2019年3月31日日曜日

「私たちは変わり得るのか」

ルカ9:28-36

仮小屋を三つ建てましょう
 ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブは、イエス様に連れられて山に登りました。山の上は非日常的な世界です。そこには押し寄せてくる群衆もいません。論争をしかけてくる律法学者たちもいません。ただイエス様と共に、神と共に過ごすことのできる静かな時間だけが流れていました。

 しかも、その夕べは特別でした。不思議な夜でした。眠い目をこすりつつ彼らが目にしたのは、まさにこの世のものとは思えない光景でした。そこには栄光に輝くイエスがおられました。その衣は真っ白に輝いていました。見ると、そこには栄光に包まれた二人の人がイエスと共にいるではありませんか。モーセとエリヤです。旧約聖書を代表する二人の人物が、イエス様と語り合っていたのです。

 ペトロは思わず叫びました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです!」それはそうでしょう。ただ日常を離れた安らぎの時が与えられただけでない。今まで体験したことのないような神秘的な光景を目にしているのですから。ですからペトロはさらにこう言ったのです。「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。

 「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。」そう聖書は説明します。確かに訳の分からぬことを口走っています。にわかに仮小屋三つなんて立てられませんから。しかし、それでもペトロの気持ちは理解できます。彼は少しでも長くそのままでいたかったのでしょう。ずっとそのまま、イエスとモーセとエリヤと一緒にいたかったのでしょう。そのような神秘的な世界の中に少しでも長く留まりたかったに違いない。

 そのように言っているペトロにとって、山の下で待っている他の弟子たちのことなどもはや頭になかったと思います。苦しみの中から必死でイエス様を求めて集まってくる多くの群衆のことなども、もうどうでもよかった。宣教の旅のことも、メシアの王国の実現も、もはやどうでもよかったのです。

 もう日常の生活などに戻りたくない!仮小屋建てますからここに留まりましょう。――しかし、ペトロの提案は却下されました。彼が語っていると、雲が現れて彼らを覆いました。そして雲の中から声がありました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。もはやモーセとエリヤはそこにはいませんでした。ただイエス様だけが共におられました。今日私たちが耳にしているのはそのような話です。

これに聞け
 イエス様は「祈るために山に登られた」と書かれています。そして、「祈っておられるうちに」と書かれています。この福音書を読んでいますと、繰り返しこのような祈るキリストの姿に出会います。ある時はこのように山の上で、ある時には寂しい所に退いて祈っておられます。そのように、主はしばしば日常の働きから退かれて、父なる神と親しく過ごす時間を持っておられたのです。

 父なる神と共に過ごす時間。それはイエス様にとってどのような意味を持っていたのでしょう。日常を離れた山の上での時間。――それは日常の苦しみを一時的に忘れさせてくれる現実逃避の時間ではありませんでした。それだけははっきりしています。山の上で、イエス様はモーセとエリヤと何を語り合っていたか。こう書かれていますでしょう。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(31節)。

 この祈りの山においても、イエス様は山の下における現実を忘れることはありませんでした。御自分がどこに向かっているかを決して忘れることはありませんでした。イエス様はエルサレムに向かっておられたのです。十字架へと向かっておられたのです。十字架へと続く苦難の道を歩んでおられたのです。イエス様は山の上で、モーセ、そしてエリヤと、そのことを語り合っていたのです。

 イエス様にとって、祈りの山は、十字架への道から外れたところにあるのではなく、まさにその途上にありました。いわば待ち受ける苦難と向き合うことができるように、エルサレムへと向かうことができるように、そのためにこそ、この一夜を山の上で過ごされたのです。

 そのようなイエス様の祈りの姿を、私たちはこの後にも再び見ることになります。イエス様が捕らえられて十字架にかけられる直前のことです。その時も主は弟子たちと山の上におられました。弟子たちと共にオリーブ山に行き、そこで祈られたのです。主は苦しみもだえながら、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。そうです、そう祈っておられた。しかし、イエス様がその祈りの中に留まったのは、最終的に杯を取りのけてもらうためではありませんでした。与えられた使命から逃れるためではありませんでした。そうではなくて、父への心からの信頼をもって、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(22:42)と祈るためだったのです。天の父から杯を受け取って飲み干すためでした。その祈りの山もまた、十字架への道の途上にあったのです。

 そのように、イエス様が山に登られたのは、再び降りていくためでした。父に愛されている子として確信をもって、背負うべきものを背負うために、再び下っていくためでした。だからこそ、天の父は山の上でこう言われたのです。「これはわたしの子、選ばれた者」と。イエス様は山の上に留まられる御方ではありません。父なる神の子として、選ばれた者として、エルサレムへと向かわなくてはならないのです。

 だからペトロも山の上に仮小屋を作ってはならないのです。ペトロに求められているのは、そんなことではないのです。神はこう言われたのです。「これに聞け」と。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(35節)。

 「これに聞け」とは「これに聞き従え」という意味です。弟子たちもまた、山の上の非日常的な時間に留まっていてはならないのです。ただその非日常的な時間を喜んで楽しんでいるだけであってはならないのです。彼らはイエス様の御言葉に聞き、そして従っていくことを求められているのです。主と共に再び山を下り、十字架へと向かうイエス様に従っていくことが求められているのです。

