ヘブライ人への手紙 13:18‐25
ヘブライ人への手紙も最後の部分となりました。今日はこれまで書かれてきたことを思い起こしながら、特に20‐21節に記されている祝福の祈りを私たちへの言葉として受け止めたいと思います。
まず心に留めたいのは、イエス様が「永遠の契約の血による羊の大牧者」と呼ばれていることです。既に述べられてきた「新しい契約」は、ここで「永遠の契約」と呼ばれています。最初の契約は一時的、暫定的なものに過ぎませんでした。それは「古びてしまったと宣言された」ものです。それに対して、新しい契約は永遠であり、決して変わらない関係であり、絶対に切れることのない絆です。その契約の中に私たちは置かれているのです。
それはまさに永遠に関わる決定的な出来事、イエスの十字架における死、を通して与えられた契約です。その契約の血は、動物の血ではなく、神の子が人間となって流された血です。古い契約の律法における動物犠牲は罪を本当に贖う効力はありませんでした。それはやがて来るべきものの影に過ぎませんでした。それは真に罪を贖うことのできるキリストの体、また契約の民を完全に清めることのできるキリストの血を指し示していたのです。
その犠牲については、「ただ一度」「唯一の」犠牲であることが繰り返し語られていました。「しかしキリストは、罪のために唯一の犠牲を捧げて、永遠に神の右の座に着き…」(10:11)。唯一ですから、二つ目はないということです。ただ一度のことですから、二度目はありません。すなわち、永遠に効力を持つ犠牲であるということです。
その永遠なる犠牲の血が流されたわけですから、キリストはその献げ物によって「聖なる者とされた人たちを永遠に完全なものとなさった」(同14節)のです。すなわち、神との関係が完全なものとされて、もはや神との間を隔てるものはない、ということです。このようにして、あのエレミヤを通して語られていたことが実現したのです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない」(8:12、エレミヤ31:34の引用)。
この「永遠の契約の血」という言葉の重みを知るためには、私たちは自分の置かれている立場をきちんと理解しなくてはならないと以前申し上げました。新しい契約が有効であり、罪の赦しが有効でなければ、私たちは自分自身で自分の罪を負い、自分一人で裁きの座において自らの弁明をしなくてはならないということでもあるのです。それはいかに恐るべきことであるか。私たちは、この新しい契約がイエスの血によって永遠に有効なものとされたことの重みを改めて感じる必要があるでしょう。
さて、そのように「永遠の契約の血」と語られているわけですが、それに続くのが「羊の大牧者」であることは、少々意外な気がしなくもありません。本来ならば、血について語られたわけですから、その血によって神の御前において執り成しをしてくださる「大祭司」が来るのではありませんか。実際、「大牧者」については、これまで全く語られてはいないのです。
しかし、これには恐らく大きな理由があるのでしょう。その直前の18節以下には、「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください」と書かれています。「帰れるように」と言われているように、この著者はこれを読んでいる群れの一人であり、その牧会的な責任を負っている人であることが分かります。
それはこの手紙の内容からも想像できることです。22節にも「以上のような勧めの言葉を受け入れてください」と書かれていますが、この「勧めの言葉」とは要するに説教です。この手紙は、通常の書簡というよりは、書かれた説教であると言えるでしょう。彼はこの説教を通して、遠隔の地から牧会的な務めを果たしているのです。
ではこの時に彼らの牧者はいないのかと言うと、決してそうではなく、17節にも「指導者たち」に言及されていますし、彼らは「あなたがたの魂のために心を配っています」と語られているのです。しかしこの著者は、そのように指導者たちについて語った後、しかし彼らが今仰ぐべき真の牧者がいることを思い起こさせているのです。それこそが「永遠の契約の血による羊の大牧者」である主イエスだと言っているのです。
頌栄教会にも牧師が立てられています。牧師は牧師としての務めを果たします。しかし、私たちにおいても、牧師も信徒も忘れてはならないことは、私たちには常に最高の大牧者がいるということです。自ら犠牲となって契約の血を流し、また自ら大祭司として私たちのために執り成していてくださる方、その御方が聖霊の働きを通して私たちを牧会してくださるのです。この御方こそ、羊のことを誰よりも心にかけていてくださる羊飼いです。
私たちはこの御方に養われ、この御方に導かれながら、天の故郷へと向かうのです。既に永遠の御国は与えられ、神の安息に与ることが約束されている私たちが、なおも闘い多きこの時の間を旅する間、かつてイスラエルの民が羊の群れのようにモーセとアロンに導かれたように(詩編77:21)、それにもまさるイエス様によって私たちは導かれていくのです。イエス様は「信仰の創始者また完成者」(12:2)なのですが、以前申し上げたとおり、「創始者」とは「先導者」という意味でもあるのです。
そしてさらに私たちは、「平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」と書かれていることを心に留めましょう。
私たちには大牧者なるイエス・キリストがおられるということは、ある意味では私たちは弱くても大丈夫だということです。羊は弱くても羊飼いが強ければ大丈夫。「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」というのは、確かに真理です。しかしもう一方において、聖書は羊飼いのもとにある私たち自身もまた強くなれるのだ、とも語っているのです。
12章の終わりには、「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」と語られていました。そして、それが具体的にどういうことかを13章前半において見てきました。私たちはこの地上に永続する都を持っていません。ですから「わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」と勧められているのです。
そのように、この地上において御心を行って生きていくことは確かに困難なことであるに違いありません。しかし、「私たちは弱いからできません」と言う必要はないのです。神御自身が「御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださる」と言うのです。
これは「完全にする」とも訳せる言葉です。そこには完全に装備することや修復することが含まれています。神がそのようにしてくださる。その神とはどのような御方かと言えば、「主イエスを、死者の中から引き上げられた」神だと言うのです。「引き上げる」という表現は、通常の復活を表す表現よりも、より強く神の力を表している表現です。そのような方が、私たちに必要な装備と修復を与え得ないはずがありません。
そして、この著者は「あなたがたに備えてくださるように」と言っています。これは祈りです。そのように、これは私たちが単純に神に求めるべきことである、ということを示しているのです。
さて、このようにヘブライ人への手紙を読んでまいりました。この著者は「どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」と言っています。大切なことは、これまで聞いてきたことを、私たち自身も自分への語りかけとして受け入れることであろうと思います。そのように、ここに書かれていることを本当に受け入れるならば、私たちの信仰生活は大きく変わっていくに違いありません。
2023年11月8日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 13:18~25
2023年11月1日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 13:1~17
ヘブライ人への手紙 13:1‐17
先週の聖書箇所は、「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(12:28‐29)。という言葉で締めくくられていました。
私たちには新しい契約が与えられています。既に贖いの犠牲は屠られました。私たちのためには、永遠に生きておられ、常に生きておられる永遠の大祭司がおられます。私たちははばかることなく恵みの座に近づくことができます。そのようにして、私たちは確かな約束の中に生かされています。この世のすべては過ぎ去ります。揺らぐことのないものなど何もありません。ただ一つ、揺り動かされないのは御国です。私たちは既にその揺り動かされないものを与えられているのです。
だから「感謝しよう」と言うのです。信仰生活においてどんな困難があろうと、迫害があろうと、「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」とこの手紙の著者は励ましているのです。
それは具体的にどのようなことでしょう。神に喜ばれるように仕えていくにはどうしたらよいのでしょう。今日の箇所において、著者は次のように続けます。「兄弟としていつも愛し合いなさい」。先週お読みしたところには、「すべての人との平和を…追い求めなさい」(12:14)とありました。しかし、それはどこから始まるのでしょう。まずは共に信じる群れからです。すべての人との平和を追い求めるようにと命じられている教会の中において、まず求められなくてはならないのです。
それはある意味で当然のことです。私たちはイエス様御自身から、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と命じられているからです。父の訓練は必ずしも外からの迫害などを通して与えられるのではありません。むしろ身近な兄弟を愛することの困難の中にこそ、父の訓練が与えられているのです。
しかし、そこではまた「旅人をもてなすことを忘れてはなりません」と続けられています。日本語では分かりにくいのですが、「兄弟として愛する(フィラデルフィア)」という言葉と「旅人をもてなす(フィロクセニア)」という言葉が対になっているのです。
兄弟とはたえず顔を合わせているかもしれませんが、旅人とはもう二度と会わないかもしれません。親切にしたからといって、その見返りがあるとは限りません。自分や共同体に益をもたらす人であるから親切にするのではないのです。旅人をもてなすとはそういうことです。
しかし、そのようにして旅人をもてなしたアブラハムは、実は知らずに御使いたちをもてなしていたというのです(創世記18章)。その内のひとりが「主」と呼ばれているように、それはすなわち主をもてなしたということです。そのように、私たちは主によって愛された者ですから、その主をもてなしているかもしれないという思いをもって旅人をもてなすことが勧められているのでしょう。
旅人をもてなすこと自体は、ユダヤ人にとってはいにしえから重んじられていた徳目の一つでした。しかし、新約聖書に繰り返しこのことが語られているのは、迫害で散らされた人たちがいたからでしょう。またそのような困難の中で巡回しながら御言葉を伝えていた教師たちがいたのです。そのような初期の教会は、このフィロクセニアなくして成り立たなかったということも事実です。
そしてまた、ここでは立ち寄った旅人だけではなく、もしかしたら会ったことのない、牢に捕らわれている人や虐待されている人をも思いやるようにと語られています。自分も牢に捕らわれているつもりで、また虐待されたらどれほど苦しいだろうかといことを想像しながら、それらの人々を心に留めるべきだと語られているのです。イエス様は自ら人間の体を受け取って、その苦しみを経験してくださり、そのことをもって私たちを思いやってくださいます。そのようなキリストの体として、私たちも他の人に対してそうすべきなのでしょう。
続いて、性的な問題と金銭の問題においての清さが求められています。「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。」そのように語られています。
実際、生活の崩壊は往々にしてこの二つを巡って起こります。それは私たちが毎日のニュースに見るとおりですが、揺らぐことのない御国の約束と父なる神の訓練を忘れてしまうなら、これはキリスト者にとっても大きな誘惑となるであろうことをこの手紙の著者は知っているのです。ですから、先にも「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように」なってはならないと語られていたのです。
そのために重要なのは、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われた神の言葉です。これは申命記31:6からの引用です。性と金銭の誘惑は人間の孤独感、欠乏感、喪失感を足がかりに入り込みます。その足がかりを取り除くのは、先の主の御言葉を信じる信仰です。さらに、そこから積極的に兄弟を愛することのみならず、旅人をもてなすことも生まれてくるのです。
続く7節には「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と書かれています。あえて「生涯の終わり」と書かれていることから、恐らくは迫害の中で殉教した人たちのことが考えられているものと思われます。
そうしますと、その直後に書かれている「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」という言葉は、たいへん重い意味を持ってまいります。彼らが信じて、そのために命をさえ惜しまなかったイエス・キリストと、今、あなたがたが信じているイエス・キリストは、同じ御方なのですよ、と言っているのです。その時のイエス様も今のイエス様も変わらない。そのことを私たちもまた思い起こさなくてはなりません。
この手紙の読者が主に「ヘブライ人」すなわち、ユダヤ人キリスト者であることを考えますと、その意味がさらに見えてまいります。キリスト教会がユダヤ教の一派であるかぎり、キリスト者がユダヤ人として律法を守り、また異邦人と交わることなく生活しているかぎり、ある意味では多くの困難を回避することはできたのです。さらに言えば、ローマにおいてユダヤ教は公認宗教でしたから、そこから外れていくということは、とりもなおさず国家の迫害の対象となることでもあったのです。ですから、ユダヤ教の枠の中に留まれという教えは、ユダヤ人キリスト者には都合の良い教えでもありますし、実際そのように教えているユダヤ主義者がいたのです。
しかし、そのような戒律遵守を勧める諸々の教えについて、「いろいろな異なった教えに迷わされてはなりません」と著者は語ります。そして、かつての動物犠牲の奉献がどのようになされていたかを思い出させます。罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるのです。それと同じように、イエスもまた門の外で苦難に遭われたのだ、と言うのです。それはエルサレムの外のゴルゴタで十字架にかけられたというだけではありません。人々から捨てられ、拒否され、辱められて十字架にかけられた。アウトサイダーとして十字架にかけられたのです。
そのように、イエス様が宿営の外におられるならば、どうして私たちが安全である宿営の中に留まっていてよいのか。そのようにこの手紙は訴えているのです。むしろ、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか、と。
この地上に私たちのゴールがあるのなら、この地上に安住の地を確保し、安全な宿営の中に留まることは重要でしょう。しかし、私たちのゴールはこの地上にあるのではありません。「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」(14節)と書かれているとおりです。そのように生きた指導者たち、その生涯の終わりをもって証しした指導者たちがいたのです。その信仰を見倣いなさいと著者は勧めます。私たちがその同じ信仰に生きるなら、わたしたちはどのように生きるべきなのでしょう。彼らのイエス・キリストは、変わらない御方として、私たちのイエス・キリストでもあるならば、わたしたちはどのように生きるべきなのでしょう。
2023年10月25日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 12:14~29
ヘブライ人への手紙 12:14‐29
先週お読みしたところでは、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(11節)と書かれていました。神様は私たちを子として取り扱い、必要な鍛錬を与えるのだというのです。そして、それは「義という平和に満ちた実を結ばせる」ための鍛錬なのです。
ここで語られている「平和」とは、単に争いがない状態を意味するのではなく、神様と共にあって、神と調和し命に満ち溢れている状態を意味するのだと申しました。そのような実を結ばせてくださるための鍛錬を神様は与えてくださるのです。そのように語った上で、今日の箇所では、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」と勧められているのです。
「すべての人との平和を追い求めなさい」。先に語った「平和」には、もちろん人と人とが愛し合って共に生きることも含まれています。人と人とが引き裂かれたままで、争い憎み合ったままで、神と調和して命に満ちあふれているなどということはあり得ないのですから。
隣人のことを忘れ、この世界のことを忘れ、ただ神との交わりの中に引き籠もって得られる平安。――それは神が与えようとしているシャーロームとは別物です。神様は、神と人とが和解し、神と人との間が平和であるだけでなく、人と人とが和解し、愛し合い、共に生きることを望んでおられるのです。そのような神と人、人と人との間に、神の命を満たそうとしているのです。そこにこそシャーロームがあるのです。
それゆえに「すべての人との平和を追い求めよ」と語られているのです。しかし、すぐに分かることは、これは追い求めて簡単に獲得できる類のものではないということです。この手紙の読者にはすぐに分かったと思います。「すべての人」には迫害する者も含まれているのだ、と。敵対し悪口雑言を言ったり中傷したりする人も含まれるのです。次から次へと苦しみをもたらす人も含まれるのです。主を信じるキリスト者の仲間の間ですら難しいのに、「《すべての人と》の平和を追い求めよ」という勧めをどう受け止めたらよいのでしょう。
しかし、それがどれほど難しくても、聖書の言うように平和を追い求めてこそ身に染みて分かることがあることは事実です。訓練が必要だ、ということです。父の鍛錬、義という平和に満ちた実を結ばせる父の鍛錬が、ぜったいに必要だということです。それなくして本当に身近な人との間にすら平和なんて実現できないわけですから。
平和を追い求めるならば、まずは自分自身が変えられなくてはならないのです。清められなくてはならないのです。ですから、「すべての人との平和を追い求めなさい」とだけ語られているのではなくて、「聖なる生活を追い求めなさい」と勧められているのです。「聖なる生活」と訳されている言葉は、「聖化」と訳せる言葉です。意味合いとしては、「清められていくこと」とか「聖なる者と変えられていく」ということです。そのような生活を求めなさいということです。
10節には「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」と書かれていました。清められるというのは、神の神聖にあずからせていただくということです。神様の御性質に変えられていくということです。
ならば神の鍛錬は絶対に必要でしょう。神の鍛錬をも含め、聖化を求めていくことなくして、すべての人との平和を追い求めることはできないのです。いやさらに言うならば、そのような聖化を求めていくことこそが、最終的に神にまみえる備えでもあるのです。それなくしては「だれも主を見ることはできません」と書かれているとおりです。
