアにおいてアハブの一族を全滅させたのです。こうして、アハブ王朝は滅び、イエフ王朝が誕生したのでした(列王記下9、10章)。

 しかし、ホセアは、こうして生まれたイエフの王家もまた、神の裁きのもとにあることを知るのです。彼はイエフ王家の滅亡を思いつつ、自分の子供にイズレエルという名前を付けたのでした。しかし、やがてホセアは、人間の罪の問題を、単に国家と社会、聖所を中心とした宗教的な体制において見るだけでなく、最も身近な家庭の問題を通して知ることになるのです。彼は妻であるゴメルに裏切られるのです。

 彼はどれほど怒り、嘆き、苦しんだことでしょう。その苦悩の生活の中に、さらに二人の子供が生まれます。先にも申しましたように、この子供たちが2節に語られている「淫行の子ら」であることは十分に考えられます。いずれにせよ、子供が生まれた時に、彼は主の言葉を聞くのです。「その子をロ・ルハマと名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず、彼らを決して赦さないからだ」(1・6)。「その子をロ・アンミと名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではないからだ」(1・8)。

 人から裏切られた時には、自分を裏切ったその人、そして裏切られた自分のことしか考えられないものです。しかし、彼は怒りと嘆きによって閉塞した生活の中において、その外から響いてくる神の言葉を聞いたのです。それは単に彼を慰める言葉でも、励ます言葉でもありませんでした。彼はそこで神の怒りの言葉を聞いたのです。彼は、自分自身の怒りにではなくて、神の怒りへと心を向けさせられるのです。

 自分が妻の淫行によって嘆いているのと同じように、主を離れて淫行にふけっているこの民のゆえに、主自らが怒り、そして嘆き悲しんでおられることをホセアは知らされたのでした。そこには「わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず、彼らを決して赦さない!」と叫ばざるを得ない神がおられるのです。そこには「あなたたちはわたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではないからだ!」と叫ばざるを得ない神がおられるのです。その主の怒りと悲しみを知ったがゆえに、ホセアは主が示されるままにその子たちに驚くべき名を付けたのでした。ロ・ルハマ――すなわち「憐れまれぬ者」、ロ・アンミ――すなわち「わが民でない者」と。

 ところが、2章に入りますと、そこには一転して次のように語られていることに驚かされます。「イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは、『あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)』と言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言われるようになる。ユダの人々とイスラエルの人々はひとつに集められ、一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって『アンミ(わが民)』と言え。あなたたちは姉妹に向かって『ルハマ(憐れまれる者)』と言え」(2・1‐3)。

 ここにはイスラエルの回復が預言されています。明らかに、既に民の滅亡が現実となった、後の日の預言の言葉がここに入れられているのです。1章とのつながりは、明らかに良くありません。また、2章4節以下にもつながりません。しかし、この預言の言葉がここにあることは、私たちに大切なことを示しております。それは、1章の最後に見た神の叫びは決して最後の言葉ではない、ということです。裁きと断罪の宣言は、最後の言葉ではないのです。神は最終的に、そのようなロ・ルハマ(憐れまれぬ者)、ロ・アンミ(わが民でない者)と呼ばざるを得ない者たちを、あえてルハマ(憐れまれる者)、アンミ(わが民)と呼ぼうとされるのです。「わが民でない者」は、「生ける神の子ら」と呼ばれるようになるのです。神自ら、受け入れ難きを受け入れ、赦し難きを赦そうとされるのであります。

 赦し難き者を赦すとするならば、自らが痛み、苦しみ、犠牲を払わなくてはなりません。ホセアの結婚における現実は、そのことをよく示しています。私たちは、このホセア書を読み進むにつれて、本来ならば到底神の民などとは呼ばれ得ない者が、その赦しに基づいて神の民と呼ばれ、憐れまれる者と呼ばれることの重みを、さらに深く知る者とされることになるのです。

2024年12月1日日曜日

「夜が更けたなら、夜明けは近づいている」

 2024年12月1日 主日礼拝説教

聖書:ローマの信徒への手紙 13:8-14 

 教会の暦においては今日から新しい年に入りました。今日からクリスマスに至るまでの期間はアドベント(待降節)と呼ばれます。「アドベント」という呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。アドベントは、かつてイスラエルの民がキリストの到来を待ち望んだことを思い起こす時であると同時に、世の終わりにおけるキリストの到来(再臨)を思う時でもあります。

 その意味では、この期間は教会暦の冒頭に置かれていますが、内容的には「始まり」よりも「終わり」に深く関わっている期間です。終わりを思いながら、新たに歩み出す。そのような時であると言えます。その期間を私たちはどう過ごすのか。今日与えられている御言葉に聴きたいと思います。

愛の負債を抱える者として
 本日はローマの信徒への手紙が読まれました。そこで私たちがまず耳にしたのは、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)というたいへん不思議な言葉でした。

