2025年8月31日 主日礼拝説教
聖書:マタイ12:43‐50
汚れた霊が出て行くと
今日の福音書朗読の前半は、イエス様がなさったたとえ話です。こんな話でした。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(43‐45節)。
人が家に喩えられていますから、形の上では「たとえ話」です。しかし、汚れた霊が人から出て行ったり、戻ってきたりすること自体は、単純にたとえ話とも言えません。というのも、福音書には、実際にイエス様が「汚れた霊」あるいは「悪霊」を追い出したという話が繰り返し記されているからです。
度々申し上げていることですが、このような「汚れた霊」や「悪霊」に関する記述を読むにあたって二つの誤った態度があります。一つは、「悪霊」の類に過度に不健全な関心を向けることです。私たちの経験する災いをやたらに「悪魔」や「悪霊」の仕業と考えることは極めて不健全な信仰生活をもたらすことになります。聖書は悪魔や悪霊よりもはるかに多くの言葉をもって神様について語っていることを忘れてはなりません。
しかし、もう一方で、「悪魔」や「悪霊」を単なる前近代的な迷信として片付けてしまい、関心を全く向けないことも、健全であるとは思えません。なぜならイエス様は実際に「悪霊」について語り、使徒たちもまた語り、そして、教会が長い歴史において語ってきた事実があるからです。そして、その背景には人類がその初めから経験してきた悪の力のリアリティがあるからです。先週もお話ししたことですが、それを「悪霊」と呼ぼうが「汚れた霊」と呼ぼうが、何と呼ぼうが、現にこの世界には人を悪へと誘惑する力、神から引き離そうとする力がリアルに働いているのです。信仰者に対しては、信仰生活を損なわせ、神に背を向けた生活へと誘い、滅ぼそうとする力が働いているのです。
だからこそ、古くからこの悪霊を「追い出そうとする」営みもまたあるのです。先にも触れたように、福音書にはイエス様が悪霊を追い出した話が繰り返し出てきます。しかし、これはイエス様が始めたのではないのです。それ以前から、悪霊追放の営みや儀式はユダヤ教の世界にはあったのです。そして、さらに言うならば、ファリサイ派に代表される、戒律順守を重んじるユダヤ教そのものが、悪霊追い出しの試みであったとさえ言えるのです。
実際、イエス様の時代のユダヤ人たちは、特にファリサイ派の人たちは皆、生活の隅々に至るまで律法を適用し遵守して、自分の内からも、また生活からも、神の御心に反する悪いもの、汚れたものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願ったのです。それは広い意味における悪霊の追い出しであり、それ自体、極めて真面目な、崇高な営みであったとも言えるのです。
しかし、イエス様はそのようなユダヤ人社会に身を置いて、そのような人々の間に身を置いて、このたとえ話をされたのです。そして、言われたのです。「この悪い時代の者たちもそのようになろう」と。つまり、このたとえ話のようになるだろう、と言われるのです。汚れたものを追い出して、お掃除したって、あいつらは自分より悪い友達を連れて帰ってくるようになりますよ、と。
実際、福音書を読んでいますと、イエス様の言われることは本当だと、改めて思わわれます。汚れたものを追い出して、遠ざけて、清くあろうとした人たちの内側には、実は彼らも気付かない内に、汚れた霊の友達が一杯住み着いていたのです。例えば、妬み、憎しみ、敵意、殺意などの形をとって、神に反する力、神から人を引き離す力が住み着いていたのです。そして、結局それらは全て、イエス様に対して正体を表すことになるのです。既にこの章の14節には、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(14節)などとも書かれています。これが清さを求めた人たちのリアルです。汚れた霊がたくさん顔を覗かせているではありませんか。
さて、ユダヤ人社会の話をしてきましたが、皆さん、これって私たちもまた多かれ少なかれ、経験してきていることではありませんか。私たちの心を一生懸命に綺麗にし、私たちの生活もまた綺麗にして整えることは良いことのように思えるのです。実際、そのように自分の心をなんとかしようと、自分の生活をなんとかしようと、一生懸命にお掃除しようと頑張ったこと、私たちにもあるのではありませんか。しかし、イエス様に言わせるならば、それだけでは掃除をして整えられた空き家のようなものだというのです。そのままでは、そこに悪いものがさらに満ちることになりかねないのです。
心を空き家にしないため
そこでこの福音書はさらに46節以下の話を続けるのです。今日の朗読の後半部分です。「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(46‐50節)。