逆に言えば、私たちが神に信頼し、すべての人との平和を求め、神によって聖化されることを追い求めているならば、私たちの信仰生活は、たとえそこにどんな困難があろうとも、様々な闘いがあろうとも、全く心配ないということです。すべて私たちを聖化するために用いられるのであって、すべては神にまみえる備えとなることが分かっているからです。
それゆえにまた、最終的に神にまみえる備えということを考えず、すべての人との平和をも求めず、聖化されることをも追い求めていないならば、神の鍛錬の意味が分からないわけですから、いくらでもかつてのイスラエルの民のようになってしまうということはあり得るわけです。それゆえに「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい」と語られているのです。
彼らが神の恵みから除かれたのは、不信仰のゆえであったことは既に語られていたとおりです。「苦い根」は申命記29:17に出てきますが、主に背いて偶像に寄り頼むようになることです。神の鍛錬の意味が分からなければ、手軽に幸せを約束する神、手軽に問題を処理してくれる神を求め、安易に困難を回避する道ばかり求めることになるでしょう。それは即、不信仰につながることは火を見るより明らかです。
それゆえに、そのような道を選ぶことがまた、長子の権利を譲り渡したエサウに喩えられているのです。エサウにとっては、神の約束にかかわる長子の権利よりも、お腹が減った時に一杯の食物を得ることの方が重要だったのです。そのように、神の約束に思いを向けることがなければ、今目の前の困難を回避することや、今目の前の欲望を満たすことの方がずっと大事になってしまうでしょう。ですから、そのように「みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです」と警告されているのです。
結局、重要なのはどこに目を向けているかなのです。ゴールに向かうレースを走っているのだという認識を持っているか否かが問題なのです。
実際、私たちがレースを走るに当たって、そのはじめに近づかせていただいたもの、触れさせていただいたものは、あのイスラエルの人たちが近づき触れたものとは比べものにならないほど恵みに満ちたものであったはずです。それが18節から24節に語られていることです。私たちは比べものにならないほどに幸いな位置にいるのです。だからこそ「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」と語られているのです。
この手紙の冒頭には、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(1:1‐2)とありました。そのように、地上で神の御旨を告げる人々の言葉が語られてきた後、神の言葉そのものである御方が天から来られたのです。神はキリストを通し、天から御旨を告げられたのです。
その内容については、既にヘブライ人への手紙において見てきたとおりです。キリストが自らの体を犠牲として捧げ、私たちを執り成す大祭司として御自身を現してくださったのです。この神の語りかけを拒み、この御方から離れてしまうならば、もはや罪のためのいけにえは残っていません。それゆえに、この語りかけを拒んで、心をかたくなにしてはならないことが繰り返し語られてきたのです。
私たちはイエス・キリストによって現され、私たちに伝えられてきた福音の言葉にこそ錨を降ろさなくてはなりません。わたしたちは目に見えるものによって生きるのではなくて、信仰によって生きるのです。目に見えるものは過ぎ去ります。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう」とハガイの預言したとおりです。動かざるものはありません。動かざるもの、唯一確かなものは「揺り動かされることのない御国」です。これこそが確かな希望です。その揺り動かされることのない御国の約束を私たちは既に受けているのです。ですから「感謝しようではないか」と語られているのです。「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」と。
2023年10月18日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 12:1~13
ヘブライ人への手紙 12:1‐13
二回にわたってヘブライ人への手紙11章を読んでまいりました。信仰者列伝と呼ばれるその箇所には、「信仰によって」という言葉が繰り返され、信仰に生きた人たちの姿が次々と描き出されていました。
そこには生ける神の奇跡を経験し、助け出され、勝利を得た人たちや、死んだ身内を生き返らせてもらった人たちのことが書かれていました。その一方で、迫害の中で拷問にかけられ死んで行った人たちのこともまた書かれていたのです。しかし、彼らは死んだ身内を生き返らせてもらうこと以上のこと、「更にまさったよみがえりに達するために」あえて釈放を拒み、拷問にかけられたのだとこの手紙は語ります。それは「信仰によって」です。彼らは皆、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を見ているかのように確認しながら生きたのです。
先週お話ししましたように、いにしえの信仰者たちを思います時に、私たちは何を見ているのだろう、と思わずにはいられません。私たちは、信仰のゆえにどれほど苦しんだと言うのでしょう。私たちが信仰のゆえに耐え忍んできたことは、どれほどのことだと言うのでしょう。
しかし、考えてみれば、ここで挙げられている人たちは旧約の時代の人たちなのであって、永遠の大祭司であるキリストも、またキリスト自らが罪の贖いの犠牲となってくださったことも知らない人たちなのです。新約の時代の私たちにとっては当然のごとくに耳にしている福音のすべても知らなかった人たちなのです。これらの人たちは、まさに信仰に生きた人たちでした。しかし、私たちは更にまさったものをいただいているのです。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった」(40節)と書かれているとおりです。
もちろん、神が私たちのために計画し、与えてくださったキリストの到来と、その後の新約の時代のすべては、いにしえの信仰者たちの歴史によって準備されたものでした。私たちが「更にまさったもの」をいただいているのは、一重に彼らのお陰でもあるのです。彼らの信仰の歩みなくして、今の私たちはないのです。
しかし、ここで非常に興味深いことに、その逆もまた真なりと語られているのです。すなわち、彼らなくして私たちはないように、私たちなくして彼らが全うされることもない、と語られているのです。「わたしたちを除いては(わたしたちなくしては)、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:40)と。
彼らが信仰の歩みを全うすることが、今の私たちにとって重大なことであるように、私たちが信仰の歩みを全うすることは、彼らにとって重大なことのようです。彼らがどんなに素晴らしい信仰者であっても、彼らだけでは完結しないのです。私たちあってこそ、彼らもまた完結する。彼らも私たちも共に神の安息にあずかり、共に完全な状態に達するのです。
だからこそ、既に信仰の生涯を忍耐強く走り抜いた彼らが、私たちの信仰生活に注目しているのだ、と言うのです。一人や二人ではありません。今日お読みしたところには、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」と書かれているのです。信仰のゆえにのこぎりで引かれた人たち、剣で斬り殺された人たちもそこにいるのです。いわば彼らは、「わたしたちが苦しみを耐え抜いたことを無駄にしないでくださいよ、あなたたち抜きでは完成しないのですよ」と言いながら、私たちの信仰生活に注目しているのです。
ですから次のように勧められているのです。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(1‐2節)。
「忍耐強く走り抜こう」と表現されている信仰生活は、短距離走というよりもむしろ長距離走に喩えられるのでしょう。長距離をゴールに向かって走るときに、余計なものをごてごてと身につけて走る人はいません。負う必要のない重荷は極力降ろしていく必要があるのです。そのためには生活をシンプルにすること、物事の優先順位を明確にすることが不可欠なのでしょう。長距離を走るランナーは、ゴールに向かって走ることから、すべての優先順位を決めているわけでしょう。信仰生活も同じです。
しかし、重荷以上に深刻なのは「絡みつく罪」の問題です。何かが絡みついてきたら走れなくなるでしょう。ここで「絡みつく罪」ということで具体的にどのようなことが念頭に置かれているかは、既に3章以下に見てきたとおりです。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(3:12‐13)。そのように書かれているように、第一に問題とされているのは不信仰なのです。苦難の中において、神の真実を疑い、心をかたくなにし、生ける神から離れてしまうことなのです。
そうならないためにも二つのことを心に留めなくてはなりません。第一に、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走るということです。イエス様から目を離さないことです。そのイエス様とは、特に「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」というイエス様です。
そして第二に、旧約聖書に記されている次の勧告の言葉を忘れないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(5‐6節。箴言3:11‐12からの引用)。
4章にも「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちからでないように、気をつけましょう」(4:1)と書かれていました。約束はまだ続いているのです。ですから苦難や困難があることは、私たちが神に見捨てられたことを意味しないのです。神の愛が失われたことを意味しないのです。神は変わることなく慈愛に満ちた父であり続けているのです。
問題は私たちにそれが分かるかどうかなのです。この世の親子でも子が必ずしも父の意図を理解してはいないように、天の父との関係でもそれが起こります。大切なのは神が愛をもって私たちを子として取り扱っておられることを知ることなのです。
そこには父の目的があります。聖書は私たちに、地上における父親と神様を対比してこう語ります。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(10‐11節)。
父の目的は、私たちを清めることです。それは私たちが平和に満ちた実を結ぶようになるためなのです。「平和(シャーローム)」とは、神と共にあって神と調和して命が満ち溢れている状態です。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神様は訓練されるのです。私たちが神を離れ、罪を犯し、罪の実ばかりを実らせる者であることを神様が放っておかれるとしたら、それこそ恐ろしい裁きであるに違いありません。
キリストに目を向け、父の意図を知る。そうあってこそ私たちは忍耐強く走り続けることができるのです。
2023年10月11日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 11:17~40
ヘブライ人への手紙 11:17~40
先週から11章に入りました。ここは信仰者列伝と呼ばれる箇所です。その冒頭には、信仰が何であるかが短く次のように表現されていました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)。そして、実際にそのように生きた人々が次々と登場するのです。今日はその後半部分を見ていきましょう。
先週、特にアブラハムについて見たわけですが、今日の箇所でもその話が続いています。まず著者が目を向けているのは、ご存じのようにアブラハムがイサクを焼き尽くす献げ物として献げよと命じられた話です。創世記22章を見ますと、アブラハムがイサクをモリヤの山に連れて行き、刃物を取ってイサクを屠ろうとした次第が書かれていますが、それは「信仰によって」なのだと著者は語っているのです。「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と約束を受けたアブラハムが、その独り子であるイサクを屠るということが何を意味するかに目を向けさせるのです。
目に見えるところでは、約束に反する方向にことは進んでいるのです。目に見えるところでは、神はどう考えても不真実なのです。創世記の話では、屠ろうとしたまさにその時に神が御使いを通してストップしたことが書かれています。結果的にはイサクは死ななかった。確かにそうです。しかし、アブラハムの心の中では、モリヤへと出発した時から既にイサクは死んでいるのです。神がストップしてくれることは前提になっていないのですから。
死んでしまったら、それが結論であるように見えるでしょう。神が真実か不真実かもそこで決まってしまうように見えるものでしょう。しかし、アブラハムはそれでもなお神を信じたのです。イサクが既に死んでしまったとしても、望みが完全に絶たれたとしても、それでもなお神は約束を守るし、神は真実であるとアブラハムは信じていたのです。旧約聖書にそのとおりに書かれているわけではありませんが、確かにこの手紙が語っているように、いわばアブラハムは、「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」と言えるでしょう。実際、神がストップをかけたわけですが、それはアブラハムにとっては死人をよみがえらせて返してもらうに等しい出来事だったからです。
その後に、イサクの信仰、ヤコブの信仰、ヨセフの信仰について書かれています。自分自身は約束されたものを得ていないのですが、それでもなお子どもたちを祝福するということは、まだ見ていない事実、未来に属する事実を信じているということです。約束してくださった方は真実であると信じ、見ていない事実を信仰によって見ているがごとくに生きたのです。
続いて取り上げられているのはモーセにまつわる話です。最初にモーセの両親、次いでモーセ自身、そしてモーセに率いられたイスラエルの民の信仰について書かれています。
モーセの両親が生まれた男の子を三ヶ月間隠していたのは、「信仰によって」であったと書かれています。目に見えるところにおいては、絶対的な権力を持ち、命じる権威を持っているのは明らかにファラオなのです。しかし、モーセの両親は目に見えるものだけを見て生きなかったのです。目に見えない御方、まことの支配者を見て、その御方に信頼したのです。
この両親に育てられたモーセは、成人した時、王女の子と呼ばれるよりも、神の民と共に虐待される方を選びました。ここにはなんと「キリストのゆえに受けるあざけり」と記されています。モーセはもちろん知らなかったかも知れません。しかし、彼が信仰によって受けたあざけりは、後にキリストのゆえに迫害を耐え忍んだキリスト者の受けたあざけりと同質のものだったのです。それは目に見えない御方、約束してくださった神に信頼し、まだ見ぬ約束された報いに目を注ぐゆえに、あえて受け取っていった苦難だったからです。モーセは「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいた」のです。それが信仰なのです。
エジプト脱出の時、神は過ぎ越しの小羊を屠り、その血を柱と鴨居に塗ることを命じました。滅ぼす者による裁きを免れたか否かは、彼らが正しい人間であったか否かによるのではありませんでした。神の言葉を信じて、信頼して、血を塗ったか否かによったのです。
エジプトを脱出したあの葦の海を前にしてエジプト軍に追いつかれた時、モーセは人々にこう言いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
目に見えるのは迫り来るエジプト軍だけなのです。神の軍勢は見えないのです。そのような危機において静かにしていることは困難です。しかし、彼らは信じたのです。そして神によって海が分かれました。彼らは海の中に出来た道を通って向こう側に行けると信じたのです。実際、その道を踏み出すということは、信仰なくしてはできないでしょう。事実同じ道を通りながらエジプト人は滅びたのですから。あの葦の海の奇跡、それはただ神によって海が分かれたということではなくて、「信仰によって」彼らが海を渡る出来事でもあったのだ、と聖書は伝えているのです。
続いてヨシュアの時代の出来事が二つ記されています。一つはエリコ攻略の話(ヨシュア6章)、もう一つは娼婦ラハブが斥候をかくまった話(ヨシュア2章)です。
エリコを攻めるに当たり、神が命じられたのは次のことでした。「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい」(同6:3‐4)。
人間の目に映っているのは堅固な城壁に囲まれた町です。その周りを巡ることに何の意味も見出せなかったに違いありません。しかし、彼らは目に見えるものよりも、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す」という約束を与えてくださった主を信じたのです。彼らは信仰によって町の周りを回ったのです。そして、まだ見ていなかった報いを信仰によって得たのでした。城壁は崩れ落ちたのです。
ラハブが斥候をかくまった時、彼女はこう言いました。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(同2:11)。目に見えるところにおいては、彼女は堅固な城壁に囲まれた難攻不落の町の中にいるのです。しかし、彼女は目に見えないまことの神に目を向け、「様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れ」、彼らに救いを求めたのです。
彼女には一つのことが科せられました。窓に真っ赤なひもを結びつけること。そして、一族を家に集め、戸口から外へ出ないことでした。彼女は、まだ見ていない未来の出来事を信じ、まだ何も起こらない内から、真っ赤なひもを窓に結びつけました。彼女とその一族が助かったのは、正しかったからではありません。ただ信仰によったのです。
そして、この著者は「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう」とこの著者は言います。まさにその通りでしょう。今日に至るまで、夥しい人々が信仰に生きてきたのです。彼らのある者たちは、生ける神の奇跡を経験し、助け出されたり、勝利を得たりしました。しかし、もう一方において、ある者たちは迫害の中で拷問にかけられたり、のこぎりで引かれたりして死んでいったのです。では彼らは奇跡を経験した人々よりもは不幸な人々なのか。そうではありません。彼らは「さらにまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました」と書かれているのです。その直前には、「死んだ身内を生き返らせてもらいました」と書かれているのです。しかし、そのような奇跡を経験することよりも大きな喜び、大いなる神の御業、「さらにまさったよみがえり」に彼らは目を向けていたのです。それを思うならば、拷問にかけられることは何でもなかったというのです。
ここまで読みまして、本当に私たちは何を見ているのだろう、と思わせられます。私たちは、信仰のゆえにどれほど苦しんだと言うのでしょう。私たちが信仰のゆえに耐え忍んできたことは、どれほどのことでしょうか。キリスト者とされたということはどういうことか。それは「信仰によって」と繰り返されてきたその人々の列に、私たちもまた加えられているということなのです。そのことと改めて向き合う必要があろうかと思うのです。
