2024年1月31日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 7:1~24

 出エジプト記 7:1-24

 主は言われました。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる」(1節)。そのように主が言われたのは、モーセが再び主の命令に抵抗したからです。6章28節以下に次のように書かれていました。「主がエジプトの国でモーセに語られたとき、主はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。』しかし、モーセは主に言った。『御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか』」(6:28-30)。

 「唇に割礼のない者」とは、「口べた」という意味です。さらに言えば、わたしの口は清くもない(いつも正しいことを語っているわけではない)という意味合いも含まれているものと思われます。だから、ファラオに話に言っても無駄なのだとモーセは言うのです。

 これと同じようなことをモーセが4章で言っていたことを思い起こしてください。「『ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。』その時、主は言われた。『一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう』」(4:11‐12)。

 主が口と共にあると言われるならば、モーセが口べたかどうかなどは問題ではないのです。そもそも口が達者ならできるようなことをさせようとしているのではないからです。あくまでも神は、御自分の御業を、モーセを通して実現しようとしているのです。そして、「アロンがいるではないか」と言われて、いわば押し切られた形で従ったのでした。

 しかし、実際に主に従った結果、ファラオは言うことを聞き入れませんでした。むしろイスラエルの人たちの労働をさらに過酷にするということが起こったのです。それでもなお民に語れと主は言われる。しかし、6章9節にはこう書かれていました。「モーセはそのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」。

 そのように、イスラエルの人々ですらモーセの言うことを聞こうとはしませんでした。だからやはり言いたくなります。「わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか」と。モーセも、分かってはいるのです。問題は自分の能力ではなくて、神の御業であり、神のなさる事なのだ、ということは。自分はただ用いられるだけということも分かっているのです。しかし、現実に自分の弱さが露わになると、やはり自分ではだめだと思わずにはいられないでしょう。現実に自分が語っても、イスラエルの民でさえ聞こうとしない。人はやはり繰り返し、主に言いたくなるものなのでしょう。「わたしではだめです」と。

 だから主も同じことを繰り返し語られるのです。同じことを繰り返し聞かなくてはならないのです。主の大いなること、神が主権者であること、神が本当の支配者であることに目を向けなくてはならないということ、を。

 4章で語られていたことを主はもう一度繰り返します。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう」(7:1‐2)。

 それにしても、改めてもう一度この言葉を聞きますと、不思議に思えます。ここには「神からモーセへ。モーセからアロンへ。アロンからファラオへ」という図式がはっきり語られています。なぜこんなまどろっこしいことをするのでしょう。これを見るかぎり、モーセはいりません。アロンの方が雄弁であるならば、「神からアロンへ。アロンからファラオへ」で十分なはずです。そもそもアロンのほうが兄なのだから、アロンをリーダーにしたらよいのでしょう。しかし、人間の目から見たら「わたしはいらない」と思えたとしても、神様の中には位置づけがあるのです。どんなに人間の目に不要に見えても、そこにはモーセがいなくてはならないのです。そして、モーセでなくてはならない。他の人ではだめなのです。それが召命というものです。

 そして、さらにどうしてもモーセが聞かなくてはならないことを主は語られます。「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない」(3-4節)。

 この「わたしはファラオの心をかたくなにする」という表現は前にも出て来ましたし、これからも繰り返し出て来ます。以前にも申しましたように、これは要するに、「ファラオがなかなかイスラエルを出て行かせなくて、出エジプトに時間がかかったのは、神が無力だったからではない。また、モーセが口べただったからでも、アロンがうまくやらなかったからでもない。そうではなく、これは神様の主権によること、神の御計画によることなのだ」と言っているのです。

 実際、エジプトからの解放は手間取るのです。12章まで続くのです。ファラオはなかなかイスラエルを去らせません。そうしますと、十分に説得力のあることを神がなさっていないからであるように見えなくもない。実際、杖を蛇にするぐらい、魔術師だってできるのです。あるいはいかにアロンが雄弁でも説得はできなかったから、ファラオは頑迷なままであったように見えなくもない。しかし、そうではないのです。神はそのようなことは初めから分かっていたのです。むしろ、神に逆らっているファラオの心を頑なにしてしぶとくしたのは神だというのです。

 ボクシングに喩えるならば、この試合は1ラウンドKOの試合じゃなくて、勝つのに12ラウンドかかった試合に見えるのです。普通に考えるならば、青コーナーのファラオと赤コーナーの神様の力に大差なかったから最終ラウンドまでもつれ込んだように見えるのです。しかし、神は試合前に言われるのです。ファラオには最後まで持ちこたえさせて、最終ラウンドでのKO決着にする、と。

 実際、これから読んでいくことは、そのように進んでいくのです。そして、モーセはどうしてもこれを聞いておく必要があったのでしょう。なぜなら、何度やっても駄目だったら、普通は嫌になるからです。やっぱり自分では駄目なのだと思うでしょう。だから、これは相手のしぶとさをわざわざ引き出すような試合になることを初めから伝えているのです。モーセは初めからそのつもりでいなくてはならない。

 しかし、なぜ1ラウンドでKOできるのに、最終ラウンドKOにするのでしょう。主はこう言われるのです。「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」(5節)。ここで戦いの当の相手である「ファラオは」と主は言われないのです。そうではなく「エジプト人は」と言われるのです。

 さて、「わたしは主である」とはどういう意味であったか先週の箇所を思い出してください。それは「共にいる神」であり、さらには、「救い出す神」であり、「神の民とする神」であり、「地上に存続させ用いられる神」であるということなのです。そのような神、ヤハウェをエジプト人も知るようになるというのです。

 実際、この12ラウンドを通して何が起こったかを私たちは見て行くことになります。ファラオはかたくなであり続けますが、エジプト人の内に変化が起こってくるのです。そして、最終的に、エジプト脱出の際には、「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった」(12:38)と書かれているのです。すなわち、脱出したのは、ヘブライ人だけではなかったということです。エジプトの奴隷たちだけではなかったのです。そこにはエジプト人も含め「種々雑多な人々」も加わっていたのです。そのようにしてイスラエルは血縁共同体ではなく、出エジプトという神の恵みを土台とした契約共同体となっていくのです。

 さて、このように主の言葉をいただいて、モーセとアロンは再びファラオの前に立つことになります。そこでモーセがしたのは、かつてイスラエルの人々の前で行ったことでした。実際にはアロンがモーセの杖を用いたので、ここでは「アロンの杖」と呼ばれています。その杖が蛇になるというしるしが神によって与えられました。これはかつて4章30節でイスラエルの民の前でアロンが行ったことです。その時、民は信じました。しかし、それと全く同じことをファラオが見ることになるのですが、彼は信じません。

 奇跡は必ずしも信仰を生み出さないことが分かります。これは新約聖書においても同じです。イエス様の御業を見ても、信じない人は信じない。天からのしるしを求める人(マルコ8:11)は、しるしを見せられても信じないものです。ファラオは奇跡を見た時に、魔術師に同じことをさせました。彼らは同じことをすることができました。つまり神でなくても同じことは起こるということです。そう思えれば信じなくてよいのです。しるしを見ても、信じないつもりでいる人は、「神でなくても同じことは起こる」と言って別の説明を試みます。

 同じことは、血の災いにおいても起こります。エジプトの魔術師が秘術を用いて同じことをするのです。それをもってファラオは信じようとはしません。このように、奇跡は必ずしも信仰をもたらしません。しかし、主が事を成されるならば、それは「しるし」なのです。大切なことを指し示す「しるし」なのです。「このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る」と主は言われます。それは主がどのような御方であるかを示すしるしなのです。

