2022年12月25日日曜日

「地には平和、御心に適う人にあれ」

ルカによる福音書 2:1-20

ローマの平和
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。羊飼いに現れた天使たちはそのように歌いました。今日は特に、その後半、「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉を心に留めたいと思います。

 「地には平和があるように」。そう天使は言いますが、しかし、ある意味では既に「平和はあった」とも言えます。その時代、ローマ帝国の領土には、後に「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と名付けられる「平和」がありました。それは力によって、武力によって実現した平和でした。

 その平和は今日の朗読に登場した、ローマの初代皇帝「アウグストゥス」によって確立されました。長い戦乱の世に終止符を打った彼は「救い主」とも呼ばれました。大きな力が支配する時、小さな争いは押さえ込まれます。戦争や紛争が無くなることが「平和」であるならば、確かにそこにはローマ皇帝という「救い主」によって実現した「ローマの平和」がありました。

 しかし、もう一方において、そこには依然として「平和」はなかったとも言えます。ローマ皇帝が住民登録をせよとの勅令を出しました。人々は皆、登録をするために自分の町へ旅立ちました。奴隷も含めて全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、特に貧しい人々の上に、ずっしりと重い重荷を負わせることになりました。しかも登録のために、生活の場を離れて旅をしなくてはなりません。そのこと自体、多くの人々の生活が脅かされることを意味しました。力ある者によって力ない者がその生活を脅かされる社会。そこに「平和」はあると言えるのでしょうか。

 それは単に権力を持つ者だけの問題ではありません。あの日の出来事を、聖書は次のように淡々と綴っています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6‐7)。

 何一つ必要なものが揃っていないその場所で、産湯も使わせてもらうことなく、不潔な飼い葉桶の中に、産まれたばかりの赤ん坊が寝かされていました。側には命がけの出産を終えて、極度の緊張と疲労のためにぐったりとしている母親がいました。同じように緊張のために疲れ果てている父親がそこにいました。それは世にも悲惨な光景であったに違いありません。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。そう書かれていました。しかし、単純に場所がなかったということなのでしょうか。本当はただ泊まる場所がなかったのではなく、場所を分け合って、自分たちの居る場所を犠牲にしてでも、彼らのために場所を作ってやろうという人がいなかっただけなのでしょう。マリアが身重であるのは、誰の目にも明らかだったはずです。馬や牛じゃあるまいし、家畜小屋で簡単に赤ん坊を産み落とせるわけがありません。出産となれば、生死に関わることは、誰の目にも明らかだったはずです。しかし、みんな自分のことで精一杯だったのです。彼らのことは気にはなったでしょう。でも自分の場所を確保することの方が大事だったのです。――そこに本当に「平和」はあるのでしょうか。

 今年の2月24日、ロシアはウクライナに本格的な軍事侵攻を開始しました。この一年は戦争の話題で持ち切りでした。ウクライナに起こったことは他人事ではないと多くの人は感じているのでしょう。そのような中で、日本政府は今後5年間で防衛費を43兆円に拡大することを閣議決定しました。43兆円はさておき、世論調査によるならば、何らかの形での軍事力拡大を支持する人は少なくないようです。それは時代の流れとしては当然の結果と言えるのかもしれません。しかし、その先に――本当の平和はあるのでしょうか。

キリストの平和
 あの時、天使たちは神を賛美して言いました。「地には平和、御心に適う人にあれ」。「地には平和があるように」と天使たちがそう言っているのは、実際には、地に平和がないからなのです。「地には平和があるように」。そこに求められているのは、明らかに「ローマの平和」のようなものではありません。人間が力をもって、武力をもって実現できる平和のことではありません。天使たちが口にしているのは、神様が与えてくださる平和です。それはただ争いがないということではありません。神の救いによって、神によって与えられる平和です。それは神と共にある平和です。

 それは神が特別に与えてくださる平和です。ですから「御心に適う人にあれ」と天使たちは言うのです。「御心に適う人」とは、「神に喜ばれている人」「神が喜びとする人」という意味です。そのような人に、神が平和を与えてくださる。天使たちは歌います。「地には平和、御心に適う人にあれ」と。

 では「御心に適う人」「神が喜びとする人」とはいったい誰なのでしょう。――天使たちは「羊飼いたち」に現れて、その目の前で神を賛美してこう言ったのです。当然のことながら、「地には平和、御心に適う人にあれ。しかし、あなたたちはその中には入りません」ということではないでしょう。そうではなく、意味合いとしては「地には平和、あなたがた御心に適う人にあれ」ということです。

 それはある意味で、とても不思議な言葉であると言えます。なぜなら当時の一般的な理解では、羊飼いたちは「御心に適う人」とは見なされない人たちだったからです。「御心に適う人」と言われるならば、真っ先に除外される人たち、それが羊飼いたちだったのです。

 彼らはいわゆる宗教的な人々ではありませんでした。ユダヤ人としての宗教的な戒律をきちんと守っていた人々ではありません。そもそも仕事柄、そんな生活はできないのです。ですから羊飼いたちは汚れた人々と見なされていましたし、神から遠い人々と見なされていたのです。もちろん、自分たちもまたそう思って生きてきたのでしょう。「神様?関係ないね」と。

 しかし、そのような羊飼いたちこそ、「御心に適う人」「神に喜ばれている人」と呼ばれ、神の与える平和、神の与える救いへと真っ先に招かれたのです。

 それは、本来なら羊飼い自身にとっても不可解なことであったに違いありません。自分を「御心に適う人」とは思っていなかったでしょうから。しかし、羊飼いたちはこの天使の言葉を、大きな喜びをもって受け止めたのです。それはなぜか。既に聞いていた言葉があったからです。この直前に彼らが耳にしていたのは、こういう言葉でした。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10‐12節)。

 ローマ皇帝という「救い主」ではなく、神がお送りくださった「救い主」がお生まれになった。「《あなたがたのために》救い主がお生まれになった」という言葉を彼らは聞いたのです。自分たちは除外されてはいない。こんな私のためにも、救い主はお生まれになった。そのことを彼らは知らされたのです。そのしるしは、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。家畜が餌を食べる不潔なところに乳飲み子は寝ている、と。

 「御心に適う人」と言うならば、もともとそう呼ばれるに相応しくないのは羊飼いだけではないはずです。乳飲み子を飼い葉桶に追いやった人間社会そのものが、そもそも相応しくないのです。そのように、御心に適わないことばかりをしている私たち人間です。神の喜びとされるどころか、神を悲しませるようなことばかりをしている私たち人間です。私たちが形づくっているのは、エゴイズムによって汚れた、汚い飼い葉桶のような世界です。

 しかし、神はそれでもなお「救い主」を送ってくださったのです。神は私たちを喜びとしてくださったのです。だから家畜小屋のような、飼い葉桶のような私たちのこの世界のただ中に「救い主」を送ってくだったのです。乳飲み子をあえて飼い葉桶に寝かせられたのです。そして言われるのです。「地には平和、あなたがた御心に適う人にあれ」と。

 私たちが相応しいからではありません。すべては神の恵みによるのです。ならば人間のなすべきことは、ただその恵みの招きに応えて、救い主のもとに行くことなのでしょう。羊飼いたちは言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)。

 そして、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を見た彼らは、再び野宿していた場所に戻ります。しかし、ただ再び元の生活に戻って行ったのではありませんでした。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と書かれています。まことの「救い主」の与える平和が、「ローマの平和」ならぬ「キリストの平和」が、既に彼らの内に始まっていたのでした。そして、飼い葉桶の中の「救い主」を礼拝するために集まった、この私たちの内にも始まっているのです。
 (祈り)
 

2022年12月21日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:12~17

ヨハネの手紙一 2:12‐17

 先週お読みした箇所には、「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」(10節)と書かれていました。そして、その真逆についても、「しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)と書かれていました。

 既にキリストによって神の愛が完全に現され、真昼の太陽のように輝き渡っているにもかかわらず、自ら目をつぶってしまうならば、暗闇の中を歩くことになります。「兄弟を憎む」とはそういうことであって、そのように闇の中を歩くならば、必ずつまずくことになるのです。いや、つまずくだけでなく、自分がどこへ行くかを知らずに進むことになる。それはつまずくことよりも怖いことです。暗闇の中を歩いてはならないのです。

 しかし、ヨハネがこのように語るのは、教会の人たちを断罪するためではないことは言うまでもありません。彼は、既に恵みの中にある神の家族として語りかけているのです。既に神の恵みにあずかっているからこそ、このことを聞かなくてはならないのです。

 それゆえに、ヨハネは「子たちよ」「父たちよ」「若者たちよ」と語りかけ、彼らが既にどのようなものとされているかを語り直します。これらの呼びかけは、教会の中のそれぞれの世代として考えることもできるでしょう。しかし、ここに書かれていることは、全てのキリスト者について共通に語られ得ることでもあります。その意味では全てのキリスト者が「子たち」、「父たち」、「若者たち」であるとも言えるのです。

 まず、私たちは「子たち」であり「子供たち」です。12節と14節で訳語が違うのは元の言葉が違うからです。それらの言葉に大きな差はありません。しかし、「子たち」であり「子供たち」であるというのは、二つの面を持っています。一つは「親」に対する「子」ということです。もう一つは「大人」に対して「子供」であるということです。

 私たちは、まず親に対して子であるという面を持っています。私たちは父なる神の子としていただいたのです。共に神を「アッバ、父よ」と呼ぶ者としていただいて、父なる神との交わりに入れられたのです。また、もう一方においては、まだ成長しなくてはならない者という意味でも子どもです。子どもが成長するためには教育や訓練が必要なように、信仰の成熟のための教育と訓練を必要としているのです。

 そのような「子たち」であり「子供たち」である者として自覚しなくてはならないことがあります。それはまず「イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されている」(12節)ということです。罪は複数です。諸々の罪ということです。その罪の赦しはただ一重に「イエスの名」によるものです。なぜなら、イエス・キリストこそ唯一、罪の贖いを成し遂げることのできる御方であり、また事実、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださった御方だからです。

 そのイエス・キリストによる罪の赦しがあったからこそ、父の子として御父を知る者となることができたのです。「あなたがたが御父を知っているからである」と語られているとおりです。そのようにキリストによって罪を赦されて、その上で「子供たち」とされているのだ、という自覚が大事なのです。

 次に「父たち」と呼びかけられています。「父たち」で直接的に呼びかけられているのは、群れに気を配り成長を助ける長老たちを指していると言えます。しかし、ある意味で私たちは皆、この「父」としての側面を持っているのです。さらなる教育と訓練を必要とし、さらに成熟していかなくてはならない「子ども」であるだけでなく、他の子どもたちのケアをし、成熟を助ける「父」としての側面を持っているのです。というのも、教会には新しい信仰の子どもたちが絶えず生まれ続けるからです。何年信仰生活をしていても自分の信仰のことだけで精一杯、というようなことで良いはずがありません。

 「父たち」に対しては繰り返し、「あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである」と言われています。「初めから存在なさる方」というのは、この手紙の冒頭に書かれているように、御子なるイエス・キリストのことです。その御方を「知っている」。「知る」というのは、御父についても言われていますが、これは単なる知的認識ではありません。交わりです。私たちが、他の子どもたちに対して「父」としての側面において生きるために、どうしても重要なことはキリストを知っている、キリストとの交わりにあるということなのです。ともすると間違えやすいのですが、私たちの能力や私たちの人生経験によって、他の子どもたちのケアをし成熟を助けるのではないのです。

 第三「若者たち」と呼びかけられています。これはキリスト者における「戦う者」「戦士」としての側面です。私たちはただ単に、この人生を平安に生きることができるようにと信仰へ導かれたのではありません。そうではなくて、戦うために召されたのです。この世を支配している悪魔の力と、人間を捕らえて離さない罪の力と戦うために召されたのです。人間を闇の力から救い出し、御子の支配下に取り戻すための戦いです。かつて誰かが戦士として戦ってくださったからこそ、今の私たちがあるのです。今度は私たちが主の戦列に加わる番です。その点においては、実際に年齢的に若者であるか否かは関係ありません。

 そこで重要なのは若者たちに繰り返し語られていることです。「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」。私たちの目にはまだ戦いが進行中に見えます。いやそれどころか形勢不利にさえ見えることもあるのです。しかし、ヨハネは言います。「既に勝っている!」と。それは既にイエス様が十字架と復活において、決定的な勝利を取ってしまわれたからです。それゆえに私たちの戦いは、キリストによって私たちが既に悪魔に打ち勝っているその勝利の現実が目に見える形で現れるための戦いのです。

 それは私たち自身の強さによるのではなく、ただ福音の力によってのみ実現するのであって、それゆえに二回目に「若者たち」に語られる時には、「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」と書かれているのです。あくまでも福音が内において生きていること、神の言葉が内に留まっていることが重要なのです。

 さらに15節では「世も世にあるものも、愛してはいけません」と勧められています。既に述べられたように、私たちは「子ども」であり「父」である「若者」です。そのような者としてこの世に生きるように召されているのです。御子が肉体をとってこの世を生きられたように、私たちもこの世に生きるのです。グノーシスの異端の人々のように、肉体から解放された霊の人にとってもはや肉体が何を為すかは問題ではないのだ、などとは言いません。あくまでもこの世にあって、この体をもって責任的に関わって生きるのです。

 それゆえにまた、この世においてどう生きるかが重要になってくるのです。この世とどのように関わるかということです。世にあるものが神から私たちを引き離すことを許してはならないのです。

 実際、ヨハネが「世」と言う時に、それは多くの場合悪魔が支配しているこの世を意味するのであって、ここで語られているのもそういうことです。悪魔が支配しているこの世は、確かに人間を神から引き離すものとして働くのです。神から出たのではない、すなわち悪魔から出た「肉の欲、目の欲、生活のおごり」が神から人間を引き離すものとして働くのです。それはキリスト者にとっても、そのように働くのです。ですから、「世も世にあるものも、愛してはなりません」と語られているのです。

 しかし、それは世と一切かかわりを持たない「世捨て人」になることを意味しません。繰り返しますが、キリスト者はこの世に責任的に関わって生きるのです。そこで思い起こすべきは最後の晩餐におけるキリストの祈りでしょう。主はこう祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:15‐18)。世を愛さないとは、世を捨てることではなく、世に遣わされた者として常に神の御心を尋ね求め、「神の御心を行う人」(17節)となっていくことなのです。

(祈り

2022年12月18日日曜日

「お言葉通り、この身になりますように」

ルカ1:26‐38
 

この世界に先駆けて
 本日の福音書朗読において読まれましたのは「受胎告知」として知られている場面です。今日、礼拝後にページェントが上演されますが、この場面が子どもたちによって演じられます。

 ここに出て来る一人の女性、マリア――それはある特定の個人でありますが、同時に、ある象徴的な存在でもあります。マリアに起こった出来事は、ある意味でこの世界に起こることの「先駆け」とも言えるからです。

 マリアに告げられたのは救い主がマリアの胎に宿ったという知らせでした。そして、やがて時満ちて救い主がこの世に誕生することになります。するとこの世界が救い主を宿す世界となるのです。マリアの胎に宿り、そしてこの世界に宿った。その意味でマリアに起こった出来事は、この世界に起こることの先駆けです。

 そう考えますと、マリアはここで「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉を聞いているのですが、マリアは世界に先駆けてそれを聞いているとも言えます。これはやがて救い主の誕生において神がこの世界全体に語ろうとしていることでもあるのです。「おめでとう。主があなたと共におられる」。

 「主は共にいてくださる」とはどういうことでしょう。それは「罪に満ちたこの世界」と共にいてくださるということです。人間同士が互いに傷つけあい、殺し合っているこの世界。そのようにして人間が自らを暗闇の中に閉じ込めているこの世界。しかし、神はこの世界を決して見捨てない。「主は共にいてくださる」とはそういうことです。ならば、この世界はもはや希望のない滅びゆく世界ではありません、救い主を宿した世界、主が共にいてくださる世界です。私たちの人生もまた希望なく虚しく死に向かう人生ではありません。主が共に生きてくださる人生なのです。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。マリアは確かに聞きました。この世界に先駆けて、神の救いを知り、神の恵みを知ったのです。ですから、今日はお読みしませんでしたが、この同じ章に、マリアの讃美の歌が記されているのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と彼女は歌うのです。

 さて、ここにいる私たちもまた、ある意味ではこのマリアと同じことをしていると言えるでしょう。この世界に告げ知らされるべき良き知らせを、マリアと同じように世界に先駆けて聞いているのです。そして、救いの神を賛美しているのです。教会とはそういうものです。信仰生活とはそういうものです。救い主が来られたことを告げられ、「主があなたと共におられる」という恵みの言葉を告げ知らされ、世界に先駆けて主を賛美し、主と共に生き始める。それが信仰生活です。

 実際、まだこの世界全体が救い主の到来を喜び祝っているわけではありません。確かに街はクリスマスのデコレーションで飾られています。しかし、皆が救い主の到来を祝っているわけではありません。そのようなこの世界の中で、私たちはこの世界に先駆けて、まず先に、こうして救い主の到来を祝います。主が共にいてくださることを喜び、マリアのように讃美の歌を共に歌うのです。その意味では、ここに描かれているマリアという存在は教会を象徴的に表していると言うこともできるでしょう。

主があなたを用いられる
 しかし、「主があなたと共におられる」という言葉を聞くということは、ただこの世界に先駆けて主の救いと恵みを知るということに留まりません。ただ先に主の救いを讃美する者となるということに留まらないのです。

 マリアに与えられたお告げは、単に喜ばしい知らせに留まりませんでした。マリアに告げられたのは、救い主の誕生だけではありません。彼女はキリストの母として生きていくことになるのです。これは神様が彼女の人生を用いようとしているというお告げに他なりませんでした。「主があなたと共におられる」とは、そのことをも意味しているのです。「あなたを用いようとしておられる主が共におられる」ということでもあるのです。

 天使はマリアのところに、ある意味では全く想定外の人生を一方的に携えてきたと言えます。マリアは、ヨセフと婚約していました。彼女は幸せな家庭を夢見ていた、ごく普通の乙女であったに違いありません。しかし、そのようなささやかな望みが、この天使の言葉で、打ち壊されてしまいました。天使はこう告げたからです。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(31節)。

 マタイによる福音書によれば、いいなづけであるヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1:19)と書かれております。当然、そうなるでしょう。マリアにしてもヨセフにしても、この受胎がユダヤの社会においてどのように受け止められるかをよく知っていたはずです。そして、これはマリアが全く想定していなかった、波乱の人生の始まりに他なりませんでした。

 そして、明らかなことは、天使ガブリエルは、これらすべてについて、マリアの意向を打診しに来たのではないということです。「受け取りますか」と言っているのではないのです。天使はあくまでも告知するために来たのです。

 さて、このような天使が現れてお告げを伝える場面は、ページェントの一場面としては良いけれど、実際には非現実的な話に聞こえるかもしれません。私たちの現実の生活と無関係に思えるかもしれません。しかし、考えてみますと、これは極めて現実的な話であり、私たちと深く関わっている話なのです。

 実際どうでしょう。私たちの人生には想定外のことはいくらでも起こります。思いがけない重荷を背負わされること、険しい道のりを歩かされるようなことも起こります。その時に「受け取りますか」と打診されることはありません。こちら側の意向とは関係なく、一方的に与えられるのです。

 それはまさに天使がいきなり携えてきて、一方的に告知するようなものではありませんか。要するに、私たち凡人には天使が見えたり、その声が聞こえたりしないだけの話で、起こっている事自体は私たちに起こっていることと基本的には同じなのです。人生とはまさにこういうものなのです。

 そこでもし、「幸福とは、自分の願った通りに生きられることだ」と考えるならば、自分の願っていないことが一方的に与えられるということは「不幸」なことでしかないと言えるでしょう。そして、そのように考えているかぎり、人は決して幸福にはなれないとも言えます。なぜなら人生には、自分の願わないことが一方的に与えられることのほうが遙かに多いわけですから。年齢を加えていけば思い通りにならないことの方が圧倒的に多くなります。最後に必ず迎える死は、それこそ人間の思い通りにならないことの最たるものでしょう。

 しかし、マリアが聞いたのは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉だったのです。彼女は、想定外の人生を与えられましたが、不幸な人ではありませんでした。主が彼女と共にいて、彼女を用いようとしておられたからです。何のために?――人間の救いのために。この世界の救いのためにです。「主があなたと共におられる」とはそういうことだったのです。

お言葉どおり、この身になりますように
 そこでマリアはどうしたでしょうか。彼女はこう言ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。これが「主があなたと共におられる」というお告げに対するマリアの応答でした。マリアは、共におられる主に、自分の体を差し出したのです。自分の人生を差し出したのです。神のために。そして、この世界のために。そして、私たちは知っています。主は確かにマリアの体と人生を、この世界の救いのために用いられた。その生涯は永遠の意味を持ったのだ、と。

 先ほど申しましたように、マリアは教会の原型でもあります。信仰に生きるとはどういうことかを指し示している存在です。私たちはこの世界に先駆けて「主はあなたと共におられる」という言葉を聞きました。そのような私たちを主は用いようとしておられるのです。この世界に「主はあなたと共におられる」ということを現わすために、この世界に主の救いを現わすために、主は私たちと共におられて、私たちを用いようとしていてくださるのです。

 そこで、私たちに必要なことは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言って、自分自身を差し出すことだけなのです。私たちは何ができるか、何を持っているか、若いか年老いているか、健康であるか病気であるか――関係ありません。必要なことは、ただ自分を差し出すことです。

(祈り)

2022年12月14日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:7~11

ヨハネの手紙一 2:7‐11

 前回お読みしたところにこう書かれていました。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(2:3‐4)。

 ここに語られている「神を知っている」と言っている人というのは、先週触れました、後にグノーシスと呼ばれる異端の人々のことです。彼らは神を知り、肉体の牢獄から解放されるための特別な知識(グノーシス)を得ていると主張していたのです。彼らは自らを「霊の人」と呼びました。しかし、「霊の人」として、肉体から解放されているという思想のゆえに、肉体が行うことについて責任を持たないことが正当化されていたのです。不道徳に身を任せ、目に見える兄弟をも愛することなく、この世における倫理的な責任をも放棄してしまっている。そのような人々について、実際に神の掟を守っていないなら、どうして「神を知っている」と言えようか、とヨハネは言っているのです。まさにそのような生活が異端の内に真理がないことを暴露しているのだ、と。