 「愛する」ということが「借り」すなわち「負債」として語られています。だれに対しても借りがあってはならない。ただし、お互いに他者を「愛する」という「借り」は別です。そのようにパウロは言っているのです。「愛する」という負債だけは残っていてもよい。どうしてでしょう。――「愛する」という借りは、とうてい返しきれないからです。

 この不思議な表現を理解するのに助けになるのは、ヨハネの言葉です。彼は手紙の中でこう書いています。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:11 445頁)。

 この「愛し合うべきです」と訳されている言葉は、「互いに愛することについて借りがある」というのが直訳です。借りがあるのはどうしてか。「神がこのようにわたしたちを愛されたから」だと言うのです。つまり、私たちはまず、《神様に対して》莫大な愛の借りがあるということです。

 神がまず、私たちを愛してくださいました。罪人である私たちを愛してくださいました。神に敵対していた私たちを愛してくださいました。裁かれて滅ぼされて然るべき私たちを愛してくださいました。その直前には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:11)と書かれています。「神がこのようにわたしたちを愛された」とはそういうことです。

 私たちの信仰生活は、いわば莫大な愛の借りがある人が、とても返しきれるものではないのだけれど、せめて愛の僅かばかりを神様にお返しして生きていく、そんな恩返しの人生に他なりません。しかし、そのように神様に愛をお返ししようとする時に、神様は私たちに言われるのです。「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あなたの隣人に返しなさい」と。

 だから、「愛する」という借りは残るのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返すという形で神に返していくのです。莫大な愛の負債を抱えているお互いが、お互いに愛を少しずつでも返していくのです。それこそが神の求めていることなのです。

 神の求めていること、それを「律法」と言います。そして、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」とパウロは言うのです。律法を守るから神が愛してくださるのではありません。先に神が愛してくださったという事実があるのです。莫大な愛の負債が先にあるのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返していく。そのことが律法を全うすることになるのです。

 自分が莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、律法を行ったとしても、他者のために何をしたとしても、それは誇りにはならないでしょう。私たちが莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、まわりの人々について「愛がない」と言って裁くこともないでしょう。「わたしにこうしてくれない、ああしてくれない」と言って責めることもないでしょう。むしろそこにおいて、愛する機会、愛の負債を返す機会が与えられていることを喜ぶことができるはずです。

目覚めるべき時が来ています
 そして、互いに愛し合うという借りがある私たちを、今日の聖書箇所はさらに「終わりに向かう」という文脈の中に置くのです。このように続きます。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。

 先ほど、アドベントという期間は「終わりを思いながら、新たに歩み出す」という時であると申しました。しかし、そこで重要なのはどのような「終わり」を思うかということです。パウロは何を思っているのか。そこに「救い」を見ているのです。「救い」に向かっている者として語っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 そのことを彼はさらに「夜は更け、日は近づいた」と表現しています。「夜は更けた」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはありません。

 後戻りしないという事実は、一般的には喜びとは結び着かないことも多いだろうと思います。12月に入りました。一年はあっという間に過ぎていきました。そうして一つ歳をとります。肉体は弱り、精神も衰えていきます。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きていきます。そして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 しかし、聖書はただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、という事実です。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 どうしてそう語り得たのか。莫大な愛の負債者として生きているからです。既に圧倒的な神の愛によって愛されていることを知っているからです。だから、たとえ今苦しみの中にあったとしても、「夜は更けた」としか言いようのない真っ暗闇の中にいたとしても、それが「終わり」ではないことが分かるのです。これはまだ途中なのだということが分かるのです。夜明けは必ず来るのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。その「救い」とは、「神に愛されている」という事実が完全に現される時です。そのような夜明けが必ず来るのです。

 だからこそ、また、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と語られているのです。「救い」という「終わり」に向かっていることを忘れて眠りこけてしまっていることがあるからです。そのような私たちであるからこそ、「終わりを思いながら、新たに歩み出す」というアドベントの期間も必要なのです。そこで私たちは今年も「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているのです。

 それは、消極的に表現するならば、「闇の行い」を脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているこの時は、莫大な愛の負債者として少しでも愛を互いに返していくための大切な時間です。やがて朝の光の中で愛してくださった御方にまみえる時に備えるための大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。

 その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」です。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。

 私たちは朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 それは積極的に表現するならば、「光の武具を身に着けましょう」となります。さらには「主イエス・キリストを身にまといなさい」と勧められているのです。「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と先ほどお読みしましたが、その究極はやはりこの世を生きられたイエス・キリストの御姿なのでしょう。そのキリストを身にまとうということです。

 「身にまとう」という表現は、当時の言葉遣いにおいては、「一体となる」ということを意味します。そのような意味において「主イエス・キリストを身にまとう」ということが何を意味するのかは、愛の負債者である私たちが置かれているそれぞれの状況によって異なることでしょう。

 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているこのアドベントの期間、「主イエス・キリストを身にまとう」とは具体的に何を意味するのか深く思い巡らし、救いである終わりを思いつつ、新たに歩み出したいものです。

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