2021年12月26日日曜日

「留まっているのか、前に進むのか」

 イザヤ書 49:7-13

 2021年最後の主日となりました。年末年始は一つの区切りです。区切りがあるということはありがたいことです。少なくとも過ぐる365日を振り返り、次の365日をどう生きるかを考える機会となりますから。そこで、今日は同じように一つの時代の区切りを迎えていた人々が耳にした預言者の言葉を通し、私たちへの主の語りかけを聞きたいと思います。

前に進むのか、それとも留まるのか
 本日の礼拝におきましてはイザヤ書の49章が読まれました。今日お読みした箇所の背景となっている一つの区切りとはバビロニア帝国の滅亡です。ネブカドネツァル二世の時代に諸民族を次々に支配下において巨大化していったバビロニア帝国は結局のところ長くは続きませんでした。内部において反乱が繰り返され、紀元前6世紀後半には既に内側から崩壊しつつあったのです。その一方において、新勢力として台頭してきたのはキュロス率いるペルシアでした。そして、紀元前539年、ついにペルシア軍が都バビロンを占領し、バビロニア帝国の歴史は終わりを告げることとなったのです。代わってペルシアの時代が到来したのでした。

 これはバビロンに捕囚となっていたユダの人々の置かれていた境遇が大きく変化することを意味しました。というのも、バビロニアの支配とは異なり、ペルシアの王キュロスは被占領民族に対して非常に寛容な政策を採ったからです。彼は諸民族の文化と宗教を重んじ、また故郷への帰還と再建を許可したのでした。かつてバビロニアの支配下にあった人々にとって、ペルシアの王キュロスは新しい支配者であるよりは、むしろ解放者であったのです。バビロンに捕囚となっていたユダの人々にとっても同じでした。彼らもエルサレムへの帰還と神殿の再建が許されたのです。

 捕囚の民が解放されることについては、既に預言者が語ってきたことでした。その預言の言葉はイザヤ書40章以降に記されています。ちょうど二週間前、主日礼拝においてイザヤ書40章前半が読まれました。そこにおいて「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」(40:1)と語られていましたが、その慰めとは具体的には捕囚からの解放を意味しました。神がなさろうとしていることについては、44章の終わりにはっきりと語られています。主はこう言われるのです。「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う」(44:28)。

 エルサレムが再建される。神殿も再建される。それは50年近く捕囚であった人々にとっては、まことに信じ難い言葉であったに違いありません。しかし、預言者は人々が信じようが信じまいが、とにかく語り続けたのです。神の言葉こそが永遠に立つことを信じて、忍耐強く語り続けたのです。そして、ついに時は満ち、歴史が動きました。先ほど申しましたように、キュロスはバビロンを征服し、翌年、出された勅令によって捕囚の民は解放されたのです。彼らはエルサレムに帰還することができる。再建することができるのです。

 しかし、神の恵みによって実現した捕囚からの解放を、すべての人々が喜んだわけではありませんでした。一つの区切りに立った時、人は二通りに分かれるのです。これを機に前に進む者がいる。しかし、同じところに留まる者もいるのです。

 繰り返しますが、彼らは50年近く捕囚であった人々です。異国の地の生活とはいえ、それなりに生きてきたのです。生活も成り立ってきたのです。既にその地に根ざした産業もありました。また、ダニエル書に出て来るダニエルや友人たちのように、中にはある程度高い地位に就いている人もいたのです。「何を好きこのんでバビロンを離れ、厳しい過酷な旅へと出発しなくてはならないのか。むしろ、このままでよいではないか。」そのように言う人がいたとしても不思議ではないでしょう。

 実際、エルサレムに帰還したからといって、そこでの生活が保障されていたわけではないのです。それでもなお神を信じて一歩を踏み出すのか。それとも同じところに留まるのか。神に期待し神の御業を見るために前に進んでいくのか。それとも「今のままでいいじゃないか」と言って同じところに立ち続けるのか。彼らはその問いの前に立たされていたのです。

 彼らが直面していた問いは、ある区切りに人が立たされた時、いつも直面せざるを得ない問いなのでしょう。ここにいる私たちにとっても同じです。前に進むのか。同じところに留まるのか。2022年を迎えようとしています。そこから始まる365日、神に従って前に進むために具体的な一歩を踏み出すのか。それともこの一年と同じような一年をもう一度繰り返すのか。はっきりしていることは、この繰り返しのトータルが私たちの一生だということです。一生を終える時に、今と同じところに居るつもりなのか。それとも神の御心に従って一歩でも前に進むつもりでいるのか。年の区切りに立つ私たちが問われているのはそういうことなのでしょう。

わたしの救いを地の果てまでもたらす者に
 そこで私たちが考えねばならないもう一つの大事なことがあります。私たちがどちらを選ぶかは、ただ私たち自身だけに関わっているのではない、ということです。

 今日の朗読箇所は7節からでしたが、この言葉は6節と切り離すことはできないのです。6節の終わりにはこう書かれていました。「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(6節)。直接的には預言者に対する言葉ですが、ただ預言者個人ではなく、これは預言者の言葉を聞いている帰還民に対する主の御心でもあるのです。

 主はただ彼らをエルサレムに帰還させようとしているだけではないのです。ただエルサレムを再建させようとしているだけではないのです。そうではなくて、解放された人々を通して、全世界に神の救いが伝えられることこそ、神が望んでおられることなのです。そのような神の大きな目的のもとにあって、7節以下の言葉は語られているのです。

 7節において、彼らについてはこう語られていました。「イスラエルを贖う聖なる神、主は、人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって、言われる」(7節)。

 確かにそのとおりなのです。捕囚の民は、「人々に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者」です。そのような彼らがエルサレムを再建するのは実に困難なことであるに違いありません。しかし、バビロンを後にしてエルサレムへと向かうことは、ただ彼ら自身のためではないのです。そうではなくて、諸国の人々が神を知り、神を畏れ敬うようになるためなのです。先ほどの言葉はこう続きます。「王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主があなたを選ばれたのを見て。」

 もともと力ある者が大きなことを実現したとしても、そこに神のリアリティは見えてはこないでしょう。彼らが人々に侮られている捕囚の民であるからこそ、神が彼らを選び、神が彼らを通して働かれたのだということが見えてくるのです。

 主は言われました。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形作り、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(8‐9節)。ここで繰り返されているのは「わたしは…あなたを」という言葉です。原文ですとより顕著です。主語はあくまでも神なのであって人間ではありません。ここに語られているのは神の御業なのです。

 しかし、その神の御業は、人間が神に従い、自ら一歩を踏み出していく時に現れるのです。9節後半以下には次のように書かれていますでしょう。「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す」(9‐11節)。彼らが飢えることもなく、渇くこともないのは、「憐れみ深い方が彼らを導」いておられ、「彼らを伴って行かれる」からなのです。そして、立ちはだかる山に道が開かれるのは、彼らが同じところに留まるのではなく、神に従って歩んでいくからこそ実現することなのです。そのように、神に従う時に、人は神の御業を見るのです。

 そして、繰り返しますが、それはただ彼らだけのためではないのです。神は御自分の救いを「地の果てまで」もたらそうとしておられるのです。彼らは、そのような神の目的にこそ思いを向けなくてはならないのです。

 さて、ここにいる私たちは何を考えているのでしょう。私たちの思いはどこに向けられているのでしょう。信仰者が自分の救いのことだけを考え、教会が自分たちの救いのことだけを考えるならば、何も荒れ野に向かって旅立つ必要はありません。立ちはだかる山に向かって一歩を踏み出す必要もないでしょう。同じところに留まってもう一年過ごしてもよいのです。一生の終わりが来るまで同じところに留まっていたとしても、自分の救いのことだけを考えているならば、何ら問題はないのでしょう。

 しかし、私たちの信仰生活は自分の救いだけに関わっているのではないのです。主は御自分の救いを地の果てにまで至らせようとしておられるのです。私たちが来たる一年をどう生きるのか、どのような信仰生活を送るのか、私たちが同じところに留まっているのか、それとも神に導かれて「湧き出る水のほとり」に伴われていくのかは、この世界の救いに関わっているのです。

 この年末年始が、私たちにとって単なるカレンダー上の区切りではなく、私たちが信仰の一歩を踏み出す区切りとなりますように。

(祈り)


2021年12月15日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:24~29

 コロサイの信徒への手紙 1:24-29

 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」(24節前半)。――そうパウロは書いていました。パウロがコロサイの教会を愛しているから。もちろんそうです。しかし、それだけではありません。彼はこう続けます。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(同後半)。

 「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」というのは不思議な表現です。しかし、ともかくパウロが自分の苦しみをキリストの苦しみと結びつけていたことは分かります。パウロの苦しみが先にあるのではないのです。キリストの苦しみが先にあるのです。キリストがコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために苦しみを耐え忍んでくださっているのです。パウロはその苦しみの一部を満たしているに過ぎないのです。

 では、その「キリストの苦しみ」とは何なのでしょう。明らかにそれは十字架における罪の贖いのための苦しみではありません。もしそうならば、「キリストの苦しみの欠けたところ」があるはずがないからです。罪の贖いの御業は、完全にキリストの御業なのであって、人間が参加する余地などないのです。そもそも、ここで「苦しみ」と訳されている言葉は、罪の贖いのための苦しみについては一度も使われていない言葉なのです。

 では、何なのか。それはパウロがどのように「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たしていたかを考えれば分かります。パウロの苦しみとは宣教のための苦しみです。彼は言うのです。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。また、彼は言います。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(28‐29節)。

 そのようにパウロの苦しみは宣教のための苦しみです。宣教のための労苦であり闘いなのです。そのためにパウロは投獄さえされたのです。この手紙は獄中から書いているのです。彼は人々を愛し、教会を愛し、神の言葉を伝えるために、キリストを伝えるために苦しみを負ってきたのです。しかし、彼は知っているのです。自分の労苦が先にあるわけではない。そうではなくて、キリストが先にコロサイの教会をも、他の教会をも愛して、喜んで苦しみを担っておられる。自分の苦しみは、その「キリストの苦しみ」の隅っこの一部に過ぎないのだと分かっていたのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」とはそういうことです。

 それでは、さらに近づいて、「キリストの苦しみ」に、またその一部を満たしているパウロの苦しみに目を向けてみましょう。

 先にも触れましたように、パウロはこう言っていました。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。そのように余すことなく伝えるべき「御言葉」とは何であるのか。それは26節に書かれています「秘められた計画」だと言うのです。

 「秘められた計画」は、聖書協会訳では「奥義」となっていました。今や明らかとなったその「奥義」とは何なのか。いや、この問いは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。

 神の救いの御心とご計画は、一人の御方を通して、その十字架の死と復活に至る一人の御人格を通して、完全に現わされたのです。奥義とは、この一人の御方です。キリストです。ですから、御言葉を伝えることを自らの務めとして語っていたパウロは、ここで「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだ、と言うのです。

 そして、キリストが宣べ伝えられる時、そのキリストとは、もはや過去の存在ではないのです。聖霊のお働きにより、生ける御人格として、キリストは人と出会われるのです。そして、キリストが信ずる者たちの内に留まられるのです。ですからパウロは言うのです。「あなたがたの内におられるキリスト」と。

 「あなたがたの内におられるキリスト」――ここで語られている「あなたがた」とは、27節で「異邦人」と呼ばれている「あなたがた」です。その異邦人である「あなたがた」については、21節で次のように語られていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」そのような「あなたがた」です。神に敵対しているのですから、神に裁かれて滅ぼされても仕方のない「あなたがた」です。しかし、そのような「あなたがた」の内にキリストが来てくださったのだ、というのです。「あなたがたの内におられるキリスト」と。

 そして、キリストのおられるところに罪の赦しもまたあるのです。14節に書かれていたとおりです。ゆえに、そこには神と人との和解があり、平和があります。そして、神と人との間が平和であるところにこそ、まことの希望はあるのです。それゆえ、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と語られているのです。

 だからこそ、このキリストをパウロは宣べ伝えているのです。パウロの苦しみはそのための苦しみです。ならば、キリストの苦しみもそのための苦しみです。実際、それがここにいる私たちにも現されたキリストの愛であり、キリストの苦しみではありませんか。ここに異邦人である私たちがいます。かつて神に敵対していた私たちがいます。しかし、キリストはそのような私たちを愛してくださいました。そして、私たちの内におられるキリスト、栄光の希望となるために苦しんでくださいました。

 事実、その「キリストの苦しみ」の一部をその身をもって満たした人たちがいたではありませんか。キリストの苦しみを苦しんだ人たち、自分自身を献げて労苦した人たちがいました。だからここに教会が立っているのです。だから今もなおキリストが宣べ伝えられているのです。私たちの現在は、ただ「キリストの苦しみ」によって成り立っているのです。そのようにして、キリストは「私たちの内におられるキリスト」となられたのです。

 ならば大事なことは何ですか。パウロは言っています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。またこうも言っています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(28節)。「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。

 そうです、大切なことは信仰の踏みとどまること。そして、キリストにあって成熟を目指して進むことです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この方こそ栄光の希望です。そして、今度は私たちが宣教の労苦を担い、キリストの苦しみの一部を満たしていくのです。

(祈り)

2021年12月12日日曜日

「見よ、あなたたちの神」

イザヤ書 40:1‐11

草は枯れ、花はしぼむ
 今日の旧約聖書の朗読では「草は枯れ、花はしぼむ」(7節)という言葉が読まれました。旧約の預言者の言葉です。彼が見つめているのは人間です。彼はそれを「肉なる者」と呼びます。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」(6節)と。その「草は枯れ、花はしぼむ」と言っているのです。私たちは人間の一生を思う時、確かにそうであると言わざるを得ません。草は枯れ、花はしぼみます。

 しかし、この人は、ただ個々の人間の一生を思って語っているのではありません。彼はまた人間の営みによって成り立っている社会そのものをも見つめているのです。人間が積み上げてきたもの。人間が築き上げてきたもの。それもまた肉なるものです。それもまた「草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」なのです。彼は実際に枯れてしまったユダの王国、枯れてしまった野の花であるイスラエルを見て語っているのです。

 時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつては繁栄を極めたユダの王国は崩壊しました。エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。彼は崩壊したユダの国、捕囚となったイスラエルを思いつつ語るのです。「草は枯れ、花はしぼむ」と。

 「栄枯盛衰は世の習い」と言います。栄える時があれば衰退する時もまたある。人間が築き上げていく時があり、その築き上げてきたものが崩壊する時がある。それは今日の社会においても身近に起こってきたことですし、私たち自身も多かれ少なかれ経験してきていることです。

 しかし、この人は単に「栄枯盛衰は世の習い」と言いたいのではなさそうです。「草は枯れ、花はしぼむ」と言った後、彼はこう付け加えるのです。「主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(7節)。彼はそこに「主の風」を見たのです。

 パレスチナの自然においては、東から熱風が吹きつける時、それまで華やかに咲き誇っていたアネモネやケシの花がまたたくまにしおれてしまい、一夜にして茶褐色の野山にもどってしまうと聞いたことがあります。その姿を思いながら、「主の風が吹き付けたのだ」と語る時、彼が思い描いているのは神の裁きに他なりません。言い換えるならば、人間の罪とその結果を思いながらこれを語っているのだということです。

 私たちは往々にして表に現れていることにしか目がいかないものです。栄えたものが衰退する。築き上げてきたものが崩壊する。それを単純に「災い」とか「不幸」と呼んでしまう。しかし、この預言者は、ただ表に現れている枯れ草のような姿やしぼんだ花のようなありさまに目を向けて、「なんと不幸なことか」と嘆いているのではありません。そうではなく、さらに深いところ、それをもたらした本質的な問題、すなわち人間の罪に目を向けていたのです。神に背いているという現実、神に背き続けている現実を見ていたのです。そのような意味において、聖書は「草は枯れ、花はしぼむ」と語るのです。

 それが預言者の見ていた世界であり、それが私たちの見ている世界です。そこで確かに人は、「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れない。正しい神の裁きを思う時、罪深い現実と正直に向き合うならば「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れないのです。しかし、「人」がもはやそこまでしか語り得ないところで、「神」が語られることがあるのです。人間の言葉が終わるところに、神の言葉はあるのです。それゆえに、預言者はもう一度「草は枯れ、花はしぼむ」と繰り返した後、こう続けるのです。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。

 とこしえに立つのは、永遠であるのは、人間が語る言葉ではなくて、神が語る言葉なのです。では、神は何を語られるのでしょう。「草は枯れ、花はしぼむ」としか言えない人間の現実に対して、何を語られるのでしょう。枯れ草としぼんだ花を目にしていた預言者が聞いたのはこのような言葉でした。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」。1節の言葉です。

見よ、あなたたちの神
 「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(1節)。「慰める」とは、単に悲しみを和らげることではありません。これは励まし力づけることを意味します。励まし力づけるのは立ち上がらせるためです。希望のない者たちが希望を得、命のない枯れ草が再び生き返って立ち上がるためです。

 神がそのことを望んでいてくださる。しかも、神は「《わたしの民を》慰めよ」と言ってくださったのです。神は御自分に背き続け、ついに枯れ草のようになった人々を、いまだに「わたしの民」と呼んでくださるのです。神は今もなお「あなたたちの神」だと言ってくださるのです。そのように神は憐れんでくださる。神は赦してくださる。だから「草は枯れ、花はしぼむ」で終わらないのです。

 さらに天からの声はこう続きます。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」(3‐4節)。勝利を得た王が凱旋する時のように広い道を備えて通せと言われる。それは神が来てくださるからです。

 ですから9節にはこう書かれているのです。「見よ、あなたたちの神」。何を意味しますか。神に背いて枯れてしまった枯れ草が、神に背いてしぼんでしまった花が、それでもなお「わたしの神、わたしたちの神」として神を見上げることができるということです。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」(9‐10節)。

 神が来られる。力を帯びて来られる。その力は滅ぼすための力ではありません。なぜなら、その神は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言ってくださる神だからです。神は救うために来てくださるのです。そして、恵みをもって治めるために来てくださるのです。人はこの神と共に、再び生きることができるのです。

 ならば、もはや朽ちていくだけの枯れ草ではありません。まったく異なる描写がそこにあります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(11節)。そこで人はもはや望みなき者として生きる必要はありません。人はもはや見捨てられた者のように生きる必要はありません。主に養われる羊の群れとして生きることが許されているのです。

 このように、救いをもたらす神の支配の到来――これこそ、人間がもはや何も語り得ないところでなお神が語られることなのです。とこしえに立つ神の言葉がそこにあるのです。

力を帯びて来られた神
 さて、本日の福音書朗読においては、マルコによる福音書の冒頭の言葉が読まれました。そこにはこう書かれていました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:1‐4)。

 ここで再び私たちはあの旧約の預言者が聞いた言葉を耳にすることになります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」主の道を整えるのは何のため。神の支配が到来するためです。そのようにして来られた御方こそが、イエス・キリストに他ならないのです。

 しかし、「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」と語られたあの言葉は本当に実現したのでしょうか。この世界が見たのは、およそこの世の力とはかけ離れた御方ではなかったでしょうか。その御方は、この世の権力によって十字架にかけられ殺されてしまったではありませんか。しかし、そのようなキリストにこそ、聖書は《力を帯びて来られた神》を見ているのです。その御方において確かに神の支配が到来したと語るのです。確かに神は統治するために来られた、と。

 それは、この世の権力や武力の支配とは全く異なる支配です。それはある意味で当然のことでしょう。神の支配が人間の支配と同じであろうはずがありません。そもそも権力や武力は人の心まで支配することはできないのです。人は従順に振る舞いながら、後ろを向いて唾を吐くことができるのです。人の心まで、人格の最も深いところまで支配するのは、真の力によるのです。それは何か。愛の力です。神の愛の力です。

 ナザレのイエスという一人の御方において、神は確かに力を帯びて来られたのです。そして、神の力、神の愛の力は、あの罪の贖いの十字架とキリストの復活において完全に現されたのです。そして、その御力をもって、主は統治されるのです。実際、私たちはこの世の権力によって強制されてここにいるのではないでしょう。私たちは確かに、主の愛の力によるご支配のゆえに、ここにいるのです。主の愛のご支配のゆえに、自らを献げ、仕えて生きようとしているのです。

 私たちは主の風が吹き付けるならば滅びるしかないこの世界に生きています。私たちは、主の風が吹くならば滅びるしかない「肉なる者」に過ぎません。しかし、そこにおいてもはや「草は枯れ、花はしぼむ」としか語り得ない私たちに、神は永遠に揺らぐことのない救いの御言葉をもって、今日も私たちに呼びかけていてくださいます。「見よ、あなたたちの神」と。
 
(祈り)

2021年12月8日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:21~23

 コロサイの信徒への手紙 1:21-23

 私たちは主の日に礼拝をささげるために集まります。こうして祈祷会にも集まって祈ります。そのように私たちは神に祈りながら生活しています。しかし、そのような生活はこの国においては一般的ではないことを知っています。日曜日に教会に集まる人は、この国においては圧倒的に少数です。ですから、ともすると私たちは何か特別なことをしているかのように思ってしまいます。しかし、聖書の見方は違います。私たちは何も特別なことをしているわけではありません。本来の姿に戻って、本来のしているはずのことをしているだけなのです。

 今日の聖書箇所にはこう書かれていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(21節)。「あなたがた」とはコロサイのキリスト者です。特に異邦人キリスト者を念頭に置いて語っているのでしょう。彼らにとっての「以前は」は、もちろんキリスト者となる以前です。キリスト者となる以前、彼らは神とは無関係に生きていたことでしょう。実際、この国においても多くの人は自分は神とは関係ないと思って生きていると思います。なので、キリスト者の中にも、信仰を持っていない人に神は無関係であると思っている人もいなくはありません。

 しかし、本当に無関係なのでしょうか。パウロは「「あなたがたは、以前は神から離れ」ていたと語るのです。本来、無関係であるならば、「離れていた」ことが語られることに意味はありません。「神から離れていた」と語られているのは、人間が本来神と無関係ではないからです。すべての人間が本来神と共にあるべき存在だからです。しかし、離れてしまっていた。いやそれだけではありません。「心の中で敵対していた」というのです。これが聖書の見方です。神と関係なく生きているそのことこそが、まさに心における神への敵対であり、そこにあるのは「悪い行い」なのだというのです。

 「あなたがたは、以前は神から離れ・・」。遠ざけていたのは神の方ではありません。人間が、その行いによって、そして、その心において、神を遠ざけていたのです。イエス様はそんな私たちの姿を、父のもとから去って行った放蕩息子に喩えました。そこにある最大の悪は何であるのか。あの息子が放蕩に身を持ち崩したことではないのです。父のもとから離れることを願い求めたこと、そして実際に無関係に生活したことなのです。

