出エジプト記 34:1-17
先週の箇所を振り返っておきましょう。33章に入って語られた主の御言葉において大事なポイントは三つありました。第一は、「約束の地に向けて出発しなさい」ということ、第二は、「あなたの前に使いを送る」ということ、そして第三は、「しかし私自身は、一緒に行かない」ということでした。
約束の地には行けそうです。荒れ野での生活は免れるようです。豊かな土地にも入れます。しかも、その旅は順調に進むらしい。使いが先に行くのですから。宗教の目的が幸いの獲得と苦しみからの解放であるならば、それは得られそうです。しかし、彼らはこの主の言葉を悲しんだのです。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ」(33:4)と書かれています。どうしてか、主が共に行かれないということは最も不幸なことであると悟ったからです。
しかし、主が共に行かれるならば、そこでは民の罪が問題となります。罪ある民は主が共におられるならば、滅びざるを得ないのです。そこで仲保者であるモーセの存在と執り成しが大きな意味を持つのです。モーセは神と民との間に立って執り成します。そして、33:17において主は、「モーセの願い」のゆえに、共に行くと言われるのです。民に罪がないからではないのです。
こうして、仲補者モーセのゆえに、神は民と共に歩んでくださることとなりました。そこで今日の箇所に入って、主はモーセに言われます。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう」(1節)。主がもう一度「掟の板」を与えてくださるのです。それはすなわち、神と共に生きる具体的な生活を与えてくださるということです。そのこと自体が神の恵みに他なりません。
このことは、シナイ山における出来事にはっきりと表されることになります。モーセはそこで再び「主の名」の啓示を受けることになるのです。「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。」(5節)。さらに6節で「主、主…」と語られています。これは「ヤハウェ、ヤハウェ」ということです。
そもそも出エジプトにおいて、「ヤハウェ」の名がモーセに啓示されたということは決定的な意味を持っていました。出エジプト記3章において、主が御自分の名前を問われた時、主はこう言われたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3:14)。それは、単に存在するという意味ではありません。「ヤハウェ」はただ「存在」する神ではなくて、「わたしがいるのだ」と言って共にいる神なのです。
その神がいかなる御方かが、ここでは次のように啓示されています。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(6-7節)。ここではっきり言われているのは、神は「赦しの神」だということです。「共にいる神」は「赦しの神」なのです。逆に言えば「赦しの神」でなければ、「共にいる神」ではあり得ないのです。
ちなみに、その先にこのように語られています。「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」(7節)。ここでいう「罰すべき者」とは誰でしょうか。単に「罪を犯した者」ではありません。神は赦しと忍耐の神ですから。
この「父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う」という言葉を、主は既に語っておられることを思い起こさなくてはなりません。それは20章において十戒を主が与えられた箇所です。主は言われました。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが・・」(20:5)。つまり、主を否む者のことです。主が赦しと忍耐をもって共に歩んでくださろうとしているのに、その主を否むならば、もはや赦しはどこにもありません。言い換えるならば、その赦しと忍耐を軽んじる者であると言い換えることもできます。ですから、後にパウロもこう言っているのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(ローマ11:22)。
さて、そのようにして「掟の板」が再授与されることになりました。それはまた、神の赦しは「神の掟なき生活」を意味しないということを意味しています。すなわち、「赦し」を取り違えて、「無律法主義」に陥ってはならないのです。
神は従順を求められます。神と共に歩むとはそういうことです。私が「主」ではないのです。私たちはあくまでも「従」なのです。主が従順を求めるところにおいて、私たちが何を求めているかが露わにされることになります。ただ幸いの獲得と苦しみの除去だけを求める人は、「従順」が求められることを喜びません。しかし、神御自身を求める人は、「従順な自分になりたい」と願い、そうなることを求めるのです。
さて、24章において私たちは神と民とが契約を結ぶ場面を読みました。しかし、この契約を一方的に破ったのはイスラエルの民でした。ですから、この契約は本来破棄されて然るべきものです。しかし、実際には契約が破棄されず、神はなおも共に歩んでくださることとなりました。主はここで「見よ、わたしは契約を結ぶ」(10節)と言われるのです。原文では特にこの「わたしは」という言葉が強調されています。一方的に破ったのは民の方でした。しかし、神御自身がその罪を覆うようにして一方的に契約を結ばれるのです。ここで特に強調されているのは「神の業」ということです。
契約は神の業として結ばれます。この特別な絆は神の御業によって成立するのです。私たちがキリスト者であるということもまた同じであることを改めて思わされます。神は赦しの神であり、その神が一方的に共に歩んでくださり、契約を結んでくださる。そのことは十字架において最終的に完全に明らかにされることとなりました。御子を十字架にかけて罪を贖うほどに、神は赦しの神であり、その神が、御子の血によって一方的に契約を結ばれるのです「これはわたしの血によって立てられる新しい契約である」とイエス様が言われるようにです。
だからこそ、そこでは従順が求められるのです。そして、従順というものは、本来、「信頼」から生まれるものなのです。ですから、これ以降には、とにかく「主に信頼する」ということが求められているのです。しかも、ここで語られていることは、約束の地に入ってからのことであることは重要です。「よく注意して、あなたがこれから入って行く土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。それがあなたの間で罠とならないためである。」(12節)。
荒れ野を火の柱、雲の柱に導かれている時は、「主と共に歩む」ということは目に見える現実であったと言えるでしょう。しかし、「主と共に歩む」というのは、何も荒れ野を旅する時だけでないのです。むしろ、本当に大事なのは、約束の地に「定住」した後なのです。荒れ野での旅をしていない時のことです。
本当に苦しくて、辛くて、神様なしでは生きていけないと思われる時には、一生懸命に祈るでしょうし、神と共に日々歩むというのは極めてリアルなことなのだと思います。しかし、信仰生活は必ずしもそういう時ばかりではありません。人間の力で営んでいけると思える日常、何の変哲もないごく普通の日常においてこそ、そこで「主と共に」歩んでいるということが大事なのです。
まず、そこでは、「これから入って行く土地の住民と契約を結ばないように」(12節)ということが求められています。土地の住民と契約を結んだほうが、問題も生じにくいし、困難も回避できるに決まっているのです。共同体の中にいる時はヤハウェの民として生活し、そして土地の住民との関わりにおいては、彼らと同じように生活していれば摩擦も生じないことでしょう。ヤハウェの神を捨てるわけじゃありません。しかし、他の民とも契約を結んで、同じことをして、彼らの要求にも応えて、そうやっている方が楽に決まっているのです。
しかし、主はそうするなと言われるのです。「主は熱情の神である」と書かれています。これは「ねたみ」とか「嫉妬」を表す言葉です。これは悪い意味ではなくて、夫婦間においては当然のことを指す言葉なのです。例えば、夫が他の女のところに言った時に、「まあ、いいんじゃないでしょうか」と言っていたらやはりおかしいでしょう。ヤハウェは、神の民が完全に「神の」民となることを望まれるのです。完全に御自分のものとすることを望まれる。これは、本当は有り難いことであり、嬉しいことであるはずなのです。「あなたはわたしのものだ」と言ってくださるということですから。それゆえに、私たちもまたその神に信頼して、完全に神のものとして生きることを求める。それこそが、聖書の語っている信仰生活なのです。
2024年7月31日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 34:1~17
2024年7月28日日曜日
「天から降って来た命のパン」
ヨハネによる福音書 6:41-59
つぶやいていた人々
今日の福音書朗読は、ユダヤ人たちがぶつぶつ言っている場面から始まりました。「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか』」(41‐42節)。彼らが問題にしているイエス様が「わたしは天から降って来たパンである」と言われたというくだりは、その前に書かれています。
今日お読みした箇所は、話としては6章の始めから続いています。場所は59節に書かれているようにカファルナウムです。ちなみに、カファルナウムに渡って来たのはイエスと弟子たちだけではありません。イエスを捜し求めて大勢の群衆が追いかけてきたのです。追いかけてきたのは、彼らがある奇跡的な出来事を目撃したからです。奇跡の話は6章のはじめに書かれています。イエス様が五つのパンと二匹の魚を手に取り、感謝の祈りを捧げて人々に分けられると、大群衆が食べて満腹したという話です。
もちろん、彼らは単にもう一度満腹したいと思って追いかけてきたわけではありません。彼らはイエスの計り知れない力を目の当たりにして、イエスを自分たちの王にしようとしたのです。それは彼らを支配しているローマからの独立を果たすためでした。彼らはローマ人の支配から彼らを解放してくれる政治的なメシアを求めたのです。そのようにイエスを追い求めてカファルナウムまでやってきた人々に対して、今日お読みした言葉は語られているのです。
彼らは「わたしは天から降って来た」というイエス様の言葉につまずきました。ぶつぶつ言い始めた。その一つの理由は、彼らがイエスの父母を知っていたことにありました。もちろん群衆の全員がイエスの両親を知っていたわけではないでしょう。しかし、知っていた人からすれば、人間から生まれてごく普通の家庭で育てられていた人が、「わたしは天から降って来た」と主張している事自体、受け入れがたいことだったに違いありません。