 異端の人々についてこのように語っているのは、教会の中にいまだにその教えに惹かれている人たちが少なからずいたからです。それゆえに、ヨハネは彼らに「神の掟」が何であるかを改めて思い起こさせます。ここで語られているのは、キリストが最後の晩餐の時に語られた、「新しい掟」のことです。すなわち「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と主が言われたことです。

 教会の人たちは、その言葉を既に良く知っているはずです。ですから、ヨハネは「これは初めて語られることではありません」という意味で、次のように語ります。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」(7節)。

 しかし、ヨハネはこの既に教会の人たちが聞いたことのある言葉を、改めて新しく語り直さなくてはならないと感じています。「しかし、わたしは新しい掟として書いています」(8節)と言うのです。もちろん「新しい掟」という表現を最初に使ったのはイエス様御自身です。しかし、ヨハネは、あの時なぜイエス様があえて「新しい掟」と言われたのか、そのことを思い起こさせようとしているのです。それが「新しい掟」であるのは、イエス様にとっても真実であり、それはまた教会の人たちにとっても真実であるはずだからです。

 その新しさとは何だったのでしょう。ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったのです。それは言うまでもなく、イエス・キリストの十字架と復活を指しています。

 後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。1章5節には「神は光である」と書かれていました。その光とは、さらに言うならば神の愛の光なのです。イエス・キリストを通して現してくださった、神の愛の光なのです。その光は既に現され、ちょうど太陽が昇った後のように私たちを照らしているのです。

 そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事の光の中で、「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と言われているのです。ただ「愛せよ」と命じられているのではないのです。そこにこそ新しさがあるのです。イエス様が「新しい掟」と言われ、ヨハネが改めて「新しい掟として書いています」というのは、そういうことです。

 そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」という中にあるにもかかわらず、そこでなお神の光を退け、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を退けるということは、何を意味するのでしょう。それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものではありませんか。

 あるいはもっと適切な例を挙げるなら、既に明るい中を歩いているはずなのに、あえて自ら目をつぶって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。ですからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。

 誰でもそうだと思うのですが、神秘的な体験や神のリアリティに触れるような体験をした人は自分が「光の中にいる」ような思いになるのです。「他の人に見えないことが、わたしには見えている」と思うのです。現に異端の人たちは「光の中にいる」と主張していたのです。しかし、それが目に見える兄弟を愛することにつながらないで、相変わらず憎んだり争ったりしているならば、実際には、既にまことの光が輝いているにもかかわらず自分を暗闇の中に閉じこめてしまっているようなものなのだ、と聖書は語っているのです。

 さて、そのように暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こるでしょうか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)。

 「つまずく」というのは、もちろん信仰がつまずくことです。信仰がつまずいて神からも離れてしまうことです。光の中にいるならばつまずかないのです。しかし、愛することを止めて、憎しみが支配するならば、つまずくようになります。実際にそうではありませんか。信仰がつまずくときは、たいてい他の人との関係においてつまずくのです。そのような時、「誰かのせいでわたしはつまずいた」と思うのです。しかし、聖書によればそうではなくて、愛することを止めて、暗闇の中に身を置いたからつまずくのです。

 いやつまずくだけだったら、まだ良いのです。そこにはもっと恐ろしいことが書かれています。「兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません」(11節)。目をつぶったまま、歩き続けていたり、走り続けている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたなら、まだ良いのでしょう。そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。そのように兄弟を憎むという暗闇の中にあって、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになってしまうかもしれません。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。

 もとより理由なく誰かを憎むということはあり得ません。そこには必ず何らかの理由があるのでしょう。理由があって憎んでいる場合、自分は正しい側の人間になっているはずです。しかし、その正しさを主張したまま先へ先へと進んでいくことは、極めて危険なことなのです。暗闇の中にある人は、自分がどこへ行くかを知らないからです。闇の中にいることを知ったなら、立ち止まらなくてはなりません。暗闇の中を歩いたり走ったりしてはなりません。まず光の中に立ち戻ることが先決なのです。
(祈り)

2022年12月11日日曜日

「神と共に喜ぶ時が来る」

 ゼファニヤ書 3:14‐17


 「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」。今日の第一朗読において、そのように呼びかけられています。今日お読みしたのは、全体で3章しかない短い預言書、ゼファニヤ書でした。今日はこのゼファニヤ書を一緒にお読みしたいと思っております。

 「娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」――しかし、この短い預言の書そのものは「喜び踊れ」という呼びかけから始まっていたわけではありません。実は、この預言書は裁きの言葉から始まるのです。

地の表からすべてのものを一層する
 1章をお開きください。「わたしは地の面からすべてのものを一掃する、と主は言われる」(1:2)。これがこの書に記されている最初の預言の言葉です。この世界全体に対する神の裁きの預言です。次のように続きます。「わたしは、人も獣も取り去り、空の鳥も海の魚も取り去る。神に逆らう者をつまずかせ、人を地の面から絶つ、と主は言われる」(1:3)。この激しい裁きの言葉は、ノアの箱舟の物語を思い起こさせます。かつて主はノアに言われました。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(創世記6:13)。

 そのように全世界に対して神が裁きを宣言なされるのは、全地に罪が満ちているからです。神の御前においては、すべての人間には罪がある。しかし、神はその矛先を神の民イスラエルに向けられます。彼らもまた、この世界のただ中にあって例外ではないということです。それゆえに、この世界がどうであるかという以前に、まず神の民イスラエルがどうであるかを主は問題とされるのです。

 主は言われます。「わたしは、ユダの上とエルサレムの全住民の上に手を伸ばし、バアルのあらゆる名残とその神官の名声を、祭司たちと共に、この場所から絶つ。屋上で天の万象を拝む者、主を拝み、主に誓いを立てながらマルカムにも誓いを立てる者、 主に背を向け、主を尋ねず、主を求めようとしない者を絶つ」(1:4-6)。

 ここを読みますと、その具体的な罪が何であったかがはっきりと語られています。そこにはカナンの豊穣神礼拝、バアル礼拝がありました。また、アッシリアの影響下にあって天体が神として礼拝され、その祭壇が主の神殿の中にまで置かれておりました。その他にも、ソロモンの時代から連綿と続くアンモン人の神マルカムへの礼拝が行われていました。

 彼らは「主(ヤハウェ)」を礼拝していなかったわけではありません。「主も」礼拝していたのです。しかし、何でも礼拝の対象とするということは、要するに本質的には神そのものには関心がないということを意味します。信じて礼拝する対象は何でもいい。それよりも、何を得られるかが重要だということです。

 ですから、彼らは「主を尋ねず、主を求めようとしない者」と呼ばれているのです。そのように主を求めようともしていないのですから、主が現実的にこの世界に介入されることをも信じてはいません。そんな彼らが主を侮って語った言葉が12節に引用されています。彼らは言うのです。「主は幸いをも、災いをもくだされない」(1:12)と。

 しかし、主は侮られる方ではありません。「そのときが来れば、わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し、酒のおりの上に凝り固まり、心の中で『主は幸いをも、災いをもくだされない』と言っている者を罰する。彼らの財産は略奪され、家は荒れ果てる。彼らは家を建てても、住むことができず、ぶどう畑を植えても、その酒を飲むことができない。主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。その日は憤りの日、苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である」(1:12-15)。

 さて、このような激しい裁きの言葉が見られるのは、何もゼファニヤ書に限ったことではありません。そして、そのように怒りを露わにして語られる神、災いを下すことを宣言し、国家の滅亡を予告する神の姿に、抵抗を覚える人もあろうかと思います。

 しかし、神がただ怒りをもって災いを下し、国家を滅亡させることを望んでおられるならば、本来、このような預言の言葉など必要ないのです。何も言わずに災いを下し、国家を滅亡させたらよいのでしょう。しかし、聖書の神はそうされないのです。預言者を通して、あえて裁きの預言を語られ、人々に呼びかけるのです。

 それはなぜですか。主が望んでいるのは彼らが滅びることではないからです。主が望んでおられるのは悔い改めなのです。厳しい裁きの預言の背後にあるのは、罪人が滅びることを望まれない、神の憐れみなのです。

 しかし、人間は悔い改めへの呼びかけにさえ耳をふさぐのです。耳を傾けようとはしない。そこにこそ人間の罪の最も深い闇があるのです。彼らは耳を傾けませんでした。3章において次のように語られています。「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった。主に信頼せず、神に近づこうとはしなかった」(3:1)。

 そこで主は改めて裁きを宣言されます。「わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国を呼び寄せ、彼らの上に、憤りと激しい怒りを注ぐことを定めたからだ」(3:8)。そして、その言葉の通り、ユダの王国は紀元6世紀に滅亡することになりました。

娘シオンよ、喜び叫べ
 さて、これが今日朗読された聖書の言葉の背景です。神に背き続けたユダ王国の滅亡です。それは国家規模の災いです。人が災いに遭ったとき、そこに起こるのは「嘆き」です。それは国家規模の大きな災いであろうが、一人の人生に起こる災いであろうが変わりません。災いにおいて起こるのは嘆きです。

 しかし、災いにおいて生じる「嘆き」には二通りあります。一つは、災いそのものを嘆く嘆きです。失ったものを思っての嘆きと言っても良いかもしれません。国を失ったこと、エルサレムの都と神殿を失ったこと、それまでの平穏な生活を失ったこと、将来の夢と希望を失ったこと、彼らの嘆きは尽きなかったと思います。そのような嘆きは多かれ少なかれ私たちにも経験があります。

 しかし、もう一つの嘆きがあります。それは災いにおいて、在りし日を振り返り、自らの生きて来た道筋を振り返り、自らの罪を嘆く嘆きです。神に背いてきたこれまでの歩みを嘆く嘆きです。

 1章から見て来たゼファニヤの裁きの預言が、今もこのように読むことができるのは、実際に国家が滅亡した後にも後生大事に保存し、伝えてきた人々がいたからです。彼らは何を考えてそうしたのでしょう。彼らの嘆きはどのような嘆きだったのでしょう。

 彼らは災いにおいて、イスラエルの歩んできた道筋を振り返ったのです。そして、神の呼びかけに背を向けてきた自らの罪を思ったのです。彼らの嘆きは、ただ災いそのものを嘆く嘆きではありませんでした。そうではなくて、神に背いて生きて来た、自らの罪を嘆く嘆きだったのです。だからこそ、神の裁きの言葉を残したのです。そして、そのような嘆きには希望があるのです。なぜなら、人間は過去に帰ることはできないけれど、生きる方向を変えて神に帰ることはできるからです。

 そして、そのように自らの罪を嘆き、神に立ち帰る人々に対して、今日お読みした14節以下の言葉は語られているのです。

 「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」(3:14‐15)。彼らは確かに災いを味わいました。しかし、それは神から見捨てられたことを意味しませんでした。災いを経てなお、神はイスラエルの王として、彼らのただ中にいてくださる。そのように主は言われるのです。

 そして、さらに驚くべきことが語られています。それは王なる主がこのことを誰よりも喜び楽しんでいるという描写です。「その日、人々はエルサレムに向かって言う。『シオンよ、畏れるな、力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる』」(同16‐17節)。

 これがこの預言者の冒頭において「わたしは地の面からすべてのものを一掃する」と語られ主に他ならないのです。ユダに怒りを注ぎ、エルサレムを破壊されるにまかせた神に他ならないのです。言い換えるならば、激しい裁きの言葉と下された恐るべき災いというそのすべての背後に隠されていた神の真意が、ここに至って明らかに語られているのです。

 私たちはここを読みますとき、イエス様がたとえ話をもって語られたことを思い起こします。一匹の羊を見いだしたゆえに狂喜する羊飼い。一枚の銀貨を見いだしたゆえに「一緒に喜んでください」と近所中を駆け回って人々を呼び集める女。息子が帰ってきたと言って、老いた体を揺さぶりながら走り寄り、首を抱きかかえ接吻をし、さらには大きな祝宴を催す父親。そのようにイエス・キリストが神の独り子として父の心を語り出す600年以上も前に、既に旧約の預言者がその神の御心を知り、語っていたのです。

 さて、私たちは待降節においてこの箇所を読んでおります。再臨のキリストを待ち望む私たちは、やがて裁き主であるキリストが来られ、全地に最終的な正しい裁きがなされることを信じています。そこにおいて、私たちが思い起こさなくてはならないのは、預言者が目を向け、そしてキリストが目を向けていた、神の真意です。一人の罪人が立ち返るならば、天において大いなる喜びがある!神の喜びが天に満ち溢れ、その喜びを私たち自身もまた与って共に喜ぶ時が来ることを信じて、主を待ち望み、共に仕えたいと思います。

(祈り)

2022年12月7日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:1~6

ヨハネの手紙一 2:1‐6

 先週からヨハネの手紙の学びに入りました。ヨハネは自分たちが見、また聞いたこと、すなわちイエス・キリストを伝えようとしています(1:3)。しかし、この手紙が宛てられている人々に関して言うならば、実はもう既にキリストを知っている人、キリストを信じている人なのです。5章13節を御覧ください。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」

 そのように、この手紙は、既に信者である者に、改めて福音を語り直している、そのような手紙であることが分かります。特に、冒頭から明らかなように、ヨハネはイエス・キリストが「目で見たり、手で触れた」りすることができたこと、すなわちキリストの受肉を強調しています。また、今日お読みしたところに、キリストが受肉したのは「全世界の罪を償ういけにえ」となるためであったことが書かれていまして、それは4章でも繰り返されています。

 そのような福音の基本的な事柄が語り直されているのは、教会の信仰が危機に瀕していたからです。既にペトロの手紙の学びにおいても見てきましたように、教会は外からの迫害だけでなく、内側から崩壊させる力を持つ異端の教えによる危機に直面していたのです。キリストの受肉や罪の贖いが語り直されているのは、現実には受肉や贖罪を否定する人たちがいたからなのです。

 後にその異端はグノーシスと呼ばれるようになり長い間教会を苦しめることになります。その教えの特徴を簡単に申し上げますと、その根底にあるのは霊肉二元論です。霊的なもの精神的なものは善であり実在し、物質的なものは悪であり本当は実在などしないとする考えです。ですからキリストが物質的な肉体をとられたとは信じません。肉体を持って死んだのも「そのように見えただけ」とするのです。ですから罪の贖いをも信じない。キリストは十字架にかかるために来られた御方なのではなくて、目に見えない霊の領域から目に見える肉の領域に降って来た神であり、人間の魂を牢獄である肉体から解放して霊の領域に帰らせるために来られ、自分自身もまた霊の領域に帰っていく神なのです。

 彼らはこの解放者であり啓示者であるキリストによって救いの知識(グノーシス)を得て、肉体の牢獄から解放され、神との神秘的な合一を得た霊的な人になっていると考えました。そのような人にとっては物質的な肉体が何を行うかということは本質的に重要なことではなかったのです。ですから、いくらでも不道徳に甘んじることができたし、当然、この世における倫理的な責任を果たす必要もなかったのです。

 そのようなグノーシスの異端というものは、形を様々に変えながら、今日に至るまである意味では続いていると言えます。キリストの受肉も十字架をも必要としない信仰。ただひたすら神秘的な体験とそれによる特別な知識を求める信仰。そして、それを得たら何か特別な人間にでもなったかのように考える。その一方において、目に見える世界を意味無しとするゆえに、自らの罪の問題とは向き合わず、悔い改めを重要なこととも考えない。この世における責任ということも考えない。現実の体をもって他の人々と共に生きるということも重要に考えない。そのような信仰のあり方が、いくらでも教会に入ってくることはあり得るのです。だからこそ、改めて福音が語り直されなくてはならなかったのです。

 そこでヨハネは言います。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」と。この手紙において、「罪を犯す」という言葉は、狭い意味においては、既に述べてきた異端に転じないということを指しています。しかし、それはまた広い意味においても「罪を犯さないようになるため」ということでもあります。先にも触れましたように、グノーシスの異端は罪の問題と向き合う感覚を麻痺させてしまうからです。それは、神と交わりを持っていると言いながら、罪に目を向けないで済む暗闇の中を歩いているようなものなのです。ですからヨハネは光の中を歩くようにと語るのです。光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められることを語るのです。それは「罪を犯さないようになるため」なのです。

 そこでさらにヨハネはさらに次のように語ります。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1‐2節)。

 「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者…がおられます」は、それだけ取り出して読めば、罪の容認に見えなくもありません。確かにイエス・キリストが罪を償ういけにえであるという教え、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるという教えは、罪を許容する教えであるかのように誤解される危険はありますし、また実際に誤解されてきたことも事実です。しかし、それでもなおこれは本来、私たちが「罪を犯さないようになるため」に与えられているものなのです。

 御父のもとには弁護者がおられることを知らないゆえに、また、全世界の罪を償ういけにえが既に屠られたことを知らないがゆえに、人は光なる神を遠ざけて暗闇の中に逃げ込むのです。現実と向き合わなくなるのです。罪が現実にあるのに、その罪の問題と向き合わなくなるのです。
 そのように光の中を歩み、感謝をもって神の御心を行うようになることこそ、神を知るということなのです。ただ神秘的な神との合一を求め、そのような体験によって神の知識を得たと思っても、それは本当の意味で神を知っていることにはならない。それゆえにヨハネは言います。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。 『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(3‐4節)。

 「掟」という言葉は、一般的に肯定的な印象を与えない言葉でしょう。しかし、これを読んでいた教会は、それが何を意味するか分かっていたのです。その掟とは――「愛すること」です。互いに愛し合って生きることなのです。次の章にはこう書かれています。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。

 この掟はイエス・キリストに由来します。最後の晩餐の席において、イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。そのように、神の掟を守ることの中心にあるのは互いに愛し合いなさいというキリストの掟です。

 神を知るということと愛するということは不可分の関係にあります。それは御子として御父との交わりの中に生きられたイエス様御自身が示してくださったことです。イエス様は父なる神の内にあり、父との交わりの中に留まるということがどういうことかを見せてくださいました。それゆえに、ヨハネはこのように記しているのです。「神の内にいつもいる(留まる)と言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まねばなりません」(6節)。イエス様は自ら肉となられてこの地上の世界を歩まれ、具体的に目に見える世界と目に見える現実の人間を愛して生きられたのです。

(祈り)


2022年12月4日日曜日

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」

イザヤ書 55:1-11

渇いている者は来るがよい
 今から2600年ほど前の話です。かつて繁栄を極めたユダ王国の都エルサレムは、今や無残な廃墟となっていました。バビロニア軍によってユダ王国は滅ぼされ、エルサレムは破壊され、主だった人々はバビロンに捕らえ移されていったからです。

 それから50年近くの月日が流れました。時代は変わりました。バビロニアに代わって古代オリエント一帯をペルシアが支配する時代となりました。支配者の交代――それはバビロンに捕らえ移された捕囚の民にとって決定的な意味を持つことになりました。というのも、バビロンを征服したペルシアの王キュロスの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていたからです。彼は占領下にある諸民族を支配するに当たり、それぞれの民族の文化と宗教を重んじるという政策を採りました。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、ユダの地に帰還し、エルサレムを再建することが許されたのでした。

 今日の第一朗読は、そのような時代を背景として語られた言葉です。主は預言者を通して語られました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。

 これは何を意味するのでしょうか。ただ祖国に帰れる時が到来したのではない、ということです。そうではなくて、神のもとに帰るべき時が来たのです。今までの生活を後にして、渇きを癒す水のもとに行くべき時が来たのです。魂の飢えを満たしてくださる神のもとに帰るべき時が来たのです。いわば、信仰の生活をもう一度建て直すべき時が来たということです。

 バビロンが与えてくれるものを追い求める時代は終わりました。もう既に彼らは知っていたはずなのです。バビロンから何を得たとしても、何をもって自分を満たそうとしても、本当の飢え渇きはこの世からのものでは満たされないということを。主も言われるのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)と。

 本当の満たしは主から来るのです。主は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。いや、それだけではありません。さらに主はこう続けます。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(同)。「《とこしえの》契約」です。それはすなわち、ぜったいに関係が切れないということです。主は絶対に見捨てられない。そのような関係に入れられるということです。

 これらの言葉がバビロンの捕囚民にどれほど大きな意味を持っていたかを改めて思います。現実に彼らがバビロンを後にしてエルサレムへと帰還するとするならば、そこには様々な困難が予想されるでしょう。不安や恐れもあることでしょう。しかし、それでもなお彼らは旅立ったのです。それは単に祖国への旅立ちではなく、まさに主のもとへと立ち帰る旅立ちだったのです。主のもとにこそ良きものがある。主のもとにおいてこそ魂は豊かさを楽しむことになる。主のもとにおいてこそ、魂に命を得るのだ。そして、我らは永遠に失われることのないとこしえの関係に生きるのだ。彼らの旅立ちは、そのような信仰生活の再建へと向かう旅立ちに他ならなかったのです。

近くにいますうちに
 しかし、そのようにエルサレムへと帰還した捕囚民を待ち受けていたのは、予想していたとはいえ、実に厳しい現実でした。彼らが目の当たりにしたのは崩れ落ちた城壁であり、焼け落ちた神殿でした。

 廃墟となったエルサレム。しかし、そこで彼らが直面したのは単に生活上の困難ではありませんでした。そうではなく、彼らが改めて目にしたのは、イスラエルの罪とその結果だったのです。彼らが目の当たりにしたのは、神に背き続けるということが、どれほどの悲惨をもたらすのかという現実だったのです。彼らは神の呼びかけに背き続けた先祖の罪を思ったことでしょう。しかし、それは彼らにとって他人事ではなかったはずです。彼らは自らの罪、バビロンで生きてきた自分たちの罪をも思わずにはいられなかったに違いないのです。

 そのように、神のもとに行こうとするならば、信仰に生きようとするならば、神の御前における自分自身の罪とどうしても向き合わざるを得なくなるのです。そこで人は、聖なる神と罪ある人間との間にある大きな隔たりを認めざるを得なくなるのです。自分自身の罪を思うなら、本来神に近づくことなど到底できない自分自身であることも知ることになるのです。

 しかし、主はそのような彼らに対し、預言者を通してこう語られたのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6‐7節)。