 一つ目においては、アロンの杖が魔術師の杖を呑み込みました。主はエジプトの魔術の源となっている神々の上におられます。ナイルが血に変わることも同じです。ナイルはファラオに従うと信じられていたのです。しかし、ファラオの思うようにはなりません。なぜなら、それは主による被造物であり、主がその上におられるからです。主はファラオの上に君臨しておられます。そのことを主はファラオに示しておられるのです。

 このように、奇跡の物語、ファラオとの戦いの物語が続きます。人間の罪が神のご計画を阻んでいるように見える行程、それは往々にして不要なプロセスに見えるのでしょう。しかし、神の御計画の中において、それは主が御自分の主権と支配と栄光を表す大切なプロセスなのです。


2024年1月28日日曜日

「キリストが共におられるとは」

ヨハネによる福音書 8:21-30

罪のうちに死ぬことになる

 イエス様は言われました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。

 このときイエス様は神殿の境内で教えておられました。宝物殿の近くでなされたファリサイ派のユダヤ人たちとのやりとりが直前に記されております。この言葉も直接的にはファリサイ派の人々に対して語られたものと見てよいでしょう。それにしても「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とは実に激しい辛辣な言葉です。こんなことを言われれば、誰であれ腹を立てるでしょう。

 しかし、考えてみるとイエス様は何も特別なことを言っているわけではないとも言えます。イエス様はただ当たり前のことを言っているに過ぎないのです。それは彼らがファリサイ派だからというわけではなく、イエス様に敵意を向けているからでもなく、ある意味では全ての人について言えることでもあるのです。

 というのも神から見て罪のない人間など一人もいないからです。人生には人の目に触れていることと人の目からは隠されていることがあります。しかし、神様の目から隠されているわけではありません。すべては神の前に明らかです。そのような神様の前で私たちたちが人生を終える時、「わたしは罪を犯しませんでした」と言って死ねる人はいないでしょう。その意味では、人間は誰しも罪人として死ぬことになるのです。「罪のうちに死ぬことになる」とは、まさにそのとおりです。

 それは人生の終わりに至らなくても、その途上においても、本当は分かり切っていることなのです。私たちは皆、後戻りできない人生を生きているからです。どんなに自分のしたことを悔いたとしても、それ以前に戻ってやり直すことはできない。神に背いたことをしたならば、その事実を後戻りして消すことはできない。それは事実として残るのです。その意味でイエス様がある時、人間の罪を借金に喩えたのは適切だと言えます。借金は忘れても残ります。罪の負い目も、私たちがたとえ忘れたとしても神の前に残ります。人は罪の負債を抱えたまま最後の日を迎えることになるのです。「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」。それはあの時、あの場所にいたファリサイ派の人たちだけの話ではありません。

 だからこそ人間には救いが必要なのです。自分ではどうすることもできないからです。また、他の人間によっても、どうすることもできないからです。他の人間は救いを与えることはできません。なぜなら他の人間もまた自分の罪の負債を抱えているからです。人間同士は、この世のことについて助け合うことはできるかもしれません。しかし、人は他の人に、本当の意味で救いを与えることはできません。自分の罪のうちに死ぬことになるという事実については、一切手を出すことができないからです。だからこそ人間からではない、神からの救い、天からの救いが必要なのです。

わたしは上のものに属している
 そして、天からの救いは来たのだと聖書は教えているのです。イエス・キリストという御方として、救いが来たのです。その方は自分自身についてこう語ります。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」(23節)。イエス・キリストという方は、こういうことを大まじめに語られる方なのです。そのような方のそのような言葉を世々の教会は信じてきたし、私たちも信じているのです。

 この御方を信じるということは、自分がもともと「下のものに属している」ということを認めることでもあります。自分たちはもともと「この世に属している」存在なのだと認めることです。そこに「上のものに属している」と言われる方が来なかったならば、私たちはもともと上のものには無縁なのです。下のものに属している者として、この世に属している者として、この世のことだけを考えて、この世のことに振り回されて、この世のことに動かされて罪を犯し、この世に属するものとして死んでいくしかなかったのです。罪のうちに死んでいくしかなかったのです。そのことを徹底的に認めてこそ、「わたしは上のものに属している」というイエス様の言葉が、どれほど大きな希望であるかが見えてくるのです。

わたしはある
 その御方がさらにこう言われます。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(24節)。「わたしはある」ということを信じないなら――明らかにぎこちない翻訳です。しかし、この言葉はユダヤ人ならばピンと来るのです。よく分かる。なぜなら誰もが知っている物語があるからです。

 その昔、イスラエルがエジプトの奴隷であったとき、解放者として神から選ばれたのはモーセという人物でした。彼はミディアンの羊飼いでした。その日も彼は羊の群れを荒れ野の奥へ追っていき、ホレブという山まで来たのです。すると彼は柴が火に燃えているのを見ました。燃えているのに燃え尽きない。この不思議な光景に誘われて近づくと柴の中から声がした。神の声でした。

 神はモーセに命じました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。当然、モーセは尻込みします。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導きださねばならないのですか」。すると神は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 モーセは「共にいる」と言われる神に名前を尋ねました。人々から聞かれた時に何と答えましょうか、と。その時に神はモーセにこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。そして、さらにこう言われたのでした。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(出エジプト記3:14)。

 このように聖書の神は「わたしはある」という名前なのです。それは「わたしはいる」と言い換えてもいいでしょう。神が「わたしはいる」と言われるなら、ただ一般的に神は存在する、ということではなくて、それは「あなたと共にいる」ということです。モーセに言われたとおりです。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。それが聖書の神の名なのです。共にいてくださる神を意味する名前なのです。

 そして、今日の箇所ではイエス様が御自分を指して「わたしはある」と言われるのです。イエス様が共におられるということは、かつてモーセを遣わした救いの神が共におられるということなのだ、と主は言っているのです。人間は人間を救うことができないから、天から独り子なる神が来られたのです。共にいてくださる神が来られたのです。そのことを信じないならば、「わたしはある」ということを信じないならば、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と主は言われるのです。それはある意味では当たり前のことです。天からの救いを退けるならば、もはや救いはどこにもないからです。

あなたは、いったい、どなたですか
 さて、ここまで聞いて、彼らはイエスに問いました。「あなたは、いったい、どなたですか」。これに対してイエス様は答えるのです。「それは初めから話しているではないか」と。そうです。イエス様がこのようなことを語っているのは、ここだけではありません。ヨハネによる福音書全体を貫いていると言ってもよいでしょう。一度じっくりとイエス様の言葉一つ一つを改めて読んでみてください。イエス様が御自分について何と言っているか、読んでみてください。この御方が、いわゆる立派な教師であるとか偉大な宗教家という範疇にくくれないことがよく分かります。真面目に耳を傾けるならば、誰でも問わざるを得なくなるはずなのです。「あなたは、いったい、どなたですか」。

 繰り返しますが、イエス・キリストは、「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」というようなことを語られる方なのです。そして、世々の教会はそのような御方をその御言葉と共にいわば大真面目に信じてきたのです。二千年の長きにわたって信じて、伝えてきたのです。時に迫害を耐え忍びながら、命さえも脅かされながら、それでもなお信じてきたのです。この御方は「上のものに属している」御方であると。下のものに属していた私たちが救われるために、この世に属していた私たちが救われるために、罪のうちに生きて、そして死んでいくしかなかった私たちが救われるために、この世に来てくださった御方であると。

 イエス様は今日の箇所で人々にこう言っておられました。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)。その言葉のとおり、イエス様は確かにこの地上を去られました。父のもとに帰られました。その意味で「わたしは去って行く」と言われたとおりになったと言えます。

 しかし、もう一方において、イエス様はまだ去ってはおられないとも言えます。神の霊、聖霊が降って、今もなおキリストの体である教会がこの地上に存在しているからです。イエス様は今もこの世において生きて働いておられます。「上のものに属している」御方が、今もこの地上において永遠の救いを与えるために働いておられるのです。

