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2025年11月9日日曜日

「神を信じるということ」

2025年11月9日 こども祝福礼拝説教 

聖書:創世記15:1-6 
 

神の約束
 今日は聖書に出てくるアブラハムという人の話をしたいと思います。教会では時々耳にする名前です。聖書に出てくる有名人ですから、ぜひ覚えておいてください。

 アブラハムはもともと「アブラム」という名前でした。今日の聖書箇所では、まだ「アブラム」と呼ばれています。アブラムはもともとカルデアのウルというところに住んでいました。やがて父に連れられてハランに移りました。ハランはとても豊かな土地でした。親戚も一緒に住んでいました。そこには知っている人が沢山いました。アブラムも、そこでみんなと一緒に生活していれば安心でした。

 しかし、神様はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。神様はそこを離れて、お父さんの家族や親戚からも離れて旅に出なさいと言われたのです。アブラムが安心していられるその場所を離れて「わたしが示す地に行きなさい」と神様は言われたのです。

 神様がどこに連れて行こうとしているのか、アブラムは知りません。先のことを考えると不安にもなったでしょう。怖くもなったでしょう。しかし、アブラムは神様を信じて、言われる通りに旅に出ました。これからどうなってしまうのか全く分からないけれど、とにかく神様を信じて一歩を踏み出したのです。

 そのようなアブラムに、ある時神様はこう言われました。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。そして、こう続けられたのです。「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」(13:5)。

 その時、アブラムは小さな土地さえも自分の土地として持っていませんでした。旅をしている人ですから。目に見える形では自分が子孫に受け継がせることのできる土地などありません。そもそも子孫などいないのです。アブラムには子どもがいなかったからです。今はまだまだ土地もなければ子どもいない。しかし、神様はさらにこう言われたのでした。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」。

 そのように神様は、アブラムがまだ子どももなく土地もない時に、子孫が増えること、そして、見渡す限りの土地を与えることを約束してくださいました。

恐れるな
 さて、どうなったでしょう。しばらくの時が流れました。アブラムは年を取りました。でも相変わらず自分の土地を持たない旅人でした。そして、アブラムの家にはまだ一人の子どもも産まれていませんでした。

 そんなアブラムの心の隙間から疑いが入ってきました。神様を疑い出したら恐れがやってきました。旅になど出なかった方がよかったのではないか。神様を信じたのは間違いだったのではないか。これから先、どうなってしまうのだろう。神様を疑い出したら、これからのことがとても心配になりました。そうです、神様を信じられなくなりますと、いろいろな恐れがやってくるのです。

 そんな時でした。神様がアブラムに語りかけてくださったのです。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」(1節)。そうです、恐れと不安で一杯になっていたアブラムに神様はこう言われたのです。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。

 神様はアブラムのことをよくご存じでした。恐れで一杯になっていることをご存じでした。だから言われたのです。「恐れるな」と。どんなに沢山の矢が飛んできても、大きな盾があったら大丈夫でしょう。神様が「わたしはあなたの盾である」って言ってくださいます。ならば大丈夫です。そして、誰が報いてくれなくても、神様が報いてくださる。「あなたの報いは大きい」と神様は言ってくださったのです。だから恐れる必要はないのです。「恐れるな」と主は言われるのです。

天を仰いでみなさい
 しかし、アブラムの心の中には、まだ疑いが残っていたようです。アブラムは神様に皮肉たっぷりに言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」(3節)。

 多くの子孫と言っても、現実には子どもひとり与えてくださらないではありませんか。家の跡継ぎすらいないんですよ。どう考えたって不可能ではないですか。――アブラムは神様にそう言いたかったのでしょう。アブラムの家にはエリエゼルという召し使いがいました。現実的に考えるならば、その召し使いが跡継ぎになるしかないのかな、と思っていたのでした。

 しかし、主は言われます。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(4節)。そして、アブラムを外に連れ出して言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 ここを読みますと、アブラムが見上げた星空はどのようなものだったのだろう、と思います。東京の夜空とは明らかに違うでしょう。東京の夜空を見上げても満天の星空という感じはしません。空気は澄んでいませんし、まわりが明るいので、あまり多くの星が見えません。

 しかし、地方に行くと違った夜空が見られます。昔、ある夜、兵庫県の山奥を車で走っていたときに、途中で車を止めて、夜空を見上げたことがありました。車のライトを消したら、文字通り真っ暗なんです。そこで見上げた星空をわたしは忘れることができません。ちょうど今頃です。空気の澄んだ秋の夜空には、天の川がはっきりと見えて、まさに空は大小の星でびっしり埋め尽くされていました。まさに星空に圧倒されていました。また、そこに立っている自分のなんと小さなことかと思わされました。

 アブラムが見ていた星空もきっとそのような星空ではなかったかと想像します。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と主は言われました。アブラムはその数え切れない星を造られた神様の御前に立っているのです。数えきれない、神様の圧倒的な御業を目にしながら立っているのです。これが神様のなさることなのだ、と。

 星を数えきることができないように、神様のなさることを人間は計り知ることはできないのです。神様の知恵と力がどれほど大きいかを、私たちは知り尽くすことはできないのです。それゆえにまた、神が人の未来に何を成し得るかということもまた、人の計り知ることのできないことなのです。ならば、私たちにできることは、ただとてつもなく大きな御方に信頼することだけなのでしょう。その計り知れない知恵と力を誉め讃えることしかできないのです。本当はそうなのです。

アブラムは主を信じた
 そこで今日の聖書箇所にはこう書かれているのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。

 実は聖書に初めて「信じる」という言葉が出て来るのはこの箇所なのです。その「信じる」という言葉は「アーマン」というヘブライ語に由来します。「アーメン」と似ていますでしょう。この二つは深いつながりがあります。祈りの最後に唱和する「アーメン」は「そのとおりです」という意味です。そのように「信じる」とは、主の言われることに対して「そのとおりです」と信頼して、受け入れることです。

 アブラムは主を「信じた」。それは主のなさることが理解できたからではありません。常識的に考えるならば主の言われることは不可能なのでしょう。彼の経験からすればあり得ないことなのでしょう。現実を見るならば、多くの子孫はおろか、子ども一人生まれていないのですから。そして、アブラムも奥さんも既に年を取っているのですから。しかし、それでもなおアブラムは主を信じたのです。無条件で「アーメン」と言って受け入れたのです。そのように主とその約束に全面的に信頼したのです。ならば、信頼したように行動するのです。主の御言葉を信じる者として生きて行くのです。

 アブラムは主を信じた。そして、主はそれを彼の義と認められたのです。「義と認める」というと難しいけれど、簡単に言えば神様が大きなマルをつけてくださったということです。「それでよし。あなたは正しい」と言って、ハナマルをつけてくださった。神様に信頼しているアブラムは、神様の目から見たら百点満点だったのです。

 しかし、それはまた全て神様のおかげだとも言えます。既に見てきたように、アブラムは常に主を信じて揺るぎない人ではありませんでした。アブラムの内には疑いがありました。アブラムの内には疑いから来る恐れがありました。しかし、そんなアブラムに「恐れるな」と言ってくださったのは神様でした。皮肉たっぷりに言い返したアブラムに、それでもなお語り続けてくださったのは神様でした。神様の言葉があってこそ、初めて「アブラムは主を信じた」があるのです。

 そして、神様は私たちにも語りかけていてくださいます。その究極の語りかけ、神の言葉はイエス・キリストです。神はその御方によって、十字架と復活によって、決定的な仕方で語られたのです。そして、復活されたキリストによって今も御言葉が語られています。キリストの体である教会によって、神の言葉が語られているのです。かつてパウロもまたこう言っていました。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。

2025年8月3日日曜日

「聞いていてくださる神」

2025年8月3日 平和主日礼拝説教 

聖書:創世記 21:9-21

不信仰の結果
 「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。今日の第一朗読はこのような言葉から始まりました。

 これだけ読みますと、自分の子供がからかわれているのを見て腹を立てたサラがその子と母親を追い出そうとしたという話に見えます。しかし、実は問題の根はもっと深いところにあるのです。サラが言っているように、これは「相続」の問題だからです。

 なぜそこに相続の問題が生じているのか。少し話を遡ってみましょう。ここに出てきます「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に生んだ子」は名前を「イシュマエル」と言います。イシュマエル誕生に関わる話は、創世記16章に出ています。

 その頃、アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライはアブラムにこんな提案をしたのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては決して珍しいことではなかったようです。

 しかし、問題はその提案の内容よりも、サライがこのような提案をした理由にあるのです。というのも、このサライの提案は、要するに、「もう神に信頼して、神に期待して待つのはやめましょう」ということを意味したからです。

 かつて神はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。「あなたを大いなる国民にする」とは、要するに子孫を増やすということです。アブラムもサライもこの主の言葉を信じて、旅に出たのです。それがそもそもの発端でした。さらに創世記15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、実際には何年経っても子供は生まれませんでした。先ほど引用した16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。神様の約束が実現に向かって進んでいるとは思えませんでした。昨日も今日も何も変わらないのです。何も変わらない日々は永遠に続くように思えました。そこで出てきたのが先ほどの提案だったのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。

 「主はわたしに子供を授けてくださいません」――要するに、「神がしてくださらないならば、私たちの手で実現しましょう」ということです。「もう待つのはやめましょう。もう神に期待することはやめにして、私たちのできる仕方で実現しましょう」ということです。そして、実現したのです。アブラハムは子孫を得ることとなりました。それがイシュマエルでした。しかし、それは「神の約束の成就」ではありませんでした。

 当然のことながら、アブラハムがイシュマエルを見る時に、「神様、あなたは真実な御方です」と感謝の祈りを捧げることはできなかったはずです。事実は逆だったからです。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。信頼することをやめた時があった。アブラムは、イシュマエルを見るたびにその事実を思い起こしたに違いありません。

もう苦しまなくてよい
 やがて時満ちて、サラにも子供が生まれました。それは神の約束の成就でした。その誕生の次第は今日お読みしました箇所の直前に書かれています。アブラハムはその子をイサクと名付けました。その名前は「笑う」という言葉に由来します。まさに、イサクの誕生は神の約束の成就として、アブラハムの家庭に喜びに満ちた「笑い」をもたらしたに違ありません。そうです、そのはずでした。

 しかし、そのすぐ後に今日読まれた聖書の言葉があるのです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 神が与えてくださった喜びと笑いに満ちたイサクの誕生。その笑いに満ちているはずの生活の中に、こうして敵意と争い、それゆえの様々な苦しみが、相続の問題という形で入り込んできていたのです。

 「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」そう書かれています。神の約束においては、もともと相続の問題やそれに伴う苦しみはなかったはずだということは分かっています。これは過去のある時点において、神が真実な方であることを信じることをやめた結果であることも分かっているのです。すべては不信仰のゆえだ、と。

 その結果、自分が苦しむだけではない、サラはサラとして苦しみ、ハガルとイシュマエルも苦しむことになってしまった。アブラハムは、あの時のことを悔やんだかもしれません。なぜ待てなかったのだろう。なぜ神に期待することをやめてしまったのだろう。なぜ神に信頼し続けなかったのだろう。しかし、悔やんでも過去が変わるわけではありません。

 しかし、神はそんなアブラハムに現れてこう言われたのです。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(13節)。

 神はこのような事態をもたらしたアブラハムの過去を責めませんでした。そうではなく、「苦しまなくていい。心配しなくていい」と言ってくださったのです。ここに語られていることは何ですか。私に任せなさい、ということです。すべては人間の罪と不信仰が招いたことなのに、神はその現実に慈しみ深くかかわってくださるのです。「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。神はそう言ってくださった。だからもう苦しまなくていい。心配しなくていい、と。

神は聞いていてくださる
 そして、神はそのような神であることを、ハガルとその子に対しても現されたのでした。それが14節以下に書かれていることです。

 「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)。こうしてハガルはアブラハムの家を立ち去ることとなりました。彼女と子供はベエル・シェバの荒れ野をさまよいます。やがてハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。子供は次第に弱っていきます。自分は子供を助けることができない。目の前で子供が死んでいくのを見るのは耐えられませんでした。ハガルは灌木の日陰に子供を置いて、遠く離れていきました。子供が泣き出します。母親も遠くで泣いている子供を見て、声を上げて泣きました。

 しかし、もはや泣くことしかできないハガルに、神は御使いを遣わしてこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。

 泣く声を主は聞いておられました。泣く声は神への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて神は聞いていてくださったのです。その上で、まず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。

 すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。当然のことながら井戸は前からそこにあったのでしょう。彼女が絶望して大声で泣いていたその時に、既にその側には神の備えがあったのです。神は目を開いて、その事実を見せてくださったのでした。

 もちろん、それでハガルが過去に戻れるわけではありません。彼女は今置かれている現実を受け入れなくてはならない。しかし、彼女もまた、アブラハムと同じように、彼女が知った神の慈しみの中を生きていくのです。泣く声さえも祈りとして聞いていてくださる神。そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている神。そのような神を知った人として、ハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。

 そして、私たちもまた、そのように生きて行くのです。今日は平和主日です。しかし、現実に私たちが見ているのはズタズタに引き裂かれた平和を失った世界です。互いに憎みあい、傷つけあい、裁きあい、殺し合っている世界です。それは、私たち人間がその初めから、神に背いて自らに招いてきた現実であるとも言えます。しかし、そのような世界のただ中で、こうして平和主日の礼拝をささげるのは、共に平和を祈り求めることができるのは、神が人間の罪にもかかわらず、この世界を、私たちを憐れんでくださると信じているからです。神は聞いていてくださる神だと、信じているからです。そして、神は確かに、私たち自身にも、この世界にも、慈しみ深く関わってくださるのです。

2025年2月2日日曜日

「恵みを与えようとして待っておられる神」

2025年2月2日 主日礼拝説教

聖書:創世記 28:10‐22

兄から逃れて
 今日の第一朗読には、ヤコブという人物が登場しました。ヤコブはアブラハムの孫に当たります。のちに「イスラエル」と名前を変えられます。イスラエル十二部族の先祖となる人物です。