 実際、今日の箇所はこのような言葉から始まっていましたでしょう。「この話をしてから八日ほどたったとき」。わざわざ「この話をしてから」と書かれているのです。「この話」とはどんな話ですか。その直前において、イエス様は御自分の受難を予告して、こう話されたのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)。「日々」と語られています。それは日常でのことです。毎日のことです。毎日の現実において十字架を放り出さずに背負ってイエス様に従うようにと語られているのです。そのことが、もう一度山の上で示されたのでした。神自ら弟子たちに「これに聞け」と語られたのです。

栄光に輝くイエス
 そのようにこの物語を読んできますと、これは単なるペトロたちの個人的な神秘体験の報告ではないことが見えてきます。これは教会の話です。イエス様は祈るために山に登られました。しかし、一人で登られたのではなく、イエス様は御自身の祈りの世界に、三人の弟子たちを招かれたのです。そこに世々の教会は自分たちの姿を見てきました。祈りへと導かれた自分たちの姿を見てきたのです。特に、主の日において、主によって招かれて、祈りを共にする教会の姿を、そこに見てきたのです。これは主の日に集められている私たちの話でもあるのです。

 私たちは日常の生活をしばし離れて、この礼拝堂に集まります。神に向かう場所へと、祈りの世界へと導き入れられます。しかし、当たり前の話ですが、私たちはこの礼拝堂に留まるのではありません。再びここから出て行きます。私たちはここから出て行くために、ここに集められるのです。ここから出て行けば、そこには日常の生活があります。そこで私たちは主の言葉を聞くのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 そして、私たちも良く知っているように、この世の現実の中で、神を愛し、人を愛し、キリストに従って行こうとするならば、本当の意味で自分の罪深さとも向き合わなくてはならなくなります。

 キリストに従おうとするならば、自分にしがみついて自分を捨てようとしない自分自身とも向き合うことになります。自分の十字架を背負おうとしない自分自身とも向き合うことになります。「天の父よ」と祈る神の子どもとされていながらも、神の子の姿からはほど遠い、醜い自分に涙することにもなるのでしょう。そうです。あの山に共にいたペトロも、後に山の下において、自らの姿に涙することになりました。

 ただ非日常の世界に逃げ込み、現実逃避の時間を楽しむだけならば、自分の罪深さは問題にならないかもしれません。しかし、山の下においてキリストに従って行こうとするならば、罪の赦しを求める祈りも切なるものとならざるを得ないでしょう。そして、私たちは変えられなくてはならないことも明らかになります。はたして今のこのわたしが最終的なわたしなのか。今のこの姿が私の最終的な姿なのか。わたしたちは変わり得るのか。そう自問せざるを得なくなります。

 そのような私たちだからこそ、あの山の上での出来事は伝えられているのです。変えられたキリストの御姿です。「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」。そう書かれていました。その姿は32節では「栄光に輝くイエス」と表現されています。栄光に輝く姿に変えられた御方がそこにいたのです。

 ここで「祈っておられるうちに」と書かれていました。それは変化が天の父によることを表しています。イエス様が自分の力で変化したのではないのです。マルコによる福音書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」と書かれています。原文では「変わった」のではなく、「イエスの姿が《変えられた》」とわざわざ受け身で書かれています。イエス様は神の御子でありながら、あくまでも私たちの一人として、天の父によって「変えられた」姿でそこに立っていたのです。

 神は後にキリストの復活において完全に現される神の子の栄光をかいまみせてくださいました。それはまた、最終的に完全に救われた私たちの姿でもあるのです。罪からも死からも解放された、神の子としての栄光に輝く姿です。先ほど、「今のこの姿が私の最終的な姿なのか」と申しました。――いいえ、そうではありません。この主と同じ姿こそ、私たちの最終的な姿です。

 本日の第二朗読ではパウロの手紙が読まれました。そこにはこう書かれていました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。私たちもまた「変えられる」のです。主と同じ姿に。この「主と同じ姿に」とは、ペトロたちがかいま見た復活の栄光の姿のことです。私たちは山の上でこの希望をいただいて、山の下に向かうのです。私たちは希望を与えられている者として、主イエスに従っていくのです。


(祈り)

2019年3月24日日曜日

「自分の十字架を負ってついてきなさい」

ルカ9:18‐27

あなたは神のメシアです
 「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」(18節)。

 そのように尋ねられた弟子たちが置かれていた状況は、この直前に書かれている出来事から伺い知ることができます。そこには、五つのパンと二匹の魚で多くの群衆を養われたイエス様の奇跡物語が伝えられています。五千人ほどにもなる大群衆がそこにいたのです。旅を続けるイエス様と弟子たちを取り巻く人の群れは、次第に巨大化していったことが分かります。

 そのような大群衆にイエス様が関わるには、当然のことながら弟子たちの働きが必要となります。この直前の場面においても、次のように書かれています。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(16節)。それだけの群衆をグループにして座らせ、彼らの間を駆け回ってパンと魚を配るということは、それ自体かなりの重労働であったに違いありません。弟子たちはくたくたに疲れたと思います。

 しかし、それでもパンを渡せば感謝の言葉が返ってきます。そこには人々の笑顔が溢れています。どんな労苦があったとしても、人々に喜ばれ、感謝され、賞賛される働きのための労苦であるならば、そこには喜びが伴います。

 弟子たちは、そのように急速に拡大し、これからも限りない発展を見るであろうイエス様の宣教活動について、そして、やがて実現するメシアの王国について、喜びをもって語り合っていたに違いありません。それと共に、夥しい群衆と関わるイエスの弟子として、自分たちが果たすべき役割について、いよいよ真剣に考えざるを得なくなっていたはずです。