 しかし、そのように神から離れていた私たちに対して、神がしてくださったことを聖書は次のように語っています。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(22節)。

 まず書かれているのは、神が和解してくださったということです。背いている者と和解してくださったというのですから、それは言い換えるならば「赦してくださった」ということです。しかし、そこにはただ「和解してくださった」「赦してくださった」ということだけが書かれているのではありません。「御子の肉の体において、その死によって」と書かれているのです。

 「御子の肉の体において」とは、御子が人となられたことを指しています。イエス・キリストという御方の話です。「その死によって」とは、そのイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったということです。そのことによって、そのことのゆえに、神は「赦してくださった」というのです。

 赦していただくとするならば、本来は赦していただく方が犠牲を払うのでしょう。これだけのことをしますから。これだけの苦しみを負いますから。だから赦してください、と。そして、償いきれなければ、赦しを求めることはできなくなるのでしょう。しかし、神は人間の側に償いの犠牲を求めることはなさらなかったのです。ただ「御子の肉の体において、その死によって和解してくださった」というのです。和解のために受けるべき杯は、私たちではなく、イエス様が苦しんで受けてくださったのです。

 そして、「御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」と続きます。「してくださいました」と訳されていますが、原文では「立たせてくださいました」という言葉が使われています。「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として、御自分の前に立たせてくださった」と書かれているのです。

 私たちは現在においては「きずのない者」でも「とがめるところのない者」でもないことをよく知っています。「聖なる者」が私たちの完全であることを意味するならば、とても自分についてそのように語ることはできないでしょう。私たちは神から離れ、神に背いて生きていたというだけでなく、神から離れ、神に背いてきた私たちの罪は私たちの現在の生活の深いところにまで及んでいるのです。神に立ち帰った今もなお、肉においてそこに宿る罪との戦いは続いているのです。

 しかし、そのような私たちを、神は「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのです。神はそのような者として私たちを見ていてくださる。それは私たちが何をしたかではなく、ただ「御子の肉の体において、その死によって」なのです。それが「和解してくださった」「赦してくださった」ということです。だからこそ、私たちは神の御前において礼拝をささげているのです。だからこそ、私たちははばかることなく神に近づいて祈ることができるのです。

 そして、そこにこそ私たちの希望があるのです。神が今、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのならば、やがて神がそのような者としてくださるからです。神の始められた救いは必ず完成するからです。そのような者として立たせてくださったのなら、終わりの日には、文字通り、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として立つことになるのです。

 それゆえに、このように勧められています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。必要なことは多くはありません。信仰に踏みとどまり、希望から離れないことです。

 ここで「揺るぐことなく踏みとどまる」と訳されているのは、「土台の上にしっかりと立ち続ける」という意味の言葉です。既に述べてきたように、すべてはキリストによるのです。信仰の土台はキリストです。その土台の上に立ち続け、キリストを信じる信仰に踏みとどまるのです。そして、すべての希望はキリストによるのです。
(祈り)

2021年12月5日日曜日

「神の言葉を聞いて生きるために」

 マルコによる福音書 7:1‐13

心は神から遠く離れている
 ファリサイ派の人たちがイエス様に尋ねました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)。実際、イエス様の弟子たちは手を洗わないで食事をしていたのです。それに対して、「不衛生じゃないか」と言っているのではありません。「なぜ、あなたの弟子たちは、手を洗うという宗教儀式を行わないで食事をしているのか。どうして昔の人の言い伝えに従って生活しないのか」と言っているのです。

 彼らが守ってきた「昔の人の言い伝え」は、ずいぶんたくさんあったようです。ここに実例が出ています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3‐4節)。

 そのようにたくさんあった「昔の人の言い伝え」は、もともと神の御心に従って生きたいという熱意から生まれてきたものでした。あるいは神の御心に反することはしたくないという聖なる畏れから生まれてきたものでした。彼らは神を愛し従うということを観念的なこととはせずに、具体的な生活において実践しようとしたのです。そのために、モーセの律法の言葉を解釈し、現実の生活に適用したのです。あるいはうっかり御心に反することをしてしまわないように、いわば垣根を巡らすように様々な細かい規定を定めたのです。そのように、「昔の人の言い伝え」は、もともとは良い意図から定められてきたものでありますし、神を愛する心によって伝えられてきたものなのです。

 しかし、あることが定められ、皆によって行われるようになってしばらく経ちますと、その定めそのものが一人歩きを始めるようになります。ただ「定められたことを守る」ということが重要になり、もともとの心が抜け落ちて形だけが残るということも起こってまいります。ファリサイ派の人たちは、ある意味では極めて真面目な人たちでした。行うことになっていることはきちんと行う。定められていることはきちんと守るのです。しかし、そこには心がない。神に向けられた心がない。その事実をイエス様は見抜いておられたのです。

 それゆえにイエス様は非常に厳しい言葉をもって彼らの現実を指摘されたのです。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(6‐8節)。

 「その心はわたしから遠く離れている」。どんなに敬虔な行為であっても、「定められているから守る」というだけでは意味がないのです。何かを行うとするならば、大事なのは心なのです。神に向けられた心なのです。

 何かを行う時に、心がそこにないならば、今日の聖書箇所のようなことが起こります。神に向けられた、神を愛する心から行うのではなく、「定められているから守る」ということをしていますと、守っていない人、きちんと行っていない人に対して批判的になります。そして、人を非難したり批判したりすることに一生懸命になっていると、実は一番重大なこと、その心が神から遠く離れていることに気付かなくなってしまうのです。

 今日の聖書箇所に登場してきた人たちは、「エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」と書かれています。エルサレムからイエス様のいるゲネサレトまで、百キロちかくはあります。そんな遠くからわざわざやってきたのです。イエスとその弟子たちのあら探しをし、批判するためにやってきたのです。これが初めてではありません。既に3章において、エルサレムからやってきた律法学者たちがイエス様を批判し、論争をしています。

 イエス様の周りには豊かな神の恵みが目に見える形で現れていたのでしょう。イエス様とその弟子たちを通して、神がなさっている素晴らしいことがあるのでしょう。しかし、そこには目が行かない。彼らは「洗わない手で食事をする」という弟子たちのあらを目ざとく見出します。口にするのは、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」という言葉です。「自分たちは昔の人の言い伝えに従って歩んでいる」という自負があるからです。

 そのような彼らに主は言われました。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)。そして更に、イエス様はこう言われました。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」(9節)。ここで「神の掟」と「人間の言い伝え」また「自分の言い伝え」が対比されています。「神の掟」という時に、大事なのは「神の」という部分なのでしょう。その心が神から遠く離れているならば、神に心が向けられていないなら、どんなに細かい定めを真面目に守っていたとしても、どんなに一生懸命なすべきことを守っていたとしても、それは所詮「人間の言い伝え」を守っているに過ぎないのです。

神の言葉を無にしない
 さて、先週から教会の暦においてはアドベント(待降節)という季節に入りました。クリスマスに向かうこの期間は、私たち自身を振り返る時です。さて、私たちはどうでしょう。心はどこにありますでしょうか。神から遠く離れていないでしょうか。

 御子は人となってこの世界に来られました。私たちは今年もクリスマスにおいて、この世界にキリストが来られたことを祝おうとしています。その御方によって、私たちは罪を赦されて、義とされて、神との交わりの中に入れていただきました。神を天の父と呼んで、神を仰いで、神の子どもたちとして共に生きる生活を与えていただきました。にもかかわらず、私たちの心が神から遠く離れているならば、それはまことに悲しむべきことです。

 そこで私たちが特に心に留めなくてはならないのは、ファリサイ派の人々と律法学者たちに主が言われたこの言葉です。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」(13節)。それが彼らの問題だったのです。ならば重要なことは「神の言葉を無にしない」ということなのでしょう。

 しかし、「神の言葉を無にしない」とはどういうことでしょう。ユダヤ人の世界において、「神の言葉」と言ったら、それはまず「聖書」だったのです。そして、ある意味で彼らは聖書を無にしてはいないのです。そこにいたのは律法学者たちです。律法の専門家です。聖書の専門家なのです。「受け継いだ言い伝え」も、それはつまるところ聖書の言葉の解釈です。彼らは聖書を重んじています。粗末になんかしていません。しかし、イエス様は彼らが「神の言葉を無にしている」と言われるのです。どうしてでしょう。

 主は実例を挙げて説明しています。「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と」(10‐12節)。これが実例です。「神の言葉を無にしている」実例です。

 「コルバン」というのは「供え物」を表わすヘブライ語です。「コルバン」すなわち「供え物」についての律法は、旧約聖書のレビ記などに事細かに出ています。それによるならば、「コルバン(供え物)」は神に捧げた神聖な物なので、他の日常のことに使うことは出来ないのです。これが「コルバンの規定」です。彼らは確かにそれを守っているのです。先祖がしてきたように、イエス様の時代の人も守っているのです。

 しかし、そこでこういうことが起こっていたというのです。たとえば、子が親と仲たがいして、自分の持っているものを親の扶養のために使いたくないと思ったとします。そこで彼は言います。「私の持っているものはコルバン用なので、あなたのために用いることは出来ません」と親に言ったとする。するとそれは日常の用途に使えませんから、親を扶養するためにも使わなくてよいのです。

 その場合、確かに形の上ではコルバンの規定を守っています。しかし、そんなことを神様は望んでおられるのでしょうか。彼らは神様が望んでおられることを聖書から聞き取っていたのでしょうか。神様の心を聞き取っていたのでしょうか。明らかに神様はそのようなことを望んではおられない。彼らは聖書の言葉を自分に都合よく利用していたに過ぎません。

 言葉というものは心を伝えるものです。そして、相手の心は自分の心が共にある時に、初めて聞くことができるのです。心がそこにないならば、相手の心は聞けません。神の心も同じです。神の心を聞いていなければ、神の言葉を聞いたことにはならないのです。

 私たちの心が特に問題になるのは、聖書に向かう時であり、聖書の言葉を耳にする時です。心はどこにありますか。今こうしている時、心はどこにありますか。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と、神はここにいる私たちにも言われるでしょうか。

 アドベントの第二週に入りました。私たちはこの期間を通して、私たちの心があるべきところに立ち帰らせていただきましょう。神の言葉を無にしてはなりません。本当の意味で神の言葉を聞いて生きる生活をひたすら求めてまいりましょう。

(祈り)

2021年12月1日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:15~20

コロサイの信徒への手紙 1:15-20

 初めに15節から17節までをお読みしましょう。この部分は当時の讃美歌の一部であろうと言われています。ここには万物の創造のみ業との関連においてキリストが語られています。

 その冒頭には「御子は、見えない神の姿であり」と書かれています。「見えない神」――確かに神は本質的に人間の目には見えません。それは単に肉眼で見えないということよりも、人と神とはどれほど隔たっているかということを現わしている言葉です。

 人と神とは絶対的に異なる存在です。神と人との間にはなんらの連続性もありません。神ならぬ偶像ならば人間との絶対的な差異を問題にしなくて良いのでしょう。人間が作った神ならば人間が知り得ること理解できることを前提で語ることができるのでしょう。しかし、まことの神であるならば、見えない、知り得ないのは当然なのです。その見えない、知り得ないはずの神を啓示し、見せてくださった御方、それが御子・キリストなのです。「御子は、見えない神の姿であり」とはそういうことです。

 いや神が「見えない」というのは、単に人間と神の本質的な隔たりだけを意味するのではありません。それが意味するのは罪による隔たりでもあります。讃美歌66番「聖なる、聖なる」の3節において次のように歌われています。「聖なる、聖なる、聖なるかな、罪ある目には見えねども…」。罪ある目に神は見えません。罪あるゆえに、人間は神の本来の姿を知りません。そうです、私たちは神の本来の姿を知り得ないのです。

 皆さんの多くは、旧約聖書の多くの場面に描かれている神の姿に、何らかの違和感を覚えたことがあるに違いありません。怒りに満ちて皆殺しを命じる神。罪の裁きと滅びを宣言される神。しかし、それは神の本来の姿ではないのです。そのような姿として神が啓示されているのは、そのような姿としてしか神を知り得なかったのは、人間に罪があるからです。人間と神との関係が歪んでいるからです。壊れているからです。

 そのような人間に対して、人間が創造される以前にまで戻って、万物を創造し、これを良しとされたあの本来の神の姿、溢れ出る愛において天地を創造した神の本来の姿を完全に見せてくださったのは、御子なる神なのです。御子こそ、天地創造において働いた神の愛そのものだからです。ですからパウロはここでさらに筆を進めて、万物は「御子において」「御子によって」造られたのだ、と記しているのです。

 そのように万物の創造において働いた神の愛そのものである御方が、肉をとられ、人間となって、私たちが足を置いているこの同じ地上を歩まれました。それがナザレのイエスという御方です。その御方が復活されて「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言ってくださったのです。その御方こそが「教会の頭」なのです。

 「教会の頭」であり、私たちと共にいてくださる方は、そのように計り知れなく大きな御方です。はたしてそのような意識を持ってキリストと共に歩んでいるだろうかと考えさせられます。私たちはしばしば見える現実の方がキリストよりも大きいと考えているのです。私たちが抱えている問題の方がキリストよりも大きいと考えているのです。この世界の存続を脅かしている諸問題は確かに大きいかもしれません。しかし、キリストよりも大きいわけではありません。所詮は被造物世界の中の事柄です。あの御方はこの被造物世界を造られた御方です。私たちはそのような御方を「われらの主」として信じているのです。

 そして、「御子において」「御子によって」だけでなく「御子のために」とも書かれています。御子は万物の目的でもあるのです。万物は御子との関わりにおいて、初めて存在の意味を得るのです。人間について言うならば、御子に向いていてこそ、人は本当の意味で生きるのです。目的を決めるのは被造物ではなく創造主だからです。

 私たちが創造主の目的とするところを離れて、どんなに「自分の人生の意味は何であるか」と問うたところで、その問いに答えが見つかるはずはありません。人間の手を離れて部屋の隅に転がっているボールペンが「わが存在の目的は何ぞや」と悩んでいる姿を想像してみてください。滑稽ではありませんか。目的は造られた側ではなく造った側が決めるのです。

 逆に言えば、私たちがどんなに自分の存在意義を見いだせないような状態になっても、大丈夫なのです。御子に向いているならば大丈夫なのです。あなたは御子のために存在しているのだよ、と神は言ってくださるからです。キリストこそ万物の目的です。

 さて、15節から17節までに、創造の御業との関連でキリストが語られているとするならば、18節以下には、更に、救いの御業との関連においてキリストが語られています。

 先ほどお読みしましたところに「御子は、見えない神の姿であり」とありましたが、19節においては「満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」と書かれています。つまり、御子のうちには父なる神様ご自身のあらゆる良きものが満ち満ちていたということで。

 しかし、その御子が十字架にかかられて死なれました。見えない神の姿であられる方が十字架にかかられて死なれました。万物創造の業を担われた方、万物の目的であられる方が、ただ一度この地上に人間として現れ、人間の手によって十字架にかけられて死なれたというのです。父なる神がそれをよしとされました。満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせてくださった父は、その御子が十字架の上で血を流すことをよしとされました。

 ここに記されていることを一言一言噛み締めながら読んでいきますならば、20節に書かれている「十字架の血によって」という言葉は私たちの想像を絶するような出来事であることが分かります。その言葉にいつのまにか驚きも感動も覚えなくなっているとするならば、やはり私たちのキリスト理解はどこかおかしくなっているのです。

 神の目的は単に人に自らを啓示するということに留まりませんでした。それは万物をご自身と和解させるためでした。なぜ「人間」だけでなく「万物」と言われているかと申しますと、人間が罪を犯したため、人間のみならず全ての被造物が神のもとにある正しい秩序から外れてしまったからです。その結果、人間だけが罪の中で呻き苦しんでいるのではなくて、万物が呻いているのです。ローマの信徒への手紙8章に書かれている通りです。

 人間の罪が問題なのですから、万物の回復のためには人間の罪が処理されなくてはなりません。しかも神にふさわしい、義しい仕方で処理されなくてはなりません。それは罪をただ赦すことではなくて、罪を裁いた上で赦すことでした。これが神の義です。神は罪を裁かれました。御子を十字架にかけ、血を流すことによってでした。「十字架の血によって」とはそういうことです。

 万物の創造に関わられた万物の目的である方が血を流して死なれるということは、私たちの理解を越えた、驚くべき出来事です。それは、人が神と和解して共に生きるということが、決して簡単な小さなことではないことを示しています。それは、本当は人知を越えたとてつもなく大きな出来事なのです。

 実際、事柄の大きさを私たちが理解しないために、罪の赦しも、神を礼拝できることも、神に祈れることも、あたかも当然のことであるかのように考えるようになり、そして粗末にするようになってしまうのでしょう。それゆえに、私たちはキリストをどのように理解するかが、私たちの信仰生活において、決定的に重要な意味を持っているのです。
 

2021年11月28日日曜日

「終わりを見つめつつ現在を生きる」

テサロニケの信徒への手紙一 5:1‐11

身を慎んでいましょう
 教会の暦では今日から待降節(アドベント)に入ります。教会暦においては一年の初めということになります。しかし、この季節はむしろ「終わり」について思い巡らす期間とされてきました。世の終わりにおける「キリストの再臨」を思う季節です。

 そのような待降節の最初の主日に読まれたのは次のような言葉でした。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(1‐2節)。

 福音書においてもイエス様がこう言っておられました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(マルコ13:32‐33)。

 「その日、その時はだれも知らない」。「子も知らない」。イエス様も知らない。しかし、もし仮にイエス様が知っていたとしても教えなかったに違いありません。なぜなら、イエス様が一番おっしゃりたいのは「目を覚ましていなさい」ということだからです。それは「終わり」ではなく「現在」に関することです。終わりの日を特定したならば、人が問題とするのは「その日」でしょう。しかし、その日が教えられていなければ、常に「現在」が問題となります。それこそが主の意図するところなのです。

 ですから、今日お読みしたパウロの手紙でもこう書かれています。「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(6節)。ここには「目を覚ます」という言葉と共に「身を慎む」という言葉が出てきます。これは酔っていないこと、しらふであることを意味する言葉です。と言いましても、これは禁酒の勧めではありません。酔っていないということは、要するに、現実的に生きているということです。

 現実的に生きるとはどういうことか。それは「終わりを見つめつつ現在を生きる」ということです。なぜなら「終わり」が必ず来るというのが「現実」だからです。私たちの人生の終わりが先に来るのか、世の終わりが先に来るのかは分かりません。しかし、終わりは必ず来る。その終わりを考えずに生きることは、聖書の観点から言えば現実逃避なのであって、それは酔っているのと変わらないのです。

 私たちは、終わりが来ないかのように生活している日常から、繰り返し、引き出されなくてはなりません。そして、繰り返し、現実の中に正しく据え直されなくてはなりません。主の日の礼拝というのは、ある意味でそのような時と場でありますし、アドベントもまた、そのために繰り返し与えられている特別な季節であるとも言えます。

 そのように、繰り返し現実の中に正しく据え直されて、私たちが見つめるべき「終わり」は、2節において「主の日」と表現されています。それは神が最終的に正しく世を裁かれる日に他なりません。それは私たちの罪が本当の意味で明らかにされる日でもあります。それは人間のごまかしがもはや通用しなくなる日です。それゆえにまた、それは今日の聖書箇所にありますように、人間が口にする「無事だ。安全だ」という言葉もまた通用しなくなる日でもあります。終わりが来ないかのように生きているなら、それが現実的ではなかったことが明らかになる日でもあります。

 そのような「主の日」が来るのです。しかし、私たちはただ恐怖におののきながらその日を見つめるのではありません。私たちに伝えられていることがあるからです。伝えられている良き知らせがあるからです。今日の箇所にも書かれていました。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」(9節)。そのことを私たちは既に知らされているのです。

 「主イエス・キリストによる救いにあずからせる」ために、神はキリストを死に渡されました。10節には、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と書かれています。つまりその日が来たときに、私たちが「目覚めていても眠っていても」すなわち、生きていても死んでいても、私たちが主と共に生きることを、神は望んでくださったのです。そのようにして、「主の日」を恐るべき時ではなく、喜びをもって待ち望むべき時としてくださったのです。5節にあるように、「光の子、昼の子」としていただいたとは、そういうことです。

信仰と愛と希望
 ならば、私たちはこの恵みを無駄にしてはならないのです。私たちは、「昼の子」としていただいたのですから、昼に属する者として生きることが求められているのです。それゆえにこう語られているのです。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(8節)。

 私たちは終わりをしっかり見つめつつ現在を生きるために、特にこの言葉を心に留めたいと思います。ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てまいります。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。これらを武具のように身に着けなさい。かぶりなさいと言うことです。

 実は「信仰」と「愛」と「希望」がセットで出て来るのはこの手紙において初めてではありません。1章にも次のような表現において出てきます。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(1:2‐3)。

 そこには「信仰によって働き」という言葉が出てきました。直訳すると「信仰の行い」となります。また「愛のために労苦し」とも書かれています。直訳すると「愛の労苦」です。そして、「希望を持って忍耐している」と書かれていました。直訳すると「希望の忍耐」となります。「信仰の行い」「愛の労苦」「希望の忍耐」。そのように、「信仰」「愛」「希望」は単に心の中の出来事ではありません。具体的な形を取るのです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」という言葉を聞く時にも、そのことを念頭に置いておく必要があるのです。

 「信仰の行い」。――もちろん、私たちは「行い」によって救われるのではありません。聖書が次のように語っているとおりです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8-9)。そのように、救いは一方的な神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。しかし、一方的な神の恵みによって救いにあずかったのならば、そこには当然、感謝の応答として行いが生まれてくるはずです。それが「信仰の行い」です。

 この世の原理はギブ・アンド・テイクです。何かを「行う」ならば「報い」を求める。しかし、そのようなギブ・アンド・テイクを前提にした行いではなくて、純粋に神への感謝から生まれる「信仰の行い」を主は望んでおられる。そのような「信仰の行い」が私たちの人生を形作り、教会を形作るものとなることを主は望んでおられるのです。それこそが、信仰によって救われた者が信仰を身に着けるということなのです。