 ヤコブはこの時、彼が元々住んでいたベエルシェバから母リベカの故郷であるハランに向かって旅をしていました。いや逃亡していたという方が正確でしょう。彼がハランに向かって長い旅をしていたのは、兄エサウに命を狙われていたからです。それはなぜなのか。事の詳細は創世記25章後半から記されています。その物語はそれぞれお読みいただくとしまして、ざっくりと要約すると、こういう話です。

 エサウとヤコブは双子の兄弟でした。エサウの方がわずかばかり早く生まれてきました。ヤコブは兄のかかとをつかんで生まれてきたという話が25章に出てきます。「先に行かしてなるものか~」と、自分が長男になることへの執念を露わにしながら生まれてきたのが、この弟のヤコブでした。

 さて、長男には長子としての特権がありました。それはいつの時代であっても珍しいことではありません。また長子が受け継ぐ神の祝福がありました。かかとをつかんで生まれてきた弟のヤコブには、それらが兄エサウに行くことが、我慢なりませんでした。エサウに与えられている特権をなんとしても奪ってやりたいと虎視眈々とその機会をうかがっていたのでした。そして、途中の話は割愛しますが、結局、ヤコブは策略をもって、兄エサウから長子の特権を奪い取ることに成功したのです。また、母親のリベカと組んで、年老いて盲目となった父イサクを騙して、本当ならばエサウに与えられるはずの長子の祝福を奪い取ったのでした。さて、どのようにして奪ったのか、まだ読んだことのない人は、ぜひ25章からの話を読んでみてください。

 とにかく、ヤコブは、長年望み続けていたものを得たのです。人の欲に付け込んだだまし討ちであっても、父親の盲目を利用した汚い手段であっても、その方法はどうであれ、望んでいたものを得たのです。しかし、これも世の常ではありますが、望みがかなうことはかならずしもその人に幸福をもたらすとは限りません。彼が、自分の望みを遂げたことの、その代償は大きかった。あまりにも大きかったのです。

 ヤコブは結局、兄のエサウに憎まれて、命を狙われることとなりました。兄エサウは、もともと長子であることに、それほどこだわっているようには見えなかったのです。ですから、その彼から、そこまで憎まれるとは、思っていなかったのかもしれません。しかし、今や兄は本気で自分を殺そうと企んでいる!その殺意を知ったヤコブは、母親の勧めによって、故郷を離れることとなりました。愛する母親からも離れハランに向かうことになったのです。

 さて、今日お読みしたのは、そのような事情で兄から殺されそうになったヤコブが、とぼとぼと孤独な旅をしていた途上での出来事です。そして、ヤコブはそのような旅の途上で神に出会うことになるのです。いや、神が先回りして彼を待っておられたという方が正確かもしれません。ヤコブは神に出会うべくして出会ったのです。そして、そこは暖かい宿があるような場所ではなく、神が待っておられたのは、そして出会いの場所となったのは、石を枕にして寝なくてはならないような荒れ野でありました。

天からの階段
 10節以下をお読みします。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」(10-11節)。

 彼は一つの場所にさしかかりました。その場所は後にヤコブによってベテルと名付けられます。19節には、「ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた」とあります。しかし、ここでヤコブは明らかに野宿をしているのであって、この物語においては、まだその場所に町は存在していません。当時そこはまだ荒れ野だったのです。

 日が沈みました。あたりを暗闇が覆います。彼はそこで一夜を過ごさねばなりません。彼はその場所にあった石を枕にして身を横たえました。実に惨めです。まさかこのような夜が彼の人生におとずれようとは、夢にも思わなかったに違いありません。なぜこんなことになってしまったのか。過去を振り返れば、後悔にかられたことでしょう。未来を思うなら、不安と恐れがつのったことでしょう。かつては、自分の手で幸福を勝ち取り、未来を切り開こうとしてきた彼でした。しかし、今やどこにも希望を見出すことができません。彼を包んでいる闇夜は、彼の人生そのものを象徴しているかのようでした。

 しかし、物語はそこで終わりません。そのような石を枕にして身を横たえている荒れ野こそが、ヤコブにとっては神との出会いの場となったのです。石を枕にして寝ざるを得ないような惨めな夜こそが、まさにヤコブにとっては神を知ることになる夜だったのだと、聖書は教えているのです。

 では、ヤコブはどのように神と出会い、神を知ったのでしょうか。続く12節をお読みします。「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(12節)。

 奇妙な表現だと思いませんか。天使が上ったり下ったりしていた」という部分ではありません。天使は上ったり下ったりしていていいのです。そうではなく、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており」という表現す。私たちならば、「先端が天まで達する階段が《天に向かって伸びており》」と表現するのでしょう。しかし、階段は確かに「地に向かって」伸びていたのです。実際原文でもそのような表現が使われているのです。

 「伸びている」と訳されていますが、直訳するとそこには「立てられている」という言葉が使われています。誰が立てたのでしょう。それは神が立てたのです。だから「天に向かって」ではなくて「地に向かって」なのです。方向はあくまでも《天から地に向かって》なのです。

 小さな違いのように見えますが、これは極めて重要な違いなのです。彼が《地から天に向かう》階段の夢を見たとしても、それは救いにはならないからです。なぜなら、ここで石を枕にしているのは、天に向かって上って行くことはおろか、天に顔を向けることすらできない人間だからです。それは何もヤコブだけではありません。私たちも皆同じです。本当ならば、その罪のゆえに、天に近づくことはもとより、天に顔を向けることすらできない――それが私たち人間というものです。ですから、地から天に向かって伸びている階段を示されても人は救われないのです。

 しかし、神がヤコブに見せてくださった夢は違いました。《神が》階段を《天から》ヤコブのいる《地の方向に》伸ばしていてくださったのです。しかも、「救われたかったら天にまで昇って来い」と言われたのではありません。既にそこには神の御使いたちが上ったり下ったりしていたのです。つまり、神の恵みの御業は天の高いところに留まっているのではなくて、神の恵みの御業は、ヤコブのいる地の上まで届いている、罪深いヤコブのところにまで届いているということです。それがヤコブの見た夢だったのです。神がそのような夢を見せてくださったのです。

見よ、わたしはあなたと共にいる
 そして、ヤコブはまことに驚くべき神の言葉を耳にしたのでした。13節以下を御覧ください。「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』」(13‐15節)。

 声は天の高いところから響いてきたのではありません。なんと、主はヤコブの傍らにおられたのです。まことに神から見捨てられても仕方がないようなヤコブの人生の直中に、荒れ野の夜に象徴されるような彼の人生のただ中に、主は一緒に立っておられたのです。そして、「見よ、わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない」と言ってくださったのです。

 そこでヤコブは目を覚まします。彼は周りを見回します。何も変わっていません。彼を取り巻く闇は変わっていません。彼の置かれている状況は何も変わっていないのです。しかし、石を枕にしていたその場所――悲しみと恐れに満ちていたはずのその場所の意味が全く変わってしまいました。天からの階段が地に向かって伸ばされていること、そして主が傍らに立ってくださったことを知った時に、その場所の意味が変わってしまったのです。

 ヤコブはこう言っています。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と。そして、さらに恐れおののいてこう言ったのです。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(17節)。石を枕にしていた場所は、相変わらず荒れ野であるにもかかわらず、そこは神の家となり天の門となったのです。

 さて、皆さん、天から地に向かって伸ばされている階段をヤコブに見せてくださった神は、実際に、この世界に向けて、天から階段を伸ばしてくださったのです。どのようにして?神の独り子、イエス・キリストをこの世に遣わされることによってです。私たちが見ているこの世界は相変わらず荒れ野です。しかし、そのただ中に神が独り子をお遣わしくださいました。まさに天から階段が伸ばされて、荒れ野の意味が全く変わってしまったように、この世界の意味が変わってしまったのです。

 この世界は、私たちの人生は、主と共に生きる場となりました。そして、私たちが神の霊によって集められて形作られる教会は、まさに荒れ野のただ中に存在するベテル、神の家としてこの地上に置かれているのです。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった!」とヤコブは言いました。そうです、私たちも知らなかった。しかし、今や私たちは知っています。主は恵みを与えようと、荒れ野のただ中にあるベテルで、待っていてくださる、と。

2023年11月12日日曜日

「あなたは祝福の源となる」

創世記11:31-12:9

わたしが示す地に行きなさい
 今日お読みしましたのはアブラハムという人の話です。彼の名はもともとアブラムと言いました。アブラムは父テラと共にカルデアのウルというところに住んでいました(11:31)。ウルは古代メソポタミアにあった都市国家です。そこから父親のテラは家族を連れてユーフラテス河を800キロほど遡り、ハランに移り住みます。

 なぜテラが家族を連れてウルから800キロも離れたハランに移り住んだのか理由は定かではありません。いずれにせよ、それは父テラの意志によるのであって、息子のアブラムの意志によることではなかったことは明らかです。「テラは、息子アブラム…を連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった」(11:31)と書かれているとおりです。

 しかし、面白いことに、この話を15章まで読みますと、そこで主はアブラムにこう言っておられるのです。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である」(15:7)と。つまりウルから導き出したのは父親のテラではなく、神様なのだと語られているのです。つまり、アブラムと神様との関わりは、アブラムのあずかり知らぬところで、既に始まっていたということです。アブラムは神によって導き出されたのです。

 私は今、頌栄教会の牧師をしています。しかし、そもそも私と教会との関わりは私のあずかり知らぬところで既に始まっていました。私の両親がキリスト者であり、私は母親のお腹にいる時から教会に行っていたからです。今日、ここにお集まりの方の中には、最初は親に連れられて教会に行ったという人が少なくないことでしょう。ちょうどテラに連れられてアブラムがウルからハランに移り住んだように。しかし、聖書の見方によるならば、教会に連れてきたのは親ではなく神様だったということになるのです。

 あるいはキリスト者の家庭ではなく、どこかで意を決して教会に足を運んだという人もあるでしょう。しかし、全く何の脈絡もなく教会に行く人はおりません。その前にきっかけなり出会いなりの備えが必ずあったはずです。しかし、聖書の見方によるならば、それは人によるのではなく、神様によるのだ、ということになるのです。

 しかし、そのようにアブラムのあずかり知らぬところで既に関わっておられた神様だったのですが、ある時点でアブラムに出会われこう語りかけたというのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)と。

 神様はアブラムに旅に出ることを求められたのです。しかも、「わたしが示す地に行きなさい」と言うのです。言い換えるならば、神の導きに従って旅をしなさいということです。それは、どこまでも私に信頼して生きていきなさい、ということに他なりません。先が見えるならば、目的地が分かっているならば、自分で計画を立て、自分を頼りに歩いていけます。しかし、「わたしが示す地に行きなさい」ということならば、示されるまではどこか分からない。先が見えないのです。先が見えないならば、ただひたすら神に信頼するしかありません。神様は、アブラハムに、そのような旅に出ることを求められたのです。

 つまりこういうことです。確かにこれまで神様は共にいてくださいました。ウルからアブラムを導き出したのは神様でした。しかし、これからは自覚的に、意識的に、神に全幅の信頼を置いて、どこまでも神を信じて神と共に歩んでいく。そのような新しい人生の旅に出るようにと、神はアブラムに求められたのです。

 実際、アブラムは文字通り旅をしながら生きた旅人であり、寄留者でありました。その人生そのものは、常に先が見えない旅であったと言えます。アブラハムの物語を読みますと、次から次へといろいろなことが起こってくる。しかし、考えてみれば、それは何もアブラムに限ったことではありません。私たち皆同じであるとも言えます。

 しかし、意識的に自覚的に、旅を導いてくれる主に信頼して旅を進めるならば、旅の仕方は明らかに違ってまいります。どんなに希望なきところにおいても、なお望みを抱きつつ信じたアブラハムのことが、今日の第二朗読においても語られていました。人はそのように生き得るのです。

 そのような自覚的に神に信頼して生きる新しい人生の旅を「信仰」と言い換えることもできるでしょう。そして、アブラムは自覚的に、意識的に、自らの決断をもって、信仰の旅への一歩を踏み出したのです。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(4節)と書かれているとおりです。神との関わりは人間の知らないところで神から始まります。しかし、信仰生活への第一歩はそのように自分自身の足で、自分自身の意志をもって踏み出すところから始まるのです。

あなたは祝福となる
 そして、アブラムに信仰を求められた神は、さらにアブラムにこう言われます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 主はアブラムを「祝福する」と言われました。これは神の約束です。神はアブラムに信仰の旅に出ることを求めるだけでなく、彼に祝福の約束を与えられました。しかし、神が祝福すると言われるのは、単にアブラムのためではありません。主は「祝福の源となるように」と言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。ちなみに「祝福の源」というのは意訳です。そこから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな良い訳ではあると思います。しかし、原文は「祝福となる」と書いてあるのです。「あなたが祝福になるのだ」ということです。

 私たちがどこまでも神に信頼して生きていくのは、信仰の旅路を歩んでいくのは、単に私たち自身が祝福されるためではありません。私たちが祝福になるためです。この世界に与えられた祝福になるためなのです。私たちのこの身が、私たちが生きていることが、誰かにとっての祝福となるためなのです。

 世の中には「わたしはやりたいことを十分にできました。わたしは十分に楽しみました。もう思い残すことはありません。」そう言って一生を終える人もいるのでしょう。そのような人をこの世では「幸せな人」と呼ぶのかもしれません。しかし、本当に幸せなことは、私たちが一生を終えた時に、あの人は私たちにとってまさに神からの祝福だったと思い起こされるような、そんな一生を送ることではないでしょうか。

 そのために求められているのは何か。繰り返しますが、主は「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われたのです。アブラムに求められたのは、そのことだけだったのです。神に全幅の信頼を置いて生きることなのです。祝福は人から出るのではありません。祝福は神から来るのです。だから私たちが誰かにとっての祝福となるとするならば、必要なことはどこまでも神に信頼して神と共に歩む人となることなのです。

