2020年7月26日日曜日

「わたしは主、あなたの神」

イザヤ書 43:1-7

目の見えない人よ、よく見よ
 今日は43章の冒頭をお読みしました。しかし、今日の箇所はその前の42章に続いています。42章18節以下にはこう書かれています。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者、主の僕ほど目の見えない者があろうか。多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」(42:18‐20)。

 ここで「わたしの僕」とか「主の僕」と言われているのはイスラエルの民のことです。時代は紀元前六世紀。この預言者の言葉を聞いていたのは、バビロニア軍によって祖国を滅ぼされ、バビロンに捕らえ移されて捕囚となっていたイスラエルの民です。深い悲しみを味わっていた人々です。

 捕囚と言いましても、奴隷にされていたわけではありません。住む場所が与えられ、家を建て、家庭を営むことが許されていた。普通の生活はできたのです。しかし、彼らの内には深い闇がありました。彼らがしばしば耳にした言葉が詩編に出てきます。「お前の神はどこにいる」(詩編42:4)という言葉です。イスラエルの民を嘲って戦勝国の人々が言うのです。「お前の神はどこにいる」と。

 そのようなバビロニアの支配が何十年と続いたのです。「お前の神はどこにいる」と言われれば、自分たちも考えざるを得ないでしょう。「私たちの神はどこにいる」と。「なにゆえ私たちは異国の民に支配されたままなのだ。主はどこにおられるのだ」。そして、こう考えたに違いない。「私たちの神、主がいたとしても、主は目が見えないのではないか。主は耳が聞こえないのではないか。」――長い苦しみが続いているのです。そのような嘆きの声があがったとしても不思議ではないでしょう。

 しかし、主は預言者を通して、そのような人々に言われるのです。「目の見えないのはどちらだ。耳が聞こえていないのはどちらだ。お前たちの方ではないか」と。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ」というのは、そういうことです。人々の嘆きを聞きながら、実は主が嘆いておられるのです。「多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」と主が嘆いておられるのです。

 いったい彼らは何を見なくてはならないのでしょう。何が見えていないのでしょう。聞こえていないのでしょう。預言者はこう言うのです。「あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。後の日のために注意して聞く者があるか。奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか、この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった」(42:23‐24)。

 そうです、今こそ見なくてはならないのです。聞かなくてはならないのです。この惨めな捕囚という現実をもたらしたのは、他ならぬ神なのです。ならば、ただ嘆いているだけでは何も始まらないのです。神の御前で、自らの罪を認めなくてはならないのです。「わたしたちは罪を犯した。わたしたちは聞き従おうとしなかった」と。すべてはそこから始まるのです。

あなたはわたしのもの
 そこで、今日お読みした43章に入るのです。自らの罪を認めた、悔いし砕かれた魂にこそ、主はこう語られるのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と。

 「贖う」とは「買い戻す」ということです。借金などの理由で奴隷になった者が自由になるには、その親族が代価を払って彼を買い戻さなくてはなりませんでした。「贖う」とはそういうことです。贖うのは解放するためです。主は彼らに捕囚からの解放を告げたのです。

 しかし、本当に喜ばしいことは、解放されること自体ではありません。それよりももっと大きなことが語られているのです。主は言われるのです。「あなたはわたしのものだ」と。これこそまさに福音です。神に対して罪を犯した者に対して、神に聞き従おうとはしなかった者に対して、それでもなお神は言われるのです、「あなたはわたしのものだ」と。

 しかも主は3節でこう言われるのです。「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。」主は、ここで大国エジプトをはじめクシュやセバまで《贖いのための代金》とすると言っておられます。それは要するに「あなたをわたしのものとするためなら、どんな大きな代価だって払う」ということです。

 神に背いた者たちに対して、どうしてそこまでなさるのでしょうか。私たちだったら、ゴミは捨てるのでしょう。汚れたものは捨てるのでしょう。それなのに、主は罪に汚れた者を、どうして捨てないのでしょうか。――そこで主は言われるのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴いからだ。わたしはあなたを愛しているからだ」と。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。