 そのような彼らに、イエス様が尋ねられたのです。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」。弟子たちはイエス様の問いに、すぐに答えることができました。群衆の大勢を占めている一般的見解を、弟子たちはイエス様に次のように伝えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(19節)。

 そこでさらに主は弟子たちに問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」すぐさまペトロは答えました。「神からのメシアです」(20節)。ペトロの答えに異論を唱える者はいませんでした。この答えこそが弟子たちの統一見解だったことがわかります。

 ペトロの答えは、群衆と自分たちとの間に、はっきりと一線を引いていたことを示しています。「私たちは彼らと同じことは言いません。あなたは神からのメシアです」――この御方こそイスラエルが待ち望んできたメシア、油注がれた王、救いをもたらすために神のもとから来られた御方である。その点において彼らは一致していたのです。そこに彼らの自負があったとも言えます。彼らにとって巨大化する群衆は、いまだにイエスという御方を十分に理解していない人々であって、これから真理を教えられ、目が開かれなくてはならない人々だったのです。

誰にも話してはならない
 ところが、イエス様は弟子たちに対して、実に意外なことを語り始めたのでした。「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』」(21‐22節)。

 イエスが神のメシアであることを誰にも話してはならない。主はそうお命じになりました。それはなぜでしょう。それは主が言われるように、彼らがまだ決定的に重要なことを、その目で見てはいないからです。彼らは、イエス様が人々から捨てられ、苦しみを受け、殺されてしまうことを、見なくてはならないのです。そして、十字架の先に復活があることを見なくてはならないのです。彼らはまだメシアの本当の姿をまだ見てはいないのです。それゆえに、まだ語ってはならないのです。

 主が語られたのは彼らにとって実に衝撃的な言葉であったとも言えます。イエス様の言葉は、拡大しつつある宣教活動の延長上にメシアの王国があるのではないということを意味したからです。メシアは、人々から喜ばれ、賞賛され、感謝され、迎えられて王座に着かれるのではないのです。そうではなくて、イエスは人々から憎まれて、殺されるのです。十字架にかけられて殺されるのです。主はそう言われたのです。それがメシアであるということだ、と。

 それはすべてが一度、無に帰することになることを意味しました。そして、その先にこそ復活があるのです。「三日目に復活することになっている」と主は言われました。この訳は厳密には正しくありません。「三日目に《復活させられる》ことになっている」と書かれているのです。受け身です。自分で復活するのではありません。復活は父なる神によるのです。

 キリストが死んですべてが無に帰した時、キリストは神によって復活させられるのです。その時に無に帰したかのように見えたイエス様の御業のすべてが、神によって生きるのです。十字架の死でさえも、罪の贖いとして、この世の救いとなるのです。メシアは彼を賞賛する人々によって復活させられるのではありません。神によって復活させられるのです。そのように主は御自身について語られたのです。

 弟子たちはイエス様について「神からのメシアです」と告白しました。しかし、彼らが本当に人々にそのことを語り得るためには、まずメシアがそのような《苦難のメシア》であることを理解しなくてはなりませんでした。メシアに従うということは、苦難のメシアに従うことなのです。

 苦難のメシアに従うのであるならば、それは単に人々から喜ばれ、感謝され、賞賛されることのために労苦することではあり得ません。単に自分の理想を実現することでも、民族や国家の理想を実現することでもあり得ません。そのような労苦なら、弟子たちはもともと喜んで引き受けるつもりでいたのです。しかし、そのような労苦ではないのです。

 苦難のメシアに従うならば、むしろ誰からも顧みられないような労苦、感謝されるのではくむしろ憎まれ排斥されることになる労苦を負うことにもなる。目に見える豊かな結果を生むよりは、むしろ虚しく費えていくような労苦、まったく無駄に終わったように見える労苦、そのような労苦の中に身を置くことにもなるのです。

自分の十字架を背負って
 それゆえに、主はさらにこう続けられたのでした。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)と。十字架を背負うとはどういうことですか。十字架刑に処せられる者がその十字架を背負って歩いても、誰も感謝してはくれません。そこには目に見える報いはありません。あろうはずがありません。それは意味のない労苦、報いのない労苦の最たるものでしょう。報いのある労苦ならば信仰によらずとも為しえます。しかし、苦難のメシアに従うことは、信仰なくしては為しえないことなのです。十字架にかかられたイエスを復活させられた天の父を信じることなくして、為し得ないことなのです。

 主はさらに言われました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(24節)。「わたしのために命を失う者」という言葉は、明らかに、主を信じる者が受ける迫害や信仰告白のゆえの殉教を念頭に置いた言葉です。ですから「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」ということも語られているのです。つまりそれでもなお信仰を言い表すのか否かが問われているのです。

 しかし、そのように殉教を念頭に置いた言葉ではありますが、イエス様がその前に「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言っておられるように、それは最終的に迫害の中で信仰を言い表して命を落とすかどうかということに限られているわけではないのです。それはまた「日々」のことに関わっているのです。

 実際、迫害の時代であるならば、どんなに愛を現してもそれに対して敵意が返ってくるという「日々」があるのでしょう。イエス様は弟子たちを待っているそのような「日々」を思い描きながら語っているとも言えます。