 その具体的な姿が、今日お読みした箇所に描かれています。そこで繰り返されているのは「祭壇を築いた」という言葉です。アブラムの住居は天幕です。簡単に立てたり、畳んだりできるテントです。しかし、祭壇はそうはいきません。彼はシケムに着いて、そこで祭壇を築いた。石を積み重ね、時間をかけて築くものなのでしょう。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住んだら、そこにもまた重い石を積み重ね、時間をかけて祭壇を築くのです。

 祭壇とは祈りの場所であり、礼拝の場所です。信仰生活とは祈りの生活であり礼拝の生活です。その祭壇を生活の中にしっかりと築いていくことです。どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。

 そのように、信仰は観念ではなく具体的な形を持つのです。神に信頼して神と共に生きるということは単に頭や心の中のことではありません。アブラムにとって「旅に出る」という具体的な一歩があったように、また生活の中で具体的に築いた目に見える祭壇があったように、目に見える教会生活があり、目に見える洗礼式があり、目に見える聖餐式があり、目に見える祈りの生活があり、目に見える礼拝の生活があるのです。そのような具体的な旅をこの地上で進めながら、神の約束を信じ、神がこの世界に祝福をもたらすためにこの人生を用いてくださることを信じて生きていくのです。「わたしはあなたを祝福する。祝福の源となるように」と主は言われるのです。

 今日は「子ども祝福礼拝」を共におささげしています。子どもたちの上に、心を合わせて神の祝福を祈り求めました。しかし、子どもたちの上に祝福を祈り求めるならば、何よりもまず、大人たちが、子どもたちにとっての祝福となることを求めるべきなのでしょう。そのためには、まず大人たちがしっかりと祭壇を築くことです。神と共に生きる生活、神に祈り、神を礼拝する生活をしっかりと築くことが必要なのです。祭壇が崩れてしまっているならば、もう一度築き直しましょう。


2023年9月17日日曜日

「さあ、目を上げなさい」

 創世記 13:1-18
説教:森野真理牧師(福野伝道所、福光教会)

失敗から主に立ち帰らされる
 今日ご一緒に聴く聖書の言葉は、のちのアブラハムの物語です。アブラムという名前は、後に神様によってアブラハムという名前に改名します。「イスラエルの信仰の父」と呼ばれるアブラムですが、なぜそのように呼ばれるのか、どのような人物であるのか、その人物の歩みを通して私たちに何が語られているのか、今日の聖書からご一緒にお聴きしましょう。


 アブラムの旅についてダイジェスト版でお話しするところから始めたいと思います。アブラムの旅は、カルデアのウルという場所から始まりました。アブラムはまずカナンの地に導かれました。このカナンの地をあなたとあなたの子孫に与えるという約束の土地を、アブラムに見せるためであったからです。その場所において、アブラムは祭壇を築き、神様を礼拝しました。次に導かれた土地でも、アブラムは祭壇を築いて主の御名を呼び、礼拝をささげたと書かれています。75歳から始まった神様と人生を共にするアブラムの旅路は、神様を礼拝することと共にありました。

 しかし、旅の序盤で最初のつまづきの出来事が起こりました。いわば信仰の試練です。それはアブラムたちが滞在していた場所で飢饉が起こったときでした。飢饉は命の危機ですから、家のリーダーであるアブラムは家族にとって一番いい方法を考え抜いたすえ、エジプトに逃れるという選択をしました。ナイル川があるために土地が肥えていて作物がよく実る大国エジプトには、アブラムと同じように飢饉から逃れてきた人々がたくさんいたでしょう。人の目から見れば、これはとても良い、安全な選択であったに違いありません。でも神様の目には、このアブラムの選択は良しとされなかったのです。なぜなら、危機に直面したアブラムが頼ったのは、自分の知恵であり大国エジプトという人間の力であったからです。そればかりか、アブラムは自分の美しい妻を妹と偽って保身を図り、その偽りによって大きな財産を得ました。しかし、神様が与えると約束してくださった土地から離れ、神様を信頼することのできなかったアブラム・・・ではなく、エジプトの人々が災難に遭います。それはエジプトの人々に主なる神様の力をあらわすためでした。アブラムが嘘をついていたせいで災難を被ったのですから、普通ならばここで殺されてもおかしくない状況です。でもそうならなかったのは、アブラムの命が奪われることのないように、神様がその力をエジプトの人々にあらわされたからです。命どころか、エジプトで得た豊かな財産も奪い返されることなく、アブラムは旅を再開し、彼が祭壇を築いて最初に主の御名を呼んだ場所、神様を礼拝した場所に戻ってきました。


 神様を礼拝する場所に戻ってきたのは、アブラム自身が選び取って、まずここに帰ろうと考えたからかもしれません。自分は神様に導かれて旅を始めたのだから、その旅の原点に帰って自分を見つめ直そうと考え、自分が築いた礼拝の祭壇の場所に戻ってきたのだと思います。私は、何かをするために部屋の中を移動して、目的の場所に到着したら、何をするために移動してきたのか忘れてしまった、ということがときどきあります。何をするのか思い出すために、来た道を逆戻りして、本来の目的を思い出そうということなのですが、もしアブラムが自分で考えて原点に戻ったのなら、それと同じことだと思います(エジプトから直接カナンに戻らずネゲブ地方を経由している)。

 一方で私は、神様がアブラムを導いてエジプトから連れ出し、旅の原点に連れてこられたのだろうと思います。アブラムは自分の知恵で失敗して、きっとおおいに自信を失っていたからです。アブラムが自分の意志で来た道を辿ったのではなく、神様がアブラムが歩んだ道を振り返りつつ、原点にまで導かれたのでしょう。


豊かさが起こす争い

 さて、エジプトから豊かな財産を携えて原点に帰ってきたアブラムですが、今度はその豊かさゆえの危機に直面します。

 アブラムの甥であるロトも、エジプトまでの旅に同行し、そしてエジプトから帰ってくる道のりをも共に旅していました。エジプトのファラオからたくさんの財産を贈られたのは、ロトも同じであったようです。これが元となって、問題が生じてしまいました。その問題とは、13章5〜7節にある通りです。「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた(13:5-7)」。

 この旅において、アブラムたちはどこまでも異邦人、仮住まいの旅人です。「そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた(7b節)」とあるとおり、旅で滞在する土地には別の民族が住んでおり、彼らが天幕を広げて生活を営める場所は限られていました。そのため、なおのこと争いを続けるわけにはいきませんでした。カナン人やペリジ人、つまり神様を知らない人々の前で争いを続けることは、そこに共同体の弱さ・脆さを見せつけることになるからです。そればかりか、異邦人たちに主なる神様なんて大したことないと思わせることになりかねないのです。

弱さから出た提案
 このような危機に直面したアブラムは、これまで旅を共にしてきた甥と、行く道を別れることを提案します。さらには、年長者の自分から行き先を決めるのではなく、先に甥のロトに選ばせ、自分はその反対に行こうという提案をしました。ロトは自分にとっての利益をもたらすものは何かという考えに基づいて、よく潤っている土地を選択し、アブラムは甥とは反対の道を行くという選択をしました。

 ここでのアブラムの提案は、確固たる神様への信頼があり、謙遜で、信仰の父として呼ばれるにふさわしいと言えるでしょう。年長者の自分よりも、甥が好きな土地を選べるようにさせ、自分の進む道は神様に委ねたからです。
しかしここには、もう一つの見方があります。このときのアブラムの選択は、彼の弱さゆえの決断の放棄とであるという見方です。飢饉に直面したとき、神様に信頼するよりも自分で自分の身を守ろうとしたアブラムは、今度は自分の行く道を年下の甥に委ねるという弱さを発揮したということです。エジプトでの出来事のあと、彼は自信を失ったままだったのかもしれません。そう考えますと、甥のロトは自分と家族のため、また自分と共に歩む者のために、最善と思われる道を決断したと言えます。人の目によく潤っていて、自分たちが路頭に迷うことのなさそうな、そういう道を選び取ったのです。年長者のアブラムに対して遠慮がないとも言えますが、でも人として当たり前の判断をしたのです。もし創世記がイスラエルの歴史を残すためだけの書物であるなら、むしろロトのほうが人間的に優れた家長としてさえ描かれるかもしれません。しかしここで揺るがないことは、どのような弱さを持っていようが、聖書はアブラムをイスラエルの歴史の始まりとして、また信仰の父として語っているということなのです。そのように神様がアブラムを選んだからです。

 アブラムは、ネゲブ地方で飢饉に遭い、自分の知恵を頼りにエジプトに逃れることを選びました。そして、そこでなんとか生き残り、かつ自分に利益をもたらすために妻を妹と偽りました。危機に直面したときこそ、その人の生き方が問われるし、弱い部分が表にあらわれます。アブラムや私たちにおいては、危機に直面したときに、いかに神様に委ね、信仰に立ち続けるかということであろうと思います。エジプトでの出来事を通して、アブラムは劇的に回心して、信仰の父としてふさわしい姿を見せたのかもしれません。もうあのような失敗はしない、自分の行く道は、自分の知恵によって定めるのではなくて、いつも神様に委ねて進んでいくのだと決意した、それが13章のアブラムの姿であると言えるでしょう。しかし一方で、私たちの弱さは簡単に変わるものではないこともまた、事実であろうと思います。

 ロトが去っていたあと、アブラムはきっと自分の弱さに打ちひしがれていたでしょう。これが神様に示された道だ、さあ行こう、と肚を括って前に進んでいくよりも、自分のしたことに嘆いていたかもしれません。もしかしたら、アブラムの家畜を飼う人々からは、なぜロトにあんないい土地を譲ったんですか、年長者のあなたが先に選べばよかったじゃないですかと責められていたかもしれません。そうなったらいよいよ自分の弱さばかりを見てしまいます。自分の弱さと罪に打ちひしがれ、自信をなくして下を向いていたであろうアブラムに、神様は「さあ、目を上げなさい」と語りかけます。

(結び) さあ、目を上げなさい 
 ロトとアブラムが道を分かつ場面には、 「目を上げて」という言葉が2回出てきます。1回目の「目を上げて」は、ロトがアブラムに促されて進む道を選ぶときでした。そして彼が目を上げて見た「よく潤っていた」土地は、自分が求めるもの、つまり自分に利益を与えるのはどこかという視点で見つけたものでした。2回目の「目を上げて」は、神様がアブラムに「目を上げて・・・見渡しなさい(14b節)」と言われたときでした。アブラムの目に映ったのは、神様から与えられる土地、神様からいただく恵みでした。アブラムは、神様から見える限りの土地をあなたとあなたの子孫に永久に与えるという約束を聞き、ヘブロンという土地にあるマムレの樫の木のところに来て、そこにしばらく留まりました。そしてそこでも神様を礼拝して生活したのです。

 このマムレの樫の木というのは、アブラムの人生にとって象徴的な場所であると思います。マムレの樫の木のそばに住んでいるときに、神様はアブラムに星空を見せて、あなたの子孫はこの星の数のようになると約束されました。また、アブラムのもとに訪ねてきた三人の御使をもてなしたのも、アブラムの息子イサクの誕生が告げられたのも、このマムレの樫の木のそばにいるときでした。そして、彼の妻サライを葬るために、アブラムはマムレの樫の木の近くに土地を買い、それがアブラムがその生涯で与えられた唯一の土地となりました。弱さに打ちひしがれていたアブラムに、神様が約束された土地のほんの一部が与えられ、アブラムは地上の歩みを終えました。

 アブラムに与えられたのは本当にほんの一部の土地でした。しかし確かに、ほんの一部の小さなところから、神様の約束は実現されていったのです。その約束の実現は、目を上げて、私の与えるものを見なさい、という神様の言葉を受け取らなければ、見ることのできないものでした。このあとのアブラムの姿は、劇的に変わっていつも信仰の父たる者の姿だった、とは言えません。サライとの間にイサクが与えられることを神様から告げられたアブラムは、そんなこと起こるわけないと信じず、神様にひれ伏しながらも笑っていました。またゲラルという場所に滞在したときにも、サライのことを妹と偽りました。このように、アブラムは変わらず弱さを持っていました。しかしそれ以上に、神様の約束は変わることなく、アブラムを用いてご自分の約束を実現されていったのです。「目を上げて」神様の約束を見る、とは、私たちの弱さ、罪の姿を丸ごと受けとめ、深く憐れみ、深く愛する神様のご計画が、自分のためのものだと受けとることなのです。

 長い間、私はアブラムあらためアブラハムという人は、信仰的な失敗のない人というイメージを持っていました。「信仰の父」と呼ばれるにふさわしい部分だけを蓄積させていったからだと思います。でも創世記をじっくり読み、アブラムの人生の旅路を味わえば味わうほど、彼は小心者で、自分に自信がなくて、信仰が問われる場面では神様から離れる選択をしてしまう、私たちの姿を重ね合わせられる人だなあと思わされます。そういうアブラムが、また私たちが、神様よりも自分の知恵や利益を優先させて失敗しても、神様はあきらめない、見放さない、神様と共に歩む道へと再び導いてくださる。そのことをアブラムの旅路を追う私たちに語られているのです。アブラムが「信仰の父」と呼ばれるのは、信仰的失敗によって何度落ち込もうとも、そのたびに神様の語りかけに応えて、その約束の実現を信じながら旅を続けたことにあるのだと思います。


 神様が信仰の父アブラムになさった約束は、私たちにまで広がり、イエスさまの十字架と復活の出来事を通して、すでに成就されました。この救いの約束の実現を信仰によって受け取りましょう。そして目を上げて、神の国で生きる永遠の命が与えられるという、さらなる約束の実現を待ち望みたいと願います。私たちが先のことを案じても、できることは限りがあります。しかし神様はそのような私たちのために、永遠の希望を約束してくださっています。どんなに私たちが弱く、罪に生きる愚かな姿をさらそうとも、神様は約束を放棄されません。それどころか、そのような私たちのために折に触れて語りかけてくださるのです。「さあ、目を上げて、私の約束を見なさい」。私たちは、順調なときも、危機に直面して自分の弱さに打ちひしがれるときも、目を上げて、神様の約束を希望にして歩んでいくのです。