 次に、「愛の労苦」。――愛するということは、単に好きになることではありません。自分のために誰かを求めることを聖書は「愛」と呼びません。聖書において「愛」が「労苦」と結びつけられていることを、私たちは心に刻んでおく必要があります。それは他者に仕えることと結びついているということです。ならばその源は、神でありキリストであると言うことができます。主は「仕えられるためではなく仕えるために」来られたと言われました(マルコ10:45)。私たちから始まっているのではありません。初めにキリストにおいて現された神の愛の労苦があるのです。神の愛の労苦のゆえに、私たちは今あるを得ているのです。その愛の労苦に応えて私たちが愛する者となり、他者のために愛の労苦を担う者となっていくこと、それこそが愛を身に着けるということなのです。

 そして、「希望の忍耐」。これもまた味わい深い言葉です。「忍耐」について語られているのは苦しみがあるからでしょう。この世においては苦しみがある。それは信仰者においても同じです。いや、迫害の時代には、信仰のゆえにより大きな苦しみの中に置かれることもあったのです。そして、私たちも良く知っているように、苦しみは人を神から引き離す力として働きます。その意味で試練は誘惑ともなり得ます。そこで必要なのは信仰に留まる忍耐です。

 その忍耐はどこから来るのか。それは「希望」なのです。希望こそ苦しみに打ち勝つ力となるのです。特に今日お読みした5章においては「救いの希望」と書かれていました。終わりを見つめつつ現在を生きる。その「終わり」には既に申しましたように、神による完全な救いがあるのです。どのような苦しみの中にあっても、そこから目を離さない。救いの希望を絶対に手放さない。それが「救いの希望を兜としてかぶる」ということです。

 そのように、「信仰」と「愛」と「希望」を身に着けるように勧められているのは、既に与えられているからです。与えられていないものを身に着けることはできませんから。既に与えられているものを、私たちはこの世の生活において、本当の意味で自分のものにしていくのです。そこで重要なのは次の勧めです。「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」(11節)。

 人が信仰者として生きるには、他の信仰者の助けを必要です。信仰と希望と愛を自分の身に着けるためには、手を貸してくれる他者の手が必要です。私たちはそのような「お互い」となるべく、集められているのです。信仰を励まし合い、支え合う信仰の友を求めましょう。そして、自分自身が信仰を励まし合い、支え合う誰かの友となることを求めましょう。本当の意味で終わりを見つめつつ現在を生きるためには、そのことが必要なのです。

(祈り)

2021年11月24日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:9~14

コロサイの信徒への手紙 1:9-14

 今日の箇所にはパウロの祈りが記されております。これは今日の私たちにも大きな意味を持っています。信仰者として何を切に求めるべきかを教えてくれるからです。しかし、今日は祈りの内容に入ります前に、先に13節14節をお読みしたいと思います。というのも、ここにパウロの祈りの根拠が明らかにされているからです。この部分は当時の教会における信仰告白の一部であると言われています。パウロはコロサイの人たちに、主から教会に与えられている正統的な信仰を思い起こさせているのです。その信仰こそが、パウロの祈りの根拠であり、またこの後に展開していく手紙の内容の根拠となっているのです。

 ここには父なる神が私たちに与えてくださった救いが、実に簡潔に表現されています。救いが必要なのは救われなくてはならない状態にあるからです。それをこの信仰告白では「闇の力から」と表現しています。つまり人間は闇の力のもとにあるのだ、ということです。ここに書かれていることに一番近いのは、恐らく使徒言行録26章16節以下でパウロが証ししているキリストの言葉でしょう。

 「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。…それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」(使徒26・16‐18)。

 ここで、「闇から光へ」という言葉が「サタンの支配から神に」と言い換えられています。このように、闇の力とは神に敵対する力であり、サタンの支配に他なりません。私たちがそのような闇の力から救われるためには、より大きな権威のもとに移されなくてはならないのです。そして、そのように父なる神はしてくださったと言うのです。父なる神の愛する御子、すなわち復活されたキリストの御支配のもとにおいてくださったのです。復活のキリストこそ「天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)と言われる御方です。その御方の支配下に移されたのです。

 確かに、悪魔は今も猛威を振るっています。私たちの生活にも影響を及ぼします。しかし、キリストのもとにある限り最終的には勝利が定まっているのです。滅びることはないのです。悪魔は私たちの持ち物を攻撃することができるかもしれません。あるいは私たちの肉体を攻めることができるかもしれません。しかし、私たちを最終的に神の愛から引き離し、滅ぼすことはできないのです(ローマ8:38‐39)。

 神様は、御子による贖いによって、罪の赦しによって、このことをなしてくださいました。ここに救いの根拠があります。14節に書かれている通りです。神はサタンの下にあって罪を犯してきた私たちを裁いて滅ぼしてしまうのではなく、キリストの十字架のゆえに罪を赦してくださり、キリストの支配のもとに移し、キリストの下で新たに生きる者としてくださったのです。

 そのような恵みに与った私たちは何を切に求めるべきなのか。それを示しているのが9節から12節に記されているパウロの祈りです。この祈りの言葉において多くの事が祈られているように見えますが、実は、中心となる動詞は一つしかありません。それは「神の御心を十分に悟り」と訳されている言葉です。これこそが第一に求められているのです。

 コロサイの人たちも私たちも、もともと神の御心に無頓着な生活をしていたのです。造られたものが造り主の目的とは外れたところで、自分の欲するままに生きていたのです。それこそがまさに闇の力のもとにあることの現われでした。私たちを造られ、私たちを愛しておられる御方の御心を知らないことは不幸なことです。しかし、神はそのような私たちをキリストの支配のもとに移してくださいました。そうして神との交わりの中に生きる者とされたのです。ならば、私たちがまず求めるべきことは、神の御心を知ることです。

 神の御心が知られるのは、「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって」であると書かれています。人間の知性や理性の働きによるのではないのです。あくまでも聖霊の働きによるのです。ですから、そのためにはどうしたらよいのでしょうか。パウロがしているように祈り求めなくてはならないのです。

 では御心を知るのは何のためでしょうか。10節に書いてありますように、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩むためです。「歩む」という言葉は生活を意味します。つまり、特殊な宗教的な場においてではなくて、日常の生活においてということです。そこで主に喜ばれることを求め、主に従って生活するのです。「主に従って」とは、直訳すると「主にふさわしく」という言葉です。主に喜ばれるように主にふさわしく生活するということです。それでは「主にふさわしく生活する」とはどういうことでしょうか。ここに3つのことが挙げられています。

 第一に、「あらゆる善い業を行なって実を結び、神をますます深く知る」ということです。善い業とは神の御心にかなった業のことです。大切なことは、御心を行なって神の御業としての実が結ばれるのを見せていただき、ますます神様深く知るようになることです。善い行いとして、外側の行為としては同じであっても、それによって自分に栄光を帰し、神にではなく自分に思いが向けられていくならば、「主にふさわしく生活する」ことにはならないのです。

 そして、第二に、「神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように」ということです。ここでパウロは平穏無事な生活を求めてはおりません。なぜならキリスト者の生活は、キリストの支配の内に置かれたと言っても、やはり戦いだからです。人との戦いではありません。なお私たちに影響を与えようとする闇の力との戦いです。そのためには力が必要なのです。耐え忍ぶ力が必要です。「耐える」と訳されている言葉は艱難に対して持ちこたえることを意味します。「忍ぶ」と訳されている言葉は人の悪意や迫害に対して愛をもって受け止めることを意味します。そのためには力が必要です。主によって強められ、戦いの中にあっても安きに逃げずに、耐えかつ忍ぶことこそ、主にふさわしい生活なのです。

 そして最後は、「御父に感謝するように」ということです。父は闇の力から救い出し、キリストの支配に移してくださいました。それは、最終的には私たちが滅びることなく永遠の御国を嗣ぐためです。御父はすでにそのようにしてくださったのです。ならば、私たちがどんな時にも、どんな状態にあっても、その御父に感謝し、誉め讃えて生きることは当然のことです。救いの感謝を忘れぬこと、これこそ主にふさわしい生活です。

 パウロは以上のようなことをコロサイの信徒たちのために絶えず神様に願い求めていました。神の御心を知り、主に喜ばれるように主にふさわしく生きられるようにと、求め続けたのです。この祈りが書き記されているのは、私たちもまた同じことを求めるようになるためです。


2021年11月21日日曜日

「人にはできないが、神にはできる」

マルコによる福音書 10:17-31

何をすればよいのでしょうか
 イエス様は弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)。どうしてイエス様はこんなことを言われたのでしょう。それは今日朗読された話の流れから察することができます。その直前に、イエス様は財産のある人と話をしていたからです。

 その人は神の救いを求めてイエス様のもとに来た人でした。走り寄って、ひざまずいてこう尋ねたというのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)。彼が切に求めていたのは、死をもって失われないもの、世の終わりにおいても失われない、最終的な神の救いでした。

 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。彼はこれまで自分にできることをしてきたのです。伝えられてきた神の掟も一生懸命に守ってきました。イエス様が「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」(19節)と言われた時、彼は即座に答えました。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」しかし、それで十分だとは思えなかったのです。まだ足りない。だから尋ねたのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。

 イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。このイエス様の言葉は救いを求める彼を打ちのめしました。彼は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と聖書は説明しています。そこでイエス様は弟子たちを見回して言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。

財産のある者が神の国に入るのは
 ところで、厳密に言いますと、この23節の「財産」と22節の「財産」では、元の言葉が異なります。23節で「財産」と訳されているのは、もともとは「使う」という言葉に由来する単語です。「使えるもの」のことです。確かに「財産」とはそういうものでしょう。彼は財産を持っていた。それは必要に応じて使うことができるものを持っていたということです。欲しいものを得るために、彼は財産を使うことができるのです。

 しかし、欲しいものが「永遠の命」だったらどうでしょう。神の救いだったらどうでしょう。それを得るために人は何を使うのか。使えるものは何なのか。通常考えられるのは「善い行い」でしょう。彼もそうでした。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。そう「何かをすること」が必要だと考えた。子供の時から律法を守ってきた積み重ねは、彼にとって永遠の命を得るために「使えるもの」だったのです。

 その意味では彼の「財産」はお金だけではありませんでした。幼い頃からの律法遵守、積み上げてきた善い行い、これらもまた彼の財産だったのです。その財産をもって、永遠の命を得、神の国に入ろうとしていたのです。そして、彼がそうしたがっているので、イエス様はそれを一緒に押し進めようとされたのです。「使えるもの」をもって永遠の命を得たいなら、「使えるもの」すべてをそのために使うべきだ、と。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはそういうことです。しかし、そこで彼は悲しみながら立ち去ることとなりました。

 それを見て主は言われたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」何が問題だったのでしょう。金持ちだったことでしょうか。いわゆる財産を手放せなかったことでしょうか。いいえ、そもそもの問題は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねてきたことなのです。自分が神に差し出すことができるものをもって、救いを得ることができると考えていたことなのです。そうです人間にはそれができると考えていたことです。

人間にできなくても神にはできる
 今日の説教題は「人にはできないが、神にはできる」です。これは27節のイエス様の言葉から取りました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。

 「人間にはできる」と思っているうちは、この言葉は大した意味を持ちません。人間にできるなら人間が自分の力でしたらよいのです。「神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉が本当に意味を持ってくるのは、「人間にはできない」ということが見えてきた時です。イエス様がこう言われたのは弟子たちが互いにこう言い合っていたからでした。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。正確には「それでは、だれが救われることが《できる》だろうか」と言っているのです。もちろん、その意味するところは「だれも救われることが《できない》ではないか」ということです。

 「使えるもの」があるならば「できる」と思っているとき、人はそれを使おうと思いますし、使えると思うのです。そのように人間にできると思っているかぎり、「神にはできる」ということに真剣に目を向けることはありません。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。――それは単にお金があるかないかの話ではありません。「人間にはできる」と思っているかどうかということなのです。

 「神にはできる」というイエス様の言葉が本当の意味で自分の信仰告白となるのは、救いを得るために「使えるもの」が自分にはない、神に差し出せるものなど何一つない、本当に貧しいものだと自覚した時だけです。ですからイエス様は別の福音書においてこう語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。なぜなら「人間にできることではないが、神にはできる」からです。

 そして、「神にはできる」と書かれているとおり、神にしかできないことを神はしてくださったのです。「神にはできる。神は何でもできる」と主は言われましたが、その神の全能を神がどのように使われたか、私たちは福音によって知らされているのです。何でもできる神はその独り子を私たちに与えてくださいました。神は御子を十字架にかけてくださいました。この贖いの犠牲のゆえに、私たちの罪を赦してくださいました。神は私たちを清めて神との交わりに入れてくださいました。神は罪人を救い、永遠の命を与えることがおできになります。「神にはできる。神は何でもできる」。そう語られたイエス様は、実際にその神の御業によって遣わされた方として語っておられるのです。

わたしのためまた福音のため
 しかし、そのことがまだ弟子たちには分かっていません。「神にはできる」とイエス様が言っておられるのに、弟子たちは人間がしたことについて語り始めます。ペトロは言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。「このとおり」というのは文字通りの意味は「ごらんください」です。自分を見てください、というのです。

 彼らが考えているのは財産を処分して施すことをしなかった金持ちと自分たちとの比較です。イエス様が単純にお金を手放したか否かを問題にしていると思っている。だから、お金を手放したこと自体が、今度はペトロにとって「使えるもの」になっているのです。その「使えるもの」をもって神と取り引きしようとしている。マタイによる福音書では、ペトロの言葉はこう伝えられています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)。

 イエス様はペトロの言葉を単純に否定することはしませんでした。弟子たちに対しては、さらに語るべきことがあったからです。主は言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(30節)。

 イエス様は「わたしのためまた福音のため」と言われました。大事なことはここで「永遠の命を得るために」とも「神の国に入るために」とも、「来るべき世において報いを得るために」とも主は言われなかったということです。「わたしのためにまた福音のために」は「わたしの故にまた福音の故に」という意味の言葉です。イエス様の故にとはどういうことでしょう。福音の故にとはどういうことでしょう。

 先にも申しましたように、イエス・キリストという存在そのものが「神にはできる」の現れでした。私たちを救うことができる神の、一方的な恵みの現れだったのです。それゆえにイエス・キリストの到来は「福音」なのです。良き知らせです。そのイエス様のためまた福音のために何かを捨てるとするならば、それは恵みに対する応答以外の何ものでもありません。主はそのことを言っておられるのです。

 実際に弟子たちはやがて迫害の時代を生きることになるのです。ここに語られていることがやがて実際に起こることを主は知っておられるのです。実際に兄弟や親子の縁を切られることもあるかもしれない。畑や財産を失うこともあるかもしれない。しかし、それは救いを得るために払わなくてはならない犠牲ではないのです。救いを得るために何かを捨てるわけではないのです。それらはすべて恵みに対する応答としてなされることなのです。

 それゆえに、主は言われたのです。「この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。この世においても報われ、後の世においても報われる。逆説的ですが、報いを求めてではなく「イエスの故にまた福音の故に」恵みに応えて行ったことが、結局は報いを受けるのです。

 そのように、今日の私たちにおいても、何かを行うにせよ、何かを献げるにせよ、何かを手放すにせよ、大事なことは、《ただ神の恵みへの応答として行う》ということなのです。ならば本当に必要なのは恵みを知るということなのでしょう。恵みを知ることがなければ、わずかな献げ物でさえ惜しむ心や報いを求める心をもってしか献げられなくなります。あるいはペトロのように「ごらんください」になるのです。そうではなく、私たちは神の恵みを知る者となりたい。そして、ただひたすら神の恵みに応えて生きる者となりたい。惜しみなく私たち自身を献げ、必要ならば持てるものを手放せる自由さを持ちたいものです。そう、最終的に「神にはできる」はそこにまで及ぶことを信じたいと思うのです。「人間にできなくても神にはできる」と。

(祈り)

2021年11月17日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:1~8

コロサイの信徒への手紙 1:1‐8

 コロサイという町は現在のトルコ共和国の西部に位置していた町で、エフェソからそう遠くないところにありました。コロサイの教会はパウロが開拓した教会ではありません。コロサイの人々に福音を伝えたのはパウロの同労者でありますエパフラスという人です(7節)。しかし、そのような教会にパウロがあえて手紙を書き送ったのは、その教会に大きな問題が起こっていたからでした。誕生して間もない教会に、異端の教師たちが入り込んできたのです。そのためにコロサイの信徒たちの信仰は危機に晒されていたのでした。本当は自ら訪ねていって直接会って話をしたかったことでしょう。しかし、4章3節に書かれていますように、彼は牢につながれていたのです。そのような状況において書き送られた手紙、それがコロサイの信徒への手紙です。

 しかし、他の手紙と同様に、パウロはまず感謝から書き始めます。何を感謝しているのでしょう。4節と5節に書かれていますように、コロサイの信徒たちが「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」と「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」とそれらの基となっている「天に蓄えられている希望」について、神に感謝しているのです。

 第一に、「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」。原文の直訳は「キリスト・イエスにある信仰」となります。これは一体何を意味するのでしょうか。ただ単に「神を信じる信仰」と表現するのと、「イエス・キリストにある信仰」と表現するのでは、どこが違うのでしょう。

 一般的に人々が「信仰」と言う時、それはもちろん「神を信じること」を意味しているのでしょうが、「神を信じている」という言葉の内容は人によって大きく異なります。多くの場合、「神を信じている」と言っても、「神の存在を信じている」という程度のことかもしれません。しかし、聖書の言うところの「信仰」は、ただ単に「神が存在することを信じる」ということではありません。大切なのは、その神との関係なのです。私たちと神との関係はどうなっているのでしょうか。後に読むことになります1章21節にはこのように記されています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行ないによって心の中で神に敵対していました。」これが人間の現実なのです。人間のあらゆる問題の根はここにあるのです。すなわち、神との正しい関係を失っていることです。

 しかし、神は私たち人間との関係を回復しようと望まれたのです。ここに神の憐れみがあります。神の憐れみは具体的な形を取りました。私たちの救いのために御子キリストをお遣わし下さったのです。そしてキリストは私たちの罪を代わりに負って十字架にかかられました。このようにして、私たちのすべての罪は贖われました。それゆえ、私たちがキリストを信じ、キリストの救いの恵みに与るとき、私たちの罪は赦され、神との交わりが回復されるのです。このキリストのゆえに、神との交わりに生きることができるのです。キリストのゆえに、神は私たちの父(2節)となり、私たちは神の子供とされるのです。

 ですから、私たちにはイエス・キリストによる救いの恵みが必要なのです。キリストの中に、その恵みの中に入れていただくことが必要なのです。それが「キリスト・イエスにある」ということなのです。そのようにキリストの恵みのうちに生きることが「キリスト・イエスにある信仰」なのです。コロサイの人たちは既にこの恵みに入れられているのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 第二に「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」について考えてみましょう。パウロが「聖なる者」と言う時、それはキリスト者一般を指しています。では、パウロはなぜここで「すべての人々に対して抱いている愛」と言わないで、「すべての聖なる者たち」すなわちキリスト者に対して抱いている愛と言っているのでしょうか。むしろ愛は教会の中に限らず、すべての人に向かうべきではないでしょうか。

 もちろんそうです。しかし、考えてみてください。キリストにある兄弟を愛することができなくて、すべての人を愛することが出来るでしょうか。この世の集まりでありますならば、自分の好き嫌いで集まったり離れたりすればよいでしょう。自分に良くしてくれる人にだけ近づいていれば良いでしょう。争ったり憎んだり妬んだりしても何ら心を痛める必要もないでしょう。しかし、教会は神が呼び集められ、キリストによって贖われた共同体です。私たちの好みによって集まったわけではありません。主権は神にあります。神が私たちをキリストにあって兄弟姉妹とされたのです。ですから、そこでこそ本当の意味で愛が問われるのです。自分を中心とし、自らを義とし、他者を断罪する、傲慢な「わたし」が打ち砕かれてこそ、「すべての聖なる者に抱いている愛」と呼べるものが生まれるのです。

 実際、コロサイの教会の場合には奴隷と呼ばれる人たちがいました。奴隷の主人たちもいました。ある人は裕福であり、ある人は差別され抑圧されていた人々でした。そのような様々な人が、キリストによって罪が贖われ救われた者として、共に礼拝をしていたのです。キリストによって救われる直前まで争っていた人々が、救いに与ってからは共に神を礼拝していたのです。そこにおいて彼らが愛を示していたということがどういうことであるか、想像できるでしょうか。「すべての聖なる者に抱いている愛」とはそういうことなのです。これは人が努力して造り出したものではありませんでした。明らかに神のみ業でした。パウロはこのみ業を覚え、感謝しているのです。

 そして、彼らの信仰と愛を根底から支えていた土台をパウロは「天に蓄えられている希望」と表現しています。ここには「あなたがたが天に蓄えた希望」とは書かれておりません。天に《蓄えられている》希望です。ここでいう希望とは、神の国に入れられ、神の栄光に与る希望です。それは明らかに私たちが善行を積んで引き替えに得られる類のものではありません。ですからすでに神によって用意されているのです。コロサイの信徒はその確かな希望を与えられていました。この希望が彼らの信仰と愛をしっかりと支えていたのです。それは明らかに神の御業でした。パウロはこの御業を覚え、感謝しているのです。

 神は福音の宣教を通して、これらの御業をなされました。これらはすべてエパフラスが行って伝えた福音の実りでした。ちなみに、「エパフラス」とは「エパフロディト」の短縮形です。フィリピの信徒への手紙に出て来た、瀕死の病気になったあのエパフロディトかもしれません。いずれにせよ、人間による宣教の業を通して、神の御業が現れることとなるのです。ですから、パウロは続けてこのように言うのです。「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」(6節)。

 福音は世界中至るところで実を結んで成長しています。その福音はこの日本にまで、ここにいる私たちにまで伝えられました。私たちにおいても、この福音の実りが確実に現われ、成長することを期待すべきです。すなわち、天に蓄えられている希望にしっかりと支えられ揺るぎないものとされている、「イエス・キリストにある信仰」そして「すべての聖なる者に抱いている愛」から生まれて来る実が豊かに実ることをひたすら求めるべきなのでしょう。そして、さらに外に向かって成長していくことを期待し、ひたすら求めるべきなのです。そのようにして、私たち自身、福音を担い、伝えていく者となるのです。

(祈り)

2021年11月14日日曜日

「人に惑わされてはなりません」

マルコによる福音書 13:5-13

未来を知りたいですか
 「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。そうイエス様は言われました。これは弟子たちの問いに対する答えでした。弟子たちはこう尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)。弟子たち問うているのは「いつ起こるのか」という「時」です。あるいは正確な「時」が分からないとしても、近づいているという「前兆」は知りたい。だから「どんな徴があるのですか」と聞いているのです。それに対してイエス様は言われたのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 「いつ起こるのか」という「時」を知りたい。あるいはせめて「前兆」を知りたい。これは要するに「未来を知りたい」ということでしょう。正確にではなくても、ある程度予測できたり見通しが立てられるようになっていたいということです。