 主はかつて御自分に背いたイスラエルに対してこう語られました。しかし、そのような主の心はただイスラエルに対してのみ向けられたものではありませんでした。そうです、主の目に高価で貴いのは、イスラエルの民だけではないのです。イエスという御方がこの地上に現れた時、神はこの世に対して、「あなたをわたしのものとするためなら、どんな大きな代価だって払う」と言われたのです。そう言って神は独り子をさえ惜しまずに十字架にかけられたのです。

 それは神に背いたこの世のためだったのです。私たちのためだったのです。私たちを御自分のものとするために、独り子の命を支払われたのです。「あなたに背いてきた私のために、あなたはどうしてそこまでなさるのか。」あなたがそう問うならば、主は同じようにこう答えられるでしょう。「わたしの目にあなたは価高く、貴いからだ。わたしはあなたを愛しているからだ」と。

 そのように私たちを貴い存在として見て、贖ってくださる方が「恐れるな」と言われるのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」今日もキリストの十字架のもとに集められた悔いし砕かれた魂に、主はそう語りかけておられるのです。

わたしはあなたと共にいる
 そして、主はもう一度「恐れるな」と言われます。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(5節)と。主は2節でもこう言っておられました。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(2節)。

 「あなたを贖う。あなたはわたしのものだ」と言われる主は、共に歩んでくださる神様です。「あなたはわたしのものだから水の中を通るようなことはない。火の中を歩くようなことはない」とは言われないのです。そうではなくて、たとえ水の中を通ったとしても、火の中を歩くようなことがあったとしても、わたしはあなたと共にいる、と言われるのです。

 時代はバビロニアの支配からペルシャの支配へと移り変わって行きました。そして、ペルシャの王キュロスにより、捕囚の民はエルサレムに帰還し都を再建することを許可されたのです。確かに解放の時が来たのです。もし主によって贖われたことを信じるなら、罪が赦されたことを信じるなら、今こそ一歩を踏み出し、主と共に歩み出す時なのでしょう。背いてきた者であるにもかかわらず「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と語られていることを本気で信じるなら、主に贖われた者として、主のものとして歩み出すべき時なのでしょう。

 しかし、主と共に歩むということは冒険でもあります。信仰をもって生きるということは冒険なのです。水の中を通ることになるかもしれません。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、水の中を通されたように。あるいは火の中を歩くような、厳しい現実が待っているかもしれません。実際、バビロンを出て廃墟となっているエルサレムへと向かうならば、その先に多くの困難が待ち受けていることは火を見るより明らかだったのです。

 しかし、主はそのただ中において共におられると言われるのです。主が共におられるならば大丈夫なのです。恐れる必要はないのです。「恐れるな」と主は言われる。大事なことは一つだけです。「わたしはあなたと共にいる」と言われる主に従うことなのです。離れることなく、信頼してどこまでも従っていくことなのです。

 「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」かつて主は捕囚の民にそう語りかけられ、主と共に歩む新たな一歩へと導かれました。そして、同じ言葉が、イエス様を信じる私たちにも与えられているのです。私たちを贖うために十字架にかかられたイエス・キリストは、復活して後、こう言われたではありませんか。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。そうです。私たちもまた、この御方と共に歩んでいくのです。実際、不安に満ちた時代です。いつ水の中を歩くことになるか分かりません。いつ火の中を歩くことになるか分かりません。しかし、主は「恐れるな」と言われる。ならば、私たちは、恐れることなく、この御方を信じて、どこまでも従っていくのです。
(祈り)