2022年11月6日日曜日

「主に不可能なことがあろうか」

創世記 18:1-15

 今日読まれた旧約聖書にはアブラハムとサラという夫婦が出て来ました。彼らはイスラエルの先祖となる人たちです。神が彼らに与えた約束はこうでした。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(13:16)。私たちはその約束が後にイスラエル民族として現実となったことを知っています。しかし、当時、アブラハムにはまだ一人の子供もいませんでした。

 それから長い年月が経ちました。相変わらず、アブラハムとサラにはまだ一人の子供もいませんでした。そして、既にアブラハムもサラも年老いていました。神の約束はどうなったのでしょう。今日お読みしましたのは、そんなある日の出来事です。

天使の来訪
 神様は天使をアブラハムのところに遣わしました。しかし、一目で天使とわかるような姿で遣わしはしませんでした。アブラハムに分からないように、三人の旅人の姿で、天使たちを遣わしたのです。

 三人の旅人がアブラハムの住んでいた天幕(テント)の近くを通りかかりました。本当は天使なのです。しかし、アブラハムは知りません。アブラハムはどうしたでしょう。その旅人たちをとても親切にもてなしたのです。その様子が18章1節から8節にかけて書かれています。彼が旅人をもてなす姿が、極端と思えるほどに際だった形で描き出されています。

 アブラハムは言いました。「水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください」(5節)。そう言って、アブラハムは旅人たちのためにご馳走を用意しました。そして、彼らが食べている間、そばに立って自ら給仕してもてなしたのでした。

 その人たちが神の御使いだからではありません。アブラハムは知りませんから。恐らく普段からそのように旅人をもてなしていたのでしょう。天使に仕えるかのように、人々に親切に仕えることを常としていたのでしょう。そのような生活をもって、はからずも天使たちをもてなすことになりました。それはひいては神様をもてなしたということになろうかと思います。

 それゆえに、新約聖書にこんな言葉が書かれています。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(ヘブライ13:2)。誰かのために何かをする時に、「なんでわたしがこんなことをしなくてはならないのか」と不平を言いながら行うこともできます。しかし、「もしかしたら気づかずに天使たちに仕えているのかもしれない」と思いながら行うこともできるのでしょう。ならば、仕え方もずいぶん違ってくるかもしれません。

サラの笑い

 さて、そのように神様から遣わされた、旅人の姿をした天使たちは、アブラハムの心のこもったもてなしを受けました。しかし、彼らは食事をしに来たわけではありません。神の御言葉を伝えにきたのです。

 天使の一人が言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10節)。アブラハムはこれを聞いてびっくりしたと思います。そして、気づいたに違いありません。この人たちはただの旅人ではない。この人たちは、「子孫を与える」と言われた神の約束を知っている。この人たちは、神の御言葉を伝えに来てくれたのだ、と。

 しかし、神様の御言葉を信じることは、とても難しいことでした。アブラハムは既に年を取っていましたから。とても男の子が生まれるとは思えません。それは、妻のサラも同じでした。サラもこの言葉を、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていました。そして、聖書にはこのように書かれているのです。「サラはひそかに笑った」。

 この「ひそかに笑った」という言葉は、サラをとても身近に感じさせます。確かにこういうことは私たちにもあるのでしょう。あからさまには笑わないのです。アブラハムもサラも、神様を信じている信仰者ですから。「そんなこと、いくら神様でもできないでしょう」と言って笑い飛ばすようなことはしません。

 でも、ひそかに笑うのです。「そんなことあるかいな」「そんなこと言ったって、現実はそう甘くはないですよ」。「信仰は信仰、現実は現実です」と、そう心の中でつぶやいて、ひそかに笑うのです。「サラはひそかに笑った」。サラの気持ちはよくわかります。

 しかし、人間にとって「ひそかに」であっても、神様はすべてご存知です。彼らの一人が言いました。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。…」(13‐14節)。それはまさにすべてをご存知である神様の言葉でした。ですから聖書には天使が言ったとは書いてない。「主はアブラハムに言われた」と書かれているのです。そう、主が言われたのです。

 サラはドキッとしたことでしょう。神が語られるということは、すべてをご存知である神が語られるということなのです。そこで、サラは恐ろしくなりました。サラは偽りの後ろに隠れようとしました。彼女は打ち消して言います。「わたしは笑いませんでした」。しかし、もとより神様から隠れられるはずがありません。主は言われます。「いや、あなたは確かに笑った」。

笑いを与えてくださる神
 教会生活の中で、神様との関わりの中で与えられる一つの経験は、神様は何もかもご存知だと実感するという経験です。「いや、あなたは確かに笑った」と聞いた時のサラのように。

 しかし、すべてをご存知である御方は、恵み深い御方でもあるのです。「主に不可能なことがあろうか」という問いかけは、ひそかに笑ったサラの不信仰を責める言葉ではありませんでした。そうではなくて、「信じなさい」という呼びかけに他ならなかったのです。ですから、サラのひそかな不信仰にもかかわらず、こう続けられているのです。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」(14節)。

 「サラはひそかに笑った。」しかし、主はそんなサラに、本当の「笑い」を与えようとしておられたのでした。

 主の約束のとおり、やがてサラはみごもって男の子を産みました。そして、その子は「イサク」と名付けられることになるのです。その名前は「彼は笑う」という意味です。その時にサラが口にした言葉が次のように記されています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」(21:6)。

 サラは心から笑えるようになりました。神の御言葉を信じることができなくて、心の中でひそかに笑っていたサラでした。しかし、主は、そんなサラが神の御業を見て心から笑えるようにしてくださいました。――「主に不可能なことがあろうか」。

主に不可能なことがあろうか
 それから1800年ほど経ったある日、神様は天使を一人のおとめのところに遣わしました。今度は旅人の姿ではありません。その天使は名はガブリエル。おとめの名前はマリアと言いました。ガブリエルはマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました。いわゆる「受胎告知」の場面です。マリアは言いました。「どうしてそんなことがありまえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。するとガブリエルはこう言ったのです。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)。

 聖書が神の言葉として私たちに語っていることは、老人に子供が生まれることよりも、はるかに大きなことです。神の独り子が人間となりこの世に来られた、というのです。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。

 それだけではありません。神の独り子が十字架にかかられ、すべての人の罪を代わりに負って死なれた。すべての人の罪の贖いは成し遂げられた。罪の贖いを成し遂げて死なれたイエスは、復活させられ、天に挙げられ、今も生きておられる。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。

 本来何よりも不可能なことは、罪深い私たちが救われることなのでしょう。こんな私たちの罪が赦され、救われ、永遠の命を与えられ、死を越えた希望をもって生きられること。それこそ本当は不可能な、信じがたいことなのでしょう。やがて罪と死から完全に解放されて、神の栄光にあずかることになる。主は私たちの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。悲しみの故の涙も、怒りと憎しみのゆえの涙も、挫折と絶望の涙も、すべて過去のこととなるのです。そんなことがどうしてありえるでしょうか。しかし、聖書は言うのです。「主に不可能なことがあろうか」。

 サラにとってそうであったように、私たちにとっても、これは「信じなさい」との呼びかけの言葉に他なりません。主は私たちに「信じなさい」と呼び掛け、やがて本当の笑いを与えてくださるのです。やがて私たちはその約束の実現を見て、心から笑うことになるのです。


(祈り)

2022年10月9日日曜日

「勝利者となるために弱くされた人」

創世記 32:23‐33

ヤコブという名を持つ男
 今日の聖書箇所にはヤコブという人物が出てきました。彼は兄エサウと双子の兄弟でした。その双子は母親の胎内にいたときから既に先を争っていたようです。そして、生まれた時、先に出てきたエサウのかかとをつかんで出てきたのが弟のヤコブでした。「先に行かせてたまるか!」という格好で生まれたのです。

 「かかと」はヘブライ語で「アーケーブ」と言います。これが動詞になりますと、「かかとをつかむ」という言葉になりまして、私たちの言葉で言いますと、「足を引っ張る」とか「出し抜く」というような意味になります。ヤコブという名前は、そのような言葉に由来すると聖書では説明されています。

 「名は体をあらわす」と言われます。ヤコブという人物は、その名の通り「人の足を引っ張り、人を出し抜く人」として成長していきました。彼は産まれた時には長子になれませんでした。しかし、策略を用いて兄エサウから長子の特権を奪います。また、父のイサクを騙して、長子の祝福を奪います。その話は創世記25章と27章に出ていますので、後でゆっくり読んでみてください。

 望むものをまんまと手に入れたヤコブでした。しかし、当然の事ながら、彼は兄エサウから憎まれることになります。兄エサウは必ず弟のヤコブを殺してやると心に決めていました。それを知ったヤコブは、兄のもとから母の故郷であるハランへと逃れていくことになりました。そして、実にその逃亡生活は20年に及ぶことになるのです。

 そのようなヤコブに、ついに故郷に帰るべき時がやってきました。主が夢の中でヤコブに告げたのです。「さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」。ヤコブとその家族は主の導きに従い、ハランを後にしました。しかし、そこにはまだ大きな問題が未解決のまま残されておりました。そうです、まだエサウと和解してはいないのです。

 ヤコブは、あらかじめ兄エサウのもとに使いを遣わしました。すると、使いはエサウがこちらへ向かっているとの知らせをもって帰ってきました。しかも、エサウは四百人もの野郎共を引き連れてやってくると言うのです。ヤコブは震え上がりました。そこでヤコブが祈った言葉が32章10節以下に記されています。

 「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。 …どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と」(32:10‐13)。

 ヤコブは、そのように神に救いを祈り求めます。しかし、もう一方において、彼は取り得る方法を思い巡らしておりました。これまで人の足を引っ張り、人を出し抜くために用いてきた頭脳をフル回転させて、ヤコブはこの危機を乗り切るための策を講じます。彼は自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物として、山羊や羊、らくだや牛などを選びました。そして、それぞれの群れを召使いに託して、贈り物の行列を作ったのです。彼は召使いにこう言わせることにしました。「これはあなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります」と。

 そのように、私たちもまた、目の前に問題があれば、その問題をなんとか解決しようとして策を講じます。その問題そのものを解決し、取り除こうといたします。しかし、聖書はいつでも、本当の問題は何なのかと私たちに問いかけます。実は、ヤコブにとって解決されなくてはならない最大の問題は、兄エサウとの関係ではなかったのです。そうではなく、神との関係だったのです。今日の聖書箇所はそのことを私たちに示しているのです。

祝福してくださるまでは離しません
 23節以下を御覧ください。「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません』」(32:23‐27)。

 まことに奇妙な話が書かれています。「何者かが」と書かれていますが、これは何者なのでしょう。これは人のようであるし、天使のようであるし、後の言葉からすれば神でもあるようです。良く分かりません。しかし、いずれにせよ、このような表現をもって、その夜のヤコブの経験が描写されているわけです。確かに、不安と恐れに満ちた夜を過ごすヤコブにとって、その夜の経験というものは《何者かとの格闘》――究極的には神との格闘――に他ならなかったのです。

 では、その格闘の中で一体何が起こったのでしょう。聖書は何と伝えているでしょう。――ヤコブの腿の関節がはずれたのです。それは相手に打たれたからです。打たれて弱くされたのです。それまでヤコブは強かったのです。相手を打ち負かすほどに強かったのです。しかし、そのヤコブが打たれて弱くされました。腿の関節がはずれたらどうなるでしょう。足を引きずらざるを得ません。もはやエサウが襲ってきても、戦うことはできません。逃げることすらできません。絶体絶命です。

 そのように、神が人に関わられ、その人生に入って来られる時、神は時としてこのような弱さを与えられます。神は人間を打って、あえて弱さを与えられるのです。それまで自分の力でどうにでもなると思っていた人間が、神にさえ打ち勝てると思っていた人間が、神に打たれて徹底的に弱くされるのです。もはや自分の力で戦うこともできません。逃げることすらできなくなります。

 その時、人はどうしたら良いのでしょう。ヤコブはどうしたのでしょうか。ヤコブはしがみついたのです。「祝福してくださるまでは離しません」と言ってしがみついたのです。彼はそのように、ただひたすら神の祝福を求めたのです。彼は気が付いたのです。エサウとの関係が問題なのではない。それ以前に神との関係が問題なのだ、ということに。

お前の名はイスラエル
 しがみついて離さないヤコブに対して、その人は尋ねました。「お前の名は何というのか」。彼は「ヤコブです」と答えます。先ほど申しましたように、ヤコブという名前は「足を引っ張る」「出し抜く」という意味の言葉に由来します。「わたしはヤコブです」――そう答えることは、彼がこれまでどのように生きてきたかを認める、ということに他なりませんでした。

 「わたしはヤコブです。出し抜くものです。そのように人を出し抜いてでも、前に出ようとしてきた者です。そのように自分の力によって、未来を切り開こうとしてきた人間です。そうです、そのようにして、自分の力で、この危機をも乗り越えようと、いろいろ考えを巡らしました。策を講じました。しかし、今や、わたしは弱くされました。もはや逃げることすらできません」。――「わたしはヤコブです」とは、そのように彼の生き様とその破れと弱さのありのままを神の前に認めることに他なりませんでした。

 しかし、「わたしはヤコブです」と答えた彼に、その人は――すなわち神は――こう言われたのです。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(29節)。ヤコブは新しい名前を与えられました。もうヤコブではありません。イスラエルです。「イスラエル」という名前が正確に何を意味するのかは難しい問題ですが、ここでは「神と人と闘って勝った」から、と説明されています。なんと驚くべき言葉でしょうか。そこにいるのは、打たれて弱くされて、もはや足を引っ張ることも出し抜くこともできない、ただすがりつくことしかできないようなヤコブなのです。しかし、そのようなヤコブに対して、神は「お前こそイスラエルだ。真の勝利者なのだ」と言われたのです。

 この出来事を経験した場所は、「ヤボクの渡し」(23節)という場所でした。その場所をヤコブは「ペヌエル」と名付けます。それは「神の顔」という意味です。それはヤコブが「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったからだ、と説明されています。