 なんと、主は自ら近くにいてくださると言うのです。主は罪ある人間の近くにいてくださる!誰でも尋ね求めさえすれば見いだすことができるほどに近くにいてくださる。呼び求めることができるほどに近くにいてくださる。罪人を断罪し滅ぼす御方としてではなく、憐れんでくださる御方として、豊かな赦しをもって近くにいてくださるのです。ならば、人間がすべきことは、立ち帰ることなのです。主の憐れみを信じて、豊かな赦しを信じて、立ち帰ることなのです。

わたしの道は異なる
 とはいえ、罪の結果が厳然として目の前にある時に、罪の赦しを信じることが難しいことも事実です。そして、罪のもたらした廃墟が回復することを信じることはさらに難しい。彼らは神の裁きによって廃墟となったエルサレムを前にして、神の赦しを信じることができたのでしょうか。その廃墟が本当に建て直されると信じることができたのでしょうか。

 しかし、主は彼らに言われるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(8‐9節)。

 私たちも時として思わずにはいられないのでしょう。「こんなわたしは赦されるはずがない」と。しかし、それは人間の思いです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」のです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」これが主の思いです。

 「この廃墟が建て直されるはずはない」。それもまた人間の思いです。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われます。廃墟は永遠に廃墟であるように人には思えます。荒れ野は永遠に荒れ野であるように思えるのです。しかし、51章にはこのような言葉があります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51:3)。これが主の思いです。それは私たちの思いを、高く超えているのです。

 エルサレムの廃墟に直面した彼らに必要なことは、ただ彼らの分を弁え、へりくだることだったのです。そうです、私たちに必要なことも、私たちの思いと主の思いは異なる、私たちの道と主の道は異なるということを認めてへりくだることです。そして、私たちの思いとどれほど異なろうが、ただ主が語られる言葉に信頼することなのです。

 主はこう言われます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(10‐11節)。私たちの思いとどれほどかけ離れていようと、私たちの道とどれほど異なっていようと、最終的に神の御言葉こそが成就するのです。

 さて、私たちはアドベントの季節にこの御言葉を耳にしています。キリストの到来を思いつつ、この言葉を聞いています。このように語られた主は、預言者を通して語られるだけでなく、最終的に独り子を世に遣わされて語られました。まさに御自分の御言葉そのものであられるキリストを世に遣わされて決定的な仕方で語られたのです。

 キリストは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同35節)。そして、「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われたとおり、キリストは十字架において父なる神の御心を成し遂げられたのです。神の御子の血による罪の贖い!それは私たち人間には想像することもできなかった神の思いであり、私たち人間の道とは大きく異なる神の道に他なりませんでした。

 私たちはキリストの到来と、そのキリストにおいて成し遂げられた神の御業を知る者として、改めて今日の御言葉を聞いているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。そして、主は言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。

(祈り)

2022年11月30日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 1:1~10

ヨハネの手紙一 1:1‐10

 ヨハネはここでひとりのお方のことを伝えようとしています。父なる神と共におられた「命の言」、永遠の命そのものであられるお方は、この世界に来られ、この歴史の中に現れ、私たちが見ることができ、手で触れることができる存在となられました。人となられた御子なる神、イエス・キリストのことです。

 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(1:3)とヨハネは続けます。イエス・キリストを伝えるのは「交わりを持つようになるため」です。伝道とは交わりへの招きです。

 その交わりとは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であるとヨハネは言います。ヨハネたちは既に御父と御子イエス・キリストとの交わりに入れられています。そのような彼らが、イエス・キリストを宣べ伝えて、さらに他の者を交わりへと招きます。教会が二千年間続けてきたことは、まさにこのことです。そして、私たちにも伝えられ、私たちもその交わりへと招かれたのです。信仰生活とは、この交わりに生きることに他なりません。

 ヨハネがこれを書くのは、すなわちキリストを伝え、交わりへと招くのは、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」であると言っています。「わたしたち」というのは、別の写本では「あなたたち」となっています。「あなたがた」を含めた「わたしたち」と言っても良いでしょう。そのように、交わりへの招きは満ちあふれる喜びを共有するためです。

 このように私たちの信仰生活において、「交わり」は本質的な意味を持っています。「個人的に神を心の中で信じていればよいではないか」という考えはキリストの福音とは無縁です。私たちは、既に存在する交わり、すなわち御父と御子と世々のキリスト者との交わりへと加えられることにおいて、神と共に生きるのです。御父と御子との交わりを基とした信仰における兄弟姉妹との交わりに生き、さらに隣人をその交わりへと招くところにおいてこそ、私たちは満ちあふれる喜びを経験するのです。

 そこでさらにこの交わりについて考えてみましょう。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。すなわちそれは「神との交わり」でありますから、そこでは当然のことながら、《神はどのようなお方であるか》ということが大きな意味を持つことになります。そこでヨハネはこう言っています。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(5節)。

 「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」――この言葉によって思い描くべき一つの姿は、私たちが明るい光の中を共に歩いている姿です。この正反対の状態も思い描いてみましょう。私たちが真っ暗闇の中を歩いている姿です。「光の中」と「闇の中」、その決定的な違いは、一方で見えるものが他方では見えない、ということです。

 私たちは通常は、物が見えることは望ましいことだ、と考えて生活しているものです。ですから昼間はカーテンをあけて太陽の光を部屋に取り込み、夜は人工的な光をもって部屋を照らします。停電などで真っ暗になってしまうと、本当に困ったことになります。

 しかし、私たちは常に何でも見えることが良いと考えているわけではありません。見えないほうが良いと思っているものもあるのです。その代表は何でしょう。それは「罪」です。私たちの罪深い行い、私たちの罪深い姿が見えてしまうことは、私たちにとって都合の悪いことです。ですから、罪について言うならば、それは他の人に見えないことが望ましい。自分にも見えないことが望ましい。そのために、あえて光を遠ざけて闇の中に身を置く、ということが私たちの人生には起こってまいります。

 「神は光である」とヨハネは言いました。しかし、その光を遠ざけて、闇の中に身を置くならば、見えるべきものが見えません。罪が罪として認識されません。言い換えるならば、闇の中にいる限り、人間は自分の罪深い行いを、いくらでも正当化できるということです。8節にありますように、「自分には罪がない」と言うことができるのです。

 この手紙が書かれた当時、「自分には罪がない」という主張のために援用されていたのはギリシア的な霊肉二元論に関する哲学的思弁や様々な神話でした。そのように、人間はいかなる論理を用いてでも「自分に罪がない」と言い張るものなのです。

 今日の私たちは、当時の人々と異なる論理を用いて、自分を正当化しているかもしれません。いずれにせよ、それは闇の中において可能なことです。ですから、私たちは本当は、「自分には罪がない」という主張が神の明るい光に耐え得ないことを知っているのです。実際、私たちが普段言い張っていることを神の御前で本当に主張することができるか、と問われるならば、口を閉ざさざるを得ないでしょう。

 そして、もう一つ明らかなことがあります。それは闇の中でどんなに「自分には罪がない」と言い続けても、そこに本当の喜びなどない、ということです。思い描いてみてください。真っ暗闇の中を歩いている自分を、そして真っ暗闇の中を歩いている隣人を、闇の中における人間社会の営みを。それは確かに「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」というヨハネの言葉とは対極にある姿ではありませんか。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)とヨハネは言います。まことに彼の言うとおりです。

 それゆえ、私たちは闇の中を「歩いて」はならないのです。すなわち、闇の中で生活し、その生活を継続してはならないのです。たとえ闇の中に自らを置いてしまうことがあったとしても、その闇の中に留まり続けてはならないということです。そこで必要なのは悔い改めです。私たちは神のもとに立ち帰り、光の中に立ち帰らなくてはならないのです。

 光の中を歩むなら、罪が罪として見えてくるでしょう。自分の為してきた悪がはっきりと見えてくるでしょう。もはや「自分には罪がない」とは言えません。そこには心の痛みが伴います。しかし、それでもなお、光の中に身を置くべきなのです。なぜなら、私たちには約束が与えられているからです。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7節)。私たちが光の中にいるかぎり、御子イエスの血が私たちの罪を清め続けるのです。

 そして、そのような光の中においてこそ、闇の中にはなかった互いの真実な交わりも成り立つのです。それは具体的に次のように言い換えられています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(9節)。

 光の中を歩むために与えられている公の場所、それは私たちが共に集まり神を礼拝する場所です。光の中を歩くということは、単なる精神的な事柄を言っているのではありません。それは共に神を礼拝して生活するという具体的な形を持っているのです。そして、そのような具体的な公の場に、私たちは罪を告白する者として共に立つのです。

 私たちは毎週詩編51編を交読します。「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」この言葉を、私たちは公に口にします。これを単なる形式的なお題目にしてはなりません。もし私たちが真実に神の前でこの言葉を告白するならば、それは私たちが悔い改めて、いかなる罪を正当化することをも放棄することを意味するのです。

 そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なことが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。

 真実で正しい方であるならば、その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しかし、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれていますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけにえとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださるのです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清めるのです。

 私たちの互いの交わりは、そのような礼拝から始まります。そこから光の中における交わりが始まるのです。神の恵みを共有する、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」が始まるのです。そして、私たちはイエス・キリストを宣べ伝え、その交わりへとさらに隣人を招きます。真の喜びが満ちあふれるようになるために!

(祈り)
 

2022年11月27日日曜日

「農夫のように忍耐強く、実りの時を待ち望む」

ヤコブの手紙 5:7‐11

●主が来られるときまで忍耐しなさい
 「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(ヤコブ5:7)と語られていました。今日の箇所において語られておりますこの「忍耐」は、「試練」ということを背景として語られております。この手紙の一章を読みますと、例えば「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(1:2)、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(1:12)ということが語られております。

 この試練が、具体的にどのような状況を意味するのかは定かではありません。恐らく、教会に対する迫害を彼らは経験していたことでしょう。あるいは、富める者や権力者たちによる抑圧に苦しむ貧しい人々がいたことでしょう。いずれにせよ、ここで「いろいろな試練」と書かれておりますから、その具体的状況は一つではなかろうと思います。実に様々な場面において、信仰者はその信仰が問われます。試されるのです。この世はキリストを主とし王として従っている世界ではありません。その中において、キリストに従って生きようとするときに、ありとあらゆる事柄が、信仰の試練となり得ます。その点においては、ヤコブの手紙の時代も現代も変わりません。

 そのような「試練」を背景として「忍耐しなさい」と語られております。ところで、新約聖書において「忍耐」と訳される言葉は一つではありません。大きくは二通りに分かれます。一つは「留まる」という言葉に由来します。どんな困難があろうとも、今置かれた状況下にあえて留まること。それを「忍耐」と言います。有名な箇所としては、例えば、「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)というパウロの言葉が挙げられます。そこで語られている「忍耐」とは、「留まること」です。

 しかし、もう一つの「忍耐」があります。それは「留まること」というよりも、「待つこと」と関係しています。今日読まれた7節で用いられている「忍耐」という言葉はもともと「気を長く持つ」ことを意味する言葉なのです。

 試練は永遠ではありません。すべての試練には終わりがあります。そのことを知っている人は、試練の中で耐え忍んで待つことができます。試練の向こう側を考えることができます。私たちは、その終わりを聖書において教えられております。私たちが信じるキリストの再臨こそ、究極的にはすべての試練の終わりです。

 もちろん、それは裁きの時でもあります。この世と一つになり、神に敵対しているならば、キリストが到来するその時は、世と共に裁かれる時となるでしょう。しかし、神を愛し、キリストを主とし、その御体に連なり、主を待ち望んでいる者にとっては、まさにキリストの再臨こそ最終的な希望であり、神の報いの時であり、試練の終わりの時に他ならないのです。ですから、ここで「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(7節)勧められているのです。

 それは農夫が忍耐強く実りの時を待つのと同じです。農夫は待つことを知っています。農夫は実りの時までにはプロセスがあることを知っています。種まきの直後に秋の雨が降ります。そして、実が熟す直前に春の雨が降ります。この定められた時を経なくては実りを見るに至りません。実りをすぐに見られないからと言って、畑を投げ出してしまう愚かな農夫はいないでしょう。彼が待つのは、実りの時が来ることを知っているからです。だから忍耐しながら待つのです。

 それは信仰においても同じです。様々な試練は、人に信仰を投げ捨てさせ、神から引き離す誘惑ともなります。だからこそ、その誘惑に屈してはならないのです。ゆえにヤコブは「心を固く保ちなさい」と勧めます。主が定められた終わりの時まで、心を保ち、忍耐しつつ備えて待たねばならないのです。

●互いに不平を言わないように
 そして、次に、「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです」(9節)と勧められています。実は、この手紙を含め、言葉に関する勧めや戒めは少なくありません。人間の舌というものの恐るべき力をヤコブは既に3章で語っています。

 「ご覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3:5‐6)。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3:9‐10)と彼は言います。さらに、4章で、「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません」(4:11)と勧めているのです。

 なぜ言葉についてヤコブが繰り返し語るのかは分かるような気がします。試練の時には、舌を制御することが、困難になるからです。苦しみや困難が、私たちを不平や不満で満たしてしまうということを、私たちはしばしば経験いたします。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野の旅の苦しさの中で、繰り返し不平や不満をつぶやいたのと同じです。

 普段は穏やかに語れるのに、困窮している時には同じように語れなくなります。普段なら全く気に留めないであろう他人の言動が、妙に気に障るようになる。そのような経験はありませんか。しかし、普段ならば気にならないということは、本当の問題は他人の行為や言葉ではなくて、こちらの状態にあるのです。にもかかわらず、往々にして問題は相手にあると私たちは思い込んでしまうのです。

 その結果、悪口や不平が舌という器官を通して言葉となって外に現れるようになります。教会が外からの迫害と圧迫を受けた時、本当の危機は実は外にではなく、内にありました。教会に不平や不満の言葉が満ちるならば、それは確実に教会の交わりを腐らせていくに違いないからです。崩壊は外からではなく内側から起こります。もちろん、試練のもとにあった当時のキリスト者たちには、互いに解決しなくてはならない問題がたくさんあったに違いありません。しかし、不平や不満が互いの関係を建て上げ、教会を建て上げる力となることは絶対にないのです。

 そこで私たちは何を考えねばならないのでしょうか。ヤコブは続けてこう言います。「裁く方が戸口に立っておられます」(9節)。終末におけるキリストの再臨を空間的に表現するとこうなります。キリストが戸口に立っておられます。そして、ある瞬間に、キリストが戸を開いて入ってこられるのです。そこで、キリストは何を耳にするのでしょう。私たちの言葉です。私たちが今しがたまで語っていた言葉です。いや、もう既にキリストはずっと聞いておられたのです。戸口におられたのですから。

 私たちはそのことを知る時、同じことを語り続けることができるでしょうか。不平を言う時には、自分が正しいと思っているものです。その言葉を、裁く方、すなわち再臨のキリストを前にしても、なお語り続けることができるならば、キリストが来ておられない今、口にすることに何ら問題はないでしょう。しかし、本当に主の前でそう言えるだろうか、ということを一度は考えてみなくてはなりません。その意味においても、再臨のキリストを、戸口に立っておられ、今まさに入って来ようとしておられるキリストとして思い描くことは、私たちにとっても大事なことです。

●預言者たちを忍耐の模範としなさい
 そして、再び話は忍耐のことに戻ります。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」(10節)。旧約聖書に見る預言者たちの姿を考えて見ましょう。彼らは神に召され、神の言葉を語りました。しかし、多くの人々は彼らに耳を傾けませんでした。預言者たちは悔い改めを呼びかけました。しかし、人々は手軽な平和と幸いを求めました。預言者たちは神の裁きを語りました。しかし、人々は耳に好ましいことを語る偽預言者の言葉の方を求めました。預言者たちは国家の滅亡を語りました。しかし、彼らが語った滅亡はすぐに実現したわけではありませんでした。預言者たちは人々の嘲笑と敵意を耐え忍ばなくてはなりませんでした。

 彼らは自分の力によって自分の正しさを示そうとはしませんでした。神の言葉の正しさは神自らが証明されます。彼らは、神の正しい裁きに自らをゆだね、神の時を待ちました。そうです、預言者たちは、まことに神の時を待つ人々でありました。彼らはそのように生き、語り、そして死にました。ヤコブは、預言者たちを指し示し、これが忍耐だと言うのです。

 さらに彼はヨブについて語ります。「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」と言って、苦難の人ヨブを指し示すのです。なぜヨブが幸いなのでしょうか。「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」(11節)とヤコブは言います。私たちは、神が最終的にヨブの繁栄を回復してくださったことだけを考えてはなりません。もっと重要なことは、ヨブが神にまみえたということなのです。ヨブ記に出てくるヨブの最後の言葉は神に対する次のような言葉です。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:5‐6)。

 苦しみは私たちを神から引き離す誘惑ともなります。また、そこから生じる不平や不満は、互いの関係を崩壊させる原因ともなり得ます。しかし、苦しみは私たちの信仰を確かにし、純化し、神を目で見るかのように深く知る契機ともなるのです。何が必要なのでしょうか。それは、つぶやかずに神の時を待つ忍耐です。最終的には主が来られるときを待つことのできる忍耐です。

(祈り)

2022年11月20日日曜日

「無力なメシア、まことの王」

ルカによる福音書 23:35-43

無力なメシア
 イエス様がかけられた十字架の上には「これはユダヤ人の王」という札が掲げてありました。ローマ人が掲げた札です。明らかにユダヤ人を見下して馬鹿にして掲げた札です。「この惨めな無力な男がこいつらの王様だってよ!」そんな嘲笑を込めた罪状書です。

 そんなユダヤ人たちを馬鹿にしたような罪状書が掲げられたのは、理由のないことではありません。実際、ユダヤ人たちは、つい数日前まで民衆はその男が彼らの王となると本気で信じていたからです。もっともユダヤ人は「ユダヤ人の王」という言い方はしません。「メシア」と呼びます。イスラエルの民が待ち望んできた力ある王です。このナザレのイエスこそ待ち望んできたメシアに違いないと思って、多くの人々は付いて来ました。実際、その御方は力ある御方でした。悪霊を追放し、病気を癒し、大群衆に食べ物を与えたなどの数々の奇跡について噂は噂を呼び、その御方の周りにはいつも群衆が取り巻いていたのです。

 五日ほど前にエルサレムに入城された時もそうでした。エルサレムに向かう道にはこんな賛美の歌声が響いていたのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(19:38)。力ある王がついにエルサレムに来られた!この御方がユダヤ人の王としてローマ人に支配されている我々を今こそ救ってくださる。この王がイスラエルのために国を建て直してくださる。人々はそんな期待をもってここまで付いて来たのです。

 しかし、今、そのメシアであるはずの人物が、十字架に磔にされているのです。自分の手足すら動かすことができません。「民衆は立って見つめていた」(35節)と書かれていました。彼らが見つめていたのは全く無力なメシアでした。ユダヤ人からすれば、無力なメシアなどあり得ない。無力なメシアなどいらないのです。

 はじめからメシアだとは思っていない議員たちは嘲って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」それは今や民衆の声の代弁でもあったことでしょう。「もしメシアなら!」――いや、もはやメシアなどではあり得ない。この嘲りをローマ人も真似します。彼らはメシアとは呼びません。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。ユダヤ人にせよ異邦人にせよ、もはや誰もが、力ある王などとは思っていません。本当に力ある王でなければ、いらないのです。

 結局、そこに見るのはある意味では普遍的な人間の姿です。自分たちの求めているものが与えられるという期待があれば付いて行くのです。しかし、無力であることが明らかになったら、もういらない。もう必要ないのです。その意味において「十字架につけられたメシア」は普通に考えるならば人間にとって「いらないもの」の代表と言えます。

 しかし、教会は今日に至るまで十字架につけられたメシア(キリスト)を宣べ伝えてきたのです。後にパウロはこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(1コリント1:22‐23)。それはなぜなのか。「そんなものいらない」と言われても仕方のない「十字架につけられたキリスト」を教会が今日まで宣べ伝えてきたのはなぜなのか。――その理由をはっきりと示しているのが、その後に書かれている話です。十字架につけられたメシアの傍らで、いったい何が起こっていたのか。それでは続きを読んでいきましょう。

我々を救え
 十字架につけられたメシアの両側には他に二本の十字架が立てられていました。十字架にかけられている一人がイエスを罵ります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。先ほどの議員の嘲りに似ていますが、意味合いが少し違います。新共同訳では「自分自身と我々を救ってみろ」となっていますが、原文では「自分自身と我々を救え」という単純な命令文です。彼は嘲っているのではないのです。そこに込められているのは、「自分たちは救われて然るべきだ」という思いです。だからそうしないメシアを罵っているのです。「お前はメシアではないのか。ならば自分自身と俺たちを救え!」

 彼については「犯罪人の一人」と書かれています。いかなる罪を犯したのでしょうか。十字架刑というのは手間と時間がかかる処刑方法です。そのように時間をかけてさらしものにする大きな目的は見せしめです。見せしめにされるのは、主に主人に反抗して反乱を起こした奴隷たちか、ローマの国家権力に対する反逆を企てた活動家たちです。ですから多くの人はこの二人も単なる犯罪者ではなく政治犯であったろうと考えます。わたしもそう思います。

 彼らが政治犯であるならば、イエスを罵った男の言葉は大変よく分かります。彼らは正義のために戦ってきたのです。神のために戦ってきたのです。少なくとも彼らの意識としてはそうなのです。しかし、現実には異教のローマ人たちが勝ち誇り、自分たちは十字架にかけられて苦しみもがいて死を迎えようとしている。正しい者が苦しんで、悪い者がそれを喜んでいる。そんなこと、あってはならないことだという怒りが湧き上がります。神がおられるなら、メシアが来られたというなら、我々は真っ先に救われて然るべきだろう。お前はメシアではないのか。自分を救え。我々を救え!