2020年7月19日日曜日

「復活の光の中で信仰を語る」

使徒言行録24:10-21

曇り空のような場面において
 本日読まれましたのは、パウロの弁明の言葉です。彼が自らについて弁明しているのは訴えられていたからです。しかし、パウロは総督に対して訴え出られるようなことは何もしていないのです。そもそもなぜ総督のもとに送られたのかと言えば、それはエルサレムにおいてパウロを暗殺する計画が進んでいたからです。その暗殺計画の片棒を担いでいたのはイスラエルの宗教的な指導者たちでした。しかし、その計画がたまたまパウロの甥っ子の耳に入りました。パウロは間一髪難を逃れ、夜の内にカイサリアにいる総督のもとに護送されることになりました。そのようなわけで、暗殺に失敗した大祭司や長老たちが、今度は弁護士テルティロという男を連れて、もっともらしい罪状をひっさげてカイサリアまで下ってきたのです。彼らは総督にパウロを訴え出ました。そこでパウロが自らについて弁明します。それが今日お読みした箇所です。

 パウロの弁明は筋が通っています。彼の無罪は明らかでした。しかし、今日の聖書箇所はこう続くのです。「フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、『千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする』と言って裁判を延期した」(22節)。そして、結果的にはフェリクスが総督であった二年間、パウロは監禁されたままになるのです。24章の最後はこう締めくくられています。「フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた」(27節)。結局、今日お読みしたパウロの弁明は、パウロの置かれている状況について、なんら良い結果をもたらしはしなかったということです。

 もちろん、確かにこの弁明の場面は総督の前でキリスト者の希望を証しする機会となったとは言えます。総督フェリクスはパウロの話に関心を持ったらしいことが伺えます。今日お読みしたパウロの弁明の後、24節にこう書かれています。「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた」(24節)。なんと、素晴らしいことが起こっているではありませんか。総督とその妻がキリスト教信仰を求め始めた。――と、思いきや続きはこうなっているのです。「しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った」(25節)。結局、フェリクスもその妻も家族皆もキリストを信じました、という喜ばしい話にはならないのです。

 それどころか、さらにはこんな話が続きます。「だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた」(26節)。このように実に気持ち悪い話になるのです。救援金を諸教会から集めてきて渡しに来たというパウロの言葉を聞いて、この男からならきっと賄賂が取れると思ったのでしょう。キリスト教に関心があるふりをすれば、伝道者から何か吸い上げられると思ったのでしょう。そして、結局は今日お読みした弁明の言葉は、パウロによって特別に有利に働いたわけでもなく、先ほども言いましたように、パウロは二年間拘留されたまま放置されたという話に終わるのです。

 これが水戸黄門のようなドラマなら、悪代官ならぬ悪大祭司がその悪を暴かれて、恐れおののき平伏して終わるのでしょう。しかし、現実はなかなか60分で完結するドラマのような晴れ晴れとした話にはならない。今日はパウロの弁明の言葉の部分だけを読みましたけれど、この24章全体としては、喩えて言うならば、どんよりと厚い雲が垂れ込めた曇り空のような話です。そして、そちらの方が、私たちには身近なのだと思います。

 パウロでなくとも、いわれもないことで不当に負わされる苦しみを味わわされることはあるのでしょう。そこで自分の行うことが、目に見える良い果を何も生み出さないことはいくらでもあるのでしょう。そのような時に神様が超自然的に正しいことを実現してくれるかと言えば、どうもそのように世界が動いているようには見えない。むしろ人間の醜い思いばかりが渦巻いて、結局はそれで物事が進んでいくようにしか見えない。それが私たちの見ている現実の世界です。

復活の光の中で語るパウロ
 しかし、そこで改めて今日の箇所に目を移しますと、もう一方で、この場面に全く馴染まないパウロの姿が見えてまいります。そこには、不当な苦しみを背負わせられながら、不当な訴えを間近で耳にしながら、なおもそこで己の不幸を嘆くでもなく、相手の不真実に腹を立てるでもなく、またこの裁判の結果を案じるでもなく、ただ淡々と為しえることを行っているパウロの姿がそこにある。その時間は弁明をするために与えられた時間だから、「私自身のことを喜んで弁明いたします」と言って、限られた時間の中、ただ事実を淡々と語るパウロがそこにいるのです。

 明らかに、浮いています。置かれている状況にマッチしていません。どんよりとした曇り空に溶け込んでしまわない。彼はこの世において、明らかに異質な姿をもって異質な言葉を語っているのです。その異質な言葉の中心にあるのは「復活の希望」です。