 弟子たちがそのように尋ねたのは、イエス様が未来に起こる恐るべきことを語られたからでした。それは何か。エルサレムの神殿の崩壊です。弟子たちがエルサレムの神殿を見て感嘆の声を上げた時、イエス様はこう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。重なって残る石が全くないほどに徹底的に破壊されると主は言われたのです。

 普通に見れば、永遠に残ると思えるような建造物です。しかし、崩れるはずがないと思えるものが、実際には崩壊することがある。それがこの世の現実です。イエス様が言われるならば、それは起こり得ることだと弟子たちも思ったに違いない。実際、彼らがその時に目にしていた神殿は、紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊されることとなりました。

 この世に確かなものは何一つありません。私たちは新型コロナのパンデミックによって改めてそのことを知らされたとも言えます。この世に確かなものはない。それゆえに、この世の生活には不安が伴います。だから未来をある程度予測できるようになりたいと思います。少しでも先の見通しを立てたいとも思います。

 しかし、本当は未来を知ることよりも、先の見通しが立てられるようになることよりも、もっと大事なことがあるのです。だから未来を問う弟子たちの問いにイエス様は直接答えられなかったのです。主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではないのです。そうではなくて、いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということなのです。私たち自身のあり方なのです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。不安だから未来を知りたくなる。しかし、いつ何が起こるかを問題にしている限り不安はなくなりません。問題にしなくてはならないのは、未来ではなく、私たち自身のあり方なのです。

 そこで今日は、特に私たち自身に関わる三つの言葉を心に留めたいと思います。主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)。「慌ててはいけない」(7節)。そして、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。

人に惑わされないように
 主は言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい」。どうしてか。主はこう続けます。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(6節)。

 崩れるはずがないと思えるものが崩壊していく時、あるいはそのようなことが起こるのではないかと人々が不安に駆られる時、そこに様々な形において偽のメシアが現れてまいります。「わたしの名を名乗る者が大勢現れる」と主が言われたようにです。「ここに救いがある」と言って手招きするのです。

 あるいは主が言われるように、「わたしがそれだ」と言って惑わす者が現れる。「わたしがそれだ」というのはユダヤ的な表現で「わたしが神だ」という意味です。そのように、偽物の神様が近寄ってくるのです。そして、神を信じていたはずの人をさえ、神から引き離してしまうのです。実際、恐れに駆られると、人間は何にでも考えなしにすがりつきたくなるものでしょう。

 だから主は言われるのです。「人に惑わされないように気をつけなさい」。人に惑わされないためには、神ならぬ誰かに惑わされないためには、自らがしっかりと神に向いて生きていることが大事なのです。そのような生活が形作られていることが大事なのです。

 いざというときには、普段どう生きているかが、どうしても出てまいります。今、もし幸いなことに平穏無事であり安定の中にいるならば、大切なことは、いざという時にではなくて、今この時、神を信じ神に向き、神を礼拝して生きる生活をしっかりと築いておくことです。そうすれば未来に何が起ころうとも、神に向く生活が変わらずそこに存在するはずだからです。

慌ててはいけない
 そして、さらに主は言われました。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(7節)。さらにイエス様はこうも言っておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」(8節)。戦争だけではありません。地震や飢饉についても語っておられます。そのような具体的な災いがこの世界には起こり得ますし、私たちの人生にも及ぶことがあり得ます。他の人に起こったことは我が身にも起こり得ることを私たちは知っています。そして、それは恐ろしいことです。しかし、主は「慌ててはいけない」と言われるのです。これは「恐れるな」という言葉でもあります。

 主は「恐れるな」と言われる。どうしてか。イエス様は言われるのです。「まだ世の終わりではない」。原文では「世の終わり」とは書いてありません。ただ「まだ終わりではない」と書かれているのです。もちろん「世の終わり」のことが言われているのでしょうが、大事なことは「まだ終わりではない」ということなのです。

 どんなに恐るべきことが起こったとしても、大事なことは「まだ終わりではない」という認識です。「ああ、もう終わりだ」と思えるようなことも人生にはあるのでしょう。しかし、主は言われるのです。「まだ終わりではない」と。世の終わりでない限り、すべてはまだ途中経過なのです。その先があるのです。途中経過を見て、恐れたり慌てたりしてはならないのです。

 その途中経過をイエス様は「産みの苦しみ」と表現しました。私たちは良く知っているはずです。産みの苦しみは最終的な苦しみではないということを。それは大きな喜びへと向かう途中の苦しみなのです。

 さらに言うならば、イエス様はそれを「産みの苦しみの《始まり》である」と表現しました。「始まり」ならば、次第に苦しみは増大していくということです。苦しみが増大していくならば、普通は「悪い方向に向かっている」と考えるのでしょう。しかし、産みの苦しみについては、そうは思いません。苦しみが大きくなればなるほど、新しい命の誕生が近づいていることを知っているからです。

 目に映る現実がどうであれ、私たちには最終的な救いが約束されているのです。産みの苦しみであるとはそういうことです。主は言われるのです。まだ終わりではない。それは産みの苦しみだ。だから、慌てるな。恐れるな、と。

自分自身に目を向けなさい
 そして、さらに主は言われました。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)。「気をつける」という言葉は前にも出てきましたが、もともとの意味は「見る」という言葉なのです。目を向けることです。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とは、「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」ということでもあるのです。

 ここにおいて語られているのは迫害についてです。主はこう続けます。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」(9節)。だれかが打ち叩くなら、打ち叩く者に目が向くものです。苦しみが特定の人間から来る時には、どうしてもその人の方に目が行きます。しかし、主は言われるのです。「あなたがたは自分自身に目を向けなさい」と。

 人に目を向けるならば、その人の敵意や悪意、その人の酷い仕打ちしか見えません。しかし、自分自身に目を向けるならば、そこで自分が何を為すべきかが見えて来きます。何のためにそこに立たされているのか。それはキリストを証しするためです。「証をすることになる」と主は言われるのです。そして言われます。「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)。

 神は独り子をお与えになるほどにこの世を愛してくださいました。神は私たちを愛し、十字架のゆえに私たちの罪を赦し、神と共に生きる者としてくださいました。私たちは最終的に完全な救いにあずかることを知らされています。産みの苦しみの向こうには、命に満ちた大きな喜びが備えられているのです。そのことを知らされている私たちは、どんな状況にあっても、希望に満たされて、福音を告げ知らせることを託されているのです。

 さらに言うならば、福音を告げ知らせる主体は、私たち自身ではなく、聖霊です。神が私たちを用いてくださるということです。主は言われました。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)。神が語られるのです。人間を通して神が働かれるのです。私たちが自分自身に目を向けるなら、立たされている場所において、神が私たちを用いようとしていることが見えてきます。神がこの世界において御自身の愛を現すために用いようとしている《わたし》そして《私たち》が見えてくるのです。

 本当に大事なことは、いつ何が起こるかということではありません。いつ何が起こったとしても、そこで私たちがどう生きているかということです。私たちがそこで何を考え、どちらの方向を向いて生きているかということなのです。
(祈り)

2021年11月7日日曜日

「燃え尽きぬ神の炎」

マルコによる福音書 12:18‐27

だれの妻になるのでしょうか
 今日の福音書朗読には「サドカイ派の人々」が登場してきました。福音書によく出て来るファリサイ派と並ぶ、ユダヤ教の一派です。サドカイ派のメンバーは主に、上級祭司、貴族、富裕層の人々です。そのようなこともあり、彼らは社会的な変革を望まない、保守的な人々でした。最高法院においては与党の立場にあり、政治的な指導権を握っていました。

 彼らは宗教的にも保守的な一派でした。彼らは聖書のうち、律法の書(トーラー、モーセ五書、すなわち創世記から申命記まで)しか認めません。律法の書に明記されていること以外はいっさい信じません。ですから彼らは復活を信じない。来世を信じません。「死んだら終わり」ということです。宗教的に保守的な人々が来世を信じないというのは、私たちの感覚からすると変ですが、ユダヤ教においてはそうなのです。確かに、モーセ五書だけを見るならば、復活についても、来世についても、文字通りの意味においてそのような表現は出て来ません。同様の理由から、彼らは霊の存在も信じない。メシアを待望することもありません。

 しかし、恐らく彼らがそれらを信じなかったのは、モーセの律法に文字通りに書かれていないからという理由だけではないでしょう。ある意味では信じる必要もなかったのです。この世において恵まれていますから、この世のことだけで十分なのです。目に見えるものだけで十分なのです。現在のことだけで良いのです。終末の希望は必要ないのです。それでも神殿の儀式においては自分の位置づけがあります。宗教的なコミュニティにおいては指導的な立場にあります。この世のことだけ考えていても、十分に宗教的でいられるのです。

 ということで、今日の聖書箇所にはそのようなサドカイ派の人々が、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」(18節)として登場してきます。これに対して、福音書によく出てくるファリサイ派の人たちは、復活も来世も霊の存在も信じています。ですから、サドカイ派とファリサイ派は宗教的には対立関係にあります。そのようなファリサイ派に対して、サドカイ派の人たちが復活や来世があることを否定するために用いていた論拠が、今日の福音書朗読に出てきた話なのです。そのような話を、彼らはイエスのもとに持ってきて論争をしかけたのでした。

 サドカイ派の人たちは旧約聖書の申命記を引用してこう語り出します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」(19節)。ここに出てきますのは、私たちには馴染みの薄い「レビラート婚」という制度です。子孫を絶やさぬための制度でありまして、今日でも世界の少数民族などにおいて見られると言われます。まさにこの律法の言葉こそ、復活がないことの決定的な証拠になると彼らは考えていたのです。

 続けて彼らはこう問いかけました。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(20‐23節)。

 これはレビラート婚の制度になじみがなくても、例えば配偶者と死別した後に再婚した人のことを考えれば分かりますでしょう。復活があり来世があると困ったことになる、ということです。先にも申しましたように、このような議論は通常ファリサイ派との間で為されていたものです。そして、復活を信じるファリサイ派には一応答えがありまして、この場合、妻は長男のものとなることになっていたそうです。しかし、イエス様はそのようには答えませんでした。

 主は言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(24‐25節)。「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とは、この世におけるあり方とは全く異なるということです。救いが完全に実現している復活の世界を、今のこの世の延長のように考えてはならない、単にこの世の生活からの類推で考えてはならない、ということです。

 しかし、イエス様は単に答えを与えたのではありません。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言われるのです。これは実に強烈な言葉です。明らかにイエス様は時の宗教家たちの無意味な思弁的な議論に、うんざりしているのです。

 それはただ単に復活を否定するためにこんな論争を持ちかけたサドカイ派の人々に対してだけではありません。復活を信じていると言っているファリサイ派の人々に対してもそうなのです。いや、むしろイエス様はファリサイ派の人たちにこそ語りたかったのかもしれません。なぜなら先に触れました「妻は長男のものとなる」というような答えこそ、まさに来るべき救いの世界を今の世の延長でしか考えていないことを示しているからです。

 神がその独り子さえもこの世に送り、人の思いを遙かに超えた圧倒的な御力をもって、罪からも死からも解放して完全な救いを与えようとしているのに、こちら側では「七人の兄弟と結婚した女は、誰の妻になるんでしょうなあ」なんてことを言っているわけです。しかも祭司たちが、律法学者たちが、そんな次元のことを議論しているのです。救いのために遣わされたイエス様としては、もう悲しくて、情けなくて、うんざりしていたに違いありません。

 しかし、彼らの姿は他ならぬ私たちの姿でもあるのでしょう。私たちがたとえどのような者であっても完全に救うことのできる神の力を、ここにいる私たちは本当に信じているのでしょうか。「あなたがたは聖書も神の力も知らない」とは、私たちに対する言葉でもあるのではありませんか。

生きている者の神
 それゆえに、イエス様は聖書を引用してこのような話をしてくださったのです。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(26‐27節)。

 「『柴』の箇所」というのは、出エジプト記3章に出ている、モーセが羊の群れを飼っていたときに、ホレブの山で燃える柴を見たという話です。柴は燃えているのに燃え尽きない。不思議に思って近づいてみると、神がモーセに声をかけられた。その時に神様が自らを表現した言葉がこれです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。

 柴の炎は明らかに神の現臨を示しています。神がそこにおられる!しかも、炎は消えないのです。燃え続けている。いわば「燃え続ける神」がそこにおられるのです。神は過去の神ではなく、永遠に神であり続ける、ということです。神であり続けるということは、抽象的なことではありません。人との関わりにおいて神であり続けるということです。《あなたの神であり続ける》ということです。モーセはそのような神に出会ったのです。

 神は言われました。わたしはアブラハムの神である、と。アブラハムはもう数百年前に死んでいるのです。しかし、神は「わたしはアブラハムの神である」と言われるのです。そして、イサクの神であり、ヤコブの神であるとも言われる。その神がモーセに現れて、わたしは必ずあなたと共にいる、と言われたのです。わたしはあなたの神でもある、ということです。あなたの神であり続ける。そして、あなたが導き出すイスラエルの神となり、イスラエルの神であり続ける。それがこの「『柴』の箇所」に語られていることです。

 燃え続ける神、関わり続ける神、あなたの神であり続ける神、神がそのような神として御自身を示されたことこそ、来世を信じる根拠なのです。復活を信じ、完全な救いの世界を信じる根拠なのです。神がアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であり、わたしの神であり、あなたの神であるならば、アブラハムもヤコブもわたしもあなたも死んで終わりではないのです。人は神によって、死んでも生きるのです。神は死んだ者の神ではありません。死の中に私たちを放置しておく神ではありません。死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。

 そのように、モーセは燃え尽きない柴に出会いました。燃え尽きない炎の中から、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」との声を聞きました。そして、私たちもまた、同じように燃え尽きない柴に出会っているのです。すなわち、イエス・キリストこそ、私たちに対して神が御自身を現された「燃え尽きない柴」に他ならないのです。

 今日お読みしました場面は、イエス様が十字架にかけられる数日前のことです。物語は、イエス・キリストへの死へと向かっているのです。炎は燃え尽きてしまうかのように見えます。しかし、柴の炎は燃え尽きませんでした。キリストは復活して、永遠に燃え尽きることのない神の炎を見せてくださったのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということを見せてくださったのです。

 この神との関わりにおいてこそ、人は本当の意味で死を越えた希望に生きることができるのです。神を礼拝し、神に祈り、神との交わりに生きてこそ、そのようにしてキリストを復活させた神の力に触れながら生きてこそ、人は復活の希望、来世の希望、全き救いにあずかる希望を持って生きることができるのです。

(祈り)

2021年11月3日水曜日

祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 4:1~9

 フィリピの信徒への手紙 4:1‐9

 パウロは今日の箇所で繰り返しフィリピの信徒たちに「喜びなさい」と書いています。「喜びなさい」という命令文には、たいていその理由が付随してくるものです。理由があるからこそ「喜びなさい」と言えるのでしょう。ところが、パウロはただ「喜びなさい」と言っているのではなく、「常に喜びなさい」と言うのです。これはおかしな命令文です。なぜなら、一般的には人が喜ぶことのできる理由は常にあるわけではないからです。

 それどころか、この手紙を書いているパウロにしても、この手紙を受け取っている教会にしても、むしろ喜べない理由の方が、遙かに多かったに違いないのです。この直前には何と書いてあるでしょうか。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」(2節)。彼らはかつて力を合わせて、福音のためにパウロと共に戦ってくれていた人たちです。しかし、このように書かなくてはならないのは、今はこの二人が同じ思いを抱けずに、むしろ仲違いしていたからでしょう。それだけではありません。外からの迫害もあります。パウロはこの時、獄中にいるのです。思えば福音の宣教のために働き始めてからというもの、彼の人生は苦難の連続でした。

 しかし、パウロは「常に喜びなさい」と言うのです。なぜでしょう。私たちはパウロの言葉をよく聞かなくてはなりません。彼はただ「常に喜びなさい」と言っているのではなく、「主において常に喜びなさい」と言っているのです。「主において」という言葉は、パウロの手紙に実によく出てくる言葉です。同じ言葉が他の箇所では「主に結ばれて」と訳されています。ここで語られているのはキリストとの関わりです。キリストを通しての神との関係です。

 信仰によってキリストと結ばれているのです。キリストの内にいるのです。そのキリストは、私たちを愛し、御自身を献げてくださった御方です。私たちの罪の贖いのために十字架にまでおかかりくださった御方です。その御方と結ばれて、私たちは罪を赦された者として、救われた者として、愛されている者として生きることができるのです。その「主において」という事実は、主に結ばれているという事実は、何が起ころうと変わらないのです。だからパウロは「喜びなさい」と言うのです。いや「喜びなさい」だけではありません。「常に喜びなさい」とさえ言うのです。変わることのない理由があるからです。

  そして、さらにパウロは言います。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(5節)。主から来る「喜び」はただ「喜び」として人の内に留まるのではありません。その「喜び」は「広い心」となって他者へと向かうものとなるのです。

 それはある意味では当然のことでしょう。主によって罪を赦された喜びは、他者を赦す心を生み出すのでしょう。主によって受け入れられた喜びは、他者を受け入れる心を生み出すのでしょう。主の寛容が喜びの源なら、その喜びは寛容を生み出すのでしょう。

 「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とは、要するに、「主にあって常に喜びなさい。その喜びをもって人々の中で生きていきなさい」ということに他ならないのです。頑張って広い心になろうとすることではなくて、大事なのは「喜び」なのです。そして、その源である「主」なのです。ですからここでパウロは一言付け加えるのです。「主はすぐ近くにおられます」(5節)と。

 古代教会において合い言葉のように用いられていた言葉がありました。「マラナ・タ」という言葉です。これは「主よ、おいでください」という意味です。それはキリストの再臨を待ち望む祈りです。キリストが再び来られる。そのことをずっと遠い所からやってくるように思い描く人がいるかもしれません。しかし、初代教会が持っていたイメージは異なるのです。そうではなくて、「戸の外に立っておられるキリスト」なのです。もうすぐにでも戸を開けて入ってこられる。救いをもたらすために入ってこられる。そのようなイメージです。

 それは二千年経ってしまった今でも同じはずなのです。やがて主が来られる。今にでも来られる。その時、私たちははっきりと知ることになるのです。罪が赦されたということはどういうことであるか。主によって愛されているということがどういうことか。救われているとはどういうことか。やがて私たちは知ることになるのです。そして、それは思いの外近いのかもしれません。「主はすぐ近くにおられます」。

 そしてさらにパウロは、「思い煩うのはやめなさい」と語ります。喜ぶことと思い煩わないことは、同じ主に結ばれた生活の裏と表です。積極的な側面と消極的な側面と言っても良いでしょう。どちらも大事です。片方だけでは成り立ちません。ですので、「主において」と語ったパウロは、さらに具体的な勧めとして、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めるのです。つまり、「主において」生きる生活は、祈りと礼拝という具体的な形を取るのだということです。

 パウロはここで「神に打ち明けなさい」と言っています。これは単なる願いごと以上のことです。それは「感謝を込めて」という言葉が伴っていることからも分かります。それは「主において」ささげる祈りです。それは主によって赦され、救われた感謝と喜びをもってささげる祈りであるということです。それゆえに、それはまた「神は私たちを愛しておられて、私たちに最善を為してくださる」という神への信頼に基づいてささげられる感謝の祈りともなるのです。

 では、そのように感謝をもって「神に打ち明ける」時に、いったい何が起こるのでしょうか。パウロはこう言うのです。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。人において本当に守られなくてはならないものは何か。それは「心と考え」です。ここで語っているパウロは、獄中にいるのです。いつ引き出されて処刑されるかも知れぬ身なのです。彼は自分の命を自分で守ることができません。しかしパウロは、人知を越える神の平和によって、心と考えとを守られているのです。そのような人をこそ、私たちは「神に守られている人」と呼ぶべきでしょう。そして、それは私たちにも起こることなのです。

 そして、パウロは「終わりに、兄弟たち」と呼び掛け、「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(8節)と勧めます。そして、今日お読みした一連の勧めを次のように締めくくります。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」(9節)。

 「平和の神」が私たちと共におられるとはどういうことであるのか。今日の聖書の御言葉によく耳を傾け、思い巡らしたいと思うのです。それはどこにおいて経験されるのか。私たちが耳にしている勧めの言葉をただ聞くだけでなく、実行するところにおいてです。

(祈り)


2021年10月31日日曜日

「何が人を汚すのか」

マルコによる福音書 7:14-23

食べ物によっては汚されない
 主は言われました。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:14‐15)。

 「外から人の体に入るもの」というのは、食べ物のことです。「外から人の体に入るもの」については、程度の差こそあれ、私たちは皆、様々なことを気にするだろうと思います。賞味期限を気にします。添加物についてとても気にする人もいるでしょう。それらは皆、健康に関することです。

 そのように、健康に関わる様々なことは気にしますが、食べ物を食べる時に、「これによってわたしは汚れるだろうか」と心配する人は、私たちの中には恐らくいないだろうと思います。「食べ物が人を汚す」という概念は私たちの生活にはないからです。ところがイエス様の時代のユダヤ人、特にファリサイ派のユダヤ人は違うのです。食べ物によって人は汚れると信じている。そして、それは重大なことなのです。

 例えば、食事の前には手を洗います。これは衛生のためではありません。宗教儀式です。洗わない手で食事をしますと、その食事によって汚れるのです。いや、それだけではありません。この章の3節以下にはこんなことが書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3‐4節)。市場では宗教的に汚れた人たち、例えば異邦人などに接触したかもしれません。だから身を清めて食事をしないと「汚れる」のです。

 さらに言うならば、何を食べるかも重要なのです。ユダヤの世界では、食べてはいけない「汚れた」食べ物というものがあるのです。その代表は豚です。トンカツを美味しそうに食べるなんて、もっての他。そんなことをしたら汚れてしまいます。今日でも、厳格なユダヤ人は、例えばやたらにその辺でパンを買って食べたりしません。ラードが入っている可能性があるからです。これがユダヤ人の戒律の世界です。

 そのような背景を考えますと、今日お読みしたイエス様の言葉がいかに過激な言葉かが分かりますでしょう。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものなんて何もない」。そうイエス様は言い放ったのです。みんな目を丸くして、「そんなこと言っちゃっていいんですか!」と言いたくなるような言葉なのです。

