サムエル記下22:1~31
22章にはダビデの感謝の歌が収められています。この歌は、詩編の中に第18編として、ほぼ同じ形で収録されています。聖書に残されているダビデの歌は、明らかに礼拝において用いるために後の時代の手が加えられています。例えば7節に「神殿」が出てくること。ダビデの時代に神殿はありません。また、51節に「ダビデ」の名が出てきます。ダビデ本人が自分の名前をこういう形では書きませんでしょう。しかし、ともかくこの歌の原型はダビデにまで遡るものと考えてよいでしょう。
そして、注目すべきことは、このダビデの感謝が、丁度、サムエル記上2章のハンナの感謝と対応するように置かれていることです。サムエル記は、このように神の御業を讃える二つの歌で囲まれる形になっているのです。
士師時代の末期からダビデ王国確立までの激動の時代。これまで見てきたように、そこには様々な人間の思惑が渦巻いているのであって、一見すると人間の謀がこの時代を形作ってきたかのように見えるのです。しかし、この二つの歌に囲まれているということは、とりもなおさずこの時代がまさに神の御業によって形作られてきたのだ、ということを示しているのです。長い歌ですので、二回に分けて読んでいくことにいたします。
「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え、不法から救ってくださる方。ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる」(2‐4節)。
これはこの詩編全体を総括する言葉として冒頭に置かれていますが、多くの言葉を連ねて主が真の拠り所であることを語っているのが印象的です。そこで繰り返されているのは「わたしの」という言葉です。ここでは個々に訳し出されてはいませんが、一つ一つの言葉に「わたしの」が加えられています。それは、主が真の拠り所であり守りであるということが、決して観念的に一般化され得ないことを示しています。つまり、これはダビデが一人の人間として、多くの苦しみの中を、現実に一人の「わたし」として、神に寄り頼んで生きてきたという、具体的な経験から生み出されてきた言葉であることを示しているのです。
そのダビデの苦しみは、具体的には「すべての敵の手」「サウルの手」として1節に記されています。私たちは、サムエル記の物語を思い起こすことができるでしょう。しかし、5節と6節において、彼の苦しみの深さは、「死の波」「奈落の激流」「陰府の縄」「死の網」という四つの言葉をもって表現されています。
「死の波がわたしを囲み、奈落の激流がわたしをおののかせ、22:6 陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている」(5‐6節)。そこに言い表されているのは、もはや自力では逃れられない苦悩の深さです。「奈落の激流」というのは「ベリヤアルの渦」という言葉ですが、ベリは否定を意味し、ヤアルは「上る」という意味です。そこでベリヤアルは「誰ひとりはい上がれない所」を意味します。彼はまさにそのような深みへと引き込まれてしまっている。それがここで語られている内容です。
しかし、そのような苦難の中、自らはい上がれない深みから、彼は神に向かって叫ぶのです。主を呼び求めるのです。「苦難の中から主を呼び求め、わたしの神を呼び求めると、その声は神殿に響き、叫びは御耳に届く」(7節)。そして、その叫びが神の耳に届きます。その叫びに対する応えとして、8節以下の描写が続くのです。「主の怒りに地は揺れ動き、天の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炭火となって燃えさかる」(8‐9節)。
そこに描き出されているのは、不当な苦しみに対して、怒りをもって行動を起こされる神の姿です。特に注目すべきは「主は天を傾けて降り」という10節の言葉です。「主は天を傾けて降り、密雲を足もとに従え、ケルビムを駆って飛び、風の翼に乗って現れる。 周りに闇を置き、暗い雨雲、立ち込める霧を幕屋とされる。御前の輝きの中から炭火が燃え上がる」(10‐13節)。新改訳聖書はこれを「主は、天を押し曲げて降りて来られた」と訳しています。こちらの訳の方が一般的です。古代の世界像では、天は何層にも重なったドームのように考えられていました。いわばその何層もの天の形をへし曲げるようなことまでして、主は降って来てくださり行動してくださったのだ、とダビデは語っているのです。
しかも、それは多くの人々のためというのではなく、深い所から叫び求めるたった一人のために、主はそうしてくださったのだと語られているのです。それがこの歌の表現している最も重要な内容です。一人の叫び求める者のために行動してくださる神。天を押し曲げてでも降ってきてくださる神。それがダビデの神経験に他なりませんでした。それゆえに17節以下では、「主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる」「わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる」と続くのです。このゆえに、「主はわたしの岩、わたしの砦、わたしの逃れ場…」なのです。
さて、先にも言いましたように、この歌は礼拝のために手が加えられています。民の礼拝のために整えられ、伝承された歌です。しかし、そのような「わたしたち」でうたわれる歌であるにもかかわらず、もともとの「わたし」という要素は、決して神の民全体のこととして一般化されませんでした。実際、詩編には、このような個人の嘆きや感謝の歌が多く含まれております。
この事実は聖書全体を貫いています。例えば、パウロも、キリストの十字架を「わたしたちのために」と語ると共に、「わたしのために」と語ることを忘れていません。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20)。
神の民やこの世界に対する視点を欠いた、ただ「わたしの救い」だけを考えた信仰のあり方は決して正しいものではあり得ません。しかし、もう一方において、この「わたしのために」を欠いた信仰のあり方も、決して正しいものではあり得ないのです。この「わたしのために」という実存的な要素は、信仰において本質的な事柄だからです。
さて、そのように、神が、叫び求めるたった一人のために降って来てくださる神であり、一人の人間に神が極限まで真剣に関わられる神であるゆえに、一人の人間が神の御前にどう生きるかということもまた、真剣に問われることになります。その人が神に背いているか否かは、どうでも良いことではないのです。
21節以下において、ダビデはこう歌っています。「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。わたしは主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。わたしは主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る。主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目の前にわたしは清い」(21‐25節)。
ダビデは単に自分の正しさを誇っているのではありません。これは8節から20節に表現されている救いの神の認識に基づく言葉なのです。それゆえにまた、イスラエルの詩編の収集には、このような潔白の主張がなされる詩編と共に、もう一方においては、赤裸々な罪の告白を伴う詩編が共存しているのです。これらは、矛盾することでも、不思議なことでもありません。そもそも、個々の人間に対する神の関わりというものが真剣に受け止められないところにおいて、個々の人間による真剣な罪の告白と悔い改めなど、あり得ません。せいぜい出てくるのは「人間とは罪深いものだ」という安易な一般化した表現ぐらいのものです。そのような主との関係からは、31節にあるような「すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる」という確信に満ちた告白は生まれません。「わたしの岩」について語れる人だけが、また「すべて御もとに身を寄せる人」について語り得るのです。