2023年10月4日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 11:1~16
ヘブライ人への手紙 11:1~16
これまで繰り返し「信仰」について語られてきました。神が求めておられる唯一のもの、それは信仰なのです。10章末のハバクク書の引用によるように、人が正しい者と見なされるのは、信仰によってなのです。「わたしの正しい者は信仰によって生きる」とあるとおりです。
その「信仰」が何であるかを、著者は次のように短く表現します。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)。望んでいる事柄とは、未来に属する事柄です。まだ手にしていないし、まだ見ていないものです。しかし、人は信仰によって、まだ得ていないものを確信し、見ていないものを確認して生きるのです。すなわち、約束してくださった方は真実であると信じ、約束してくださった方に信頼することによって、まだ得ていないものを確信し、見ていないものを確認して生きるのです。
「望んでいる事柄」「見えない事実」については、既に語られてきました。私たちには、「神の安息にあずかる約束」(4:1)が与えられています。それはまだ未来に属する事柄です。その当時の教会にしても、今日の教会にしても、いまだ苦しみと戦いの中にあるのです。しかし、信仰によって、望んでいる事柄を確信するのです。そして、これは未来に属すると言いましても、その時になって初めて用意されるのではありません。神の安息は既に用意されているのです。「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と書かれているとおりです。神の御業は既に完成しているのです(4:3)。
神は安息しておられるのです。そして、その安息に私たちをもあずからせようとしておられるのです。それが時間の世界に生きる私たちにはまだ見えていないのです。その見ていないものを見て生きるのです。約束してくださった方は真実であると信頼して、見えない事実を確認して生きるのです。それが信仰です。
神が求めておられるのは信仰です。ですから、信仰なくして神に喜ばれることはできません。それはそうでしょう。神を不真実な方と見なしながら、神に喜ばれることはできないでしょう。「わたしの正しい者は信仰によって生きる」と書かれているとおりです。
その観点から著者は旧約聖書の人物を列挙していきます。最初に上げられているのはアベルです。創世記4章に、アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は受け入れられなかったという話が書かれています。その理由は聖書に記されていません。しかし、既に述べられてきたことからすれば、理由は一つです。それは信仰です。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ」たのだとこの著者は言うのです。
エノクについても同じです。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5:24)と書かれています。エノクはどうして死を経験しないで天に移されたのか。聖書にはただ「神と共に歩み」とだけ書かれています。しかし、それが何を意味するのかと言うならば、それは「信仰によって」だ、と著者は語るのです。彼が神に喜ばれる者として神と共に歩んだのだとするならば、それは信仰によってなのだ、と。
次に挙げられているノアについては、信仰の事柄がより明らかになっています。ノアは洪水について告げられたのです。それは未来に属する事柄です。まだ見ていない事柄なのです。しかし、ノアはまだ見ていない事柄を見るようにして、箱船を造ったのです。結局、救いと滅びとを分けたのは、善悪ではなかったのです。信仰だったのです。ノアは公に箱船を造ったのであって、その姿はこの世に対するしるしだったのですから。他の人々も信じるなら救われたのです。しかし、ノアは信仰に基づく義を受け継ぐ者となり、世界は不信仰に基づいて罪に定められたのです。
ここまでアベル、エノク、ノアについて語られてきました。それはかなり粗い議論であることは確かです。しかし、それは大して重要なことではありません。彼らの話を助走として本当に語りたいのはアブラハムについてだからです。アブラハムとサラの姿こそ、信仰が何であるかを雄弁の物語っているのです。
アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くよう召し出されると、行き先も知らずに出発したのです。約束されたものはまだ見ていないのです。見ることは未来のことです。しかし、約束してくださった方が真実であると信じて出発しました。これが信仰です。
そして彼は約束の地に着きました。しかし、アブラハムの物語に見るように、彼はその土地を得ることはありませんでした。彼が得た土地と言えば、サラが死んだ時に墓とするために買ったマクペラの洞穴ぐらいです。彼は生涯、寄留者として生活することになりました。約束の地にありながら、他国に宿るようにして幕屋に住んだのです。
その息子のイサクも、孫のヤコブも同様です。しかし、アブラハムは神を不真実であると見なしたでしょうか。アブラハムの物語には、彼が神を不真実だと詰る場面は出てこないのです。そうではなくて、アブラハムはこの時でも、なおまだ見ていないものを信仰によって見ていたのだと言うのです。すなわち、アブラハムは神が設計者であり建設者である都を待望していたのだ、と。確かに、彼が買った土地がお墓だけだったということは、そのことを象徴していると言えるでしょう。
サラはどうでしょう。サラは不妊の女でした。年齢も盛りを過ぎていました。しかし、ヘブライ人への手紙は、「約束をなさった方は真実な方であると、信じていた」と語ります。創世記の物語には、実際には彼女は信じなくて「笑った」という話が出てきます。しかし、そのような自分の内にある不信仰にあらがって、彼女は信じたのだ、そして、信じたとおり、多くの子孫が生まれたのだ、と聖書は見ているのです。
しかし、大事なことは、サラにしてもアブラハムと同様、この地上のことだけを考え、死の手前までを考えるならば、「約束されたもの」は手に入れなかったと言えます。そうです、彼らは約束されたものは手に入れないで死んでいったのです。アブラハムとサラのみならず、イサクにしても、ヤコブにしてもそうなのです。
ではこれらの人々は、神の不真実を思って死んでいったのか。いいえ、そうではないのです。先にアブラハムについて言えたことは、アブラハムを含めこれらの人々すべてに言えるのです。次のように書かれているとおりです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(13節)。
死の手前までしか見ないなら、神様が不真実に見えることはいくらでもあります。この目に見える地上の人生だけを見、目に見えるこの世界だけを見ているならば、神様が不真実に見えることはいくらでもあるのです。目に見える世界の中においては、彼らは約束のものを得なかった。私たちでもそうです。
しかし、信仰によるならば、死の手前までで神を計ることはしないのです。その向こう側を見るのです。見えない事実を確認するのです。神の真実を信じて、最後まで死の向こうまでを見るのです。彼らは「信仰を抱いて死にました」と聖書が伝えているとおりです。信仰とはそういうものです。彼らは約束されたものをはるかに見て喜びの声を上げていたのだ、と聖書は伝えるのです。信仰とはそういうものです。
彼らは喜びの声を上げながら、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを言い表して生きました。すなわち、あくまでも旅人として生きたのです。旅人には目的地があります。彼らが目指していたのは故郷なのです。この世の故郷ではありません。ヘブライ人への手紙は、これを天の故郷と表現します。これまでに語られてきた神の安息にあずかる希望がこのように表現されています。信仰者はそのように天の故郷に向かう旅路を行く者なのです。
そのように天の故郷を熱望して生きたアブラハム、イサク、ヤコブの神であることを、神は恥となさいませんでした。神自ら「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」と名乗られたのです。同じように、私たちもまた信仰によって生きるなら、その名前の列に私たち自身の名前を加えることができるでしょう。神は私たちの神と呼ばれることを恥となさることはありません。
2023年9月27日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 10:26~39
ヘブライ人への手紙 10:26‐39
今日お読みしましたところには、たいへん恐ろしい事が書かれていました。「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」(26‐27節)。
私たちの生活を思い起こしますと、必ずしも罪と知らずに罪を犯してしまう時ばかりではありません。罪と分かっていて罪を犯してしまう。故意に罪を犯してしまうことが確かにあるのでしょう。その時に、罪の中にあえて留まり続けない、罪を犯し続けないことは確かに大事なことです。
しかし、ここで念頭に置かれているのは、一般的な「罪」ではなく、ある特別な意味における「罪」です。それは背教の罪なのです。それは29節以下において三つの表現をもって言い表されています。「神の子を足げにし」「自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし」「恵みの霊を侮辱する」ということです。
「神の子を足げにし」とは、もちろん十字架にかかってくださった神の子を足げにすることです。すなわち、私たちのために罪の贖いの犠牲となってくださった方を踏みにじることです。その犠牲を踏みにじることです。イエス様の成し遂げてくださった罪の贖いを全く意味がないものとして扱うことです。
「自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし」とは、契約の血を効力のないものと見なすことです。私たちの罪を完全に贖う力のある主イエスの血、新しい契約を完全に有効なるものとする力ある主イエスの血、それゆえに、私たちが信頼しきって、真心から神に近づくことができるようにしてくれる主イエスの血を、あたかも何の力もない汚れた血のごとくに見なすことです。
私の罪は赦されていない。私は神から見捨てられている。神に近づくことはできない。礼拝することも祈ることもできない。そのようにして、神に近づくことを拒否するならば、それは契約の血を汚れたものと見なすことになるでしょう。
「恵みの霊を侮辱する」とは、聖霊の働きを認めないということです。教会に起こっているすべてのことは聖霊の働きによる現実なのです。洗礼にせよ、聖餐にせよ、説教にせよ、教会の交わりにせよ、それは聖霊の働きによる聖なる現実なのです。もし洗礼を受けていることを軽んじ、「あれはただ水をかけただけ」ぐらいに思わなければ、聖餐を単なる形式的な儀式ぐらいにしか考えなければ、説教を「いいお話」程度にしか考えなければ、聖徒の交わりを、「所詮人間の集団だよ」ぐらいにしか考えなければ、それは聖霊の働きを認めず、恵みの霊を侮辱することになるでしょう。総じていうならば、キリスト者とされれていること、教会とされていることを無意味なことと見なすことです。恵みの霊を侮辱するとはそういうことです。
そのようにして、信仰を与えられ、救いの恵みに与りながら、真理の知識を受けた後にも、なおも神に近づくことをせず、神の恵みに背を向けて生き続けるとするならば、もはやその罪を贖ういけにえは残っていませんよ、ということが書かれているのです。
それはある意味では当然のことであると言えるでしょう。既に見てきましたように、繰り返し献げられてきた動物犠牲の血は、罪の贖いの実体を持ってはいないのです。本当の犠牲は、ただ一度、十字架の上で流されたキリストの血だけなのです。その血による贖いに、聖霊のお働きによって、洗礼と聖餐を通してあずかっているのです。しかし、その唯一決定的な罪の赦しの恵みを受け取りながら、あえてそれを投げ捨ててしまい、そのままにし続けるならば、もはや罪の赦しの恵みはどこにもない。それは当たり前の話です。人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているのです。その時に、十字架の血の贖いも、永遠の大祭司のとりなしも、あえて放棄し続けた者として立つならば、罪の重荷はただ自分一人で背負わなくてはならないのでしょう。「ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」(27節)とはそういうことです。
ところで、ここに書かれていることは、6章で読んだところと大変良く似ています。6章にも非常に厳しい警告が記されていました。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(6:4‐6)。しかし、そこには続いて励ましの言葉が記されていたのであって、全てはその励ましを語るためだったのです。この箇所においても同じです。この著者の目的は、彼らを脅かして絶望に至らせることではありません。そうではなくて、むしろ励まして前に進ませるためだったのです。
今日お読みした聖書箇所において、著者が最終的に言いたいことは、約束されたものを受けるためには忍耐が必要なのだ、ということなのです。だから、確信を捨ててはならないということなのです。そのために、まず「初めのころのことを、思い出してください」(32節)と言うのです。
先週読んだところには、「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(25節)と書かれていました。そのようなある人たち、集会を怠る人たち、恐らくは困難な信仰生活を放棄して、もはや集まることも礼拝することもやめてしまった人たちがいたということです。また、この手紙の読者も、それに倣ってしまうことがあり得たということでしょう。その前に「希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」と語られているということは、現実には彼らもまた希望を失いかけていたということに違いありません。
しかし、彼らはもともといい加減な信仰者だったわけではないのです。むしろ、迫害を耐えてきた人たちなのです。戦ってきた人たちなのです。しかし、そのような信仰者でありましても、弱ってしまうときがあるのです。彼らはここまで耐えてきた。しかし、疲れてしまったのです。迫害にあったり、財産を取り上げられたり、あざけられたり、苦しめられたりするのが長引くにつれて、そしてその中で自分の弱さと罪深さが分かれば分かるほど、疲れてしまうのです。著者はそのことを良く知っているのです。
考えてみれば、状況は違っても、同様なことは私たちにもあるわけです。問題は違えども、試練が続いたり、苦しみが長引いたりすると、信仰生活の中に疲れが生じることはあるのでしょう。そのような時には、どうしたらよいのでしょうか。この説教者は初めのころのことを思い起こせというのです。
初めのころとは、彼らにとってどのような時だったのでしょうか。彼らは、キリスト者が迫害を受けることを重々知りながら、それでもなおキリストの弟子になった人々です。なぜでしょう。それはキリストの愛が分かったからです。神の愛が分かったからです。そして、その恵みに答えていこうとしていたのです。だから、自分たちが迫害に合っても喜んで耐え忍んだのです。
そうです、34節には「喜んで耐え忍んだ」と書かれているのです。私たちにも喜んで耐え忍んだ時があったはずです。喜べた時があったはずです。今、喜んで耐え忍ぶことができないとするならば、その時と今とは神の恵みが変化してしまったのでしょうか。そうではないはずです。神様は変わらないのです。変わったとするならば、それはこちら側です。神様の恵みも、約束も、永遠の報いも、いっさいは変わっていません。私たちにそれらが見えなくなっているだけなのです。だから、思い起こさなくてはならないのです。喜んで耐え忍んでいたときを思い起こさなくてはならないのです。初めの時に戻らなくてはならないのです。そして、あの初めのころに戻るときに、私たちに欠けていたのは神の恵みではなくて「忍耐」なのだ、ということが分かるのです。
ここで著者はハバクク書2章3-4を文字通りにではありませんが引用して、神様は真実であり、約束を守られ、私たちに必ず報いられるのだということを示します。神様の側は約束に向かって進んでいるのです。だから、私たちも希望を捨ててはならないのです。「正しい者は信仰によって生きる」のです。
2023年9月13日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 10:19~25
ヘブライ人への手紙 10:19‐25
「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」(19節)。
ここまでの話で明らかなように、ここで「聖所に入れる」と言われているのは、エルサレムの神殿の聖所に入れるということではありません。本当の意味で神の御前に出るということです。神に近づくということです。神との交わりに入り、神と共に生きることです。22節の終わりにも、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と勧めています。これまでの話は全て、私たちは聖所に入れるのだ、私たちは神に近づくことができるのだ、ということを語るためだったのです。
度々お話ししていますとおり、この手紙が書かれた時点では、教会は既に大きな迫害を経験しており、なお様々な困難の中にありました。それぞれの試練の中に生きていたのです。そのような彼らに対して、この著者は、いかに苦難を切り抜けるかということを語るのではなくて、神に近づくべきことについて語るのです。
人は苦境から解放されることを望みます。悩みが取り除かれること、悲しみが癒されることを求めます。そして、求めて良いのだと思います。しかし、人間にとって本当に必要なことは、そして最終的な救いとなることは、たとえ困難の直中にあっても神に近づけることなのです。神との交わりが与えられることなのです。その交わりの中で、真に神の与えてくださる希望をもって、天の故郷を目指して生きることなのです。そのような意味において、「兄弟たちよ、わたしたちは聖所に入れるのだ」と語っているのです。
それはただ一重に「イエスの血によって」なのです。天の聖所の写しである地上の聖所に仕えていた大祭司という存在が指し示していたまことの大祭司として、キリストはただ一度完全なる罪の贖いの祭儀をなしてくださり、またその大祭司は永遠に生きていて、常に生きていて、私たちのために執り成していてくださる。しかも、その大祭司が罪の贖いの犠牲として捧げたのは、動物の血ではなくて、御自分の血でありました。イエス様は、そのように大祭司となり犠牲となってくださった。それが「イエスの血によって」という言葉に込められている意味です。
それがここでは別な表現を得ています。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(20節)。つまり、イエス様のしてくださったことは何であるのかと言えば、それはイエス様が私たちのために道を開いてくださった、ということなのです。聖所への道を開いてくださった。すなわち神の御前に出る道を開いてくださったのです。
実は、細かいことを言いますと、「御自分の肉を通って」という翻訳よりは、「御自分の肉を通って行く」とした方が良いように思われます。この訳ですと、イエス様が御自分の肉を通って道を開いたことになりますでしょう。もちろんそれも訳の一つの可能性です。しかし、もう一つの訳の可能性は、「御自分の肉を通って行く、新しい生きた道を開いてくださった」です。すなわちそこを通るのはイエス様ではなくて、私たちなのです。そして、その方が正しいように思われます。なぜならここでは「垂れ幕、つまり、御自分の肉」と言われているからです。