しかし、彼らがつぶやいたことは、もう一つのことをも示しています。すなわち、彼らはもともと彼らの救いのために、誰かが「天から降ってくること」など求めてはいなかった、ということです。べつに天から降って来なくても良いのです。あのモーセやエリヤのように、神の力を発揮して、人々を救うことのできる人間で十分なのです。天のことはこの際どうでもよいのです。地上のことで十分なのです。ローマ人から解放されて、ユダヤ人としての誇りが回復し、生活も楽になり、安心して宗教的な生活が送れればそれでよいのです。
そのような彼らにイエス様はこう言われたのです。今日の朗読箇所の直前にはこう書かれています。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(38‐40節)。
「永遠の命を得る」にしても「終わり日に復活させる」にしても、それは神による最終的な完全な救いを意味します。神との交わりに入れられ、神と共に生き、最終的に神によって完全に救われること。永遠の命。終わりの日の復活。確かに、ユダヤ人の世界ではお馴染みの言葉でした。しかし、実際には人々はそのような救いを求めていたわけではないのです。今必要な助けが与えられること。今、解放されること。彼らの必要を満たすことができるなら、その救い主は、別に天から降って来なくてもよいのです。偉大な指導者で十分なのです。
そのように、イエス様が与えようとしているものと、人々が求めているものには、明らかに食い違いがありました。その食い違いは、今日の教会においても起こっているかもしれません。ある人は心の安らぎを求めて教会に来るかもしれません。ある人は日常生活や仕事に少しでも役立つことを聞こうと、教会に来るかもしれません。ある人は人々との出会いや仲間との交わりの時間を求めて教会に来るかもしれません。ある人は、教会がこの世において少しでも役に立つ存在であることを期待するかもしれません。しかし、そこで出会うのは、例えばイエス様のこんな言葉であるわけです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)。
天から降って来たパンを食べる
そのように、私たちが今抱いている自分の求めや願いを中心に持ってきて、そこからイエス様の言葉を聞こうとするならば、時としてイエス様の語られる言葉は期待はずれに聞こえるかもしれません。彼らにとっても、イエス様からそのような言葉を聞くことは、恐らく期待していなかったに違いないのです。だから、彼らはつぶやき始めたのです。
しかし、そこで私たちは考えたいと思うのです。私たちが自分の求めや願い、自分の考えがまずあって、それを基準としてイエス様の言葉を判断するということは正しいことなのか。そうではないでしょう。むしろ本来は逆であるはずなのです。すなわち、イエス様の御言葉を基準として、私たちの求めや願望、私たちの考えていることが、逆に問い直されねばならない。今日の聖書箇所においては、むしろ私たちの側が問われているのです。私たちはいったい信仰生活において何を大事なこととして考え、何を求めているのか。そして、それでよいのか。そのことが、主の御言葉を前にして問われているのです。
人間にとって最も重要なのは神との関係なのです。永遠の命も、終わりの日の復活も、最終的な救いも、すべてはそこにかかっているのです。問題がこの世のことではなく神との関係であるならば、それは人間にはどうすることもできないのです。私たち自身の罪が、神との関係を妨げるからです。旧約聖書におけるアダムとエバの物語が語っているように、人間は神の顔を避けて園の木の間に隠れざるを得ない者だからです。 ならば、救いは神から来なくてはならないのです。天から来なくてはならない。私たちには天から降って来る救い主が必要なのです。
そして、その救い主は確かに天から来られたのです。その救い主は天から来られて、全ての人の罪を代わりに負って十字架にかかられて死なれたのです。そのようにして、私たちと神とを隔てる私たちの罪を取り除いてくださったのです。天から降って来られた方が、私たち人間の為しえないことを成し遂げてくださったのです。キリストは、私たちが神によって罪を赦されて、神と共に生きることができるように、御自身を献げてくださったのです。
そのことを表現しているのが「わたしは天から降って来たパンである」という言葉なのです。それが今日の聖書箇所においては、さらに「肉と血」という言葉で表現されています。この言葉のほうが、より一層リアルにキリストの十字架を指し示していると言えます。まさにキリストは私たちの救いのために、十字架においてその肉を与え、血を私たちのために流してくださったのです。
そのようにイエス様は私たちの救いのために命を献げてくださいました。だからこそ主はこう言われるのです。「イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(53‐57節)。
そのようにキリストは私たちのためのキリストとなってくださいました。私たちが赦され、神との交わりに入れられ、永遠の命を得、最終的に完全な救いに与ることができるために、御自分を私たちに与えてくださいました。
しかし、パンは食べられてこそ初めてパンとしての意味を持つのです。肉と血についても、食べられてこそ意味があるのです。「食べる」という言葉によって表現されているのは、「信仰」です。信じて受け入れることです。ならばなぜ「信じる」ことについて語らず、あえて「食べる」という話にしたのでしょう。少なくともひとつ言えることは、「信じること」と「食べること」は良く似ているということです。食べたり飲んだりすることは、信仰の本質を良く表していると言えるのです。
私たちは誰かの代わりに食べるということはできません。自らそれを受け取り、口に運び、かみ砕いて飲み込まなくてはなりません。食べ物は自分のための食べ物として自分で食べるのです。そのように、信仰においても、他ならぬ私が信じるのです。誰かが代わりに信じることはできません。さらに言うならば、53節の「食べる」にしても「飲む」にしても、一回のことではなくて、継続を表す表現で書かれています。「食べ続ける」「飲み続ける」ということです。
誰かの代わりに食べつつけることはできません。生きるためには、本人が食べ続けなくてはならないのです。それは、信仰における神との関係というものが、最終的にはその人自身が問われる極めて厳粛なことであるということでもあります。他の人を問題にすることはできない。最終的には本人が食べたか、食べ続けたか、すなわち、本人が信じたか、信じ続けたか、それだけが問われるのです。
キリストは天から降って来た命のパンとなってくださいました。また、主は「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」と言ってくださいました。そして、私たちは今日も洗礼の泉のもとに、聖餐の食卓のもとにこうして集められております。私たちが神の恵みを軽んじない限り、私たちが永遠の命を与えるまことの食べ物、まことの飲み物を失うことはありません。永遠の救いは備えられています。しかし、食べるのは、食べ続けるのは、私たち自身がすることです。
2024年7月24日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 33:12~23
出エジプト記33:12-23
「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」。今日の聖書箇所はこのモーセの言葉から始まりました。確かに神はモーセに「この民を率いて上れ」と言われました。どこに?約束の地にです。「カナンの地」、主がイスラエルに約束された「乳と蜜が流れる土地」にです。
かつてモーセがミディアンの羊飼いであった時、神は燃える柴の間から「モーセよ、モーセよ」と呼ばれました。そして、モーセに言われました。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:9‐10)。そのように、当時エジプトの奴隷であったイスラエルの民をエジプトから脱出させ、彼らを率いて約束の地に導き入れることを求められました。確かに主は「この民を率いて上れ」とモーセに言われたのです。
しかし、ここでモーセが言っているのは、あの初めの時の話ではありません。この33章の初めに書かれていることです。これまでの話の流れを思い起こしてみましょう。
イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野へと導かれました。彼らは荒れ野を旅してシナイ山のふもとに到着します。モーセは彼らを置いてひとりでシナイ山に登り、そこで四十日四十夜を過ごしました。そのときに「十戒」を与えられたという話が20章に出ております。
しかし、モーセが山に留まっている間に、人々はモーセの兄、アロンにこのように要求したのでした。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(32:1)。そこでアロンは人々の身に着けている金の耳輪を集め、それで金の子牛の鋳造を造ったのでした。
これは神に対する冒涜と反逆に他なりませんでした。神は背く民を滅ぼすと言われます。しかし、そこでモーセは民のために執り成し、神は民にくだすと告げられた災いを思い直されたのでした。これが前回お読みした箇所です。そして、33章に入りまして、主は言われるのです。
「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」(33:1‐3)。今日の箇所で「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」とモーセが言っているのは、このことです。
神様はここで三つのことを語っておられます。「約束の地に向かって上っていきなさい」。「わたしは使いを先立って遣わす」。「しかし、わたしは一緒には行かない」。約束の地には入れそうです。荒れ野の困難な旅は終わりそうです。そして、とても豊かな土地に入ることができるようです。神様が「あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい」と言われるのですから。しかも、神様は使いを先立って遣わしてくださる。「使い」とは天使のことです。天使が先立っていくならば、約束の地に入ることはほぼ確実に順調に実現するのでしょう。しかし、そこで主は言われるのです。「わたしは一緒には行かない」。
目的とすることが幸福の獲得と困難からの解放であるならば、その目的はある意味で実現されるのです。乳と蜜の流れる土地には入れるのですから。荒れ野の旅は終わるのですから。しかし、これを聞いて民は嘆き悲しんだというのです。これを良い知らせとは受け取らなかったのです。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった」(33:4)。それは神様が、「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われたからです。神が一緒に行ってくださらないことが彼らにとっては悲しみとなったのです。明らかに彼らの内で何かが変わりつつありました。
