2025年7月13日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 6:25‐34
思い悩むな
「思い悩むな」。そうイエス様は言われます。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と主は言われるのです。
今はとりあえず食べ物があるし、飲み物もある。しかし、食べればなくなります。無くなったら食べるものを得なくてはなりません。明日、あるいはその先に、何を食べたらいいのだろう。はたして生きていけるのだろうか。そのような心配が起こります。
今はとりあえず裸ではありません。しかし、着飾らなくてはならない場面になれば、今着ているものでは間に合わなくなります。他の着物を得なくてはなりません。いったい何を着たらよいのかという心配が起こります。
そのように「思い悩み」というものは、未来に関わっています。だからイエス様は特に「明日のことまで思い悩むな」と言われたのです。それはイエス様の目の前にいた人たちだけでなく、時代的にも文化的にも異なる、ここにいる私たちにしても同じです。思い悩みの種類は違うかもしれません。必ずしも食べるものや着るもののことで思い悩んでいるわけではないかもしれない。しかし、明日のこと、未来のことについて思い悩んでいる姿は、あの時、あの場所にいた人々と変わりません。
しかし、そのような私たちに「思い悩むな」と語ってくださる方おられます。私たちが信じているイエス様は、「明日のことまで思い悩むな」と言ってくださる方なのです。本気でこういうことを言ってくださる方がいるというのは嬉しいことです。
もっとも言葉だけなら、似たようなことを言う人は私たちの周りにもいるかもしれません。「先のことばかり心配しなさんな。なるようにしかならないんだから」と。それはそれでありがたいことではありますが、イエス様が「思い悩むな」と言われるのは、それとは意味合いが全く違うのです。
イエス様はこう言われたのです。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない」(26節)。なるほど、種を蒔いたり、倉に収めたりというのは、未来を想定しての作業です。鳥は基本的にそういうことはしない。未来を考えて生きるというよりも、今を一生懸命に生きていると言えるでしょう。ですから、「鳥を見なさい。今を一生懸命に生きているじゃないか。君も今を力一杯生きたらいいんだ。先のことばかり心配しなさんな」という教訓話もあり得ます。イエス様でなくても、このくらいのことを言う人はいくらでもいるでしょう。
しかし、イエス様が言おうとしている大事なことは、実は、その先にあるのです。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。――そのように、イエス様は、本当は鳥について話したいわけではないのです。そうではなくて、天の父について話しておられるのです。「思い悩むな」と言って、本当は鳥を指し示しているのではなくて、私たちに天の父を指し示してくださるのです。
皆さん、聖書を読むとよく分かるのですが、イエス様は、神の存在について議論していることは一度もないのです。そうではなくて、神の子として生きる姿を見せてくださっているのです。神の子として、天の父と共に生き、天の父に信頼し、天の父に感謝して生きている姿を、見せてくださっているのです。そのような神の子が、私たちに「天の父」を指し示して、そして言われるのです。「思い悩むな」と。
あなたがたの天の父
いや、イエス様はただ「天の父」について語ってくださっただけでなく、「あなたがたの天の父は」と言ってくださったのです。「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」と。また後の方ではこうも言っています。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(32節)と。
「あなたがたの天の父は」ってどういうことですか。それは「あなたがたは神の子どもたちだ」と言っているのと同じではありませんか。イエス様は天の父との交わりを見せてくださいました。そのように、信仰に生きる生活を見せてくださいました。そして、天の父と共に生きる生活へと、弟子たちを招いてくださったのです。そして、主はここにいる私たちをも招いてくださっているのです。
だから、礼拝では毎週、「主の祈り」を祈るのです。今日も後ほどみんなで祈ります。その最初は、「天にまします我らの父よ」という呼びかけなのです。信仰をもって生きるとはそういうことなのです。イエス様と同じように、神を「天にまします我らの父よ」と呼びながら生きるのです。すなわち、天の父の子どもたちとして生きるのです。