 教会とはそのようなところです。私たちはここで天に属する方を信じ、その方につながって生きるのです。教会の営みはただこの世のことに関わっているのではありません。天に関わっているのです。バプテスマも天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なる水遊びでしかないでしょう。聖餐も天にかかわり、永遠の救いにかかわっているのです。そうでなければ、単なるままごとでしかないでしょう。

 礼拝にしても、伝道にしても、奉仕にしても、教会の営みはすべて、天に関わること、永遠の救いに関わることに携わっているのです。だから、天を思わずして行うなら、神の御業を思わずして行うならば、ただ人間のことしか考えていないなら、この世のことしか考えていないなら、ただ死の手前までのことしか考えていないなら、本当の意味で教会の営みとはならないのです。私たちと共にいてくださるキリストは、「わたしは上のものに属している」と宣言される御方だからです。私たちはそのキリストの体です。

2024年1月24日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 6:1~13

 出エジプト記 6:1-13

 モーセとアロンは主に従い、ファラオのもとに出かけて行きました。そして、主の命令を伝えたのです。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と」(5:1)。先週お話ししましたように、この言葉は、それ自体、ファラオの絶対的な支配に対する挑戦を意味することになります。主はファラオに命じる位置にあるということになるからです。

 もちろん、ファラオは自分の上にある主の支配を認めようとはしません。あくまでも絶対的な神的な存在として主の命令をはねつけます。いや、それだけではありません。「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。・・・』」(同6‐8節)。ファラオは、あくまでも自分が絶対的な支配者であることを彼らに体で覚えさせるために処罰を下すのです。

 モーセは主に従ったのです。しかし、それは結果的にイスラエルの民を救うことにはなりませんでした。いや、かえって彼らを苦しめることになったのです。それはただ自分が苦しむこと以上に苦しいことだったに違いありません。モーセは苦しみの中から主に訴えました。

 すると主は言われたのです。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。

 「今や」と主は言われました。「今」が強調されています。その「今」とは、事態がますます悪くなっていくように見える「今」です。モーセもイスラエルの民も苦境に立たされている「今」です。その事態において何もなす術のない「今」です。しかし、そのような「今」こそ、「あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう」と主は言われるのです。「わたしがすること」すなわち「神がすること」を見るであろう、と。

 そこで主はモーセに言われたのです。「わたしは主である」と。

 「主」と訳されているのは「ヤハウェ」という言葉です。「わたしはヤハウェである」と神はモーセに言われたのです。アルファベットで言うならばYHWHという子音4文字の単語なので、どう発音するか正確には不明です。学者は恐らく「ヤハウェ」と読んだのだろうと推測します。しかし、大事なのは発音よりも意味です。その意味するところは、既にモーセに知らされているのです。

 3章まで遡ると、こんなことが書かれています。まだファラオのもとに行く前のことです。モーセは主にこう尋ねました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。すると主はこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(3:14)。そして、これこそまさに「ヤハウェ」という神の名前の意味するところなのです。

 「わたしはある。わたしはあるという者だ」。しかし、「わたしはある」あるいはもっと自然に訳せば「わたしがいる」となりますが、「わたしがいる」と言いましても自分と無関係な神がどこかに「いる」ということならば大した意味はないでしょう。明らかにここで言われているのはそういうことではありません。「わたしがいる」とは、モーセと共にいる、ということです。「ヤハウェ」という神は、「共にいる神」なのです。そのような意味において、今日の箇所においても「わたしは主である。わたしはヤハウェである」とモーセに語っておられるのです。

 いや、「わたしは主である」という言葉は、ただモーセだけが聞けばよいのではありません。イスラエルの民もまた聞かなくてはならないのです。ですから、主はモーセに言われるのです。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である」と。主はイスラエルの民にも「わたしはヤハウェである。共にいる神である」と語ろうとしておられたのです。

 6節から8節にかけて、モーセが民に語るために与えられた言葉が記されています。それは「わたしは主である」という言葉に始まり、「わたしは主である」という言葉に終わります。そこには「わたしは主である」という言葉が何を意味するのか、神が「共にいる神」であるとはどういうことかが明瞭に語られているのです。

 「わたしは主である」と言われる主は、さらにこう続けます。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」(6節)。そのように神は「腕を伸ばされる神」なのです。「腕を伸ばす」とは、神がこの地上の現実において力を現すことを意味します。

 神はこの世界の歴史に介入し、この地上において営まれる人間の生活に介入される神です。神は観念の神でもなければ、ただ心の中におられる神ではありません。神は腕を伸ばして、奴隷であったイスラエルをエジプトから解放される神なのです。

 主の言葉はさらにこう続きます。「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(7節)。このような関係を聖書は「契約」と呼びます。「わたしは主である」と言われる神は、人と契約を結ばれる神なのです。

 契約を考える時、私たちは結婚を考えたらよいでしょう。結婚をすると、お互いは「単に大勢いる男の中のひとり」「単に大勢いる女のひとり」ではなくなります。「あなたはわたしの夫」「わたしはあなたの妻」という関係になるのです。主はそのような関係を求められる神、契約を結ばれる神です。この神と共に生きるとは、「あなたはわたしの神、わたしたちはあなたの民」と言って生きることに他ならないのです。

 さらに主はこう言われます。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える」(8節)。「土地を与える」のは、彼らが世代を超えて地上に存続するためです。「あなたはわたしの神、わたしたちはあなたの民」と言って生きる人々が、具体的に目に見える形で、この世界のただ中に存続することを主は望んでおられるということです。そのようにイスラエルはこの地上に存続し、そして教会もまた存続してきたのです。私たちは与えられた地において、具体的に目に見える形をもって、神の民として生きていくのです。

 「わたしは主である」。苦しみの中にあったモーセに神はそう語られました。モーセは苦しみの中にあるイスラエルの民にこの主の言葉を伝えるのです。「わたしは主である」。ファラオが支配しているとしか見えないエジプトの世界のただ中において、彼らは「わたしは主である」という言葉を聞いたのです。

 もっとも、「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」と書かれています。しかし、彼らはやがて見ることになるのです。神が「わたしは主である」と言ってくださるということは、どういうことであるか。彼らは目の当たりにすることになるのです。それが出エジプトの出来事なのです。

 そして、ここにいる私たちもまた同じ言葉を聞いています。神との関わりを失った世界のただ中において、神ならぬものが支配しているとしか思えないこの世界のただ中において「わたしは主である」と語る神の言葉を聞いているのです。あの時のモーセのように、ただ為す術なく立ち尽くすしかない私たち、あの時のイスラエルの民のように、ただ他者の責任を問い非難するしかない私たちに、主は語られるのです。「わたしは主である」と。

 その神こそ、イエス・キリストを通して御自身を現された神です。まさに私たちと共にいてくださる神であることをキリストによって現してくださった神に他なりません。「わたしは主である」。私たちにとって何を意味するのか、かつてイスラエルの民がその目で見たように、私たちもまた見ることになるでしょう。


2024年1月21日日曜日

「水をぶどう酒に」

ヨハネにる福音書 2:1‐12


婚礼での出来事

 「ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた」(1節)と書かれていました。一方、イエス様と弟子たちについては「招かれた」と書かれています。イエスの母マリアは「招かれた」のではなく、婚礼においてある特別な立場にあったものと想像されます。その婚礼において、ぶどう酒が足りなくなるという事態が生じました。そこでマリアはイエスのところに行って事情を伝えます。「ぶどう酒がなくなりました」(3節)。明らかにある種の期待をもっての言葉です。しかし、イエス様の返答はつれないものでした。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(4節)。


 「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです」という返答については古来より様々な説明がなされてきました。例えば、「婦人よ、という呼びかけは、むしろ尊敬の表現なのだ。別に軽く扱っているわけではないのだ」、また、「『わたしとどんな関わりがあるのか』という言葉も、言葉のニュアンスによっては、『わたしにまかせておきなさい』ともとれる言葉だ」というように。