 そして、迫害の時代でなくても、いつの時代であっても、イエス様の御心に従って、人を愛し、受け入れて生きようとするならば、誰であってもそこには引き受けなくてはならない労苦があるのでしょう。自分に都合の悪い人を自分の人生から切り捨てながら生きるのではなく、隣人として共に生きていこうとするならば、それこそ負わなくてもいいような苦労を、しかも感謝もされないような労苦を、あえて背負うようなことにだってなるのでしょう。

 そのような報われない労苦を負い、報われない苦しみを引き受けるということは、人生のある部分を失うということではありませんか。ある意味では「命を失う」ということなのでしょう。失うことはいやなことです。怖いことでもあります。しかし、そのように思っている私たちに、イエス様は言われるのです。本当は何も失ってはいないのだよ、と。むしろそのようにして命を得るのだ、その命を救うのだ、と主は言われるのです。実際に文字通り十字架を背負って、そしてその十字架にかかられた御方、――そして永遠の命に復活した御方がそう言われるのです。命を失って命を得る。主はその事実を見せてくださったのです。その御方が言われるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

キリストの祈り
 もちろん、そのように語られながらも、イエス様は弟子たちの弱さを知らなかったわけではありません。ペトロも転び、他の弟子たちも転び、逃げ出してしまうことをもご存じでした。そうです。だからこそイエス様は祈っておられたのです。今日の福音書朗読はこのような言葉で始まっていましたでしょう。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」。 弟子たちと共におられたイエス様は、たったひとりで祈っておられたのです。この福音書は繰り返し、ひとりで祈っておられるイエス様の姿を伝えています。この時もそうでした。主はひとりでひたすら祈られた上で、これらのことを語られたのです。

 今日の場面で弟子たちを代表して胸を張って「あなたは神からのメシアです」と信仰を言い表したのはペトロでした。しかし、そのペトロに対して、イエス様は後にこう語られます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:31‐32)。

 十字架に向かっておられたイエス様は、たったひとりで祈っておられた。そして、その心の内には苦難のメシアに従うことになる弟子たちがいたのです。さらに言うならば、後の教会もその心の内にいたのです。すなわち、ここにいる私たちもまた同じです。ペトロは、そして弟子たちは、イエス様の祈りに支えられて、復活の主に従っていきました。私たちもイエス様の愛と祈りに支えられて、イエス様についていくのです。日々、自分の十字架を背負って、そしてイエス様が示してくださったまことの命に向かって、イエス様についていくのです。

(祈り)

2019年3月17日日曜日

「きれいな空き家は要注意」

ルカ11:14-26

サタンとその支配
 「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」(14節)。このような言葉から今日の福音書朗読は始まりました。

 ここに書かれているのは、口の利けない人がしゃべれるようになったという話です。その人は口が利けないという苦しみから解放されました。しかし、聖書はこれを単に苦しみからの解放として伝えているのではなく、悪霊の追放として伝えています。イエス様も明らかに悪霊の追い出しを意識して事を行っているのです。

 この出来事を目撃したある人々は言いました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)。するとイエス様は、こう言われました。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(18節)。

 イエス様はここでベルゼブルを「サタン」と言い換えています。イエス様はしばしば「サタン」に言及しています。ここではサタンについて語るだけでなく、「その国」について語っています。「その国」というのは正確には「その王国」という言葉です。イエス様はサタンとその王国について語っているのです。

 「サタン」という言葉は、もともと「敵対者」を意味する普通名詞です。しかし、イエス様がある特定の「サタン」について語った時、それが誰に敵対しているのかは明らかです。神に対して敵対する存在です。イエス様は確かにその人を苦しみから解放されました。しかし、イエス様が目を向けていたのは苦しみそのものではありませんでした。そうではなくて、この世界に神に敵対する力が働いている現実を見ていたのです。神に敵対する王国を見ていたのです。神に敵対する勢力が、人間を支配している現実を見ておられたのです。

 サタンは神の敵です。神が愛であるならば、サタンとは愛に対立する力です。人と人とが愛し合って共に生きることを神が望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。

 聖書がサタンについて語るのを、古代の迷信であるかのように扱ってはなりません。サタンは目に見えませんが、サタンの支配は目に見えます。本当は愛し合って共に生きたいのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の現実があるのです。自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の現実があるのです。それは人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。そうではないでしょう。愛なる神の御心に敵対する力が働いているのです。神に敵対している力が支配しているのです。そのようなサタンの支配する世界に私たちは生きているのです。

神の国は来ているのだ
 しかし、そのようにサタンの支配する世界のただ中において、イエス様はもう一つの王国について語られます。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。今日の福音書朗読が伝えている悪霊の追放、福音書において繰り返し語られている悪霊の追放という行為は、まさに神の国が来ていることのしるしに他ならないということです。

 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それは何を意味するのでしょう。イエス様はこんな譬えを語られました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21‐22節)。

 もうお分かりでしょう。この喩えにおいて「強い人」とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。人間はそのままではそこから逃れることができません。強い人サタンが武装しているからです。しかし、もっと強い人が来られました。それはキリストです。もっと強い人が来て、武装しているサタンに打ち勝ってくださる。イエス様は御自分について語っておられるのです。

 イエス様が御自分について語っているということは何を意味しますか。既にその「強い人」は来ているということです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。イエス様がこの世に来られたとはそういうことです。イエス様は単に良い教えを携えて来られたのではありません。イエス様は単に良い模範を携えて来られたのではありません。そうではなくて、イエス様は「神の国」を携えてこられたのです。私たちに神の国を与えるためです。私たちが神の国に生きるためです。