既に見てきたように、それまでは神殿の垂れ幕にしても、幕屋の垂れ幕にしても、大祭司以外は通ることができなかったのです。それを通る道はなかったのです。しかし、その垂れ幕を「通って行く」道が開かれたのです。どのようにしてでしょう。垂れ幕が裂かれることによってです。
そこで私たちが思い起こしますのは、福音書が伝えている十字架の場面です。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:37-38)。そのように伝えられています。ヘブライ人への手紙の著者が念頭に置いているのも、恐らくはこの出来事であろういと思われます。
イエス様の肉が、ちょうどあの最後の晩餐のパンのように裂かれたその時に、神殿の垂れ幕も裂かれたのです。そのようにして聖所への道が開かれたのです。人は、いわば裂かれたキリストの体を通って、聖所へと入っていくのです。キリストの肉を通って聖所へと入っていく、新しい生きた道を、キリストはわたしたちのために開いてくださったのです。そして、それは「生きた道」と呼ばれているように、決して死んでしまわない道、閉ざされてしまわない道なのです。永遠に開かれた道なのです。
ここにおいて、私たちが神に近づき、礼拝し、祈るということのイメージがはっきり見えてきます。私たちは礼拝する時、祈るとき、天の至聖所に入っていくのです。垂れ幕で仕切られていた所に入っていくのです。そのように、本来私たちが決して近づき得ない聖なる御方に近づいていくのです。それが礼拝であり、祈りなのです。
かつて大祭司が雄羊と雄牛の血を携えていったように、私たちもまた見えざるキリストの血を携えて神に近づくのです。キリストの血潮による罪の赦しなくして、罪人である私たちは神に近づき得ないからです。そして、私たちが聖所に入っていくのは、キリストが開いてくださった道を通ってです。そこにあったはずの垂れ幕は既に引き裂かれてしまっています。十字架において裂かれたキリストの体、裂かれたパンによって表されているキリストの体です。私たちは裂かれたキリストの御体を通して開かれた見えざる道を通って天の聖所に入り、神に近づくのです。
そこには血を流してくださった方が復活されて、偉大なる祭司として仕えていてくださいます。私たちのためにこの方が執り成していてくださるのです。私たちはもはや良心の咎めによって苦しむ者ではありません。特にこの大祭司のもとにおいて授けられる、「洗礼」という聖礼典が、見える形でこの恵みを表わしています。「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われている」と書かれています。そのような者として神に近づくことができるのです。ですから、聖書は私たちに次のように力強く勧めるのです。「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と。
私たちにそのように神に近づく道が開かれていること、神に近づこうではないかと勧められていることは、直接私たちの希望を関係しています。というのも神に近づいてこそ、困難の中にあってなお、希望を保ち続けることができるからです。
人はいかにして現実を突き抜けて未来に思いを向けることができるのか。それは未来を手にしておられる方の真実なることを知り、その御方に信頼することによってです。未来を手にしておられる真実なる神は、私たちに約束を与えてくださっているのです。既に語られましたように、「神の安息にあずかる約束」(4:1)が与えられているのです。「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と書かれているのであって、神の業は既に出来上がっているのです。時間の中にいる私たちにはまだ見えません。しかし、必ずそれが現れる時が来るのです。その安息に与る約束を与えられているのです。その希望を保ち続けるためには、繰り返し繰り返し、神に近づくことが必要なのです。
しかし、またそれは互いに励まし合いながらでなくてはできないことです。だから「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」(24‐25節)と語られているのです。神に近づくこと、また励まし合うことの意味を知る人ならば、困難の中にある時こそ、集まって共に礼拝することを切に求めるようになるはずです。
2023年9月6日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 11:1~18
ヘブライ人への手紙 10:1‐18
8章の始めに要約として書かれていたことを、もう一度振り返っておきましょう。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」(8:1‐2)。
そこでまずは聖所とそこにおける大祭司の務めに目が向けられ、最初の契約における地上の聖所は天の聖所の写しであり影に過ぎないのだ、ということが語られてきました。地上の聖所と祭司制度は天にあるものを指し示すものであり、また来るべきまことの大祭司の務めを指し示すものに過ぎないのだということです。そして、その写しによって指し示されていた本当の聖所に仕える大祭司が現れてくださったのであり、今も執り成していてくださる。それがイエス様であるということなのです。
さらにその要約は、次のように続けられていました。「すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません」。
この「献げる物」については、前回お読みしました9章の後半に次のように述べられていました。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9:25‐26)。キリストは、自らの体を贖いの犠牲として献げ、ただ一度限りの、罪の贖いの祭儀を行ってくださったのです。今日お読みしました10章は、そのことについてさらに詳しく展開しています。
今日の箇所において、「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません」(1節)とこの著者は語り始めます。既に見てきましたように、ここで考えられているのは、主に祭儀律法です。「礼拝の規定と地上の聖所」(9:1)に関することです。特にここで取り上げられているのは罪の贖いの儀式に関することです。
律法で定められて行われてきた罪の贖いの儀式は影に過ぎない。実体がない。つまり本当の意味で罪は贖われてはいないということです。それは来るべき良いこと、本当のこと、実体としての罪の贖いと罪の赦しを指し示すものに過ぎないのだということです。それはでは予告編を見せられてきたに過ぎないのです。しかし、ついに本編を見る時がきたのです。既に述べられていたように、その実体とはイエス・キリストにおける罪の贖いです。
そのように、動物犠牲が献げられた祭儀には罪を贖う実体がないわけですから、罪は実際には取り除かれないのです。だから、どんなに毎年犠牲が献げられても、「神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」と書かれているのです。
この場合、「完全な者」とは、神に近づけるという意味での完全です。「神との間に何の隔てもない」と言い換えてもよいでしょう。人間が献げる犠牲は、神との間の隔てを完全に取り除くことはできないのです。
もし人間の献げる動物犠牲で隔てが取り除かれているならば、一回犠牲を献げた後には、「礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか」と彼は言います。この場合、「罪の自覚がなくなる」という表現は、誤解を招くかもしれません。むしろ「わたしは赦されていないという意識がなくなる」と言い換えて理解したらよいでしょう。
罪の贖いの犠牲を献げるけれど、そこで起こるのは「罪の記憶がよみがえって来る」ことだけだというのです。「わたしはまだ赦されていない」という意識が残っているのです。「わたしはまだ赦されていない」という思いをもって、毎年、それこそ一生懸命に犠牲を献げるのです。罪を赦してもらうために毎年犠牲を献げるのです。どうしてそうなるのでしょうか。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないから」なのです。
これに対して、キリストが献げられた犠牲とは何であるかが語られます。ここで引用されているのは詩編40編です。(ギリシア語訳聖書からの引用ですので、私たちが持っている詩編とは若干言葉が異なります。)その詩編がキリスト預言として読まれています。というよりも正確には、キリストが世に来られる時に(いわば受肉の直前に!)こう言われたのだ、このような意図をもって来られたのだと読まれているのです。
神は律法に従って献げられる犠牲、罪を贖う犠牲を「望みもせず、好まれもしなかった」。もし神様がそれを「望んでいた」とするならば、罪の贖いというものは、いわば「神様の望んでいるものをあげますから、罪の赦しをくださいね」という人間と神との間の取り引きのようなものになるでしょう。しかし、そうではないのだ、と聖書は語っているのです。
そうではなくて、神が望んでいること、神の御心としていることは別にあったのです。その御心を行うために、キリストは来られたのだというのです。その御心とは何でしょうか。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(10節)。これこそが神の望んでおられたことなのです。
さらにこう書かれています。「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」(11‐13節)。
キリストが犠牲を献げるのは一回限りです。その後は永遠に神の右の座についてくださったのですから、もう二度と犠牲を献げることはありません。あの犠牲は一回にして完全に有効なのです。「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。これがキリストを信じて救われるということです。永遠に完全な者とされるのです。神との間に隔てのないものとされるのです。永遠に!あのエレミヤ書の預言にも書かれていたとおりのことが起こるのです。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」。神が新しい契約においてこう宣言されるならば、もはや罪を贖う犠牲は不要なのです。
ここで私たちの礼拝のあり方をよく考えてみる必要があろうかと思います。私たちが毎週の礼拝において、繰り返し罪の悔い改めの祈りを捧げ、罪の赦しを求めるのは、かつてイスラエルの人たちが罪の贖いの犠牲を献げていたのとは根本的に異なるのです。私たちのための贖いの犠牲は既に献げられたのです。私たちは、その一回限りの犠牲によって、永遠に完全にされているのです。私たちは赦されているのです。既に赦されている者として、罪の赦しを求めて御前に出るのです。
それは丁度、既に完全に子どもを赦している親のもとに、子どもが「ごめんなさい」と言って帰ってくるのに似ています。子どもが「ごめんなさい」と言ったから、あるいは償いをしたから、初めてそこで赦されるのではないのです。しかし、親は子どもが自分の罪を認めて赦しを求めて帰って来ることを望みます。それは交わりが妨げられないためなのです。私たちが礼拝において罪の赦しを求めるのは、既に赦されている者が、神との交わりに生きることを妨げられないようにするためなのです。神との交わりに生き続ける営みに他ならないのです。
私たちが為さねばならないのは、罪の赦しを得るために繰り返し犠牲を献げるような類のことではありません。まだ罪が赦されていない、十分に赦されていないという意識を持ちながら、その隔てを取り除くために何かを行ったり、神の望まれるものを献げて、その代わりに罪の赦しを得ようとすることではありません。既に赦されているのです。
そこには何と書かれていますか。「キリストは、敵ども、すなわちサタンとその勢力が御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられる」と書かれているのです。ならば、赦された者として神との交わりの中に留まり続け、「サタンとその勢力がキリストの足台となるその時のために、主の戦いに参加し、主に仕えることこそが重要なのです。
2023年8月30日水曜日
祈祷会用 ヘブライ人への手紙 9:15~28
ヘブライ人への手紙 9:15‐28
先週お読みしたところには、キリストが動物犠牲の血によるのではなく、御自分の血によって、ただ一度、写しではない真の聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたことが記されていました(9:12)。そのキリストの血こそが、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」させるのです。
なぜなら、私たちの良心は知っているからです。私たちは罪人であり、本来、神との交わりの内にはあり得ないことを。ですから、生ける神ならぬ偶像に逃げるか、あるいは生ける神との交わりをもたらしはしない自分の業に寄り頼むかのどちらかになるのです。しかし、キリストの血は私たちの良心をそのような「死んだ業」から清めて、神との交わりに入れ、生ける神を礼拝するようにさせるのだ、と語られているのです。
そして話は再び、「新しい契約」に戻ってまいります。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」(15節)。
既に新しい契約については8章においてエレミヤ書31章31節以下に基づいて語られておりました。その約束の中心は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という言葉です。これが神と人との契約というものです。本来、神に対して「あなたはわたしの神です」と言えない者に対して、神様の方から「わたしはあなたたちの神である」と言ってくださる。また「わたしはあなたの民です」と言えないような者に対して、神様の方から「あなたたちはわたしの民だ」と言ってくださる。それが新しい契約です。そして、それは神が罪を赦してくださることがあってこそ、初めて成り立つのです。罪の赦しは、新しい契約の大前提なのです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」とエレミヤの預言に語られているとおりです。
この契約の仲介者となってくださったのがイエス様なのです。どのようにしてか。「罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので」と書かれています。このゆえに、私たちは神に対して「あなたはわたしたちの神」と言うことができるし、自分については「わたしたちはあなたの民」と言うことができる。
だからこそ希望が持てるのです。神の民として神の国を待ち望むことができるのです。それを聖書は「永遠の財産を受け継ぐ」と表現しています。私たちが受ける最終的な完全な救いが、神の民として相続すべき「永遠の財産」として表現されているのです。そもそも永遠という言葉は、神との関わりにおいてしか使えないのです。「あなたはわたしの神です」と呼べるからこそ、永遠の希望を持てるのです。キリストはそのような契約の仲介者です。
ですから、私たちにとって大事なことは、この新しい契約が「有効」であるとの確信なのです。それゆえにその有効性が言葉を尽くして語られているのです。まず取り上げられているのは、「遺言」の例です。なぜいきなり「遺言」が出てくるかと言うと、ギリシア語では「契約」という言葉と「遺言」という言葉は同じだからです。遺言は遺言者が死んだら有効になるでしょう。だから同じように、この遺言(契約)もキリストが死んだゆえに有効なのだと言っているのです。
一読して分かりますように、この議論は「新しい契約」が有効であることの証明には全くなっておりません。遺言者が死ぬことと、キリストが死んだことは意味合いが全く違うからです。そもそも彼は「遺言」の例もって「新しい契約」の有効性を証明しようとしているのではないのです。これは「有効性」の話の導入に過ぎないのです。本当に言いたいのはその次なのです。
「だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。」最初の契約においてもやはり血が流されたのです。契約締結の時だけでなく、その後の祭儀において繰り返し血が流されたのです。血によって清められたのです。なんのためですか。罪の赦しのためです。22節に「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」と書かれているとおりです。
最初の契約、すなわちエジプトの奴隷であった者たちがエジプトから導き出されて与えられた契約もまた、それは神と人との契約ですから、神が彼らに「わたしはあなたたちの神である」と言ってくださることであり、「あなたたちはわたしの民である」と言ってくださることを意味しました。その時に律法が与えられました。
しかし、彼らは律法遵守を根拠として神の民とされたのではないのです。彼らは律法を守ったから神の民とされたのではないのです。そうではなくて、そこには既に罪の赦しが前提とされていたのです。ですから、繰り返し動物が屠られ、血が流されたのです。最初の契約もまた、血が流されての契約、罪の赦しがあってこその契約だったのです。
しかし、既に語られてきたように、それはあくまでも本当のものの「写し」に過ぎなかったのです。天の聖所においては、そのようなコピーではなく、完全な清めが行われねばならなかったのです。
かつては旧い契約における大祭司が、契約の箱を挟んで、見えざる神の前に立って動物の血を注いだわけですが、まことの大祭司キリストは、そのようなママゴトのような仕方ではなくて、本当の意味で完全な罪の贖いのために父なる神の前に立ってくださったのです。「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(24節)。
最初の契約が動物の血が流されることにおいて有効とされたのなら、ましてやキリストの血によって、新しい契約は完全に「有効」となったはずではありませんか。しかも、最初の契約においては、大祭司が毎年、血を携えて至聖所に入らなくてはならなかったのですが、キリストにおいてはそうではありません。既に繰り返し語られていたように、一回限り、決定的なことが行われたのです。ここにおいても、キリストが聖所に入られたのは、「度々御自身をお献げになるためではありません」と書かれているとおりです。キリストは「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れて」くださったのです。
さて、ここに書かれているような、新しい契約が有効であるのか、そうでないのかという議論は、私たちにとって重大なこととして響いているでしょうか。私たちが本当に神の民であり得るのか、私たちは本当に神を「わたしたちの神よ」と呼び得るのか。それは私たちにとって重大な問題となっているでしょうか。もし、なっていないとするならば、それはなぜなのでしょうか。
その場合、恐らく私たちに一つ言えることは、私たちが自分の置かれている立場を理解していないということであろうと思うのです。神様を礼拝できて当たり前。神様にお祈りできて当たり前。信仰生活ができて当たり前。ともすると、私が決心して神様を「信じてあげた」ぐらいに思っている人さえいるかもしれません。「わたしたちの神よ」と呼べることを当然のことのように考えているのではありませんか。
しかし、私たちの置かれている立場は、本来はいわば未決囚なのです。正しい裁判にかけられるのを待っている囚人なのです。27節にはこう書かれています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と。このことを真剣に受け止めるならば、どうですか。新しい契約が有効であることは極めて重大な問題ではありませんか。罪の赦しが有効でなかったら、御子が執り成してくださるのでなければ、その裁きの座の前で、自分一人で自らについて語らなくてはならないのです。有罪判決は免れないでしょう。