口から出る言葉によって汚される
 しかし、イエス様がそのような過激なことを言われたのは、その次を語るためなのです。主はこう言われました。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。さて、イエス様は何を言わんとしておられるのでしょう。弟子たちには、よく分からなかったようです。ですから、群衆が帰った後に、こっそりとイエス様に尋ねました。すると主はこう答えられたのです。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」(18‐19節)。

 「外に出される」と訳されていますが、本当は「便所に出される」って書いてあるのです。食べ物は心の中に入るわけじゃない。腹に入って便所に落ちるのだ。――本当に汚れるか汚れないかを考えるならば、確かに重要なのは「腹」じゃなくて「心」ではありませんか。イエス様は極めて現実的な話をしているわけです。

 では「心」が問題ならば、何が心の中に入って人を汚すのでしょうか。「食べ物」ではなくて、「人の中から出て来るもの」だと主は言われるのです。人の心から出て来るものです。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」とイエス様は言われるのです。

 「心から出て来る悪い思い」とは何でしょう。その後には、具体的に、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」と書かれています。しかし、口に入るものとの対比で考えられているのですから、「人間の心から、悪い思いが出て来る」と言う時に、まず主の念頭にあったのは、特に「言葉」のことであったと考えられます。 すなわち、具体的な悪として現れてくる以前に、既にその心の中にある「悪い思い」が問題なのです。そして、「悪い思い」が心から出て来る時の「言葉」が問題なのです。

 ですからマタイによる福音書では、もう少し詳しくこう表現されているのです。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:17‐18)。これならはっきりしています。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」。口から出て来る言葉の話です。言葉こそ人を汚すのです。先にも申しましたように、ユダヤ人はどんな食物を口に入れるかに細心の注意を払いました。しかし、それ以上に注意しなくてはならないことがあるのです。どんな言葉を心に入れるかです。言葉によって心は汚されるからです。

 イエス様がこう言われた理由は分からなくもありません。ユダヤ人の戒律の世界を想像してみてください。表向きはとても秩序だった清い世界です。しかし、戒律の世界は同時に簡単に裁き合いの世界になるのです。神への感謝と喜びをもって守っているのなら良いでしょう。しかし、ただ義務として、自分が嫌々仕方なく守っていることがあると、他の人が同じように守っているかどうかが気になるようになります。守っていないと許せない。批判したくなる。取り決めやしきたりの多い社会は、簡単に悪口と陰口に満ちた社会になるものです。

 また悪口と陰口に満ちた社会では、人からどう見られるかが気になります。他の人からどう見られるかが気になって気になって仕方ない。すると外側だけを一生懸命に繕うようになります。しかし、無理が生じますから、見えないところで悪いことをするようになったりいたします。ですから、イエス様が言っておられる、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などは、恐らくユダヤ人社会に生きる彼らにとって、決して無縁のことではなかっただろうと思うのです。

 そして表向きだけきれいな戒律社会において、互いの裁き合い、悪口、陰口、人に対する非難、中傷に耳を傾けていたらどうなるでしょう。あるいは隠れて行っている姦淫やみだらな行いについての話に耳を傾けていたら、またそれらを心に入れながら一緒に話をしていたら、確実に心は汚れていくと思いませんか。それこそゴミ箱のようになっていくことでしょう。

 そう考えますと、これは私たちにとっても無縁の話ではありません。実際どうでしょう。私たちは、普段、どのような言葉を心に入れているのでしょうか。悪口や陰口の輪に加わっている時、誰かそこにいない人を一緒に中傷している時、そのことが自分を汚していることには気づかないものです。いやむしろ、そこで妙な連帯感さえ生まれるかもしれません。あるいは自分が外れていると、今度は自分が悪く言われているのではないかと心配になって、ついつい話に加わってしまうことも起こり得ることでしょう。

 しかし、そのようなことをしていれば、心は確実にゴミ箱になっていきます。それは確かです。そして、それは本人だけで終わりません。ゴミ箱は悪臭を放ち始めるのです。やがてそこからゴミが溢れ出ます。心から溢れたものが口から出て来るようになる。すると、今度は他の誰かを汚すことになるでしょう。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」のです。

 ですから、どのような言葉を心に入れて生活するのかということは、本当は私たちの生活を大きく左右し、さらには人生そのものを左右する大問題であるはずなのです。

心に入れるべきは神の御言葉
 ところで、今日の聖書箇所は「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」(14節)という言葉から始まっていました。そのように、今日の箇所はその前に書かれていることの続きなのです。今日の箇所の直前には、主の語られたこんな言葉が記されています。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(13節)。「あなたたち」というのはファリサイ派の人々と数人の律法学者たち(1節)です。

 このことがあったので、イエス様はもう一度群衆を集めて語られたのです。宗教的指導者たちが「神の言葉を無にしている」からです。そして、それは群衆においても同じだからです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」という現実が起こっているのは、そもそも本当に心に入れなくてはならないものを入れていないからなのです。「あなたたちは神の言葉を無にしている」と。律法を与えられていながら、聖書を与えられていながら、そこから本当に神の言葉を聞こうとしていない。聞いていない。それこそがそもそもの問題なのです。

 本日10月31日は宗教改革記念日です。なぜ10月31日なのかは週報に書きましたので、後ほどお読みください。かつてキリスト教会においても神の言葉が無にされていた時代がありました。そのような教会において、宗教改革が起こったことは必然でした。

 今から約500年前、宗教改革者たちが手がけた大きな事業の一つは、キリスト者が自国語で聖書を読めるようにすることでした。それまではラテン語で読まれていたのです。マルティン・ルターは聖書をドイツ語に訳しました。何のためでしょう。教会が神の言葉を無にしないためです。神の言葉を聞くためです。本当の意味で心に入れるべきものを入れるようになるためです。

 それは宗教改革を経て、神がここにいる私たちにも与えてくださっている、とてつもなく大きな恵みです。しかし、私たちはその恵みを本当の意味で受け止めて生活しているのでしょうか。私たちはどのような言葉を心に入れて生活しているのでしょうか。

(祈り)

2021年10月24日日曜日

「礼拝を共にささげるとは」

ヨハネの黙示録 4:1-11

 今日お読みしたのは、聖書の最後に置かれている「ヨハネの黙示録」です。今日は4章が朗読されました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)と書かれていました。ヨハネが見ているのは幻です。この書物に描かれているのは、ある意味では、極めて個人的な特殊な神秘体験です。しかし、それがこのように聖書に記されて、代々の教会に読み継がれてきました。それは、ただ神秘体験をした個人にのみ関わることではないからです。それは諸教会にとって、さらに言えば後々の教会にとっても大事なことだから、今日まで読み継がれてきたのです。しかもこの書物の冒頭を読みますと、明らかにこれは個人的に読まれるためではなく、礼拝において朗読されるために書かれていることが分かります。今、私たちがこうしているようにです。

共にイエスと結ばれて
 この幻を見たヨハネは、その時、大きな苦しみの中にいました。信仰のゆえに迫害を受け、パトモス島に抑留されていたのです。1章9節以下には次のように記されています。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ』」(1:9‐11)

 今お読みしたように、今日の聖書箇所に耳を傾ける上で心に留めておくべき、とても大事なことが少なくとも二つあります。一つは、それが「主の日」だったということです。日曜日です。日曜日ですけれど、ヨハネはかつてしていたように、皆と一緒に集まって礼拝することはできません。流刑の身ですから。しかし、彼はそれでも主の日であることを覚えて祈っていた。ですから主の日において「わたしは“霊”に満たされていた」と書かれているのです。

 そして、もう一つ、彼は自分のことを「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」と言っていることです。ヨハネは流刑の苦しみの中にあります。しかし、彼は孤独ではありません。彼は他のキリスト者と結ばれていることを知っているからです。「共にイエスと結ばれて」いるのです。特にそのことを思うのは「主の日」なのでしょう。同じ主の日に、エフェソやスミルナ、ペルガモンなど、それぞれの地において集まって礼拝している人たちがいることをヨハネは知っているのです。ある人たちは危険の中で、命がけで集まって、礼拝している人たちがいることを知っているのです。その人たちと体は離れているけれど、一緒に主に結ばれて、一緒に礼拝していることをヨハネは知っているのです。それが主の日に共に礼拝するということなのです。

 私たちは毎週、ここに集まっている私たち自身のためだけでなく、ここに集まることのできない人たちのために祈ります。自宅で礼拝をささげている人たちを覚えて祈ります。入院している人たち、自宅で療養している人たち、年老いた人たちのためも祈ります。それは毎週繰り返されていますが、決して単なる形式的なことではありません。私たちは主の日に礼拝する時に、ここに集うことのできない兄姉とも互いに結ばれているのです。いやそれだけでなく、同じように主の日に礼拝している他の教会、他の国々の教会とも結ばれているのです。さらには天と地の聖徒たちが結ばれているのです。それが主の日の礼拝なのです。ですからヨハネは、天において主を礼拝している人々の幻を見せていただいたのです。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。

開かれた天の門
 今日の聖書箇所は次のような言葉で始まっていました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)。これ一つ取っても、本当に嬉しい言葉ではありませんか。天の門は開かれているのです。閉ざされてはいないのです。ヨハネはそれを見せていただいたのです。

 天の門は開かれている。誰が開いてくれたのでしょう。3章7節にこんな言葉があります。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(3:7)。これはイエス様のことです。イエス様こそが鍵を握っているのです。そのイエス様が天の門を開いてくださったのです。本来だったら閉め出されてしかるべき私たちのために、十字架にかかって、罪を贖ってくださって、罪の赦しを与えてくださって、その門を開いてくださったのです。主が開いてくださったのならば、もはや誰も閉じることはできないのです。

 ヨハネが主の日に見たのは、この開かれた天の門でした。それはヨハネという個人の特殊な体験です。しかし、先にも申しましたように、その幻が書かれ礼拝において朗読されているのは、私たちのためでもあるのです。天の門が開かれているのを私たちは肉の目で見ることはできません。しかし、確かに救いの門、天の門はこうして主の日に礼拝している私たちに向かって大きく開かれているのです。

 逆に言えば、もし天の門が開かれていないなら、私たちがしていることは所詮この世の次元のことに過ぎないということでしょう。しかし、実際にはそうではないのです。天の門が開かれているのです。私たちのこの集まりは天と関わっているのです。天はここに集まっている私たちに対して開かれているのです。あるいは、今週集まっている皆さんが、来週、再来週、それぞれの場所で主の日の礼拝をささげるとき、皆さんに向かって確かに天の門は大きく開かれているのです。独り抑留されていたヨハネが見せていただいたようにです。

玉座に座っておられる方
 そして、さらにヨハネが開かれた門の次に見たのは玉座でした。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(2節)。玉座というのは王の座のことです。すなわち王としての神を見たということです。神が王として支配しているのを見たのです。

 現実に肉眼で見えるのは人間が支配する世界です。ヨハネが生きていた当時でありますならば、それはローマ皇帝が頂点に立って支配している世界です。パトモス島に抑留されているヨハネもまた、ローマ皇帝の権力のもとに、その悲惨かつ孤独な生活を強いられていたのです。当時の教会は、この世の権力に翻弄されている、嵐の中の木の葉のような存在でしかなかったのでしょう。しかし、ヨハネはそこで神の玉座を見たのです。その王なる神を礼拝する、天の礼拝を見たのです。そうです、本当の支配者はまぎれもなく王なる神であることを目の当たりにしたのです。

 ヨハネは言葉を尽くして、彼が目にした神の玉座の栄光を描写しようと試みます。「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」(3節)。もちろんこの宝石による描写はあくまでも地上の言葉です。地上の言葉では十分に表現できるわけありません。しかし、それでも言わんとしていることは分かります。栄光に輝くまことの王がおられる。礼拝とはそのまことの王を仰ぐことに他ならないのです。

 私たちはまことに不遜なものです。いつの間にか人間のすることがすべてであるかのように生活しているのです。人間の力が最終的にこの世界を左右するかのように、人間のすることが自分の人生を最終的に左右するかのように生きているのです。しかし、そうではないのです。天には玉座があるのです。最後の言葉を持っているのは王なのです。そのことをへりくだって認めてまことの王を仰ぎ望み礼拝する。それが主の日において私たちがしていることなのです。

冠を投げ出して
 またヨハネはそこに24人の長老たちを見ました。また玉座のまわりに四つの生き物を見ました。それらについては実に不思議な描写が続いています。これら長老たちが誰であり、四つの生き物がいったい何であるのかは定かでありません。しかし、彼らが誰であれ、何であれ、本当に注目すべきは彼らが礼拝するその姿なのだろうと思います。

 この四つの生き物は、夜も昼も絶え間なくこう言い続けていたというのです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(8節)。さらに、24人の長老たちは、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出してこう言っていたというのです。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(11節)。

 このような描写を読みますと、私たちは礼拝するということについて、まだまだ知るべきことのごく一部しか知らないのだと思わされます。私たちは礼拝することの大きな喜びをまだまだ本当は知らない。これから味わい知るべきことがたくさん残されているのです。

 ここに書かれていることは、要するに、私たちが天の門が開かれているのを知り、本当に私たちが神の玉座の御前にあって礼拝していることを知るならば、もう昼も夜も絶え間なく神を誉め讃えずにはいられなくなるということでしょう。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。そのように延々と賛美せずにはいられなくなる。一つの讃美歌を4節まで歌って終わり、ではないのです。この得体の知れない生き物の姿は、真の喜びをもって主を礼拝することを知っている者の姿なのです。

 そして、主を礼拝することを本当に知るならば、冠をかぶっている者がもう自分の冠をその前に投げ出したくなるということなのでしょう。もう自分の栄光など、どうでもいい!自分が受けるべき報いなど、どうでも良くなるのです。自分がどう評価されたか、どういう扱いを受けたか、どう報いられたか…そんな思いを後生大事に抱えているとするならば、それはまだまだ主を礼拝する本当の喜びを味わい知っていないということなのだろうと思います。

 ここに描かれている礼拝を私たちは天と一つになって共におささげしたいものです。私たちは信仰生活において、もっともっと主の日に共に礼拝をささげることの尊さ、その真の喜びを味わい知る者となりたいものです。

(祈り)

2021年10月20日水曜日

祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 3:1~11

フィリピの信徒への手紙 3:1-11

 「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(2節)。

 ここで「犬ども」と呼ばれているのはいったいどのような人たちでしょうか。「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と書かれています。彼らは異邦人も割礼を受けてモーセの律法を守るべきであると教えていたユダヤ主義者たちでした。旧約聖書において、なるほど割礼は神との契約のしるしであり、神の民であることの見えるしるしです。そこに心惹かれるフィリピの異邦人キリスト者もいたのでしょう。それゆえにパウロは激しく警告を発するのです。「注意しなさい。気をつけなさい。警戒しなさい」と。三つの異なる言葉で訳されていますが、原文は同じ言葉です。「気をつけなさい!」何が問題なのでしょう。一言で言うならば、それは人間の「誇り」です。

 ここで警告を発するパウロも、一ユダヤ人として、自分自身について誇れるものをたくさん持っていました。5節以下に列挙されています。パウロは生まれて八日目に割礼を受けた人でした。すなわち、異教から改宗した者ではなく、生まれながらのユダヤ人だということです。そして、ベニヤミン族の出身です。イスラエル初代の王が出た部族の出身です。そして彼はタルソというヘレニズム世界の一都市で生まれ育ったにも関わらず、そのヘレニズム思想の影響を受けることなく、イスラエル古来の厳格な伝統の中で育ちました。そのことを彼は、「ヘブライ人の中のヘブライ人」と表現します。

 これらに加えて、パウロはパウロ自身が追求して得た誇りについて語ります。まず彼はファリサイ派に属しました。厳格に律法を守った一派です。そして、彼は実に熱心な宗教家でした。どれほど熱心であったか。キリストの教会を迫害するほどだったのだ、というのです。もちろん、教会を迫害したことをパウロは後悔していたはずです。しかし、それでも、あの迫害は神に逆らう思いでしたのではなくて、むしろ神について熱心であったからそうしたのだ、ということは否定しないのです。かつてはその熱心さもまた彼の誇りであったのです。そして最後にパウロはこのように言い切ります。「律法の義については非のうちどころのない者でした」と。

 なぜパウロはこんなことを言っているのでしょうか。それは、あのよこしまな教師たちが自分自身を誇っているからです。自分が割礼を受けていること、そして律法を守っていることを誇りにしているからです。その誇りに寄り頼んで生きているからです。「肉に頼る」とパウロが言っているのはそういうことです。そして、フィリピの人たちもそのような誇りを得たいと望み始めていたのです。肉に頼り始めていたのです。それゆえに、パウロはそのような自らの人間的な誇りについて語ってから、次のように断言するのです。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(7‐8節)。

 パウロは既に述べた誇りに生きていたことを、まったく無駄なことであったと言うのです。いや、むしろ、そのように生きてきたことを損失であるとまで言うのです。なぜでしょう。それはパウロがキリストを知ったからです。これは「キリストについて知った」ということではありません。キリストを知ったのです。言い換えるなら、キリストによって救われたということです。人間が誇るべき何かによって救われたのではありません。キリストにおいて現された神の恵みによって救われたのです。

 その時、もはや今までより頼んでいた人間的な誇りはいっさい無用になったのです。生きることの根拠が変わってしまったからです。生きることの根拠は人間的な誇りにあるのではなく、神の圧倒的な恵みにあることを知ったからです。それゆえに、どんなに誇るべきものがあったとしても、それが神の恵みを知ることを妨げるならば、それは損失でしかないのです。

 フィリピの人たちは、その恵みを知っている人たちであるはずでした。その彼らに今、肉に寄り頼んで生きることへの誘惑が臨んでいるのです。だから「気をつけなさい」とパウロは言うのです。私たちも気をつけなくてはなりません。私たちが真に頼るべきは永遠に変わることのない神の愛であり神の救いの恵みなのです。

 そして、生きることの根拠が変えられるということは、生きる目標もまた変わることを意味します。パウロはこのように言うのです。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(11節)。

 日本語訳にしますと分かりにくいのですが、10節の前半は知るべき三つのことに言及しているのです。一つは「キリストを知る」ということです。原文では「彼を知る」という言葉です。二つ目が「その復活の力を知る」ということです。そして、三つめが「その苦しみにあずかることを知る」ということです。これは「その苦しみにあずかって」と訳されています。なぜこんな細々としたことを一々ここで申すかと言いますと、実はこの三つがひとつのこととして語られているところに大きな意味があるからです。すなわち、キリストを知ることは、キリストの復活の力を知ることであり、キリストの苦しみに共にあずかることを知ることなのです。これらは切り離すことが出来ないのです。

 ではキリストの苦しみに共にあずかるとはどういうことでしょうか。キリストは自らの罪の結果を刈り取って苦しまれたのではありません。キリストが苦しまれたのは一重に神に従い、人を愛するためでした。キリストは神の御心を実現するために苦しまれたのです。そしてキリストは人を愛し、人を救うために苦しまれたのです。この苦しみを共有することがここで言われていることの内容です。私たちがもし神に従い、人を愛して生きようとするならば、必ず苦しみをも負うことになるのです。そして、それはキリストと苦しみを共にすることに他ならないのです。

 そして、パウロは苦しみを共にすることのみを語っているのではなく、「復活の力を知る」ことについても語るのです。復活の力とはなんでしょうか。それはキリストを復活させた神の力です。その力を私たちが知るのだというのです。同じ力が私たちの内にも働くのです。漫然と自分のためだけに生き、苦しみを回避する道ばかりを選び取ろうとしている人が、神の力のリアリティを経験できないとしても、それは当然のことなのです。キリストと苦難を共にするときに、人は復活の力を経験するのです。

 そして、地上において経験する復活の力は、私たち自身の復活の希望をもたらします。私たちはこの地上でキリストと共に苦しんで、それで終わりではないのです。死は命への門となるのです。パウロは苦しみを共有することについて語り、「死の姿にあやかる」ということで話を終えません。その後にこのように言っています。「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と。すなわち、パウロには死の向こうに目を注いでいるのです。

(祈り)

2021年10月17日日曜日

「主を待ち望んで生きる」 

 マタイによる福音書 25:1‐13

賢いおとめたちと愚かなおとめたち
 今日はイエス様のたとえ話をお読みしました。そこに「十人のおとめ」が出て来ます。その十人が半々に分かれます。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」(2節)と語られているのです。今日の話は愚かな人と賢い人の話です。

 譬えとして用いられている題材は「結婚式」です。私たちが知っている結婚式とかなり勝手が違います。まず花婿が花嫁の家に来て前祝いをし、続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われたようです。そのような結婚式を行うためには多くの人々の助けが必要でしょう。そのため、婚宴に招かれている人々が様々な役割を担うことになります。

 例えば花婿が花嫁の家に到着する時に、迎えに出るという役割があります。時として町外れにまで出て花婿を迎えなくてはなりません。花婿が遅くなることもあったようで、夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時にはランプに火をともして待つのです。その役割を託されたのが、この「十人のおとめ」でした。

 この十人が賢い五人と愚かな五人に分かれました。片方はともし火と共に油の用意をしていました。もう片方はともし火は持っていたけれど、油の用意はしていませんでした。前者は「賢いおとめたち」と呼ばれ、後者は「愚かなおとめたち」と呼ばれています。聖書が何を「賢い」と呼び、何を「愚か」と呼んでいるかは明らかです。先のことまで考えて備えている人を聖書は「賢い人」と呼び、目先のことしか考えていない人を「愚かな人」と呼ぶのです。

 片方は花婿を迎えて婚宴の席に着くまでのことを考えていました。花婿は遅くなるかもしれません。しかし、到着がいつになろうが、たとえ夜中になろうが、ともかく待って迎えるつもりでいたのです。そのために、ともし火だけでなく、一緒に油も備えました。そのように、先のことまで、終わりのところまでを視野に入れて考えている。それが賢い人です。

 一方、もう片方のおとめたちはその時のことしか考えていませんでした。同じようにともし火を持って出ました。しかし、それは夜だからであり、暗かったからです。「今」必要だから持って出ただけの話です。しかし、待って迎えてお連れして婚宴に至るところまでは考えていませんでした。ですから油は用意してはいないのです。そのように目先のことしか考えていない。それが愚かな人です。

 賢い五人も愚かな五人も外から見たら何も変わらないに違いありません。先のことまで考えて油を用意していようが、目先のことだけ考えてともし火を持って出ただけであろうが、ある時点までは大差ないのです。このたとえ話においてはあえて、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5節)と書かれているのです。賢い人も愚かな人も眠り込んでしまった。そのように、途中まではこの両者はまったく区別つかない。そういうものです。