 イエス様の宣教は神の国を与えるためでした。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも神の国を与えるためでした。イエス様が復活されたのも神の国を与えるためでした。神の国を与えるために、キリストは天に上げられ、神の国を与えるために聖霊を注いでくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、主は私たちに教会を与えてくださいました。洗礼を与えてくださいました。聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、信仰生活を与えてくださいました。

 私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです。神に背を向けて生きてきた人が、神の方に向き直るのです。神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、そのサタンの力から解放されて、再び愛し合う関係と交わりへと回復されるのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、そのサタンの力から解放されて、神の像として創造された自分の尊さに目覚めるのです。そして、尊厳をもって、尊いものとして、自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。そうです、神の国は来ているのです。神の国における生活は与えられているのです。

空き家にしてはなりません
 しかし、私たちはまた、信仰生活において経験するのは、神の国のごく一部分でしかないことを知っています。「私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです」と申しました。そうです、これはまだ始まりに過ぎません。神の国は来ています。しかし、サタンの支配がこの世から消え去ったわけではありません。私たちはまだ戦場にいるのです。戦闘は続いているのです。最終的な勝利、完全な救いについては、私たちは未来に待ち望んでいるのです。そのように私たちの信仰生活は「既に」と「いまだ」の間にあります。既に与えられているものと未来に約束されているものとの間にあるのです。

 そのような私たちの生活に関わることとして、イエス様はなお一つの短い話をなさいました。こんな話です。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(24‐26節)。

 ここにはキリストによって与えられる信仰生活が《何でないか》がはっきりと語られています。この話の背景となっているのは、律法に従った清さと正しさが求められていたユダヤ人社会です。

 宗教的な生活という意味では、既に彼らの身近なところにファリサイ派の人々が実戦していた生活がありました。自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていた、そういう人たちは既にいたのです。しかし、イエス様が与えようとしているのは、そのような生活ではないのです。ただ清さだけが求められるところには、別の汚れたものが満ちてしまうことをご存じだったのです。出て行った悪霊が、自分よりも悪いお友達を連れて戻ってくる。そして、中に入り込んで住み着くのです。

 実例を見て見ましょう。後にイエス様はこの福音書において、こんな話をしておられます。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(18:10-13)。

 ファリサイ派の人が言っていることに偽りはなかったでしょう。言っているとおりに生活していたのだと思います。しかし、きれいにしたその家に別の悪いものが満ちているではありませんか。「心の中でこのように祈った」と書かれていますが、これは意訳です。原文では「自分に向かって祈った」と書いてあるのです。「神様」と呼びかけながら、実は神様には向いていない。自分を誇る思いと、他者を見下す思いで一杯です。掃除して飾り付けた空き家には、さらに悪いものがいっぱい入ってきていることが分かるでしょう。

 何が問題なのでしょう。空き家にしてしまったことです。今日の説教題のとおり、「きれいな空き家は要注意」なのです。空き家にしてはならないのです。信仰生活とは一生懸命に努力して自分を清める作業ではありません。信仰生活とは、一生懸命に悪いものを追い出してきれいな空き家をつくることではありません。そうではなく、神の恵みを携えて来てくださったイエス様をお迎えし、イエス様のおられる家をつくることなのです。私たちの心に、そして私たちの生活に恵みをもって治めてくださる「もっと強い者」なるイエス様をお迎えし、主が住まわれる家をつくって、イエス様と共に生きていくことなのです。

 
(祈り)

2019年3月10日日曜日

「主を試してはならない」

ルカによる福音書4:1-13

 去る水曜日からレント(受難節)に入りました。受難節はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入りまして今日は最初の日曜日に当たります。レントの最初の日曜日には、世界中の多くの教会において「荒野の誘惑」の聖書箇所が読まれます。日本キリスト教団の聖書日課を用いている私たちの教会では、今年はルカによる福音書の該当箇所が読まれました。

誘惑と試練
 「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」(1節)。そのような言葉から始まりました。ヨルダン川での出来事は三章に記されています。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたのです。その時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(3:22)と書かれております。こうして、主は聖霊に満ちてヨルダン川から帰られたのでした。荒れ野の誘惑はその直後のことです。しかも、この誘惑の後には、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4:14)と書かれております。ルカによる福音書は殊更にイエス様を聖霊に満ちた御方として描いていることが分かります。

 このことは極めて重要です。なぜなら、福音書に続く第二巻目に、やはり聖霊が目に見える姿で降ったことが記されているからです。使徒言行録二章に書かれている出来事です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐5)。こうして地上に教会が誕生しました。そして、聖書は繰り返し彼らが聖霊に満たされたことを伝えているのです。

 私たちもまた、そのように始まった教会の歴史の中に置かれております。私たちもまた、神の霊によって誕生し、神の霊によって生きるのです。それが私たちの教会生活です。しかし、今日の聖書箇所は、そんな私たちに一つの注意を促します。聖霊に満ちて帰られたキリストはただちに誘惑に遭ったのです。第二巻として使徒言行録を書き記したルカにとって、キリストの遭った誘惑は後の教会と無関係ではなかったのです。私たちがまことに聖霊に満たされたキリスト者であることを求め、教会がまことにキリストの体なる教会であることを求めるならば、当然、そこには悪魔の誘惑もまたあることを知る必要があるのでしょう。