もともと彼らは金の子牛を拝んでいた人たちです。これを偶像礼拝と言います。偶像礼拝の問題とは何か。単に神の像を造ることではありません。礼拝の対象には本質的に関心がないということです。そこから何を得られるかということにしか関心がない。礼拝の対象は何だってよいのです。金の子牛でもよいのです。求めているものが得られればよいのです。極論するならば、求めているものが得られれば、神が共にいなくてもよいのです。それがもともとの彼らの姿だったのです。
しかし今、主が「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われた時、彼らは悲しみ嘆いたのです。明らかに何かが変わりつつあった。何が本当に大事なことなのかを彼らは知り始めていたのです。そのような彼らのために、モーセは神に語ります。それが今日お読みした箇所なのです。
「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」。実は、日本語に訳されていないのですが、最初に「御覧ください」という言葉があるのです。そして、これは13節の後半に対応しているのです。「どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください」。ここで同じ言葉が「目にお留めください」と訳されています。あなたはわたしを名指しで選んで、好意を示すと言われました。そのわたしに「率いて上れ」と言われる「この民」とは、「あなたの民」なのですよ、ということを強調しているわけです。「あなたの民」を「どうぞ御覧ください」と。
そして、わたしに御好意を示してくださるのなら、「どうか今、あなたの道をお示しください」とモーセは神に求めるのです。その「道」とは、神が行かれる「道」です。すなわち、神と共に歩むことのできる「道」のことです。そのような言い方で、要するに「神様、どうぞ一緒に行ってください」と願い求めているのです。
そこで主は言われます。「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」。その意味合いは明らかに主が自ら「モーセに」同行するということです。モーセとは共にいて「あなたに安息を与えよう」と言われるのです。しかし、モーセにとって大事なのは「わたし」ではないのです。あくまでも「わたしたち」なのです。神が「わたしたち」と共にいてくださることなのです。
それゆえに、「わたしが自ら同行する」と言われる神に、モーセは言うのです。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」(15節)。その意味するところは、「あなた御自身が《わたしたち》と共に行ってくださらないのなら・・」ということです。そして、執拗に「あなたの民」という言葉を繰り返して訴えるのです。「 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう」(16節)。
そして、神は執り成し祈るモーセの言葉を聞き入れられたのでした。主は言われます。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」。そのように、神は彼らを「神の民」と見なし、神が彼らと共に歩んでくださることとなりました。
神の言葉から明らかなように、それはあくまでもモーセの願いを聞き入れたのであって、イスラエルの民が神と共に歩むに値するからではありません。神は一緒に行かないと言われたのです。「途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」と主は言われたのです。神が共にいるならば、本来なら彼らは滅びるのです。にもかかわらず、彼らが滅びることなく神と共に生き、神の民として歩むことができるとするならば、それは一重に仲保者であるモーセの執り成しのゆえなのです。そして、そこにおいて現された神の赦しと憐れみによるのです。
ここに見る神とモーセとのやり取りは、神に導かれる民がどのように成立するのか、人が神と共に生きるとはどういうことなのかをはっきりと示していると言えるでしょう。
人間の手によって造られた金の子牛であるならば、そのような金の子牛によって私たちの在り方が問われることはありません。人間が思い描いた神、人間の心が造り出した神ならば、そのような神によって私たちの在り方が問われることはありません。しかし、それが生けるまことの神であるならば、その御前において私たちの在り方が問われます。私たちが神に背いてきたならば、神が共に歩まれることは、私たちの滅びを意味するのです。
それゆえに、そこでなお神に立ち帰り神と共に生きようと願うなら、神が自ら同行してくださることを願うなら、それは神の赦しによる以外、あり得ないのです。仲保者モーセの存在とその執り成しとは、そのことを表しているのです。神の赦しなくして、人が神と共に生きる道はないのです。
その意味において、神と民との間に立って執り成し祈る仲保者モーセの姿は、来るべき完全な仲保者を指し示していると言えるでしょう。十字架において私たちの罪を贖ってくださった神の独り子、今も神の右において執り成していてくださるイエス・キリストです(ローマ8:34)。
御子キリストが私たちと共にいてくださる。それゆえに御父もまた共にいてくださる。それゆえに新約聖書が次のように語ることもまた、私たちにおいて実現しているのです。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(1ヨハネ1:3‐4)。
2024年7月21日日曜日
「平和と互いの向上のために」
ローマの信徒への手紙 14:13-19
互いに裁き合わないようにしよう
「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」(13節)。今日読んだ聖書の箇所において、そのように語られていました。「互いに裁き合わないようにしよう。」―そのように聖書において語られているのは、現実には複数の人間がいると、必ずと言ってよいほどに、裁き合いが起こるからです。自分を正しいものとし、相手を正しくないと見なす。そのようなことがお互いの間に起こります。そして、裁き合いは様々な形の争いを引き起こします。その争いは、小さくは個人と個人の争いから、大きくは国家と国家の戦争にまで至ります。
そのように争いは裁き合いによって起こります。言い換えるならば、正しさと正しさとのぶつかり合いにおいて起こります。争いは正しい人間が複数いるところで起こるのです。自分は間違っているかもしれないと思っている人の間では、通常、争いは起こりません。しかし、私たちはなかなか、「自分は正しくないかもしれない」と、考えることができない。どうしても、《自分の正しさ》を基準として、他者を裁く側に回ってしまいやすい。ということで、私たちは繰り返し、繰り返し、聖書から、「もう互いに裁き合わないようにしよう」という言葉を聞かなくてはならないのです。
ところで、この聖書の言葉が書かれた当時の教会においては、具体的には何が問題となっていたのでしょう。今日お読みした聖書箇所の少し前に書かれているのですが、そこで問題となっているのは、実は、肉を食べない人と肉を食べる人の間の裁き合いなのです。「肉を食うなんて、お前は間違っている!」とある人は言い、「なんで肉を食ってはいけないのか!それは俺の自由じゃないか!」ともう一人は言う。そんな争いです。考えてみれば、つまらない話でしょう。しかし、往々にして裁き合いと争いは、些細なつまらないことを巡って起こるものです。
実際、当時の教会において、「肉を食べてはならない」という主張がどうして生まれたのか。詳しいことは、よく分かりません。一般的に市場に出回っている肉は、多くの場合、一度異教の神殿で捧げられたものであったという当時の事情がそこにあるのかもしれません。なので、そのような異教的な肉は汚れているので、そのような肉を食べないように、いっそのこと肉食そのものを断ったクリスチャンがいたことは考えられます。あるいは、肉食を汚れたこととする他の理由があったのかもしれません。いずれにせよ、肉は食べてはいけないと主張する人々には、それなりの根拠も理由も、彼らなりにあったはずなのです。
その一方で、肉を食べること自体何ら問題はないと考える人々もいたのです。この手紙を書いたパウロという人も、実は、肉を食べること自体には問題がないと考えていたようです。それは決して汚れたものなどではない。彼はこう言っています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」(14節)。
そのようにパウロ自身は、肉を食べようが食べまいが、それはその人の自由だと考えていたようなのです。しかし、パウロはその自由を人に押しつけようとはしないのです。肉を食べる自由についての主張を展開し、相手が間違っていることを認めさせて、それで解決しようとはしないのです。そうでなく、彼は言うのです。「もう互いに裁き合わないようにしよう」と。
それはどうしてなのか。今日お読みしたところには、「《従って》、もう互いに裁き合わないようにしよう」と書かれていますでしょう。「従って」というのですから、実はその前に理由が書かれているのです。本日の聖書箇所には入っていないのですが、今日の箇所の直前には、こんなことが書かれているのです。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(10節)。要するに、本当の意味で正しく裁くことができるのは、神様だけだと言っているのです。私たちは自らを正しいものとして、裁く側に身を置こうとするのですが、その私たち自身が、本当は正しい神によって裁かれる立場にあるのだ、ということです。
聖書の他の箇所には、こんなことが書かれています。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(ヘブライ14:13)。
私たちの人生には人目に触れている部分と隠された部分があります。悪いものは通常、隠されたところにある。しかし、神に対しては隠されているものなど、何一つありません。神はすべてをご存じです。その神の前に立った時に、人は自分の正しさを主張できるのか。「他の人間が悪いのだ」と、他の人のことを言っていられるのでしょうか。
今日の聖書箇所の直前には、また、こんなことも書かれているのです。「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(12節)。神の前では、もはや自分を正しいものとして、他の人のことを問題にしているわけにはいかないというのです。「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」。つまり、他の人ではなく、自分自身をこそ、問題にしなくてはならない、ということです。そして、パウロは言うのです。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」。