 確かに「婦人よ」という言葉に軽蔑的な響きはありません。しかし一般的に子が親に向かって言う言葉ではありません。また、「わたしにまかせておきなさい」という解釈にも無理があります。なぜなら同じような表現が旧約聖書では明らかに拒絶の意味で用いられているからです(例えば、列王下3:13)。


 ここは素直にそのまま読むべきであろうと思います。イエス様は明らかにマリアの求めを拒否しておられるのです。同時にマリアとの間にも一線を引くのです。そのようにして、主は単にマリアの息子としてそこに存在しているのではないことを示されるのです。マリアの子である以前に、神から遣わされた者なのであり、イエス様が「わたしの時」と呼ぶ、ある特別な時へと向かっている御方なのです。


 ではイエス様は、マリアの願いを退けて、いったい何をなさったのでしょうか。水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたのだ、と今日の聖書箇所は伝えます。「なんだ、結局はマリアの求めに答えられたのではないか」――確かに、結果的に見ればそうです。しかし、この福音書を書いたヨハネは、イエス様がマリアの願いを聞き入れて、祝宴が事なきを得たことに注目しているのではありません。そうではなくて、ヨハネは、この出来事を次のように締めくくっているのです。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。つまりこれが最初の「しるし」であったこと、そしてイエス様が「栄光を現された」ことに注目し、そのことを伝えようとしているのです。


最初のしるし

 第一に、これは最初の「しるし」であったと聖書は語っています。


 ある出来事が起こるとき、その出来事の意味がその時には分からないということがあります。イエス様が語られたこと、主が行われたことについても、その意味が当時の弟子たちにすべて理解されたわけではありません。いやむしろ弟子たちは全く理解していなかったことを福音書は隠すことなく伝えているのです。


 このカナの奇跡もイエス様が為されたことを伝えるひとつのエピソードとして、語り継がれてきたのでしょう。しかし、そのイエス様のなさった奇跡が、実は非常に大事なことを指し示しているのだということを、後になって知ることになったのです。それゆえに、ヨハネはこの出来事を「奇跡」と呼ばずに「しるし」と呼んでいるのです。「しるし」にとって重要なのは奇跡的な出来事そのものではありません。それが何を指し示しているのか、ということなのです。そこで、もう一度、イエス様のされたことを振り返ってみましょう。


 イエス様は「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。その水がめは、わざわざ「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」であったと説明されています。二ないし三メトレテスとは、大体80から120リットルぐらいです。大変大きな水がめです。当時はどこの家にもこのような水がめがありました。そこに入っている水は、主に清めの儀式のために用いられたのです。厳格なユダヤ人は実にしばしば清めを行ったのです。衣服や器物、手や体など、汚れを受けたと思われるものを洗い清めたのでした。食事のたびに手を清め、時には食事の最中にまで手を清めるのです。


 このような「清めの儀式を守ること」、あるいはより広く見て「宗教的な戒律を守ること」は、往々にして二つの意識と結びつきます。一つは「恐れ」です。清めを行わないことが災いに結びつくことに対する恐れ。戒律を守らないことに対して罰が下るのではないかという恐れ。戒律を守らないことを他者から非難されることに対する恐れ。人は恐れに駆られて定められたことを行い続けます。そのようにして、戒律や規則にしばられた生活が形作られていきます。


 もう一つは「誇り」です。戒律を遵守することによって得られる誇り。それはある意味では遵守しない者がいるから保たれる誇りでもあります。律法を持たない異邦人、律法を守らない徴税人や罪人たちを見下すことによって保たれる誇り。清めの儀式などは、まさにその典型であると言えます。一方に汚れた異邦人がいるのです。そして、汚れた罪人たちがいるのです。彼らに接触すると汚れるのです。その汚れを清めの儀式によって落とします。清さを保っている自分がそこにいるのです。そのように自分はあの人たちとは違う清い者であるという意識が、戒律にしばられた生活を支えるのです。


 そのような戒律にしばられた生活が、命に満ち溢れた喜びとは全く無縁であることは明らかでしょう。その意味において、この「清めに用いる石の水がめ」は、喜びのない宗教的な生活を象徴的に示しているとも言えるのです。しかし、ここで何が起こっているのでしょう。イエス様はその「清めに用いる石の水がめ」の水を、芳醇なぶどう酒に変えられたのです!これはまさにイエス様が何のために来られたかを指し示すためのデモンストレーションであったといえます。


 ぶどう酒は旧約聖書においてしばしば救いの喜びを表します(アモス9:14)。婚宴も同じです(イザヤ61:10)。この奇跡の業は、主がそのような大いなる喜びをもたらすために来られたことを示します。一生懸命に何かを行っているかもしれないけれど、その根底にあるのは恐怖か優越感でしかない――そのような命のない宗教生活に代えて、命に溢れた救いの喜びをもたらすために、主は来られたのです。清めの水に代えて喜びのぶどう酒をもたらすために!この出来事は、まさに「イエス様は私たちに何をもたらすために来られたのか」を指し示す「しるし」に他ならなかったのです。


栄光を現された

 このことは、第二に、イエス様が「その栄光を現された」ことと密接に結びついています。

 実は、この「清めの儀式」に関しては、イエス様とユダヤ人の間に論争があったことを他の福音書は伝えています。マルコによる福音書の7章をご覧ください。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(マルコ7:1‐4)。そして彼らは、なぜ汚れた手で食事をするのか、と責めるのです。


 このようなことがあった後、イエス様は弟子たちにこう言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(同7:20)。


 要するに、人々は汚れを清めるために一生懸命に清めの儀式をするけれども、自らを汚し、人を汚すものは外から来るのではなくて、内から出るのだと主は言っておられるのです。神から見るならば、私たちは内から汚れが出てくるような、徹底的に汚れたものだということです。本当に問題にしなくてはならないのは、人間の内面深くにまで及び、周りに溢れ出て大きく影響を及ぼす人間の罪の問題なのです。そして、人間の罪の問題は、清めの儀式として手を洗うことなど、形式的に戒律を守ることによって、どうにかなるような問題ではないのです。


 しかし、イエス様は、そのような清めの儀式なし得なかったことを、自ら成し遂げようとしておられたのです。イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。そのイエス様が、「時が来た」と言われるとき来るのです。ヨハネによる福音書12章23節において、主はこう言っておられるのです。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(12:23‐24)。これを語っておられるのは、イエス様が十字架にかかられる直前です。イエス様は《十字架にかかられる時》を「栄光を受ける時」と呼んでいるのです。それはイエス様によって救いが成し遂げられる時だからです。


 人を神から引き離す人間の罪は、清めの水によっては取り除かれません。戒律を守ることによっては取り除かれません。水がめの数が完全を表す「七つ」ではなく、それに足りない「六つ」であるのは、その事実を象徴的に指し示していると言えます。しかし、罪のないイエス様が、私たちの罪を贖う犠牲となってくださいました。罪を取り除く神の小羊として自ら贖いの血を流してくださいました。このキリストの犠牲によって、私たちは罪を赦された者として、神との交わりが与えられるのです。神との命の交わりに生きることができるのです。そのようにして、初めて恐怖でもなく、優越意識でもなく、神が注いでくださる愛と喜びが、私たちの生活を形作るようになり、さらには周りにあふれ流れるようになるのです。そうです、主によって清めの水はぶどう酒に変えられるのです。


 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」とヨハネは書きました。カナでの奇跡は、やがて十字架において完全に現される栄光が、ちょうど雲の隙間から陽が射すように、ひととき垣間見られた出来事だったのです。