 しかし、途中においては大差ないとしても、結末では大きな違いが出てくるのです。イエス様のたとえ話においては、このように表現されています。「用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」(10-12節)。

 そのように、このたとえ話は愚かな人と賢い人の話です。最終的にその違いがはっきり現れるという話です。その意味ではたいへん恐ろしい話でもあります。イエス様が語っておられる違いは、それこそ取り返しのつかない違いです。それは最終的な「救い」と「滅び」と言い換えてもよいでしょう。

祝宴に招かれている人として
 しかし、これを単に恐ろしい話として受け取るならば、イエス様のたとえ話を正しく聞いたことにはなりません。なぜなら、このたとえ話そのものは結婚式を題材としたものだからです。それが今日の日本であれ当時のユダヤであれ共通して言えることは、結婚式には「喜び」があるということです。そして、当時のユダヤにおいては、私たちが考える以上に、それは大きな喜びなのです。それは一般的に一週間も祝いが続けられたということにも現れています。

 普段は苦しく辛い生活があるかもしれません。しかし、その時はとにかく大いに喜び楽しむのです。ですから、イエス様が「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」と語り出した時、これを聞いた人々がまず心に思い浮かべたのは、その後に行われる喜びに溢れた祝宴であり、喜びに輝く人々の笑顔であったはずなのです。

 そもそもイエス様はなぜこのたとえ話をされたのでしょう。その前の章から読みますと、イエス様は世の終わりの話をしていたのです。弟子たちがイエス様に尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」(24:3)。そのような流れの中で、この「結婚式」の話が語られているのです。

 確かに全ての物事には始まりがあり、終わりがあります。個々の人生にも始まりがあり、そして終わりがあります。聖書によれば、この世界にも始まりがあり、そして終わりがあるのです。しかし、人生の終わりにしても、世の終わりにしても、そのことについて考えることは一般的にとても恐ろしいことでしょう。しかし、イエス様は「終わり」について語るときに、「結婚式」の話をなさったのです。

 そして、ここに出てくる十人のおとめは皆、基本的には婚宴に招かれている人たちなのです。そして、彼らはまさにその喜びの場へと招待してくれた花婿を迎えに出ようとしている人々なのです。そのようなおとめたちが題材とされているのです。そして、「このおとめたちこそ、このたとえ話を聞いているあなたがたのことだ」と語られているのでしょう。これは私たちの話なのです。そのように最終的な大きな喜びへと招かれている私たちとして、このたとえ話を聞いているのです。

 全てには終わりがあります。終わりは必ず訪れます。ならば、人生の終わりにせよ、世の終わりにせよ、これを悲しみや虚しさや恐怖としてしか語れないとするならば、それは実に不幸なことです。私たちは、そのような不幸な人として生きる必要はありません。イエス様は終わりを婚宴に喩えられたのです。私たちを、婚宴へと招かれている人として喩えてくださったのです。

 ならば私たちは、そのような喜びに満ちた終わりまでを視野に入れて生きたらよいのです。婚宴に招いてくださった花婿を迎え、その御方によって大きな喜びへと導き入れられるその時までを視野に入れて生きたら良いのです。結局、イエス様が語られた「賢いおとめたち」というのは、そのような人のことなのです。目先のことではなく、先のことまで考えている人。その先とは、最終的に花婿を迎えて花婿と共に婚宴の席に入り、大きな喜びにあずかるその時までを考えている人です。

 もちろん、それまでは待たなくてはなりません。待っている間は寒いかもしれないし、辛いかもしれない。そのように私たちの人生もまた、喜ばしいことばかりではありません。忍耐しなくてはならないことは山ほどあります。しかし、花婿と共に婚宴の席に入る時までを考えていたら、忍耐もできるし、そこで喜びも溢れてくるのでしょう。そのように喜びながら忍耐して、喜びに溢れて待つつもりでいる。待ち望んで生きている。それが「油を備えている」ということなのです。そのような「賢いおとめたち」として、私たちもまた生きたらいい。そのために、このたとえが私たちに語られているのです。

他ならぬ自分が生きる人生として
 そして、ここにはもう一つの大事なことが語られています。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言いました。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えます。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」(8‐9節)

 これが分かち合いとか助け合いを教えるたとえ話なら、違う展開になっていたはずです。「彼らは油を分け合って、ともし火の数を減らし、一緒に花婿を迎えることができました」という話になるでしょう。しかし、主はそのようには語られませんでした。

 ここには、人生の厳粛な一面がはっきりと語られているのです。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。他の人に代われることと代われないことがある。そういうことです。その人がどのように生きてきたかということは、最終的には他の人と分かつことも、代わることもできないことなのです。大きな喜びへと向かっている人として「賢いおとめ」として生きたかそうでないかは、その人の人生なのであって、他の人は代わってあげられないのです。

 それはまた、周りの人の責任にできない厳粛さであるとも言えるでしょう。愚かなおとめたちは、「あの人たちが油を分けてくれなかったからです」と言って彼らのせいにすることはできなかったのです。私たちは、自分がどう生きたかということについて、周りの人々の責任にしたくなるものでしょう。「あの人のせいでこうなった。この人のせいでこうなった」と。「こんな私に誰がした」と。

 しかし、「彼らが油を分けてくれなかった」という言い訳が通用しなくなる時が来るのです。最終的に問われるのは、「他の人がどうであったか」ということではありません。あくまでも、「あなたはどうであったか。あなたはどう生きたか。賢いおとめとして生きましたか」ということが問われるのです。

 私たちは皆、祝宴へと招かれている人としてこのたとえ話を聞いています。そして、この言葉にどう応答するのか、ここから始まる日々をどう生きるのかは、他の人々に責任を問えない、私たち自身の問題です。今までがどうであれ、ここから私たちは喜びの祝宴に招かれている人として、やがて花婿を迎え、花婿と共に大きな喜びにあずかるはずの人として生きていこうではありませんか。

(祈り)

2021年10月13日水曜日

祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 2:19~30

フィリピの信徒への手紙2:19‐30

 今日の箇所にはテモテとエパフロティトという二人の人物が出てきます。

 テモテは小アジアのリストラ出身で、父親はギリシャ人、母親は信仰深いユダヤ人でした。そのような家庭の中で幼い頃から聖書に親しんできた彼はやがてキリスト者となりました。彼はその地域のキリスト者の中で非常に評判の良い人でした。そのような彼を、第二回の伝道旅行中にリストラに立ち寄ったパウロは心に留め、その後の伝道旅行に連れていくことにしたのです。以来、テモテはパウロの同労者として働くことになりました。フィリピの教会が誕生した次第は使徒言行録16章に記されていますが、その時にも、テモテはパウロと共にそこにいたのでした。

 今日の箇所でパウロはそのようなテモテについて次のように語っています。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」(20節)。そして、そのようなテモテと対比して「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」(21節)と続けます。それはすなわち、「テモテは彼らと違って、自分のことではなく、イエス・キリストのことをを追い求めている」ということでしょう。

 そのように、テモテは教会を愛している人でした。その一人一人を親身になって心にかけている人でした。そして、自分のことではなくキリストのことを追い求める人でした。パウロの言い回しに注意してください。彼はこれら二つを分けていません。教会を親身になって心にかけることと、自分のことではなくキリストのことを求めことは、異なる二つのことではないのです。

 これは何も伝道者にだけ関わることではありません。私たちは「キリストのために」と言い、キリストのことを追い求めているように思っているかもしれません。しかし、もし、私たちがキリストの体である教会、キリストが血によって贖われた教会を心にかけ、愛していないとしたら、その言葉は偽りになってしまいます。その意味で、ここに書かれているテモテの描写は、私たちが常に心に留めておかねばならない姿であろうと思います。

 次に挙げられているのはエパフロディトという人です。彼はフィリピの教会員でした。彼に大きな使命が託されました。投獄されたパウロのもとに贈り物を携えて行き(4:18)、しばらくの間パウロに仕えるという使命です。当時そのように外の人が囚人の世話をすることが許されていたのです。彼はローマへと長い旅をし、パウロに関して心配がなくなるまでそこに留まり、パウロの手助けをしてその使命を全うし、フィリピに意気揚々と帰るはずでした。そしてフィリピの信徒たちからも大喜びで迎えられ、そこで喜びに溢れて成し遂げた仕事の報告をするはずでした。

 しかし、現実はそのようにいきませんでした。彼は病気になってしまったのです。しかも、それは瀕死の重病でした。パウロの手助けとなるべく遣わされたのに、一転してパウロの重荷となってしまいました。病のために動くに動けません。フィリピにも帰れません。そこに留まるしかありませんでした。困ったのはパウロでしょう。それは私たちが想像する以上に困難な状況だったと思います。

 その病気のことがフィリピの信徒たちにも伝わりました。そのことを知ったエパフロディトはどんなに苦しんだことでしょうか。「自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っている」(26節)。それはそうでしょう。祈りをもって送り出してくれたフィリピの教会です。その彼らに、期待にまったく応えることの出来なかった自分のことが知れているというのですから、エパフロディトは居ても立ってもいられないような気持ちであったと思います。

 幸い一命は取り止めました。病気は快方に向かいました。恐らくはまだ完全に治ったわけではないのでしょう。しかし、これ以上留まってもまた迷惑をかけるかも知れません。フィリピの教会から託された働きの半ばにおいて、獄中のパウロを残してローマを去ることは、無念極まりないことであったに違いありません。しかし、やはり慕わしいのは送り出してくれたフィリピの教会です。エパフロディトはしきりにフィリピの人たちに会いたがります。パウロもこの申し出に同意しました。エパフロディトを送り返すことにしたのです。

 さて、そのようにパウロがエパフロディトを送り返すに当たって書いているのが25節以下です。結局はパウロの重荷になってしまったエパフロディトについて、「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」と書くのです。そして、次のように指示を出します。「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい」(29節)。エパフロディトは自分が歓迎されるべき人間、敬われるべき人間であるとは思えなかったに違いありません。しかし、パウロはエパフロディトのような人こそ歓迎されるべき人であり、敬われるべき人であると言うのです。なぜでしょうか。この人物を、自分との関わりにおいてではなく、神との関わりにおいて見ているからです。

 それが良く現れている言葉の一つは27節です。「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました」(27節)。具体的には、病状が好転したということでしょう。しかし、神の憐れみへの言及は、それ以上のことを語っています。使命を果たし得なかったエパフロディトを神は彼を裁いてはおられない。エパフロディトは自分を責めたかも知れませんが、神は決して責めてはおられない。「神は彼を憐れんでくださいました」というパウロの言葉の中には、そのようなパウロの思いが込められているのです。

 そして、もう一つは30節です。「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」(30節)。エパフロディトがキリストを宣べ伝えて迫害に遭い、暴徒に襲われて大怪我をして死にそうになったのでしたら、このパウロの言葉は容易に理解できます。しかし、エパフロディトはそのような形で死にそうになったのではないのです。彼はたまたま病気になって、死にそうになったのです。それを「キリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭った」と表現するのはある意味では不可思議です。

 しかし、パウロが方便として「キリストの業に命をかけた」という表現は用いないでしょう。彼は本気でこの部分を書いているのです。パウロはエパフロディトの中に、本当に、命がけの奉仕者の姿を見たのです。結果的には病気によって中途半端な働きに終わったかも知れません。しかし、結果はどうであれ、それでもなおエパフロディトは命がけの奉仕者だったのです。エパフロディトは確かに自分の命をキリストのものとして捧げていたからです。パウロはその事を見逃さなかった。そして、神もまたそのことに目を留めていてくださることを、彼は知っていたのです。

(祈り)

2021年10月10日日曜日

「神のものは神に返しなさい」

マタイによる福音書 22:15‐22

巧妙な問い
 ある人たちがやってきて、イエス様に尋ねました。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(16‐17節)。

 ここで問題になっているのは《皇帝に納める税金》です。これは、紀元6年にユダヤがローマの直轄支配地になると共に導入された人頭税です。人頭税はその構造上、経済的な弱者に大きな打撃となります。この重荷はローマ支配下にあったユダヤの人々の生活に重くのしかかっていたに違いありません。ですから多くの民衆は納税には否定的でした。

 しかし、それだけではありません。そこにはさらに大きな宗教上の問題があったのです。納税に用いられるのは、ローマのデナリオン銀貨です。そこに刻まれているのは皇帝ティベリウスの肖像です。そして、肖像と共に次のような言葉が刻まれておりました。「いと高き神の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」。つまりそこには政治的権威だけでなく、その神的権威の主張が刻まれていたのです。それゆえに、そのようなデナリオン銀貨をもって、神と等しい権威を主張している皇帝に税を納めることは、民族のアイデンティティと彼らの信仰に関わる極めて重大な問題だったのです。
 
 この納税に最も強く反対していたのは、ガリラヤを中心として活動していた熱心党の人々でした。強硬な民族主義者たちであり、後にローマからの独立を目指してユダヤ戦争を戦うことになる人々です。今日の箇所に出てきます、ファリサイ派の人々は彼らよりは穏健でした。律法に忠実に生きようとしている彼らはもちろん納税に反対していましたが、現実的な判断から、納税拒否にまでは至りませんでした。一方、今日の箇所に出てきますもう一つのヘロデ派は、この納税に肯定的でした。ローマに隷属するヘロデ王家を支持する彼らは、そこから少なからぬ利益を得ていたからです。

 そのようにユダヤ人の間でも立場が分かれる中にあって、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問いは、本来は極めて重大な意味を持つ、真面目な信仰的な問いであったはずです。しかし、大事な問いを発する人が、必ずしもその答えを真剣に求めているとは限りません。実際、彼らの目的は別なところにありました。彼らがわざわざ質問をするために訪ねてきた意図は、その直前に書かれております。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」(15節)。彼らの目的は、主を罠にかけることだったのです。

 この質問者たちの背後にいるのは、ユダヤの権力者たちです。彼らがどうしてわざわざイエスの言葉じりを捕らえるための罠を仕掛ける必要があったのか。その理由は21章の終わりに次のように記されています。「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」(21:45‐46)。

 要するに、イエスを捕らえて殺そうとしていた彼らにとって、最大の障害は群衆の存在だったのです。この状況のもとで、イエスを亡き者とする方法は二つに一つしかありませんでした。一つは、群衆の支持を失わせてイエスの敵となるようにすること。そうすれば、群衆の騒ぎを恐れずに、イエスを捕らえることができます。もう一つは、イエスをローマ帝国に逆らう扇動者に仕立て上げること。そうすれば、ローマの国家権力によって、合法的にイエスを抹殺することができます。そこで巧みに考え出されたのが、この納税に関する問いだったのです。

 イエス様がもし、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」と答えたらどうなるでしょう。イエスを取り巻いている群衆の多くはローマからの解放を心から願っている人々です。この答えにより、主は民衆の支持を失うことになるでしょう。むしろ民衆は敵に回るかもしれません。先に挙げた一つのことが実現します。彼らは安心してイエスを捕らえることができます。

 では、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適わない」と答えたらどうでしょう。この宣言は、多くの群衆が待ち望んでいた反ローマ闘争の幕開けと映るに違いありません。それは人々の反ローマ感情に火をつけ、現実に熱狂的な行動を引き起こすかもしれません。そうすればローマ軍が介入してくれます。いや、仮にそうならなくても、ローマに逆らうようにと群衆を扇動したと、当局に訴えることができるでしょう。

 このように、どちらに転んでもイエス様は窮地に追いやられることになります。彼らの目的は、こうして実現するのです。このような敵意と憎しみに満ちた企てが、敬虔な言葉の装いのもとに実行されたのです。

 先にも申しましたように、信仰に関する問いを発する人が、必ずしも真剣に答えを求めているとは限りません。敬虔な言葉をもって議論をする人が、必ずしも神御自身に関心があるとは限りません。その心の満ちているのは、悪意、敵意、分派心、あるいは自己保身的感情でしかないかもしれないのです。

 ここを読んだ人は、もしかしたら、イエス様のもとに来た質問者やその背後にいる人々に関して、いかにも悪そうな、ずる賢そうな、人相の悪い人間を想像するかもしれません。しかし、多くの人々の目に映っていた彼らの姿は、恐らくそれとは全く異なるのです。ユダヤ人社会において、彼らは真面目で敬虔な人々と見なされていたのです。立派な人として、一般的には尊敬の対象だったのです。

 極悪非道な犯罪が報道される時、そこに人間の罪の恐ろしさを見るのでしょう。しかし、本当の意味で恐るべき人間の罪深さは、むしろ世において明るく見えるところ、真面目さや正しさがあるように見えるところ、正義の主張が声高になされるところにこそ、あるのです。実際、人間はあからさまな犯罪においてよりもはるかに恐るべきことを、正義の名の元に行ってきたのでしょう。そのような表向きを美しく装った恐るべき人間の罪のただ中に、イエス様は立っておられるのです。

神のものは神に返しなさい
 そこで主は彼らに言われました。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らは納税に使うデナリオン銀貨を持ってきました。そこで主は問われます。「これは、だれの肖像と銘か。」彼らは、現実の貨幣を前にしては、ただ事実を述べるしかありません。彼らは言います。「皇帝のものです。」すると主は言われました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。

 「皇帝のものは皇帝に返しなさい」。もちろんイエス様は、「皇帝が絶対的な権威を持っているのだから、たとえ不本意であっても税は納めなくてはならないのだ」と言っているのではありません。むしろ逆なのです。「皇帝が絶対者であるわけでも、神に等しいわけでもないのだから、税を納めよ」と言っているのです。

 皇帝が銀貨に自分の肖像を刻ませ、「神の子ティベリウス」と刻ませているのは、明らかに絶対的な権威の主張です。しかし、イエス様はこの世の権威などというものを完全に相対化しているのです。笑い飛ばしていると言って良いかもしれません。要するに、「ティベリウスがカネに自分の肖像を刻ませて、あたかも自分が神であるかのように、この帝国はオレのものだ、帝国のカネはオレのものだと言っているなら、返してやったらいいじゃないか」と言っているのです。銀貨に刻まれている肖像と権威の主張、それは大して重要な問題ではないのです。本当に聞くべき絶対的な意味を持つ言葉は別にあるからです。それが次に来るのです。主はさらに言われました。「神のものは神に返しなさい」。

 皇帝の肖像が刻まれている銀貨を「皇帝のもの」と呼んだ後に、イエス様は「神のもの」ついて語られました。それが何を意味するのかは、そこで聞いていた人には明らかであったに違いありません。皇帝の肖像ならぬ《神の像》が刻まれているのは――人間です。銀貨の肖像が帝国に対する皇帝の支配を表しているように、神の像が刻まれた人間の存在は、この世界に対する神の支配を表しているのです。人間は神のものです。そして、この世界もまた神のものなのです。「神のものは神に返しなさい」――納税の問題で罠にかけようとして主のもとに来た人々に、主はいわば絶対的な意味を持つ問いを突き返したということでしょう。「そもそもあなたは神のものを神のものとして生きているのか。神のものが神に返されることを求めて生きているか」と問い返しておられるのです。

 私たちは確かに、「皇帝に税金を納めるべきか否か」という類の問題と日々向き合っています。目の前の問題について、判断を下さなくてはならないということが起こります。その判断が異なるために、対立が起こることもあります。しかし、本当に問われなくてはならないのは、「そもそもあなたは神のものを神のものとして生きているのか」ということなのです。

 実際、人間の根本的な問題は、神のものを神のものとして生きてはいない、というところにこそあるのです。すなわち、この世界が本来的に人間が所有している世界であるかのように生きている、ということです。そうして、人間はこの世界を濫用しているのです。自然を濫用し、国家権力を濫用し、与えられている隣人との関係を濫用し、親子の絆を濫用し、自分の人生を濫用しているのです。そうです、先に述べましたように、人間は神に関わることさえ濫用するのです。

 「神のものは神に返しなさい」。――まず神に返すべきは、神の像が刻まれている人間自身です。人間というこの「神のもの」が神のもとに回復されねばなりません。イエス様は、そのために十字架へと向かっておられたのです。「神のものは神に返しなさい」とは口先だけの言葉ではありません。罪の中にある人間が、罪を赦されて神のものとして神の手に返されるために、イエス様は自らをなげうつ覚悟をもって語っておられたのです。そのことが実現するために、自らが犠牲を払うつもりでおられたのです。代価を払うつもりでおられたのです。そして、事実、主は代価を払われたのです。自分の命をもって!