 彼はこう言っています。「しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」(14‐16節)。

 「正しい者も正しくない者もやがて復活する」とは、要するに「死で終わりではない」ということです。「死が終着点ではない」ということです。私たちは死に向かって生きているわけじゃない、ということです。しかも、そこで単に「霊魂は不滅ですよ」という言い方はしないのです。「復活」というのはあくまでも神の業なのです。《神が》死を終わりでなくするのです。

 死というのは人間がもはや何も為しえなくなる究極の地点です。いわば人間は死の手前までは偉そうな顔をできる。しかし、もはや人間が何も為しえなくなる時が来るのです。自分自身の状態についても、自分自身が生きてきた人生についても、自分の犯してきた罪についても、もはや何も為しえなくなる時が来るのです。しかし、人間が為しえるところがゼロになったところで、なおそこに神がおられるのです。そして、そこにおいてまさに神が神として関わられるのです。人はそこにおいて本当の意味で神を神として知ることになる。それが「復活」と表現されている神の御業です。

 ならば人間にとって何よりも重要なのは、そのような神との関係なのでしょう。ここで「正しい者」とか「正しくない者」と言われていますけれど、それは単に道徳的な正しさのことではありません。それは神との関係の話なのです。神との関係は死んで終わりではないのです。それこそが死んでも重要になってくるのです。だからこそ、パウロは言うのでしょう。「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と。

 自分の弁明によって直ちに無罪として釈放されるか、それとも拘留が続くのか。敵対者に一矢報いることができるのかそうでないのか。自分の行うことが目に見える結果を生むか生まないか。パウロにとっては、そのようなことは、ある意味でどうでもよいのです。彼にとって重要なことは、そこで誰に向かってどう生きているかということだったのです。その意味では、彼自身は晴れ晴れと神と共に生きているのです。やがて自分の死においてさえ復活という御業を現される神、その神と共にいるのです。総督の前で裁かれていても、獄中に拘留されていても、神と共にいるのです。いわば彼は復活の光を見て、復活の光の中を生きているのです。

私たちもまた同じ光の中で
 そのようなパウロが見ていた光が同じように差し込んでいるところ、それがこの主日の礼拝です。私たちの日常がどんよりとした曇り空のもとにあったとしても、私たちがそのような状況に生きざるを得なかったとしても、今は光の中に身を置いている私たちが確かにここにいるのです。私たちが本当に復活の主を《礼拝》するために集まっているならば、私たちは確かに復活の光の中に身を置いて、パウロと同じように信仰の言葉を口にしているのです。

 それは皆さんが家で礼拝を捧げるとしても同じです。来週、皆さんはここに集まることはできないのでしょう。しかし、主の日を聖別し、場所を聖別し、神の御前に居住まい正して、ちゃんと聖書を開いて、復活の主を本当に《礼拝》しているならば、皆さんは確かにパウロと同じように、復活の光の中に身を置いて、信仰の言葉を口にしているのです。

 そして、そこから再び日常の生活の中に出ていくのです。復活の主を礼拝し、主と共にあることが私たちにとって決定的に重要なことであるならば、この世に出て行っても私たちは一緒に灰色になってしまうことはありません。その中に溶け込んでしまうことはありません。私たちはパウロと同じように神と共に、晴れ晴れと復活の光の中を生きていくのです。さあ、そのような一週間に向かって、ここから歩み出しましょう。

(祈り)

2020年7月12日日曜日

「イエス・キリストがいやしてくださる」

使徒言行録9:32‐43

異邦人伝道に向けて
 今日、私たちは9章の最後の部分をお読みしました。この9章の前半においては、ファリサイ派のユダヤ教徒であったサウロがキリストに出会い、キリスト者となった次第が書かれていました。彼は後にローマ帝国の至るところにおいて、特にユダヤ人以外の異邦人に、キリストを宣べ伝える偉大な伝道者パウロとなるのです。このパウロなくして後のキリスト教の歴史はありません。