 彼の抱いた思いは、多かれ少なかれ私たちにも覚えがあるようにも思います。苦しみの中で私たちもしばしば言うのでしょう。「わたしは悪くないのに!」悪い方が苦しんでいなくて、悪くない方が苦しんでいる。もし神がいるなら、もし救い主なるものがいるならば、このような状態のままに置かれているのはおかしいじゃないか!その思いは私自身覚えがあります。

わたしを思い出してください
 しかし、同じような立場で、同じ苦しみの中にあったもう一人の人は、そこで全く違ったことを口にしたのです。彼はこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40‐41節)。

 お前は神をも恐れないのか!そう彼は言いました。彼自身は苦しみの中にあって、死を目の前にしながら、神の御前に身を置いているのです。彼は神への恐れをもって神と向き合っているのです。誰が正しいとか誰が悪いとかいうこの世の判断の中に身を置いているのではなく、神の判断の前に身を置いているのです。その時に彼は思うのです。わたしは決して正しくなどない!だから、彼は言うのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と。

 彼が言う「自分のやったこと」というのは、単にローマの法律に背くことや、反権力闘争において行ってきた暴力や殺人のことではありません。彼は「自分のやったこと」と、神の御前において言っているのです。そこでは、他の人は知らないかもしれないけれど神は知っておられること、が問題になるのです。他の人は知らないかもしれないけれど神だけは知っている心の最も深いところまでを含めた「自分のやったこと」なのです。ある意味では、神だけが知っている自分の人生のすべて、それこそが「自分のやったこと」です。それが正しく裁かれ、正しく報われるとするならばどうなるのか。彼は自分が十字架の上にいることが当然だと思えたのです。

 その時に、隣にいる十字架につけられたメシアは全く違って見えてくるのです。十字架につけられたメシアなんていらない?とんでもない!彼はメシアが同じ苦しみの中にまで来てくださっていることを見たのです。本来、苦しむ必要のない正しい方が、本当の意味で正しい方が、罪人である我々の苦しみの中にまで来てくださっている。こんなところにまで来てくださっている!そんな思いを込めて彼は言うのです。「しかし、この方は何も悪いことをしていない!」

 彼はそこにメシアを遣わされた神の憐れみを見たのです。神を恐れる者だけが知ることのできる神の憐れみを見たのです。ですから、その憐れみに寄りすがって最後の力を振り絞るようにして、彼はメシアに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。あなたはこの世に来られ、人間の罪の最も深きところにまで来てくださいました。そこで苦しみもがいている私のところにまで来てくださいました。そこで見たわたしを、そこでこう祈ったわたしを、どうか忘れないでください。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 するとそこで主はすぐさま彼にこう宣言されたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」メシアは苦しむ罪人の傍らにまで来てくださって今、十字架の上におられる。しかし、メシアは王なのです。王の権能は裁きを行う権能なのです。メシアは最終的な裁きを行う王なのです。その王が権威をもって十字架の上から宣言するのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と。それは王が権威をもって宣言する罪の赦しに他なりません。彼は罪を赦された者として、罪のゆえに滅びる者ではなく、イエス様と一緒に楽園にいることになるのです。

 彼は神の国においてではなく、死んだ後にでもなく、生きている間に、依然として苦しみのただ中にある時に、その御方から罪の赦しと救いの宣言を聞くことになりました。これが今日も私たちに起こっていることです。これが十字架につけられたキリストです。教会が宣べ伝えてきた十字架につけられたキリストです。私たちもまた宣べ伝えられた十字架につけられたキリストの傍らにいるのです。あの赦された罪人と同じところにいるのです。

2022年11月16日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 3:14~18

 ペトロの手紙二 3:14‐18

 「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」。毎週の礼拝で私たちはキリストの再臨を信じる信仰を言い表しています。この信仰は、イエス様の約束に基づきます。この信仰が教会においていかに重んじられていたかは、聖書の至るところにおいて語られていることからも分かります。聖書全体もキリストの再臨を待望する言葉で締めくくられています。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」(黙示録22:20‐21)。

 そのように、キリストの再臨と神の最終的な裁きについては多くの言葉が費やされているわけですが、それは裏を返せば、それほど手紙においてもその他の文書においても、語られねばならなかったということです。どれだけこの信仰が危機に瀕していたかということでもあるのです。それはそうでしょう。キリストの昇天後、何十年経っても実現しないわけですから。いや、それどころか二千年経っても実現していないのです。いつの時代においても、「再臨信仰」は大きな問いにさらされてきたのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」(3:4)。

 しかし、先週お読みしたように、神がこの世界をそのままにしておかれることは、すなわち神の裁きがないことを意味しないのです。そのことをペトロは思い起こさせるのです。再臨の約束をあざけり、神の裁きを否定する偽教師たちに惑わされてはならないのです。「主の日は盗人のようにやってきます」。それはイエス様の語られたことでした。私たちはいつでも、そのつもりでいなくてはなりません。しかし、それは最後の破滅を恐れつつ待つのではありません。神の為さろうとしておられるのは世界の再創造なのです。新しい天と新しい地をもたらすことなのです。罪の宿る現在の天地が永遠に存在するのではありません。すべては新しくなります。私たちは「神の義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束によって待ち望んでいるのです」(13節)。

 神の約束によって待ち望む時、それは神が成されるのだから、私たちの側に何も為すべきことがないということではありません。私たちは漫然と何もせずに待つのではありません。否、むしろ私たちは新しい天と新しい地を待つ者であるゆえに、熱心に追い求めなくてはならないものがあるのです。14節に次のように書かれているとおりです。「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(14節)。

 そうです、待ち望んでいる者であるからこそ、まず自分自身が「きずや汚れが何一つない」者となることを追い求めなくてはならないのです。他の人のきずや汚れは目に付きます。気になります。しかし、終末において問題となるのは、他の人がどうであったかではありません。私たち自身なのです。パウロもローマの教会に宛てて書いているとおりです。「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(ローマ14:12)。大事なことは、他ならぬ私たち自身が自ら清められることを求めていくことなのです。

 それにしても「きずや汚れが何一つない」は言い過ぎではないか、と思う人もいることでしょう。しかし、聖書は繰り返しこのことについて語っているのです。パウロも言っています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(フィリピ1:9‐11)。

 最終的にどのように「きずや汚れが何一つない」者となるのか。そんなことは私たちが案じることではありません。それは神の御業です。私たちはただひたすら望んで追い求めるだけです。パウロのように祈りつつ、神の御業を求めつつ、望んで追い求めるだけです。望むのか、それとも望まないか。そこには大きな違いがあるのです。

 また、私たちが終末を待ちつつ追い求めるもう一つのものは「平和(シャーローム)」です。「平和に過ごしていると神に認めていただけるように」と書かれています。これを読みますと、ただ他の人と平和に過ごしているかどうかが問題であるかのように見えなくもありません。しかし、原文では「平和の内にある者として神から見いだされるように」となっているのです。シャーロームの内にあるかどうか。それが問題とされているのです。

 それは単に他の人と仲良くしているかどうか、ということではありません。シャーロームの内にあるということは、まず神と調和しているということです。神との間が平和であるということなのです。最終的に裁きを行うのは人間ではなく神であるならば、当然、神との間が平和であるかどうかが究極的に問題となるはずです。それを追い求めるべきことは当然のことなのです。

 そこで大きな意味を持っているのが悔い改めと罪の赦しなのです。パウロが言うように、信仰によって義とされた者は既に神との間に平和を得ているのです(ローマ5:1)。しかし、神との間に平和を得ている者として実際にその平和の内を生きるためには、そして、その平和が他の人との間にも広がっていくためには、私たち自身の絶えざる悔い改めと赦しが必要とされるのです。

 シャーロームの内にあるかどうかは常に「今」が問題となります。信仰を持ったのが何十年前であるか、洗礼を受けたのが何十年前であるか、それは関係ありません。今、シャーロームの内にあるのか、そして終わりの日に平和の内にある者として神に見ていただけるのか。それが決定的に重要なことなのです。それゆえ、常にシャーロームの内にあることを、ひたすら追い求めなくてはならないのです。

 そして、この聖書箇所を読んでいる今、私たちにはまだ時間が与えられているということを感謝しなくてはなりません。この手紙の最初の読者もまた、そのことを思ったことでしょう。ですので、ペトロは言うのです。「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(15節)と。そうです、時が与えられている今こそ、また心新たに歩み出す時です。清さを求め、平和を求め始める時なのです。今こそが悔い改めの時であり、赦しをいただいて平和の内を歩み出す時なのです。神様は今もなお忍耐していてくださるのですから。

 さて、この説教においても既に幾度かパウロの手紙を引用しております。ペトロが語っていることは基本的にはパウロが語っていることと同じなのです。ですからペトロも言うのです。「それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(15‐16節)。

 既に見てきた偽教師たちが、パウロの手紙のどのような部分を曲解してきたのかは容易に想像ができます。パウロが信仰による義認を語っている箇所であり、またキリストによる自由を語っている箇所なのでしょう。そのような箇所が不道徳の擁護に用いられたのです。しかし、それは自らに滅びを招くことに他なりません。この読者であるキリスト者たちにはそうなって欲しくないのです。ですからペトロは言います。「それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい」と。

 このようにこの手紙を読んできますと、改めて正しい福音理解、正しい聖書解釈がいかに重要であるかを思わされます。この手紙の学びを始めた最初に申し上げたように、教会に危機をもたらすのは外からの迫害だけではありません。往々にして内側からの崩壊の方が危険なのです。キリスト者の信仰生活は必ずしも外からの圧力によって妨げられるのではありません。そうではなくて、間違った教えによって、そこから入り込む罪によって妨げられるのです。

 ですので、この手紙を締めくくるに当たってペトロが語っている言葉を、私たちはしっかりと心に留めなくてはなりません。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(18節)。そうです、私たちは成長しなくてはならないのです。知識においても成長しなくてはならないのです。

(祈り)

2022年11月13日日曜日

「わたしは必ずあなたと共にいる」

出エジプト記 3:1-15

 今日お読みした聖書箇所にはモーセという人が出てきました。モーセはミディアン地方で羊飼いをしていました。40年前にエジプトから逃げてきたのです。結婚もしました。子どもも産まれました。そこには羊飼いとしての平和な生活がありました。

 しかし、モーセの内には絶えざる痛みがありました。それは一人のイスラエル人としての痛みでした。同胞であるイスラエル人たちが長い間エジプトにおいて奴隷とされ、追い使う者のゆえに苦しめられていたからです。モーセは彼らの苦しみを知っていました。しかし、もう一方においてモーセには分かっているのです。巨大なエジプトの権力を前にして、自分ができることなど何もない、と。実際、苦しむ同胞を見捨てて、モーセはその巨大な権力から逃げてきたのです。

 今日お読みした聖書箇所は、そのようなモーセに神様が現れたという話です。主はモーセに呼びかけられました。「モーセよ、モーセよ」と。そして、主は燃える柴の中からモーセに語りかけられたのでした。

わたしは降って行く
 モーセには、一人のイスラエル人として神様に問いたいことは山ほどあったと思います。なぜイスラエル人であるというだけで産まれたばかりの男の子が皆殺しにされなくてはならなかったのか。なぜイスラエルの母親は子を失った人として嘆きながら生きなくてはならなかったのか。なぜイスラエル人であるというだけで、男たちは馬やロバのごとくに扱われなくてはならなかったのか。その苦しみにはいったい何か意味があるのか。

 しかし、主がモーセに現れた時、主は長きに渡るイスラエルの苦しみについて、何一つ説明してはくださいませんでした。その代わりに、主はこう言われたのです。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(7節)。これがモーセの知らされたことでした。

 神は苦しむ者に目を留めていてくださる。神は苦しむ者の叫びに耳を傾けていてくださる。叫びにも現すことができないその深い痛みをも知っていてくださる。神は見て、聞いて、知ってくださる神であるということ。そのことをモーセは知らされたのです。

 皆さん、私たちが今、礼拝しているのはそのような神様です。そのような神であることをモーセだけでなく、やがてイスラエルは知ることとなりました。そして、長いイスラエルの歴史を通じて、神がそのような神であることを決して忘れなかった人たちが後々にもいたのです。国を失っても、神殿が他国の軍隊によって破壊されるようなことがあっても、捕囚の民として異国の地に捕らえ移されるようなことがあっても、決して忘れることはなかった。だから今もこうして聖書に残されているのです。神は、見て、聞いて、知ってくださる神であるという神御自身の言葉が。

 やがてそのイスラエルの歴史の中にイエス様は来られ、その体をもって神がそのような神であることを現してくださいました。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びを聞いてくださる。神は知っていてくださる。イエス様がベトザタの池のほとりに横たわっている病人に目を留められたように、主が彼の悲しみに耳を傾けられたように、そして長い間の苦しみを知ってくださったように。

 私たちもこの世の苦難について問いたいことはたくさんあるのでしょう。私たちの人生に起こってくる様々な出来事について問いたいことはたくさんあるのでしょう。神はその全てに必ずしも答えてはくださらない。しかし、知るべきことは知らされているのです。私たちが信じる神様は、苦しんでいる者に目を留めてくださる神様だということ。神は、苦しんでいる者の叫びに耳を傾けてくださる神であるということ。そして、言葉にならない、声にさえならないような深い痛みさえも知ってくださる神であること。たとえ誰も分かってはくれないと思えたとしても、実はそうではないのです。

 いや、神は、見て、聞いて、知ってくださるだけではありません。主はこう言われました。「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(8節)。モーセが知ったのは、「わたしは降って行く」と言われる神様です。私たちが信じているのは、そのような神様です。神は見て、聞いて、知って、そして憐れんでくださる。神が憐れんでくださるならば、その憐れみは天に留まってはいないのです。憐れみの神は降ってきてくださる。この世界において憐れみを現すために。神の憐れみはこの世界の中に形を取るのです。

 出エジプトは、まさに神の憐れみがこの世界に形をとったものでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。神は人となられた、と聖書は伝えます。イエス・キリストの存在そのものが、まさに降って来られた神の現れに他なりませんでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。復活して天に上げられたキリストは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。聖霊が降って教会が誕生しました。教会が今なお地上に存在すること、私たちが御もとに招かれていること、それはまさに神の憐れみが天に留まってはいないことの目に見えるしるしなのです。

 だから私たちは、ここに集まっているのです。共に祈ります。見て、聞いて、知ってくださる神に祈ります。私たちは神が降りたもう神であり、既に降って来られた神であり、生きて働きたもう神であることを信じているからです。神の憐れみは天に留まってはおられないのです。

今、行きなさい
 しかし、そこでもう一つの大切なことに目を留めなくてはなりません。主はさらにこう言われました。

 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9‐10節)。

 主は、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」と言われたのではなかったでしょうか。しかし、その直後に主は言われるのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」話が違うではありませんか。主が降ってきて救い出すはずではないのでしょうか?

 そうです、確かに主が救い出すのです。モーセにできるはずがありませんから。巨大なエジプトの権力に太刀打ちできるはずがないのです。イスラエルの民がエジプトから解放されるとするならば、それはモーセがするのではなく、神様が降ってきてするのです。

 しかし、それでもなお「今、あなたが行きなさい」と主は言われるのです。モーセは行かなくてはならない。行って何をするのでしょう。何ができると言うのでしょう。モーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)と。そんなこと、できるわけないでしょう!いったいわたしを何者だと言うのですか!そうモーセは言わざるを得ません。しかし、主の答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 主が共にいると言われる。ならば、モーセが何者であるか、何者でないかは大して重要ではないのです。実際モーセがしたことは、その後の物語に一つ一つ書かれていますが、すべてモーセに難なくできることでした。例えば、杖でナイル川の水を打つこと。杖を取って池の上に手を伸ばすこと。主に命じられて行ったことは、せいぜいその程度のことです。

 しかし、その程度のことを神は用いて、イスラエルをエジプトから解放されたのです。神は確かに降って来て、エジプト人の手から彼らを救い出されました。しかし、そのために主はモーセの行動を求められたのです。神は単独で事をなされないのです。神は人を用いられるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」とはそういうことです。

 私たちは神に祈ります。聞いて下さる神に、私たちの苦しみを訴えます。この世界の苦境を訴えます。そして、神は祈りを聞いてくださる。そして、神は祈りに応えてくださる。神は降ってきて、祈りに応えてくださるのです。しかし、神様は単独で事をなされない。祈りに応えてくださる時に、神は私たちを用いられるのです。そこで主は私たちがしなくてはならないことを教えてくださるのです。それらはすべて、私たちにできることです。私たちにできることを、主はしなさいと言われるのです。

 言い換えるならば、私たち自身が祈りの答えの一部となるのです。私たちは祈る者であると同時に、祈りの答えの一部となるために召されてもいるのです。

 実際、今日まで教会が行ってきたこと、計画してきたことは、せいぜい人間ができる範囲のことに過ぎません。教会が祈り求めてきたことはそれよりも遙かに大きいことでしょう。しかし、それでもなお、私たちは私たちにできることを行うのです。愚か者のように杖でナイルを打ち、池の上に手を差し伸べるのです。どれもこれも人間のできる範囲のことでしかないけれど、それでよいのです。そこにはまた見えざる神の御手が動いているからです。神は降って来られる神だからです。

 大切なことは、ただ神が「しなさい」と言われることに従順であることです。「行きなさい」と言われるならば、行くことです。主がさせてくださる小さなことに忠実であることです。あとは神様がなさるのです。主は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。

(祈り)

2022年11月9日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 3:1~13

ペトロの手紙二 3:1‐13

 2章前半をお読みしました時に、「罪の赦し」は「正しく裁く権威」と分かち難く結びついていることをお話ししました。神が罪を赦すことができるのは、神が罪を裁くことのできる御方だからです。罪を正しく裁き、断罪し、滅ぼす権威をお持ちの方だからこそ、その権威をもって他の誰も取り消すことのできない罪の赦しの宣言をすることができるのです。しかし、この手紙において問題になっている「偽教師たち」は、かつてイスラエルに現れた偽預言者と同じように、神が正しく裁かれる御方であり、私たちもまたその正しい裁きのもとにあるという事実から目を背けさせる教えを説いていたのでした。そのことが今日の箇所を読みますとよく分かります。

 もともと、神の正しい裁きを信じる信仰は、キリストの再臨を信じる信仰として言い表されてきました。使徒信条において私たちもまた「(主は)かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白しております。この信仰告白はもちろんキリストの語られた言葉に基づきます(例えば、マタイによる福音書24、25章を御覧ください)。

 ですから初代のキリスト者たちは、すぐにでもキリストがすぐにでも再び来られると信じて生活していました。自分が生きている間に、キリストの再臨はあるだろうと信じて疑わなかったのです。聖書の中にアラム語のままで「マラナ・タ」という当時の祈りの言葉が記されていますが(1コリント16:22)、それは「主よ、来てください」という意味です。それは彼らにとってリアルな期待だったのです。

 しかし、実際には、再び来られるはずのキリストは、なかなか来られませんでした。初代のキリスト者が次々と死んでいく中にあってもなお、キリストが来られることはありませんでした。いやそれどころか、二千年近くの時を経てもなお、キリストは再び来られてはいないのです。ですから、そこにあざける者も現れてくるのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」。

 「終わりの時には」そのような者たちが現れると書かれていましたが、現実には既に紀元一世紀、この手紙が書かれた頃に既にいたのです。この場合、「あざける者たち」とは、既に述べられてきた偽教師たちのことです。当時の教会は、既にそのような人々によって深刻な影響を受けていたのです。大きく揺さぶられていたのです。キリストの再臨を待ち望む信仰がゆさぶられたのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」。それが教会の問いにもなっていたのです。もちろん、その問いは、ここにいる私たちと無関係ではありません。今なお主は再臨してはおられないからです。当時の教会がこのペトロの言葉を聞かなくてはならなかったとするならば、私たちにはなおさら必要です。

 まずペトロは彼らの「天地創造」という言葉を足がかりに、次のように語っています。「彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました」(5‐6節)。

 「地は…水によってできた」というあたりは当時の世界観を反映しているので、今日の私たちとしては理解することが困難です。しかし、それでもなお、全体としてペトロが言わんとしていることは分かります。それは極めて単純なことです。彼らが「天地創造」と言っているように、この世界は神が造られたのであり、神こそが天と地との主なのです。ですから当然、造った御方として裁く権威をもお持ちなのであり、実際にそのことを示された。それがノアの時代の洪水の話です。

 しかし、「滅んでしまいました」とありますが、実際には現在の天と地とが完全に滅ぼされたわけではありません。その意味では、あの洪水は最終的な裁きではなかったのです。ですから、第一の手紙には、キリストが、その時に死んでしまった「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(1ペトロ3:19)という話が出て来るのです。最終的な裁きだったら、それはあり得ないことです。いずれにせよ、この「水による裁き」は最終的な裁きではありません。その意味において、その他に聖書のここかしこに見られる神の暫定的な裁きを代表していると言えるでしょう。

 ということは最終的な裁きは別にある。それが「火による裁き」として表現されているのです。「しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです」(7節)。あざける者たちは「何一つ変わらない」と言っていました。しかし、もし「何一つ変わらない」とするならば、それは神があえて「そのままにしておかれる」のであって、神の最終的な裁きはない、ということにはならないのです。

 そこで「このことだけは忘れないでほしい」とペトロは語り始めます。一つは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」ということ。すなわち、神様は私たちと同じ時間感覚の中に生きてはおられないということです。それは既に旧約において語られていたことでした。詩編90編にこのように歌われています。「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。…千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」(詩編90:2,4)。

 ならば、私たちの目に事がゆっくりに見えたり、長い間待っているように感じたりしたとしても、神がのんびりと事を進めているわけではなく、予定が遅れているわけでもないということです。神には神の時があるのです。そして、実際に長い間神様が「そのままにしておられる」としても、それはあくまでも神様が「遅れて」いるわけではなくて、むしろ忍耐して待っておられるのだ、とペトロは言うのです。

 そしてまた、「そのままにしておかれる」とは何もしておられない、ということでもありません。神はあのノアの時と同じように、宣教の期間を定められました。宣教の期間は、神の赦しが宣べ伝えられている期間であり、悔い改めることが許されている期間です。神様はそのために働いておられるのです。

 そして、それはあくまでも神様が定める期間でありますから、それがいつまでであるかを人間は知りません。それはいつでも終わりとなり得るのです。ですから「主の日は盗人のようにやってきます」と言うのが正しいのです。もちろん、これはもともとイエス様が言われたことです。ですから、そのような「主の日」に向かっている私たちとしては、それにふさわしい向かい方があるのです。

 それは「待ち望む」ということです。12節にはこう書かれています。「神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」神様が定められる終わりの日を「早める」というのは不思議な表現ですが、言わんとしていることは分かりますでしょう。私たちが悔い改めるようにと主が忍耐しているということならば、主の日を早めるということは私たちが悔い改めることであり、また他の人が主に立ち帰るように福音を宣べ伝えるということであり、そのようにして主と共に働くということに他なりません。

 この世界は神の最終的な裁きのもとにあって終わりとなります。しかし、それは新しい始まりなのであって、新しい天と新しい地の始まりなのです。この罪に満ちた世界は終わるのです。そして「義の宿る新しい天と新しい地」が到来するのです。それゆえに、「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。