 さて、そもそも「誘惑」とは何なのでしょう。今日の箇所で誘惑の主体となっているのは「悪魔」です。しかし、1節には「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」と書かれているのです。「引き回す」と訳されているのは「導く」という言葉なのですが、いずれにしても、そこには強い神の意志があることが示されています。誘惑をするのは悪魔でありますが、神があえてそこに導いたということです。そうしますと、これは単に「誘惑」という言葉では表し得ない内容を持っていることが分かります。「誘惑を受ける」と訳されている言葉は、「試される」とも訳せる言葉です。それは「試練」という言葉とも関係します。悪魔を主体として見る時に、それは誘惑となりますが、神を主体として見る時にそれは人間が試されることであり、人間にとっては試練となります。

 そうしますと、ここに書かれていることは、さらに遡って荒れ野を旅したイスラエルの民の姿と重なってまいります。「四十日」という言葉も、イスラエルが荒れ野を旅した四十年の期間を想起させます。彼らを荒れ野に導いたのは神でした。何のためでしょうか。

 今日の箇所においてイエス様がいくつかの聖書の言葉を引用しておられますが、最初の引用は次のような御言葉でした。「人はパンだけで生きるものではない」。これは申命記8章3節からの引用です。イエス様が念頭に置いていたのはやはり荒れ野を旅したイスラエルでした。イエス様が引用された御言葉の直前には、こう書かれているのです。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8:2)。

 何のために荒れ野に導かれたのか。何のための試練なのか。内にあるものが外に現れるためです。「主は、あなたの心にあること・・・を知ろうとされた」と言うのです。実際、荒れ野へと導かれて、心の内に潜んでいたものが激しく外に現れることになりました。神に救われて意気揚々とエジプトを脱出したイスラエルの民だったはずです。神によって海の中に開かれた道を喜びと賛美に溢れて渡って行ったイスラエルの民だったはずです。しかし、荒れ野へと導かれた時に、彼らの内にあるものが激しく現れることになりました。不平として、不満として。不信仰から出るもろもろの言葉として。

 考えてみれば、試練など与えなくても神は人の心の内にあるものなどいくらでも知ることはできるのでしょう。内にあるものが外に現れることが必要なのは、神にとってというよりも人間にとってであるに違いありません。確かに神に知られていることが人の目から見ても明らかにされる。そうあってこそ悔い改めもまたあるからです。それはかつてのイスラエルにとってそうであったように、後の教会にとっても、私たちにとっても同じです。そして、私たちに先立って、教会の原型であるキリストが、荒れ野に導かれて誘惑を受けられ、試練を受けておられる。そして、誘惑を退けて試練に打ち勝っている姿を私たちはそこに見ているのです。

主を試してはならない
 ルカによる福音書は、イエス様が受けられた三つの誘惑を伝えています。今日はこの中で、特に第一朗読との関連で、イエス様が受けられた三つ目の誘惑に注目したいと思います。次のように書かれていました。

 「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」』イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった」(9~12節)。

 イエス様は荒れ野にいるわけですから「エルサレムに連れて行き」というのは悪魔によって見せられた幻の中での出来事でしょう。しかし、その場面が「エルサレム」であることが明らかにされていることは重要です。なぜなら、後に見るように、その「エルサレム」こそが、悪魔との最終的な対決の場となるからです。

 ここにおいて悪魔は聖書を引用して語ります。「聖書にはこう書かれているでしょう」と、まるで敬虔な信仰者のようです。悪魔の誘惑が必ずしも「悪魔らしく」やって来るとは限りません。否、往々にしてそこに誘惑があると人はなかなか気づかないものなのでしょう。試練の中にある時、そこにまた誘惑があると気づかない。神から引き離そうとする者の誘いがあることに気づかないものです。

 では、敬虔な信仰者を装った悪魔の言葉の中に、いかなる誘惑があったのでしょうか。それはイエス様がどのように悪魔の言葉を退けたか、ということから理解することができます。イエス様はこう答えられたのです。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」(12節)。イエス様が引用されたのは、今日の第一朗読で読まれました申命記6章16節の御言葉です。そして、当然のことながら、イエス様はそれがどのような文脈の中で語られているかをご存知です。主が引用された申命記にはこう書かれていました。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16)。

 「あなたたちがマサにいたときにしたように」――このこともまた、イスラエルが荒れ野を旅した時のことを背景にしています。イスラエルの人たちは、いったいマサで何をしたのでしょうか。今日は開きませんが、その物語は出エジプト記17章に出ています。このような話です。

 彼らはレフィディムというところに宿営していました。「そこには民の飲み水がなかった」(出17:1)と書かれています。飲み水が尽きてしまったわけではありません。水の蓄えなしで旅することはありませんから。そこでは水の補給ができなかったということです。次第に水が乏しくなっていきます。飲みたいのを我慢しなくてはなりません。先のことが不安にもなります。そこで例によって人々は不平を言い出したのです。彼らはモーセに言いました。「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」(出17:3)。そして、今回はついにモーセを石で打ち殺そうとしたのです。

 そこで神はモーセに、一つの岩を杖で打つように指示しました。モーセがその通りにすると、岩から水が流れ出て、民は飲むことができたと記されています。神の恩寵が見える形で現されました。神とモーセの関わりも、これによって明らかにされました。しかし、聖書はこの出来事の起こった場所について、それを「神の恵みが現れた場所」であるとは説明していないのです。こう書かれています。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(同7節)。