2024年1月17日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 5:1~23

出エジプト記 5:1-23

 ここまでは、すべて主の言われたとおりになっていました。まず、エジプトに帰る途中でアロンに出会ったこと。心配していたイスラエルの民のこと。アロンと一緒に行って語った時、イスラエルの長老たちは信じたのでした。そして主を礼拝した。「主が言われたとおりだ」と思ったに違いありません。すべて主のご計画のもとで事は進んでいることを、モーセは実感していたはずです。

 5章は「その後」という言葉から始まっています。イスラエルの民が信じて、主を礼拝した、「その後」です。ですから、モーセは確信に満ち、意気揚々とファラオの前に出たに違いないのです。自分には偉大なる主が着いていることが分かっています。主は確か言われたのです。「わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう」(4:15)。また、その手にはしるしを行った「神の杖」を持っているのです。

 モーセは大胆にもファラオにこう言いました。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」(1節)。これがファラオに告げられた言葉です。これはたいへん重大な内容を含んでいるので、ファラオの反応と事の成り行きを見る前に、まずこの意味するところをしっかりと捉えておきましょう。

 第一に、この言葉はファラオの絶対的な支配に対する挑戦を意味しました。すなわち、エジプトの王ファラオよりもイスラエルの神、主の方が上に位置しているという宣言に他ならないのです。だから上から主がファラオに命じるのです。「荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と。そして、ファラオはそれに従わなくてはならない、ということなのです。

 これが当時においてどれほど驚くべき宣言であったかを考えなくてはなりません。当時の超大国エジプトの王ファラオは絶対的な権力をもって支配している、神格化された王なのです。ファラオが言うことは絶対であり、イスラエルは従わなくてはならないのであり、その意味でファラオはイスラエルにとって神の位置にいたのです。しかし、4章の終わりにおいて、イスラエルの長老たちはファラオではなく主を礼拝したのです。イスラエルにとってあくまでも神はファラオではなくて主であると彼らは認識したのです。

 この世の神に対して、主をその上に位置すると宣言すること。そのような意味において主を礼拝すること。それが主を信じるということなのです。私たちが神を信じる。またキリストを信じるとはそういうことなのです。すなわち、まことの王は誰かという話なのです。

 例えば、日本という国家が「あなたがたは主を礼拝してはならない」と命じたとします。その命令に従って教会が礼拝をやめたら、主がこの世の神の上にあると宣言していることにはなりません。その人、その教会にとっては国家が神であるということになるのです。これから見ていきます出エジプトの闘いは、まさに主をまことの神として信じるのか否か闘いだったのです。この世の神か主なる神か、どちらに従うのかという闘いだったのです。

 第2に、出エジプトの意味がここで明確に表現されています。出エジプトは、ただ苦しめられていたイスラエルの民が、「苦しみから解放された」という出来事ではないのです。彼らが解放されるのは、主を礼拝する民となるためだったのです。ただエジプトという国家の支配から自由になるだけでは、本当の意味で解放にはならないのです。主を第一とし、主を礼拝する民となり、他の一切が彼らにとって神ではなくなったときにこそ、本当の解放があるのです。だから、彼らはエジプトを脱出しただけではなく、その後にはシナイ山に導かれ、十戒が与えられるのです。そして、十戒の第一戒には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と書かれているのです。

 わたしたちがキリスト者とされたのも同じです。キリスト者となるのは、ただ自分の悩みや苦しみから解放されるためではありません。そうではなくて、主を礼拝する民となるために救われたのです。他の何ものをも神としない、本当に解放された人となるために救われたのです。

 さて、この宣言を耳にして、ファラオはどうしたでしょうか。彼は言いました。「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」(2節)。

 先ほど言いましたように、モーセの言葉はファラオの絶対的な支配に対する挑戦を意味しました。それをファラオも分かっているのです。だから「どうして従わなくてはならないのか」と言うのです。わたしは主などという、どこの馬の骨か分からないような奴には従わないと宣言するのです。

 このやりとりが「支配の問題」であるという理解は重要です。誰が支配するのか。イスラエルは誰に仕えるのか。主という名前の神に仕え、ファラオが課した労働であっても、それは一旦置いておいて主を礼拝するのか。それともファラオを従うべき第一とするのか。ファラオとしては、当然、自分が第一なのです。だから、ファラオは次のような行動に出たのです。

 「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう』」(6-9節)。

 この仕打ちの大義名分は、「彼らが怠け者である」という主張です。しかし、怠け者であることが問題で、十分な働きをしていないということが問題ならば、こんなことをしないで作らせるれんがの数量を増やしたほうがいいはずでしょう。その方がファラオにとっては利益になるのですから。しかし、ファラオはそうしなかったのです。「わらを与えない」という決定をしたのです。それは何を意味するのでしょうか。

 わらはれんがを作る時の「つなぎ」です。これは脱穀した後に残ったものを使うのです。これはれんがに使わなかったら無駄なゴミになるだけなのです。しかし、それを「与えるな」とファラオは言ったのです。これが与えられなかったら、畑に残っている切り残しを自分で抜いて来るしかありません。これはれんが作りよりも辛い作業となるでしょう。明らかにこれは自分に従おうとしない者、命令に服しようとしない者、自分よりも何かを上にする者に対する処罰であり、あくまでも自分が絶対的な支配者であることを体で覚えさせるための処罰なのです。

 このように、モーセとアロンが主に従ったために、イスラエルの民は「処罰」され、苦境に立たされることになりました。イスラエルの下役たちはモーセたちを責めて言いました。「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(21節)。

 モーセは主の召命を受け止めました。そして、主に従ったのです。しかし、物事はうまく運びませんでした。それは苦しいことであったに違いありません。しかし、最も苦しいことは、自分が苦しむことではなく、誰か他の人を悲しませたり苦しめたりしてしまっている事実だったに違いありません。自分が従ったために、誰かを苦しみに巻き込んでしまう。その時に、自分が召されたことの意味、自分が従ったことの意味が見えなくなってしまうということは起こり得ることでしょう。

 自分が洗礼を受けてまわりがみんな喜んで、幸せになりました。――と、そういうことばかりではありません。洗礼を受けて、親が悲しみました。周りの人たちが怒りました。苦しみました。そういうこともまた起こり得ることなのです。その時に、神が召してくださったことの意味が見えなくなっていますことはあり得ることでしょう。

 しかし、その時にモーセはどうしたでしょうか。「主のもとに帰った」と書かれているのです。召命が見えなくなったら主に帰るのです。この悪しき事態をなんとかしようとする前に、主に帰るのです。そして、主に訴えるのです。モーセはそうしたのです。すると主からの答えがありました。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。

 「わたしがファラオにすることを見るであろう」と主は言われました。「わたしがやる」と主は言われるのです。実は、このことは既に語られていたのでした。ファラオが拒否することも、語られていたのです。「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている」(3:19)。神様はご存じなのです。人間には目先のことしか見えませんが、主は先までを見通しておられます。私たちが見ているのは、あくまでも途中経過でしかないのです。

 物事が上手く行っている時、私たちはすべてが主の支配のもとに進んでいると思うかもしれません。しかし、物事が上手く行かない時にも、やはり私たちは主の支配のもとに進んでいるのです。失敗しようが、つまずこうが、主に従って踏み出したのなら、大丈夫なのです。主はあなたを確かに用い、召された目的を実現してくださるのです。

2024年1月14日日曜日

「何を求めているのか」

ヨハネによる福音書 1:35-42

何を求めているのか
 「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」(35‐36節)。今日の福音書朗読はこのような言葉から始まります。

 「見よ、神の小羊だ」という言葉を二人の弟子がどのように理解していたかはわかりません。しかし、明らかに彼らは従うべき方を指し示されたと理解したようです。話はこのように続きます。「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(37節)。