(祈り)

2022年11月6日日曜日

「主に不可能なことがあろうか」

創世記 18:1-15

 今日読まれた旧約聖書にはアブラハムとサラという夫婦が出て来ました。彼らはイスラエルの先祖となる人たちです。神が彼らに与えた約束はこうでした。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(13:16)。私たちはその約束が後にイスラエル民族として現実となったことを知っています。しかし、当時、アブラハムにはまだ一人の子供もいませんでした。

 それから長い年月が経ちました。相変わらず、アブラハムとサラにはまだ一人の子供もいませんでした。そして、既にアブラハムもサラも年老いていました。神の約束はどうなったのでしょう。今日お読みしましたのは、そんなある日の出来事です。

天使の来訪
 神様は天使をアブラハムのところに遣わしました。しかし、一目で天使とわかるような姿で遣わしはしませんでした。アブラハムに分からないように、三人の旅人の姿で、天使たちを遣わしたのです。

 三人の旅人がアブラハムの住んでいた天幕(テント)の近くを通りかかりました。本当は天使なのです。しかし、アブラハムは知りません。アブラハムはどうしたでしょう。その旅人たちをとても親切にもてなしたのです。その様子が18章1節から8節にかけて書かれています。彼が旅人をもてなす姿が、極端と思えるほどに際だった形で描き出されています。

 アブラハムは言いました。「水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください」(5節)。そう言って、アブラハムは旅人たちのためにご馳走を用意しました。そして、彼らが食べている間、そばに立って自ら給仕してもてなしたのでした。

 その人たちが神の御使いだからではありません。アブラハムは知りませんから。恐らく普段からそのように旅人をもてなしていたのでしょう。天使に仕えるかのように、人々に親切に仕えることを常としていたのでしょう。そのような生活をもって、はからずも天使たちをもてなすことになりました。それはひいては神様をもてなしたということになろうかと思います。

 それゆえに、新約聖書にこんな言葉が書かれています。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(ヘブライ13:2)。誰かのために何かをする時に、「なんでわたしがこんなことをしなくてはならないのか」と不平を言いながら行うこともできます。しかし、「もしかしたら気づかずに天使たちに仕えているのかもしれない」と思いながら行うこともできるのでしょう。ならば、仕え方もずいぶん違ってくるかもしれません。

サラの笑い

 さて、そのように神様から遣わされた、旅人の姿をした天使たちは、アブラハムの心のこもったもてなしを受けました。しかし、彼らは食事をしに来たわけではありません。神の御言葉を伝えにきたのです。

 天使の一人が言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10節)。アブラハムはこれを聞いてびっくりしたと思います。そして、気づいたに違いありません。この人たちはただの旅人ではない。この人たちは、「子孫を与える」と言われた神の約束を知っている。この人たちは、神の御言葉を伝えに来てくれたのだ、と。

 しかし、神様の御言葉を信じることは、とても難しいことでした。アブラハムは既に年を取っていましたから。とても男の子が生まれるとは思えません。それは、妻のサラも同じでした。サラもこの言葉を、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていました。そして、聖書にはこのように書かれているのです。「サラはひそかに笑った」。

 この「ひそかに笑った」という言葉は、サラをとても身近に感じさせます。確かにこういうことは私たちにもあるのでしょう。あからさまには笑わないのです。アブラハムもサラも、神様を信じている信仰者ですから。「そんなこと、いくら神様でもできないでしょう」と言って笑い飛ばすようなことはしません。

 でも、ひそかに笑うのです。「そんなことあるかいな」「そんなこと言ったって、現実はそう甘くはないですよ」。「信仰は信仰、現実は現実です」と、そう心の中でつぶやいて、ひそかに笑うのです。「サラはひそかに笑った」。サラの気持ちはよくわかります。

 しかし、人間にとって「ひそかに」であっても、神様はすべてご存知です。彼らの一人が言いました。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。…」(13‐14節)。それはまさにすべてをご存知である神様の言葉でした。ですから聖書には天使が言ったとは書いてない。「主はアブラハムに言われた」と書かれているのです。そう、主が言われたのです。

 サラはドキッとしたことでしょう。神が語られるということは、すべてをご存知である神が語られるということなのです。そこで、サラは恐ろしくなりました。サラは偽りの後ろに隠れようとしました。彼女は打ち消して言います。「わたしは笑いませんでした」。しかし、もとより神様から隠れられるはずがありません。主は言われます。「いや、あなたは確かに笑った」。

笑いを与えてくださる神
 教会生活の中で、神様との関わりの中で与えられる一つの経験は、神様は何もかもご存知だと実感するという経験です。「いや、あなたは確かに笑った」と聞いた時のサラのように。

 しかし、すべてをご存知である御方は、恵み深い御方でもあるのです。「主に不可能なことがあろうか」という問いかけは、ひそかに笑ったサラの不信仰を責める言葉ではありませんでした。そうではなくて、「信じなさい」という呼びかけに他ならなかったのです。ですから、サラのひそかな不信仰にもかかわらず、こう続けられているのです。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」(14節)。

 「サラはひそかに笑った。」しかし、主はそんなサラに、本当の「笑い」を与えようとしておられたのでした。

 主の約束のとおり、やがてサラはみごもって男の子を産みました。そして、その子は「イサク」と名付けられることになるのです。その名前は「彼は笑う」という意味です。その時にサラが口にした言葉が次のように記されています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」(21:6)。

 サラは心から笑えるようになりました。神の御言葉を信じることができなくて、心の中でひそかに笑っていたサラでした。しかし、主は、そんなサラが神の御業を見て心から笑えるようにしてくださいました。――「主に不可能なことがあろうか」。

主に不可能なことがあろうか
 それから1800年ほど経ったある日、神様は天使を一人のおとめのところに遣わしました。今度は旅人の姿ではありません。その天使は名はガブリエル。おとめの名前はマリアと言いました。ガブリエルはマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました。いわゆる「受胎告知」の場面です。マリアは言いました。「どうしてそんなことがありまえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。するとガブリエルはこう言ったのです。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)。

 聖書が神の言葉として私たちに語っていることは、老人に子供が生まれることよりも、はるかに大きなことです。神の独り子が人間となりこの世に来られた、というのです。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。

 それだけではありません。神の独り子が十字架にかかられ、すべての人の罪を代わりに負って死なれた。すべての人の罪の贖いは成し遂げられた。罪の贖いを成し遂げて死なれたイエスは、復活させられ、天に挙げられ、今も生きておられる。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。

 本来何よりも不可能なことは、罪深い私たちが救われることなのでしょう。こんな私たちの罪が赦され、救われ、永遠の命を与えられ、死を越えた希望をもって生きられること。それこそ本当は不可能な、信じがたいことなのでしょう。やがて罪と死から完全に解放されて、神の栄光にあずかることになる。主は私たちの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。悲しみの故の涙も、怒りと憎しみのゆえの涙も、挫折と絶望の涙も、すべて過去のこととなるのです。そんなことがどうしてありえるでしょうか。しかし、聖書は言うのです。「主に不可能なことがあろうか」。

 サラにとってそうであったように、私たちにとっても、これは「信じなさい」との呼びかけの言葉に他なりません。主は私たちに「信じなさい」と呼び掛け、やがて本当の笑いを与えてくださるのです。やがて私たちはその約束の実現を見て、心から笑うことになるのです。


(祈り)

2022年11月2日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 2:10b~22

 ペトロの手紙二 2:10b‐22

 今日の箇所には、実に激しい言葉が並べられています。そこまで言っていいのか、と思うほどです。しかし、私たちはこの異様なまでの激しい糾弾にこそ、事の深刻さがよく現れていることを見なくてはなりません。

 ここでは偽預言者が非難されているわけですが、実際には多くの人々の目には決して悪人には映っていないのです。むしろ彼らは魅力的であり、自由な人であり、その教説は既成の枠に捕らわれない新しさを感じさせるものであったと思われます。しかし、ペトロの目から見たら、偽預言者とその活動、またその影響というものは、ここに書かれているように見えるのです。ペトロの目にはものすごく深刻な事態なのです。だから深刻な事態として反応し、激しい言葉で語っているのです。

 このような聖書の言葉に触れた場合、むしろ私たちの方が時としてあまりにも無感覚になっているのではないか、あまりにも鈍くなっているのではないか、ということを考えるべきなのでしょう。

 例えば、ここに突然犬が入ってきて糞をしたら、ここにいる皆が一斉に嫌な顔をするはずです。そして、一刻も早くそれをかたづけようとするに違いありません。もし糞が放置されたままで、みんな平気な顔をして祈り会を続けていたら、それこそ何かがおかしいわけです。「ああ、きたない。早く片付けなくちゃ」というのが正常な反応であるわけです。同じように、間違った教えや汚れた行為、神の目に忌むべきことについても、そのように反応できる正常な感覚を私たちは養わなくてはならないのです。私たち自身がまだ感覚が鈍くて反応できない場合には、このように聖書の中に出て来る人たちの反応を見て学んでいかなくてはならないのです。

 ではペトロはいったいどのような事態を深刻に捕らえ、どのような事柄について反応しているのでしょうか。それは偽教師たちの教えによって、異邦人社会において行われている異教的な享楽や性的な放縦が教会の中に持ち込まれているという事態です。具体的な状況は、「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています」という言葉や、「あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています」という言葉から察することができます。

 「宴席」と言いましても、それは教会の外での宴会の話ではありません。教会の中で行われていた「愛餐(アガペー)」の話です。教会において行われていた愛餐が、このようなものとなっていたということです。偽教師たちの教えが、そのような事態を引き起こしていたのです。

 いったいどのような教えがそのような事態を引き起こしていたのでしょうか。その詳細は分かりませんが、18節以下には次のように書かれています。「彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」(18‐19節)。それは福音によって与えられる「自由」に関するものであったことが分かります。

 このことに関して恐らく参考になるのは、ヨハネの黙示録に記されている七つの教会に宛てた手紙でしょう。例えば、ティアティラにある教会に対して、次のようなことが主の言葉として語られています。「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(20節)。似たようなことが14節では「バラムの教え」として出てきます。

 「偶像に献げた肉」を食べてもよいのか、それともいけないのか、という話は、実は初期の教会を二分するような問題でありました。実際にはほとんどの肉が一旦偶像に献げられて市場に出回る。その肉を食べてよいのか。ある人は「当然、食べてはいけない」と考えました。しかし、ある人は「私たちはキリストによって自由にされたのだから、すべてのことは許されている」と考えたのです。

 これに対してパウロは基本的に食べることは自由だと考えていたようですが、愛に基づく配慮をもって、「兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(1コリント8:13)とも語っていました。実は既に最初の教会会議であるエルサレム会議(使徒言行録15章)において異邦人が割礼を受け律法を守るべきか否かが論じられた時、その最終的な結論として次のような手紙を送られていたのです。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」(使徒15:28‐29)。

 しかし、異邦人を中心とした教会の中に、あえて「自由」を強調する人々が現れてきたのです。そのひとりが例えばティアティラのイゼベルのような人だったわけです。彼女はあえて「偶像に献げた肉」を食べさせたのです。自由にされたのだから食べるべきだ、と。そして、その自由の強調は、「みだらなこと」すなわち性的な不道徳さえも許されているとしたのです。これが14節では「バラムの教え」と呼ばれているのでしょう。

 今日の箇所においてもバラムへの言及がありますから、ペトロが問題にしている偽教師たちもティアティラのイゼベルのような人たちだったのだろうと思われます。キリストの十字架を信じていないわけではありません。しかし、キリストの十字架を、いわば罪を犯すことへの許可証としてしまっていたのです。

 そのような「自由」の教えが、実際には人を自由にはしないということをペトロはよく知っていました。ですから彼はこう言うのです。「その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」。「滅亡の奴隷」は「罪の奴隷」と言い換えてもよいかもしれません。自由どころか、滅亡をもたらす罪に打ち負かされているではないか。打ち負かされて服従させられているではないか、と言うのです。

 かつてイエス様はこのような話をされました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11:14‐26)。

 ここでペトロが言っているのは同じことです。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります」(20節)。

 偽教師たちがしていることは、結局、世の汚れに「再び巻き込まれて打ち負かされる」ことを助けるような教えでしかなかったのです。イエス様の表現によれば、「どうぞ七つの汚れた霊よ、自由のお入りくださってお住みください」と言うようなものなのです。それは決して自由をもたらす教えではないのです。

 そのように教会はその初めの頃から、外からの迫害だけではなく、キリストの福音と相容れないものが教会の中に、そしてひとりひとりの生活の中に入り込む危険と向き合っていたのです。それは今日においても変わることはありません。私たち自身、先に触れましたように、間違った教えや汚れた行為、神の目に忌むべきことについて、使徒たちが示したのと同じ正常な感覚を養わなくてはならないのです。

(祈り)

2022年10月30日日曜日

「あなたの中にある光は消えていませんか」

ルカによる福音書 11:33‐36

全身が輝いている人

 今日の福音書朗読では、「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」(36節)というイエス様の言葉が読まれました。これだけ読みますと、何か良く分からない不思議な言葉です。しかし、「全身は輝いている」という言葉にはとても惹かれます。確かにそうありたいと思います。輝いている人。輝いている信仰者。全体としても輝いている教会。「全身が輝いている」という表現ですから、それはどれほどの輝きでしょう。

 先ほどの言葉から分かりますように、「全身が輝いている」という表現は「ともし火」という言葉と関係しています。「ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように」と書かれていますから。その「ともし火」とは何でしょうか。それはイエス様御自身です。

 イエス様は33節で「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言っています。イエス様は群衆に御自分のことについて話しておられるのです。いわばイエス様は、燭台の上に置かれた「ともし火」だと言うのです。穴蔵の中や升の下に置かれているのではなく、誰もがその光を見ることができるように燭台の上に置かれた、そのような「ともし火」なのです。

 「ともし火」であるイエス様の放つ光は、神の愛の光です。イエス様は、いわば神の愛の光を輝かせるためにこの世に置かれた「ともし火」なのです。イエス様は言葉をもって神の愛と赦しを語られました。いや、言葉をもって語るだけでなく、その行動をもって語られました。

 帰ってきた放蕩息子を喜んで迎える父の話をされたイエス様はまた、自ら罪人たちと食事を共にされました。汚れた者とされている人に自ら手を置き、長く苦しんできた病める人々を癒されました。神の権威をもって、罪の赦しを宣言されました。最終的には、父の御心に従って十字架への道を歩まれました。神が私たちを赦すため、この世の罪の贖いを成し遂げるために十字架におかかりになりました。神は確かに御自身に背いたこの世界を愛された。神は私たちが罪人であるにもかかわらず、私たちを愛してくださいました。

 キリストを通して神は御自身の愛を現されました。イエス様という存在は、まさに神の愛の輝きそのものでした。イエス様はまさに燭台の上に置かれたともし火でした。

 その「ともし火」であられた御方が、「あなたの全身は輝いている」と言われるのです。イエス様がそう言われるならば、それはまさにイエス様と同じ光によって輝いている、天からの光、神の愛の光で輝いているという意味になるのでしょう。ならば私たちはそのように輝いて生きることを求めてよいし、求めるべきなのです。

 私たちは確かにいろいろな願いを持ち、いろいろな求めを抱き、実際に神様に願い求めます。いろいろな夢を持ち、夢を追い求めて必死に努力している人もあるでしょう。しかし、本当は「何になるか」ということよりも、「どのような人になるか」ということの方がはるかに大事なことであるはずです。

 その意味では、本当に求めるべきことは、何をするにしても、どのような状態にあるにしても、健康であろうが病気であろうが、若い人であろうが年を取っていようが、主が言われるような「全身が輝いている人」となることなのだと思います。本当の意味で輝いている人、天からの光、神の愛の光で輝いている人、その輝きによって多くの人が神の愛を知るようになる、そのような人になること。そのことをこそ、追い求めるべきなのでしょう。

目が濁っていると
 では、どうしたらよいのでしょうか。イエス様はこう言っておられます。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(34‐35節)。

 これもまた少々分かりにくい言葉です。しかし、一つのことははっきりしています。体が明るいか暗いかは、輝いているかいないかは、「目」の問題だと言うのです。目が澄んでいるか、濁っているかの問題だと。

 その「目」の話ですが、昔の人は「目」を体の「窓」のように考えていたようです。確かに目をつぶると真っ暗になる。目を開けると光が再び入ってくる。そのような窓が澄んでいるか、濁っているかで明るさも違ってくる。確かにそうなりますでしょう。

 そこで少しだけややこしい話をいたします。

 先ほど、イエス様は「ともし火」だと申しました。燭台の上に置かれた「ともし火」だと。燭台ということを考えますと、通常は「ともし火」は家の中にあるものです。「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とイエス様も言っておられますように、一般的にはそうなのです。

 しかし、ここで「ともし火」が中にあるというイメージで読むと話が見えなくなるのです。主は明らかに、自らは外に立っている存在として語っておられるからです。「ともし火」としてのイエス様は外におられるのです。いわば窓の外にともし火がある。光は「窓」を通して入ってくる。そのようなイメージなのです。ですからその場合、「窓」がその人にとって「ともし火」であるとも言えます。ともし火の光は「窓」から入ってくるのですから。それゆえに主は言われるのです。「あなたの体のともし火は目である」と。

 だから実際にはともし火は変わらず輝き続けていても、目の状態で光が入りもすれば入らなくもなる。明るくもなり、暗くもなる。ここに語られているのはそのような話です。つまり、私たちが明るいか暗いか、輝いているか輝いていないかは、「ともし火」であるイエス様の側の問題なのではなくて、私たちの「目」の状態、すなわち「窓」の状態によるのだ、私たちの側の問題なのだ、ということなのです。

 イエス様の側は変わりません。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言われたように、イエス様は自らを燭台の上に置かれました。イエス様は秘密結社を作りませんでした。イエス様は語るべきことを常に公に語っておられました。たとえ当時の宗教家たちの妬みや反感を買い、憎まれることになろうとも、イエス様は罪人と共に食事をし、罪の赦しを宣言し、神の圧倒的な愛の支配が到来していることを言葉と行動をもって宣べ伝えられたのです。

 いや、イエス様は復活の後もなお燭台の上のともし火であり続けられました。教会を通して主は語り続けられ、イエス様御自身とその救いについて、世界中に語り伝えられることを良しとされました。そして、現に極東の地にある日本にさえ、キリストの福音は語り伝えられました。その意味でイエス様はこの国においても燭台の上のともし火であり続けられましたし、いまもそうあり続けておられます。

 にもかかわらず私たちの全身が暗いとするならば、それは「ともし火」が隠れてしまっているからではなく、私たちの目の問題なのです。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」と主は言われるのです。「澄んでいる目」とは「一心に向けられた目」を意味します。素直に真実に一心にイエス様に向けられた目のことです。そうしますと「濁った目」(直訳すると「悪い目」)とは、もはやそのようにはイエス様に向けられなくなった目のことでしょう。

 かつてイエス様と出会ったとき、イエス様のことをいつも考えて、イエス様のことを知りたくて、福音の真理を知りたくて一生懸命聖書を読み、説教に耳を傾けていた人。朝に夕に祈りの時を持ち、神の愛の光が入ってくるようにと窓を全開にして、とにかくひたすら一心に、イエス様に向けて、神の愛の光に向けて開かれていた目。皆さんにも覚えがあるでしょう。

 しかし、それがいつも同じ状態にあるとは限りません。いつの間にかその目が濁ってしまった、ということが起こります。他のあらゆるものに心を奪われ、心が散り散りになり、明らかに目から光が入ってきていない。かつて内側に入ってきていた神の愛の光が、いつの間にやら暗くなってしまっている。生活から天の光の輝きが消えてしまった。私たちに、そんなことが起こっているかしれません。

 もちろんいろいろ理由はつけられるのでしょう。あの人が悪い、あの出来事さえなければ、コロナ禍がなければ、などなど。今の状態になった理由はいろいろ挙げられる。しかし、本当は分かっているはずです。目が濁ってしまっていること。それで暗くなっているのだということ。

 イエス様は言われました。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と。「あなたの中にある光」と言っても、それはもともとあった光ではありません。一心にイエス様に向かっていたときに、「ともし火」から入っていた光です。その光が暗くなっていませんか。それを点検しなさいと主は言われるのです。

 新型コロナウイルスのパンデミックになる前には、毎年10月最後の主日に大掃除をしていました。今年も大掃除はいたしません。しかし、教会の窓を掃除しないとしても、私たちの心の窓はきれいにしたいものです。澄んだ目を取り戻しましょう。一心にイエス様に向けられた目、イエス様に向けられた生活を取り戻しましょう。「ともし火」は燭台の上にあります。私たちが主を求め、神の愛の光を求めるつもりなら、その光はすぐ近くにあるのです。具体的に始められることがあるはずです。その意味で、今日は私たち自身の大掃除の日なのかもしれません。

(祈り)

2022年10月26日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 2:1~10a

ペトロの手紙二 2:1‐10a

 私たちは使徒信条の最後において「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン」と唱和いたします。そのとおり、私たちは罪の赦しを信じています。そして、神が赦してくださるならば、もはや私たちを滅ぼすものはないと信じています。復活と永遠の命を信じています。神による罪の赦しにはいかなる限界もないことを信じています。どんなに大きな罪を犯した人であっても、神に赦された者として新しく生きることができる。神に赦された者として永遠の命にあずかることができます。

 そのように神が罪を赦すことができるのは、神が罪を裁くことのできる御方だからです。このことを忘れてはなりません。罪を正しく裁き、断罪し、滅ぼす権威をお持ちの方だからこそ、その権威をもって他の誰も取り消すことのできない罪の赦しの宣言をすることができるのです。わたしは皆さんの罪を赦し、救うことはできません。私は皆さんを断罪し滅ぼすこともできないからです。

 しかし、そのように神が正しく裁かれる御方であり、自分たちもまた神の裁きのもとにあるという事実から目を背けさせる人々は昔からいたのです。「かつて、民の中に偽預言者がいました」(2:1)とペトロは言っていますが、この「偽預言者」とはそのような人たちです。そのような偽預言者の実例は旧約聖書の至るところに見いだされます。例えば預言者ミカはこう語っています。「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』」(ミカ3:11)と。神が不正を憎まれ、罪を正しく裁かれる御方だということを抜きにして、「災いが我々に及ぶことはない」と語っているならば、それは偽預言者なのです。また、神は預言者エレミヤを通し、当時の祭司たちや預言者たちについてこう語っています。「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレミヤ6:14)。これが偽預言者というものです。