私たちが、罪の赦しを告げられて、新しい契約に入れられて、安心して神を「父よ」とさえ呼ぶことができて、裁きを恐れず死ぬことができる。それは、本当は天地がひっくり返るような驚くべきことなのです。そうです、だからこそ、その実現のためにまさに天地がひっくり返るような驚くべきことが起こったのです。神の子キリストが大祭司ともなって、自らの血をもって罪の贖いをしてくださるということが起こったのです。ヘブライ人への手紙は、そのことを私たちに告げているのです。
2023年8月23日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 9:1~14
8章の後半において、二つの契約の話が出てきました。エレミヤ書31章31節以下の「新しい契約」について書かれている箇所が引用されて、「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです」(8:13)と語られていました。
ですから、私たちは「新しい契約(新約)」に対して、「最初の契約」を「旧い契約(旧約)」と呼ぶのです。その旧約なる「最初の契約」とはエレミヤが言っているように、主が「彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約」のことです。そして、この手紙において重要なことは、レビの系統の祭司制度もまたこの旧約、「最初の契約」に属するということです。ですからそれもまた「年を経て古びたものは、間もなく消え失せます」と語られていたのです。
では、そのようなレビの系統の祭司がしてきたことはいったい何だったのでしょう。これについては、「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えていたのだ」と8章5節において語られていました。それは本物に対するコピーなのであって、本物を指し示すものだったのだということです。
さて、本日お読みした9章から、いよいよそのことについて詳細に論じられることになります。
その天の聖所の写しである地上の聖所については最初の契約の中にその規定がありました。聖所の作り方、礼拝の仕方には定まった形があったのです。ここで著者は、読者にとって身近なエルサレムの神殿ではなくて、聖書に記されている幕屋の作り方と礼拝の規定に言及します。
聖所である幕屋は入り口の垂れ幕とは別に「第二の垂れ幕」によって中が仕切られているのです。その手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、第二の垂れ幕の向こうは「至聖所」と呼ばれたのです。至聖所には契約の箱が置かれています。その中にはマンナの入っている壺、芽を出したアロンの杖、契約の石版が入っていました。そして、その蓋が「償いの座」もしくは「贖いの座」と呼ばれていたのです。
この至聖所にある「贖いの座」については、出エジプト記において次のように語られています。「この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」(出エジプト25:21‐22)。つまり、この贖いの座こそ、神の臨在するところであり、神とお会いする場所として定められているのです。
しかし、その神の臨在の場、贖いの座がある至聖所には、通常、祭司たちは入ることができないのです。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。大祭司は、自分と民の罪の贖いをするために、贖いの血を携えていくのです。しかし、そのように罪の贖いがなされたとしても、祭司たちでさえ「第一の幕屋」までしか入れないということなのです。つまり本当の意味で神の御前には出られない。神の臨在の前に立つことはできないということです。
このことは何を意味しているのでしょうか。「第一の幕屋」が至聖所の前に置かれているこの幕屋の構造は、基本的に聖所への道はまだ開かれていないということを意味するのです。贖いの犠牲の血をもってしても、人々は聖所の中心である臨在の場に行けないのです。
この幕屋の構造は、「今という時の比喩」であると著者は言います。この場合、「今という時」とは、旧約に属するレビの系統の祭司がまだ存在する時を指しています。つまり、そこでは供え物といけにえとが献げられているのです。動物犠牲の血が罪の贖いとして流されているのです。年に一度は大祭司がその犠牲の血を携えて贖いの座の前に入っていくのです。それは他の律法の規定、すなわち食物規定や種々の洗いに関する規定と同じなのであって、やがては消え失せる、暫定的なものに過ぎないのです。それは「肉の規定」と呼ばれています。それはあくまでも外的な行為に過ぎないのであって、「礼拝する者の良心を完全にすることができないのです」(9節)。
この最後の言葉は重要です。民が神の臨在の場に行くことができないのは、ただ単に垂れ幕が隔てているからではないのです。またそこに入ってはいけないという規定があるからではないのです。そうではなくて、動物犠牲は「礼拝する者の良心を完全にすることができないから」だと言うのです。
真に神を求める人は、神を礼拝しようとする者は知っているのです。神が求めておられるのは、動物の犠牲そのものではない、ということを。既にダビデがそのことを語っています。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:18‐19)。
本来人間の心はただ形だけの儀式としての礼拝ではなく、真に神が求めているものを献げ、まことの礼拝を捧げ、神との生きた交わりが与えられることを求めてやまないのです。それゆえにまた、良心は真の赦しを切望するのです。この詩編51編においても「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(同3‐4節)とダビデは祈っているのです。
これは人間が聖なる神を慕い求める時に当然のごとく起こる良心の叫びなのです。良心は自らの罪を知っているからです。しかし、「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」という、この良心の求めは、旧約の祭儀においては完全に満たされることはなかったのです。
神ならぬ偶像ならいくらでも気安く近づけるのです。ですから、神ならぬ代替物で人間は自分の良心をごまかすのです。そうです、イスラエルの人たちもごまかしてきたのです。彼らがしばしば偶像礼拝に陥ってきたとは、そういうことなのです。そして、まことの神に対しては、やはり近づけない。あの幕屋の構造が示している通りなのです。「供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができない」とはそういうことなのです。
しかし、その不完全なるものの終わりの時が来たのです。真の大祭司が現れたからです。コピーではなくて、その実体なる聖所において執り成してくださる大祭司が現れたのです。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(11‐12節)。これまでコピーに仕える祭司たちの儀式によって幾度となく予告されていた、「ただ一度」にして永遠なる祭儀が執り行われたのです。それは完全な贖いです。そして、永遠の贖いなのです。
そして、このキリストの血こそが、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」させるのです。ここで「死んだ業」が「生ける神」と対比されています。生ける神との交わりをもたらさない業。それは神に背いた悪い行いだけではありません。自分の力によって神との交わりを実現しようとして行う善い業、そして結局は良心の満足は得ず失望に終わる試み、あるいはその結果として神の代替物へと逃れていく偶像礼拝をも含まれているのでしょう。ただキリストの血のみが、そのような死んだ業から良心を解放し、まことの神との交わり、生ける神を礼拝することへと人を導くのです。
2023年8月16日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 8:1~13
ヘブライ人への手紙 8:1‐13
先週は、イエス様が「永遠に祭司」であるということについてお話ししました。イエス様は永遠に生きていて、変わることのない祭司職を持っていること。常に生きていて、私たちのために執り成しておられるので、イエス様を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになること。しかも聖であり、罪なき方であるゆえに、まず自分の罪のためにいけにえを献げる必要がないこと。これらが先週の箇所を通して私たちに与えられたメッセージでした。
さらにイエス様がメルキゼデクと同じような祭司であることについての話は続きますが、この著者は語ろうとしていることをここで短く要約しておくのが良いと思ったようです。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」(8:1‐2)
ここにすべてが言い尽くされていると言えるでしょう。そして、このことが本当に分かったなら、これから先どんなに大きな困難が待ち受けていたとしても、必ずやそれを乗り越えることができると信じて語っているのです。これは私たちにおいても同じです。私たちが毎週こうしてヘブライ人への手紙を読んでいるのは、このことを悟ることを主が望んでおられるということです。
私たちには大祭司が与えられています。大祭司というのは、犠牲を献げるために任命されているのです。ですから、「この方も、何か献げる物を持っておらなければなりません」(3節)。しかし、この著者はこの話を後に持っていきます。9章後半において、このことが明らかにされるのです。
その前にこの大祭司がどこにおられるかに注目します。私たちの信仰告白においても言い表しているように、キリストは天に昇られ、全能の父なる神の右に座しておられるのです。つまりイエス様は天においてその務めを果たしておられるのだ、ということです。御子が地上に来られた時、地上には既に律法によって定められたレビの系統の祭司たちがおりました。ですから、復活と昇天がなければ、イエス様は祭司ではあり得ません。「もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう」(4節)と語られているとおりです。
さて、ここには注目すべき対比があります。地上における祭司と天上における祭司です。そこで問題はどちらが本来的な祭司なのか、ということなのですが、既に明らかにされてきたように、それは天上における祭司なのです。では、地上の祭司がしてきたことは、いったい何であるのかということになります。そこで心に留めねばならないのは、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋」(2節)という言葉です。ここで語られているのは、天上の大祭司なるイエス様が仕えている天の聖所のことです。
「天の聖所」と言いますと、それに対応しているのはもちろん「地上の聖所」です。地上の聖所と言えば、これを読んでいる読者にはすぐに一つのイメージが思い浮かびます。それはエルサレムの神殿です。特に神殿の一番奥にありまして垂れ幕によって仕切られています至聖所と呼ばれる部分です。イエス様が十字架にかかられた時、上から下まで真っ二つに裂けたと言われているのは、この垂れ幕のことです。この一番奥に至聖所があるという神殿の形はモーセの時代にまで遡ります。もちろん、その時には建造物としての神殿ではなく幕屋です。しかし、構造は同じなのです。
さてこのように幕屋があり神殿がある。当然のことながら、読者にとって身近なのは、この目に見える聖所の方です。ですから「天の聖所」と聞きますと、まず「地上の聖所」があって、それを比喩に用いて天のことを表現していると思うものです。つまり「天にも、地上の聖所の《ようなもの》」があるのだな」というようにです。実際、他のことについても、常々そのような考え方をしているのだと思います。例えば、「天の父」と言いますと、神様を「たとえて言うならば私たちのお父さんのような方」として理解しているのだと考える。「父の家」と言いますと、まず地上の家があって、それを比喩的に用いて天の御国を表現するならば、「父の家」になるのだ、というように考えているのではないでしょうか。ですから、この場合も「天の聖所」というのは比喩的表現だと考えてしまいやすいのです。
しかし、本当はそうではないのだと今日の箇所は教えているのです。まず地上の聖所があるのではなくて、まず天の聖所があるのだ、と。その根拠となっているのは、出エジプト記25:40です。ご存じのように、この部分は神様がモーセに幕屋建設の指示を与えているところです。モーセはシナイ山で律法を受けます。その時に幕屋建設の指示をも受けるのです。その時、神様はモーセにこう言われたのです。「あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい」(出25:40)。ここで「作り方」と訳されていますが、そのギリシア語訳がヘブライ8:5に引用されていますように、それは「型」あるいは「原型」と訳せる言葉なのです。つまりモーセが最初の聖所を作る前に、その原型があったということです。それを見せていただいて、「この型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。さて、その原型はどこにあるのでしょう。神様が示したのですから、それは神のもとに、天にあるのです。
地上の聖所がまずあって、天の聖所は比喩的表現なのではないのです。まず天の聖所があるのです。そして、地上の聖所は「天にあるものの写しであり影であるもの」(5節)だと言うのです。その写しに仕えているのが地上のレビ系統の祭司だと言うのです。こうして千年以上も続いてきた地上の聖所とそこにおける祭司が存在することの意味が明らかにされました。それは天にあるものを不完全ながらも地上に示すものだったのです。
そのように長い間、天にあるものの写しに仕えてきた祭司たちによって示されてきた、まことの祭司がついに現れたのです。それがわたしたちの大祭司、イエス・キリストです。その方の務めは写しに仕える務めよりもはるかに優っていることを、この著者はさらに新約と旧約ということからさらに説明します。
ここで引用されているのはエレミヤ書31章31節以下の部分です。モーセが与えられた幕屋建設の指示は律法として与えられました。律法は神と民との契約に基づいて与えられました。その契約については「わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約」(9節。引用もとはエレミヤ31:32)と呼ばれています。この契約に基づいて律法が与えられ、その中に幕屋建設と祭司制度もあったのです。しかし、もしそれが完全であるならば「第二の契約」すなわち「新しい契約」が与えられる必要はなかったと言えます。しかし、実際には、神はエレミヤを通して「新しい契約」について語っておられるのです。「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る」と。
「新しい契約」と表現されたということは、それまでの契約は古びてしまったということを意味します。つまり神様はこの地上の目に見える神殿も、そこにおける祭司制度も古びてしまったもの、消え去るべきものと見られたということです。「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」(13節)。
そして、その新しい契約は実現したのです。イエス様が最後の晩餐において「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われたようにです。そして、事実イエス・キリストの血が流されることになったのです。もはや古き律法の時代、古き祭司制度の時代は過ぎ去りました。その写しが示していたように、本来の大祭司が本来の祭儀を行うために天の聖所に入られたのです。私たちはその永遠の執り成しのもとにあるのです。
2023年8月9日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 7:20~28
ヘブライ人への手紙 7:20-28
先週は、なぜキリストが「メルキゼデクと同じような祭司」と言われているのか、なぜそのことが重要なのかについてお話ししました。先週お読みしたところを少し振り返っておきましょう。
「メルキゼデクと同じような祭司」というこの表現は詩編110:4から来ています。詩編110編はイエス様御自身も引用して語っておられますが、これはメシア預言として読まれてきた詩編です。
メルキゼデクと同じような祭司ということは、要するに律法によって定められたレビの系統の祭司ではない、アロンと同じような祭司ではない、ということです。なぜこのようなことが語られなくてはならなかったかと言うと、メシアはダビデの子孫であり、ユダ族に属するからです。メシアが祭司であるとするならば、明らかにレビ族の祭司ではないのです。
では律法によるレビの系統の祭司と、メルキゼデクと同じような祭司と、どちらが優っているのでしょう。すなわちどちらが本来的な祭司なのでしょう。それはメルキゼデクと同じような祭司なのだとこの著者は語ります。その根拠として挙げられていたのは創世記14章でした。そこに祭司メルキゼデクが出てきます。律法が定められるずっと以前に、アブラハムを祝福し、アブラハムから十分の一を受けた祭司がいる。つまり、アブラハムの中にいるレビもまた彼から祝福を受け、十分の一を献げたことになるのです。
そのような本来的なメルキゼデクと同じような祭司が立てられたということは、律法による祭司制度が不完全であることを意味します。また、祭司としてのメシアが立てられたことによって、祭司制度が変更され、従って律法が変更されたことを意味し、さらには以前の掟が弱く無益なために廃止されたことを意味するのです。メシアが到来するとはそういうことなのです。
そして、そのメシアは到来したのです。人類史上に決定的なことが起こったのです。イエスという御方こそ、完全なる祭司、メルキゼデクと同じような祭司であるのです。それが先週お読みした部分です。今日はその続きです。
この著者はさらに詩編110編において「主が誓った」ということに注目します。こう書かれているからです。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である』」。レビの系統の祭司が立てられることについては、神が誓われたということは記されていません。しかし、メシアについては、神の誓いによってメルキゼデクに等しい祭司として立てられているのです。その点においても、メシアは律法に基づいて立てられた祭司たちよりも本来的な祭司であることがわかります。
神は特別に誓いをもって祭司を立てられました。以前にも触れましたように、誓いというのは、現在の私たちで言えば、判をついて契約書を交わすようなものです。それは約束についての保証なのです。人間ならば通常は自分よりも偉大なものを指して誓うわけであって、自らよりも偉大なもののない神が誓うというのは変なのですが、その変なことを語るほどに、これは確実なことだということであり、信頼を求める言葉であるということです。何を信ずべきなのか。メシアこそレビ系統にまさった本来的な祭司であること、そしてさらに彼は永遠に祭司であることです。「あなたこそ、永遠に祭司である」と。
このことが、当時の教会にとっても、また今日の私たちにとっても極めて重要なことなのです。イエス様は私たちにとっていかなる御方であるかを決定的な仕方で指し示す言葉だからです。
レビの系統の祭司たちの場合には、律法に従って人間が祭司に任命されます。死に定められた人間が祭司となるのです。それゆえに、務めをいつまでも続けることはできません。次々と任命が繰り返されることになります。
