2025年7月27日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 7:24‐29
イエスの言葉を聞いて行うとは
イエス様は今日の箇所でこう言っておられます。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と。「これらの言葉」と言われているのは、直接的にはマタイによる福音書5章から7章までの部分、いわゆる「山上の説教」と呼ばれる部分を指していると考えられます。そうしますと、この言葉は、ある意味では驚くべき言葉であるとも言えます。
例えば、「山上の説教」と言えばすぐに思い出すのは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5:39)という言葉でしょう。あるいは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:44)という言葉でしょう。あるいは「思い悩むな」(6:34)。これって簡単なことですか。普通に読むならば、「不可能だ」と思わざるを得ないようなことを、イエス様は次々と語っておられるのです。
かつてわたしが学生だったころ、ある人が、「お前はクリスチャンだと言うけれど、右の頬をなぐったら、左の頬を出すのか」と挑んできたことがありました。その時わたしは言いました。「試してみてもいいですよ。」――しかし、私自身は、もしそいつが本当に殴ったら、思い切り殴り返すつもりでいたのです。要するに、当時の私はこのイエス様の言葉が実行可能だとは微塵も思ってはいなかったのです。しかし、それは私だけではなかったと思うのです。皆さんにとってはどうですか。
しかし、そのような言葉について、今日の箇所においてイエス様は、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言っておられるのです。イエス様は、はじめから、これが実行可能か不可能かなどということは全く問題にしていないのです。当然、聞くだけに終わらないことを前提として語っておられるのです。
今日の聖書箇所を読みますと、改めて思います。私たちから見ると不可能としか思えないことが、イエス様の目にはまったく不可能と映っていない。それが良く分かります。つまりイエス様の目には、私たちが見るのとは全く違ったものが見えているのです。
例えば、イエス様は言われました。「天の国は近づいた」(4:17)。それはキリストと共に、天の国は来ているのだ、という意味合いです。私たちの目には悲惨なこの世界の現実しか見えないのです。しかし、イエス様の目には、神の国が、神の支配のリアリティがもうこの世界に到来しているのが見えているのです。
また、イエス様は言われました。「こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも』」(6:9‐10)。イエス様の目には、そこにいる弟子たちがもう神の子どもたちに見えているのです。「天の父よ」と呼んで、天に行われていることを地上にも求めることができる神の子どもたちに見えているのです。
さらに言うならば、イエス様は御自分がどこに向かい、何を成し遂げようとしているか分かっているのです。イエス様には、御自分が十字架にかかられ、罪の贖いが成し遂げられるその時が来ることが分かっているのです。いわば、イエス様には、既に罪が贖われた神の子どもたちが見えているのです。もはや天の父との間を隔てるものが何もない、そのような神の子どもたちの姿を見ているのです。
ですから、人から見てどんなに不可能であっても、イエス様から見たら不可能ではないのです。神の子どもたちならば、この世にあって神の子どもたちとして生きることができる。この世にありながら天に属する民として生きることができる。やられたらやり返すのが当たり前のこの世界にあって、敵を愛するということも起こり得る。世界中が思い悩んでいる時であっても、思い悩みから解放されて生きるということが起こり得る。――そうです、イエス様から見るならば、それは全て可能なことなのです。天の父が御自分の子どもたちに望んでいることであるならば、すべては可能なことなのです。
だからイエス様は御自分の言葉によって、神の権威を持った言葉によって、そのような新しい生活へと、神の子どもたちとしての新しい生活へと、弟子たちを、私たちを招かれるのです。それが信仰をもって生きるということなのです。
それゆえに信仰生活には、常に「不可能への挑戦」という側面があるのです。イエス様が見ておられるように神の国の到来を見、イエス様が見ておられるように自分自身を神の子として見、イエス様が見ておられるように教会を神の子どもたちの群れとして見るならば、そのようにイエス様の御言葉を信じるならば、私たちはその信仰に基づいて行動すべきなのでしょう。信仰と行為は切り離し得ないものです。