 先に見たように、ヤコブにとって最大の問題は、エサウと顔を合わせることにありました。少なくとも彼はそう思っていたのです。しかし、本当に顔を合わせなくてはならない相手は、エサウではありませんでした。そうではなくて神だったのです。そして、エサウと顔を合わせることがヤコブにとって危機を意味するように、それ以上に、神と顔を合わせるということは危機を意味したのです。なぜなら、罪ある人間が神と向き合うことは死を意味するからです。

 しかし、「わたしは顔と顔とを合わせて神と見たのに、なお生きている」とヤコブは言いました。これはすなわち「わたしは赦された」ということに他なりません。神の祝福は、神の赦しと共に与えられたのです。それはエサウから赦されること以前に、まずヤコブにとっては必要なことだったのです。

 そして、「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った」(32節)という印象深い描写が続きます。彼は足を引きずっています。彼は神に打たれて弱さを与えられました。しかし、不安と恐れの闇夜はもはやそこにはありません。彼は確かに朝の光の中を歩んでいるのです。そのような朝を、後のイスラエルの民もまた幾度となく経験しました。そして、私たちもまた同じです。私たちもまた、ヤコブからイスラエルとされた者として、闇夜に身を置く者から朝の光の中を歩く者へと招かれているのです。

(祈り)

2022年5月22日日曜日

「他者のために祈る」

創世記18:20‐33

わたしは降って行き、見て確かめよう
 今日の聖書箇所には「ソドムとゴモラ」という二つの町の名前が出てきます。神に滅ぼされた町として知られる二つの町です。そのような聖書箇所ですので、ここを読むに当たりましては、やはり「神の裁き」について考えることは避けて通れません。そこでまず、主がこの二つの町について語っている言葉に耳を傾けることにしましょう。20節を御覧ください。「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう』」(18:20)。

 ここは注意深く読まねばなりません。ソドムとゴモラの悪に対する神の判断が先にあるのではありません。人間の判断が先にあるのです。神の裁きが下される前に、人間が神に訴える叫びがあるのです。原文では「ソドムとゴモラの叫び」となっていますので、外からの叫びではなく、内部からの叫びと言ってよいでしょう。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と訴える内部の人間の叫びがあるゆえに、主はその現実が叫びの通りであるかどうかを確認しに降りてくる。そのような書き方がされているのです。

 このように人間の訴える声の方が先にあるという記述は、私たちの経験とも符合していると言えます。実際そうではありませんか。私たちは神によって指摘されるまでもなく、この人間世界に罪があり悪があることは分かっているのです。私たち自身がこの世の悪、隣人の悪によって不当に苦しめられているならば、なおさらその悪の存在ははっきりと認識できるのでしょう。実際、私たちは自分に対するものでなくても、悪が放置されることを望みません。この世の悪が正しく裁かれることを願うのでしょう。

 確かに多くの人は「神の裁き」という言葉を好まないかもしれません。「最後の審判」という言葉が大好きであるという人にお会いしたことはありません。しかし、もう一方において、人は正しい裁きを求めているものです。神が裁く前に、この世の悪を訴え、正しい裁きを求める人間の叫びがあるのです。

 しかし、神は人間の訴えに従ってこの世を裁くのではありません。事実に基づいて裁かれるのです。ですから、事実を調べに降りてこられるのです。ここではそのような書き方がされております。そのように、決定的に重要なのは、《神が》どうご覧になるのか、ということなのです。

 そうでありますならば、他者の悪を訴えて叫んでいる時、降って来られた神の目には別の事実が目に留まっているかもしれません。叫んでいる人は自らを正しい人の側に置いて叫んでいるのでしょう。しかし、そこではその人自身の罪という事実が目に留まっているかもしれません。いずれにせよ、審判はすべての事実を《神が》どう判断されるかに基づいて下されるのです。

正しい者がいるならば滅ぼさない
 しかし、話はそこで終わりません。ここには実に奇妙なことが書かれています。しかも、そのためにかなりのスペースが割かれております。アブラハムと主なる神との間に、あたかも《値引き交渉》のようなやりとりが展開するのです。アブラハムは、主なる神から「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」(26節)という言葉を引き出します。そして、ついにその五十人を十人にまで引き下げることに成功するのです。主は「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(32節)と言われるのです。

 このやりとりの内容については後で触れるとしまして、そもそもどうしてこのような対話となったのかを考えてみましょう。それは言うまでもなく、ソドムとゴモラに対する神の裁きの計画をアブラハムが知ったからです。より正確に言いますならば、主なる神が自らアブラハムに打ち明けたのです。17節にこう書かれています。「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか』」。主なる神が明かしてしまったためにこの《値引き交渉》になったのですから、そもそもその種を蒔いたのは主なる神御自身に他なりません。

 考えてみますと、このように神が誰かに御自分の裁きの計画を話される場面は、聖書の中に一つや二つではありません。有名なノアの箱舟の話もそうでしょう。神は御自分の計画をノアに事前に打ち明けるのです。また、聖書に数多く登場する「預言者」という存在もまた、その事実を示しています。神は預言者を通して裁きの計画を人々に語り聞かせるのです。

 もし悪を行う者を滅ぼすことが本来の意図であり神の願いであるならば、神は黙ってそれを行えばよいはずではありませんか。しかし、神はそうなさらない。要するに、ここから明らかなことは、罪を裁いて滅ぼしてしまうことが神の本来の意図であり願いではない、ということなのです。

 そのような神の御心は、このアブラハムとのやりとりの中にも良く現れております。アブラハムが最初に問うたのは、「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(23節)ということでした。その町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼされるのかと問うたのです。しかし、アブラハムはさらにこう問いかけました。「その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」明らかにここには論理の飛躍があります。正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすことが理不尽ならば、正しい者だけを救えばそれで良いはずです。なにも町全体をお赦しになる必要はありません。しかし、神はこの飛躍した論理を受けとめて、こう答えられるのです。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、《町全部を赦そう》」(26節)。

 そこから、先に触れましたように、アブラハムの交渉が始まります。彼は言いました。「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか」。すると主は言われます。「もし、四十五人いれば滅ぼさない」。そして、主の言葉は最終的に「その十人のためにわたしは滅ぼさない」というところにまで至ります。そこでこの場面はやや唐突な仕方で閉じられることになります。「主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った」(33節)。

 なぜ十人までで話をやめてしまったのでしょう。それは恐らくアブラハムには主の言わんとしていることが分かったからだと思います。これを読んでいる私たちの目にも明らかです。この対話を読んで「ああ九人ではだめなのだな」と考える人はよほど鈍い人です。主は人数を問題にしているのではないのです。正しい者が本当に存在するか否かを問題にしているのです。ソドムとゴモラの罪を覆い、滅びから救うことができるほどに正しい人間がいるかどうかを問題にしているのです。ですから、究極的には《一人でも》本当に正しい人がいるならば、神は「町全部を赦そう」と言われるのです。

ただ一人の正しい御方
 そして、そのような究極的な神の赦しの御心は、後に預言者を通して明らかにされることになります。イザヤ書53章をお開きください。(1149ページ)。52章13節から始まるこの箇所は「苦難の僕の歌」として知られている箇所です。本当はこの全体をぜひじっくりと読みたいところですが、ここでは最後の部分だけをお読みいたします。この歌は次のような主の言葉によって締めくくられています。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(イザヤ53・11後半‐12)。

 細かい話になりますが、今読みました最初の部分は「義なるわが僕は…」と訳すことができる言葉でありまして、そのように訳している聖書も少なくありません。私もその方が良いと思います。ここには一人の正しい人が出てくるのです。この人は、たった一人で多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをするのです。そして、彼のゆえに多くの人がその罪を赦され、正しい者とされるのです。主なる神は、この一人の正しい人のゆえに、多くの人を赦される。それが神の御心なのです。

 しかし、問題はあのアブラハムと神との対話の場面と同じです。そのような正しい人が本当にいるのかどうか、ということです。人数の問題ではないのです。たった一人でもそのような正しい人がいるかどうかなのです。果たして、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをすることのできる正しい人が本当にいるのでしょうか。この私やあなたの過ちを担い、背いた私やあなたのためにも執り成してくれる正しい人が本当にいるのでしょうか。

 その切実な問いに対して、聖書は「いる。確かにいるのだ」と答えているのです。そして、一人の御方を指し示すのです。十字架の上ですべての人の罪を担い、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成し祈られる一人の正しい御方、イエス・キリストを指し示しているのです。

 その正しい一人のお方がおられなかったら、罪ある私たちのいかなる祈りも意味を持たないでしょう。私たち自身も神の正しい裁きのもとにあるのですから。何を祈ろうが、私たち自身、滅びを宣告されて終わるだけでしょう。ただ一人の正しいお方がおられなかったら、罪あるこの世についてのいかなる祈りも、他者のためにささげるいかなる祈りも意味を持たないでしょう。罪あるこの世界は、滅びを宣告されて終わるだけの話です。

 しかし、聖書は「そうではない」と語るのです。この世界はキリストが来られた世界です。唯一の正しいお方が、すべての罪を担って十字架におかかりくださった世界です。だから、私たち自身が祈ることには意味がある。自分のためだけでなく、罪に満ちたこの世界のために祈ることにも意味がある。その意味において、ソドムとゴモラのために神の前に立ち続け、赦しを求めたあのアブラハムの姿は私たちのあるべき姿でもあります。私たちは、このキリストのゆえに、私たちのために執り成し祈るキリストと一つになって、キリストの体として、私たちもまた他者のために、この世界のために祈ることが許されているのです。

(祈り)

2019年11月10日日曜日

(子ども祝福礼拝) 「あなたはこの世界の祝福となる」

創世記12:1-9

祝福とは何か
 祝福を受けた子どもたち、皆さん、どこに座っていますか。ちょっともう一度手を挙げて見せてくださいますか。神様は今日皆さんをここに招いて祝福してくださいました。今日は、特に祝福を受けた皆さんにお話ししたいと思います。よく聞いていてくださいね。そして、わたしがお話しするだけでなく、神様が皆さんの心に語りかけてくださいますから、よく耳を澄ませて聞いてください。

 今日は「子ども祝福礼拝」です。「祝福」とは何でしょう。「祝福」とは、神様がよいものをいっぱい与えてくださることです。神様がよいものをいっぱい与えてくださって、命に満ち溢れさせ、未来を開いてくださることです。そうです、神様が祝福して未来を開いてくださるのです。

 ですから、昔の人たちにとって神様の祝福と言えば、例えば、農作物がたくさん取れることだったのです。例えば、羊がたくさん子を産んで、羊がどんどん増えていくことだったのです。例えば、子どもがたくさん生まれて、一族が増え広がって繁栄することだったのです。

 もちろん、豊作も多産も繁栄も神様の祝福であると言えるでしょう。しかし、神様がくださる目に見えるものばかりに注目すると、大事なことを見落としてしまいます。一番の祝福とは何でしょう。神様がくださる一番よいことって何でしょう。それは神様が一緒にいてくださることです。神様が恵み深い御方として、いつも一緒にいてくださることです。

 ですから、聖書にはこんな祝福の言葉が出て来ます。「アロンの祝福」と呼ばれる聖書の中で有名な祝福の言葉です。聞いていてくださいね。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし
   あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
   あなたに平安を賜るように。」
           (民数記6:24-26)

 「主が御顔をあなたに向けてくださいますように」というのは、「神様が一緒にいてくださいますように」というのと意味としては同じです。

 一番の祝福は神様が優しい御顔を向けてくださることであり、神様がそのようにして一緒にいてくださることです。だから、今日、私も皆さんを祝福するときに、「主が共にいてください」とお祈りしました。だから、神様は恵み深い御方として、皆さんのことをいつも見ていてくださいますし、そのようにして一緒にいてくださいます。

祝福の約束を受けた人
 さて、今日の聖書箇所には、神様から「わたしはあなたを祝福する」と言われた人が出て来ました。アブラハムです。アブラハムはもともと「アブラム」という名前でした。神様はアブラムにこのように言われたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 神様が祝福して未来を開いてくださいます。神様は開かれるべきアブラムの未来を指し示しながら、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われました。アブラムにはまだ何も見えていません。未来のことですから。しかし、神様には見えているのです。大いなる国民が見えているのです。アブラムの子孫が増え広がって一つの国になることが見えているのです。祝福とはそういうものです。まだ見ていない未来を約束として受けるのです。

 しかし、それはただ祝福される人自身のためではありません。「祝福の源となるように」と主は言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。「祝福の源」というのは、アブラムから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな言葉ですね。実は、もともとの聖書のヘブライ語では「あなたは祝福となるように」と書いてあるのです。

 祝福されて祝福となるのです。アブラハムは祝福されて、今度は誰かにとっての祝福となるのです。神がアブラムを祝福するのは、ただアブラムのためではありませんでした。それはこの世界に祝福をもたらすためだったのです。ですから、主はアブラムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われたのです。

 同じように、神様が皆さんを祝福するとするならば、それは単に皆さんが幸せになるためではありません。皆さんは、この世界の祝福となるためです。皆さんがこの世にいることによって、神様の祝福がこの世界にもたらされるのです。皆さんがこの世に存在することによって、神様が恵み深い御方として共にいてくださり、恵みの御顔を向けてくださり、平和を与えてくださるのです。

 大人の人たちも一緒にお祈りしました。子どもたちの上に祝福を祈り求めるということは、子どもたちがこの世界の祝福となることを祈り求めることでもあるのです。それは私たち自身についても同じです。私たちが、そして教会が祝福を求めるということは、私たち自身が隣人にとって、またこの世界にとって祝福となることを求めることでもあるのです。

神に信頼する新しい生活
 そのように、神様はアブラムを祝福すると言われました。しかし、その前に神様が何と言っているか、もう一度聞いてみましょう。神様は一言、このように言っています。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』」(1節)。――そう、神様は旅に出なさいと言われたのです。

 アブラムはもともとハランというところに住んでいました。ハランはとても豊かな土地でした。そこでは親戚も一緒に住んでいました。そこには知っている人がたくさんいました。そこで生活していれば安心でした。

 しかし、神様はアブラムに安心していられるその場所を離れて旅に出なさいと言われたのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。どこに向かって旅するのか、分かりません。「わたしが示す地」としか言われないのです。神様がどこに連れて行こうとしているのか、アブラムは知りませんでした。