 しかし、このパウロはキリスト者となった後、しばらくタルソスに逃れ、物語の表舞台から姿を消すことになります。次に彼が登場するのは11章なのです。時間的には数年後のことです。このように書かれています。「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った」(11:25‐26)。彼はタルソスでも宣教の働きを続けていたとは思われますが、「見つけ出して」と書かれているぐらいですから、本当に目立たない、隠れた働きであったに違いありません。彼が神によって大きく用いられるのは、バルナバによって連れ戻されて後の話です。

 人の目から見るならば、せっかく回心したサウロを、神様はどうして数年間も埋もれさせてしまったのか、と訝しく思います。しかし、それはあくまでも人の見方です。神様には神様の順序があるのです。パウロがタルソスにいる間、神様は何もしておられなかったのではありません。むしろ、パウロが異邦人伝道に用いられるため、さらには地の果てにまで福音が伝えられるために、神様は準備を進めておられたのです。

 その準備とは、異邦人伝道について、使徒たち、特にペトロの目を開くということでした。もともとペトロを始めとする使徒たちは、ユダヤ人以外、すなわち異邦人にキリストを宣べ伝えるつもりなど毛頭ありませんでした。あくまでも救いはユダヤ人のためのものだったのです。そのような使徒たち、特にペトロに対して、主は働きかけられるのです。

 主がどのようにしてペトロの目を開かれたかは、この後の10章に記されています。コルネリウスという百人隊長、またその仲間たちとペトロが出会うことになるのです。そして、異邦人である彼らが、ペトロを通してキリスト者となるのです。今日、お読みした聖書箇所は、その出来事への橋渡しとなっているのです。

イエス・キリストがいやしてくださる
 今日お読みした32節から35節には、中風患者のアイネアという人が癒されたことが記されていました。これと良く似た話がルカによる福音書5章に出てきます。中風の患者がイエス様のもとに連れて来られました。そして、その後、ファリサイ派の人々とのやりとりなどが記されていますが、最終的にイエス様はこの患者に次のように言われます。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」細かい描写は異なっていますが、ペトロも同じようにこの中風の患者に命じます。「起きなさい。自分で床を整えなさい。」8年も床に着いていた人に立ち上がることを要求するのです。すると「アイネアはすぐ起きあがった」と言うのです。

 続く36節以下には、タビタという婦人の弟子が生き返ったという話が記されています。そして、これに良く似た話がルカによる福音書8章に出てきます。イエス様が、ヤイロという会堂長の娘を生き返らせたという話です。

 ヤイロという人がイエス様のもとに来てひれ伏し、自分の家に来て下さるようにと願います。12歳ぐらいになる一人娘が死にかけていたのです。イエス様は弟子たちと共にその家に向かいました。しかし、娘はイエス様が着く前に死んでしまいました。しかし、イエス様は、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、そして娘の父母を連れて家に入ります。そして、娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられたのでした。この言葉はよほど印象的だったようで、他の福音書には、イエス様が話しておられたアラム語そのままで「タリタ、クム」と記されています。そして、イエス様がこう言われると、その少女はすぐ起き上がったのでした。

 今日お読みした物語は、明らかに福音書における「タリタ、クム」の話を思い出すように書かれています。ペトロはヤッファに近いリダにいたのですが、二人の使いによってタビタが亡くなったことを知らされ、使いの者と共にヤッファへと向かいます。彼が家に着くと、部屋から皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって言いました。「タビタ、起きなさい。」お分かりでしょう。これはアラム語ですと、「タビタ、クム」となるのです。キリストがなされた癒やしの御業とペトロによる癒やしの業が重なります。

 この2つの物語は、「真の行為者はだれであるのか」ということを明確に示しています。ここに書かれているのは、ペトロの行為であって、ペトロの行為ではない。キリストがペトロを通して働いておられるのだ、ということなのです。ですから、アイネアの物語では明確に「イエス・キリストがいやしてくださる」とペトロが宣言しているのです。「わたしがいやしてあげよう」ではないのです。