ヤコブの手紙には「行いの伴わない信仰は死んだもの」(ヤコブ2:26)と書かれています。そのように、イエス様が可能であると見ておられるならば、信仰に基づいて私たちもまた不可能に挑戦するのです。信仰に基づいて、愛し得ない敵を愛することにも挑戦するのです。迫害する者のために祈ることにも挑戦してみるのです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」であるとは、そういうことです。
神の御業が現れる時
そして、信仰に基づいて行動する時に、そこにこそ神の御業は現れるのだ、と私たちは聖書から繰り返し教えられているのです。
旧約聖書ヨシュア記6章にこんな話があります。その頃、イスラエルはエリコの町と戦っていました。エリコの町は、堅固な城壁に囲まれていました。そのようなエリコの町を攻略することは、人間の目から見て不可能に見えたに違いありません。しかし、そこで神はイスラエルに、不思議なことを命じられたのです。神はイスラエルの民に、エリコの城壁の周りを一日一回、六日間回るように命じられた。そして、七日目には七周回るようにと命じられたのです。
馬鹿げた話です。しかし、イスラエルの民は、神の言われるとおり、エリコの城壁の周りを一日一回、六日間回り、七日目には七周回りました。なぜですか。神がエリコの町を、既にイスラエルの手に渡しておられると信じたからです。どんなに人間の目に不可能に見えても、神が城壁を打ち崩してくださると信じたからです。だから彼らは信仰に基づいて回り続けたのです。
そして、七日目に神の御業によって城壁は崩れ落ちました。しかし、注目すべきは次の聖書の言葉です。「民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した」(ヨシュア6:21)。たとえ城壁が崩れ落ちたとしても、剣も何も持っていなかったら、突入なんてできないじゃないですか。しかし、彼らはそうでなかった。彼らは重い剣をさげて、重い武具を身につけて回っていたということです。城壁が崩れる時を思い描いて、すぐにでも突入できるように、そのつもりで準備して回っていた。彼らは城壁の周りをまわっていた時、彼らは城壁が崩れることを本気で信じて、いわば不可能に挑戦していたのです。
イエス様が言っている「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」とは、いわばエリコの周りを回ったあの人々のような人のことです。「既に神の国は始まっているのだから、私たちは神の子どもたちなのだから、聞いたことは行うことができると信じます」と言って、不可能の壁の周りをまわるのです。そして、イエス様の御言葉に従い、不可能に挑戦する人は、エリコの城壁のように、不可能の壁が崩れ落ちるようなことを見ることになるのです。
嵐に耐え得る信仰生活とは
そして、そのような信仰生活こそ、嵐に耐え得るものとなるのだと、イエス様は言っておられるのです。それこそが岩の上に建てた家だ、と。
「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という言葉は様々な意味に取れます。それはこの世における様々な試練であるとも言えるし、最終的に誰もが直面しなくてはならない自分自身の「死」の問題であるとも言えるし、終わりの日の裁きであるとも言えるでしょう。洪水や風に象徴されるのは、いずれにせよ、人間の力が及ばない現実です。私たちがこの世に生きる限り、人間の力が及ばない現実は襲って来るのです。そのような力によって、私たちの存在が根底から揺さぶられるような時は来るのです。
もし私たちの信仰生活が、「イエス様の言葉は聞いて知っています」というだけのものならば、そこで嵐に耐えることはできないでしょう。「イエス様の言葉は言葉として良いけれど、現実には不可能だ。聖書の教えは知っているけれど、現実にはそのとおりには行かないよ。」そのように現実には不可能だと言って、エリコの城の周りを回るような小さなことすら実行しようとはしない。そのような信仰生活がいざという時、役に立つのでしょうか。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」とイエス様が表現される信仰生活であるならば、洪水と風によって倒れてしまうことになるのでしょう。
洪水と風によって倒れてしまわないのは、イエス様が見ているように現実を見、イエス様が見ているように自分自身を見、イエス様が見ておられるように教会を見て生きる信仰生活です。神の国が既に到来していること、神の驚くべき大いなる御業の中にあること、私たちはそのような中に生きている神の子どもたちであること。そこに目を向けて、「わたしはイエス様の言葉に従います。神に寄り頼む私たちに不可能はありません」と言いながら生きていく。岩の上に家を建てるとはそういうことです。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった」イエス様はそのような信仰生活を与えようとしておられるのです。しっかり受け取ろうではありませんか。