 もともと彼らはヨハネの弟子であったわけですが、なぜヨハネの弟子となったのか、その理由を私たちは知りません。ただ知っているのは、洗礼者ヨハネが当時の社会において大きな影響力を持っていたということです。そのような人物に、ある時からこの二人は従い始めた。少なくともそこには何らかの求めがあったはずですし、期待もあったはずです。

 しかし、彼らが期待をかけて従っていた当のヨハネは、自分ではなく他の人物のことを語り続けていたのです。少し前の29節以下には次のように書かれています。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(29‐30節)。

 今日読まれたのは、そのまた翌日の出来事です。そこで二人は再びイエスを指し示す洗礼者ヨハネの言葉を聞くことになりました。ヨハネはイエスを見つめてこう言うのです。「見よ、神の小羊だ」。彼らはついに意を決してその方に従い始めます。洗礼者ヨハネの弟子からイエスの弟子へ。それはそれ自体、大きな決断であったに違いありません。

 しかし、彼らが洗礼者ヨハネではなくイエスに従い始めるとするならば、そこで改めて問われることになるでしょう。――それは何を求めてのことなのか。何を期待してのことなのか。実際、彼らはついて行こうとした時に、イエス様御自身から問われることになりました。「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた」(38節)。

 これがヨハネによる福音書に記されているイエス様の最初の言葉です。この言葉がイエス様の第一声として記されているのは、これがヨハネによる福音書を読んでいこうとする読者への第一の問いでもあるからなのでしょう。「何を求めているのか。」そして、この問いは約二千年後にこうしてヨハネによる福音書を読んでいる私たちへの問いでもあるのです。「何を求めているのか。」

 さて、私たちは何を求めているのでしょう。私たちは何を求めてここにいるのでしょう。何を求めて教会に来ているのでしょう。何を求めて毎週主イエスの御名によって集まっているのでしょう。何を求めてイエス様について行こうとしているのでしょうか。主は私たちに問うておられます。「何を求めているのか。」

 恐らくこの福音書が書かれた頃の人々にとっても、この問いは大きな意味をもっていたはずです。この福音書が書かれたのは紀元一世紀も終わりの頃です。その頃、キリスト教会はある意味で危機を迎えていました。それまでキリスト教会はユダヤ教の一派として認識されていたのです。「ナザレ派」などと呼ばれていました。しかし、紀元一世紀も終わり近くにさしかかった頃、キリスト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになりました。イエスがメシアであると公に言い表す者は、ユダヤ人の会堂から追放されることになりました。ユダヤ人から迫害の対象となることが確実になっただけではありません。ローマの公認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の対象にもなり得ることを意味していました。

 そのような試練の中で、この福音書は書かれ、読まれたのです。そこで彼らもまた、「何を求めているのか」という主の御言葉を聞いていたのです。イエス様に従っていくとするならば、明らかに困難に直面することになるのです。しかし、それでもなおこの御方に従うとするならば、「何を求めているのか」が深刻な問いとなります。そこで求めているものが本当に大事なものならば、命よりも大事なものならば、迫害を受けてもイエス様に従っていくことになるのでしょう。しかし、何か目に見えるこの世でのご利益を求めているだけならば、迫害や困難の中に置かれたら、不都合が生じたら、イエス様のもとから立ち去ることになるでしょう。イエス様は私たちにも問われるのです。「何を求めているのか」――私たちは何と答えるでしょうか。

来なさい。そして、見なさい
 さて、「何を求めているのか」というイエス様の問いから始まるやり取りを、福音書は次のように伝えています。「彼らが、『ラビ――「先生」という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(38‐39節)。

 その日はこの二人にとって生涯忘れ得ぬ日となったのだと思います。わざわざ「午後四時ごろ」であったと時間まで書かれていますから。しかし、そこで行われた会話自体は、たいした内容ではありません。イエス様がどこに宿泊しているのかを聞いた。イエス様は、「来たら分かるよ」と言った。ただそれだけのことです。そこで起こったことも、たいしたことではありません。彼らはついていって宿泊している場所を見た。そして自分たちも泊まることになった。それだけのことです。なんらドラマチックな出会いが語られているわけではありません。これに比べたら、例えば5章に出てくる38年間の病気が癒された人の方が、よほどドラマチックな出会いをしているとも言えます。

 では、なぜこんな他愛もない会話と出来事が記されているのでしょう。――それはこのやりとりが象徴的な意味を持っているからなのです。後に彼らが経験することになる、本当に重要なことを指し示しているからなのです。

 ここで繰り返されている「泊まる」という言葉は、実は他のところでは「留まる」あるいは「つながる」と訳されている言葉です。この福音書に繰り返し出てくるキーワードの一つなのです。例えば15章では、イエス様が「ぶどうの木のたとえ」を語られ、言われます。「わたしにつながっていなさい」。そこに繰り返し出てくるのが、この言葉です。

 彼らは尋ねたのです。「どこに泊まっておられるのですか。あなたはどこに留まっておられるのですか」。――さて、イエス様はどこに留まっておられるのでしょう。イエス様は言われたのです。「来なさい。そうすれば分かる」と。だから彼らはついて行ったのです。その日だけではありません。ついて行って、約三年半の間、イエス様と生活を共にすることになるのです。そして、そのイエス様は捕らえられて十字架にかけられて殺されることになります。さらに三日後、復活されたイエス様が彼らの中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。これらすべてを通して、彼らはいったい何を見たのでしょう。

 彼らは、イエス様がどこに留まっているのかを見たのです。「来なさい。そうすれば分かる」とイエス様が言われたとおり、彼らはついて行って、分かったのです。確かに見ることになったのです。イエス様がどこに留まっているのかを。どこに?――父なる神の愛の中に、父なる神との愛に満ちた交わりの中にです。彼らは、父を呼び求め、父を愛し、父に信頼し、父からの溢れる愛をもって敵を愛し、迫害する者のために祈り、父の御心であるならば十字架にさえ向かうその姿――、そこに父と子の揺るぎない交わりを見たのです。さらに復活したキリストの姿の中に、もはや何ものも奪うことのできない、この世の権力も、いかなる暴力も、いかなる災いによっても、死によってさえも奪うことのできない父なる神との交わりを見たのです。すなわち、彼らは永遠の命を見たのです。

 そして、イエス様についていった彼ら自身はどうなったのでしょうか。イエス様がおられるところに、父なる神との交わりに、父なる神の愛の中に、彼らもまた留まる者となりました。あの日、あの最初の日に、イエス様と一緒に泊まったように。それが本当の意味で現実となったのです。 

 あの最後の晩餐において、イエス様は彼らにこう言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14:2‐3)。そうです、イエス様がいるところに、彼らもまたいることになったのです。永遠に神の愛の内に!

 そして、そのことが実現するために、イエス様はヨハネが言ったとおり、「神の小羊」すなわち「世の罪を取り除く神の小羊」ともなられたのです。アンデレはあの翌日、言いました。「わたしたちはメシアに出会った!」そのメシアは、洗礼者ヨハネが最初に言ったように、「世の罪を取り除く神の小羊」に他なりませんでした。それは彼らもまた父の愛の中に留まるためでした。

 罪のないイエス様が父なる神との愛の交わりの中に留まれることは、ある意味で当然のことです。しかし、罪人である私たちが、なおも神を父と呼び、父の愛の内に留まり、父に愛されている子供たちとして人を愛して生きることができるとするならば、それは決して当たり前のことではありません。私たちの罪が赦され、罪の負い目が取り除かれてこそ、私たちはイエス様のいるところにイエス様と共に留まることができるのです。だからこそ、イエス様は父なる神との交わりを見せてくださっただけでなく、自ら「世の罪を取り除く神の小羊」となり、私たちの罪を贖う犠牲となってくださったのです。私たちに見せてくださったものを私たちに与えるためです。溢れる神の愛の内にある永遠の交わり、永遠の命です。