 皆さんだったらどうですか。知っている人たちを離れて、知らないところに向かって旅に出なさい、と言われたら。きっと不安でしょうね。どうなってしまうんだろうと心配でしょうね。アブラムもきっと、とても心配だったと思います。しかし、聖書にはこう書かれているのです。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」。

 アブラムは先のことを思い煩って、頭の中の思い煩いに留まっていませんでした。そうではなくて、神様に信頼して実際に一歩を踏み出したのです。そこから、神様に信頼して生きていく新しい生活が始まったのです。神様はそのような新しい生活を、祝福の約束と共に差し出されました。アブラムは、神様に信頼して生きる新しい生活を、祝福の約束と共に受け取ったのです。

 神様への信頼。アブラムに求められたのは、それだけでした。神に全幅の信頼を置いて生き始めること。神が求めておられるのは、単によい人間になることでも有能な人間となることでもないのです。この世界の祝福となるために、「もっと優しい人であれば」「もっと力があれば」「健康でさえあれば」「もっと若ければ」「もっと有能であれば」と人は思うかもしれません。しかし、もし若さが重要であるならば、もっと若い時にアブラムを旅立たせたことでしょう。彼は召された時75歳だったのです。そんなことは神様にとってはどうでも良かったのです。祝福は人から出るのではないからです。わたしはあなたを祝福すると主は言われる。祝福は神から来るのです。だから求められているのは、その神様にどこまでも信頼して共に歩む人となることなのです。

祭壇を築きながら
 さて、神様に信頼し、御言葉に従って旅立ったアブラムは、その後、どうなったでしょう。アブラムは神様に導かれて、ハランからカナン地方に向かって進みました。やがてカナン地方に入ります。そして、こう書かれているのです。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(6節)。

 「わたしが示す地に行きなさい」。そう主が言われて着いたところにはカナン人が住んでいました。先に住んでいる人たちがいるところに、後から入って行くのなら、よそ者扱いをされることになります。旅に出る前にハランにいたときにはなかった困難がそこにはあったことでしょう。

 しかし、そこで主は言われました。「あなたの子孫にこの土地を与える」。主はアブラムに開かれた未来を示すのです。そして、7節と8節に繰り返されている言葉があります。「祭壇を築いた」という言葉です。この「祭壇を築いた」という言葉をよく覚えておいてくださいね。

 「祭壇」というのはお祈りの場所です。彼はシケムにおいて、そこで祭壇を築いた。祭壇は石で作ります。石を積み重ね、一生懸命に祭壇を築いた。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住むと、そこにまた祭壇を築いた。「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)とあります。主の御名を呼ぶとは、言い換えるならば「祈った」ということです。そのように、祭壇とは祈りの場所です。

 祭壇を築きながら旅をするということは祈りながら生きていくということです。神様に信頼して生きる新しい生活が始まったと言いましたけれど、それは具体的にはお祈りしながら生活していくことです。祭壇を築くとは「お祈りの生活を築く」ということです。

 今日、祝福を受けた皆さん、よく覚えておいてくださいね。大切なことは、どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、どんな困難の中に置かれても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。日曜日には神様を礼拝し、毎日、神様にお祈りしながら生きていく、そのような生活を築いていくことです。神様の祝福はそのような皆さんと共にあります。そして、皆さんはこの世界の祝福となるのです。
 (祈り)

2019年10月27日日曜日

「光あれ!」 

創世記1:1‐5

 本日の第一朗読では、創世記に書かれています天地創造物語の冒頭部分が読まれました。私たちは今日、特に3節の言葉を心に留めたいと思います。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)。

地は混沌であり
 その前の節において、「光あれ」と神が言われる前の状態が次のように描写されています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(2節)。「地は混沌であって」という部分は、以前の聖書協会訳では「形なく、むなしく」と訳されていました。二つの言葉からなる熟語です。聖書に三回しか出て来ません。地は形なく、むなしく、秩序もなく、存在の意味もない。まさに底なしの深みを闇が覆っているような虚無の世界。聖書は「地」――すなわちこの世界――の初めの状態を、そのような言葉をもって表現しているのです。

 その混沌と闇の世界に神が語りかけます。「光あれ」と。すると光があった。そこから全く新しいことが始まります。光と闇とが分けられます。一つ一つの秩序が生まれます。今日は「第一の日」の部分しか読まれませんでしたが、その後続くのは、神の創造の御業によってこの世界が形を取り、秩序があり意味がある世界になっていく物語です。「神は言われた」「そのようになった」が繰り返され、混沌の世界が、神の栄光の表現として造られた世界となっていくのです。

 この素朴な物語には、私たちが生きている「地」をどう見るか、この目に見える世界をどう見るかということについての、聖書の強烈な主張が込められています。それは何か。――この世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えてくださったのは神なのだということです。神の言葉と神の御業がなければ、この世界はもともと混沌であり闇でしかなかったのだ、ということです。そして最も重要なことは、今述べたことの当然の帰結となるわけですが、神から離れてしまうならば、この世界は初めの混沌と暗黒に戻らざるを得ないのだ、ということです。神が光を与えたのですから。神が秩序を与え、意味を与えたのですから。その神から離れてしまうならば、最初に書かれていた、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という状態に逆戻りしてしまうことになるのです。

 今申し上げたことは、聖書の別の箇所において、もっとあからさまに語られております。今から二千五百年以上も前、紀元前七世紀から六世紀にかけて、このメッセージを人々に激しく語った一人の人物がいたのです。その人の名はエレミヤと言います。彼は神に背いたイスラエルの民に、このような神の言葉を語りました。「まことに、わたしの民は無知だ。わたしを知ろうとせず、愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく、善を行うことを知らない」(エレミヤ4:22)と。

 そして、そのような人々が迎えることになる結末を、エレミヤは既に目の前に見ているかのように、このように語るのです。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた」(同23‐26節)。

 そこに書かれています「大地は混沌とし」という表現に見られるのは、先ほど創世記に見た「地は混沌――形なく、むなしく」という言葉なのです。旧約聖書に三回出てきますと言いましたが、その一つです。地は混沌としていた。そのような大地を「わたしは見た」と彼は言うのです。地は形なく、むなしくなり、光を失って真っ暗闇になってしまうことをエレミヤは見ていたのです。この世界に秩序を与え意味を与える神を離れるなら、そのように神に背いた世界はやがて確実に崩壊し、暗闇の中に落ちていくことを、エレミヤは心の目をもって見ていたのです。

 そして、エレミヤが語っていたことが真実であることを、イスラエルの民はやがて自ら歴史において経験することとなりました。ユダの王国は崩壊し、人々が依り頼んでいた神殿は焼き払われ、エルサレムの城壁は崩されて瓦礫の山となり、主だった人々はバビロンに連れ去られ捕囚となったのです。「大地は混沌とし、空には光がなかった。」――確かに、人々は現実にそのような世界を見ることとなりました。「大地は混沌とし、空には光がなかった」――その言葉はまさに彼らの人生における実感だったのです。

 そのような人々にとって、あの天地創造物語は、単なる遠い昔話やおとぎ話ではありませんでした。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」。そう語る初めの状態の描写は、まさに彼らの生きている世界の描写、彼らの生活の描写に他ならなかったのです。

神は言われた「光あれ」
 さて、《彼ら》の話をしてきました。ではそれから二千五百年以上後の《私たち》はどうなのでしょう。現代の多くの人にとって、この創世記の物語は、あまりにも原始的な、あまりにも素朴な物語に聞こえるに違いありません。しかし、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」というこの言葉は、私たちにとっていよいよ身近な言葉となっているのではないかと思うのです。実際私たちは、それこそ文字通り全地について、すなわち地球規模において、その現実を目にし始めているのではないでしょうか。

 しかし、そのように「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という言葉が自分自身との関わりにおいて読まれ、天地創造の物語がまさに《私たちの物語》として読まれる時にこそ、続く3節の言葉が私たちにとって大きな意味を持つのです。その混沌と闇の中に神の言葉が響き渡るのです、「光あれ」と。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)。そこから神の御業が始まりました。混沌と闇の状態を決定的に変えてしまう神の御業が始まりました。そしてこの後、物語は実に秩序正しく進んでいきます。「神は言われた」「そのようになった」「神はこれを見て、良しとされた」という言葉の繰り返しの中で、神の良しとされる秩序ある世界が造り出されていくのです。想像して見てください。この単純な繰り返しによる物語は、バビロンに連れ去られた民、混沌と暗闇を見ていた人々にとって、どれほど大きな慰めと希望を与える物語であったことかと思うのです。

 先ほど、「この世界に秩序と意味を与える神から離れてしまえば、この世界は初めの混沌に戻らざるを得ないのだ、という主張がここにある」と申しました。しかし、本当はもっと大きなことが語られているのです。それは「神が初めにこの世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えたのだから、混沌となった世界にも再び形を与え、秩序を与え、意味を与えることがおできになるはずだ」というメッセージです。世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできになる》ことを語る物語でもあるのです。

 あの「初め」において、混沌とした大地、闇が深淵を覆っているような世界を、神はそのまま捨てて置かれませんでした。ならば、今のこの世界も、神は混沌と暗闇の中に、そのまま捨てて置かれるはずがありません。混沌と暗闇の中にある人生も、神はそのまま捨てて置かれるはずがありません。神が語られるならば、神が「光あれ」と言われるならば、そこには光がもたらされるのです。そこには新しい秩序が生まれ、新しく意味が生まれるのです。新しい創造がそこで起こるのです。そこにこそ彼らの希望はあったし、そこにこそ私たちの希望もあるのです。

二度目の「光あれ」
 そして事実、神はこの世界に向かって、もう一度、決定的な仕方で、「光あれ」と語られたのです。そのことを私たちに伝えているのが、今日の福音書朗読で読まれた聖書の言葉です。ヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。

 この箇所が創世記の天地創造物語を念頭に置いて書かれていることは一目瞭然です。ここでキリストは「言」と呼ばれています。そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と語られているのです。言は人間となって、ナザレのイエスという人間として、この地上を歩まれました。すなわち、そのようにして神は、最終的に決定的な仕方で語られたのです。父なる神と一つである御子なる神をこの世界に送られることによって、神はこの世界に語られたのです。かつてこの世界の創造にたずさわった《言》が、神に背いて混沌となった世界に来られました。その言の内には命がありました。神の命がありました。そして、「命は人間を照らす光であった」と書かれています。そうです、あの時と同じ「光」です。いわば、神はあの初めの時と同じように、もう一度「光あれ」と言って、御子をこの世界に遣わされたのです。

 そして、神が「光あれ」と語られたのですから、既にこの地上に光がもたらされているのです。イエス様はこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。光は既に与えられているのです。ですから、イエス様と共にあるならば、その人は命の光を持つのです。もはや混沌の暗闇の中を生きていく必要はないのです。

 先ほど、「世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできになる》ことを示している」と申しました。神は二度目の「光あれ」を語られました。ですから新しい創造の御業は既に始まっているのです。馬小屋の中で生まれ、あのゴルゴタの十字架の上で死なれ、空になったあの墓において復活され、あのオリーブ山から天に挙げられた、あの御方を通して神が語られた「光あれ」。そこから新しい創造は始まっているのです。

 パウロもこう言っています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)と。そのような新しい創造がキリストの到来と共に始まっているならば、それは完成へと向かっているのです。そのキリストが私たちにも宣べ伝えられました。光なるキリストが私たちの人生にもたらされました。キリストに結ばれた私たちにおいても新しい創造が始まっています。そして、その善き神の御業は完成へと向かっているのです。

(祈り)

2019年6月9日日曜日

『来たれ聖霊よ』

創世記11:1‐9

 本日の第一朗読では「バベルの塔の物語」が読まれました。物語に登場するのはシンアルの平野、すなわちバビロニアに移住した人々です。彼らは言いました。「れんがを作り、それをよく焼こう」。彼らは石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いるようになりました。新しく手に入れた技術をもって、彼らは一つのことを企てます。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(4節)と。

神の望まれない一致
 彼らは高い塔のある町を建てようとした。何のためでしょう。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と彼らは言っています。「有名になろう」。しかし、ここで彼らが意味しているのは、ただ多くの人に知られることでも賞賛されることでもありません。「有名になろう」と訳されていますが、原文では「我々のために名を造ろう」と書かれているのです。

 つまり彼らは巨大な塔を建て上げているのですが、それは彼らの名前を偉大なものとして強大ものとして建て上げることを意味していたのです。それを聞いたら人々が恐れをなす大いなる名、それを聞いたら人々が従わざるを得ないような偉大なる名。彼らはそのような名を持つ者となることを求めたのです。それはすなわち、支配される者ではなく、支配する者となることを意味しました。そのために彼らは、自らの圧倒的な力を示す巨大な塔を建てようとしていたのです。

 しかし、そのように自分たちの力を誇示し、大いなる名を獲得し、支配する側になろうとしていたのは、彼らの恐れのゆえであったと聖書は伝えているのです。彼らは何と言っていますか。「そして、全地に散らされることのないようにしよう」。

 彼らの思いは分からないでもありません。力がものを言う社会においては、弱い集団は常に強い集団によって脅かされています。相手に太刀打ちできなければ逃げるしかありません。その結果住んでいた場所を追われる、あるいは散らされるということも起こってまいります。そのような実例を私たちは旧約聖書の中に沢山見いだすことができます。いや、それは古代社会だけでなく、現代にも様々な形で起こっていることなのでしょう。

 実際、彼らは「東の方から移動してきた人々」であったと書かれています。巨大な塔を建てようとしているのですから、かなりの人数からなる集団だったと思われます。そのような大きな集団が一斉に移住せざるを得なかったとするならば、一つ考えられるのは、他の集団によって追いやられたということです。二度と追いやられないためには、そして散らされないためには、強くなくてはならない。支配する側にならなくてはならない。自分たちの優位性を、実力をもって示さなくてはなりません。

 そのために、彼らは一致団結したのです。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」。さあ、周囲の人々が見上げるような、天まで届く塔のある町を建てよう。周囲の人々が脅威を覚えるような、天まで届く塔のある町を建てよう。その目的のために、彼らが一丸となって働いたであろうことは想像できます。