こうしてみますと、「従って」という意味合いが、よく分かりますでしょう。「あなたは本当に他の人を裁くことができるような人間ですか?」ということです。しかし、裁き合わないとするならば、私たちはどうしたらよいのでしょうか。自分のことだけを問題にし、他の人のことは放っておいたら良いのでしょうか。
お互いを建て上げることを求めよう
どうもそういうことではなさそうです。聖書の言葉は次のように続きます。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(13節)。
ここに書かれているのは、直接的には教会の話であり、信仰生活の話です。ですから、「つまずきとなるもの」「妨げとなるもの」とは、信仰生活のつまずきとなるものや妨げとなるものを指しています。それらを置かないように、ということは、相手の信仰生活のことを考え、配慮しなさい、ということです。互いに裁き合うのではなく、むしろ相手の信仰生活のことについて配慮しなさい、気を配りなさいと。
このような言葉を読みますと、改めてハッとさせられるような気がします。実際、どうでしょう。自分を正しいものとして、誰かを裁いたり、断罪したり、責めたりしている時って、本当に相手のことを考えてそうしているのでしょうか。必ずしもそうではないのでしょう。
これを書いているパウロは、具体的には、自分と同じ考えを持っている人たちに語り掛けているのです。先にも言いましたように、パウロ自身は、肉を食べようが食べまいが、それはその人の自由だと考えているのです。だから、パウロ自身、肉を食べる自由を主張することもできたでしょうし、反対意見の人々を言い負かすことだってできただろうと思うのです。
しかし、パウロはここで、むしろ自分と同じように自由を主張する人たちに向けて語っているのです。相手の信仰生活のことを考えなさい、配慮しなさい、と。14節では、こう言っています。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(15節)。
一般的に、この世の理論ではこうはなりません。もしわたしが肉を食べることで誰かが心を痛めるとしても、それは心を痛める側の問題だということになるのです。わたしは間違ったことをしているわけじゃないから。肉を食べるか食べないかは私の自由ですから。ならば、それで誰がつまずこうが、その人の問題だ。――そうです、そう言ったとしても、確かに間違いではないかもしれません。しかし、そこでパウロは言うのです。「あなたはもはや愛に従って歩んでいません」と。
パウロは、正しい主張であるか否かということよりも、愛に従って歩んでいるか否かを問題にするのです。先ほども触れたように、確かに、人が自らの正しさを主張するとき、そこには何らかの根拠があるのです。理由もあるのです。しかし、繰り返しますが、その正しい主張をもって相手を裁いているとき、本当に相手のことを考えてそうしているかと言えば、必ずしもそうではないのです。「あなたのためを思って、言ってあげているの!」と口にしていたとしても、私たちはそこで、「本当にそうなのか」と自らに問いかけなくてはならないのです。実際、正しい主張をしている自分自身が、「愛に従って歩んでいない」ということが起こるからです。それゆえに、パウロは言っていたのです。「むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」。
そして、今日の聖書箇所においては、最終的にこのように語られているのです。「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(19節)。今日の説教題はここから取りました。今週は特に、この言葉を心に刻み、新しい週へと歩み出したいと思うのです。「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」。
実は、「互いの向上に役立つこと」というのは意訳なのです。原文では、「互いを建て上げること」と書かれているのです。建築物を建て上げるという意味の言葉です。
「建て上げる」という言葉は、お互いが未完成であることを前提としています。完成しているなら、もはや建て上げる必要はないのですから。お互いが未完成であることを認めて、お互いが完成へと向かうことができるように、お互いを建て上げることを追い求めようじゃないか。ここに書かれているのは、要するにそういうことです。
お互いの未完成な状態を裁き合っても、それはお互いが完成へと向かうためには、何の助けにもなりません。そんなことは分かり切ったことです。だから、裁き合うのではなくて、平和や互いの向上に役立つことを、完成へと向かうために役立つことを、追い求めようではありませんか。そのように聖書は私たちに語りかけているのです。
2024年7月17日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 32:1~14
出エジプト記 32:1-14
前回は25章をお読みしました。その直前、24章18節には、「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた」と書かれていました。そして、山に登ったモーセに、主は幕屋とすべての祭具の作り方、さらにはそれらを作成する技術者の任命に至るまで、細かい指示を与えた次第が、25章以下に記されております。前回はその冒頭部分をお読みしたわけですが、全体としては31章にまで至る、かなりの長さに渡って書かれています。その最後は、次のように締めくくられています。「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」(31:18)。
さて、今日お読みしたのは、その間に山のふもとにおいて起こった出来事です。「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て」と書かれていました。確かに、「四十日四十夜」というのはかなり長い期間です。もしかしたらもう帰って来ないかもしれない。人々がそう思ったとしても不思議ではありません。
そこで人々はモーセの兄であるアロンのもとに集まって来てこう言いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(1節)。この願いに応えて、アロンは若い雄牛の鋳像を造りました。そして、人々はその前に築かれた祭壇に献げ物をささげ、祭りを行ったのです。これが今日の箇所の前半部分です。
「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」と彼らは言いました。彼らが「先立って進む神々」の製造を求めた理由は何でしょうか。「エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」。これが彼らが示した理由でした。ここでモーセは「エジプトの国から我々を導き上った人」と表現されています。それは確かに間違いではありません。しかし、モーセは自分自身の力と働きによって、彼らをエジプトから解放したのでも、荒れ野の旅を導いたわけでもないのです。
それはモーセの力ではなく、神の恵みの御業に他なりませんでした。イスラエルの民は、その神の恵みを見せていただいたはずなのです。そして、彼らを解放し彼らをシナイ山まで導き上ったのが神の恵みによるならば、そこから約束の地へと導かれるのも同じ神の恵みによるのです。そのような神と民との関係は、本来、モーセがいるから成り立つのではありません。モーセがたとえどうなろうと、彼らと神との関係は変わらないはずなのです。
しかし、イスラエルの人々には、結局、モーセしか見えていませんでした。彼らがモーセという人間にしか目を向けていなかったという事実が、いみじくもここで明らかになったと言うことができます。それは、モーセの姿が目の前から失われることによって、明らかになったのです。モーセは帰って来ませんでした。もしかしたら、二度と帰って来ないかもしれません。彼らは動揺しました。そして、モーセが失われることによって、主に信頼して生きる生活も、神の民としての秩序も崩壊してしまったのです。
これがいかに私たちにおいても身近な問題であるかは、私たち自身の教会生活を考えれば分かります。もし牧師であれ、尊敬できる信仰者であれ、キリスト教学校の先生であれ、そこに人間しか見えていなければ、同じことが私たちにも起こります。教会の中に「人間の集まり」しか見えていなければ、同じことが私たちにも起こります。人間との関係が揺らぐと、信仰生活そのものが揺らいでしまう。指導者との関係が揺らぐと、共同体の秩序も、共同体における生活も、揺らいでしまうのです。
結局、目に見える人間と目に見える出来事にしか目を向けない生活は、目に見えるものによって揺さぶられることになるのです。私たちは、目に見える人間やこの世界の出来事を通して働かれる神の御業、神の恵みの御業にこそ目を向けなくてはならないのです。神様が恵みをもってなされたこと、神様が今なさっていること、そして神様が成し遂げようとしておられることにこそ、思いを向けなくてはならないのです。本来、信仰生活とは神の恵みの御業に目を向けてこそ初めて成り立つのです。神への信頼と従順とは、神の恵みへの応答だからです。ただ人間との関係によって成り立つ従順であるならば、その関係が失われた時に、その従順も失われます。それはある意味では至極当然のことなのです。
モーセを見失ったイスラエルの民は「先立って進む神々」を求めました。不思議だと思いませんか。モーセという指導者を失って、他の別の指導者を求めた、というのならまだ分かります。神の言葉に従って生きるために、モーセに代わる他の人を求めたというのなら話はまだ分かります。しかし、彼らは「先立って進む神々」を求めたのです。
「先立って進む」と言いましても、「造ってください」と言うのですから、それは所詮人間が造るものでしかないのです。人間が造ったものが、先立って進むわけないじゃないですか。実際、アロンが造ったのは子牛の像なのです。子牛の像は先立って進みません。そんなことは彼らも分かっているのです。造ったならば、結局自分たちが運ぶのです。それは自分たちが望むところに運んでいけるものなのです。
そのような像によって、人は従順を要求されることはありません。モーセという指導者がいたからこそ成り立っていた従順な生活。それが失われた時、彼らはそこで、従順を要求されない神、自分たちにとって都合の良い神を求めたということです。
それは彼らの行為にも現れています。彼らは子牛の像の前で「主の祭り」を行いました。そこで彼らは犠牲をささげます。そして「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」と書かれております。「戯れた」という言葉が具体的にどのような行為を指すかは不明ですが、それが何であれ、神の恵みへの応答ではなく、神への感謝から生まれた行為ではないことは明らかです。恵みの応答ではない祭りや礼拝は、結局は「戯れ」にしかならなかったのです。このように、モーセが失われた時、信頼と従順の生活も失われたのでした。神の恵みに目を向けていなかったからです。