 「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」。あの時、次第に水が乏しくなって行った時、試されていたのは人間の方だったはずでしょう。本当はそこで神への信頼と従順が問われていたのでしょう。その直前の17章には、荒れ野で食べ物がなかった時に、神が天からマナという食べ物を降らせてくださったことが書かれているのです。既にエジプトから救い出されたところから、常に神の恵みが先にあるのです。そこで信頼と従順が問われていたのです。

 しかし、人間は神から問われる側にいることを良しとしない。神に問われるよりは、神を問う側に立とうとするのです。試される側ではなく、試す側に立とうとするのです。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と。そして、人間が試す側、テストする側に立って、「神が我々の間におられるのなら確かなしるしを見せよ」と要求するのです。「神が愛しておられるなら確かなしるしを見せよ」と。我々が渇いているのだから水を与えよ、と。そのようにして、人間が神を試す側に立って、テストする側に立って、マルをつけバツを付けるのです。水を与えようとしない神にバツを付ける。その具体的な表現は、神が立てたモーセを石で打って殺そうとするということでした。

 「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」神とその御言葉への究極の信頼を求める言葉に聞こえなくもありません。しかし、そこにかつてイスラエルが陥った誘惑があることをキリストは知っていたのです。そして、これを書いているルカは、同じ誘惑に後の教会もまた常にさらされていることを知っているのでしょう。

 さて、主が退けられたこの誘惑が、三番目に置かれているのにはそれなりの理由があるのでしょう。この第三の誘惑は、その先にある主の受難物語を指し示しているのです。やがて来る、同じエルサレムにおける出来事を指し示しているのです。13節にはこう書かれていました。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」。やがて「時が来る」のです。それは主の十字架の時です。祭司長たちは叫びます。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」しかし、そこでも主は最後の誘惑に打ち勝ちます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って、主は息を引き取られたのでした。

(祈り)

2019年3月3日日曜日

「立ち上がり、歩きなさい」

使徒言行録3:1‐10

置かれていた人
 今日の第二朗読で読まれました聖書の箇所には「生まれながら足の不自由な男」が出て来ました。4章22節によりますと既に四十歳を過ぎていたようです。生まれながら足が不自由であったこの人は、二重の意味において非常に厳しい状況に置かれていたと想像されます。第一に、彼は通常の仕事に就けなかった。それゆえ、彼は物乞いをして生活せざるを得ませんでした。ここに書かれているとおりです。

 しかし、それだけではありません。当時のユダヤ人社会においては、生まれつき体が不自由であると、「彼が罪を犯したからか、それとも両親が罪を犯したからか」というようなことを言われるのです。この足の不自由な人も、今までどれだけそのような冷たい言葉を耳にしてきたか知れません。人々が彼を神から呪われた者として語るならば、恐らく彼自身もまたそのように思っていたことでしょう。

 そのような人が、「美しい門」と呼ばれる神殿の門の側に「置いてもらっていた」のです。これは、直訳すると、「彼ら(人々)は置いた」という言葉です。まるで荷物か何かのように、「運ばれて」、「置かれていた」と表現されているのです。「美しい門」と言われているのは、素晴らしい細工を施した青銅の門であったと言われます。その美しさは神の恵みの麗しさを表現したものであったに違いありません。人々は神を礼拝するためにその門を通っていきます。しかしその門の前に、荷物のように「運ばれて」「置かれている」人がいた。神の恵みとは無関係なものと見なされている人、そして、自分自身でも自分をそう見なしている人が、毎日荷物のように運ばれては置かれてそこにいたのです。

 それはまことに悲しむべき姿です。しかし、聖書が描き出しているのは、ある意味では特別な姿ではないとも言えます。当時の社会には形を変えてそのような人はいくらでもいたに違いない。いや現代においても、形を変えてそのような人はいくらでもいるに違いありません。「運ばれて」「置かれて」いる人。「運ばれて」「置かれて」いる者であるかのように、家庭生活をし、「運ばれて」「置かれている」者であるかのように、職場で、学校で、一日を過ごしている人。この人がそうであったように、神の恵みは自分とは無関係だと思っているゆえに、神に期待することも、神に求めることも無い。もはや未来に期待し、待ち望むものは何も無い。ただ運ばれて、ただ置かれているだけ。いや、この国の有り様を見るならば、今日の日本の社会そのものが、いわばこの物乞いの姿と同じになっているとさえ言えるのではないかとも思います。

宣教によって、信仰によって
 しかし、その「運ばれて」「置かれて」いた人が、一つの出会いを経験するのです。そこに大きな転換が起こるのです。3節以下をご覧ください。「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」(3‐6節)。

 彼がペトロとヨハネに求めていたのは「施し」でした。それ以上は求めていませんでした。ペトロとヨハネが彼を見つめて「わたしたちを見なさい」と言った時にも、その男は、「きっと何かもらえるだろう」と考えていたに違いない。ですから、普通に考えるならば、そこでペトロとヨハネがなすべきことは、彼の求めに応えてあげることなのでしょう。すなわち、いくばくかの施しをすることであったはずです。

 しかし、ペトロとヨハネはこの男の求めに直接応えはしませんでした。ペトロはこう言ったのです。「わたしには金や銀はない」。なんと期待はずれな答えでしょう。ところが、ペトロの言葉はそれで終わりませんでした。彼はこう言ったのです。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 ペトロがしようとしていたのは、この男の当座の必要を満たすことではありませんでした。ペトロが与えようとしていたのは施しではなく、イエス・キリストの御名でした。しかし、イエス・キリストの御名は与えられるだけでは意味をなさないのです。それは信仰によって受け取られなくてはなりません。

