サムエル記上 23:1-28
ダビデの逃亡生活は続きます。アドラムの洞窟に難を避けていたダビデは、一旦モアブのミツパに行き、自分の両親の安全を確保した上で、ユダの地にあるハレトの森に身を隠しました。アドラムにいた頃からダビデのもとには困窮している者、負債のある者、不満を持つ者などが集まり始め、その数が400人ほどになり、さながらダビデを親分とするヤクザの一家のような集団を形成していたことは、先週お読みしたとおりです。今週の箇所に入りますと、その集団はさらに大きく膨れ上がり600人ほどになっていることがわかります(13節)。
そんなダビデのもとに、ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせが届きました。ケイラはアドラムの南方にあるユダの町です。ダビデにとって同族の町が危機にさらされていました。そこでダビデは主に託宣を求めました。
既にダビデのもとには預言者ガトだけでなく祭司アビアタルもおります。託宣は通常、祭司がエフォドに収められているウリムとトンミムによって問うのです。(ちなみに、6節で「アヒメレクの子アビアタルが、ケイラのダビデのもとに逃げてきたとき」と書かれていますが、逃げてきた時点では、まだダビデはケイラにはいなかったので、聖書の記述は若干出来事が前後しています。)
祭司を通してダビデが「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか」と問うと、主はダビデに答えられました。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え」。
ダビデがケイラを助けに行こうとしたのは、もちろん同族の危機を見過ごしにできないという道義的な理由によることは言うまでもありません。しかし、それだけではないのです。現実的なもう一つの理由がありました。それは「食糧」の問題です。
ペリシテ人が麦打ち場を略奪していることから分かりますように、時期はちょうど刈り入れの直後、麦打ち場に穀物がある時です。ダビデは彼らを守ってやることにより、その見返りとして共にいる600人を養うための食糧の提供を受けることができると考えたのだろうと思います。(ダビデはそのような方法によって従者の生活を支えていたことを、後に25章において見ることになります。)
しかし、そうとは言え、現実的に考えますならば、これは極めて危険な決断であったことは確かです。第一に、戦闘に入れば当然のことながらダビデの居場所がサウルに知られることになります。あえて居場所を知らせてやるようなものなのです。第二に、ダビデと共にいる者はの時点で六百人に膨らんでいるとはいえ、それでもペリシテの略奪隊と闘うには十分な戦力とは思えなかったに違いありません。
ですから、これはあまりにも危険すぎると、従者たちは考えたようです。「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか」(3節)。従者の言い分はダビデにも理解できたので、ダビデは再び託宣を求めることにしました。
すると、主は再び答えられました。「立て、ケイラに下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す」(4節)。「あなたの手に渡す」――これは主の戦いにおける決まり文句です。そこでダビデは、ついぞ忘れていた「主の戦い」の原則、そして「主による勝利」を再び思い起こします。ダビデは主に信頼し、兵を率いてケイラに下っていくのです。そして、結果的にはペリシテ軍に大打撃を与え、ケイラの住民を救うことができたのです。
さて、予想されていたように、ケイラでの戦いはサウルに知れるところとなりました。サウルにとっては、ダビデとその一隊が城壁のある町に籠城してくれる方が、荒れ野を逃げ隠れされているよりはありがたいことです。しかし、サウルが進軍してくることは、いち早くダビデの耳に入りました。そこでダビデは主に問います。「サウルはケイラに下って来るでしょうか」。主は「下って来る」と答えられました。そこでさらにダビデは問います。「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」。主は「引き渡す」と答えられました。
このエピソードは、この時のダビデの逃亡生活が極めて厳しい状況にあったことを示しています。彼はもはや同族の町、しかも助けてあげたばかりの町をも信頼することができない状態にあったのです。
しかし、ケイラの人たちの不義理と不人情を責めることもできません。ある意味でそれは無理もないことだったのです。既に祭司の町ノブが滅ぼされているのです。ただ一人の祭司がダビデにパンと剣を与えたという理由によってです。その悲惨な出来事をケイラの町の住人が知らなかったはずがありません。もしダビデの側につけば、ケイラの町自体、滅びることは免れないでしょう。結局ダビデはそこを逃れ、荒れ野をさまよい、ジフの荒れ野の山地に留まることになりました。
ダビデが国家のヒーローであった時には多くの町々、多くの人々がダビデを愛し、ダビデを称えていたものでした。しかし、ダビデが逃亡者だと知れた今、自らの身を危険にさらしてまでダビデを守ろうとする町はありませんでした。危機から救ってもらったばかりのケイラの町でさえそうだったのです。それがこの世の現実なのです。
しかし、そこで聖書は次のように語っているのです。「神は彼をサウルの手に渡されなかった」(14節)。最終的には人間がどうするかの問題ではないのです。主がどうされるかなのです。主はあくまでも計画を進められます。主はダビデと共におられ、彼を守られるのです。
そして、そのような状態にあったダビデに、主は深い慰めを具体的に備えておられたのです。ヨナタンが訪ねて来てくれたのです。逃亡しているダビデの居場所をサウルよりも早く突き止めることは極めて困難なことだったでしょう。しかも、単独で隊列から離れてダビデのもとに赴くことは非常に危険なことであったに違いありません。
しかし、ヨナタンはその危険を冒してまでしてダビデを訪れ彼を励ましたのです。「神に頼るようにとダビデを励まし…」(16節)という言葉は印象的です。まさにダビデに必要なことは、そのことだけだったのです。二人は主の御前で契約を結び、そして別れます。ここで交わした言葉は、二人にとって最後の言葉となりました。彼らはこの地上では、二度と顔を合わせることはありませんでした。
そのような慰めに満ちた一時があった一方、ジフの荒れ野はまたダビデにとって悲しみの場所ともなりました。同族のジフの人々もまた、ダビデをサウルに売り渡したのです。彼らはサウルに言いました。「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます」(20節)。ダビデはそのゆえに、さらに南方のマオンの荒れ野に逃れざるを得ませんでした。
サウルはそのことを聞き込み、ダビデを追跡しました。そして、ついに山をはさんだところにまで追いつめたのです。ダビデは急いで逃れましたが、既にサウルの兵はダビデを包囲していました。もはやダビデが捕らえられることは時間の問題でした。しかし、まさにその時、使者がサウルのもとに到着して告げたのです。「急いでお帰りください。ペリシテ人が国に侵入しました」(27節)。そこでサウルはダビデを追うことをやめて、戻らざるを得なかったのです。
ペリシテの侵入そのものは殊更に特別なことではありません。王国た絶えず経験してきたことでした。しかし、この瞬間に「ペリシテ人が国に侵入しました」というニュースが届けられたことには、まさに神の介入以外の何ものでもありませんでした。主は確かにダビデをサウルに渡されなかったのです。そのためには、ペリシテ人の侵略さえも用いられたのです。
サウルは「神がダビデをわたしの手に渡された」と言いました。実際、そのようにしか見えない状況だったのです。また、ジフの人々は「王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です」と言いました。それが世知辛いこの世の現実です。しかし、本当は人が何を言おうと何をしようと問題ではないのです。「神は彼をサウルの手に渡されなかった」からです。確かにヨナタンの言うとおり、ダビデに必要なことは、神に頼ることだけだったのです。