2025年11月9日 こども祝福礼拝説教
聖書:創世記15:1-6
神の約束
今日は聖書に出てくるアブラハムという人の話をしたいと思います。教会では時々耳にする名前です。聖書に出てくる有名人ですから、ぜひ覚えておいてください。
アブラハムはもともと「アブラム」という名前でした。今日の聖書箇所では、まだ「アブラム」と呼ばれています。アブラムはもともとカルデアのウルというところに住んでいました。やがて父に連れられてハランに移りました。ハランはとても豊かな土地でした。親戚も一緒に住んでいました。そこには知っている人が沢山いました。アブラムも、そこでみんなと一緒に生活していれば安心でした。
しかし、神様はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。神様はそこを離れて、お父さんの家族や親戚からも離れて旅に出なさいと言われたのです。アブラムが安心していられるその場所を離れて「わたしが示す地に行きなさい」と神様は言われたのです。
神様がどこに連れて行こうとしているのか、アブラムは知りません。先のことを考えると不安にもなったでしょう。怖くもなったでしょう。しかし、アブラムは神様を信じて、言われる通りに旅に出ました。これからどうなってしまうのか全く分からないけれど、とにかく神様を信じて一歩を踏み出したのです。
そのようなアブラムに、ある時神様はこう言われました。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。そして、こう続けられたのです。「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」(13:5)。
その時、アブラムは小さな土地さえも自分の土地として持っていませんでした。旅をしている人ですから。目に見える形では自分が子孫に受け継がせることのできる土地などありません。そもそも子孫などいないのです。アブラムには子どもがいなかったからです。今はまだまだ土地もなければ子どもいない。しかし、神様はさらにこう言われたのでした。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」。
そのように神様は、アブラムがまだ子どももなく土地もない時に、子孫が増えること、そして、見渡す限りの土地を与えることを約束してくださいました。
恐れるな
さて、どうなったでしょう。しばらくの時が流れました。アブラムは年を取りました。でも相変わらず自分の土地を持たない旅人でした。そして、アブラムの家にはまだ一人の子どもも産まれていませんでした。
そんなアブラムの心の隙間から疑いが入ってきました。神様を疑い出したら恐れがやってきました。旅になど出なかった方がよかったのではないか。神様を信じたのは間違いだったのではないか。これから先、どうなってしまうのだろう。神様を疑い出したら、これからのことがとても心配になりました。そうです、神様を信じられなくなりますと、いろいろな恐れがやってくるのです。
そんな時でした。神様がアブラムに語りかけてくださったのです。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」(1節)。そうです、恐れと不安で一杯になっていたアブラムに神様はこう言われたのです。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。
神様はアブラムのことをよくご存じでした。恐れで一杯になっていることをご存じでした。だから言われたのです。「恐れるな」と。どんなに沢山の矢が飛んできても、大きな盾があったら大丈夫でしょう。神様が「わたしはあなたの盾である」って言ってくださいます。ならば大丈夫です。そして、誰が報いてくれなくても、神様が報いてくださる。「あなたの報いは大きい」と神様は言ってくださったのです。だから恐れる必要はないのです。「恐れるな」と主は言われるのです。
天を仰いでみなさい
しかし、アブラムの心の中には、まだ疑いが残っていたようです。アブラムは神様に皮肉たっぷりに言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」(3節)。
多くの子孫と言っても、現実には子どもひとり与えてくださらないではありませんか。家の跡継ぎすらいないんですよ。どう考えたって不可能ではないですか。――アブラムは神様にそう言いたかったのでしょう。アブラムの家にはエリエゼルという召し使いがいました。現実的に考えるならば、その召し使いが跡継ぎになるしかないのかな、と思っていたのでした。
しかし、主は言われます。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(4節)。そして、アブラムを外に連れ出して言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
ここを読みますと、アブラムが見上げた星空はどのようなものだったのだろう、と思います。東京の夜空とは明らかに違うでしょう。東京の夜空を見上げても満天の星空という感じはしません。空気は澄んでいませんし、まわりが明るいので、あまり多くの星が見えません。
しかし、地方に行くと違った夜空が見られます。昔、ある夜、兵庫県の山奥を車で走っていたときに、途中で車を止めて、夜空を見上げたことがありました。車のライトを消したら、文字通り真っ暗なんです。そこで見上げた星空をわたしは忘れることができません。ちょうど今頃です。空気の澄んだ秋の夜空には、天の川がはっきりと見えて、まさに空は大小の星でびっしり埋め尽くされていました。まさに星空に圧倒されていました。また、そこに立っている自分のなんと小さなことかと思わされました。
アブラムが見ていた星空もきっとそのような星空ではなかったかと想像します。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と主は言われました。アブラムはその数え切れない星を造られた神様の御前に立っているのです。数えきれない、神様の圧倒的な御業を目にしながら立っているのです。これが神様のなさることなのだ、と。
星を数えきることができないように、神様のなさることを人間は計り知ることはできないのです。神様の知恵と力がどれほど大きいかを、私たちは知り尽くすことはできないのです。それゆえにまた、神が人の未来に何を成し得るかということもまた、人の計り知ることのできないことなのです。ならば、私たちにできることは、ただとてつもなく大きな御方に信頼することだけなのでしょう。その計り知れない知恵と力を誉め讃えることしかできないのです。本当はそうなのです。
アブラムは主を信じた
そこで今日の聖書箇所にはこう書かれているのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。
実は聖書に初めて「信じる」という言葉が出て来るのはこの箇所なのです。その「信じる」という言葉は「アーマン」というヘブライ語に由来します。「アーメン」と似ていますでしょう。この二つは深いつながりがあります。祈りの最後に唱和する「アーメン」は「そのとおりです」という意味です。そのように「信じる」とは、主の言われることに対して「そのとおりです」と信頼して、受け入れることです。
アブラムは主を「信じた」。それは主のなさることが理解できたからではありません。常識的に考えるならば主の言われることは不可能なのでしょう。彼の経験からすればあり得ないことなのでしょう。現実を見るならば、多くの子孫はおろか、子ども一人生まれていないのですから。そして、アブラムも奥さんも既に年を取っているのですから。しかし、それでもなおアブラムは主を信じたのです。無条件で「アーメン」と言って受け入れたのです。そのように主とその約束に全面的に信頼したのです。ならば、信頼したように行動するのです。主の御言葉を信じる者として生きて行くのです。
アブラムは主を信じた。そして、主はそれを彼の義と認められたのです。「義と認める」というと難しいけれど、簡単に言えば神様が大きなマルをつけてくださったということです。「それでよし。あなたは正しい」と言って、ハナマルをつけてくださった。神様に信頼しているアブラムは、神様の目から見たら百点満点だったのです。
しかし、それはまた全て神様のおかげだとも言えます。既に見てきたように、アブラムは常に主を信じて揺るぎない人ではありませんでした。アブラムの内には疑いがありました。アブラムの内には疑いから来る恐れがありました。しかし、そんなアブラムに「恐れるな」と言ってくださったのは神様でした。皮肉たっぷりに言い返したアブラムに、それでもなお語り続けてくださったのは神様でした。神様の言葉があってこそ、初めて「アブラムは主を信じた」があるのです。
そして、神様は私たちにも語りかけていてくださいます。その究極の語りかけ、神の言葉はイエス・キリストです。神はその御方によって、十字架と復活によって、決定的な仕方で語られたのです。そして、復活されたキリストによって今も御言葉が語られています。キリストの体である教会によって、神の言葉が語られているのです。かつてパウロもまたこう言っていました。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。