 先にも触れましたように、使徒言行録に記されている教会の歩みは異邦人伝道という新しい段階に入ろうとしています。ルカはそれを10章以降に書き記そうとしています。しかし、そのことを書き記すに当たって、重要なことを確認しているのです。異邦人伝道においても、真の行為者は誰であるか。――それはキリストである、ということです。

 他ならぬキリストが、ユダヤ人と異邦人を隔てる壁を越えて行こうとしておられるのです。ペトロはそのために用いられたに過ぎない。逆に言えば、本当に生きて働いておられるのは自分ではなくキリストなのだ、ということを知るからこそ、ペトロは壁を越えて進むことができたのです。

人々が主に立ち帰るために
 そして、さらにもう一つのことを心に留めたいと思います。この二つの奇跡物語はどちらも宣教との関わりにおいて締めくくられているということです。アイネアの物語については、「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」(35節)と書かれていますし、タビタの物語については、「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」(42節)と書かれているのです。つまり、病気が癒されたり、死人が生き返ったりした出来事そのものによって、アイネアやタビタが救われたというのではなく、むしろ人々が主に立ち帰ったということの方に強調点が置かれているのです。

 病気の癒しや死人の蘇生という物語をどのように読むかは重要です。癒された人もやがては再び病気になったのでしょう。蘇生したドルカスも、やがては死んだのでしょう。癒しは救いそのものではありません。癒しは神の国のしるしなのです。この世における癒しは、来るべき世における完全な癒しを指し示しているのです。死人の生き返りは、来るべき世における復活を指し示しているのです。それは神が最終的に与えてくださる完全な救いを指し示しているのです。

 それゆえに、この世においても来るべき世においても、最も大切なことは、救ってくださる神と人との関係はどうであるか、ということなのです。人々は、アイネアの癒しにおいて、あるいはタビタの蘇生において、神の恵みの支配に触れたのです。だから人々は「主に立ち帰った」のです。神との関係が変わったのです。

 イエス様は、十字架にかかられ復活される以前にも、神の国のしるしを現し、神の恵みの支配を示し、神の国へと人々を招かれました。十字架にかかられて贖いを全うした後にも、復活されたキリストは、やはりペトロを通して同じことをなさっているのです。そして、キリストは現代の教会を通しても同じことをしておられるのです。そのように、神の国への招き、神の救いへの招きは、あくまでも主御自身のお働きなのです。

 今日、キリストが私たちを通して為そうとしておられることは、表に現れる形としては、必ずしもこのペトロの場合のように病人を癒すことではないかも知れません。むしろそうでない場合が多いでしょう。キリストが私たちを用いられる仕方は様々です。しかし、どのような形であれ、キリストが私たちを用いて御業をなされるならば、そこで神の国への招きが起こります。キリストが完全なる救いへと招いてくださいます。そして、神と人との関係が変わります。教会がキリストの体であり、私たちは皆、その一部であるとはそういうことです。

 私たちは今、主の日の礼拝をささげるためにここに集まっています。この時間は、キリストの体である教会が、目に見える姿で集められている特別な時間です。今、この場所に集まることができず、それぞれの家で祈りを合わせている人たちがいることを私たちは知っています。そして、今日集まっている私たちは、別の週には集まることができません。礼拝の人数制限によって、集められている時は、特別な時間であることをいよいよ思わされることとなりました。通常は散らされているのです。

 だからこそ、私たちが月の大部分の時間を過ごすことになるそれぞれ散らされている場所にあっても、私たちはキリストの体の一部なのだということを忘れてはならないのです。そして、私たちを通して働いておられる真の行為者はキリストなのだということを忘れてはならないのです。ペトロがアイネアと出会い、タビタと出会い、そしてその後、異邦人である百人隊長と出会うことになったように、私たちもまた、遣わされている場において、思いがけない仕方で出会うべき人々が備えられているかもしれません。主が、私たちを通してその人に出会い、主が御業を現され、人が主に立ち返るために。

(祈り)