イエス様の場合も同じように、「大祭司はすべて人間の中から選ばれ」(5:1)と書かれているように、私たちと全く同じ人間として、人間の中から選ばれました。しかし、この御方がかつてのレビ系統の祭司と決定的に異なるのは、十字架のみならず復活を経て、永遠に生きておられるということです。「しかし、イエスは永遠に生きておられるので、変わることのない祭司職を持っておられるのです」(24節)。
この手紙は「ヘブライ人への手紙」と呼ばれているように、読者としてはユダヤ人キリスト者が想定されています。そして、ユダヤ人にとっては、繰り返し任命されて連綿と続いてきたレビの系統の祭司という存在こそ、神との契約の目に見える保証であるのです。彼らが担っている務めこそが、罪を贖い交わりを回復する務めであったのです。少なくともそのように教えられて育ったのです。
一方、彼らはキリスト者としてはいわば第2世代ですから、生前のイエスを直接触れ合ったわけではありません。ですから、目に見えるという意味においてなら、神殿の祭司の方がずっと続いていて自分たちと関わっている存在なのです。(もっともAD70年における神殿の崩壊と共に祭司制度も崩壊していくわけですが。)
それゆえに、イエス様が「永遠に生きている」として語られると共に、イエスが「常に生きていて」人々のために執り成していてくださることが、あらためて指し示されなくてはならなかったのです。「常に」という言葉が示しているのは、その時代その時代に生きる人々とイエス様との関わりであるからです。
それは時間的な距離感としてはもっと遠い私たちにとっては、さらに重要な意味を持っていると言えるでしょう。二千年前のイエスと現代の私たちといかなる関係があるか、と世の人は問います。永遠なる祭司としての任命、またそれを現実とするイエス様の復活がなければ、せいぜいイエスの教えが今も生きていると言えるぐらいのことでしょう。しかし、この著者は言うのです。イエスは復活して「常に」生きておられる。だから私たちと関わりがあるのだ、と。「それでまた、この御方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(25節)。
また、さらにこの御方がレビ系統の祭司と決定的に異なる点が語られています。律法による大祭司は、まず自分の罪のために、次の民の罪のために毎日いけにえを献げる必要がありました。しかし、この御方は自分のために罪の贖いの犠牲を献げる必要はありません。なぜなら、この御方は「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(26節)であるからです。
しかも、この御方が献げる犠牲は、罪を取り除くことにおいて不完全であるために毎日献げられねばならない犠牲ではなく、ただ一度にして完全に人間の罪を取り除く犠牲である御自分の体だったのです。このことについては9章に詳細に論じられることになります。
このように比較されてきましたレビ系統の祭司と大祭司キリストの両者は、共に神の言葉によって任命されたと言えます。一方は律法によって。もう一方は既に見てきたように神の誓いの言葉によってです。一方は弱さを持った人間を大祭司に任命するものでしたが、他方は永遠に完全な者とされている御子を大祭司として任命するものだったのです。
このようにイスラエルの長い歴史の中で続けられてきた律法による祭司の任命は、この地上においてただ一度だけなされる完全な罪の贖いを為し、永遠に生きて執り成しを続ける真の大祭司の任命を予表するものであったことが分かります。そのように予告編を見続けてきた人類の歴史は、ついにキリストの到来をもって本編を見ることになったのです。私たちはそのような時代に生きているのです。この御方は、御自分を通して神に近づく私たちを完全に救うことがおできになるのです。
2023年8月2日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 7:1~19
ヘブライ人への手紙 7:1‐19
前回お読みした箇所の最後には、「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じ大祭司となられたのです」(6:20)とありました。5章10節からしばらく中断していましたが、再び「メルキゼデクと同じような大祭司」というテーマに戻ってきたことになります。イエス様が大祭司であるということについて言うならば、既に2章17節以降より繰り返し語られてきました。このことを理解することがいかに大事であるかが伺えます。
ところでこれまで当然のごとくイエス様は大祭司であると語られてきて、わたしたちも特にそのことを問題にしなかったわけですが、実は一般的なヘブライ人、すなわちユダヤ人にとりましては、そこにどうしても見過ごすことのできない問題があるのです。何でしょう。イエス様は肉においてはダビデの子孫であるということです。
ダビデはユダ族の出身です。ということでイエス様もユダ族の末裔ということになります。しかし、モーセの律法によるならば、祭司はレビ族でありアロンの子孫でなくてはなりません。今日お読みした13節以下にもその点が触れられています。「このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです」(13‐14節)。このように、本来キリストが大祭司であるという話は、まことに受け入れがたい話なのです。
それゆえに、キリストがただ大祭司であると語られているだけでなく、「メルキゼデクと同じような大祭司」であると語られているのです。この「メルキゼデクと同じような」という言葉が決定的に重要な意味を持つのです。この言葉は詩編110:4から来ています。
新共同訳では、「わたしの言葉に従ってあなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)」となっていますが、これは「あなたは永遠にメルキゼデクと同じような祭司である」とも訳せるのです。さらに言えば、「あなたはメルキゼデクの職制に従って永遠に祭司である」とも訳せます。
この詩編はイエス様も引用して論じました(マルコ12:36)、メシア預言として読まれる詩編なのです。そこにおいてそう語られているということは、要するに、「メシアはモーセ律法に定められた職制によってレビ族から出る祭司なのではない。それとは別の職制によってメルキゼデクと同じような祭司なのだ」ということになるのです。そしてさらに、モーセ律法による祭司よりも、メルキゼデクと同じ祭司の方が優っているのだということを語ろうとしているのです。
そこで私たちは、そもそもメルキゼデクなる人物はどこに出てくるのかを見ておきたいと思います。創世記14:17以下を御覧ください。この章に書かれているのはアブラハムの甥であるロトとその家族が連れ去られた時、アブラハムが彼らを救出したという話しです。そしてアブラハムが勝利を得て帰って来たとき、そこで出迎えた人物が二人いたのです。一人はソドムの王です。そして、もう一人が「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」なのです。彼はパンとぶどう酒を持ってきて、アブラハムを祝福するのです。するとアブラハムはすべての物の十分の一を彼に贈ったのでした。
さて、このメルキゼデクなる祭司は何者か。聖書には何の説明もありません。謎に満ちた人物です。後にも先にもここしか登場しません。ですから、ヘブライ人への著者はこう語ります。「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(3節)と。
そして、重要なのは彼がアブラハムを祝福し、すべての十分の一を受け取ったということなのです。確かにレビの子孫である祭司は、民から十分の一を受け取ることが律法によって定められていました。しかし、この時点はモーセが律法を受け取るずっと前であり、そもそもまだレビ族なるものは存在していないのです。レビはアブラハムのひ孫なのですから。レビの曽祖父であるアブラハムが十分の一を献げたということは、アブラハムの中に潜在的に存在するレビが十分の一を献げたということでもある、と言えるでしょう。
しかももう一つ重要なことが書かれています。メルキゼデクがアブラハムを祝福したということです。祝福するとしたら、上の者が下の者を祝福するのです。ということで、メルキゼデクという謎の祭司の方が、アブラハムの中にいるレビよりも偉大なのであり、したがってレビ族の祭司よりも偉大だ、というわけです。なるほど筋が通っています。
そのように詩編110編は、主なる神が、レビ族の祭司よりも偉大なメルキゼデクと同じような祭司を立てたのだということを語っているのです。それがメシア、すなわちキリストであると。しかも、主なる神は、あなたは永遠にそのような祭司であるとメシアに語っているのです。
なぜこのことが重要なのでしょう。それは、モーセの律法に基づく祭司制度が不完全であることを意味するからです。「ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう」(11節)。そう言われれば、なるほどそのとおりでしょう。モーセの律法に基づく祭司が、人間に完全な罪の赦しをもたらし、神と人間との正しい関係を回復し、交わりを回復するのに十分であるならば、メルキゼデクと同じような別な祭司は必要ないはずです。しかし、神はあえてメルキゼデクと同じような祭司、すなわちモーセの律法に基づかない祭司を立てた。それはなぜか。先のものが不完全だからです。
そして、それはもう一つのことを意味しています。それはモーセの律法に変更があったということです。「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです」(12節)と書かれているとおりです。
モーセの律法に変更があったという主張は、ユダヤ人が聞いたら天地がひっくり返るような驚くべき主張です。しかし、その驚くべきことが起こったのだと著者は言っているのです。実際、先にも触れましたように、メシアはレビ族ではないのです。ダビデの子孫なのですから。そのメシアが永遠に祭司であるならば、それは明らかにモーセの律法に反するのです。ユダ族から祭司が出るなんてことは律法に書かれていないのですから。
ということで、律法に変更があった。いや、さらに言うならば、無力だから廃止されたのだとさえ言えるでしょう。18節にははっきりと次のように書かれています。「その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました」。それはどのような仕方で廃止されたのか。既に16節にこう書かれていました。「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです」(16節)。そのように、新しい別の祭司は、もはや肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。ここで著者が念頭に置いているのはイエス様の復活でしょう。復活したキリストであるゆえに、永遠の祭司であり得るのです。それはまさに、命の力によって立てられたとしか言いようがないでしょう。
このように不完全な律法が廃棄されたのは何のためか。他方において、もっと優れた希望がもたらされるためでした。「しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました」(19節)。メルキゼデクと同じ祭司が立てられたこと、すなわちイエス・キリストがそのような大祭司となってくださったのは、わたしたちが与えられた、もっと優れた希望によって、神に近づくためなのです。「わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」。
2023年7月26日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 6:13~20
ヘブライ人への手紙 6:13‐20
前回お読みしたところには次のように書かれていました。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(11‐12節)。ここで読者が見倣ってほしい人たちの中で、まず誰を念頭に置いているかが、今日お読みしたところに明らかにされています。それはアブラハムなのです。
しかし、今日の箇所において、著者がまずアブラハムの模範的な姿を提示しているかと言えば、そうではないのです。アブラハムがどれほど忍耐強かったか、信仰が深かったかということを語り出すのではなくて、まず、神様のことを語り出しているのです。特に神がアブラハムに対して「誓った」ということを取り上げているのです。「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす』と言われました」(13‐14節)。その上で、初めて、「こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです」と、アブラハムの忍耐のことに触れているのです。
神がアブラハムに対して誓われたように、「何かにかけて誓う」という行為は、ある意味では今日の私たちにとって馴染み深いものではないと言えるでしょう。しかし、この手紙の読者にとっては極めて身近なものだったのです。とにかくユダヤ人の世界においては、信用が問題となるところでは、頻繁に「何かにかけて誓う」という行為がなされたのです。今日で言うならば、判をついて契約書を交わすという感覚に近いかもしれません。それで信用問題については、ある意味でけりがつく。そのような類のものです。
しかし、人間ならまだしも、神様が「誓う」というのは、やはり何か変です。人間の世界では、誓いの効力を保証するために自分より偉大な者にかけて誓うのです。しかし、神様の場合、自分より偉大なものはありません。ですから、「自分にかけて誓う」という変なことになります。まさに、その変なことが実際に聖書に書かれているではないかと、この著者は指摘しているのです。それは後で見ますけれど、創世記の22章に実際に出てくるのです。
神様があえてそんな変なことをなさったのは何のためか。なぜそんな変なことが聖書に書かれているのか。それは次のように説明されています。「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです」(17節)。
それは一方において、「神の計画が変わってしまったのではないか」という状況があるということでしょう。言い換えるならば、神様は先に約束したことを勝手に変更してしまって約束を守らないかのように見えるということです。そのような状況の中で、なおも神様は「計画は変わっていないんだよ」と示そうとした。それがこの「神の誓い」という変な出来事だというのです。
神は「御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきりと示したい」と考えられた。――それは要するに「信じ抜いて欲しい」という神の心の現れでしょう。どんなに状況が約束の実現に反するように見えても、神が不真実に見えたとしても、信じて欲しいと神は願っている。それを示しているのが、この「神の誓い」なのです。私たちはその奇妙な記述に、そのような神の心を読み取らなくてはならないのです。
そして、実際アブラハムは、神が望んでいるように、そのように神を信じたのです。信じ抜いたのです。実際、この「神の誓い」が聖書のどこに書かれているかと言うと、先に申しましたように、それは創世記22章なのです。それは有名な、イサク奉献の物語が書かれているところです。
その内容はご存じでしょう。神様はアブラハムにこう言われたところから始まります。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)。これは明らかに神様の当初の約束の言葉である「わたしはあなたを多くなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(同12:2)という約束に反するでしょう。また、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる」(同15:5)という約束の言葉に反するでしょう。イサクはたった一人の子なのであって、その子を殺したら、子孫はもはやあり得ないのですから。
彼がイサクを連れてモリヤの山を登って行った時、彼が見続けていたのは、約束に反する現実だったのです。神の不真実と見える現実だったのです。彼が刃物を振り上げた時、彼が目にしていたのは、神の不真実としか見えない現実だったのです。にもかかわらず、彼は神を信じ続けたのです。
この著者がまず念頭に置いているのは、このアブラハムなのです。このような人を「見倣う者となってほしいのです」と彼は言うのです。実際、「神の誓い」はこの出来事の直後に書かれています。信じ抜いたアブラハムに対して為された誓いです。ならば、それは単にアブラハムのためだけではないでしょう。その後の人々のためでもあるのです。それはこの手紙の読者のためでもあり、今日の私たちのためでもあるのです。
ですから、こう書かれています。「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません」(18節)。そうです、「わたしたち」がこの二つの不変の事柄、すなわち神の約束と誓いによって励まされるためなのです。
その「わたしたち」ということについて、特に「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたち」と言われています。細かい話になりますが、実は、原文には「世を」という言葉はありません。ただ「逃れて来たわたしたち」と書かれているのです。何から逃れてきたのかということは書かれていません。ですから「世から逃れてきたのだ」という解釈が一つあって、それがこの訳です。しかし、その訳では、信仰を持つということは世捨て人になることであるかのように誤解される恐れがあります。
ということで、これを「世を逃れて来たわたしたち」ではないとする解釈があります。わたしは、それが正しいと思っています。確かに、彼らは迫害の恐怖に直面しています。世の人々が敵対してくるのです。しかし、人を滅ぼすのは「世」ではないのです。この手紙は、そうは言っていないのです。本当に恐ろしいのは「世」ではないのです。既に見てきましたでしょう。人は何によって滅びるのか。不信仰によってなのです。だから、本当に逃れなくてはならないのは、不信仰からなのです。そこから逃れて「目指す希望を持ち続けようとしているわたしたち」と言っているのです。その私たちを神は励まそうとしておられるのです。
なぜなら、その目指す希望、すなわち神の国の希望、神の安息にあずかる希望こそ、魂にとって頼りになる錨だからです(19節)。錨がなかったら流されていってしまうのです。滅びへと流されて行ってしまうのです。だから不信仰から逃れて、希望を保ち、錨をしっかりと降ろしていなくてはならないのです。
そしてもう一つのことが付け加えられています。この希望こそ、「至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」(19節)と。至聖所の垂れ幕の内側に入って行くとは、言い換えるならば、神との交わりに入るということです。それは現在における神の交わりであると共に、最終的に完全な神との交わりに入るということをも含みます。その垂れ幕の内側に、既に先にキリストが入ってくださいました。そして、私たちのために大祭司として執り成していてくださいます。それは同じ交わりへと私たちも入るためなのです。だから「目指す希望を持ち続けようとしているわたしたち」であることが大事なのです。どんなに神は不真実であるかのように見える現実があったとしても、私たちは不信仰と絶望から逃れ、希望を持ち続けなくてはならないのです。あのアブラハムのように。そのような私たちを神は励ましていてくださいます。
2023年7月19日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 6:1~12
ヘブライの信徒への手紙 6:1‐12