 「神のものは神に返しなさい」。それゆえ、私たちの為すべきことは、恵みによって神のものとされた者として、自分自身を神に献げることであり、それこそが私たちの礼拝です(ローマ12:1)。そして、神に献げられた者として、この世を神のものとして生きていくために、この世に遣わされていくのです。

(祈り)

2021年10月3日日曜日

「先に神の国に入る人々」

マタイによる福音書 21:23‐32

権威についての問答
 今日の聖書箇所は次のように始まります。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」(23節)。彼らがそのような難癖をつけてきたのは、その前日にひと騒動あったからです。それは12節以下に記されています。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。『こう書いてある。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている』」(12‐13節)。

 神殿の境内で両替したり、動物を売っていた人たちは、無断で商売していたわけではありません。きちんと神殿当局の許可を得て行っていたのです。ところが、イエス様はそのような商売人たちを境内から追い出してしまわれました。しかも、彼らを追い出した神殿の境内で、自ら人々を教えていたのです。そのようなことをすれば、当然、問われることになるでしょう。「誰がそんな権威をお前に与えたのか」と。ここに書かれているのは、そのような場面です。

 この問いに対するイエス様の答えは明白でした。「何の権威で」――神の権威によってです。「だれがその権威を与えたのか」――神が与えたのです。しかし、イエス様は彼らの質問に直接答えることはしませんでした。イエス様が「神からの権威だ」とでも言おうものなら、彼らは直ちにその発言を捕らえて問題にし始めるであろうことを知っていたからです。

 それゆえに、イエス様は逆に彼らに問い返されました。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」(24‐25節)。

 「ヨハネの洗礼」については、この福音書の3章に記されています。洗礼者ヨハネという人物がユダヤの荒れ野に現れ、人々に悔い改めを呼びかけ、洗礼をさずけていました。すると多くの人々が洗礼者ヨハネのもとを訪れ、自らの罪を言い表し、悔い改めて神の赦しを求め、洗礼を受けて新しく生き始めたのです。

 しかし、皆が皆ヨハネのもとに行ったわけではありません。当然のことながら、行かない人たちもいたわけです。ここに出てくる「祭司長や民の長老たち」はその代表です。彼らは上に立つ人々です。権威ある者として、人々を教え諭してきた人たちです。彼らは、ヨハネのもとに行って、自分が神の赦しを必要とする罪人であることを人々の前で認めることを望みませんでした。だから主は彼らに問うたのです。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と。

 彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」(25‐26節)。答えに窮した彼らは、「分からない」と答えるしかありませんでした。するとイエス様は言いました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。

 見事です。こうしてイエス様は彼らの悪意に満ちた質問をもののみごとに退けたのでした。しかし、彼らの質問を退けるだけならば、これで対話を打ち切ってよかったはずです。ところがイエス様は彼らを手放しませんでした。むしろイエス様のほうからさらに彼らに問いかけたのです。「ところで、あなたたちはどう思うか」と。そして、二人の息子のたとえを語られたのです。私たちはこのたとえ話に耳を傾けた上で、再び最初のやり取りに戻ってくることにいたしましょう。

二人の息子のたとえ
 28節以下の話は至って単純です。ここだけを聞くならば、「口先だけではだめなのだ。行動が伴わなくてはならないのだ」という単純な教訓話に聞こえます。恐らく彼らはそのように聞いていたのでしょう。だから「どちらが父親の望みどおりにしたか」という問いかけに、すぐさま「兄の方です」と答えたのです。

 実際、彼らは口先だけでなく行動こそが大事だと考えていたのです。律法を守り、神の言われるとおりに生きることが大事だと考えていたのです。ですから、律法を守らない徴税人や娼婦たち、罪人たちを見下していたのです。自分たちのように、神の望みどおりのことを行い、正しく生きている者こそが、神の国に入るのだと信じて疑わなかったのです。

 ところがイエス様が続けて語られたことは、まさにそのような彼らにとって、びっくり仰天するような言葉でした。「彼らが『兄の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(31節)。つまりイエス様は、先ほどのたとえ話で、「お父さん、承知しました」と答えたけれど、出かけなかった弟の方が「祭司長や民の長老たち」だと言っているのです。そして、「いやです」と答えたけれど、後で考え直して出かけた兄の方が「徴税人や娼婦たち」だと言っているのです。

 そんな馬鹿な!彼らはきっとそう思ったに違いありません。しかし、イエス様は次のように、その理由を説明されました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(31‐32節)。

 つまり問題は、何が父の望んでいることなのか、何が父の御心なのか、ということなのです。神は洗礼者ヨハネを遣わして義の道を示しました。父が望んでいたのは、洗礼者ヨハネを信じ、その義の道に従うことだったのです。その「義の道」とは何でしょう。それは自分が罪人であることを認め、神に立ち帰り、赦しを求めることなのです。それこそがメシアを迎えるための準備なのであり、救いに至る義の道なのです。

 徴税人や娼婦たちは、自分が罪人であることを認め、罪の赦しを願い求め、洗礼を受けました。彼らはそれまで、父に向かって「いやです」と言ったあの兄のような生き方をしてきた人です。しかし、最終的に「父の望みどおり」のことをしたのです。

 一方、祭司長や民の長老たちは、この世的に見れば、いわゆる「良い子」です。「お父さん、承知しました」とすぐさま答えるあの弟のような「良い子」なのです。しかし、父の望みどおりのことはしなかった。ヨハネを通して与えられた呼びかけに応えようとはしなかったのです。自分が悔い改めねばならない罪人であるとは認めなかったのです。いや、もしかしたら心の内では自分の本当の姿を認めていた人がいたかも知れません。しかし、結局はそれを公に現そうとはしませんでした。真に神と共に生きることよりも、世間体や体面の方が大事だったからです。彼らは良い子でしたが、「父の望みどおり」のことをしませんでした。

 だから主は言われたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。すなわち、徴税人や娼婦たちの方が、先にメシア・キリストに出会うのです。先に罪の赦しに与るのです。神の恵みに与るのです。先に神と共に生き始めるのです。先に救いに与るのです。先に神の国に入るのです。

再び権威の問答に戻って
 さて、最初の問答に戻ります。イエス様が洗礼者ヨハネに言及したのは、単に彼らの質問を退けるためではありませんでした。先に申しましたように、もしそうならば、この二人の息子のたとえは不要なのです。イエス様が洗礼者ヨハネのことを持ち出したのは、イエス様に与えられている権威が何であるかを示すためだったのです。神がキリストに与えた権威は、罪の赦しを与えることのできる権威なのです。

 そのことを良く示しているのが、この福音書の9章に出てくる物語です。主は御自分のもとに連れてこられた中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)と言われたのです。これを聞いた律法学者は「この男は神を冒涜している」と思いました。罪の赦しを宣言するということは、自らを神と等しいものとすることに他ならなかったからです。しかし、主はそのような彼らの心を見抜いてこう言われたのです。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人を癒されたのでした。

 このように、神がキリストに与えた権威、それは最終的には罪の赦しをもたらすための権威なのです。キリストを信じるということは、罪の赦しを与えることのできるキリストの権威のもとに身を置くことに他ならないのです。当然のことながら、それができるのは、自分が罪人であり、罪の負債を背負っていることを認める人だけです。神に赦していただいて、新しく生きたいと願う者だけなのです。すなわち、ヨハネの示した義の道を受け入れる者だけなのです。

 だからイエス様は彼らに問うたのです。「ヨハネの洗礼は、天からのものか、それとも、人からのものか」と。ヨハネの示した義の道を退ける者に対して、神の権威について語っても意味がないからです。だから彼らに対して、「何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と主は言われたのです。

 しかし、それはイエス様が彼らを見捨ててしまわれたということではありませんでした。イエス様はそれで話を打ち切らなかったのです。二人の息子のたとえを語られたのです。これはイエス様の最後の呼びかけであったとも言えます。なぜなら既にキリストはエルサレムにおける最後の一週間に入っているからです。「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとはしなかった」――これは裏を返せば、今からでも考え直して、ヨハネの示した義の道を受け入れ、キリストの権威のもとに身を置くようにとの呼びかけに他ならないのです。

 「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と主は言われました。――そうです、確かに彼らの方が先でしょう。しかし、後からでも良いのです。「私は正しい。私はこのままで良いのだ」と言い張らないで、自分が赦しを必要としている罪人であることを認め、罪を赦すことのできる御方のもとに身を置いて、そして神の国に入るべきなのです。それが父の望んでおられたことだったのです。そして、その父の望みは、今日もなお変わりません。父は今日の私たちにも語っておられるのです。「子よ、今日、ぶどう園へ行きなさい。今日、父の望んでいることを行いなさい」と。
(祈り)

2021年9月29日水曜日

祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 2:1~11

フィリピの信徒への手紙 2:1‐11

 パウロは今、獄中にいます。もしかしたら、生きて外に出ることはできないかもしれない。そのパウロがひたすら願ったのは、自分が解放されることではありませんでした。フィリピの教会の人々が「心を合わせ、思いを一つ」にすることだったのです。

 しかし、人と人とが「心を合わせる」ということは、何と難しいことでしょうか。表面的な争いや混乱をなくすことは、さほど難しいことではないかも知れません。秩序を保つことだけなら上からの強制力によって成し遂げられます。強者が一人いれば秩序は保たれます。しかし、「心を合わせ」ることは、支配力や強制力によって成し遂げることはできません。それは平穏であること以上のことです。それをパウロは教会に求めているのです。

 これはある意味で驚くべきことでもあります。教会には様々な人が集まっています。いや正確にはキリストによって集められています。ですからそこに属する人々は、それぞれ生まれ育った環境も違います。生活事情も違います。社会的な思想についても異なる背景を持っています。ある人は奴隷です。ある人は自由人です。ある人はユダヤ人であり、ある人は異邦人です。しかし、そのような教会について、パウロは「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」することを本気で願っているのです。

 そのようにパウロが語り得るのは、前提があるからです。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」(1節)と彼は言うのです。「あるなら」と書かれていますが、それは「あるのだから」という意味です。

 彼らはキリストの励ましに既に与っているのです。愛の慰めに与っているのです。これは明らかに、《神の愛の慰め》ということでしょう。そして、聖霊による交わりが与えられているのです。そこに語られているのは、三位一体の神による救いの恵みです。その恵みに共に与っているはずなのです。それが教会です。ならば同じ恵みに与っているものとして、《一つとなっていること》は教会にとって本質的に重要なことなのです。

 では、どうしたら良いのでしょう。そこでパウロの具体的な勧めの言葉に耳を傾けましょう。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3‐4節)。ある意味では拍子抜けするほど、ありきたりのことしか書かれていません。しかし、そこで考えたいと思うのです。ありきたりのことが本当の意味で問題とされ得るのは、神の御前においてです。この言葉においてライトが当てられているのは、人間の行動の内面にある最も深い動機の部分なのです。それは通常いくらでも繕うことができるのです。「世の人々のためなのだ」と言うことができる。「神のために、キリストのために」と言うことのできるのです。

 しかし、本当にそこにあって人を動かしているのは、もしかしたら利己心や虚栄心かも知れないのです。へりくだっている素振りは見せることができるかも知れません。しかし、本当にそこにあるのは傲慢さであり高ぶりであるかも知れないのです。その深い部分が本当の意味で問題とされ得るのは、神の御前において、神との関わりにおいてなのです。ですから、キリストを信じ、神を礼拝する《教会》に、あえてこのようなことが書かれているのです。主の御前において、聴くべき言葉だからです。

 それゆえに、パウロはここで話を終えないのです。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(5節)。そう言ってパウロはキリストについて語り始めるのです。と言いましても、これはパウロ自身の言葉ではありません。彼が引用しているのは当時の教会において歌われていた讃美歌であると言われます。

 この美しく整ったキリスト賛歌は二つの部分に分かれます。前半は6節から8節です。後半は9節から11節です。この歌と先ほどの「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって…」という勧めとのつながりは明白です。この歌の中に「自分を無にして」という言葉や「へりくだって」という言葉が出てくるからです。まさに《まったく利己心に生きなかった方》《徹底的にへりくだられた方》としてキリストの姿が提示されているのです。

 しかし、パウロは、単に「このイエスさまの姿に倣いましょうね」という意図で、この歌を引用しているのではありません。8節の「十字架の死に至るまで」という言葉に注目に値します。先ほどこの歌は前半後半に分かれると申しましたが、実は前半部分の方が少し長いのです。歌としてのリズムを乱しているのは、この「それも十字架の死に至るまで」という言葉です。引用する際にパウロが書き加えたのです。つまり、ここにパウロの強調点があるということです。

 パウロが「十字架の死」について語る時、彼の念頭にあるのは、「わたしたちの模範として死なれた」ということではありません。「わたしたちの罪のために死なれた」ということです。ここに歌われているのは、キリストの従順を通して実現された、十字架の死を通して実現された、神の救いの御業なのです。ですから、最終的に、「すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」という言葉に至るのです。

 キリストは神と等しい者であることに固執しようとは思われませんでした。御自分を無にして、僕の身分となられました。人間と同じ者になられました。そして、徹底的に低くなられて十字架の死に至られました。何のためですか。誰のためですか。私のためであり、あなたのためです。

 それは罪人である私たちを救うためでした。腹の底にある利己心によって動き、虚栄心を満たすために事を図り、大義名分によって高ぶりを覆い隠している、罪深い私たちを救うためでした。人を貶めて満足し、自分が高くされることばかりを追い求めている、そのような私たちを救うためでした。そのような私たちの罪を贖い、私たちが罪を赦されて神と共に生きるようになるために、キリストは神の栄光を捨てて十字架の死に至るまで従順に、神の御心に従われたのです。

 これは恐らくフィリピの教会の人たちが、繰り返し歌ってきた讃美歌なのでしょう。彼らが礼拝をする時に、パンを裂き、ぶどう酒を分け合い、キリストの死を覚えつつ礼拝するなかで、この歌をうたってきたのでしょう。まことに私たちのために十字架にかかってくださったイエスこそ、私たちの主であると歌ってきたのでしょう。そのように、彼ら自身が口にしてきた歌を、彼ら自身が口にしてきた信仰を、今、パウロは彼らに指し示すのです。

 そして、これを読んでいる私たちにも指し示しているのです。そのように歌い、そのように信仰を言い表し、そのようにキリストの体と血にあずかる者として、私たちは先の勧めの言葉をも受け取るのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。そこにおいて初めて一つとなることができるのです。

 

2021年9月26日日曜日

「たとえ世界が明日終わるとしても」

テサロニケの信徒への手紙二 3:6-13

怠惰な生活をしている人
 「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。その言葉の出所は本日の第2朗読で読まれた聖書箇所だと言われています。今日はテサロニケの教会に宛てたパウロの手紙が読まれました。

 「働かざるもの食うべからず」という言葉は、場合によってはとても残酷な言葉となります。いつの時代でも、働きたくても仕事のない人、あるいは働きたくても病気で働けない人はいるものですから。しかし、新共同訳に見るように原文では「働きたくない者は」(10節)となっているのであって、働きたくても様々な事情で働けない人には当てはまりません。

 しかし、この箇所において重要なことは、そもそもパウロは労働そのものを話題にしているわけではない、ということです。もう一度その前後を含めてお読みします。「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです」(10‐11節)。

 パウロはここで「怠惰な生活をしている者」を問題にしているのですが、ここで言われている「怠惰な生活」とは何もしないでぶらぶらしていることではありません。確かに「少しも働かず」と書かれていますように通常の労働はしていません。しかし、パウロに言わせれば「余計なこと」はしているのです。これは「お節介」とも訳せる言葉です。そのように余計なお節介をしている本人は、それなりに忙しくしているのです。そのようにここに書かれている「怠惰な生活」というものは、私たちが一般的に考えるような「怠惰な生活」とは異なるのです。

 それが何を意味するかは2章まで遡るとわかります。このようなことが書かれていました。「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(2:2)。このようなことを書かざるを得なかったのは、実際には動揺したり慌てふためいたりする人たちがいたからです。

 「主の日」とは最終的な神の裁きの日です。すなわち、最終的な神の裁きは始まっているということです。これを聞いて、動揺したり慌てふためいたりする者がいたのです。あるいは「既に来てしまった」とまでは言わなくても、いつ再臨があるかは分からないのだからという危機感から、例えば仕事を辞めてしまったり、通常の日常生活を放棄する者が現れたのです。そして、ただひたすら信仰に関わることだけに専念しようと思ったのです。それこそ伝道のために日夜かけずりまわる人がいたことでしょう。あるいは世の生活から離れてひたすら祈りに専念する人がいたことでしょう。教会の奉仕のために身を粉にして働いている人もいたかもしれません。

 ですから、この「怠惰な生活」をしている人とは、何もしないで怠けている人というよりは、むしろ見ようによっては極めて熱心な信仰者にさえ見える人々なのです。しかし、それにもかかわらず、パウロは彼らのしていることについて、「余計なことをしている」と言うのです。余計なお節介であると。そして、そのような人たちに命じるのです。「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(12節)。危機感によって動かされないで、慌てふためいたりしないで、とにかく落ち着いて普通の生活を続けなさいと命じているのです。

危機意識に動かされることの危険
 しかし、ここでどうしても考えざるを得ないことがあります。そう言っているパウロはどうなのでしょう。パウロは普通のユダヤ人としての日常生活を放棄した人ではなかったでしょうか。彼もまたファリサイ派の生活を捨てて、伝道のために旅を続けているわけでしょう。確かに彼はテント職人を続けながら伝道の旅をしていました。テサロニケにいた時もそうでした。彼がここに書いているとおりです。「だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです」(8節)。そうです、そのとおりです。しかし、それでも反論したくなります。パウロよ、いつもそうであったわけではないでしょう、と。

 実際、パウロはコリントに着いた当初はテント造りをしながら伝道していたのですが、「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念した」(使徒18:5)と書かれているのです。この手紙はその頃のコリントにおいて書かれたと考えられますので、実はこの手紙を書いている時点では、パウロは通常の労働はしていないのです。まさにそのように、生計を立てるための仕事から離れて走っているとしか見えないパウロが、「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているのです。

 そこで私たちは、改めてこれを書いているパウロと、ここで言われている「怠惰な人々」との違いをしっかりと見極めなくてはならないのだと思います。パウロが伝道のために奔走しているのはなぜでしょうか。それは終末の到来を考えたときに、この世の営みに意味を見いだせなくなったからとか、もはや伝道にしか意味が見出せなくなったから、という理由によるのではないのです。そうではなくて、パウロはキリストによって召され、キリストに命じられてそうしているのです。つまりそれは伝道者としての召命によるものなのであって、単に危機感によって動かされているのではないのです。

 キリストが命じておられることであるか。キリストが本当に望んでおられることなのか。――そのことを考えずにただ危機感に駆られて行動することは、時にとても大きな危険をはらむことになります。「世の終わりが来る」という危機感。そのような終末的危機意識に煽られる時、容易に日常生活の放棄が起こります。いやただ仕事を放棄するだけでなく、歴史的に見るならば、そこには危険な殺人集団が生み出されることもあれば、集団自殺が引き起こされることもあったのです。「宗教は怖い」と言う人がいます。ある意味で当たっています。危機意識によって動かされた宗教的熱狂ほど怖いものはありません。そこで人は何をしでかすかわからないからです。

 パウロはテサロニケにいたときから、終末的危機意識から来る熱心さ、しかも通常の生活を軽視した形での熱心さが大きな問題になるであろうことを既に予感していたのでしょう。ですから、パウロは援助を受けて伝道することもできたのですが、あえて通常の仕事をしながら伝道したのです。日常の当たり前の生活を大切にして見せたのです。それは「身をもって模範を示すため」(9節)だったと語られています。そして、言葉によっても、「働きたくない者は、食べてはならない」(10節)と教えたのです。

たとえ世界が明日終わるとしても
 しかし、パウロはただ危機意識から来る熱狂を問題にしているだけではありません。そこには、もっと根の深い問題があったからです。そもそもギリシア人は、もともとこの世界における労働そのものに大きな価値を見てはいなかったのです。労働は奴隷の務めとさえ考えられていたのです。それは目に見えるこの世界を価値なきものと見る世界観から来ています。物質的なるものは悪であり、見えざる霊魂こそが善であるとする霊肉二元論です。容易に想像できるように、そのような思想は、この世の生活を非本質的なものと考える人々を生み出したのです。そのような人々にとってはむしろ死ぬことこそ救いなのでした。彼らにとって死とは魂の牢獄からの解放に他ならなかったのですから。

 そのような人生観において宗教は現実逃避と容易に結びつくものとなります。宗教はいくらでも現実逃避の手段となるのです。そのような素地をもった人々が福音を受け入れたとき、キリスト教信仰もまた、日常生活の放棄や現実逃避と結びついていくことはいくらでも起こり得ることでした。パウロはそのことが分かっていたからこそ、あえてこの世における労働を強調して、自ら模範を示したのです。

 それは今日の私たちもまた考えねばならない事柄です。宗教が現実逃避と結びつく要素は、この国の一般的な宗教観にも根強く存在するからです。この世から逃れることが救いだと考えている人は決して少なくない。ありきたりの日常から離れて、ひとときでも非日常的な世界に身を置くことのできる時間を宗教に求める人は少なくないのです。さらには、テサロニケの「怠惰な」人たちのように、この世から隔絶したところに完全に身を置くことを願う人もいる。そのようにして、人はカルト宗教に捕らえられていくのです。

 しかし、聖書は全く逆のことを語っているのです。この目に見える世界は無価値などころか、この世界こそ神が造られた世界なのだと言うのです。エデンの園の物語を思い起こしてください。そこには何と書かれていますか。神は人を造って、園に住まわせ、「人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2:15)と書かれているのです。労働は本来、神からの委託であり、神からの賜物でもあるのです。いわば、この目に見える世界との関わりにおいて神との交わりを経験する契機でもあったのです。

 この世界は神が造られた世界であるゆえに、神にとってこの上なく大事な世界なのです。どれほど大事かと言えば、独り子を目に見える体を与えてこの世界を歩ませるくらい大事なのです。また最終的にキリストをこの世界に再臨させると約束されたくらい大事なのです。それゆえに、この世に生きる私たちの人生も神にとっては重大事なのです。神は関心をもってご覧になっておられるのです。私たちがこの世に生きる、当たり前の日常生活、同じことの繰り返しかもしれない労働の生活、あるいは様々な苦難を耐え忍びながら神を信じて生きる生活、そのすべてが神様にとっては、大きな意味を持っているのです。

 「たとえ世界が明日終わるとしても、今日私はリンゴの木を植える」。マルティン・ルターが言ったとされている有名な言葉です。これは信仰者にとって、決して忘れてはならない姿勢を語っているのでしょう。世の終末に限らず、危機は誰にでも訪れます。それは社会における危機かもしれません。現在のパンデミックもまたその一つでしょう。あるいは個人の人生における危機かもしれませんし、自身の終末を迎えるという時もまたその一つでしょう。

 終末的危機感に限らず、危機的な状況がある時に正しい意味での危機感を持つことは大事です。しかし、危機感に支配され、危機感に駆り立てられて行動してはならないのです。そのような時こそ神に信頼して、落ち着いて、本当に為すべきことを見出さなくてはならないのです。自分が神から託されている務め、その時に本当にしなくてはならないことを見出し、忠実に行うことこそが大事なのです。それは、場合によっては、ごく当たり前の生活をそのまま落ち着いて継続することかもしれないのです。パウロが「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているように。

(祈り)

2021年9月22日水曜日

祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 1:27~30

フィリピの信徒への手紙 1:27‐30

 「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27節)とパウロは勧めます。ここで「生活を送る」と訳されているのは、「市民として生活する」という言葉です。パウロは他の一般的な言葉を用いないで、あえてこの言葉を用いました。フィリピの人には一番ピンとくる言葉だったからです。

 フィリピの町は、ローマの植民都市でした。そこにおける生活は何もかもローマ式でした。マケドニア地方にありながら、ギリシャ流ではない、ローマの植民都市としての生活があったのです。そのことを背景に、パウロはフィリピの人に勧めるのです。「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」つまり、「フィリピの市民には、ギリシャ流ではない生活、ローマを本国とする者としてふさわしい生活があるように、あなたがたにはキリストの福音に与った者としてふさわしい生活があるのです。そのような生活を送りなさい」ということです。福音に与った者の本国は天にあります(3:20)。つまり福音にふさわしい生活とは、この地上にあって天に属するものとして生きる生活に他ならないのです。