2020年7月5日日曜日

「キリストはわたしたちの平和」

エフェソの信徒への手紙 2:11‐22

敵意という隔ての壁
 「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(14節)。今日お読みしたパウロの手紙にそう書かれていました。その意味合いは、「他ならぬキリストこそがわたしたちの平和だ」ということです。すなわち、キリストなくしては、私たちは平和であり得ない、ということです。

 そのすぐ後に「二つのもの」という言葉がでてきます。15節には「双方」と書かれていますし、16節には「両者」と書かれています。「わたしたち」の中に「二つのもの」があるのです。それはもともと平和であり得ない、相容れない「二つのもの」です。パウロの時代において、その「二つのもの」とは、具体的にはユダヤ人と異邦人のことでした。

 イエス様はユダヤ人でした。最初の弟子たちも皆、ユダヤ人でした。最初の教会はユダヤ人によって構成されていました。しかし、やがて異邦人に福音が伝えられるようになりました。信じた異邦人が教会に加わるようになりました。そのようにして、教会にはユダヤ人がおり異邦人がいたのです。その両者が共に礼拝を捧げていたのです。その両者が共に聖餐にあずかっていたのです。その両者が共に祈り、共にキリストを宣べ伝えていたのです。

 「共に」と事も無げに言いましたが、実際にはそう簡単ではなかったことは容易に想像できます。いわば「ユダヤ人」と「異邦人」とは、共に生きることのできない者たちを代表しているとさえ言えるからです。「敵意という隔ての壁」と書かれていました。実際、互いの間の敵意は一般社会に厳然として存在していたのです。

 その「敵意という隔ての壁」がどれほど高かったのか。その隔てを象徴的に表しているのはエルサレムの神殿にあった「隔ての壁」でした。神殿において異邦人が入ることができるのは、「異邦人の庭」と呼ばれているところまでで、その壁には「この中に立ち入る異邦人は死罪にあたる」と書かれた板がはめ込まれていたと言われます。それが「敵意という隔ての壁」という言葉の背景です。

 異邦人は汚れたものであって触れるならば自らが汚れる。異邦人は地獄の火を燃やす薪となるために造られた。――それは敬虔なユダヤ人の一般的な理解でした。もちろん、そのような差別と敵意は双方から起こるものです。自分たちを汚れた者と見なすユダヤ人たちを、異邦人もまた忌み嫌ったことでしょう。異邦人であるローマ人が支配する社会でのことであり、ユダヤ人は社会的にはマイノリティですから、実際には差別の対象とされるのはユダヤ人の側です。

 そのようにもともと敵意という隔ての壁によって分けられていた「二つのもの」が初めの頃から教会の中には存在していたのです。また、ユダヤ人と異邦人だけでなく、その他にも様々な形で相容れない「二つのもの」が共存していたことでしょう。それはある意味では必然であったと言えます。教会はギリシア語では「エクレシア」と言います。それは「呼び集められた者」という意味です。神が呼び集められるのです。人間が自分の好みに従って集まったのではなく、神が呼び集められたのなら、そこに相容れない「二つのもの」が存在していたとしても不思議ではありません。

 それは頭では理解できる事なのでしょう。しかし、心がついて来られるとはかぎりません。感覚的な事柄は実にやっかいです。15節には「規則と戒律ずくめの律法」という言葉がでてきました。規則にせよ戒律にせよ、それは正しさの基準です。そして、人間にとって正しさの基準というのは、単純に知的な理解の範疇にはありません。人はその中に生活しているのであって、いわば心と体に染みこんでいるのです。そして、その心と体に染み込んだ正しさの基準がしばしば人と人とを分断することになるのです。

 例えば、ユダヤ人にとって豚は汚れた動物であり、豚を食べることは律法違反です。それは「悪」なのです。そして、それを悪とみなす正しさの基準は心と体に染みこんでいるのです。ですから、やはり豚を平気で食べてきた異邦人は嫌いなのです。もちろん、異邦人には異邦人で自分たちの正しさの基準があるのでしょう。自分たちがこれまで生きてくる中で染みこんでいると言えるような正しさの基準がある。それからするとやはりユダヤ人は嫌いなのでしょう。それは極めて感覚的な問題であったに違いない。ですから、ユダヤ人と異邦人が一つの教会を形作るということは、実際的には極めて困難なことだったはずなのです。