 そのように、偉大なる者、力ある者、支配する側となることへの願望は、人々を一致団結させる力となります。その背後に恐れや不安があるなら、なおさらです。これを実現しなかったら、私たちはまた追いやられるかもしれない。私たちは散らされるかもしれない。人々は恐れによっても一致団結するのです。さらに、そこに集団移住を余儀なくされた者の怒りや憎しみが加わったらどうでしょう。怒りと憎しみによっても人々は一致団結するのです。

 そのように、彼らは一致団結して、目標に向かってまっしぐらに進んでいました。もはや彼らの企てを何者も妨げることはできません。しかし、そのような彼らの企ては、結局失敗に終わったと聖書は伝えているのです。周囲の人々の圧力によって計画が挫折したのではありません。彼らが弱いために周りの民によって追い散らされた、というわけでもありません。なんとその原因は彼らの「言葉」が混乱し、互いに言葉が通じなくなったためだと言うのです。この計画は外圧によってではなく、内部から崩壊したのです。そして、そもそも散らされないための計画であったはずなのに、結局彼らは散らされることになりました。

 そして、最も重要なことは、この「混乱」が他ならぬ神によってもたらされたと語られていることです。5節以下を御覧ください。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」(5‐8節)。

 神様が自らこの計画を妨げられました。これは何を意味するのでしょう。神はこのような一致団結を喜ばれない、ということです。偉大なる者、力ある者、支配する者となるために一致団結することを、神様は喜ばれない。恐れに駆り立てられて一致団結すること、怒りや憎しみに動かされて一致団結することを、神様は喜ばれない。そのような一致団結が、決して周りに祝福をもたらすことはないからでしょう。そのように一つとなった集団は、周りを不幸にし、苦しめる、呪いの源にしかならないのです。

 神様はそのような一致団結を喜ばれません。ですから、神様は自ら妨害をなさいます。実際、人間から出た一致団結が、外からの圧力によってではなく、しばしば内部から崩壊することを私たちは知っています。その崩壊は言葉の混乱によって起こります。互いに言葉が通じなくなるのです。

 今日お読みした物語では、彼らが互いに聞き分けられない《異なる言語》を話すようになった、という話になっています。しかし、言葉が通じなくなるのは、必ずしも異なる言語を話す場合だけではありません。同じ言語を話しながらでも意思の疎通が不可能になることはいくらでもあります。そこに誤解が生じます。混乱が生じます。そして、互いに袂を分かち、散っていくことになります。これを聖書は、「主は彼らをそこから全地に散らされた」と表現するのです。主がなされたのだ、と。

神の望まれる一致
 しかし、話はそこで終わりません。神様が本当に望んでいることは、混乱させることでも、散らすことでもないのです。

 私たちは今日、もう一つの聖書箇所をお読みしました。今から約二千年前の五旬祭における出来事を伝えている聖書箇所です。こう書かれています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:1‐4)。

 ここでも、あのバベルの塔の出来事と同じように彼らは突然、異なった言葉を話し始めます。しかし、彼らはバラバラにはなりません。異なる言葉を話しながら、同じ神の霊に満たされて一つとされているのです。彼らは、いかなる意味で一つとされていたのでしょうか。それは、彼らが異なる国々の言葉で、何を語っていたかを聞けば分かります。

 その後の9節以下には、これを聞いた人々の驚嘆の言葉がこう記されているのです。「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(同9‐11節)。

 彼らは皆、神の偉大な業を語っていたのです。それは神の救いの業です。キリストによって実現してくださった救いの御業です。そのような神の救いの御業を語ることにおいて、彼らは一つとなっていたのです。

 彼らが異なる国々の言葉で語っていたのは、一つのしるしでもありました。教会はやがて、あらゆる国々のあらゆる人々の中に入っていって、それぞれの言葉で、神の救いの御業を伝えて仕えるようになる。人々の救いのために仕えるようになる。そのことを指し示すしるしだったのです。

 この教会の誕生の姿にこそ、神が望んでおられる一致団結がどのようなものであるかを見ることができます。私たちは恐れに駆り立てられて一つになるのではありません。怒りや憎しみによって一つになるのではありません。そうではなく、大いなる神の救いの御業を語る者として、一つになるのです。共に神の恵みを分かち合い、神への感謝と神への信頼に生きることによって一つとなるのです。

 私たちは力ある者となって他者を支配するために一つになるのではありません。支配するためではなく、仕えるために一つになるのです。力を誇示するための巨大なバベルの塔の周りで一つになるのではありません。そうではなく、仕えるために来てくださったキリスト、十字架の低きにまで降ってくださったキリストの周りで一つになるのです。私たちは自分たちのために一つになるのではありません。そうではなく、この世に仕えるために一つとなるのです。

 そのようにキリストの周りで私たちを一つにしてくださるのは神の霊、聖霊です。私たちが今、聖餐卓のまわりに集められているのは、聖霊が確かに私たちの内に働いていてくださる目に見えるしるしです。

 今日は聖霊降臨祭です。かつてあの弟子たちに降った聖霊は、今も地上において私たちの内に働いておられます。神をほめたたえる者として、私たちを本当の意味で一つにしてくださる聖霊の御業を、聖霊の満たしを、これからも切に求め続けましょう。

(祈り)

2018年11月4日日曜日

「神の憐れみの物語」

創世記9:8‐17

 今日は先に天に召された方々を記念して礼拝をお捧げするためにここに集まりました。先に召された方々のご関係の方々が、今日は大勢お見えになっています。こうして共に礼拝できますことを嬉しく思います。

 ここは天と地が一つとなるところです。天に召された方々も、今、ここにいる私たちも同じ神様を仰ぎ、同じ神様を礼拝しているとはそういうことです。その意味で礼拝堂とは天と地が一つとなるところなのです。今日お集いになられた方々は、その意味において、先に召された方々と一緒にいるのだという思いをもって、この礼拝の時をお過ごしいただけたらと思います。

神の憐れみによって
 さて、そのような今年の記念礼拝において読まれましたのは、旧約聖書の中のたいへん有名な話です。残念ながら全部を読むことができないので、最後の部分だけお読みしました。「ノアの箱船」の話です。神様がこの地上に大洪水を起こされたという話です。その時に箱船を乗り込んだノアとその家族、動物たちが救われたという話です。

 「ノアの箱船」の物語は、創世記の6章から始まります。事の発端は次のように描かれております。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6:5‐6)。そして「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」(同12節)。この「肉なる者」というのは、この場合、人間のことです。さらに言うならば、聖書に書かれているように「常に悪いことばかりを心に思い計っている」人類のことです。これは何千年も前に書かれた物語ですが、神様が御覧になっている世界の有様は昔も今も少しも変わらないものだと改めて思わされます。

 それにしましても、神様が「後悔し」たり、「心を痛められ」たりするのは、ある意味ではとても不思議な表現でもあると思います。当然のことながら、このような疑問は起こるでしょう。「どうして神は後悔するような事態を未然に防ぎ得なかったのか。どうして神は堕落しないように人間を造らなかったのか。造れなかったのか。」しかし、当然起こるであろうそのような疑問に対して、聖書には全く説明も弁明もありません。どうも聖書はそのような「なぜ」に直接答えることには、あまり関心を持っていないようです。

 聖書の関心は、《どうしてそうなったのか》ということよりも、《現実はどうであるか》ということに向かっているようです。分からないことについて「なぜ」と問い続けていることより、現実と向き合うことの方が大事だからです。確かにこの地上には人の悪が満ちている。人間は常に悪いことばかりを心に思い計っている。そのような現実があるのです。「地は堕落し」とありましたが、肉なる者が神の前に堕落しているという現実があるのです。どうしてそうなったかはさておき、聖書が描き出しているこの世界のありさま、否定しようのない現実があるのです。

 そこで物語は次のように展開していきます。そのような世界を御覧になった神様は、悪に満ちたこの世界を神は滅ぼすと宣言します。聖書には次のように書かれています。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(6:13)。(ちなみに、「地は堕落し」とありましたが「堕落し」という言葉と「滅ぼす」という言葉は、日本語ではずいぶん違いますが、原文ではもともとは言葉なのです。「滅びる」というのは、神様が滅ぼして滅びるのではなくて、「堕落している」ということ自体、神に背いているところにおいて、既に滅びは始まっているのだという理解があります。)

 ともあれ、いずれにしても、この物語においては神様が「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」と言われて、この言葉を実現するために、神は洪水を起こされたという話が続くのです。

 さて、この話は一面においては大変恐ろしい話です。災いをもってこの世界を滅ぼされる神。そのような神の厳しさを示して、読者に恐れを抱かせ、改悛を促すという、いわゆる教訓物語としてこの話を読むこともできるのでしょう。そのような話は古今東西、様々な形で存在していますから。

 しかし、このノアの物語について言うならば、洪水という「災いの話」は、恐らくは物語の中心ではないのです。神の恐ろしさ、神の裁きを示すことが目的ならば、ずっと短い話で済むからです。実際にはそうではなくて、この物語は今日お読みした9章まで続くのです。それはなぜなのでしょうか。

 注目すべきは、神の言葉と神の行動の間の奇妙な矛盾です。神は「《すべて》肉なる者を終わらせる」と言われたのです。にもかかわらず、「箱船を造りなさい」(6:14)とノアに命じるのです。《すべて》を滅ぼすと言いながら、明らかに《すべて》を滅ぼすつもりはないのです。

 そもそも「すべて肉なるものを終わらせる時が来ている」という言葉を、当の「肉なるもの」の一人であるノアに話していること自体、おかしいではありませんか。その上で「箱船を造れ」と言われる。結果的には、箱船を造ったノアが残されるのです。いや、ノアだけならまだ分かります。実際には、ノアだけでなく、その家族も残されるのです。さらには箱船に乗り込んだ地上の動物たちも残されるのです。

 洪水が起こって5ヶ月ほどすると、水が引き始めます。箱舟はアララト山という山の上にひっかかりました。そして、洪水が始まって一年後、完全に水がひきました。ノアと家族と動物たちは船を出て、神を礼拝します。その時、神はこう言われるのです。「人のために大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(8:21)。洪水によって良い人間だけが残ったから「大地を呪うことはしない。もう滅ぼすことはしない」と言っているのではありません、人間が悪くなくなったから「滅ぼさない」と言っているのではないのです。これからも多分悪いに違いない。「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」と神は言われるのです。しかし、それでもなお神は地を呪わない、神は滅ぼさないと言われたのです。

 この物語は私たちに何を伝えているのでしょう。神の憐れみです。この洪水の物語は、「神の裁きの物語」ではなく、結論から言いますならば、これは「神の憐れみの物語」なのです。少なくとも、これを大切に伝えたイスラエルの民にとって、これは単なる過去の話ではありませんでした。なぜなら、彼らは憐れみによって残されるということを経験してきた人々だからです。特に、国家の滅亡と捕囚を経験した人々にとっては過去の話ではなかった。残されたノアとその家族と動物たち――そこに彼らは自分の姿を見たのです。これは神の憐れみの物語なのです。

 聖書の物語を読む時に、そこに自分自身を見いだすということは、聖書を読む上で大切なことなのでしょう。私たちが神の裁きによって滅ぼされるのではなく、今なお神の恵みの中に残されています。この世界もまだ残されています。それは、本当は当たり前のことではないのです。この世界は神の憐れみによって成り立っている世界なのであり、その上に営まれている私たちの生活は、まさに神の憐れみによって与えられている生活なのです。

神によって立てられた契約
 本日朗読されたのは、そのような物語の最後の部分です。注目すべき言葉は、今日の朗読においてくどいほどに繰り返されている「契約を立てる」という言葉です。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(9:9‐11)。

 私たちは通常「契約を立てる」という言い方はいたしません。「契約を結ぶ」と言います。聖書には「契約を結ぶ」と訳される言葉が別にあります。日本語では契約を「結ぶ」ですが、もともとのヘブライ語では契約を「切る」と表現します。実際の行為としては、契約を結ぶ時、当事者たちは二つに切り裂かれた動物の間を通るということをいたします。そうすることによって、契約を破ることは死を意味することを承認するのです。こうして契約が結ばれます。そのように、契約を「切る」と表現する時には、両者が関わるのであり、両者の真実が問われるのです。

 ところが、ここでは神が「契約を立てる」と言っているのです。立てるのは神です。立てることに関わっているのは神だけです。その意味では一方的に結ばれる関係です。

 先にも見ましたように、裁きの対象となっていたのは「すべて肉なるもの」でありました。ノアもその家族も、その「すべて肉なるもの」の内にありました。そして、「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている」と言われていたように、本来、すべて肉なるものと神との関係は終わっているのです。それはノアとその家族、残された動物たちも同じなのです。にもかかわらず、ただ一方的な神の憐れみによって残されたのです。そして、神の側から、まったく一方的に、神とすべて肉なるものとの間に、契約が立てられたのだというのです。

 そして、その契約のしるしは「虹」であると語られていることも重要です。虹は代々にわたって現れます。そのように神は代々にわたってこの契約に心を留めてくださるのです。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(9:16)と主は言われるのです。

 私たちはいったいこの世界をどのように見ているのでしょう。そこに生きる私たち自身をどのように見ているのでしょう。この世界の中にある私たちの人生をどう見ているのでしょう。この世界もそこに生きるすべてのものも、ただ滅びに向かっているだけの意味のない存在なのでしょうか。いいえ、そうではないと聖書は教えているのです。

 この世界は、神によって立てられた永遠の契約の対象なのです。この世界はそのような世界なのです。すべて肉なるものはそのような存在なのです。そのゆえに神は、すべて肉なるもののために壮大な救いの計画を立てられ、そのひとり子をこの世界に遣わされたのです。神はひとり子を「肉なる者」の一人とすることさえ厭われなかったのです。

 「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(8:21)と主は言われました。確かに主の言われるとおりです。この被造物世界は今もなお、そのような人間の罪のゆえに、苦しみと嘆きの声が絶えることのない世界です。確かにそのような世界の中に私たちは生きています。しかし、そのような世界にも、繰り返し虹が立つのです。これは繰り返し虹の立つ世界です。すなわち、今もなお神の愛と憐れみの対象とされている世界です。