 では、天を本国とする生活とは、どのような生活を意味するのでしょうか。この地上において、さながら天に生きているがごとく、いつも平安でかつ平和な生活を意味するのでしょうか。いいえ、パウロはどうもそのような生活を考えてはいないようです。彼は言います。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう」(27節)。さて、何を聞けるのでしょうか。「あなたがたはひとつの霊によってしっかりと立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと」(27‐28節)。

 確かにキリストの福音に与ったものは、内なる平安をいただくでしょう。しかし、それは必ずしも平穏無事であるということを意味しません。それは「戦い」なのです。何のゆえの、何のための戦いでしょうか。パウロは、「福音の信仰のため」の戦いであると言っています。福音の信仰によって天を本国として生きるようになった者には、その福音の信仰のための戦いがあるのだ、ということです。そこには二つの意味が含まれています。第一に、それは福音の信仰に生き抜くための戦いであり、第二に、それは福音の信仰を宣べ伝える宣教の戦いです。

 キリスト者は天を本国としながらも地上に生きています。そして、この地上の世界はキリストを主としているわけではありません。それゆえに、この世においてキリストを主として生きる時、戦いを伴うのは当然のことなのです。パウロは特にここで「反対者」が起こることについて語っています。迫害について語っているのです。事実、キリストを信じるゆえに、具体的な危害を加えられるということを、フィリピの信徒たちも経験してきたのです。

 もちろん、今日の私たちが置かれている状況は違います。具体的な迫害を経験することは少ないかもしれません。しかし、戦いがあるのは、必ずしも「反対者たち」が起こることにおいてだけではないでしょう。ある人にとっては、キリストを週毎に礼拝して生きるということだけでも、大きな犠牲を払いながら進められる戦いであるに違いありません。またある時は、それよりも苛酷な「自分の罪との戦い」であるかも知れません。いずれにしても、私たちが地上に生きている限り、福音にふさわしい生活は、戦いを伴うものなのです。

 そして、さらに積極的な意味で、私たちの戦いは、福音の信仰を宣べ伝える宣教の戦いです。30節でパウロはこのように言っています。「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」フィリピの人々がかつて見たパウロの戦いとは、言うまでもなく、フィリピにおける宣教の戦いです。その初めの様子は使徒言行録16章に詳しく記されています。パウロの宣教によって、紫布商人リディアが救われ、占いの霊に憑かれていた女奴隷が救われました。しかしその結果、フィリピの町に騒ぎが起こり、パウロは捕えられ、鞭打たれ、投獄されることとなったのです。しかし、パウロは宣教の戦いをやめませんでした。なぜなら彼は、自分が救われるためにキリスト御自身が戦いを経験されたことを知っていたからです。

 今の時代、福音を宣べ伝えることによって投獄されるということはまずないでしょう。しかし、そうではあっても、やはり誰かの救いのために働くということは、多くの労苦を伴うひとつの戦いであることには違いありません。私たちはそれぞれ、この宣教の戦いへと召されているのです。もし私たちが、自らの罪が赦され、滅びから救われ、天の御国の民とされたことだけで満足しているなら、それは単なるエゴイストでしかありません。単なるエゴイストを造るためにキリストは十字架にかかられたのではないのです。

 さて、今まで見てきましたように、キリストの福音にふさわしい生活を送るということは、決して平和な安泰な生活を意味するのではなく、むしろ共に心を合わせて戦われるべき熾烈な戦いに他なりません。言うまでもなく、戦いは苦しみを伴うものです。ならばキリストの福音にふさわしい生活を送ろうとするとき、苦しみは避けて通れないものであるということになります。苦しみは避けたいと思うのが自然です。ところが、この苦しみということについて、私たちはここに驚くべき発言を聞くのです。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(29節)。

 これをパウロが語っていることを考えるとき、この言葉は大変な重みをもつ言葉として迫ってきます。なぜなら、パウロは他の誰よりも、キリストのために苦しんできた人物だからです。パウロ自身が、他の手紙において次のように書いています。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」(2コリント11:23)これに続いて具体的にどのような目に遭ったかを記しています。彼はまさに苦しみの人でした。そして、この手紙を書いているときにも、彼は獄中にいるのです。もしかしたらそこで地上の生涯を終えなくてはならないかも知れないのです。そのような時に、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と彼は言っているのです。

 そう表明するのは、彼自身がその恵みを経験しながら生きてきたからです。ですから、パウロはこれが恵みであるということについて、なんら解説を加えません。そんなことに多くの言葉を費やしても意味がないからです。それは私たちについても同じです。これは説明されるべき事柄ではなくて、経験されるべき事柄です。私たちがキリストのために苦しんで、初めて経験される恵みなのです。だから戦いを安易に回避してはならないのです。苦しみから逃げてはならないのです。

 「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」この言葉をもって主は私たちを日々の生活へと送り出してくださいます。私たちはこの言葉に具体的にどのように応えていくのでしょうか。

2021年9月15日水曜日

祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 1:12~26

 フィリピの信徒への手紙 1:12-26

 パウロは獄中にいます。自由を奪われ、さらには命までも脅かされています。パウロの身に起こったことは、誰の目にも福音の前進を阻むものとして映ったことでしょう。しかし彼は言うのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と。「前進」という言葉は、道を切り開いて進むことを表す言葉です。ある人は「開拓的前進」と訳しています。パウロが投獄されることによって、今まで道がなかった所に道ができるのです。そのようにして、福音が前進していくのです。

 その前進はどのようにして起こったのでしょうか。パウロはこう続けます。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り…」(13節)。そこに新しい出会いが生まれました。ローマの兵士たちとの出会いでした。彼は監禁されている間、四六時中ローマ兵の監視下に置かれることになったからです。一説によれば、監視は六時間毎の四交代制で行われたと言います。彼らはその時間、いやでもパウロと共にいなくてはなりませんでした。
 
 「わたしが監禁されているのはキリストのためである」とパウロは彼らに語ります。そのキリストとは誰であり、何をしてくださったかを語ったことでしょう。四交代制でしたら、一日四人には語ることができます。やがてキリストとパウロとの関係は、兵営全体に知れ渡ることとなりました。それはパウロが投獄されなかったら起こりえなかったことでした。福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させて行ったのです。

 いや、それだけではありません。パウロはさらに続けます。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(14節)。

 この手紙に繰り返されている言葉、それは「喜び」です。彼らは、自由を奪われ、命さえ奪われるかもしれないのに、なおそこで喜びをもって生きていたパウロの姿だったのです。そこに人々が見たのは、人間の自由よりも、そしてこの世の命よりも、もっと大いなるものだったのです。この世の命よりもはるかに価値ある、キリストによる永遠の救いだったのです。それゆえに、彼らは「恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」とパウロは言います。そのようにして神は福音を前進させてくださったのです。

 パウロはさらにこう続けます。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。

 なんと、パウロが身動きの出来ない時に、こんなことが起こっていたのです。パウロはそのために苦しんできたのでしょう。しかし、驚くべきことに、パウロはそれでもなおこう言うのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。それはなぜか。それが純粋に愛の動機からのことでなくても、人間の不純な動機が入り込んでいたとしても、それでもなお福音は前進することを知っているからです。

 だから自分が獄中にいることについて、パウロは全く気に病んでいません。獄中にあろうがなかろうが、パウロが願うのはただ一つのことだけなのです。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(20節)。

 「これまでのように今も」とパウロは言います。パウロはこれまで、各地を駆けめぐって御言葉を宣べ伝え、人々を救いに導き、教会を建て上げ、牧会者を指導してきました。それがパウロの「これまで」でした。しかし、「今」は違います。獄中にある「今」、同じことはできません。確かに人のなし得ることは、その時々において異なります。ですから、パウロは「わたしの働きによってキリストが公然とあがめられるように」とは言いません。「働きによって」でしたら、「生きるにも」は分かりますが「死ぬにも」という言葉は続き得ません。

 だから「わたしの働きによって」ではなく「わたしの身によって」と彼は言うのです。最終的に意味を持つのは、その人の人格を含めた存在そのものなのです。その存在そのものによってキリストがあがめられることです。「あがめられる」と訳されているのは「大きくされる」という意味の言葉です。パウロの願いは自分が大きくされることではなく、キリストが大きくされることだったのです。

 「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」――その根底にあるのは、次の言葉に言い表されているパウロの信仰です。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)。

 「生きるとはキリスト」の対極にあるのは、「生きるとは《わたし》」というあり方です。キリストが大きくなることではなく、《わたし》が大きくなることこそが生きることの意味として据えられるなら、人の目にも、自分の目にも、《わたし》が大きくなり得なくなった時に、生きることの意味は失われます。生きることの意味を見失った人もまた、「死ぬことは利益なのです」と言うかもしれません。「もう死んだほうがましだ」と。しかし、それは「生きるとはキリスト」に続く「死ぬことは利益なのです」とは、全く意味が異なります。

 苦難に次ぐ苦難の中にありますから、パウロも確かにこう言っています。「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(23節)。それはパウロの正直な心情であったに違いありません。しかし、そこで「この世を去って、キリストと共にいたい」とパウロが言っているその「キリスト」とは、彼が「生きるとはキリスト」と言っているその「キリスト」に他ならないのです。だから、「これまでのように今も」どのような境遇に今置かれていたとしても、この身によってキリストがあがめられるために、この世にあるこの身をもってどう生きるのかが重要になるのです。


2021年9月12日日曜日

「分け隔てをしてはなりません」

ヤコブの手紙 2:1-13

分け隔てをしてはなりません
 今日の箇所では、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と語られています。それが人道的に良くないことだから「人を分け隔てしてはなりません」と言っているのではありません。主イエス・キリストを信じる信仰と「分け隔て」とは本来相容れないものであるからです。それゆえに、「《わたしたちの主イエス・キリストを信じながら》、人を分け隔てしてはなりません」と言っているのです。

 そして次のような一例が挙げられています。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2‐4節)。

 いかにもえげつない話です。世の人が聞いたなら、「信仰云々の前に人としてどうなのか」と言われるかもしれません。しかし、ここに書かれているのは、単にこの世の差別意識が教会にも持ち込まれたという単純な話ではないのです。このようなことは、教会生活を大事にし、教会のことを真剣に考える敬虔な人々であるからこそ、起こっていたのかも知れないのです。

 そもそも、初期の教会で「立派な身なりの人」が優遇されていたとするならば、それはそのような人の存在が教会にとって有利であったからです。実際には貧しい人が多く、奴隷の身分の人も決して少なくはなかった初期の教会の話です。聖餐のパンや食事も、主に共同体の中の比較的裕福な人々が用意したのです。集会の場所もある程度広い場所が確保できる裕福な人たちが提供していたのです。

 そればかりではありません。迫害もあれば、様々な形での妨害もあります。6節以下に書かれているように、この世の富裕層から酷い目に遭わされたり、脅かされたりすることが実際にあったのでしょう。そのような時、教会の中にある程度力を持った人間がいること、富裕層の人たちがいることは実際的に大きな助けとなったことが考えられるのです。

 ですから、ヤコブがここで挙げている一例は、先にも申しましたように、実際には不敬虔でいかにもこの世的な人々によって起こるだけでなく、一見すると敬虔で信仰的で教会をとても大切にしている人々によっても起こるのです。教会を大切に思う人が、教会を守りたい一心で、ある人の存在を教会にとって有利か否か、役に立つか否かという判断をしてしまう。そして、それが結果的に「分け隔て」や「差別」を生み出してしまうということが起こるのです。

 ですから、それはこの例のような金銭的な富だけでなく、能力や年齢、性別などによっても起こり得ます。例えば、日本の多くの教会において、「若い人がもっと教会に来て欲しい」と言う声が聞かれます。それは純粋に若い人たちを愛して、若い人たちに福音を伝えたいという願いから出た言葉であるかもしれません。しかし、同じ言葉であっても、「日本の教会は高齢化しているから、もっと若い人たちに来て欲しい」という意味であったらどうでしょう。教会を維持するために必要だというだけならば、今日の聖書箇所に書かれている事例と内容的には少しも変わりません。それは「お金持ちがもっと教会に来て欲しい」と言うのと変わらないでしょう。そのように、今日の聖書箇所のようなあからさまな形でなくて、時として非常に見えにくい形で、分け隔てや差別は起こってくるのです。

 そして、さらに言うならば、そのような分け隔ては「他者」に対して行われるだけではありません。「自分」に対しても起こり得ます。他の人について「あの人は必要、あの人は必要ではない」というだけでなく、自分についても「わたしは必要な人」と考え、あるいは「わたしは必要ない人」と考える。しかし、それは他者を見る目がそのまま自分に向けられているだけなのです。自分は貧しいからいてもいなくてもいい人。自分は能力がないから必要ない人。そのように、自分は~だから必要のない人と思っている人は、まず自分が他の人をどう見て、どう判断しているかを省みてみる必要があろのです。

目を向けるべきところに向けて
 そこで私たちは特に、4節の御言葉を心に留めたいと思います。「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(4節)。

 ここで「誤った考え」とあるのは原文では「悪い考え」という言葉です。確かに差別は悪いことです。それは「悪い考えに基づく判断だ」と言うことができるでしょう。しかし、ここでヤコブが言っているのは、そのようなことではありません。冒頭で触れたように、要するにそれは信仰とは相容れないということなのです。あくまでも問題は信仰に関わることなのです。信仰によって本当に見るべきところに目を向けているか、信仰によって価値あるものを価値あるものとして見ているかどうか、ということなのです。そうなっていない時に起こってくる考えとそれに基づく判断。それが「悪い考えに基づいて判断を下した」と書かれている内容なのです。

 ですから「よく聞きなさい」と言って、ヤコブは見るべきところに目を向けさせようとします。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。彼はどこに目を向けていますか。肉の目が見ているのは、教会の中にいる貧しい一人の信徒です。しかし、ヤコブが指し示しているのは、神が信仰に富ませてくださったという事実です。そうです、既にこの上なく豊かなのです。

 神が信仰に富ませてくださった。その「信仰」とは、1節にあるように「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じる信仰」です。すなわちイエス・キリストによって実現したことに心を向ける信仰です。それは、キリストの十字架のゆえに罪の赦しにあずかったこと、神に受け入れられ神の子供たちとされ、そこに書かれているように「御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者」とされたということです。

 そのように、神が既にしてくださった偉大なことがあるのです。神が既にしてくださった偉大なことに、私たちが等しく与っているという事実があるのです。そのようなお互いであることに目を向けないから、他のことに目が行くのです。この世的な違いに目が行くのです。自分たちにとって有利か不利か、役に立つか立たないかというところにばかり目がいくのです。そして結果的には神がしてくださった大いなることを踏みにじることになるのです。例えばここに書かれているように「貧しい人を辱めた」という形で起こってくるのです。

憐れみは裁きに打ち勝つ
 さて、このように今日の聖書箇所においては「人を分け隔てしてはなりません」という勧めがなされていたのですが、最後に、この部分が次のように締めくくられていることに注目しておきたいと思います。次のように書かれています。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(13節)。

 ここで「憐れみをかける」という話が出て来るのはいささか唐突な感じがしないでもありません。「人を分け隔てしない」ということと「憐れみをかける」ということは、基本的には別なことのように思います。また、そのように扱うことが正しいように思えます。というのも、「分け隔てをしない」ということが、イコール「憐れみをかける」ということになりますと、何か上から人を見て「分け隔てをしないであげよう」という意味合いにもなりかねませんから。

 しかし、今日の福音書朗読において読まれたイエス様のたとえ話に耳を傾ける時、「憐れみをかける」という言葉は全く違った意味合いをもって響いてまいります。そこで語られていたのは、王によって一万タラントンの借金を帳消しにされた家来の話でした。借金を帳消しにされた家来が外に出ると、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会います。百デナリオンは一万タラントンの六十万分の一です。自分は六十万倍もの借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、彼はその仲間の首を絞めて「借金を返せ」と言い、借金を返すまでと牢に入れた」というのです。

 それを聞いた王は怒りました。そして、こう言ったのです。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18:32‐33)。

 この王とは神であり家来は私たちです。「憐れんでやるべきではなかったか」と神は言われます。その根拠は神の「憐れみ」です。「わたしがお前を憐れんでやったように」と神は言われるのです。ですから、要するに「憐れみをかける」とは、神がしてくださったことに目を向けて、神がしてくださったことに基づいて判断し、行動することなのです。

 「分け隔てをしない」ということは、まさにそのようなことではありませんか。神様がしてくださったことに基づいて判断し、行動するならば、分け隔ては起こらないはずなのです。そうでない判断は「悪い考えに基づく判断」と呼ばれていました。ちなみに4節で「判断を下した」と訳されているのは「裁く者となった」という言葉です。悪い考えに基づく裁き、すなわち神がしてくださったことを思わない「裁き」、それが「憐れみをかけない」ということです。「憐れみをかけない」ならば、「憐れみのない裁きが下されます」と語られているのです。

 私たちに対する神の憐れみがなかったかのように私たちが他者を裁くなら、そのように私たちも神に裁かれることになるでしょう。自分が裁く裁きで裁かれるのです。逆に神の憐れみが先にあることを思いつつ、それに基づいて裁く(すなわち「判断する」)なら、そのように神もまた憐れみに基づいて裁いてくださるのです。私たちにおいて「憐れみが裁きに打ち勝つ」なら、神においても「憐れみが裁きに打ち勝つ」のです。そうです、その時には憐れみの方が裁きよりも遙かに大きいのです。

(祈り)

2021年9月8日水曜日

祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 1:1~11

 フィリピの信徒への手紙 1:1-11

 今日は「フィリピの信徒へ手紙」の冒頭部分をお読みしました。最初に挨拶があり、3節から手紙の本文に入ります。原文においては「わたしは感謝します!」という言葉から始まります。これは実に印象的な書き出しです。さらには「あなたがた一同のために祈る度に、喜びをもって祈っています」(4節)と言うのです。なぜでしょう。その理由は5節に書かれています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。

 パウロが二回目の伝道旅行においてフィリピを訪れた時、彼らに初めてイエス・キリストの福音が宣べ伝えられました。彼らは福音を聞いてキリストを信じ、彼らの信仰生活がスタートしました。それは彼らが始めたことと言えなくはありません。しかし、それ以上に重要なことは、神が始められた善き事があるということです。神の救いの御業が始まっているのです。「福音にあずかっている」とはそういうことです。

 ですから、パウロはその神の御業に目を向けてこう言うのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。そうです、だから「わたしは感謝します!」と言っているのです。神に感謝しているのです。

 そのように神が始められた善き業がある。完成へと向かう神の善き業が進行中である。その神の御業に目を向けることは重要です。しかし、もう一方において、彼らが福音を信じて実際に信仰生活をスタートし、それが継続しているという人間の側の側面に目を向けることもまた重要です。パウロはここで「最初の日から今日まで」という言葉を使っているのです。

 この世における様々な困難や誘惑の中にあってなお、共に集まり、神を礼拝し、新しい命に生きる共同体に連なっている――それがここで語られていることに他なりません。フィリピの教会には、後に見るように、実際には問題が山積していました。パウロとの関係も常に良好であったわけではありませんでした。しかし、パウロは彼らを思い起こす度に喜びをもって祈るのです。彼らが「今日まで」福音にあずかり続けていること、信仰生活を続けているということがどれほど大きなことかが分かっているからです。それゆえに喜びをもって祈っているのです。

 そのようにパウロが「最初の日」だけでなく「今日まで」を重く見ているのは、その先に「キリスト・イエスの日」があるからです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。

 「キリスト・イエスの日」というのは、終末におけるキリスト再臨の日です。神が定められた終わりの日です。私たちがキリストと相見えることになる終わりの日です。その日までに、善い業を始められた方がその業を成し遂げてくださると言うのです。そのようにして、私たちが「キリスト・イエスの日」に向けて備えられるのです。

 具体的にパウロはどのようなことを考えているのでしょうか。それは続く祈りの言葉によく現れています。9節以下をご覧ください。

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9‐11節)。

  パウロは「愛がますます豊かになるように」と祈ります。しかも、「知る力と見抜く力とを身に着けて…愛がますます豊かになるように」と祈るのです。「知る力」というのは「知識」とも訳せる言葉です。「見抜く力」というのは、鋭い感覚をもって判断することのできる判断力です。この二つが必要なのは、そこに書かれているように「本当に重要なことを見分けられるように」(10節)なることが必要だからです。

 愛は打算を越えます。愛は時として愚かになることでもあります。しかし、それは単なる熱狂や暴走とは一線を画します。本当に愛が豊かとなるためには、知る力と見抜く力が必要なのです。時として感情に振り回されない冷静な鋭い判断力が必要とされます。実際、それらを抜きにした「愛」なるものが、単に人迷惑なだけであったり、あるいは人をだめにしてしまうことがどれだけあるか知れません。神に対する愛や献身のの名のもとに、今日に至るまでどれだけ思慮を欠いた破壊的な行為がなされてきたことでしょう。最終的に何が本当に重要なことかが分からないままで、「愛が豊かになるように」なることはないのです。

 そして、その「本当に重要なことを見分けられるように」ということに続いて、先に申しました「キリストの日に備えて」という言葉が続くのです。そもそも、本当に重要なこと、とは何でしょうか。それは最終的に「キリストの日」において、キリストが重要と見なしてくださることでしょう。それゆえパウロは、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり」と続けるのです。

 「愛」について語られる時、そこでまた「清さ」が語られるということは大事なことです。なぜなら、この世においては、愛の名の付く愛ならぬものがいくらでもあるからです。「清い者」と訳されている元の言葉は、「太陽のもとにおいて調べられたもの」を意味する言葉です。光にさらされても大丈夫なもの、ということです。私たちが愛と呼び、本当に重要だと呼んでいるものは、愛そのものであるキリストの光に照らされて、それでも大丈夫であるのか。それでもなお愛と呼べるのか。そのことが問われるのです。

 さて、こうしてみますと、「愛が豊かになる」とサラリと書かれていますが、とてつもなく大きな課題であることが分かります。果たして、私たちはこの言葉を受け止めきれるのでしょうか。しかし、私たちはそこで、パウロがこのことを「祈っている」という事実を忘れてはならないのです。

 このように書いているパウロ自身、「キリストの日への備え」が人間の努力によっては完成され得ないものであることを良く知っているのです。ですから、パウロは祈りの最後をこう締めくくるのです。「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(11節)と。ここには「私たちの努力が実を結んで」とは書かれていないのです。「義の実」はイエス・キリストによって与えられるのです。

 先に見てきたように、神によって善い業が既に始められているのです。そして、始められた方がその業を成し遂げてくださるのです。そのように信じてパウロは祈っているのです。同じように私たちも祈るのです。信じて祈り続けるのです。

(祈り)

以前の記事