 それと同じことが教会でも起こっているではないかとペトロは言っているのです。「同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません」(1節)。実際には既に諸教会において偽教師の働きは始まっているのです。彼らが持ち込んできた異端の教えが具体的にどのようなものであったかは分かりません。しかし、そのような教師たちの特徴と、彼らの影響がどのような形で教会に現れていたかは明らかです。彼らを特徴づけていたのは「みだらな楽しみ」(2節)です。これは特に性的な放縦を意味しています。彼らが放縦にふけっていただけではありません。彼らは教師ですから、多くの人々がその行いを見倣ったというのです。しかも、その影響は教会内だけに留まりません。そのように乱れた生活をしているゆえに、宣べ伝えられている福音そのものが謗られていたのです。

 具体的にどのようなことが行われていたのかは、来週読みます2章後半に書かれています。例えば「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています」(13‐14節)というようなことが起こっていたのです。

 「宴席」と書かれていますが、もともとこれは教会における愛餐なのです。それが単なるどんちゃん騒ぎと姦淫の温床になっていたのです。彼らはキリストによる罪の贖いを信じていたのでしょう。彼らは確かにキリストによって贖われた者として罪の赦しを信じていたに違いありません。しかし、神が罪を赦すことができるのは、罪を正しく裁く御方でもあるからだという認識が抜け落ちていることは明らかです。

 そのような偽教師たちについて、「自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と書かれていることは重要です。繰り返しますが、彼らは確かに主によって贖われた者なのです。しかし、彼らの行為は、その贖ってくださった主を拒否していることになるのだ、というのです。実際には、彼らは贖いを否定していないであろうし、意識して「主を拒否している」わけではないでしょう。主をあからさまに拒否していたら、教会の中において教師であり続けることができるはずがありませんから。そのような「教師」についていくほど皆も愚かではないでしょう。しかし、それでもなお聖書は彼らを「自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と表現しているのです。

 その理由は「贖う」ということの意味を考えれば明らかになってまいります。「贖う」とは「代価を払って買い取る」ことです。確かにキリストは代価を払ってくださいました。私たちの罪の負債を代わりに支払ってくださったのです。私たちが罪を赦されたとはそういうことです。しかし、それはまた私たちが主のものとされたということでもあるのです。主のものとされたのなら、もはや自分自身のものではないのです。パウロもコリントの信徒への手紙で言っているとおりです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント6:19‐20)。

 そうです。これが主によって贖われたということなのです。しかし、悔い改めようとせず、神を侮り、その体を自分の情欲と放縦にゆだねているとするならば、それは確かに「自分たちを贖ってくださった主を拒否」していることになるでしょう。

 そこでペトロは神が正しくお裁きになる御方だということをいくつかの事例を挙げて思い起こさせます。まず罪を犯した天使たちに対して。「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました」(4節)。これは旧約聖書外典の「第一エノク書」という書物に由来する話です。その書物は紀元前2~1世紀に書かれたもので、この手紙が書かれた頃には広く読まれていたものでペトロもそれを例証に用いているのです。次に挙げられているのは、良く知られているノアの箱舟の話です。第三に挙げられているのは、ソドムとゴモラが滅ぼされたという話です。どれもたいへん恐ろしい話です。

 恐ろしい話をあえて記しているのは、教会の人たちに偽教師たちとその教えを警戒して欲しいからなのです。かつて偽預言者たちが現れた時、彼らの言葉はミカやエレミヤの言葉よりも歓迎されたのです。同じように偽教師たちの教説は人々を引きつけるかもしれません。しかし、何かが教会において語られる時、それが耳に心地よいかどうかではなく、それが神からのものであるかどうかを聞き分ける耳を持っていなくてはならないのです。神の御心にかなったことが起こっているかどうか見分ける目を持っていなくてはならないのです。

 次週の箇所では、実に激しい言葉をもって偽教師たちを糾弾しています。それはどうしても読者にとって、私たちにとって必要なことだから、あえてそうしているのです。彼らに引かれてはならないからです。ペトロは私たちに、神の権威を侮り、自分たちを贖ってくださった主を拒否するようになって欲しくないのです。むしろロトのように心を痛める者であって欲しいのです。

(祈り)
 

2022年10月23日日曜日

「思い悩みの源はどこにある」

ルカによる福音書 12:13‐31

 イエス様は言われます。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(22節)と。

 この「食べるもの」「着るもの」は、無いと困るものの代表です。無いと困るもの、不足すると困るものってありますでしょう。いろいろなものが考えられるわけですが、私たちはしばしばそれらのことで思い悩みます。無くなってからではなく、《無くなる前から》思い悩むわけです。だから「思い悩むな」と繰り返されるイエス様の言葉については、「そんなの、無理でしょう」とも思います。

 しかし、私たちは「だから、言っておく」という小さな前置きを見落としてはなりません。「思い悩むな」という勧めの言葉は、その前に語られていた話の続きだということです。

あらゆる貪欲に用心せよ
 そこでまず13節以下を御覧ください。こう書かれています。「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである』」(13‐15節)。

 ここで「群衆の一人」がしたことは、私たちの目には奇異に映ります。しかし、当時の社会においては決して珍しいことではありませんでした。地域住民のトラブルを解決するために、ユダヤ教の教師が調停人の役割を果たすことはいくらでもあったからです。

 さらに言えば、この人の言っていることも常識内の話です。遺産相続に関しては定められている規定があります。この人が「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と、訴えているところを見ると、律法によって保証されている彼の相続分を兄弟に騙し取られたということなのでしょう。

 そのように、この人がしていることは、社会的に見たら間違ってはいないのです。しかし、イエス様はそこで調停人となることを拒否なさいました。いやそれだけでなく、この出来事を足がかりとして、「どんな貪欲にも注意せよ」と語られたのです。この人としては実に不愉快なことだったでしょうね。この人は当然の権利を主張しているだけだから。どうしてこれが「貪欲」の話につながるのでしょうか。

 そこで一つのことに注目したいと思います。ここで主は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言っているのです。いわゆる貪欲らしい「貪欲」について語っているのではなさそうです。誰の目にも明らかな貪欲ならば、あえて「用心しなさい」と言う必要はないからです。

 そのように、「貪欲」の中には、注意を払わないと分からない貪欲があるようです。イエス様は、ごく普通の日常的な事柄、全く当然に思える要求や主張の中にこそ潜む、私たちが気付かないような「貪欲」があることを言っておられるのです。そして、続くたとえ話は、そのことを明らかにするために語られているのです。

 16節以下を御覧ください。ある金持ちの家が豊作でした。この人が倉を建て替えることは、ある意味で当然のことです。彼は殊更に貪欲な人でしょうか。いいえ、彼の判断は極めて適切です。しかし、神はその人を「愚かな者」と呼ばれました。倉の再建計画を立てたその晩に、命を失うことになるからでしょうか。豊作も蓄えも無駄になってしまうからでしょうか。いいえ、そうではありません。実は、彼の問題は彼の言葉の中にはっきりと現れているのです。

 実は、残念ながら、それは日本語訳の聖書では分からないのです。あえて言葉を加えて訳すならば、実は、彼はこう言っているのです。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。」そして思い巡らしてこう言います。「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに私の穀物や私の財産をみなしまい、私の命に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」

 お気づきになりましたでしょう。問題は、くどいほど繰り返されている「私の」という言葉にあるのです。極めつけは、19節です。「自分に言ってやるのだ」と訳されていますが、これは、今申しましたように、「私の命に言ってやるのだ」というのが直訳です。すると、この神様の語られた言葉の意味合いも分かってきます。この人は「私の命に言ってやるのだ」と言う。すると神様は言われるのです。「愚か者よ。お前が『私の命』と言っている、その『お前の命』とやらは、今夜取り上げられるぞ。」

 財産は確かに「私のもの」に思えます。豊作で得た物も「私のもの」に思えます。しかし、「命」ほど「私のもの」と思いたいものはないでしょう。他の誰の手にも渡したくない。最後まで自分の思い通りになる「私のもの」であって欲しい。それが「命」です。でも、実際にはどうですか。思い通りにはならないでしょう。この世における「命」。この世における人生。絶対に自分の思い通りにはならない。つまり、本当は「私のもの」ではないのです。私たちは、本当は、分かっているのです。

 では誰のものなのでしょう。神様のものです。「お前の命は取り上げられる」。これはもともと「要求する」という言葉です。「返しなさい」と要求することです。つまり、命とは神様から一時的に託されていたものだ、ということです。私たちはその厳粛な事実を認めなくてはなりません。この世における命は神から一時的に託されているものに過ぎない。その命を、では誰が支えていたのか。神様なのです。神様が神様のものをもって、本来神様のものである命を支えてくださっていたのです。しかし、彼はそれを認識しなかった。だから彼はその言葉において「私の、私の」を繰り返していたのです。

 そこに人間の「貪欲」があるのだ、と主は言われるのです。一時的に託されているにすぎない《神のもの》を《私のもの》と主張して生きているところにこそ貪欲がある。しかし、「私の、私の」と言っていることは、この世の観点からするならば、たいていは不当なことではないのです。「わたしのお金、わたしが使いたいように使って何が悪いの」。「わたしの命、わたしの体、どう扱おうとわたしの勝手じゃない」。――だから気付かないわけです。それゆえ、そのような貪欲に「注意を払い、用心しなさい」と主は言われるのです。

思い悩むな
 それに続いて、「思い悩むな」という話が来るのです。多くの人が悩みと心配を抱えています。しかし、多くの人は自分が殊更に貪欲だとは思っていないでしょう。しかし、22節の「だから言っておく」という言葉は、「貪欲」と「思い悩み」を結びつけるのです。そこに、主が語られる重大なメッセージがあるということです。

 主はここで、烏を養われる神について語られます。さらに野原の花をソロモン以上に装われる神様のことを語っておられます。実は、ここで語られていることも、本質的には先のたとえで語られていることと同じなのです。そこには神様から食べ物を受けて生かされている鳥たちがいるのです。自ら労して紡ぐわけではないのに、ただ神によって美しく装われている野の花々がある。彼らの姿こそ、命や体はいったい誰のものであるのかを雄弁に物語っているのです。

 そのように、父なる神は、烏さえも生かしていてくださる。烏にさえ、この地上における命を託し、またその命を支えるために必要なものを与えていてくださる。ましてあなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか、と主は言われるのです。また父なる神は、一日で枯れてしまうような草をさえ装われる。まして、あなたがたにはなおさらのことである、と主は言われるのです。この命にもこの体にも父の慈愛のまなざしが向けられ、この地上の命とこの地上の体のために、神から与えられているものがあるのです。すべては神から来ているのです。

 しかし、先にも見ましたように、私たちはしばしばすべてが神から来ていることを忘れてしまう。そして傲慢にも身の回りにあるものが本質的に「私のもの」であるかのように主張し始めるのです。「私の、私の」と。この世の目には見えない、隠れた貪欲です。

 そして、イエス様はその隠れた貪欲が思い悩みと深く結びついていることを良くご存じだったのです。先に申しましたように、私たちの思い悩みは「無いと困るもの」を巡っての悩みです。だから、思い悩みというものは「欠乏から来る」と考えているものです。食べ物や着る物の不足や欠乏だけではありません。ある時にはお金が足りない。時間が足りない。能力が足りない。夫の愛情が足りない。妻の愛情が足りない。助け手が足りない。周りの人々の思いやりが足りない。――それが思い悩みの種なのだと思っているのです。

 しかし、本当は何かが欠けているところに問題があるのではないのです。そうではなくて、むしろ満ちているところに問題があるのです。何が満ちているか。「私の」という言葉が満ちているのです。「私」が満ちて「神」が欠けているのです。そこにこそあらゆる思い悩みの源があるのです。だから、主はここで「信仰の薄い者たちよ」と言われるのです。思い悩みに深く関わっているのは、実は周りの状況ではないのです。何かの不足ではないのです。そうではなくて、思い悩みに深く関わっているのは、神との関係であり信仰なのです。

 このように、思い悩みは欠乏そのものから来るのではありません。だから、不足しているものをひたすら求めても思い悩みの解決にはなりません。その不足が満たされても、別の不足によって思い悩むことになるからです。では、どうしたらよいのでしょう。まず求めるべきものがある、と主は言われるのです。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(31節)。

 「神の国を求めなさい」。――「神の国」は遠いところにあるのではありません。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)と主は言われるのです。「神の国を求めなさい」。その直前には、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と書かれています。私たちの必要をご存じである神、その神を「わたしたちの父」として、すべてをこの父の手からいただいて、神の支配のもとに感謝して共に生きる生活。そのような父なる神の支配する救いの世界。ただ「神の国を求めなさい」と主は言われるのです。

(祈り)

2022年10月19日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 1:12~21

ペトロの手紙二 1:12‐21

 前回は、私たちに何が与えられているかということに目を留めました。使徒であるペトロと「同じ尊い信仰」を与えられていること。すなわち信仰の価値は信じる人によって決まるのではなく、与えてくださった方によって決まるのであり、それはキリストの血潮の価値なのであり、その信仰を与えられているということ。さらには信仰と同じ尊い信仰が与えられただけではなく、「命と信心とのかかわるすべて」、言い換えるならば「信仰生活にかかわるすべて」が既に与えられているということ。そして、現在の信仰生活のために必要なものを与えられているだけではなく、私たちが待ち望むべき「尊くすばらしい約束」もまた与えられているということ。すなわちそれはキリストの再臨の約束であり、永遠の御国に確かに入れるという約束です。

 そこでペトロは「従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです」と語ります。「思い出させる」のは知らないことを教えるのとは違います。キリスト者であるならば、福音の真理は確かに知っているはずであるし、待ち望むべき約束も受け取っているはずです。その真理に基づいて生活しているのです。12節に書かれているとおりです。しかし、それでもなお何が与えられているかは、繰り返し思い出させられる必要があるのです。

 ペトロ自身は、既に世を去るべき時が来ていることを身近に感じているようです。「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」と書かれているとおりです。だからこそ、まだ仮の宿である体をもって生活している間に、思い起こさせなくてはならないと考えているのです。いやそれだけではありません。ペトロは自分が世を去った後にも、絶えず思い起こして欲しいと願っているのです。そのためにこのような手紙を書いているわけでしょう。実際、そのことのために福音書なども書かれたわけですし、手紙も収集されて、今日のような聖書が残されてきたのです。

 そのように思い起こさせる必要があるのは、「奮起させる」ためであるとペトロは言っています。「奮起させる」というのは「目覚めさせる」という意味の言葉です。嵐の船の中でイエス様が寝ていた時、弟子たちはイエス様を起こしましたでしょう。それと同じ言葉です。そうです、キリスト者は繰り返し目覚めさせられなくてはならないのです。そうでなければ眠りこけてしまうからです。福音を知らないわけじゃない。約束を信じていないわけじゃない。でも実際の生活の中ではそれを忘れて眠りこけたような信仰生活を送ってしまうのです。ですから、繰り返し使徒たちを通して手渡された福音の真理を聞いて、絶えず思い起こすということはとても大事なことなのです。

 そのように与えられている約束を繰り返し思い起こして目覚めていないと、一つには迫害や困難に耐え得なくなってしまうということがあります。それはペトロの第一の手紙で見てきたことです。しかし、それだけではありません。既に述べてきたように、この手紙で問題になっているのは偽教師の存在なのです。福音の真理によって目覚めていないと、いくらでも異なる教えによって足をすくわれてしまうことになるのです。

 そこでペトロは偽教師たちの存在を念頭に置きながら、次のように続けます。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(16‐18節)。ペトロが言及しているのは、マタイ17:1以下とその平行記事によって伝えられている、「山上の変貌」の出来事です。

 すぐに気付きますことは、ペトロが実際に目撃したこと、また実際に聞いたこと、すなわちそれが事実であることに、非常にこだわっているということです。あえて「わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではない」と言っているのです。「作り話」とは「神話」と訳せる言葉です。ペトロは「神話じゃないんだ。事実なんだ」と言っているのです。その当時、宗教的な思想を伝えるためにはいくらでも神話が用いられていたのです。教会において力を持っていた「グノーシス」と呼ばれる異端にも、いわゆる「グノーシス神話」があったのです。しかし、イエス・キリストの力に満ちた来臨(すなわちキリストの再臨と神の国の到来)を宣べ伝えるのに用いたのは、神話ではなく、イエスという御方について実際に見たり聞いたりしたことであると言っているのです。

 なぜでしょうか。それは「約束」や「希望」は単なる思想であってはならないからです。それは事実でなくてはならないからです。キリストが再臨するとするならば、神の裁きがあるとするならば、それは事実でなくてはならないからです。本当に罪が赦されて救われると語られているならば、それは単なる思想であってはならないのです。単に信じている人にとってだけの真理であってはならないのです。そうならば、それは気休めにはなっても、本当の希望とはなり得ないのです。ペトロがここで語っていること、そして世々の教会が伝えてきたのは、単なるキリスト教思想ではなく、歴史の中に現れたイエス・キリストに関する事実なのです。

 ここでペトロは「山上の変貌」について言及していますが、もちろんそれ以上に決定的な出来事はキリストの復活でしょう。実際、山上で三人の弟子たちが経験した出来事は、後に他の弟子たちが経験するキリストの復活顕現を先取りした出来事であったと言えます。それについても、教会は復活が単なる思想ではなくて「事実」であることにこだわってきました。ですから「証人」という言葉を用いたのです。

 ペトロや他の弟子たちがイエスという御方について見たこと、聞いたこと、すなわち、神がその御生涯において、そして十字架と復活において、主イエスに栄光を与えたその「事実」が、旧約の時代から語られてきた神の救いの希望を確かなものとしたのです。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています」と語られているとおりです。「預言の言葉」とは聖書が語る約束の言葉です。それが確かなものとなっているからこそ、キリストが再臨する終わりの時に至るまで、暗闇を照らす真の光となり得るのです。ペトロは言います。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(20節)。

 この世界は「夜が明け」るまで、闇に閉ざされています。その暗闇は私たちの心にも及びます。しかし、わたしたちの心には「暗い所に輝くともし火」が与えられているのです。確かな約束が与えられ、確かな希望の言葉が与えられているのです。この「ともし火」を失ってしまうならば、この世の暗闇に支配されてしまうでしょう。ですから「預言の言葉」、聖書の言葉に留意しなくてはならないのです。しかも、それは恣意的な個人的な解釈によって伝えられた言葉ではなく、キリストの到来によって確かにせられた聖書の約束として心に留めなくてはならない。繰り返し思い起こして、心に留め続けなくてはならないのです。


2022年10月16日日曜日

「流した涙が拭われる時」

イザヤ書 25:1‐9

わたしはあなたをあがめます
 今日は第二朗読において「ヨハネの黙示録」が読まれました。「黙示録」と呼ばれるこの書物は、一読して新約聖書の中で異質な存在であることが分かります。ヨハネの黙示録には、直接的には何を指すのかが良く分からない謎に満ちた表現が多用されています。そして、書かれている内容は、世の終わり、すなわちこの世の終末に関わっているのです。

 そのような文書はヨハネの黙示録だけではありません。断片的にはイエス様の言葉として福音書の中にも見られます。また、旧約聖書の中にも見られます。今日の第一朗読において読まれたのも、そのような箇所の一つです。どうぞ第一朗読の箇所をお開きください。

 今日はイザヤ書25章が読まれました。通して読むと良く分かるのですが、24章から27章までは一つのまとまりとなっています。このまとまった部分はしばしば「イザヤの黙示録」などと呼ばれてきました。そこにおいて、数々の謎に満ちた表現をもって語られているのは、ヨハネの黙示録と同じように、世の終わり、終末に関わる事柄です。

 さて、そのような「イザヤの黙示録」にせよ、また第二朗読で読まれた「ヨハネの黙示録」にせよ、謎に満ちた言葉が多様されているのには、ある共通の背景があります。それは、この世の巨大な権力による支配であり、そのような権力によって抑圧されている人々、不当な苦しみを負わせられている人々の存在です。

 「イザヤの黙示録」の場合には、いつの時代を背景にしているのか、必ずしも明らかではありません。巨大な権力の主(ぬし)はバビロニア帝国かもしれませんし、その後のペルシア帝国かもしれません。ヨハネの黙示録の場合にははっきりしていまして、それはローマ帝国の支配です。そして、その支配のもとに起こった迫害が背景となっています。

 容易に想像できると思いますが、そのような大きな権力の支配下にある場合、事柄をあからさまに語ることは困難なのです。例えばローマ皇帝を名指しで批判することはできないのです。それゆえに、謎に満ちた象徴的な表現を用いることになります。言い換えるなら、そのような時代状況にあるからこそ、神様が幻という形で真理を示し、謎に満ちた仕方で語らせたとも言えます。

 いずれにしても、そこで語られているのは「もう一つの支配」についてです。この世の巨大な権力による支配よりも、さらにその上にあるもう一つの支配、すなわち神の支配について語られているのです。

 人間の肉の目には人間の支配しか見えないのです。人間がしていることしか見えないから、人間が世界を動かし、歴史を動かしているように見えるのです。人間の力が人間の運命を左右しているように見えるのです。しかし、神が霊の目を開いてくださると、そうではないのだ、ということが見えてきます。この世界を支配しているのは、人間ではなく神なのだということが見えてくるのです。

 神がこの世界を支配しておられる、ということは、言い換えるならば、神が最終的にすべてのことに決着を付けてくださるということです。正義のない世界に、神が正義を貫かれるのです。神が最終的に正しい裁きを行われるのです。この世に満ちている「なぜですか」という叫びに対しても、最終的に神が答えてくださる。すべて不当なこと、不条理なことについても、神が報いてくださるのです。

 この人は霊の目によって、その現実を見ているのです。だからこの人は神を賛美しているのです。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって」(1節)と。先ほどもいいましたように、ここに書かれている言葉は苦難の時代を背景としています。本当は彼もまた苦しみの中にあるのです。しかし、そこで彼は神を賛美するのです。人がそのように生きることは可能なのです。

人間の築き上げたものの崩壊
 人間の巨大な力が支配しているように見えるこの世界のただ中にあって、神がこの人に見せてくださったのは、巨大な帝国の都が崩壊して瓦礫の山と化した姿でした。「あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう」(2節)。