 主は問われます、「何を求めているのか」。

2024年1月10日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 4:18~31

出エジプト記 4:18-31

 これまで流れを振り返っておきましょう。そこに書かれていたのは、ミディアンで羊飼いをしていたモーセに主が現れて、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:10)と命じたという話でした。燃える柴の中から主が語り掛けられた。それは神からの召命でした。神は目的をもって人を召されます。神が召しておられるのなら、人間はただそれに対して「はい」と答えたらよいのです。神のなさることは完全だからです。しかし、人間は召してくださる神の方に思いが向かなくて、いつも自分の側ばかりを見ているのです。モーセも言いました。「わたしは何者でしょう」。

 そこで持ち出されるのが、まずは「わたしの経験」です。そして、次に「わたしの能力」です。わたしの経験によればこれは無理だ。わたしの能力を考えたら、これは無理だ。そう人間は答えるのです。モーセは言いました。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません」(10節)。

 「弁が立つ方ではありません」と言いますが、では弁が立ったらエジプトからイスラエルの民を連れ出せるのか?そうではないでしょう。もともと人間の力ではできないことなのです。しかし、神がさせてくださるからできる。神様が用いられるからできる。大事なのは神様なのです。だからもう一度、主はモーセの心を御自分に向かせるのです。「一体、誰が人間に口を与えたのか」と。本当に重要なのは、自分の口ではなくて、口を与えた神なのです。

 ついにモーセは言い返す言葉を失い、あげくの果てにこう言います。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」(13節)。しかし、他の人で良いならば他の人をはじめから召しているのです。神が召される時、それはその人でなくてはだめなのです。それが召命というものなのです。これが分からないと神様は怒ります。主は「ついに、怒りを発した」と書かれています。

 しかし、神は怒るのだけれど、モーセの気持ちを汲んでアロンを備えてくださいます。実に神は忍耐強く人を召されることが分かります。神はあくまでも「あなたをあなたとして」召そうと忍耐をつくされるのです。他の人ではだめだからです。

 そして、ついにモーセは神の召命を受け取ります。そこからが今日の箇所です。モーセは主の前で一旦脱いだ履物を再び履いてしゅうとのエトロのもとに帰ります。モーセは言いました。「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください」と。彼はエジプトに向かうつもりで具体的に行動を開始するのです。そして、モーセが妻子をロバに乗せエジプトに帰ろうとする時の姿を聖書はこう記しています。「モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った」(20節)。

 彼が手にしていた杖は、それまで羊を追うために用いていたものでした。それ自体は何の変哲もないただの杖です。戦いの武器にすらなりません。しかし、モーセが神の召しに答えて従うときに、そのただの杖でしかないものが「神の杖」になるのです。

 神の杖を手にしたモーセに主は言われました。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と」(21-23節)。

 ここで非常に印象的なのは「奇跡をファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにする」と書かれている部分です。実は、「心をかたくなにする」という言葉は、この後にも繰り返し出て来きます。ある意味では分かりにくい部分でもあります。

 ここに語られているのは、一言で言えば「神の主権」というテーマです。聖書の神は天地の造り主であり、全能の神であり、絶対的な主権者です。何事が起こったとしても神の想定外ではあり得ない。何事が起こったとしても、それは神が無力であるゆえに神の意に反して起こったのではない。神が失敗したからこうなったのではない。そのようなものの見方が徹底しているのです。

 それはある意味では我々異邦人には分からないけれど、ユダヤ人が読んだらよくわかるとも言えます。この後の物語では、ファラオが神に逆らってイスラエルを出させまいとする。神の計画はすんなりとは実現しないのです。かなり手間取るとも言えます。しかし、それは神が無力だからではない。神の想定外ではない。そのことが前もって語られているのです。

 しかし、ここには注意が必要です。まずモーセとアロンが神の言葉を告げるのです。その言葉にファラオは逆らうのです。その聞き従おうとしないファラオの心を主がかたくなにされるという話です。奇跡を目の前に見ても民を去らせないほどにかたくなにされるのです。神に従おうとしているのに、神があえてその人を神に逆らう者とし、その人をかたくなにしたという話ではないのです。

 それからここにはもう一つ分かりにくい話が出て来きます。24節以下に書かれている小さなエピソードです。「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた」(24節)。モーセを殺してしまったら、計画が台無しではないですか。モーセでなくてはならないからモーセを召したのに、なぜそのモーセを殺さなくてはならないのでしょう。神が自ら明らかにされたご計画を、どうして自分自身で妨げるようなことをするのでしょう。

 しかし、神が自らの計画を自分で妨げるようなことをされる話はいくつも聖書に出てきます。皆さんはどのような場面を思い浮かべますか。すぐに思い起こされるのは、例えばアブラハムの物語でしょう。主はアブラハムを召して、「あなたを大いなる国民とする」と言われました。しかし、子供が生まれないままアブラハムもサラも年老いていきました。神の奇跡として生まれたイサクを、今度は焼き尽くすいけにえとして献げよと主は命じられました。アブラハムからすれば、明らかにされた計画と逆行するようなことを神がなさっているようにしか見えないでしょう。しかし、そのような時こそ、そこには深い神の配慮があることを私たちは知らされるのです。

 恐らく実際に起こったことは、旅の途中でモーセが死ぬほどの病気になったという類のことだろうと思います。神の主権という視点からすれば、それは神御自身が殺そうとしていたと表現してもよいだろうと思います。しかし、そこで一つのことが起こります。ツィポラが息子に割礼をほどこしたのです。どうしてモーセは息子に割礼をほどこしていなかったのか。一つには妻が異邦人だからでしょう。そして、ミディアンに逃れたモーセは、ある意味では既にヘブライ人としてのアイデンティティを捨てていたとも言えますから、恐らくツィポラとは一人のエジプト人として結婚したのです。

 しかし、モーセは今や再びエジプトにいるヘブライ人のもとに行こうとしているのです。モーセはヘブライ人として彼らの前に立たねばなりません。その時、息子が無割礼であることは大きな妨げになるかもしれません。そうでなくても、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出すとするならば、モーセとその家族、またその子孫はイスラエルの民として生きて行くことになるのです。当然、息子のゲルショムは割礼を受けていなくてはなりません。ツィポラはそれを良しとするでしょうか。

 しかし、モーセが死にそうになったとき、妻はどういうわけか割礼のことに思い至ったのです。モーセの神、ヘブライ人の主に従わなくてはと思い至ったのかもしれません。彼女は息子のゲルショムに割礼をほどこしました。「血の花婿です」の意味は依然として判然としませんが、それはさておき、この一連の出来事を通して、モーセはエジプトのヘブライ人に遣わされるために備えられたと言うことはできるでしょう。

 そして、アロンと合流し、いよいよイスラエルの人々のもとに向かいます。長く別れていたアロンに、エジプトへと向かう旅の途中で偶然出会うということは普通は起こり得ないことです。しかし、モーセには既にこのことが告げられていました。神が怒りを発した時です。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう」(14節)

 主は既にアロンに向かって「さあ、荒れ野へ行って、モーセに会いなさい」(27節)と命じておられたのです。そのようにして、実際に旅の途中でアロンに出会った時、「まさに主が言われたとおりだ」と思ったに違いありません。そして、心配していたイスラエルの民に関することについても同じことが言えます。モーセはかつての苦い経験から、イスラエルの人々が自分たちを簡単に受け入れてくれるとは思えなかったでしょう。しかし、それでもアロンと一緒に言ってアロンが語った時、「民は信じた。また、主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した」(31節)ということが実現したのです。モーセは思ったに違いありません。「まさに主が言われたとおりだ」。

 そのとおり、神のご計画と救いの御業は、人の思いを超えて進んでいきます。そこで重要なのは、ただ私たちが神の召しに応え、従順に歩もうとすることです。その時に、手にある何の変哲もない杖さえも神の杖となるのです。