「汚れた霊が戻ってくる」という話とこのエピソードは一見関係なさそうに見えるかもしれません。実際、ルカによる福音書ではそれぞれ別の章に記されています。しかし、マタイは「イエスがなお群衆に話しておられるとき」という言葉をもって、あえて関連づけて書いているのです。そこで私たちは今日、43節から50節までを一つのまとまりとして読んだのです。
イエス様は言われました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。まるで、外に立っているのは母親でも兄弟でも何でもない、と言わんばかりです。しかし、イエス様はこれを母マリアや兄弟たちに向かって言ったのではありません。そうではなくて、彼らが外に立っていることを伝えにきた人に言ったのです。
さらに言うならば、ただその人に聞かせるためでもありません。「弟子たちの方を指して言われた」と書かれていますでしょう。そこには何人かの律法学者たちとファリサイ派の人たちもいたのです。その彼らの面前で、弟子たちを指して、イエス様はこう言われたのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(49‐50節)。
そのようにイエス様は「ここにいるのはわたしの家族だ」と言われたのです。「わたしにとって外にいる肉親と同じくらい、いやそれ以上に大事なわたしの家族だ。わたしの天の父の御心を共に行っていく家族なのだ」と主は言われたのです。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と。
弟子たちは、このイエス様の言葉を忘れることができなかったに違いありません。そして、その意味するところを後に深く悟ったことでしょう。まさにそのために、イエス様が十字架にかかられ、罪を贖ってくださったのだ、ということを知ることになったのです。それはここにいる私たちも同じです。イエス様が私たちの罪を代わりに負って十字架におかかりくださることなくして、私たちはイエス様の兄弟でも神の家族でもあり得ないのです。罪の赦しなくして、「天にまします我らの父よ」という祈りはあり得ないのです。
私たちにとっても、何よりも重要なのは、イエス様から「あなたたちはわたしの家族だ」と言われているのだという認識です。そして、イエス様の家族として、イエス様と共に、イエス様が示してくださった天の父の御心を行おうとして生きていくことなのです。
それは心や生活をきれいにしようと努力することよりも、ずっと大事なことなのです。追い出してきれいに整えることよりも、良きものに満たされていることの方が大事なのです。イエス様の兄弟として天の父の御心を行おうとしている限り、心は空き家にはなりません。そこにはキリストが住んでおられるからです。だから汚れた霊が出て行くならば、友達を連れて戻ってきて、より悪いものが住み着く余地はないのです
身近な人間関係においても
さて、本日の第二朗読(コロサイの信徒への手紙3:18~4:1)においては、私たちにとって最も身近な人間関係である「家庭」の事柄が取り上げられていました。「家庭訓」と呼ばれます。ユダヤ人の間においては古くからしばしば論じられてきた事柄です。ここでは夫婦の関係、親子の関係、そして奴隷と主人との関係が取り上げられています。もっとも奴隷と主人の関係は、当時においては家族の事柄だったのですが、現代の私たちにとってはむしろ社会生活における労使関係として適用できるかも知れません。いずれにせよ身近な人間関係において私たちがいかに生きるべきか、具体的な勧めを与えている聖書箇所です。
しかし、ここに書かれていることは、単に身近な人間関係から悪いものを追い出して、より良いものにするための知恵ではありません。実は、ここで大事なのは、本日の第2朗読の直前に書かれていることなのです。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(16‐17節)。
そのように、ここに書かれている勧めの大前提となっているのは共に御言葉を聞き、心に宿し、共に神を礼拝し、感謝して生きる生活なのです。つまりは生活のあらゆる領域においてイエス様を思い、天の父を思い、聖霊に満たされて生きる生活です。きれいに整えられた空き家ではなく、良きものに満たされ、良き御方によって治められている生活です。
だからこそ、そこには妻については「主を信じる者にふさわしく」と書かれ、子供については「それは主に喜ばれることです」と書かれているのです。奴隷については、「何をするにも、人に対してではなく、主に対するように、心から行いなさい」と語られ、主人については「知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです」と語られているのです。明らかに、そこでまず大事になってくるのは、主との関係です。主が家の外ではなく、家の中に、しかも中心にいてくださることなのです。