 もちろん、現実にはそのようなことは起こってはいないのです。肉の目に映っているのは、決して揺らぐことはないと思われる、人間が築いた帝国なのです。その都の姿なのです。人間が建て上げた城壁に囲まれた町がそこにあるのです。しかし、人間がその力を誇り、自らの力で打ち立ててきたもの、積み上げてきたものが崩壊する様を神は見せられたのです。そのようにして、人間が真の支配者ではないのだということを神が明らかにされたのです。

 さて、ここに書かれていることは、部分的には、歴史の中において実際に起こってきたことだと言えます。かつて繁栄した古代の都はやがて滅びていきました。私たちは人間の力もその支配も絶対ではないことを知っています。揺るぎないと思えたものも崩壊することを私たちは知っています。それは確かに歴史において明らかにされてきた現実です。そして、それが究極的な形で明らかにされるのが世の終わりであると言えるでしょう。最終的に神が神であり、人間は人間に過ぎないことが明らかにされるのです。

 その事実が、ここでは人間の建てたものが崩壊する姿として描かれています。それはある意味では恐ろしいことです。しかし、人間の造ったものがやがては崩壊するのだということに目が開かれる時、人間は何に依り頼むべきであるのか、ということにも目が開かれるのです。私たちは誰に対してへりくだらねばならないのか。誰に依り頼むべきなのか。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます」と彼は歌いました。その人は、さらにこう口にするのです。「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる」(4節)。

 現実には豪雨に遭っているのです。また一方で日照りの暑さに苦しんでいるのです。そのように喩えられる苦難のただ中にいるのです。しかし、彼には砦があるのです。まことの支配者が誰であるかを知っているからです。だからその御方に信頼し、賛美をささげて生きるのです。

喜び躍る時が来る
 そして、さらに彼が見たのは万軍の主が開かれた祝宴でした。6節以下には「すべての民」「すべての国」という言葉が繰り返されています。この世界を統べ治めておられる神による救いは、すべての民族、すべての国々に関わっているのです。

 後にパウロはこう言っています。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ10:12‐13)。

 実際、ここに語られていることは、明らかにイスラエルに固有のことではありません。すべての人間に関わることです。それは「死」に関することだからです。死は全ての人間に関わっています。死を免れないということについては、権力があろうがなかろうが、支配する側であろうが支配される側であろうが、まったく関係ありません。

 だからこそ、主のなされることが次のように語られているのです。「主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」(7‐8節)。

 ここに語られている終末の希望は、そのまま新約聖書に受け継がれています。今日の第二朗読はヨハネの黙示録7章12節まででしたが、その続きを読みますと16節以下に次のように書かれています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙示録7:16‐17)。

 新約聖書においては、終末の描写にも、さらなる確信が加えられていると言えるでしょう。ならなら、既にメシアは来られたからです。そして、そのメシアは十字架にかかられて罪の贖いを成し遂げてくださり、死から復活されたからです。イザヤ書に語られ、新約聖書に受け継がれている終末の出来事は、すでにキリストと共に始まっているのです。言い換えるならば、死を滅ぼしてくださる神、目の涙をぬぐい取ってくださる神の御救いを、私たちは既に味わい始めているのです。

 9節にはこう書かれていました。「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」(9節)。今、目に映るこの世界の有様がどうであれ、目に映る私たち自身の姿がどうであれ、その日は来るのです。救いを祝って喜び躍る時が来るのです。だから、私たちは今から共に、喜び祝い始めるのです。その意味で祝宴は既に始まっているのです。私たちが今日、聖餐を行うとはそういうことです。共にキリストを喜び祝い、礼拝をささげる生活が与えられているとは、そういうことなのです。

(祈り)

2022年10月12日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 1:1~11

 ペトロの手紙二 1:1‐11

 今日からペトロの手紙二に入ります。これまで読んできましたペトロの第一の手紙は、主に迫害の中にあるキリスト者を励ますために書かれたと申しました。第二の手紙はそれとは異なる必要から書かれています。それは2章に出て来る「偽教師」の問題です。教会に異端の教えが入り込んできたのです。そして、その教えによって教会に混乱が生じていたのです。

 教会に危機をもたらすのは外からの迫害だけではありません。往々にして内側からの崩壊の方が危険なのです。キリスト者の信仰生活は必ずしも外からの圧力によって妨げられるのではありません。そうではなくて、間違った教えによって、そこから入り込む罪によって妨げられるのです。私たちは信仰生活において、困難や苦難との戦いだけを考えていてはなりません。そうではなく、間違った教えが入って来ること、また罪が入って来ることと戦わなくてはならないのです。

 それゆえに、この手紙の最後でペトロはこう言っています。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(3:18)と。そうです、私たちは成長しなくてはならないのです。その成長は「知識においても成長すること」を含みます。知るべきことを知り、認識すべきことをしっかりと認識して生活することです。

 そこで重要なことは、まず既に与えられているものをしっかりと認識することです。ペトロは次のような挨拶から書き始めます。「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(1‐2節)。

 一方において、イエス様と共に生活し、その力ある業と栄光とをその目で見ることを許され、その信仰を直接手渡された使徒たちがいます。ペトロはその一人でした。そして、もう一方には、この手紙を読んでいる教会の信徒たちがいます。偽教師たちの教えに翻弄されているまことに心許ないキリスト者たちであるとも言えます。しかし、ペトロは言うのです。「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」。すなわち、「あなたがたの信仰は尊さにおいてわたしたちの信仰と同じだよ」と言っているのです。

 命をかけてキリストを宣べ伝え、最後まで信じ抜いて殉教していったペトロの信仰と、ここにいる私たちの信仰。ずいぶん違うと思うかもしれません。しかし、ペトロは言うのです、「同じだよ」と。信仰の尊さというものは、信じている人によって決まるのではない、ということです。

 もしかしたら、誰か他のキリスト者の姿を見て、「あんな人がキリスト者だというならば、キリスト教信仰なんて価値ないじゃない」と言う人がいるかも知れません。しかし、信仰の価値は信じる人によって決まるのではなくて、与えてくださる御方によって決まるのです。私たちの信仰は「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって」与えられたのです。「義によって」とは「救いの御業によって」と言い換えてもいいでしょう。イエス・キリストを十字架にまでおかけになるという神の御業です。私たちに与えられている信仰の価値は、私たちが何をしたかによって決まるほど安くはありません。それはキリストの血潮の価値なのです。要は尊いものを尊いものとして扱っているかどうか。それによって信仰生活が決まってくるのです。

 さらに私たちが与えられているものについて、ペトロは次のように語っています。「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです」(3節)。

 わたしたちには「命と信心とにかかわるすべてのもの」が与えられていると語られています。このことを私たちは深く心に留めなくてはなりません。私たちは使徒たちが受けた信仰と同じ尊い信仰が与えられただけではありません。「命と信心とのかかわるすべて」言い換えるならば「信仰生活にかかわるすべて」は既に与えられているということです。「信心」とは「敬虔な生活」のことです。真に神と共に歩む生活のことです。そのように生活するために必要なすべては既に与えられているのです。言い換えるならば、与えられている尊い信仰を、まことに尊いものとして生きることができるように、そのためのすべては既にイエス様によって与えられているのです。

 イエス様はどのようにして、それを与えてくださったのでしょう。それは自ら実際にこの地上において生活してくださったことによってです。イエス様が、この地上において神の力を現しながら、神を示して生きてくださったのです。そのことによって、神を「認識させてくださった」のです。神をイエス・キリストの父なる神として知るようになり、愛なる神として知るようにさせてくださったのです。御子は受肉によって、私たちに神の認識をもたらしてくださったのです。

 その神の認識がまず使徒たちに与えられました。その使徒たちから、世々の教会へと伝えられました。そして教会を通して、聖霊のお働きを通して、私たちにも必要なすべてが伝えられているのです。つまりキリストは今も御力によって神を認識させ、信仰生活のために必要なすべてを与えてくださっているのです。そのように、私たちの信仰生活に必要なものは、私たち人間の内側から出て来るものではなくて、聖書を通し、教会を通し、聖霊のお働きを通してキリストによって与えられているのです。

 そして、私たちは現在の信仰生活のために必要なものを与えられているだけではなく、私たちが待ち望むべき「尊くすばらしい約束」もまた与えられているのです。それはこの後3章に述べられることになりますが、キリストの再臨の約束であり、また11節の言葉で言えば、「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に入れる」という約束です。

 神の国に入れるということは当然の権利なのではなく、ただ一重にキリストの十字架を通して特別に恵みの賜物として与えられた「約束」です。ですから当然ですが、罪を赦されてその約束が与えられたのは、「後はどう生きてもよいのだよ」ということではないのです。そうではなく、わたしたちが「情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるため」(4節)なのです。すなわち、この世と一緒に腐ってしまわないためなのです。罪の泥沼に呑み込まれて一緒に腐ってしまわないためです。そうではなくて、神の性質を共有する者となるのだ、というのです。神の像として造られ、神の似姿に造られた本来の人間になるためなのです。

 そのように、既に与えられている尊いものがあるのです。その尊いものを尊いものとして受け止めて生きることが重要なのです。それゆえに、私たちは信仰生活における成長、この世の退廃を免れて神の本性にあずかるところへと向かっていく具体的な歩みを求めていかなくてはならないのです。

 私たちは確かに罪人のまま、「そのまま」で神に赦され、受け入れられ、救われました。しかし、だからこそ本来清められるはずのない罪が清められて、今こうしていることの重みを忘れてはならないのです。十字架の血の重さを持つ特別な恵みによって、神の国の約束を与えられていることを忘れてはならないのです。そうあってこそ、「ありのまま」で受け入れられた人が、その「ありのまま」から踏み出して生きるようになるのです。もしそうでないとするならば、キリストの十字架のゆえに罪が赦されたことを忘れているか、近眼になって目の前のことしか見えずに、神の国のことが考えられなくなっているということです。9節に書かれているのは、そういうことです。

 私たちは5節以下に書かれているような、成長を求める具体的な信仰生活の訓練を実践していかなくてはなりません。そうあるならば「決して罪に陥りません」とペトロは言います。「罪に陥る」と訳されている言葉の原意は「つまずいてよろめく」ことです。つまり個々の罪に陥ることというよりも、信仰生活そのものが壊れてしまうことです。「これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります」と書かれていますように、私たちは、つまずきながら、よろめきながらではなく、永遠の御国を目指しつつ、成長を求める信仰生活の確かな足取りをもって生涯を全うしたいものです。

2022年10月9日日曜日

「勝利者となるために弱くされた人」

創世記 32:23‐33

ヤコブという名を持つ男
 今日の聖書箇所にはヤコブという人物が出てきました。彼は兄エサウと双子の兄弟でした。その双子は母親の胎内にいたときから既に先を争っていたようです。そして、生まれた時、先に出てきたエサウのかかとをつかんで出てきたのが弟のヤコブでした。「先に行かせてたまるか!」という格好で生まれたのです。

 「かかと」はヘブライ語で「アーケーブ」と言います。これが動詞になりますと、「かかとをつかむ」という言葉になりまして、私たちの言葉で言いますと、「足を引っ張る」とか「出し抜く」というような意味になります。ヤコブという名前は、そのような言葉に由来すると聖書では説明されています。

 「名は体をあらわす」と言われます。ヤコブという人物は、その名の通り「人の足を引っ張り、人を出し抜く人」として成長していきました。彼は産まれた時には長子になれませんでした。しかし、策略を用いて兄エサウから長子の特権を奪います。また、父のイサクを騙して、長子の祝福を奪います。その話は創世記25章と27章に出ていますので、後でゆっくり読んでみてください。

 望むものをまんまと手に入れたヤコブでした。しかし、当然の事ながら、彼は兄エサウから憎まれることになります。兄エサウは必ず弟のヤコブを殺してやると心に決めていました。それを知ったヤコブは、兄のもとから母の故郷であるハランへと逃れていくことになりました。そして、実にその逃亡生活は20年に及ぶことになるのです。

 そのようなヤコブに、ついに故郷に帰るべき時がやってきました。主が夢の中でヤコブに告げたのです。「さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」。ヤコブとその家族は主の導きに従い、ハランを後にしました。しかし、そこにはまだ大きな問題が未解決のまま残されておりました。そうです、まだエサウと和解してはいないのです。

 ヤコブは、あらかじめ兄エサウのもとに使いを遣わしました。すると、使いはエサウがこちらへ向かっているとの知らせをもって帰ってきました。しかも、エサウは四百人もの野郎共を引き連れてやってくると言うのです。ヤコブは震え上がりました。そこでヤコブが祈った言葉が32章10節以下に記されています。

 「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。 …どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と」(32:10‐13)。

 ヤコブは、そのように神に救いを祈り求めます。しかし、もう一方において、彼は取り得る方法を思い巡らしておりました。これまで人の足を引っ張り、人を出し抜くために用いてきた頭脳をフル回転させて、ヤコブはこの危機を乗り切るための策を講じます。彼は自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物として、山羊や羊、らくだや牛などを選びました。そして、それぞれの群れを召使いに託して、贈り物の行列を作ったのです。彼は召使いにこう言わせることにしました。「これはあなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります」と。

 そのように、私たちもまた、目の前に問題があれば、その問題をなんとか解決しようとして策を講じます。その問題そのものを解決し、取り除こうといたします。しかし、聖書はいつでも、本当の問題は何なのかと私たちに問いかけます。実は、ヤコブにとって解決されなくてはならない最大の問題は、兄エサウとの関係ではなかったのです。そうではなく、神との関係だったのです。今日の聖書箇所はそのことを私たちに示しているのです。

祝福してくださるまでは離しません
 23節以下を御覧ください。「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません』」(32:23‐27)。

 まことに奇妙な話が書かれています。「何者かが」と書かれていますが、これは何者なのでしょう。これは人のようであるし、天使のようであるし、後の言葉からすれば神でもあるようです。良く分かりません。しかし、いずれにせよ、このような表現をもって、その夜のヤコブの経験が描写されているわけです。確かに、不安と恐れに満ちた夜を過ごすヤコブにとって、その夜の経験というものは《何者かとの格闘》――究極的には神との格闘――に他ならなかったのです。

 では、その格闘の中で一体何が起こったのでしょう。聖書は何と伝えているでしょう。――ヤコブの腿の関節がはずれたのです。それは相手に打たれたからです。打たれて弱くされたのです。それまでヤコブは強かったのです。相手を打ち負かすほどに強かったのです。しかし、そのヤコブが打たれて弱くされました。腿の関節がはずれたらどうなるでしょう。足を引きずらざるを得ません。もはやエサウが襲ってきても、戦うことはできません。逃げることすらできません。絶体絶命です。

 そのように、神が人に関わられ、その人生に入って来られる時、神は時としてこのような弱さを与えられます。神は人間を打って、あえて弱さを与えられるのです。それまで自分の力でどうにでもなると思っていた人間が、神にさえ打ち勝てると思っていた人間が、神に打たれて徹底的に弱くされるのです。もはや自分の力で戦うこともできません。逃げることすらできなくなります。

 その時、人はどうしたら良いのでしょう。ヤコブはどうしたのでしょうか。ヤコブはしがみついたのです。「祝福してくださるまでは離しません」と言ってしがみついたのです。彼はそのように、ただひたすら神の祝福を求めたのです。彼は気が付いたのです。エサウとの関係が問題なのではない。それ以前に神との関係が問題なのだ、ということに。

お前の名はイスラエル
 しがみついて離さないヤコブに対して、その人は尋ねました。「お前の名は何というのか」。彼は「ヤコブです」と答えます。先ほど申しましたように、ヤコブという名前は「足を引っ張る」「出し抜く」という意味の言葉に由来します。「わたしはヤコブです」――そう答えることは、彼がこれまでどのように生きてきたかを認める、ということに他なりませんでした。

 「わたしはヤコブです。出し抜くものです。そのように人を出し抜いてでも、前に出ようとしてきた者です。そのように自分の力によって、未来を切り開こうとしてきた人間です。そうです、そのようにして、自分の力で、この危機をも乗り越えようと、いろいろ考えを巡らしました。策を講じました。しかし、今や、わたしは弱くされました。もはや逃げることすらできません」。――「わたしはヤコブです」とは、そのように彼の生き様とその破れと弱さのありのままを神の前に認めることに他なりませんでした。

 しかし、「わたしはヤコブです」と答えた彼に、その人は――すなわち神は――こう言われたのです。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(29節)。ヤコブは新しい名前を与えられました。もうヤコブではありません。イスラエルです。「イスラエル」という名前が正確に何を意味するのかは難しい問題ですが、ここでは「神と人と闘って勝った」から、と説明されています。なんと驚くべき言葉でしょうか。そこにいるのは、打たれて弱くされて、もはや足を引っ張ることも出し抜くこともできない、ただすがりつくことしかできないようなヤコブなのです。しかし、そのようなヤコブに対して、神は「お前こそイスラエルだ。真の勝利者なのだ」と言われたのです。

 この出来事を経験した場所は、「ヤボクの渡し」(23節)という場所でした。その場所をヤコブは「ペヌエル」と名付けます。それは「神の顔」という意味です。それはヤコブが「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったからだ、と説明されています。

 先に見たように、ヤコブにとって最大の問題は、エサウと顔を合わせることにありました。少なくとも彼はそう思っていたのです。しかし、本当に顔を合わせなくてはならない相手は、エサウではありませんでした。そうではなくて神だったのです。そして、エサウと顔を合わせることがヤコブにとって危機を意味するように、それ以上に、神と顔を合わせるということは危機を意味したのです。なぜなら、罪ある人間が神と向き合うことは死を意味するからです。

 しかし、「わたしは顔と顔とを合わせて神と見たのに、なお生きている」とヤコブは言いました。これはすなわち「わたしは赦された」ということに他なりません。神の祝福は、神の赦しと共に与えられたのです。それはエサウから赦されること以前に、まずヤコブにとっては必要なことだったのです。

 そして、「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った」(32節)という印象深い描写が続きます。彼は足を引きずっています。彼は神に打たれて弱さを与えられました。しかし、不安と恐れの闇夜はもはやそこにはありません。彼は確かに朝の光の中を歩んでいるのです。そのような朝を、後のイスラエルの民もまた幾度となく経験しました。そして、私たちもまた同じです。私たちもまた、ヤコブからイスラエルとされた者として、闇夜に身を置く者から朝の光の中を歩く者へと招かれているのです。

(祈り)

2022年10月5日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一  5:8~14

 ペトロの手紙一 5:8‐14

 「身を慎んで目を覚ましていなさい」とペトロは言います。「身を慎んで」とは、既に4章において語られていた勧めです。先に申しましたように、これは「醒めていること、冷静であること」を意味する言葉です。その反対は陶酔であり熱狂です。4章では「万物の終わりが迫っています」という言葉に続いて、終末に向かう者の姿勢として語られておりました。この章においては、「身を慎んで、目を覚ましている」ことのもう一つの理由が書かれています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)と言うのです。

 この世の一般的な感覚からすれば、「身を慎んでいなさい」、すなわち、「冷静でいなさい、醒めていなさい」と語られた直後に悪魔の話が出て来るのは、いささか奇異に思われるかもしれません。というのも、悪魔の話などを始めるのは、どちらかと言えば狂信的な人や現実から遊離している人であると思われているからです。

 しかし、聖書が語るところは全くその逆なのです。既に触れましたように、この手紙の読者は迫害の中にあるのです。そこではどうしても、自分に不当な苦しみを与える人、侮辱したり中傷したりする人に目が行ってしまうのです。あるいは自分が直面している困難や苦難に目が行ってしまうのです。しかし、そこでこそ「身を慎んで目を覚ましていなさい」という言葉を聞かなくてはならないのです。目覚めてこそ、本当の敵が見えてくるのです。本当の敵は人間ではないことが見えてくるのです。本当に戦って克服しなくてはならないのは、苦難そのものに対してでもないことが見えてくるのです。本当の敵は悪魔であるということが冷静になれば見えてくるのです。

 ならば重要なことは一つだけです。悪魔の目的は神から引き離して滅ぼすことにあるのですから、その悪魔に対する抵抗は、神から引き離されないことです。信仰に留まることです。それゆえに「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(9節)とペトロは励ましているのです。具体的には、前とのつながりで言えば、神の力強い御手の下で自分を低くすることです。すなわち、思い煩いを、何もかも神にお任せするということです。他ならぬ神御自身が、わたしたちのことを心にかけていてくださる。心配していてくださる。その神を信じることです。

 また、神に目を向けると共に、周りにも目を向けなくてはなりません。「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(9節)。悪魔は苦しみを用いて、神の愛を疑わせようとするでしょう。あなたは神に愛されてなどいないのだ。神に見捨てられてしまったのだ。そもそも神などいないのだ。信じているお前が愚かなのだ、と。しかし、その時に苦難の中にいるのは自分だけではないことを知らなくてはならないのです。サタンに立ち向かっているのは、自分たちだけではないことを、この手紙の読者たちは知らなくてはならないのです。

 それは私たちも同じです。私たちは当時のような迫害の中にいるわけではありません。しかし、信仰のゆえにちょっとした困難にぶつかると、すぐに心が萎えてしまうものです。神を信じているのに、どうして?と。しかし、そのような時には、今の時代にあっても、迫害や無理解の中で、あるいは貧困や不安定な社会情勢の中で、苦難を耐え忍びながら御言葉を宣べ伝えているキリスト者たちがいることを考えなくてはならないのです。さらに歴史を辿るならば、私たちがこうして福音にあずかるまでには、おびただしい人たちが涙を流し、血を流して信仰に留まり、福音を宣べ伝えてきたという事実があるのです。私たちは、そのような人々のことを忘れてはならないのです。そのような人々が信仰にしっかり踏みとどまってきたように、私たちも信仰にしっかりと踏みとどまるべきなのです。

 そして、さらに私たちは前に目を向けなくてはなりません。私たちに与えられている希望に目を向けなくて、どうしてサタンに抵抗することができるでしょう。ペトロは言います。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。

 そこには「永遠」と「しばらくの間」の対比があります。苦しみは永遠ではありません。「しばらくの間」です。私たちが招かれているのは「永遠の栄光」です。それは一時的なものではありません。「しばらくの間」のことのゆえに、「永遠」の救いを投げ捨ててしまってはならないのです。一杯の食べ物のゆえに、長子の権利を譲り渡したエサウのようであってはならないのです。