さて、山の麓から山の上へと目を移しましょう。今日の朗読箇所の後半部分である7節以下には、山の上における主とモーセのやりとりが記されております。主はモーセに言われました。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる」(7‐8節)。
ここには主とイスラエルの民との断絶が言い表されています。もはや主はイスラエルの民を「わたしの民」とは呼びません。7節には、直訳すると、「あなたがエジプトの国から導き上った《あなたの民》」と書かれているのです。
神はそのような民に対する裁きを宣告されます。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」(9‐10節)。
これに対してモーセは主をなだめて、民のために執り成しました。彼はあくまでもイスラエルが神の民であると訴えます。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか」(11節)。そして、「どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」(12節)と願い求めたのでした。この執り成しと説得のゆえに、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(14節)。これが後半部分に書かれていることです。
よくよく考えると、そこには実に奇妙なことが書かれていると思いませんか。私が奇妙だと言いますのは、神様がモーセの説得に屈して思い直したことではありません。それよりも奇妙なことが書かれているのです。主がモーセに対して「直ちに下山せよ」と命じていることです。
神様は彼らを「滅ぼし尽くす」と言っているのです。そして、モーセだけを残し、彼から新しい民を造ると言っているのです。しかし、もしそのつもりであるなら、どうして「直ちに下山せよ」と命じる必要があるでしょうか。滅ぼされる民のところにモーセを戻しても意味がないでしょう。さらに言うならば、そもそも、どうして民を滅ぼそうとしていることをモーセに告げる必要があるでしょう。
主はわざわざ御自分の怒りを露わにされ、イスラエルに対する裁きを宣告されるのです。まるで、モーセが執り成すことを期待しているかのようです。モーセがまだ引き留めてもいないのに、「今は、わたしを引き止めるな」と言われる。おかしいではありませんか。まるでモーセが引き留めることを期待しているかのようです。
そのように、ここに書かれていることは実に奇妙なことなのですが、この箇所について思い巡らしていますと、聖書の他の様々な箇所が思い浮かんでまいります。ここだけじゃない。同じことを、主はイザヤになさいました。エレミヤになさいました。エゼキエルになさいました。アモス、ホセア、ミカ、などなど、要するに預言者と呼ばれる人々に対して、主は同じことをなさったのです。民の罪を明らかにし、民に対する裁きを明らかにし、滅ぼすと宣言した上で、なぜか神は預言者を人々に遣わされるのです。実に、ここに見る主の姿は、聖書全体を貫いているのです。
神は背いた民を裁いて滅ぼすことを願ってはおられないのです。主が願っておられたのは、人々が主に立ち帰って生きることなのです。背く人々のもとにモーセを遣わし、背く人々のもとに預言者を遣わされたということは、神が彼らを決して見捨ててはおられないことを意味しているのです。神のもとには赦しがあり、救いがあるということなのです。
そのような神であるからこそ、最終的にはイエス・キリストを遣わされたのです。イエス様は言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26:27‐28)。今もなおそのように私たちに語られているのです。神は私たちを決して見捨ててはおられません。ここに聖餐卓が変わらず置かれていること、今もなお教会において主の御言葉が語られ聖餐が行われていることは、そのしるしなのです。私たちはそのしるしが指し示している神の恵みに立ち帰り、その恵みに目を向けて歩み続けるのです。
2024年7月14日日曜日
「嵐の中にある平安」
使徒言行録 27:33-44
本日の第2朗読では、使徒言行録27章が読まれました。そこでパウロは人々に食事をするように勧め、こう言っています。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(33-34節)。
これは航海中の船の上での一場面です。実は、パウロは無実の罪で捕らえられ、ローマに護送されている途中なのです。その一囚人であるパウロが、どうして人々に食事を勧めているのか。そもそも、どうして人々は二週間も不安のうちに何も食べずに過ごしてきたのか。ここに至るまでの経緯を、先に簡単に見ておきたいと思います。
暴風に巻き込まれた船
パウロがカイサリアからローマに護送される途中、彼らは「良い港」と呼ばれるところに寄港しました(8節)。既に秋も深まり、航海が危険な季節に入っていました。そこでパウロは人々に忠告して言いました。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります」(10節)。しかし、その港は冬を越すのに適していませんでした。結局、大多数の者の意見により、出航することになりました。
続く出来事は次のように記されています。「ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ」(13節)。南風が吹いてきました。順風です。順風が吹くと、人は順風満帆に「望みどおりに事が運ぶ」と考えるのです。しかし、往々にして事は人間の望みどおりには運びません。話はこのように続きます。「しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き下ろして来た」(14節)。こうして、船は嵐に巻き込まれることになりました。
ひどい暴風に悩まされた人々は、翌日には積荷を海に捨て始め、三日目には船具をさえ投げ捨てるに至りました。そのままでは船が沈んでしまうと思ったからです。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていました。そのような中、人々を励まし支えたのは船長ではなく、同船していた百人隊長でもなく、一囚人であったパウロだったのです。
そのような日が続き、暴風に巻き込まれ海上を漂流し十四日が経ちました。十四日目の真夜中ごろ、船員たちは船がどこかの陸地に近づいているように感じました。そこで水深を測ってみると20オルギィア(約37メートル)あることが分かりました。少し進んでまた測ってみると15オルギィア(約28メートル)となっています。船がかなりの速度で陸に近づいていることは明らかでした。しかし、暗礁に乗り上げてしまっては大変です。彼らは船尾から錨を四つ投げ込み、船が進むのを止め、夜の明けるのを待つことにしました。
最初に読みましたのは、そんな長く暗い夜が明けかけたころの船上での出来事です。そこでパウロは一同に食事をするように勧めます。そして、言いました。もう一度お読みします。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(33‐34節)。こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを割いて食べ始めました(35節)。そして、一同も元気付いて食事をしたのです。
長い夜を過ごして
さて、今日の聖書箇所の最初の部分だけを読みますと、助かる望みを失っていた人々の心に希望の光が差し込んできたという場面に見えなくもありません。助かる望みを失っていた人々に、陸地が近づいていることが知らされました。そして待ちわびた夜明けが、ついに訪れたのです。やっと安心して食事をすることができた。人々が元気づいたのは自然のことのように思えるかもしれません。
しかし、注意深く読みますと、今日お読みしたのはそのような場面ではないのです。41節をご覧ください。「船尾は激しい波で壊れだした」と書かれています。夜は明けたけれど、嵐が止んだわけではないのです。依然として船を破壊するほどの、激しい嵐は吹き荒れているのです。
しかも、今日の聖書箇所の直前には、こんなことが書かれているのです。「ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った」(30‐31節)。船員が夜明けを待たずに船を捨てて逃げ出そうとしたというのです。何を意味しますか。このまま船に残っていたら危ないと見たということでしょう。
航海のプロである船員たちは、この嵐の中では船がもはや朝までもたないと判断したのです。既に船の一部が破損しかかっていたのだと思います。実際、「船尾は激しい波で壊れだした」と書かれています。船尾は暗礁によって破壊されたのではないのです。波のために壊れだしたということは、既に壊れかかっていたということです。そんな船に残っているよりは、逃げ出した方がよい。どんなに危険であっても、自殺行為であったとしても、夜中に小舟を出して逃げる方がまだ安全だと船員たちは考えたのです。
そんな船の中で、彼らは長い夜を過ごしていたのです。激しい風と波に揺さぶられながら、いつ船が壊れるかと怯えながら、長い夜を過ごしていたのです。そして、やっと夜が明けかけたとはいえ、依然として嵐の中にあることには変わらない。命の危険に晒されていることには変わりないのです。
嵐の中での食事
そのように、彼らはやっと安心できる状況になったから食事ができたということではないのです。希望が見えてきたから一同が元気づいたということでもないのです。状況を考えるならば、彼らは依然として不安と恐れをかかえているのです。ですからここに書かれていることは決して自然なことではありません。実に不思議な特別なことが起こっているのです。
怯えながら長い夜を過ごした人々のただ中に、パウロの声が響きます。「どうぞ何か食べてください」。食事どころではない危機的状況のただ中でパウロは「一緒に食事をしましょう」と言うのです。
そして、パウロは一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めました。それはユダヤ人が普通に食事をするときの所作です。しかし、そこで使われている言葉は、ある特別な食事を思い起こさせる言葉でもあります。この「パンを取り」「感謝の祈りをささげ」「(パンを)裂いた」という三つの言葉。それはイエス様が十字架にかけられる前に弟子たちとなされた最後の晩餐の場面に出て来る言葉なのです。
パウロは、これまで幾度となく教会の兄弟姉妹と共に聖餐を行い、パンを裂いてきたのです。そのように、ここでも同じようにパンを裂いて食べているのです。つまりパウロは、教会でいつも他の信仰者と一緒にしてきたことを、ここでも同じようにしているということです。パウロは、教会においてキリストと共にあるように、この嵐の中の船においてもキリストと共にあるのです。人々はそこにただ囚人パウロを見ているのではありません。キリストと共にいるパウロを見ているのです。いや、パウロと共におられるキリストを見ているのです。