2024年1月7日日曜日

「新たな力を得て、鷲のように翼を張って」

イザヤ書 40:25-31

 新年最初の主日礼拝の第一朗読において、私たちは次のような御言葉を与えられました。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(31節)。

待てなくなるとき
 ここに「望みをおく」という言葉が出てきますが、そのように訳されているのは「待つ」という意味の単語です。主を「待つ」のです。「待つ」ということは信仰生活の大事な要素です。私たちは諦めないで、望みを捨てないで、「待つ」ことのできる人になりたいものです。そのような人こそ、天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。

 しかし、このような預言者の言葉が伝えられているというのは、もう一方で「待つ」ということが時として非常に困難だからでしょう。確かに主に祈り続け、訴え続けてもなお事態が一向に変わらないとき、待つことが困難になるのです。

 時は紀元前6世紀、イスラエルの民がバビロニアにて捕囚となっていた時代です。既に捕囚生活が40年以上も続いていました。すぐにも祖国に帰還することができるという希望に燃えていた熱狂の炎もすっかり消えてしまいました。期待をもって未来を見つめる熱いまなざしはもはやそこにはありませんでした。もはや待ち望むべきものなど何もありませんでした。27節に引用されているのは、当時の人々の口に上っていた嘆きの言葉です。「わたしの道は主に隠されている」「わたしの裁きは神に忘れられた」。

 「わたしの道は主に隠されている」とは、わたしがどんな苦しく辛い道を歩んでいても、主は関心をもって見ていてはくれない、ということです。それは長く続く捕囚生活における実感だったのでしょう。天高いところに鎮座ましましてそっぽを向いている神。もしかしたら私たちもそのような神のイメージを思い描いてしまう時があるかもしれません。

 「わたしの裁きは神に忘れられた」も同じことです。「わたしの裁き」は他の訳では「わたしの訴え」「わたしの権利」などと訳されています。どんなに神様に訴えても、どんなに権利が侵害されていても、全く神様は関心をもってくださらない。まさに忘れ去られているとしか思えない。そのように感じる時がもしかしたら私たちにもあるかもしれません。

 そのように神への不信がつのり、待ち望むことができなくなってきますと、内側から弱ってくるのです。29節には「疲れた者」が出てきます。「勢いを失っている者」が出てきます。必ずしも病弱な人や年老いた人の話ではありません。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」ということが書かれています。

 「待つこと」ことができなくなる。未来に何の新しいことをも期待できなくなる。そのような時、年若い者さえも倦み、疲れ、つまずき倒れるようになります。それは私たちも良く知っていることです。本当の疲れは置かれている状況から来るのではありません。待つことができなくなった、その心の中から来るのです。

「なぜ」という神の問いかけ
 しかし、そのような者たちに対して、神が預言者を通して問いかけるのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。

 この「なぜ」という言葉は聖書に繰り返し出てきます。人間の言葉として、祈りの言葉として、「なぜですか」という人間の側からの神への問いかけとして出てくるのです。これは詩編の中の「嘆きの歌」と呼ばれるものに特徴的な言葉です。例えば、良く知られているのは詩編22編でしょう。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(22:2)という言葉から始まる詩編です。イエス様が十字架の上で口にされた詩編の言葉です。恐らく人々が口にしていた嘆きの言葉も完全な形に再現するならば、こうなるのでしょう。「神よ、なぜわたしの道はあなたに隠され、顧みられないのか」「神よ、なぜわたしの裁きは忘れられたのか」。

 そのように嘆きの中で「なぜですか」と問いかけることは私たちにもあると思いますけれど、それは大昔の信仰者たちも皆、経験してきたことなのです。私たちがそのような思いを抱いたとしても、それは何ら特別なことではないのです。そして、嘆きを嘆きとして口に出し、「なぜ」という問いを神に向けることは、時として大事なことなのです。

 しかし、私たちの側から神に向かって「なぜ」と問うだけで終わらせてはならないのです。嘆くときは大いに嘆いたらよいと思いますが、ただ自分の嘆きに留まっていてはならないのです。そこに留まるならば、力を失っていくだけだからです。弱っていくだけだからです。神の前に嘆きを注ぎ出したなら、今度はそこで神の言葉を聞かなくてはならないのです。今度は主が問い返されるのです。「なぜ」と。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。

 主の問いかけは恵みであると言えます。主の「なぜ」は私たちを不信仰と嘆きの穴から引き上げるための問いかけであるからです。主が「なぜそうしているのか」と問われるのは、そうする必要がないことを主は知っておられるからです。「なぜ嘆いているのか」という問いは、「もう嘆く必要はないではないか」という語りかけでもあるのです。

 「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と、わたしの裁きは神に忘れられた、と」(27節)。ならば、もはやそのように語り、断言し、嘆き続けている必要はないのです。どうしてか。預言者を通して主はさらにこう語られるのです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい」(28節)。

聞いたことはないのか

 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と主は問い続けます。そうです。本当は既に知らされていることがあるのです。既にこれまで聞いてきたことがあるはずなのです。私たちの主がどのような御方であるかを既に知らされているのです。ならば思い起こさなくてはならないのです。

 今自分が感じていることに留まっている限り、嘆きの中に留まり続けることになるでしょう。「わたしの道は主に隠されている」と感じているのですから、そこに留まっているかぎり、嘆き続けることになるのです。しかし、主が既に御自身について語ってこられたことがあるのです。主は、多くの言葉をもって、主が「とこしえにいます神」であり、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」であることを既に語っていてくださったはずなのです。今こそ何を聞いてきたのか、何を知らされてきたのかを思い起こさなくてはならないのです。

 「主は、とこしえにいます神」(文字通りには「永遠の神」)とありますが、そこで重要なのは「永遠の昔」でも「永遠の未来」でもありません。「永遠から永遠まで常に」ということです。すなわち、「今ここにおいても」ということです。すなわち、「わたしの道は主に隠されている」と思える今この時も、「わたしの裁きは神に忘れられた」と思える今この時も、ということです。

 神不在と思える現実においても、実は不在などではなく、「その英知は究めがたい」と語られているその英知をもって神は支配しておられるのです。実際、あの時もそうでした。キリストが不当な裁きによって十字架にかけられたその時においてさえ、全地が暗黒に包まれたあの時でさえ、神は全てを支配しておられたのです。そして、実はその時においてこそ、最も大いなる救いの御業が成し遂げられていたのです。確かに「主は、とこしえにいます神」です。

 そして、神は「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」です。実はこれは意訳であって、もともとは「地の果ての造り主」と書かれているのです。しかし、もちろん地の果てを問題にしているのではありません。どこか遠いところにおいてではなく、「ここにおいても」ということです。地の果ての造り主であるならば、今目にしている目の前の世界もまた、主の手の内にあるのだ、ということです。この世界の諸々の問題も、人間の手に負えない諸々の課題も、全て神が造られた世界の中でのことです。主の手が及ばないことは何一つないのです。

 そして、私たちが知らされていること、聞かされていることは、さらには既に救い主が到来したこと、そして救いの御業を成し遂げて、復活されて、やがて完全な救いをもたらすために再びおいでになることにまで及んでいるのでしょう。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と問われるなら、私たちは答えることができるはずです。「主よ、確かに知らされております。聞いております」と。

 ならば、私たちはそこから再びその御方に思いを向けることができるはずです。私たちが知らされている御方、聞かされている御方に心の目をしっかりと向けることができるはずです。私たちは待ち望むべき未来を持っているのです。

 私たちが不信と嘆きの中から再び立ち上がり、主に望みをおくならば、与えられている約束の言葉はこれです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神は私たちに力を与えてくださいます。私たちは天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。私たちは主に望みをおく人として、主に望みを置く神の民として、この新しい年を共に歩んでまいりましょう。


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