 神御自身が「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」と約束してくださっています。「完全な者とする」とは、完成するという意味の言葉ではありません。「破れたものを修復する」というような意味です。

 もしかしたら、迫害によって肉体的に加えられる危害のことが考えられているのかもしれません。あるいは、様々なものを失うことが考えられているのかもしれません。いずれにせよ、人であれ悪魔であれ、肉体や心にいかなる危害や傷を加えたとしても、あるいは何を奪っていったとしても、神が苦しみの後には完全に修復してくださるのです。すべてを回復してくださるのです。完全な者としてくださる。

 さらには強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる。今は信仰にしっかりと踏みとどまることは戦いです。揺らぐことが起こってくるから、踏みとどまらなくてはならないのです。しかし、そのような状態が永遠に続くわけではありません。最終的に、完全な勝利の中で、もはや揺らぐことはないようにしてくださるのです。それはすべて神によるのです。ですから、自分が力を得ることが重要なのではありません。「力が世々限りなく神にありますように」とペトロは言っているのです。

 そして、結びの言葉として、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」と言っています。「これこそ」とは、この手紙に書かれている内容です。すなわち、この手紙の中に書かれ、また勧められているような、苦難と試練の中にありながら、なおも喜びと希望をもって生きることの信仰生活です。これこそが「神のまことの恵み」だと言うのです。神の恵みは、苦難を免れさせるところにあるのではありません。神の恵みは苦難を突き抜けさせるところにあるのなのです。
(祈り)

2022年10月2日日曜日

「世界の救い、世界の希望」

ヘブライの信徒への手紙 9:23-28

死後裁きをうける私たち
 本日の聖書箇所には、次のような言葉が記されていました。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(27節)。このように、聖書は確かに、死後の裁きについて語っています。そして、死後の裁きについて語る言葉は、人間に恐怖の念を引き起こします。キリスト教会には、そのような恐怖をあえて呼び起こしてきたという歴史もあります。中世に描かれた地獄絵図などは、その典型です。そのように、「死後の裁き」の教えが引き起こす感情は、第一には恐怖であると言って間違いないでしょう。

 しかし、「死後の裁き」という言葉が、恐怖としか結びつかないとするならば、それはそれで極めて浅薄な、一面的な理解であるとも言えます。

 そもそも人は、この世に不当なことが行われているのを見るならば、正しい裁きを求めるものでしょう。もし自分が不当な苦しみを負うことになれば、正しい裁きが行われて不当な苦しみが取り除かれることを求めるものだろうと思います。仮に自分が不当な苦しみを負ったまま死ぬことになるとするならば、死んで後でもいいから、正しく報いられることを人は望むものだろうと思うのです。

 もう何年も前のことですが、シリアの内戦で負傷してまもなく亡くなった三歳の男の子が、最期に語った言葉がネット上で話題になりました。その子はこう言って死んだのです。――「神様に全部言いつけてやるから」。

 この子の訴えは、この子の叫びは神様に取り上げられるのでしょうか。大人たちの様々な思惑のもとに踏みにじられた小さな命は省みられるのでしょうか。その小さな命が受けた不当な苦しみは報いられるのでしょうか。神がまことの神ならば、この子の叫びが放置されるはずはない。死後であっても正しい裁きが行われるはずだ。行われて欲しい。誰でもそう思うのではないでしょうか。

 この世においては必ずしも正しいことが完結するわけではありません。この世に生きている間に、すべての決着が付くわけではありません。それは私たちも分かっているのでしょう。ならばその意味において、たとえ死後であっても、正しい裁きが行われるということは、人間にとって希望なのです。

 また「死後の裁き」の教えは、私たちの一生を最終的に判断するのはいったい誰なのか、ということに関わっています。私たちは往々にして、人の評価、人の判断、人の言葉に振り回されながら生きているものです。しかし、聖書は死後における神の裁きについて語るのです。最終的に人の一生を判断するのは神である、ということです。人間ではないのです。人間が見ていようがいまいが、人間に誤解されようが、馬鹿にされようが、軽く見られようが、神様は正しく見ていてくださる。神が裁かれるとはそういうことです。その意味においても、死後に裁きがあることは、人間にとって希望なのです。

多くの人の罪を負うために
 そのように、人は一方において正しい裁きを求めているし、死んだ後でもよいから、正しい裁きがなされることを求めていると言えます。しかし、もう一方において、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」という言葉には、ある種の「恐ろしさ」が伴っていることも事実です。「死後裁きにあう」という言葉を見て、単純に「ああ、嬉しい!」と思えない。それはなぜか。私たちが皆、必ずしも自分が正しく生きてはいないことを知っているからでしょう。そこでは、他の誰かではなく、私たち自身の罪が問題となるのです。

 だからこそ、続く28節が重要になるのです。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。そもそも、この手紙はただ死後に裁きがあること自体を語りたかったのではありません。本当に語りたかったのはこの28節なのです。

 「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた。」

天そのものに入られたキリスト
 この言葉の背景にあるのは、ユダヤ人社会において一年に一度行われる「贖罪日」の礼拝です。遡って6節以下をお読みします。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。

 「第一の幕屋」と「第二の幕屋」が出て来ますが、これは幕屋が二つあるということではありません。一つの幕屋が垂れ幕によって二つに仕切られているのです。垂れ幕の手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、垂れ幕の向こうは「第二の幕屋」あるいは「至聖所」と呼ばれていました。

 一般の祭司たちは第一の幕屋までしか入れません。その奥の第二の幕屋には入れないのです。そこには大祭司だけしか入れません。しかも年に一度だけです。大祭司が第二の幕屋に入る前に、罪の贖いのための犠牲が屠られます。人々の罪が赦されるために代わりの動物が死ぬのです。大祭司はその血を携えて垂れ幕の向こうに入ります。自分自身と人々の罪が赦されるために、定められた贖いの儀式を行い、血を携えて神の御前に出るのです。

 このように動物を屠って、その血を携えていくという儀式は、今日の私たちの感覚からすれば極めてグロテスクなものと映ります。いったいどうして神はこのような儀式を行うことを命じられたのでしょう。――それは、このような目に見える儀式をもって、目に見えない世界において起こることを教えるためだったのです。本当に意味あることは、目に見えない神の御前で起こることです。天において起こることなのです。しかし、それは目に見えない。私たちには分かりません。だから目に見える「写し」が必要なのです。それは目に見えないことを示しているからです。

 24節にはこう書かれていました。「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(24節)。大祭司が第二の幕屋に入るのは、ある意味では神の御前に出ることだったわけですが、それはあくまでも「写し」としての儀式に過ぎません。しかし、キリストは本当の意味で神の御前に出てくださったのです。

 大祭司はその手に犠牲の血を携えていました。罪の贖いのための血です。しかし、それはあくまでも「写し」に過ぎません。大祭司が毎年この儀式を繰り返したのも、それは「写し」に過ぎないからです。しかし、目に見えないことが、一度限り、決定的なこととして起こりました。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(25‐26節)。

 これが「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」ということです。キリストが私たちのためにしてくださったことです。目に見えるところにおいては、十字架上において惨めに死んでいったキリストです。しかし、目に見えない世界において、目に見えない神の御前において、私たち人間にとって決定的に重要なこと、すなわち罪が取り去られるということが起こったのです。私たちの罪を負うために、キリストは身を献げてくださったのです。

救いをもたらすために現れてくださる
 そして、聖書はさらに言葉を続けます。28節全体をお読みします。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。

 このように聖書は、キリストが一度目に来られた時に私たちのためにしてくださったことだけでなく、二度目に来られて私たちのためにしてくださることについて語っています。一度目のことは既に起こったことです。二度目のことはまだ起こっていないことです。私たちの現在の教会生活はその二つの間にあります。

 この二つの間にあるということは、キリストの成し遂げてくださったことによって罪の赦しは受けているけれど、完全な救いはまだ待ち望んでいる状態だということです。罪を赦された者として神の前に生きることはできるけれど、完全な救いを待望する者として忍耐が求められているということです。実際、この手紙には「忍耐」という言葉が繰り返し出てきます。

 キリストが「救いをもたらすために現れてくださる」。これは、救いは向こう側から来るということです。私たちが到達するのではありません。救いは向こう側から来るのです。それはいつか。「その日、その時は、だれも知らない」(マルコ13:32)とキリストは言われました。それがいつかは分からないけれども、はっきりしていることがあります。いかなる苦しみも永遠ではないということです。それは次の瞬間には終わっているかも知れない苦しみなのです。救いは向こうから来るからです。

 そのように、私たちのために、この世界のために、既にキリストがしてくださったことがある。そして、私たちのために、この世界のために、キリストがしてくださることがある。その意味でキリストは既にこの世界に与えられた救いです。そして、この世界の希望なのです。そのことを覚え、世界中の教会と共に、聖餐を行い、喜び祝いましょう。

(祈り)

2022年9月28日水曜日

祈祷会用:ペトロの信徒への手紙一 5:1~7

ペトロの信徒への手紙一 5:1-7

 今日の箇所にはまず長老たちへの勧めが書かれています。これは年長者という意味合いだけでなく、2節に見るように「神の羊の群れを牧する」という職務を担った人たちであることが分かります。また、3節に見るように、その職務にはある権威が伴っていたことが分かります。

 教会の牧会に限らず、教会においてある働きが託されるところにおいては、またある種の誘惑も存在します。「強制されて」「卑しい利得のため」という言葉にその現実が垣間見られます。「権威を振り回す」という言葉にも表れていると言えるでしょう。教会における務めは、神の信任によって託された喜ばしき務めであるはずです。しかし、その働きについて、「強制されて仕方なくやっているのだ」という意識を持ってしまうことはあり得ます。恵みによって託してくださった神に思いを向け、「神に従って、自ら進んで」という姿勢はいかなる働きにおいても重要なことなのでしょう。

 また、そこに権威が伴い、力の行使が伴う場合には、さらに誘惑は大きくなります。その権威や力を行使するに当たっては、「権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」という言葉をしっかり心に刻んでいる必要があるでしょう。そこで重要なのは、自らがさらに大きな権威の元にあることを見失わないことです。神の羊を牧する長老たちの務めもまた、4節に書かれているとおり、「大牧者」のもとにあるのです。

 そして、5節以下においては、今度は若い人たちに対して、「長老に従いなさい」と勧められています。これは年齢的な「若者」のことではなく、長老のもとにある「執事」という役職を指しているとも考えられます。いずれにせよ、重要なことは、さらに全体に対して「互いに謙遜を身に着けなさい」と書かれていることです。長老と他の教会員との関係においても、若い人たちと長老との関係においても、あるいは職務が関わっているか否かにかかわらず、およそ人と人とが互いに関わり合うところにおいて重要なのは「互いに謙遜を身に着ける」ということなのです。

 しかし、「互いに謙遜を身に着けなさい」と勧められているのは、単に互いのより良い人間関係に必要だからではありません。単に謙遜が美徳だからということでもありません。実際、当時のギリシア・ローマ社会において、謙遜は美徳とは見なされていませんでした。「謙遜」と訳されている「タペイネフロシュネー」という言葉は、一般的には決してポジティブな意味合いを持ってはいなかったのです。なので「互いに謙遜を身に着けなさい」という言葉は当時の一般社会では理解され得ない言葉だったとも言えるのです。

 ではなぜ「互いに謙遜を身に着けなさい」と語られているのか。それはあくまでも信仰に関することなのです。神との関わりにおいて重要な意味を持っているからです。ペトロはその理由を、旧約聖書を引用してこう語ります。「なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです」(5節)。ここで引用されているのは箴言3章34節のギリシア語訳です。これが理由だというのです。

 「神は、高慢な者を敵とし」とは実に激しい言葉です。しかし、それほどに、私たちが高慢であるか謙遜であるかは、神にとって大きなことなのだということです。それは聖書の始めから既に取り上げられていることからも分かります。スポルジョンという人は、「高ぶりは最初の罪であり最後の罪である」と表現しました。確かに創世記に記されているアダムとエバの物語を読む時に、高ぶりは最初の罪であることを思います。そして恐らく人生の終わりまで、そして世の終わりまでついて回る罪であるに違いないのです。

 アダムとエバの物語については、改めて語るまでもないでしょう。へびの誘惑の言葉は、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ」(創世記3:5)というものでした。神のように善悪を知るものとなることへの誘惑です。自分を神の位置に就けようとする誘惑です。自らが神のようになって、神をよそに人間が善と悪を決めるのです。自分が善悪を知る者として裁き主の位置に就くのです。そして、人間は自ら神の位置に就いて、神をさえ裁くのです。「主の道は正しくない」(エゼキエル18:25)と。

 まことに高ぶりは最初の罪であり最後の罪です。最後までついてまわる罪です。それゆえに、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と語られなくてはならないのです。私たちは本質的に高慢な者だから。神に対してさえも高慢な者だからです。だからあらゆる人と人との関わりにおいて、あらゆる関わりを通してでも、謙遜を身に着けなくてはならないのです。

 先にも申しましたように、それはただ人間関係において重要だからではありません。神との関わりにおいて重要だからです。それゆえに、ペトロはこう続けるのです。「だから神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」(6節)。ここに至ってこそ、本当の意味で謙遜を身に着けたことになるからです。そして、その勧めには、もう一つの勧めが続きます。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」(7節)。

 今、「もう一つの勧めが続きます」と申しました。しかし、それはあくまでも日本語訳の場合です。実は、原文においては、6節と7節は途中で切れない一つの文なのです。この二つの話題は不可分の関係にあるのです。高ぶりと思い煩いは不可分の関係にあるのです。

 それはある意味で当然のことであるとも言えます。人間は高ぶって神をさえ裁く者となりました。神を退けて人間がこの世界を治め、人間が自らの人生を治める者となりました。 しかし、人間は神の位置に身を置いても、神にはなれません。神なしにこの世界を治め、神なしに自らの人生を治めようとしても、実際には、我が身一つどうすることもできない。無力な御山の大将は手に余る問題に取り囲まれることになるのです。

 イエス様はそんな人間の現実を良く御存じでした。ですから、思い煩いで心がいっぱいの人々に、このように語られたのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)。そのように、私たち自身の、もっともパーソナルな寿命の問題でさえ、私たちはそれに指一本触れることができないのです。それゆえに、自らが神の位置に留まる限り、様々なことに思い悩まざるを得ない。そのように思い悩みを自らの手に留めていること自体が、実は神に対する高ぶりであり、思い上がりなのです。

 だからペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」という言葉に、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉を続けるのです。「お任せしなさい」とは、「投げる」とも訳せる言葉です。手に握ったままで物を投げることはできないでしょう。投げるためには手放さなくてはなりません。そして、手放すことができるのは、受け止めて下さる方がおられるからでしょう。

 その方について、聖書にはこのように語られています。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。「心にかけていてくださる」というのは良い訳だと思います。聖書が伝えているのは、まさにそういうことだからです。いつか「心にかけてくださる」のではないのです。思い煩いをお任せする時に、心にかけてくださるのではないのです。過去においても、未来においても、そしてこの瞬間にも「心にかけていてくださる」のです。

 私たちが高ぶって、神を忘れていたときに、神様は心にかけていてくださったのです。私たちがそのお方に信頼して生きるのではなく、そのお方に背を向け、自分の力に頼って生きていたそのとき、神様は私たちを心にかけていてくださったのです。そして、今も心にかけていてくださるのです。神は心にかけていてくださる天の父なのです。

 これをペトロ自身の経験から出た言葉として聞く時に、これはまことに心を打つ言葉として迫ってまいります。ペトロにとって、今の自分があるのは、まさに「神が心にかけていてくださったから」としか言いようがなかったに違いないからです。傲慢にも「わたしはつまずきません」と言い放ったあの時、神は既にわたしを心にかけていてくださった。大祭司の中庭において、三度「知らない」と言った時、神はわたしを心にかけていてくださった。イエス様の言葉を思い出し、自らの罪と弱さに打ちのめされて声を上げて泣いていた時、そんなわたしを神は心にかけていてくださった。ペトロにはよくわかったと思います。イエス様が十字架にかかられるためにこの世に来られたそのこと自体が、まさに神が心にかけていてくださることを現していたのだと。

 それゆえに、ペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」と語るのです。そのような、心にかけていてくださる神の御前で身を低くするのです。その力強い御手の下で身を低くするのです。ただひたすら信頼する者として身を低くするのです。思い煩いをお任せして、身を低くするのです。私たちはお互いに、そして神の御前において、謙遜を身に着けなくてはなりません。
(祈り)

2022年9月21日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 4:12~19

ペトロの手紙一 4:12-19

 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(12節)。考えてみれば不思議です。この手紙が書かれたのは、今日の私たちよりも迫害がずっと身近であった時代です。これを読んでいるのは、キリストを信じたならば苦しみに遭うことになるだろう、と覚悟して洗礼を受けた人たちです。しかし、そのような人たちでさえ、実際に試練が身にふりかかってきた時には「思いがけないこと」が生じたように思うことがあり得た。だからこのような言葉を聴かなくてはならなかったのです。ならば、今日の私たちにおいてはなおさらです。その意味では、私たちこそ心に留めなくてはならない御言葉であるとも言えます。

 もしキリストを信じるということが、ただ自分の平安を得るため、ただより良い幸福な生活を手に入れるためであるならば、キリストを信じたゆえに平安を失うような出来事に遭遇したり、「火のような試練」と表現される出来事に直面したりするならば、「キリストを信じているのに、いったいどうして?」ということになるでしょう。

 しかし、キリストを信じるということが、ただ自分の平安や幸いを得る手段ではなくて、キリストの体に加えられ、だれかが救われるために用いられることを意味するならば、キリストの苦しみにも与るのはある意味では当然のことなのです。

 とはいえ、ペトロはただ歯を食いしばって試練を耐え抜けと言っているのではありません。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど《喜びなさい》」と彼は言うのです。どのような意味において、それは「喜ぶべきこと」なのでしょう。

 ペトロの言葉は次のように続きます。「それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです」(13節)。ペトロは、「キリストの栄光が現れる時」のことを考えているのです。すなわちキリストが再び来られる終わりの時、私たちの救いが完成するその時です。その時に満ち溢れることになる喜びを考えているのです。今はまだその一部を信仰によって味わっているに過ぎません。しかし、やがてそのすべてに与ります。私たちの現在は、その時に向かう喜ばしいプロセスなのです。

 そして、もう一つ喜ぶべき理由をペトロは示しています。その喜びは終末に関わるだけではありません。現在にも関わるのです。彼は言います。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(14節)。「とどまってくださる。」これは将来のことではなく、現在のことです。

 ここで神の霊について、あえて「栄光の霊がとどまる」と表現されているのには理由があります。ペトロの念頭にあるのは、恐らくソロモンの神殿に主の契約の箱が安置された場面です。列王記にはその時のことが次のように書かれています。「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである」(列王上8:10‐11)。

 一方において聖書は、「天をも地をも、わたしは満たしているではないか」(エレミヤ23:24)という主の御言葉を伝えています。その意味で神はどこにでもおられます。しかし、今読んだ箇所に書かれているのは別のことです。どこにでも神はおられる、というのではなく、まさに神がここに現臨してくださり、栄光を現してくださる。そのような圧倒的な神の臨在をイスラエルの民は「シェキーナー」と呼んで尊んだのです。

 そして、あの神殿で起こったことが、あなたたちに起こるのだ、とペトロは言っているのです。人はどこで神の臨在、シェキーナーに触れるのか、そして、人はどこで神の栄光を輝かせることになるのか。それは試練の中においてなのだ、ということです。人がキリストのゆえに非難される時、その人は栄光を失うのではなくて、むしろそこで神のリアリティに触れ、神の栄光を輝かせることになるのです。

 それゆえにペトロはこう続けるのです。「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(15‐16節)。

 「キリスト者(クリスチャン)」という言葉が出て来ました。原文では「クリスティアノス」。「キリストに属する者」という意味です。もともとアンティオキアにおいて始まった、いわば《蔑称》です。キリストを信じる者をバカにする呼び名でした。いわば「キリスト馬鹿」といったところでしょうか。キリストを信じた人たちが、年がら年中「キリスト」と言って、キリストを喜んでいる姿がはたから見たら滑稽だったのでしょう。

 しかし、ペトロはそう呼ばれて馬鹿にされても気にするな。むしろ「神をあがめなさい」と言うのです。このような初期のキリスト者の姿を思います時、改めて考えさせられます。私たちは、馬鹿にされるほど、あるいはそのゆえに苦しめられるほどクリスティアノスだろうか。むしろ単なる善人であるように思われているほうがおかしいのではないか、と。

 学生時代、同じ研究室の後輩にS君という男がいました。学部4年の時には完全にアンチ・キリストで、研究室でも下品な冗談ばかりを言っていた男でした。ところがその彼が修士1年目の時にキリスト者となり、一転して毎日口を開けばキリストの話をするようになったのです。

 研究室の皆は彼を馬鹿にしました。彼は陰口をたたかれ、中傷されました。確かにキリストを伝えるのに、もう少し馬鹿にされない工夫はできたかもしれません。しかし、今思い起こすと、まさに彼はクリスティアノスでした。そして、馬鹿にされても神をあがめていたのです。今日の箇所を読みますと、馬鹿にもされなければ気にもかけられない、もしかしたら信じていることすら知られてもいないキリスト者とは、いったい何なのかと改めて思わせられます。

 そして、さらにペトロは言います。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」(17節)。まず神の御前において問われるのはこの世ではありません。裁きは神の家から始まるのです。キリスト者が受ける苦難は、一方においては神の家から裁きが始まることを指し示していると言えます。

 そこで私たちが救われるとするならば、それはただ一重にキリストの十字架による贖いのゆえです。私たちが救われるとするならば、それは当然のことなのではないのであって、まさに「正しい人がやっと救われる」のです。もちろん私たちにおいてその「正しさ」とは、パウロの言う「信仰による義」に他なりません。そのように十字架のゆえに「やっと救われる」ならば、確かにペトロが言うように、「神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」ということになるのでしょう。

 ならば自分の平安と幸福の事だけ考えて、試練が降りかかれば「思いがけないこと」のように思うようなキリスト者であってよいはずがありません。私たちが福音を証ししながらこの世をクリスティアノスとして生き抜くということは、この世に対する私たちの大きな責任なのです。ですからペトロは言うのです。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と。

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