前回のところでは、読者に対して「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」と語られていました。要するに、あなたがたは幼子だから固い食物を食べることはできない、と言っていたのです。しかし、今日の箇所を読みますと、「だからあなたがたにはまだまだ乳を与えることが必要だ」とは言っていません。そうではなくて、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と言っているのです。これを読みますと、先週も申し上げましたが、既に述べられたことは、いわば多分に挑発的な言葉であったことが分かります。読者に発奮して欲しいのです。そのままで満足していて欲しくないのです。成熟したいという願いを持って欲しいのです。固い食物を食べる必要性を知らずに乳を飲んでいて満足している人は、いつまで経っても乳を飲んでいることになるでしょう。そうあってはならないのです。
「キリストの教えの初歩を離れて」と書かれています。その「初歩」の例として、「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」が挙げられています。「死んだ行い」というのは、永遠の命の源なる神から自らを切り離してしまう行い、すなわち神に対する背きのことです。そのような行いを悔い改めること。生ける神に立ち返るということは観念的なことではありません。実際的なことです。「神への信仰」については特に言葉を加える必要はないでしょう。次に「種々の洗礼」と複数になっているのは、「洗礼(バプテスマ)」そのものは、必ずしもキリスト教会だけが行っていたのではないからです。異邦人がユダヤ教へと改宗する時に洗礼が行われました。またヨハネの授けたバプテスマがありました。そのような中において、教会において主の御名によって授けられる洗礼はいかなるものか。主イエスが聖霊によって授けるバプテスマとは何であるか。そのことについての教えが「種々の洗礼についての教え」です。手を置く儀式とは、聖霊を与えるものとして、また伝道者の任職として行われていたものです。そして続く「死者の復活」「永遠の審判」は終末に関する教えです。
どうでしょう。これらが「基本的な教え」と呼ばれ「キリストの教えの初歩」と呼ばれているものです。どれ一つ取っても、大変な内容を持つものでしょう。しかし、これらはキリスト者ならば当然弁えていなくてはならないものであり、これらについての教えは「乳」だと言うのです。そうしますと、私たちが「乳」として求めているものは、もしかしたら「乳」にもなっていないかもしれないのです。私たちの標準といかに違うかを思わずにはおれません。
それは教会の置かれた状況を考えても分かります。この手紙は試練に直面している教会に宛てて書かれたものであることは既に述べました。そこには様々な困難の中で、どのようにして信仰を保っていくかという死活問題があるのです。人が信仰を保っていこうとするときに、その土台として基本的な事柄が身についていることが必要なことは誰でも分かります。しかし、この著者に言わせるならば、それでも十分ではないのだ、と言うのです。「成熟を目指して進みましょう」と。
確かにそれは私たちの置かれている状況とは違います。しかし、どのようにして信仰を保っていくかという死活問題についてはある意味では変わらないのでしょう。その意味では、私たちには危機感が欠落しているとも言えます。私たちは本当に試練を耐え抜くことのできる信仰者なのだろうかと改めて自らに問わなくてはなりません。
実際それは決して小さなことではないのです。試練の中において信仰を捨てるということ、すなわち棄教するということがどういうことかを、この著者は極めて厳しい語り口で次のように語ります。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(4‐6節)。
信仰者として、この言葉を読んで恐れを抱かない人はいないだろうと思います。もっとも、「再び悔い改めに立ち帰らせることはできない」のはあくまでも人間の側としてのことであって、人にはできなくても神にはできるということが留保されているとは言えます。しかし、それは神の恵みとしての留保なのであって、神が立ち帰らせてくださることを当然のこととすることはできません。やはり私たちは恐れなくてはならないのです。神を離れても、後で立ち帰ることができるなどと安易に考えてはならないのです。信仰を捨てても、また後で持つことができるなどと安易に考えてはならないのです。
もちろん、ここに書かれていることは、既に信仰を捨てた人々について、「彼らが立ち帰ることは不可能なのだ」と断罪するために書かれているのではありません。そうではなくて、あくまでもこれは信仰に立っている人々に対して書かれているのです。警告として語られているのであって、願いはもちろん、信仰に留まって欲しいということです。
ですからこの著者は、次のように語りかけています。「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」(9節)。そして、神様がこれまでの信仰生活をちゃんと見ていてくださって決して忘れることはないのだと励ましているのです。「あなたがたの働き」、そして「聖なる者」すなわち他の信徒に対して示してきた愛、しかもそれが神の名のために行われてきたこと、すべて神様は覚えていてくださると言うのです。信仰の実りが必ずしも人の目に留まるわけではないし、また覚えられているわけではありません。また自分でも覚えていないことがあるかもしれません。しかし、神様は覚えていてくださる。なぜなら神様は不義な方ではないから。
先にこの著者は読者に対して、あなたがたは乳を飲んでいる幼子だと語りました。確かにそうだったのでしょう。しかし、そうであっても信仰者として生きてきたことは、神の御前において決して小さなことではないのです。それは私たちについても同じであろうと思います。このヘブライ人への手紙のスタンダードから言えば、私たちの状態は幼子以下かもしれません。しかし、それでもなお神様はその信仰生活に目を留め、心にかけ、覚えていてくださるのです。私たちは卑下する必要はないし、そのことよりも、「成熟を目指して進みましょう」という言葉をしっかりと受け止めたらよいのです。
8節に至までかなり厳しい辛辣なことを語ってきたこの著者の真意は次のように語られています。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(11‐12節)。
「怠け者」というところに用いられているのは、5:11の「鈍くなっている」と同じ言葉です。鈍くなったままでいてほしくない。むしろ信仰と忍耐によって約束されたものを受け継ぐ人たち、すなわち信仰の先達たちを見倣ってその後に続く者となって欲しいのです。その信仰の先達たちの代表として挙げられるのはアブラハムです。彼についてはこの直後に言及されていますし、また後に11章に登場します。私たちも知るとおり、アブラハムは人間としては完全な人と言うにほど遠い人でした。またその信仰は度々試練に遭い、振るわれました。しかし、彼は忍耐強く待って信仰を全うしたのです。そのようにわたしたちも最後まで希望を持ち続けることができるようにとこの著者は願っているのです。そのためにも、信仰の基本的なことがらはもとより、そこからさらに常に成熟を目指して進む必要があるのです。
2023年7月12日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 5:11~14
ヘブライ人への手紙 5:11‐14
前回のところでは、イエス様が偉大な大祭司であり、しかも大祭司というものは「すべて人間の中から選ばれ」るものである、ということの意味を考えたわけですが、そこでは6節の「メルキゼデクと同じような祭司である」という部分には触れませんでした。しかし、これは読み飛ばすことができない重要なテーマであることは、10節において繰り返されていることからも分かります。実は、そこで触れなかったのは、7章以下でかなり詳しく展開されるからなのです。
今日お読みした箇所、及び6章全体は、その「メルキゼデクと同じような祭司」ということが語り出される前に挟まれた形になっています。言い換えるならば、7章から「メルキゼデクと同じような祭司」について語られる前の「前置き」となっているのです。6章の終わりには、再び「メルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」と語られて、そのテーマに戻ってくるのです。
なぜ、すぐにそのテーマに入っていかないで、前置きを入れたのでしょうか。その理由は11節に記されています。「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」。
そうです、このことは話さなくてはならない。語るべきことはたくさんあるのです。しかし、聞く側の問題があるのです。この著者はさらに手厳しい言葉を続けます。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。」
こうしてみると、「メルキゼデクと同じような祭司である」というテーマは、明らかに「神の言葉の初歩」すなわち、信仰入門に属してはいないということが分かります。それは「義の言葉」と呼ばれています。それが何を意味するかはさておき、これは赤ん坊のための「乳」ではないことは確かです。かなり固い食物なのです。だから、乳ばっかり飲んでいるあなたたちには食べられないし、理解もできないのだ、と言っているのです。
恐らくこれを読んでいるのは、信仰を持って間もない人ではありません。「もう教師となっているはずなのに」と言われているのですから。もっとも「教師」と言っても、いわゆる教会の職制における「教師」という意味ではないでしょう。「少なくとも神の言葉の初歩くらいは、誰かに教えられるぐらいの人」という程度の意味であると思われます。新しく信仰を持った人の成長を助ける信仰の先輩ということです。しかし、実際にはそうなっていない。そうではなくて、自分自身が乳を飲ませてもらうことばかり考えている。そんなあなたたちに固い食物を与えることは難しい。分かるわけがない。そのようにこの著者は言っているのです。
かなり辛辣な言葉だと思います。私たちがそう言われたらどうですか。しかし、これは多分に挑発的な意味合いで語られているということを理解しなくてはなりません。あなたがたは幼子であって、義の言葉を理解できない、と言いながら、では「メルキゼデクと同じような祭司」という話をすることは止めてしまうかというと、そうではないのです。7章以下で、それこそ固くて食べるのに一苦労するような食べ物を差し出しているのです。ちゃんと理解できることを期待して、本気で事柄の非常に深遠な部分に至るまで語っているのです。
要するに、この著者は辛辣な言葉を投げかけてでも、その固い食物に取り組む姿勢を造りだそうとしているのです。その本心は6章2節に現れています。「成熟を目指して進みましょう」。これが言いたいのです。逆に言えば、成熟を目指して進む気がないならば、固い食物を与えることは意味がないのです。いつまで経っても食べられないでしょうから。
さて、私たちはヘブライ人への手紙を読んでいるわけですが、この7章から10章にかけて書かれていることは、いわばこの手紙の心臓部分に当たります。ここをしっかり捉えなくては、この手紙を読んだことにはならないのです。しかし、この部分に入っていくに当たって、私たちもまた、今日の言葉をしっかりと心に留める必要があろうかと思います。というのも、これから旧約聖書を背景としたかなり細かい議論が展開されるからです。それが恐らく何週も続きます。ですから、私たちも心の内にも、とっつきにくいと感じて、真剣に取り組む思いが損なわれることがあるかもしれません。
なので、7章に入る前に、私たちは「成熟を目指して進みましょう」という呼びかけを一緒に聞いてから、そこに入っていきたいと思うのです。乳を飲むことに満足していないで、固い食物を食べられる成熟した信仰の大人になることを目指して進みましょう、と。この著者が語る、いささか挑発的な言葉をも自分に対する言葉として正面から受け止めて、相応しい姿勢で7章以下を読んでいきたいと思うのです。
しかし、「固い食物」を食べられるようになるとは、どういうことでしょうか。成熟した大人になることを目指すとは、どういうことでしょうか。誰でも分かるような話ではなく、旧約聖書を背景とした、込み入った難しい話を理解できるようになる、ということならば、ある程度勉強すればそうなれるでしょう。神学校で教えられているようなことを勉強すれば、ここで語られている議論そのものは理解できるようになるでしょう。しかし、それが成熟するということなのでしょう。そうではないでしょう。
ここで「固い食物」については、こう言われているのです。「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」つまり、たとえ神学者であっても、このことを経験によって訓練されなければ、霊的な幼子のままであるということは、あり得るということです。
成熟した大人とは、「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された」人です。確かに、この世においても、物事の善し悪しが分かる人が「大人」と呼ばれます。それが分からない人は「まだまだ子供ね」と言われます。しかし、ここで「善悪」と言われているのは、この世において一般的に言われる道徳的判断ではありません。あくまでも信仰の事柄が重要なのです。信仰において重要なのは神様なのです。
この箇所を理解する上で一番助けになるのは、恐らくパウロが語った次の言葉でしょう。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。これが成熟した大人です。現実の生活の中で「何が神の御心であるか。何が神に喜ばれることであるか」ということが考えられるようになることです。何が自分の望んでいることか、何が自分の喜ぶことであるか、しか考えられないのは、信仰の世界においても幼子でしかありません。御心を求めて生きる。そのようにして、信仰の理解と現実の生活とがしっかりと結びついてくる。それは現実の信仰生活における経験によって身につけていかなくてはならないことなのです。
そのような大人になることを求めていく。そのような信仰における成熟を求めていく。そこにおいて、固い食物も食べられるようになっていくのです。神の御心を求めて生きる。この世界に対する神のご計画、その中にいる私たちに神が望んでおられること、それを真剣に求めていくならば、御言葉に対する姿勢も変わっていくはずです。単に「今日の話は分かりやすかった」とか「分かりにくかった」とか、「感動した」「恵まれた」というところで終わらないはずなのです。
御言葉に対する姿勢を変えていきましょう。そして、成熟を目指して進みましょう。
2023年7月5日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 5:1~10
ヘブライ人への手紙 5:1‐10
今日お読みしましたところで、まず心に留めたいのは7節の言葉です。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5:7)。イエス様は、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら祈っておられた。ヘブライ人への手紙の著者がこの言葉を書いた時に念頭に置いていたのは、恐らくゲッセマネの祈りであろうと思います。
キリストは祈っておられた。叫びながら、涙を流しながら祈っておられたのです。死から救ってください、と祈っておられたのです。そのような人間としてはごく自然な姿を、教会は大切に伝えてきたのです。イエス様は私たちとは全く別で、恐れることなく、目の前の十字架にひるむことなく、淡々と死の向こうの復活に向かって行ったかのように、教会はキリストを伝えてきたのではないのです。そのように信じてきたのではないのです。キリストは恐れていた。キリストは苦しんでおられた。死から救ってください、と、キリストは泣き叫びながら、父なる神にすがりついておられたのです。
そして、そのような祈りについて、こう書かれています。「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。さて、キリストの祈りは本当に聞き入れられたのでしょうか。死から救う力ある御方は、聞き入れてくださいましたか。そう、確かに「聞き入れられた」と言うことはできます。キリストの復活を聞いて信じている私たちは、そう言うことができる。キリストは死に飲み込まれて滅びてしまったのではなかった、と。父は確かに死から救ってくださった、と言うことができるでしょう。
しかし、今、あえて「キリストの復活を聞いて信じている私たちは」と言ったのには意味があります。信仰によらなければ、そうは見えないのです。信仰にはよらずに、この世の目によって、目に見えるところだけでキリストを見たら、どう見えるでしょう。この世が見たキリストは、十字架にかけられて、死んで葬られたところまでなのです。ですから、信仰によらなければ、先ほどの聖書の言葉はこうなります。――「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげたけれど、その畏れ敬う態度にもかかわらず、その祈りは聞き入れられませんでした。」
そうでしょう。十字架にかけられて死んでしまったのですから。墓に葬られてしまったのですから。十字架の下で人々が何と言ってイエス様を罵ったかご存じですか。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」しかし、イエス様が十字架から降りることができたのは、死んでしまってからだったのです。信頼したって、叫び求めたって、やっぱりダメだったじゃないか、ということになるでしょう。
さて、度々申し上げていますが、この手紙が書かれたのは、既に教会が大きな迫害を経験し、そしてまた新たな迫害が迫っていたという時代でありました。迫害の中においては、身近な指導者が、あるいは親しい友や家族が捕らえられていくわけです。「神様、助けてください。救ってください」と皆が必死で祈ったにもかかわらず、捕らえられてしまった、殺されてしまった、という人は少なくなかったに違いありません。それは祈りが足りなかったのでしょうか。神への信仰が足りなかったから、殺されてしまったのでしょうか。
しかし、それは祈りが足りなかった、熱心さが足りなかったという単純な話ではないことをイエス様の姿は示しているのです。というのも、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に祈ったキリストも、しかも信頼と畏れ敬う態度においては完全であったはずのキリストもまた、それにもかかわらず死んでしまったからです。この世の目から見るならば、そうなのです。
にもかかわらずヘブライ人への手紙は、はっきりとこう宣言しているのです。あの叫びは、あの涙の祈りは、神に「聞き入れられました」と。ヘブライ人への手紙の著者は、その事実を信仰によって見ているのです。主はもはや死の中にはいない。主は生きておられる。完全な命の輝きの中に生きておられる。そして、同じことが私たち自身についても見えてくるのです。祈りは聞かれなかったように見えるかもしれない。信頼は裏切られてしまったかのように見えるかもしれない。しかし、そうではない。復活が見えてくると、まだ目には見えていない永遠の命の世界、神が約束してくださっている神の安息が信仰によって見えてくると、祈りは確かに聞き入れられていることもまた見えてくるのです。
とはいえ、信仰によって死を越えた確かな希望が見えてきたとしても、それでも苦しいものは苦しい、辛いものは辛いのです。永遠の命に至るなら、耐え忍ばなくてはならない苦しみが決して無駄な苦しみでないことは分かります。祈りが聞かれていないわけじゃないことは分かります。天の故郷に至る道を歩いているんだということも分かっています。しかし、それで苦しみそのものがなくなるわけではありません。