 そしてこの大地は罪の贖いの十字架が立てられた大地であることを私たちは知っています。そのような大地の上に私たちは生かされているのです。神の憐れみの中に生かされているのです。そして、神の憐れみによって語りかけられ、神の憐れみによって呼びかけられているのです。

(祈り)

2017年7月30日日曜日

「神は聞いていてくださる」

2017年7月30
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節

イシュマエルの誕生
 「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 ここにはアブラハムの二人の息子が出て来ます。一人はアブラハムの妻サラが産んだ子、イサクです。もう一人は「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子」です。その子の名前はイシュマエルと言います。

 イシュマエルはアブラハムが86歳の時の子供です(16:16)。イサクはアブラハムが100歳の時の子供です(21:5)。そうしますと、単純に考えてこの二人の年の差は14歳になります。今日の箇所においては、既にイシュマエルは16歳から17歳ほどになっているはずです。しかし、アブラハムが子供を産んだ年を見てお分かりのように、創世記における年齢は私たちの抱くイメージとはかなり違います。今日お読みした物語においては、まだ二人とも幼子であるものとして読んだ方が理解しやすいでしょう。

 ここにはそのような二人の息子が出て来ます。妻サラの産んだ子だけではありません。エジプト人の女奴隷が産んだ子が出て来るのです。そこには当然、理由があります。イシュマエルが誕生する次第は創世記16章に記されています。次のような話です。

 アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに一つの提案をしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。他の場面でも似たような提案が当然のことのように出てきますから(創世記30章)。

 しかし、重要なのはサライがこう提案した理由です。サライは子供がいなくて寂しいからこのような提案をしたのではないのです。跡継ぎがいないと困るから、このような提案をしたわけでもないのです。これは神の約束に関わっていることだったのです。

 そもそもの出発点は、神がアブラムにこう言われたことでした。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。「あなたを大いなる国民にする」とは、要するに子孫を増やすということです。アブラムもサライもこの主の言葉を信じて、旅に出たのです。これがそもそもの発端でした。

 さらには創世記15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、実際には子供は生まれませんでした。先ほど引用した16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。神様の約束が実現に向かって進んでいるとは思えませんでした。昨日も今日も何も変わらないのです。何も変わらない日々は永遠に続くように思えました。そこで出てきたのが先ほどの提案だったのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。

 「主はわたしに子供を授けてくださいません」――要するに、「神がしてくださらないならば、私たちの手で実現しましょう」ということです。「もう神に期待することはやめにして、私たちのできる仕方で実現しましょう」ということです。そして、実現したのです。アブラハムは子孫を得ることとなりました。それがイシュマエルでした。しかし、それは「神の約束の成就」ではありませんでした。

 当然のことながら、アブラハムがイシュマエルを見る時に、「神様、あなたは真実な御方です」と感謝の祈りを捧げることはできなかったはずです。事実は逆だったからです。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。イシュマエルはまさにその事実を指し示す存在だったからです。

もう苦しまなくてよい
 やがて時満ちて、サラにも子供が生まれました。それは神の約束の成就でした。その誕生の次第は今日お読みしました箇所の直前に記されています。アブラハムはその子をイサクと名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(6節)。その場はまさに喜びと「笑い」に満ちていたことでしょう。真実なる神が与えてくださる喜びです。神の真実なることを知る喜びです。信仰のもたらす喜びがそこにあります。それは確かに信仰生活の一つの姿ではあります。

 しかし、そのすぐ後に今日読まれた聖書の言葉があるのです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 「イサクをからかっているのを見て」。自分の子供がからかわれていたら、サラが腹を立てるのも無理はないでしょう。――しかし、これは一つの意訳です。もとの言葉は「笑っている」という言葉です。必ずしも嘲って笑っているとは限りません。

 そうです。イシュマエルは笑っていたのです。その「笑う」という言葉によってイサク誕生の場面とつながります。神が与えてくださった喜びと笑いに満ちたイサクの誕生。その笑いに満ちているはずの生活の中に、こうして敵意と争い、それゆえの苦しみが入り込んでいるのです。「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」。そのように相続問題という形で入り込んできているのです。

 どうしてそのような問題が入り込んできたのか。イシュマエルという存在がはっきりと指し示しています。それは不信仰によってだ、と。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。確かにあった。その事実が、今、形を取って現れてきているのだ、と。

 「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」そう書かれています。神の約束においては、もともと相続問題に由来するこの苦しみはなかったことは分かっています。これは過去のある時点において、神が真実な方であることを信じることをやめた結果であることも分かっているのです。

 その結果、自分が苦しむだけではない、サラはサラとして苦しみ、ハガルとイシュマエルも苦しむことになってしまった。アブラハムは、あの時のことを悔やんだかもしれません。なぜ待てなかったのだろう。なぜ神に期待することをやめてしまったのだろう。なぜ神に信頼し続けなかったのだろう。しかし、悔やんでも過去が変わるわけではありません。

 しかし、神はそんなアブラハムに現れてこう言われたのです。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(13節)。

 神はこのような事態をもたらしたアブラハムの過去を責めませんでした。そうではなく、「苦しまなくていい。心配しなくていい」と言ってくださったのです。ここに語られていることは何ですか。つまりは不信仰の結果について、神がすべて面倒を見るから、ということでしょう。「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。そう神は言ってくださったのです。

 そのように、たとえそれが人間の不信仰の結果であれ、罪の結果であれ、愚かさの結果であれ、人間がどうすることもできない事態に、神は慈しみ深く関わってくださるのです。そのような御方が言われるのです。だからもう苦しまなくていい。心配しなくていい、と。

神は聞いていてくださる
 そして、神はそのような神であることを、ハガルとその子に対して現されたのでした。それが14節以下に書かれていることです。

 「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)。こうしてハガルはアブラハムの家を立ち去ることとなりました。彼女と子供はベエル・シェバの荒れ野をさまよいます。やがてハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。子供は次第に弱っていきます。自分は子供を助けることができない。目の前で子供が死んでいくのを見るのは耐えられませんでした。ハガルは灌木の日陰に子供を置いて、遠く離れていきました。子供が泣き出します。母親も遠くで泣いている子供を見て、声を上げて泣きました。

 しかし、もはや泣くことしかできないハガルに、神は御使いを遣わしてこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。

 泣く声を主は聞いておられました。泣く声は神への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて神は聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。

 すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。当然のことながら井戸は前からそこにあったのでしょう。彼女が絶望して大声で泣いていたその時に、既にその側には神の備えがあったのです。神は目を開いて、その事実を見せてくださったのでした。

 もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。彼女は今置かれている現実を受け入れなくてはなりません。しかし、彼女もまたアブラハムと同じように、彼女が知った神の慈しみの中を生きていくのです。泣く声さえも祈りとして聞いていてくださる神。そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている神。そのような神を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。

2015年11月8日日曜日

「祝福を受け、祝福となる」

2015年11月8日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 12章1節~9節


あなたは祝福となれ
 今日は「子ども祝福礼拝」です。私たちは皆、心を合わせて子どもたちの上に神の祝福を祈り求めます。「祝福」とは何か。それは命の満ち溢れた状態です。命が満ち溢れ、溢れ流れて未来を開くのです。ですから、旧約聖書においては、例えば農作物の豊作、家畜の多産、一族の子孫が増え広がることが神の祝福の現れとして語られます。もちろんそれらが神の祝福の全てではありません。神様が人間に与えようとしているのは、目に見えるものを越えて限りなく豊かなものです。

 新約聖書においてパウロは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)と言っています。神が与えようとしている祝福は、神の命の満たしは私たちの思いを越えて豊かなものとして、万物を与えられるに等しいものとして与えられるのです。それは最終的には神の国における救いの完成にまで至ります。そのような未来を開く命の満たしを神からのものとして求める。それが祝福を祈り求めるということです。

 今日の聖書箇所には、神御自身から「わたしはあなたを祝福する」と言われた人物が登場してきます。アブラハムです。その時点ではまだ名前はアブラムでした。主はアブラムにこのような約束の言葉を与えられたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 神は開かれるべきアブラハムの未来を指し示しながら、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われました。アブラムにはまだ何も見えていません。しかし、神には見えているのです。大いなる国民が見えているのです。イスラエルの民が見えているのです。祝福とはそういうものです。まだ見ていない開かれた未来を約束として受けるのです。

 しかし、それはただ祝福される人自身のためではありません。「祝福の源となるように」と主は言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。ちなみに「祝福の源となるように」というのは意訳です。そこから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな良い訳ではあると思います。しかし、原文は「あなたは祝福となれ」と書いてあるのです。祝福されて祝福となるのです。アブラハムは祝福されて、今度は他者にとっての祝福となるのです。神がアブラムを祝福するのは、ただアブラムのためだけではありませんでした。それはこの世界に祝福をもたらすためだったのです。ですから、主はアブラムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われたのです。

 そのように神が子どもたちを祝福するとするならば、それは子どもたちがこの世界の祝福となるためです。祝福を祈り求めるということは、子どもたちがこの世界の祝福となるような未来が開かれることを祈り求めることでもあるのです。それは私たち自身についても同じです。私たちが、そして教会が祝福を求めるということは、私たち自身が隣人にとって、またこの世界にとって祝福となることを求めることでもあるのです。

信仰によって
 そのように、神はアブラムを祝福するとの約束を与え、その目的はアブラムが祝福となるためでした。しかし、私たちはその前に主が次のように語られたことを心に留めなくてはなりません。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』」(1節)。

 アブラムの生まれ故郷はどこでしょう。アブラムが生まれたのはカルデアのウルでした。ウルは古代メソポタミアにあった都市国家です。そこからアブラムの父テラは家族を連れてユーフラテス河を800キロほど遡り、ハランに移住しました。アブラムが主の呼びかけを聞いたのは、そのハランにおいてでした。ですから、厳密に言えば、アブラムは既に生まれ故郷は離れていることになります。

 実は、「生まれ故郷」と訳されているこの言葉は、「あなたの地、あなたの親族」というのが直訳なのです。ですから、必ずしもウルのことではないのです。「あなたの地」と言われているのは、寄留者ではないということです。彼には「わたしの地」と言えるものがあるのです。そこでは安心して生活できるのです。しかし、主はそこから旅立つようにと言われたのです。

 それは父テラがウルからハランに移住した時のように、ただ別の地が「あなたの地」になるということではありません。ここにはいわゆる転勤族の方々もおられますが、生活の場所が変わるということは、必ずしも人生の根本的な転換を意味するわけではありません。ここで語られているのは、そのようなことではないのです。アブラムはここで、「あなたの地を離れ…わたしが示す地に行きなさい」と言われているのです。

 ここからは主に導かれ、主に従って生きていくのです。主に信頼して生きていくのです。ただ別の地を「わたしの地」として生きることではないのです。それは人生の根本的な転換です。それを「信仰」と呼ぶことができるでしょう。アブラムは「わたしの地」から踏み出して信仰によって生きる新しい生活へと招かれたのです。

 その招きに続いて先に読んだ祝福の約束は語られているのです。祝福を与えてくださるのは神ですが、祝福には受け取り方があるからです。4節には何と書いてありますか。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれています。実際に、神に信頼し、現実に一歩を踏み出したのです。旅立ったのです。彼は信仰によって生き始めたのです。そのようにして祝福の約束を受け取ったのです。これが受け取り方です。

 アブラムに求められたのは、それだけでした。神に全幅の信頼を置いて生き始めること。神が求めておられるのは、単に善い人間になることでも有能な人間となることでもないのです。私たちは「もっと優しい人であれば」「もっと力があれば」「健康でさえあれば」「もっと若ければ」「もっと有能であれば」と思うのでしょう。しかし、もし若さが重要であるならば、もっと若い時にアブラムを旅立たせたことでしょう。彼は召された時75歳だったのです。そんなことは神様にとってはどうでも良かった。祝福は人から出るのではないからです。わたしはあなたを祝福すると主は言われる。祝福は神から来るのです。だから求められているのはどこまでも神に信頼して神と共に歩む人となることなのです。

祭壇を築いた
 その具体的な姿は「旅立った」と表現されていますが、それだけではありません。その続きがあります。旅立ったアブラムはどうしたでしょう。アブラムはハランからカナン地方に向かって旅立ち、やがてカナン地方に入ります。そして、こう書かれているのです。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(6節)。

 「わたしが示す地に行きなさい」。そう主が言われて着いたところにはカナン人が住んでいました。先住民がいるということは、そこで寄留者になるということです。「わたしの地」に住んでいた時にはなかった困難がそこにはあったことでしょう。しかし、そこで主は言われました。「あなたの子孫にこの土地を与える」。主はアブラムに開かれた未来を示すのです。そして、7節と8節に繰り返されている言葉があります。「祭壇を築いた」。

 彼はシケムにおいて、そこで祭壇を築いた。祭壇は石で作ります。石を積み重ね、一生懸命に祭壇を築いた。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住むと、そこにまた祭壇を築いた。「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)とあります。主の御名を呼ぶとは、言い換えるならば「祈った」ということです。祭壇とは礼拝の場所であり祈りの場所です。祭壇を築きつつ旅をするということは祈りながら生きていくということに他なりません。信仰生活とは祈りの生活です。その祭壇を生活の中にしっかりと築いていくことです。どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、どんな困難の中に置かれても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。

 そのように信仰は観念ではありません。ただ神について考えることではありません。信仰は具体的な形を持つのです。神に信頼して神と共に生きるということは単に頭や心の中のことではありません。アブラムにとって「旅に出る」という具体的な一歩があったように、また生活の中で具体的に築いた目に見える祭壇があったように、私たちにとっても目に見える教会生活があり、目に見える洗礼式があり、目に見える聖餐式があり、目に見える祈りの生活があるのです。今日、私たちが祝福を祈り求めた子どもたちが、そして、私たち自身が、そのような具体的な旅をこの地上で進めながら、神の約束を信じ、祝福を受けて祝福となることを信じて、これからも主と共に歩み続けてまいりましょう。

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