サムエル記上 26:1~25
今日の箇所を読むに当たっては、24章に記されていた出来事を思い起こす必要があります。その時、ダビデと600人の兵士たちはエン・ゲディの要害に潜んでおりました。洞穴の多いその地域は彼らが身を隠すのに絶好の場所でした。しかし、彼らの居場所が密告され、サウルは三千人の兵士を率いてダビデに追い迫ります。
その途中、サウルは洞窟を見つけ、そこで用を足すために入りました。しかし、なんとその洞窟の奥にはダビデと兵士たちが隠れていたのです。サウルを殺すには絶好のチャンスでした。兵士たちはサウルを殺すように勧めます。ところがダビデはサウルの上着の端を切り取っただけで戻ってきてしまったのです。ダビデはサウルに油注いで王とされた神を畏れたのです。
サウルが洞窟を出るとダビデも続いて洞窟を出て背後から声をかけました。そして、サウルを殺すことのできるところにいながら手をかけなかったことを示します。サウルは声を上げて泣いて言いました。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」と。
今日お読みした26章の内容は24章の話と非常に似通っていることがわかります。しかし、だからこそ私たちは両者の間に顕著な違いがあることを見落としてはなりません。そして、その違いにこそ、聞くべきメッセージがあるのです。
24章においては、サウルを殺す機会がいわば偶然に訪れました。サウルがたまたま用を足しに入ってきたのです。これに対して26章では、明らかに神の特別な奇跡として、神がなさったこととして、サウルを殺すチャンスが与えられているのです。これが注目すべき第一の点です。
サウルは前と同じように精鋭三千を率いてダビデを追ってきました。ダビデは斥候を出してサウルが来たことを確認しました。また自らサウルの陣営の近くまで行き、サウルとアブネルの寝場所を確定します。そして、夜になってアビシャイを伴ってサウルに近づいたのでした。
それは普通に考えるならば、極めて危険なことでした。「サウルは幕営の中で寝ており、兵士がその周りに宿営していた」(5節)と書かれています。三千もの兵士に守られているサウルに近づこうとしているのです。そのうちの一人にでも気付かれたなら、ダビデとアビシャイの二人など、たちどころに捕らえられるか、あるいはその場で殺されてしまうことでしょう。
しかし、なんと「アブネルも兵士もその周りで眠っていた」と書かれているのです。ただ一人さえも目を覚まさなかった。そんなことは通常あり得ないことでしょう。これは明らかに神の奇跡として描かれているのです。12節にこう書かれているとおりです。「見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もなかった。主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた」(12節)。
つまり、ダビデとアビシャイは、両方とも神の特別な御業を目の当たりにしているのです。奇跡の事実を見ているのです。ところが、興味深いことに、そこで両者の判断が分かれるのです。
アビシャイはダビデに言いました。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます」(8節)。つまり、アビシャイはこの奇跡を、《神が敵をダビデの手に渡されたのだ》と解釈しているのです。
一方、この事態が神によって起こっていることについてはダビデの見解も同じでした。しかし、ダビデはそれを「敵をあなたの手に渡された」とは解釈しなかったのです。サウルは敵ではないからです。「神が油注がれた方」なのです。ですからダビデは「殺してはならない」と言ったのです。「主が油注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」(9節)。つまりここで神の任職と油注ぎについてのダビデの信仰的な判断が生きているのです。
人は状況から単純に神の御心を判断してしまいやすいものです。特にそこに神の奇跡があり、明らかな神の介入がある時に、その出来事と神の御心を短絡的に結びつけてしまいやすいのです。
例えば、何か望んでいることがある時に奇跡的にお金が与えられたら、その望みの実現のためにお金を使いなさい、と神が言っておられると単純に考えるものでしょう。しかし、本当に大切なことは、そこにおいて本当に神が望んでおられることは何なのか、何が神の御前で正しいことなのかを考えられることなのです。
ダビデはアビシャイを制し、いわばアビシャイからサウルの命を守りました。それこそが、神の御前に正しいことであると信じたからです。彼はただ槍と水差しを取って立ち去りました。そして、ダビデは遠く離れた山の頂に立ち、そこから語りかけるのです。
そこで注目すべき第2の点は、ダビデが語りかけている相手が違うことです。24章では最初からサウルに語りかけていました。しかし、ここではアブネルと兵士に語りかけているのです。なぜ相手がアブネルであり兵士なのでしょうか。それは15節の言葉から明らかです。ダビデは、アブネルも兵士も死に値すると言っているのです。なぜなら、彼らはサウルを守れなかったからです。すなわち主が油注がれた方を守れなかったからです。
「敵兵が一人、お前の主人である王を殺そうと忍び込んだのだ」(15節)とダビデは言います。この場合、「一人」とはアビシャイのことです。ダビデは初めから殺すつもりはなかったのですから。それどころか、ダビデは油注がれた方を守ることができた唯一の人物だったのです。
サウルも兵士も、「ダビデは死に値する」と言って追っていたことを思い起こしてください。しかし、こうなった今、唯一死に値しないのはダビデだけなのです。彼の手元にある槍と水差しはそのことを雄弁に物語っていたのです。
この声の主がダビデであることにサウルは気付きました。ダビデはサウルに「なぜわたしを追跡なさるのですか」と問います。そして、さらにダビデは「わが主君、王よ。僕の言葉をお聞きください」と言って言葉を続けます。そこで語られる内容は24章の場合と大きく異なります。
24章では、「わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした」(24:12)と言っていたのです。つまり重要なポイントは、ダビデが「サウルに対して罪を犯していない」ということだったのです。しかし、26章においてダビデは、ただ「サウルに対して」罪を犯していないということを言っているのではないのです。
ダビデは言います、「もし、王がわたしに対して憤られるように仕向けられたのが主であるなら…」と。つまり、もしかしたら、サウルに対しての罪はなくても、神に対して罪を犯し、その結果、神がサウルを仕向けて憤らせているのかもしれない、ということです。もしそうならば「主が献げ物によってなだめられますように」(19節)とダビデは言います。この場合、問題は神とダビデの間のことなのであって、いずれにせよサウルはもはや怒る必要はないのです。
そしてさらに、「もし、人間であるなら」とダビデは言います。つまり、王がダビデに対して憤るように仕向けたのが神ではなく、ダビデを追放するために誰かが策略をめぐらしたのであるなら、ということです。もしそうならば、「主の御前に彼らが呪われますように」とダビデは言います。この場合も、サウルはダビデに対してもはや憤る必要はありません。誰かの策略なのですから。いずれにせよ、サウルがダビデを殺そうとする必要はないのだとダビデは言っているのです。
サウルは自らの誤りを認めました。そして言います。「わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。」しかし、ダビデはもはやサウルのもとには帰りません。ダビデは答えます。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。」ダビデにとって、サウルが「二度と危害を加えない」と約束してくれるかどうかは、もはや重要なことではないのです。
「この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない」という21節のサウルの言葉と、「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主も、わたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように」という24節のダビデの応答には決定的なずれがあることは注目に値します。
ダビデの命が守られるかどうかはサウルの決意や約束によるのではなく、神の約束とその真実によるということ――これがダビデがこの二回の出来事(24章と26章)を通して悟ったことでありました。そして、サウルはまだそのことを悟っていないのです。こうして結局、サウルとダビデは最後まで異なる道を行くことになります(25節)。そして、彼らはもはや二度と生きて相見えることはありませんでした。