キリストはわたしたちの平和 だからこそパウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と言うのです。他ならぬキリストこそがわたしたちの平和なのだ、と。ただお互いに向き合って、お互いに言葉を交わして、お互いを理解して、共に時間を過ごして、それで一つになれるならばこのようなことは言わないのです。どんなに時間をかけてお互いに向き合っても、それだけではどうにもならないことはある。それこそ感覚的にお互い相容れないという人々が存在していたとしても不思議ではないのが教会なのです。逆に言えば「実に、キリストはわたしたちの平和であります」などと言わなくても、なんの葛藤もなく、お互い相容れることのできる人だけが集まっている教会ならば、教会としては「何かおかしい」と思わなくてはならないのでしょう。

 ではなぜ「キリスト」こそが「わたしたちの平和」なのでしょう。パウロは、キリストが二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊してくださったからだと言うのです。「御自分の肉において」とありますが、キリストが肉においてしてくださったこと、それは最終的には十字架におかかりくださったということです。そのことによって敵意という隔ての壁を取り壊してくださった。ですから16節でははっきりと「十字架によって」と言っています。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(16節)。

 そこには「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」と書かれています。「十字架を通して《両者を》互いに和解させてくださった」とは言っていないのです。両者は《神と》和解させていただいたのです。「神と和解させていただいた」とは、言い換えるならば「神に赦していただいた」ということです。両者は「神に赦していただいた」のです。ユダヤ人も異邦人も神に赦していただいたのです。彼らはどちらも、自分の正しさを振りかざせる者ではなく、赦していただいた者として、共に神の御前にあるのです。正しさを主張し続ける「二つのもの」は決して和解することはできません。しかし、その正しさが根底から覆されるとき、人と人との和解もまた実現していくのです。

 これがキリストの「敵意という隔ての壁」の取り壊し方でした。そして、事実キリストは十字架において、敵意という隔ての壁を取り壊してくださったのです。そして、十字架において実現したことが、教会において目に見える形となることを求めておられるのです。ですから17節以下にはこう書かれています。「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方のものが一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(17‐18節)。

 「キリストはおいでになり」と書かれていますが、実際にエフェソの人たちに最初に福音を告げ知らせたのはパウロなのでしょう。あるいは後の教会の人々が福音を告げ知らせてくれたのでしょう。しかし、パウロは言うのです。キリストがおいでになったのだ。そして、平和の福音を告げ知らせてくださったのだ、と。イエス様が来てくださって、ユダヤ人と異邦人が共に礼拝を献げ、共に父なる神に近づくことができるようにしてくださったのだ、と。

 私はこの箇所を読むと、こんな情景が心に浮かんでくるのです。ここに互いに相容れない二人がいる。感覚的にお互いが嫌いなのです。しかし、そこにイエス様がおいでくださる。そして、その両方にイエス様が平和の福音を一生懸命に語り聞かせてくださる。そして、イエス様は十字架の釘跡のある一方の手で一人の手を取り、もう一方の手でもう一人の手を取って父なる神様に向かわせてくださるのです。そして言われるのです。「父よ、彼らをお赦しください」と。そのように父なる神に執り成しながら、共に礼拝をさせてくださる。それがかつてユダヤ人と異邦人のいる教会に起こったことであり、今ここにいる私たちに起こっていることなのです。

 この世界は今日もなお、敵意という隔ての壁によって分断された世界です。コロナウイルスによって、この世界が分断された世界であることがいよいよはっきりと現れてきているとも言えます。そのような世界の中にあって、私たちがただお互いにのみ目を向け合っているところに真の平和はありません。キリストこそが私たちの平和です。キリストによって罪を赦された者として、共に神を仰ぐところにこそ、真の平和はあるのです。その平和が、まずここにいる私たちの間において目に見える形をとって実現していきますように。
(祈り)

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