いや、イエス様はそのような祈りを与えてくださっただけではありません。「あなたがたの天の父は」と言ってくださっただけではありません。今日はマタイによる福音書の6章をお読みしましたが、この先をずっと読んでいきますと、やがてイエス様が十字架におかかりになる場面に行き着くのです。
イエス様が十字架にかかられたのは、天の父と私たちとの隔てが完全に取り除かれて、私たちが真に神の子どもたちとして生きられるようになるためでした。すなわち、神に背いて生きてきた私たちのすべての罪を自ら背負って、十字架にかかって、私たちの罪の負い目を完全に取り去ってくださったのです。私たちは罪を赦された者として、ためらうことなく、「天にまします我らの父よ」と祈ることができるのです。
そのように、イエス様が私たちの罪が赦されるために、私たちの救いのために、十字架への道を歩まれたのは、天の父が私たちをどのように見ているかを知っておられたからです。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と。私たちは、ある程度長く生きていれば、自分が全く価値のないもののように思えたり、自分なんて存在しない方がよいように思えたりするという経験は、一度ならずともするものなのでしょう。
しかし、私たちが自分をどのように見ようとも、私たちの目にどれほど無価値に映ろうとも、天の父は私たちを価値ある存在として見ていてくださるのです。天の父の子どもたちですから。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」私たちは既に天地を創造された神、王の王なる御方の子どもたちです。だから主は言われるのです。「思い悩むな」と。
信仰の薄い者たちよ
そして、もう一つ、今日の聖書箇所には、主が語られた、とても嬉しい言葉があります。それは「信仰の薄い者たちよ」(30節)という言葉です。皆さん、意外だと思われますか。しかし、実はこれは私たちにとって、とても喜ばしい言葉なのです。
皆さん、この世に生きる限り、思い悩みの種はいくらでもあるのです。未来のことについて、心配し始めたら切りがない。家庭の問題、仕事の問題、様々な人間関係、病気のこと、などなど。心配を解決するためには、満たされなくてはならない必要が山ほどあるのでしょう。その一つ一つの必要を満たして行って、問題の一つ一つを取り除いていかなくては思い悩みは解決しないのです。
しかし、実際には、そのように、一つ一つ必要を満たし、一つ一つ問題を取り除いていかなくては思い悩みから解放されないとするならば、もはや絶望的としか言いようがないではありませんか。だいたい、一つ思い悩みを始末したと思っても、また別なところから思い悩みが雑草が生えてくるのですから。
しかし、皆さん、イエス様はそういう個々の事柄が問題なのではない、と言われるのです。「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という個々のことを解決していけばよいのではない、と言われるのです。それは異邦人、すなわち信仰のない人たちがすることだ、と。イエス様に言わせれば、これは信仰の問題なのです。だから「ああ、信仰の薄い者たちよ」と主は言われるのです。
ならば希望があるではありませんか。「信仰の薄い者たち」と書かれていますが、原文では「信仰が小さい」と書かれているのです。今の信仰が小さいならば、信仰が成長して大きくなることを求めたら良いだけの話です。必要なものは山ほどあるように見えるかもしれない。しかし、思い悩まないで生きるために、本当に必要なのは、それだけなのです。信仰が成長して大きくなることを求めることです。
しかも、大きい信仰って、どれくらい大きければよいのだと思いますか。イエス様はこの福音書の後のほうで、こんなことを言っておられます。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(17:20)。そのように、「からし種一粒ほど」で良いのだとイエス様は言われるのです。
イエス様の言われる、「信仰の薄い者たちよ」という言葉を大いに喜びましょう。私たちにはなお希望があると言って喜びましょう。「わたしは信仰が薄いからダメなんだ」なんて言って落ち込む必要はありません。そもそもダメな人間などいないのです。成長の途中にある人間がいるだけの話です。信仰が小さいならば、大きい信仰を求めたらよい。からし種くらいで良いってイエス様は言われるのですから。からし種はとても小さいものです。でも、それで良いって言われるのですから、今日から求め始めたらよいのです。