2026年9月23日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 22:32~51

 サムエル記下  22:32~51

 今日は22章の後半をお読みしました。前半部分を少し振り返ってから、今日の内容に入ってまいりましょう。

 22章に記されていますダビデの感謝の歌は次のような言葉で始まっていました。「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え、不法から救ってくださる方」(2‐3節)。ここに、この歌全体が総括されていると見てよいでしょう。前回申し上げたように、訳し出されていないものも含めて「わたし」という言葉がこの総括を特徴付けています。

 ダビデは神をまさに「わたしの神」として経験してきたのです。それは彼の苦難においてでした。彼の苦しみは「死の波がわたしを囲み、奈落の激流がわたしをおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている」と表現されていました。それは自らの力でははい上がれないような深みへと引き込まれる経験であったのです。

 しかし、その苦難の中から彼は神に向かって叫びます。「わたしの神を呼び求めると」とあります。するとその声は「わたしの神」に届くのです。どんなに深いところからでも届く。そして、「わたしの神」は「天を傾けて降」って来られるのです。これは「天をへし曲げて」というような激しい表現であることを申しました。まさに主は激しく降ってこられる。誰のために――多くの人々のためにではありません。叫び求めるたった一人のためにです。

 まさに「わたし」のために主が行動してくださる。これがダビデにとっての「わたしの神」だったのです。そのような歌が、皆でも歌えるようにと聖書の中には残されているのです。そのような神と人との関係は、ダビデだけの特別な事柄ではなくて、まさにすべての信仰者に当てはまるからです。

 そのような「わたしの神」が降ってきて行動されるのです。それは次のように表現されていました。「主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日、主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる」(17‐20節)。一言で表現するならば、主による「救出」が語られていたのです。

 しかし、今日お読みしました後半に入りますと、神がしてくださることは、単純に「救出」に終わらないことが分かります。その先があるのです。

 ダビデは言います。「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない」(32節)。先に「主はわたしの岩」と呼んでいたダビデがここでは「我らの岩」と呼ぶのです。ここだけです。あとはまた「わたしの」に戻ります。どうしてここで「我らの」が出てくるのでしょうか。それは続く言葉からわかります。「神はわたしの力ある砦、わたしの道を完全にし、わたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ、手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる」(33‐35節)。

 17節ではまだ力を持っているのは「敵」なのです。すなわち敵の支配がそこにある。ダビデを憎む者は「勝ち誇っている」と書かれているのです。それでも、そこから引き上げられて、広い所に導き出され、主が喜び迎えてくださった。ならば、それでもう十分であると言えるかもしれません。実際、それが多くの人の考えることではありませんか。苦難から逃れられればそれで十分。あとは感謝をもって、主に真実に生きていきます。それで十分でしょう、と。この歌も25節までで、ある意味で完結しているのです。ダビデは少なくとも「主の道を守り、わたしの神に背かない」と言っているのですから。

 しかし、この歌はそこで終わらないのです。主はダビデを苦難から救い出すだけでよしとはされないのです。主はさらにダビデを強くするのです。「あなたは救いの盾をわたしに授け、自ら降り、わたしを強い者としてくださる」(36節)。強い者とするのは勝利を与えるためです。ダビデが勝利を得るとするならば、もはやそれは単にダビデ自身のためだけではないのです。ダビデと共に主を「岩」として寄り頼む者たちのためでもあるのです。だから「我らの岩」がここに出てくるのです。

 ここに「救いの盾」と書かれています。18節にも「救い出される」という表現がありますが、ここで用いられている言葉は異なります。この「救い」が意味するのは、神ならぬ支配からの解放です。出エジプト記において次のように書かれているようにです。「主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた」(出エジプト14:30)。また47節にもこう書かれています。「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの岩なる神をあがめよ。」それにはこう続きます。「わたしのために報復してくださる神よ」。「報復」というのは、単に「仕返し」という意味ではありません。そうではなくて、根本的には神の秩序が回復されることを意味するのです。

 神ならぬ支配によって不義が行われてきた。不当なことがなされてきた。正義が踏みにじられてきた。それが神によって本来の秩序へと回復させられるのです。神に逆らう力が勝ち誇っているままでは終わらないのです。それがここに書かれている「救い」であり「報復」なのです。そのことの実現のためにダビデが用いられるのです。そのために力を受けるのです。強くされるのです。そのようにして、神の支配が実現するのです。

 そして、このダビデの感謝の歌は次のように締めくくられています。「主よ、国々の中で、わたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う。勝利を与えて王を大いなる者とし、油注がれた人を、ダビデとその子孫を、とこしえまで、慈しみのうちにおかれる」(50‐51節)。この部分は詩編18編にほとんど同じ形で記されています。ここで「わたし」として歌っているのはダビデ自身というよりも、後の人たちが自分を「わたし」として歌えるようにしてあるのです。そして、事実、後の人たちはこれを歌い継ぎ、私たちにもまた伝えられてきているのです。

 ですからユダヤ人たちは、神をただ個人的な苦難からの解放者として見ることに留まることはなかったのです。確かに神は個人を顧みてくださる。神は「わたしの神」でいてくださる。しかし、自分が苦難から解放されさえすれば、この世界において神に逆らう力が勝ち誇ったままでも良いとは言わなかったのです。神の完全勝利を求めたのです。そのためにメシアを求め、神の民が用いられることを求めたのです。

 それは既にキリストが到来したことを知らされているキリスト者にとっても重要なことです。私たちは神様を個人的な解放者として見ることに留まりません。私たちが罪の負い目から解放され、この世と共に滅びることを免れて、「自分が救われて」それで良しとしてはならないのです。この世界を支配している罪の力と戦っていく。サタンと戦っていくのです。そこでここに歌われていることは、私たちにとっても重要なのでしょう。神は私たちを強くしてくださる神です。「あなたは救いの盾をわたしに授け、自ら降り、わたしを強い者としてくださる」。

 イエス様が昇天なさる前に、弟子たちに言われました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)。それから10日間、弟子たちは都にとどまって祈り求め、五旬祭のあの日にまさに約束されたとおりに「高い所からの力に覆われ」たことを私たちは知っています。そのようにして教会は宣教を開始したのです。彼らが天からの力を必要としたのは、単に自分が救われるためではありませんでした。この世界を支配している悪魔の力を打ち砕き、キリストの勝利を見るためだったのです。


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