それゆえに、5章冒頭に書かれている大祭司についての説明が大きな意味を持つのです。既にこれまでのところで度々イエス様が「偉大な大祭司」であることが語られていました。しかし、ここにはわざわざ「大祭司はすべて人間の中から選ばれ」ということが書かれていました。天使は大祭司になれないのです。あくまでも大祭司は人間でなくてはならない。つまり大祭司自身、人間としての弱さを持っているということです。そしてこう書かれています。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(2節)。
イエス様は、そのような大祭司となってくださったのだ、とこの手紙は教えているのです。神の御子であるのに、弱さを身にまとう人間の一人として生きてくださったのです。そして自らは罪のない御方であるのに罪人と同じところに立ち、私たちと同じように死を免れぬ人間として生きてくださったのです。人間の一人として苦しみを味わってくださった。キリストは叫んだのです。泣いたのです。父にすがりついたのです。
それだけでなく、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(8節)とさえ書かれています。私たちが信仰によってキリストの復活に目を向けることができるなら、確かに希望を失うことはないでしょう。神は確かに祈りを聞き入れてくださっている。そう語ることもできるでしょう。しかし、それでも苦しいことは苦しいし辛いものは辛いのですから、それでもなお神様に信頼して従順であり続けることは時としてとても困難であることは事実なのです。
しかし、そのような私たちのために大祭司なるキリストがいてくださる、とヘブライ人への手紙は語るのです。その御方は「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれ」た御方です。だから分かってくださる。私たちの苦しみも、試練が誘惑となってしまうことも、私たちが無知で迷いやすい者であるということも分かってくださる。「完全な者となられた」とは、救い主としての完全です。
そして、この大祭司が分かってくださるならば、生きていくことができる。耐え忍ぶことができる。そのような大祭司が執り成してくださるから、私たちは迷っても今一度立ち返り、神に信頼して生き始めることができるのです。多くの苦しみによって従順を学ばれた御方と共に、父なる神に信頼し、従っていくことができるのです。
そのことを思いつつ、改めて先週の箇所をお読みしましょう。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:14‐16)。
2023年6月28日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 4:12~16
ヘブライ人への手紙 4:12‐16
先週お読みしたところには、「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」(1節)と書かれていました。「取り残されてしまったと思われる者」とは、「万一にも、はいりそこなう者」という意味であると申しました。はいりそこなわないために重要なことは、続いて2節に書かれているように、「聞いた言葉」がそれを聞いた人と信仰によって結びつくことです。「聞いた言葉」とは、福音の言葉です。神の約束の言葉です。神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっており、神が安息しており、その神の安息にあずかる約束を告げる言葉です。
その「聞いた言葉」が聞いた人と信仰によって結びつけられなくてはならないのは、もう一方において、私たちが実際に目で見ている現実があるからです。それは聞いた言葉と対立するのです。この目で見ている現実としては、この世界は決して完成などしておらず、むしろ滅びへと向かっているものでしかないように見えるのです。私たちは救いへと招かれているのではなく、むしろこの世界の中で苦しみ悩みながら滅びていく存在としか見えないのです。実際に、ヘブライ人への手紙を読んでいる教会は、そのゆえに苦悩していたのです。そこには神の安息は見えないし、安息へと招いている神の善意が見えないのです。それゆえに見えるものは告げ知らされた言葉と対立するのです。
あるいはこう表現することもできるでしょう。――私たちはもともと目に見えるこの現実しか知らなかったし、これが全てだと思って生きていた。しかし、その目に見える現実の中に、約束の言葉、福音の言葉が切り込んできたのです。まだ目に見えないもの、しかし、確かに既に完成していて現れるのを待っているものを告げる、神の言葉が切り込んで来たのです。そして、その神の言葉は「信じること」を求めるのです。神の言葉を信じて、まだ見ていないものを既に見ているように生活することを求めるのです。そのようにして、信仰によって神の言葉を自分自身に結びつけるのです。
さて、告げ知らされた約束の言葉、福音の言葉を、「神の言葉」と言い換えました。それは今日お読みした12節によります。彼らが聞いてきた言葉をヘブライ人への手紙ははっきりと「神の言葉」と表現しているのです。
神の救いを告げる言葉、神の安息にあずかる約束の言葉が、「神の言葉」であるということは、人間の思索から出てきた言葉ではないということです。この目に見える世界の中から出てきた言葉ではないということです。それは外からの言葉です。神様の側から、向こう側からの言葉なのです。神は最終的に、御子なるイエス・キリストを通して語られた(1:2)と書かれていました。人間イエスが悟ってメシアになったのではないのです。御子が神の語りかけとして向こうから来られたのです。
今日の箇所においては、そのような「神の言葉」と私たちとの関わりについて語られているのです。そのような「神の言葉」を信仰によって自らと結びつけて生きるか否かが問題とされているのです。「神の言葉」を自らと結びつけるということは、純粋に神の御前における出来事です。それは何を意味しますか。誤魔化しがきかない、ということです。
教会における私たちの営みが単なる「聖書のお勉強」だったら、いくらでも誤魔化しはきくのです。単なる神学的な研究だったらいくらでも誤魔化しはきくのです。それが自分自身と本当に結びついているかどうかは、ある意味では問題とならないのです。しかし、私たちに告げ知らされている福音の言葉が、本当に神の言葉だったら、神から来ているものであるならば、誤魔化しがきくはずがありません。それはまさに私たちの最も深いところにまで切り込んでくるのです。
先ほど、この目に見える現実の中に切り込んできた言葉だと申しました。しかし、その言葉を私たちが信じて受け入れるならば、今度はその言葉が私たちの内にまで切り込んでくるのです。それは人間の存在の最も深いところにまで切り込んでくるのです。神の言葉とは、そういうものでしょう。信仰生活とは、そういうものでしょう。最も深い内面が関係しない信仰生活なんてあり得ない。生活の表面的なことにしか関係しない信仰なんて、あり得ない。今日お読みした箇所に書かれているのは、そういうことなのです。
「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(12節)。
神の言葉は刺し通すのです。そして、心の思いや考えを見分けることができるのです。この文の主語は私たちではありません。「神の言葉」です。そのことに注意してください。
一般的に誰かの「言葉」を聞くときには、私たちは聞く主体であって、様々な判断をくだしながら、「これは受け入れられる」とか「これは受け入れられない」とかを判断しながら聞いているのです。そのようにしながら、語っている人の心の思いや考えを見分けながら、聞いているのです。そして、神の言葉に対しても、私たちは自分を中心に置いて、聞く主体として、様々な判断を下しながら聞いているものなのでしょう。
しかし、忘れてはならないもう一つのことがあるのです。それはもう一方において「神の言葉」が私たちの心の奥底をしっかりと見分けているということです。神の言葉の方が、私たちを判断するのです。信じて受け入れたような《振り》をしてもだめなのです。神の言葉は生きていて、私たちが本当に受け入れているのか、信じているのか、しっかりと見ているのです。不信仰があれば、神の言葉が刺し通して、それを明らかにするのです。
それは昔から人々が経験してきたことなのです。もはや神の言葉の前には隠し立てすることはできない。そのことを思い知らされてきたのです。それゆえ彼はさらにこう続けます。「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(13節)。
神の御前でなければ、私たちは他の人のことを言っていられるのです。神が語られるところにいるのでなければ、私たちが他の人について語れるのです。あの人が悪い、この人が問題だ。家族が悪い、政治家が悪い、世の中が悪い、と。しかし、神の言葉が私たちの最も深い心の思いや考えにまで及び、神の御前においてすべてがさらけ出されていることを知るなら、私たちはもはや他人を問題にしているわけにはいきません。問われているのは私たち自身だからです。「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。神が私たちに語られるとは、そういうことです。
それはある意味で恐ろしいことでもあります。知られているということは恐ろしいことです。心の思いや考えまでも判断されているということは恐ろしいことです。エデンの園においてアダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れました(創世記3:8)。彼らがしたことは私たちにも良く分かります。まことに神が語られるところに身を置いて、私たちが他の誰かではなく自分自身のことを申し述べねばならないとするならば、神の顔を避けて、隠れたくもなるのでしょう。
さて、ここに私たちの直面せざるを得ない大きなジレンマがあります。私たちに告げ知らされているのが神の言葉でなく、この世から出たもの、人から出たものでしかないならば、所詮は私たちの目に見ている現実が全てなのであって、私たちに救いはありません。救いを告げる言葉が「神の言葉」であってこそ、本当に救いとなるのです。しかし、もう一方において、告げられている言葉が本当に「神の言葉」であるならば、それを聞いている私たちは、いかなる取り繕いも誤魔化しも為しえません。それは恐ろしいことでもあります。その意味で、「神の言葉」は両刃の剣なのです。それは完全なる救いの言葉であると同時に私たちの深いところまでえぐり出し切り裂く裁きの言葉でもあるのです。
それゆえに14節以下に書かれていることが重要なのです。「偉大な大祭司イエス」というテーマです。この大祭司であるイエス様については、既に2章において次のように書かれていました。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(2:17)。この14節以下で、同じテーマが繰り返されます。そして、このテーマが5章以下で本格的に展開されるのです。
14節以下の部分については、後に繰り返しこの言葉に戻ってくることになるでしょう。ですから、今日は詳しく述べることはいたしません。大事なことは、この大祭司イエスがおられるゆえに、神の言葉をまさに神の言葉として安心して受け取ることができるし、信じて生きることができるということです。ですから、「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と励まされているのです。そして、私たちはその御方のゆえに、大胆に恵みの座に近づくことができるのです。
(祈り)
2023年6月21日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 4:1~11
ヘブライ人への手紙 4:1‐11
七日に一日巡ってくる安息日。ユダヤ人なら誰でもその由来を知っていたはずです。神が六日間で天地を完成し、七日目に安息されたという話です。創世記には、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記2:1‐2)と書かれています。そこには決定的に重要なことが宣言されています。「天地万物は完成された」「神は御自分の仕事を完成された」と。今日の聖書箇所にも、このことが言及されていました。
なぜこのことが聖書に書かれていることがそれほど重要なのでしょうか。それは、現実にはそう見えないからです。神は「はなはだ良かった」と言われる。そして、「天地万物は完成された」と。しかし、この世界は、どう見ても良い世界として完成しているようには見えないのです。この世界には人間の悪が満ち溢れ、この世界は罪と死によって支配されている。完成どころか崩壊に向かっているとしか見えないのです。現にこのヘブライ人への手紙を読んでいる人たちは、この世界が良い世界として完成していないから、この世の悪と罪のゆえに苦しんでいるのです。
そうです、肉の目にはそのようにしか見えない。だからこそ、先ほどの聖書の宣言が重要なのです。神は御自分の仕事を完成された。それは信仰の目によってしか見えない事実です。神は既に完成して休んでおられる。そして、神が休んでおられるだけでなく、神の全き安息の内に、神は全被造物を招いておられる。
完全に神の御心が実現した神の世界、神の国。それは神の目から見るならば既に完成しているのです。神は完成した世界、全き安息を、いつか造ってくれるだろう、というのではないのです。既に出来上がっているのだと御言葉は宣言しているのです。
それはこの時間世界の中に生きている我々にはまだ見えていません。しかし、神は既に御業を完成しておられるのだから、やがて私たちも見ることになるのです。それが今日の箇所において語られていることです。「もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです」(3節)。今はただ、聖書が宣言するのを聞いているだけです。まだ見ていない。しかし、やがて見ることになるのです。ですから、それまでは、まだ見ていない事実を信じるのです。それが信仰です。
そのことを考えますと、実は、あのエジプトを導き出されたイスラエルの民は、ただカナンの地に至るとの約束を与えられていたのではないことが分かります。彼らは、神を礼拝する民となり、神との交わりに生きる民となって、やがて最終的に、まだ見ていない完全な神の安息にあずかることへと招かれていたのです。
しかし、彼らは現実の試練の中で、「生ける神から離れて」(3:12)しまいました。それゆえに、神は「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」(3:11)と宣言されたのです。つまり、彼らは約束の地に入れなかっただけではなく、神の約束された安息にあずかることができなかったということなのです。神に反抗し、心をかたくなにし、神を離れてしまうとは、そういうことなのです。
実際、ただカナンの地に入ることが目的であるならば、最初の人たちは入れなかったとしても、次の世代の人たちがヨシュアに率いられて約束の地に入ることができたのです。単にカナンの地に入ることが重要なら、それで終わりのはずなのです。しかし、実際に神は話をそれで終わりにしないで、後の時代にダビデの詩編を通して民に呼びかけたのです。
それが今日お読みした箇所で引用されていた詩編95編です。神を試み、神に反抗した人たちに対して、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と神が宣言されたことを歌っているのは、そのことを示して警告と招きの言葉を語るためでした。すなわち、神は再びこれを聞く人々にとっての「今日」という日について、こう呼びかけたのです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(3:7‐8)。
これが「神の安息にあずかる約束がまだ続いている」ということです。詩編95編がそのことを示しているのです。最初に神の安息へと招かれていた人々がそこから外れてしまったとしても、神の安息そのものが無くなったわけではありません。神の約束そのものが無効になったわけでもないのです。先にも言いましたように、神はこれから完成した世界を造られるのではないからです。既にそれは完成しているのです。だから招きは依然として有効なのです。この安息にあずかるはずの人々がまだ残っているのです。
それゆえに重要なことは、私たち自身がその約束に確実にあずかるということなのです。1節には次のように語られています。「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」(1節)。
「取り残されてしまったと思われる者」というのは、要するに「万一にも、はいりそこなう者」(口語訳)ということです。そのような人が出ないように気をつけるとは、どういうことでしょう。その後に、こう書かれています。「というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(2節)。
そうしますと、告げ知らされた福音の言葉が、役に立たないものとなってしまわないように気をつけるということが重要であるようです。言葉は信仰によって聞いた人と結びつけられなければ、無駄になってしまうのです。
聞いた言葉との関係については前にも語られていました。「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(2:1)。これは「錨を降ろす」という意味の言葉であり、そうしないと漂流してしまうという意味だと以前申し上げました。聞いた言葉に錨をしっかりと降ろさなくてはならないのです。
その聞いた言葉、告げ知らされた福音の言葉とは、先に申し上げた最終的な安息に関わる言葉です。それは神の御業としては既に完成しているのですが、私たちはまだ見ていないものです。私たちは、ただ聞いているだけなのです。
そのもう一方において、私たちは現に今、見ていることがあります。この世の有り様です。それはしばしば私たちの信仰に挑戦してくるのです。神の善意はどこにも見られない、神が救ってくださるとは思えない、そういう現実があるのです。悪が最後の実権を握っているのであり、罪と死が最終的な勝利者であるかのように見えるのです。
ですから、その目に見える現実の方に錨を降ろしてしまうならば、私たちの内にもかつてのイスラエルの人々のように、神を試みる思い、神への反抗、不信の思い、不平や不満、つぶやきなどが起こってきてしまうのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と言ったあの人々のようにです。
しかし、私たちはそうなってはならないのです。見ていることにではなく、聞いていることにこそ、錨を降ろさなくてはならないのです。信仰によって、聞いた福音の言葉が自分自身と結びつけられなくてはならないのです。そうでないと、安息の約束は続いているにもかかわらず、そこに入りそこなってしまうことになりかねないからです。
ここを読みますと、イエス様が弟子たちとガリラヤ湖を渡った時の話が思い起こされます。イエス様は弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう」(ルカ8:22)と言われました。これが弟子たちの聞いた言葉です。主が「向こう岸に渡ろう」と言われたのですから、必ず向こう岸に着くのです。しかし、どうなりましたか。舟は嵐に遭いました。これが彼らの見ていることです。彼らは聞いたことと見ていることのどちらに錨を降ろしたのでしょうか。見ていることの方でした。彼らは沈むと思ったのです。ですから、寝ているイエス様を起こして言いました。「先生、先生、おぼれそうです」と。その時、主は風と荒波を叱って静め、彼らに言いました。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。そうです、主は私たちにも今、問うているのかもしれません。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。私たちは、見ていることと聞いていることの、どちらを信じるのでしょうか。