そこで彼らもまた食事をします。パウロと共に、いや、パウロと共におられるキリストと共に食事をしているのです。だから「一同も元気づいて食事をした」と書かれているのです。それは特別なことなのです。
それゆえに、この嵐の中で行われた食事は、キリストと共にあることがどういうことか、キリスト共にあって食卓を囲むということがどういうことかを、後の時代の人々にも指し示す出来事になりました。実際、そこに見るのは私たちの姿でもあるのでしょう。私たちが日曜日に集まって礼拝を行うこと、そこで聖餐にあずかるということは、こういうことではありませんか。
私たちは嵐が吹き荒れるこの世界のただ中で聖餐という食事をするのです。実際に聖餐を行わない今日のような主日でも、それでも私たちは聖餐卓のあるところに集まるのです。それは特別な意味を持つ出来事なのです。時代が時代なら迫害という嵐の中で教会は食事をしてきたのでしょう。あの船の中の人たちがそうであったように、私たちも時には不安を抱えたまま、恐れを抱いたまま、聖餐卓のあるこの場所に身を置くのでしょう。彼らがそうであったように、希望の見えないまま長い夜を過ごして、依然として希望の見えないまま日曜日がやってきて、ここに身を置くこともあるのでしょう。
しかし、そこで特別なことが起こるのです。今日お読みしたこの食事の場面には不思議な静けさと平安と希望が満ちていると思いませんか。まるで嵐が既に止んでしまったかのようです。現実には嵐の中で命の危険にさらされているにもかかわらず!しかし、そのようなことが起こるのです。彼らは、もはや嵐に支配されてはいないのです。風にも波にも支配されてはいないのです。夜の暗闇にも支配されてはいないのです。まことの主、キリストが共におられるからです。
そこで行われるのは神の国の食事です。嵐よりも強く大きな神の支配の中で食事をするのです。だから、命の危険にさらされている人々であるにもかかわらず、「そこで、一同も元気づいて食事をした」と書かれているのです。そうです、私たちもまた、そのような主の食卓へと繰り返し招いていただくのです。この世界に何が起ころうとも、私たちの人生に何が起ころうとも、日曜日は必ず来るのです。そして、私たちは主の食卓へと招かれる。私たちが主の招きを軽んじない限り、いかなる嵐の中にあっても平和に満ちた食卓が私たちの人生から失われることはないのです。日曜日の礼拝とは、そのような場所なのです。
2024年7月10日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 25:1~9
出エジプト記 25:1‐9
私たちは今日、出エジプト記25章の冒頭部分をお読みしました。この章以降には、幕屋の建設、契約の箱や祭具の製造についての指示が記されております。そして、35章以下には、実際にその指示どおりに、イスラエルの民が幕屋を建設し、祭具を整えた次第が記されております。実に細々としたことが延々と書かれていますので、退屈に思う方もあるかもしれません。これまでの、エジプト脱出のドラマチックな物語とは対照的です。聖書通読を試みる人は、たいてい最初にここでつまずきます。しかし、このような箇所も聖書の一部です。軽んじてはなりません。私たちは、今日、特にこれらの記述に関して三つのことを心に留めたいと思います。
私たちはまず、幕屋の建設と祭具の製造が、《神の命令に従ってなされた》ということを心に留めなくてはなりません。次のように書かれております。「わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(9節)。幕屋は礼拝の場所です。祭具は礼拝に用いるものです。礼拝は神の関心事です。いかなる仕方で礼拝されるかに、神は極めて深い関心を持っておられます。モーセを通して実に細々としたことを指示なさったほどに!
この礼拝に関する記述が出エジプト記の最後の大きな部分を占めていることは注目に値します。出エジプト記と言いますと、エジプトに下された災いや葦の海の奇跡などが思い起こされますが、それよりも大きな部分が礼拝に関する記述のために割かれているのです。ここに出エジプト記の重点があることは明らかです。イスラエルの民は確かに苦役から解放されました。しかし、神がイスラエルの民をエジプトから導き出されたのは、単に苦役から解放するためではないのです。神はイスラエルの民に十戒を与えました。しかし、出エジプトの目的は、ただ律法に従順な民を生み出すことではないのです。神がイスラエルの民を神ならぬファラオの支配から解放したのは、この25章以下の命令を与えるためでした。すなわち、まことの王である主を礼拝する民とするためであったのです。彼らは主を礼拝する民となるために救われたのです。
主を礼拝する民とされた彼らに、主は幕屋と祭具の作り方を指示されました。彼らは、自分たちの宗教的欲求を満足させるために、自分たちの好みに従って幕屋や祭具を作ることは許されませんでした。あくまでも神の命令に従って作ることを求められたのです。既に申しましたように、礼拝に関しては、神の求めが先にあるからです。ですから、神の求めることが実現されなくてはならないのです。言い換えるなら、礼拝においては、人間の欲求の充足や人間の願望の実現が第一のことではないということです。
しかし、そんな当たり前のことが、しばしば忘れられてしまうことも事実です。自分の願いや欲求が礼拝において満たされるかどうかが、一番大事なことのように思ってしまいます。「どんな礼拝を《わたしは》望んでいるか」ということしか考えられなくなってしまいます。
実は、イスラエルの民も同じでありました。典型的な失態が、この後に出てきます。イスラエルの民が、雄牛の鋳造を作って拝んでしまうのです(出エジプト記32章)。彼らが雄牛を作ったのは、神が命じられたからではありません。その像は自分たちのために造ったものです。彼らは雄牛の前に祭壇を築いて熱狂しました。彼らはこれを「主の祭り」(32:5)と呼びました。しかし、いかにその名称が「主の祭り」とされ、熱心に行われたとしましても、それは異教の祭り以外の何ものでもありませんでした。そして、このような過ちがイスラエルの歴史において繰り返されてきたのです。
このような礼拝に関する指示が、あえて聖書の中に延々と記されている理由がそこにあります。もちろん、ここに記されていることが、今日そのまま行われるわけではありません。しかし、礼拝に関しては、まず神の求めが先にあるのだ、ということを私たちが思い起こすためには、このような箇所をじっくりと読む必要があるのです。
次に、私たちは、この礼拝の場所、「聖なる所」が、特に「幕屋」と呼ばれていることを心に留めたいと思います。「幕屋」と訳されている言葉は、「住む」という言葉に由来します。「住まい」という日本語が一番ぴったりくるかもしれません。
神は「住まい」を求められました。しかも、イスラエルの民の手によって造られる住まいを求められたのです。主はその作り方まで指示されました。しかし、その作り方に従って造り上げられるものは、決して巨大な神殿の類ではありませんでした。まさに「幕屋」という訳語が示しているように、移動可能な組立式のテントのようなものです。よりによって、どうして主はそのような住まいを求められたのでしょうか。
そもそも、神が住まいを必要とされること自体が奇妙です。預言者イザヤの書には次のように記されております。「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿(直訳は「家」)を建てうるか」(イザヤ66:1)。これが本当ではありませんか。本来、人が神の住まわれる家など、建て得ようはずがありません。しかし、それにもかかわらず、イスラエルの民に、主の方から、移動式の住居を造ることを求められたのです。そして、言われたのです、「わたしは彼らの中に住むであろう」と。
主が住まいを求められたのは、明らかに御自分のためではありません。神は人の手で造った住まいなど必要ではないのです。それを必要としていたのは神ではなく、むしろ人間の方です。イスラエルの民は、やがてシナイから旅立って、約束の地へと向かいます。彼らは荒れ野の旅を続けます。彼らは荒れ果てた大地の上で生きていかなくてはなりません。餓えががあります。渇きがあります。争いがあります。他者の罪と自らの罪のゆえに苦しみます。まことに大地の上で営まれる生活は苦悩に満ちています。しかし、主はその同じ大地の上に建てられた幕屋に住まうと言われたのです。いわば、主は天幕住まいの生活につきあってくださるのです。地上における生活に、主が徹底的に関わってくださることを、地上の幕屋を造らせることによって、イスラエルにお示しになられたのです。
これがイスラエルの民が私たちに伝えてくれた、主なる神の姿です。そして、私たちはさらにイエス・キリストにおいて、同じ主なる神の姿に出会います。私たちは、キリストにおいて、地上を歩まれる神に出会います。キリストにおいて、苦悩に満ちた地上の生を共有される神に出会います。いや、罪の裁きとしての死さえも共有してくださる神に出会うのです。主は大地の上に生きる私たちに、徹底的に関わってくださる御方です。
さらに、私たちは教会において、同じ主なる神の姿に出会います。地上における信仰者の共同体は、まことに破れの多い幕屋です。荒れ野の幕屋よりも、よほどこちらの方が見窄らしいに違いありません。しかし、この地上に存在する教会に、信仰者の交わりの中に、主は住んでくださると言われるのです。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)。イスラエルと共に荒れ野を旅された主は、私たちのただ中にもお住まいくださるのです。そこには限りない主の謙りがあります。そして、限りない主の慈しみがあります。そのことのゆえに、この幕屋が「聖なる所」となり、地上に生きる私たちの礼拝の場ともなり得るのです。
最後に私たちは、主が「わたしのもとに献納物を持って来させなさい」と命じておられることを心に留めたいと思います。それは幕屋や祭具を造るためです。幕屋や祭具は、人々が進んで心からささげる献納物によって造られるのです。
当然のことながら、「進んで心からささげる」という行為は、神への感謝から生まれるものです。神への感謝は、神の救いの恵みへの応答です。既に見ましたように、神の住まいは神の命令に従って造られます。しかし、その材料は感謝によって備えられねばなりません。神の家は、感謝と従順とが一つとなるところに建て上げられるのです。
救いの応答として自発的にささげられるべきものは、「金、銀、青銅云々」と3節以下に記されております。それぞれ貴重な品々です。実際に、人々がささげる様子を記した箇所を読んでみますと、例えば次のように記されています。「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。進んで心からする者は皆、男も女も次々と襟留め、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えて来て、みな金の献納物として主にささげた」(35:21‐22)。不必要なものや余り物を持ってきたのではありません。まさに自発的にささげるということは、為しえる最高のものをささげることでもあったのです。