 ペトロとその男との間に起こったことは、実に象徴的な出来事でした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」と書かれているのです。手を伸ばして右手を取った。しかし、足は動かなくてもこの男の手は動くのです。ですからペトロの手を払いのけることもできたはずなのです。また、払いのけても不思議ではない状況であったとも言えるでしょう。そもそも彼は施しを期待していたのですから。お金を期待していたのですから。その意味では期待はずれなのです。しかも、「立ち上がり、歩きなさい」とペトロは言う。足が悪くて立ち上がれないから座っていたのでしょう。それが彼の人生だったのでしょう。「あなたは、私がこれまで立ち上がれないためにどれだけ苦しんできたか、全く分かっていない!」と言うこともできたのでしょう。

 しかし、彼はペトロの言葉を退けなかったのです。「イエスの御名を退けなかったのです」。伸ばされた手を払いのけなかった。ペトロが彼の右手を取って立ち上がらせようとしたとき、彼はペトロの助けを受けて、イエスの御名を信じて受け取ったのです。言い換えるならば、神の恵みを信仰によって受け取ったのです。イエスの御名を与えるのは「宣教」です。イエスの御名を受け取るのは「信仰」です。「宣教」と「信仰」とが一つになった時、そこに神の御業が現れたのです。

 この人は立ち上がって、歩き出しました。それは何を意味するのでしょうか。ここに書かれていることは、単に彼の肉体が癒されたということではありません。聖書が伝えているのは、肉体の癒し以上のことです。それゆえに、ここに書かれていることは、「宣教」と「信仰」とが一つになる時に、すべての人に起こる出来事であるとも言えるのです。

神を賛美し始めた人
 そこに起こった「肉体の癒し」以上のこととは何か。7節以下をお読みします。「そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の『美しい門』のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」(7‐10節)。

 もし、彼が単に足を癒されたことを喜んでいただけであるなら、それは「施しを受ける」というのと同じ次元のことに過ぎません。奇跡の記憶などは時が経つにつれて薄れていくものです。彼の人生は違った形で、「運ばれ」「置かれている」だけのものに戻っていったかもしれません。

 しかし、彼はそうなりませんでした。ここで明らかに強調されているのは、彼が「神を賛美している」姿です。彼は歩けるようになって、まずどこに向かったのか。彼は神を賛美しながら、二人と一緒に神殿の境内に入って行ったと書かれているのです。神の恵みは自分とは無縁だと思っていた人が、神を賛美しながら二人と共に神殿へと向かったのです。つまりここで起こっているのは人生の根本的な転換なのです。人生が神へと向かうという根本的な方向転換なのです。

 考えてみてください。足が癒された。それは必ずしも生活が楽になったことを意味しません。この後、彼は自分の足で職を探さなくてはならないのです。先にも申しましたように、彼は既に四十を過ぎている人です。平均寿命を考えるなら、今日の四十歳とは意味合いは全く違います。しかも、今までずっと物乞いをしてきた人です。これから多くの困難に直面することは目に見えています。

 しかし、ともかく彼はもはや「運ばれて」「置かれて」いる人ではないのです。彼は歩き出したのです。ある意味で未来に向かって歩き出したのです。そして、未来に向かって歩き出すことは恐ろしいことではなかったのです。なぜなら、神を賛美しているからです。まず向かったのは神殿だからです。しかも、そこには共に神を賛美する仲間がいるのです。もはや目に見える世界が全てではない。彼は主を信じる人々と共に、目に見えない御方を賛美して、目に見えない御方に信頼して、共に礼拝して生きる人となったのです。

御名を与えるために
 これが「宣教」と「信仰」が一つになる時に起こる出来事です。さて、この場面はこの世界に教会が置かれている意味を明瞭に示しているとも言えるでしょう。教会がこの世界において本当にしなくてはならないことは何なのか。ペトロは「金や銀はない」と言いました。本当になかったのだと思います。今日、教会はどうでしょう。日本に生きる信仰者はどうでしょう。「金や銀はある」と言うでしょうか。確かに自分の持っているもので人々のニーズに直接的に応えることも、ある意味ではできる。もちろんそれ自体は悪いことではありません。

 しかし、往々にして、「金や銀はある」と言う者は、金や銀の為し得ることが全てだと思ってしまうのです。人々のニーズに応えることは大切です。為し得るならば、それをしたら良いと思います。しかし、金や銀の為し得ることだけで、神の使命を果たしたと思うなら、それはやはり違うでしょう。教会が為すべきこと、為し得ることは、ここに描かれているように、「イエス・キリストの御名」を与えることなのです。

 イエス・キリストの名が与えられる時、そこに金や銀の為し得ないことが起こるのです。ただキリストのみが為し得ることが起こるのです。すなわち、そこに神の救いが到来するのです。呪われた人生であるかのように生きていた人が、神の恵みから遠く離れて生きていた人が、ただ「運ばれて」「置かれて」生きていた人が、神を誉め讃え、神に期待し、神と共に、また信じる人々と共に、前に向かって歩み出す人となるのです。そのようなイエス・キリストの御名を与えるためにこの世界に遣わされているのが教会なのです。

(祈り)

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