しかし、考えてみますならば、人にとって最高のものであれ、いかにこの世において貴いものであれ、それ自体が神の栄光に相応しいものなどあり得ません。そもそも、天地の造り主であり、真の所有者であられる御方が、その住まいのために、どうして人から材料を提供されねばならないのでしょう。イスラエルの民が提供し得るものよりも、はるかに良き材料を自ら用意することがおできになるのに!しかし、主はあえて民が進んで心からささげる献納物をお用いになられたのです。主が献げ物を受け取ってくださること自体が、主の恵みでありました。その住まいの建設に用いてくださること自体が、主の豊かな恵みであったのです。
「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(1ペトロ2:5)。後にペトロがこのように書いています。この言葉によるならば、神の家を造り上げる材料は私たち自身です。神の救いの恵みに感謝して、進んで心から献げる私たち自身です。もとより、神の家を造り上げるならば、神御自身がもっと良い材料を用意することはできるでしょう。にもかかわらず、主は私たちを神の家を造り上げる石として用いてくださるのです。私たちが、地上における神のすまいの一部とされているということは、なんという光栄に満ちたことでしょうか。
2024年7月7日日曜日
「死から命へ」
ヨハネによる福音書 5:19-30
自分を殺そうとしている人々に対して
今日は5章の途中からお読みしましたが、この章の始めの部分には38年病気で苦しんでいた人をイエス様が癒されたという話が書かれています。しかし、それはユダヤ人の戒律においては労働が禁じられている安息日のことでした。病人を癒すことは、当然、禁じられている労働を行ったと見なされます。それゆえにユダヤ人たちはイエス様を責めたのです。
すると主はこのように言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)。「わたしの父」とは神を指していることは明らかです。ユダヤ人の社会においてここういうことを言えば、ただでは済まされません。今日の箇所の直前にはこう書かれています。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」(18節)。
今日の聖書箇所は、そのような理由で、殺意さえ抱いている人々に語られたイエス様の言葉です。主はこう続けます。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(19節)。彼らにこんなことを語れば、火に油を注ぐことになるのは明らかです。しかし、イエス様は御自分の身を危険にさらすことになるのを百も承知でこう言われるのです。憎まれようが殺されようが、あくまでも父がこの世に遣わされた神の子として語られるのです。なぜなら、これは永遠の救いと裁きに関わることだからです。私たちはイエス様が自らの命を賭して、いったい何を語ろうとしたのか、真剣に耳を傾けなくてはなりません。
父を知りたければ子を見なさい
主は言われました。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」(19-20節)。これが父なる神と御子なるイエス様との関係だと主は言われるのです。
神は目に見えません。それは単に肉眼で見えないというだけでなく、神を知ることはできない、ということでもあります。神御自身についても、神のなさることについても、それは私たちの理解を超えているからです。そして、それは当然のことなのです。神は創造主であり私たちは造られたものに過ぎないからです。
しかし、ここに神を「わたしの父」と呼ばれる方がおられるのです。そして、「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」と言うのです。それは何を意味していますか。イエス様がなさっていることはすべて、父である神がどのような方であるかを、目に見える姿で表しているのだということです。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」。いわば、神がどのような方かを知りたければ、わたしのしていることを見なさい、と主は言っておられるのです。
先にも触れましたように、この章の始めの部分には、38年もの長きにわたって病んでいた人を主が癒されたという話が書かれています。そこにはこう書かれていました。「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(5‐6節)。 そして、その人は癒されました。
これは、大勢の病人の中のたった一人に対してなさったことに過ぎません。しかし、この行為もまた、主が言われるように、父なる神がどのような方であるかを表しているのです。神は人間の苦しみを見て、知って、その上で関わってくださる。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」。福音書はイエス様の言葉だけでなく、その生きる姿を伝えます。その御子の姿を通して私たちは父なる神を知るのです。
そのように「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示される」。イエス様は示されたとおりになさいました。ベトザタの池における癒しの業などは、まさにそのような御業の一つでした。しかし、父なる神がイエス様にさせようとしていたのは、そのような癒しの業に留まりませんでした。イエス様はこのように言葉を続けられます。「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」(20節)。
死から命へと移っている
イエス様が父なる神から示されて為されるもっと大きな御業があると言うのです。癒しの業はそのしるしであるに過ぎません。イエス様が託された大きな御業とは何でしょうか。21節以下には2つのことが書かれています。「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(21節)。これが第一のことです。第二は次のように書かれています。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」(22節)。
第一の御業、「命を与える」ということについては、24節以下においてイエス様御自身が次のように語っておられます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(24‐25節)。
さて、ここで語られている「死」とは、明らかに、すべての人に例外なく訪れる肉体的な「死」のことではなさそうです。いったい「死」とは何でしょう。
ある時にイエス様はこんなたとえ話をなさいました。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった」(ルカ15:11‐12)。下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ちます。ご存じ「放蕩息子のたとえ」です。しかし、本当の問題は息子が放蕩していたことではありません。父から離れていたことです。そして、父から離れていた息子が帰ってきたとき、迎えた父親はこう言うのです。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(同23‐24節)。
息子は生きて帰って来たのですから、その意味では息子は死んではいませんでした。しかし、父との関係においては「死んでいた」のです。父にとっては、父から離れていた息子は「死んでいた」のです。イエス様のたとえ話が語っているのは神と人との関係です。聖書が語る「死」とは、神によって造られた人間がその命の源である神から離れていることです。神との交わりの喪失です。ならば、体は生きているけれども霊的には死んでいるということがあり得るわけです。パウロもエフェソの信徒たちに宛てて次のように書いています。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2:1)。
イエス様に癒された病人のように、奇跡的な癒しを経験することは喜ばしいことではあります。しかし、癒された人もやがては肉体的には死んでいくわけです。癒しそのものは死を越えた命を与えるものではありません。イエス様は「命を与える」と言われたのです。それは永遠なる神との交わりによって与えられる命です。死によって失われない命、永遠の命です。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」そう主は言われました。
神の子の声が響いています。今もなおこの世界に響き渡っています。十字架にかけられ、死んで復活された神の子の声が響き渡っています。その声が死んだ者に届きます。罪の赦しを与え、父のもとへと招く声として、神の子の声が届きます。そして、その声を聞いた者は生きるのです。その声を聞いて、子を遣わされた父を信じる者は永遠の命を得るのです。その人は既に死から命へと移っているのです。体が生きようが死のうが、既に死から命へと移っているのです。
「死から命へと移っている」ことについては、そこに「裁かれることなく」と言い添えられていました。なぜ、裁かれないのでしょうか。裁きは一切子であるキリストに任されているからです。主が第二の御業としてこう言っておられたとおりです。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。
ある人が「人生はレストランのようなものだ」と言いました。好きなものを好きなだけ注文することができる。しかし、やがてレジを通らなくてはならない。私たちはどう生きようと自由である。しかし、生きたように支払わなくてはならない。――それは正しいとも言えるし、正しくないとも言えます。人生の終わりをレジに喩えるなら、それは正しくありません。人は必ずしも自分が生きたように、そのツケを払って死んでいくわけではありません。人生の終わりは必ずしも審判の時ではありません。
しかし、正しい神がおられる限り、最終的な審判は当然あるのでしょう。それをイエス様は次のように表現しています。「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」(29節)。イエス様ははっきりと言っています。人は死んで無になるのではない。私たちの人生は、死んですべてがチャラになるわけではありません。イエス様は、最終的に人は命を受けるか裁きを受けるかのいずれかだと言われるのです。しかし、そこでイエス様はこう言われるのです。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。
イエス様は、御自分が裁きの一切を任されたのだと言われるのです。そして、最終的に裁きを行う権能を託された方がこう言われるのです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と。
私たちは最終的な審判に至る前に、既に審判者の声を聞いているのです。神の子の声を聞いているのです。救いへの招きを聞いているのです。それゆえに、どのような人であっても、信じて父なる神に立ち帰るならば、神と和解し、神との交わりに生きることができるのです。最終的に裁きを行う方が「裁かれることはない」と言われるならば、もはや誰も罪に定めることはできません。自分の罪を知る自分自身でさえ、自分を罪に定めることはできないのです。最後の審判を待つまでもなく、既に死から命に移っているとはそういうことです。私たちはその恵みの中にいるのです。
2024年7月3日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 24:1~18
出エジプト記 24:1-18
二回にわたって十戒の内容について学びました。続く20章22節以下は23章の終わりまで一つのまとまりをなしていて、この部分は「契約の書」と呼ばれます。今日お読みした24章において、モーセが「契約の書を取り、民に読んで聞かせた」(24:7)と語られているのは、この部分であると言われます。この「契約の書」については、各自読んでおいてください。今日はその部分を飛ばして、24章に入ります。
1節と2節には後で戻ってくるとして、契約の締結の場面である3節から8節までを先に見ておきたいと思います。
「モーセは戻って」、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせました。この「すべての言葉」は、20章に記されていた十戒、そして、「すべての法」は20章22節以下の「契約の書」を指すものと考えられています。これを読み聞かせられたとき、「民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った」(3節)と書かれています。
この民の応答の仕方、そして応答の言葉は極めて大きな意味を持っています。すでにこれは19章8節に出て来ています。「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは主が語られたことをすべて、行います』と言った」。なぜ、これが重要かと言うと、ここにおいて民が一つとなるとはどういうことかが明らかに示されているからです。
神が契約を与えられ、民は契約を与えられた者として生きる。そこで民は一つになるのです。このことをさらに明らかにしているのが続くモーセの行為です。「モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた」(4節)。ここに「イスラエルの十二部族」という言葉がこの物語においてはじめて出てきます。これから、この十二部族ということが大きな意味を持ってきます。もともとイスラエルは「部族」の集まりでした。その十二の部族がどのようにして一つの「民(アム)」となるのか。それは「契約」によってなのだということが、続く行為においてはっきり示されているのです。
その契約についてここで強調されているのは「血が振りかけられた」ということです。「彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』」(5-8節)。
「焼き尽くす献げ物」は全部を焼き尽くす捧げ方です。「和解の献げ物」の場合は、脂肪を捧げて、残りは共に食べるのです。だから後で「食べ、また飲んだ」という表現が出てくるのです。しかし、ここで重要なのは、捧げる行為そのものではありません。契約を結ぶ際に、犠牲が屠られたということです。そこで血が流されたということが大きな意味を持つことになるのです。
その意味するところは何なのか。それは後に明確に語られることになります。その第一の意味は、後にレビ記において明らかにされます。それは「罪の贖い」です。
イスラエルの民は「契約」を与えられます。そして、宝の民、祭司の民とされるのです。祭司の民が必要なのは、この世界が神に背いているからだ、と以前申し上げました。しかし、イスラエルの民はもともとこの世の一部であったのです。エジプトにおいて、エジプトの神々を拝み、神に背いて生きてきたのです。それがそのまま神の民となれるはずがない。神との特別な関係に入れるはずがない。それは明らかです。そこには既に罪による断絶があるのです。だからまず、罪が贖われ、清められねばならないのです。本来ならば神に裁かれて死ぬべきものが、代わりに動物が死ぬことによって、生かされるのです。それが契約の前提となっているのです。そのことを通して初めてイスラエルは神の民とされることができるのです。
それは新しい契約においてはより明確に語られています。私たちが今、新しい契約の民とされ、教会とされていることは当たり前のことではありません。私たちはこの罪の世界の一部だったのです。それが今、神の民として集められ、神を礼拝しているのは、イエス・キリストの血によって罪が贖われたからです。その罪の贖いなくして神との「契約」はあり得ないのです。
その第二の意味は、この契約において結ばれる神との関係は、まさに「命」によって表現されるものだということです。第一の意味として語られたことと関係しますが、レビ記には次のように語られています。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」(レビ記17:11)。
「命」である血の半分が祭壇に、すなわち神の側にかけられました。もう半分が民の側に振りかけられます。血に染まって真っ赤になりながら、そこにははっきりと神と人との間に、そして真っ赤に染まったお互いの間に、命の関係が結ばれたことが目に見える形で見てとれたことでしょう。すなわち、それがいかに重い関係であり、重く太い絆であるかということです。
その事実はまた、新しい契約においてはより明確になります。動物犠牲が指し示していたのはやがて流される神の子の血に他ならないからです。私たちと神とは、神の子の流された血、神の子の命によって結ばれているのです。そのようなとてつもなく尊い命の絆によって結ばれているということを、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」という主の御言葉により、聖餐の度に私たちは確認しているのです。
このことにおいて、キリスト教信仰というものが、単なる人間の宗教心と同一ではないことがはっきりと示されていると言えます。人間の宗教心と一緒なら、キリストの血が流されなくてもよいのです。聖餐によって繰り返し想起する必要もないのです。私たちはそのような人間の内にあるものではなく、とてつもなく重く太い絆を神との間に、また互いの間に与えられているのです。新しい契約として与えられているのです。
神が恵みによって与えてくださった契約を重んじること、またその契約に誠実であること。それが「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」という言葉によって表現されています。それは単に規定を守るという「お約束」ではありません。そこに言い表されているのは恵みによって契約を与えてくださった神への「従順」なのです。従順であるとは神の言葉を重んじ、神の言葉に聞き従うことです。教会において、聖餐が単独で行われることはありません。そこでは必ず聖書が朗読され、説教によって解き明かされるのです。それは聞き従うということと聖餐とは切り離されてはならないからです。
最初に見たように、この「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」という言葉を、「民は皆(直訳すれば「すべての民は」)」言ったのです。十二部族がそこで一つになったのです。契約の重さを認識し、その契約に誠実に生きるところにおいて、一つになったのです。民が一つになるとはそういうことです。それは教会が一つになるということも同じです。この契約の重さということを、イエス様が流してくださった血による契約の重さを本当に重んじてこそ、一つになれるのです。その重さを認識した上で、神に聞き従うつもりで、神の言葉に共に耳を傾けることなくして一つにはなれないのです。互いによく話し合って理解し合うことは大事かもしれませんが、それよりも大事なことは、「血による契約」ということを重んじることなのです。
さて、ここで1節に戻ります。モーセは既に次のように命じられていました。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない」(1-2節)
既に見て来たような契約締結の儀式を経て、既に命じられていたように、モーセたちは山に登っていきます。そして、そこには聖書の他の箇所には見られないような光景が描かれているのです。「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」(11節)。本来神を見たならば打たれて死ななくてはならないはずの彼らが生きているのです。それは「契約」が何であるかを象徴するような出来事でした。まさに神との親しい交わりが代表らによって経験されたのです。それはまだ代表だけでしたが、ふもとの民もまた、その出来事によって表されている神との関係にあずかっているのです。
しかし、今日の箇所は「血による契約」の締結について語られていながら、既にその関係に黒雲が影を落としているのを見ることになります。
ここでは、主のもとに登った人々のリストとして「アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老」という言葉が繰り返されています。この「ナダブとアビフ」というのは、アロンの長男と次男です。しかし、実際に祭司の家系の祖となるのは彼らではなく、三男と四男のエルアザルとイタマルです。それはなぜか。ナダブとアビフは神の言葉に従わず、打たれて死んでしまうからです。それゆえに、ナダブとアビフの名前が、あの時の幸いを経験した人々のリストに残されているのは、その意味では悲しい記憶でもあるのです。
さらに12節以下には、モーセが神の山に登っていくときに、長老たちにこう言ったことが記されています。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」(14節)。
モーセはこの後長く不在となります。しかし、それは彼らが指導者であるモーセに聞き従うのか、それとも神に聞き従うのかを問われることになる不在でもあったのです。そして、実際はどうであったか。この不在の期間を託されたアロンは、民の求めに応えて金の子牛を作ることになるのです。
契約を重んじなかった人々、契約によって与えられた幸いな関係を軽んじ、失っていく人々の姿。それはイスラエルの歴史を通じて見ていくことになります。なぜ「旧約」と「新約」があるのか。それは、イスラエルが契約を破ったからです。旧約聖書は、まさに破られた契約について語っているのです。しかし、神はそれをもって神の民の終わりとはされませんでした。この世界の救いを終わりにはされませんでした。神は新しい契約を与えてくださいました。このように与えられた新しい契約の中に私たちは生かされているのです。私たちが、御子の血によって与えられたこの契約を重んじて生きるとは、具体的にいかなることを意味するのでしょうか。