2025年8月17日 主日礼拝説教
聖書: マタイによる福音書 10:1‐15
今日の聖書箇所はイエス様が十二人の弟子を呼び寄せたところから始まります。弟子と呼ばれる人たちは、この時点で既に数多くいたものと思われます。しかし、ここで特に十二人が他の者と区別されて呼び寄せられたのです。そして、彼らの内、イスカリオテのユダを除いだ十一人こそが、後の教会の歴史の出発点に立つことになるのです。すなわち、彼らは後の日に、復活したキリストから、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28:19)と命じられ、この世界に遣わされることになるのです。そして、その先に二千年に及ぶ教会の歴史があり、私たちは今、その中に身を置いているのです。
その意味において、私たちはあの十二人と深いつながりの内にあると言えます。彼らがキリストから教えられたこと、彼らが体験的に学んだことは、後の教会にとっても非常に重要なこととして伝えられてきたのです。だから十二弟子がキリストによって周辺の町々村々に遣わされた話もまた、聖書に書き記されて二千年後の私たちがこうして読んでいるのです。私たちは今日、この与えられた物語を読むに当たり、私たちに深く関わっていることとして、特に三つのことに注目したいと思います。
キリストによって遣わされて
第一は、彼らが「十二使徒」(2節)と呼ばれているということです。「使徒(アポストロス)」とは「遣わされた者」という意味です。先にも申しましたように、彼らはこの世界に遣わされることになるのです。それは彼らから始まる教会が何であるかをはっきりと示しています。教会はこの世に遣わされた存在である、ということです。私たちは「遣わされた者」なのです。
教会がこの世に遣わされた存在であるとは、教会自体のために存在するのではない、ということです。派遣してくださる主のために、また、その対象であるこの世界のために存在するのです。それはまた教会を形づくる私たち一人ひとりも自分のために存在するのではない、ということです。「遣わされた者」として、主のために、またこの世のために存在するのです。
そのように、私たちが「遣わされた者」として生きるなら、少なくとも、「わたしは何のために生きているのか」という類の悩みとは縁が無くなります。私たち自身が存在する目的は、私たち自身が持っているのではなくて、遣わしてくださる主が持っておられるからです。私たちは、どのような者であれ、いついかなる時にも、無意味な存在にはなり得ないのです。
また、「遣わされた者」として生きるなら、自分が身を置いている場所はすべて「遣わされた場」という意味を持つことになります。家庭にせよ、学校にせよ、職場にせよ、入院先の病院にせよ、それはすべて遣わされた場所となるのです。遣わされた者として生きるなら、人との関わり、また生き方そのものが変わることになります。
しかし、「遣わされた者」として生きるということは、単に「使命感を持って生きる」ということではありません。そこで重要なのは、5節後半のキリストの言葉です。主は弟子たちに言われました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(5b‐6節)。これは極めて排他的な、差別的な響きをもっている言葉に聞こえます。しかし、私たちは、異邦人やサマリア人を排除し、差別するかのように聞こえるこの言葉を、後の教会が大切に伝えてきたことを良く考えねばなりません。
キリストはやがて復活の後、弟子たちをサマリア人の町にも、異邦人の方にも遣わされるのです。しかし、その時には、「今は行くな」と言われたのです。そして、弟子たちは従ったのです。その事実を、重要なこととして教会は伝えたのです。それが「派遣される」ということだからです。
この世の中には為した方が良いと思えることがいくらでもあるのです。為すべきであると思えることもいくらでもある。しかし、一般的な意味で「行った方が良いこと」「行うべきこと」と、「今、私が行うべきこと」は必ずしも同一とは限りません。「遣わされた者」にとって重要なことは、遣わす御方の御心に従うことであって、自分の使命感に従うことではないからです。その意味において、人の求めに耳を傾ける以上に、私たちはキリストの御声に耳を傾けなくてはなりません。主の日の礼拝において、また日々聖書を開くことにおいて、主の御言葉に耳を傾ける。それは「遣わされた者」として生きるために何よりも大事なことなのです。
天の国を宣べ伝えるために
そして、注目すべき第二は、主が十二弟子を派遣するに当たり、為すべきこととして、まず「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と命じられた、ということです。
キリストは弟子たちにこう言われました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(7‐8節)。
この世界は病気のある世界です。死のある世界です。病気や死に代表される様々な具体的な苦悩に満ちている世界です。「病人をいやし、死者を生き返らせる」ということは文字通り起こるのでしょうか。文字通りの仕方で起こるかもしれませんし、文字通りの仕方では起こらないかもしれません。しかし、いかなる形にせよ、主が私たちを遣わし、私たちを用いられる時、そこでは広い意味での癒しが起こります。
しかし、重要なことは、ただ癒しのために仕えるのではなく、その前に告げ知らせるべき言葉があるということです。主は言われました。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と。
「天の国は近づいた」――これはキリスト自身が宣べ伝えていた言葉です。この福音書では4章17節に記されています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)。そのように、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるということは、「悔い改めよ」と呼びかけることでもあります。「悔い改める」とは、ただ「悪い行いを改める」ということではなく、「神に立ち帰る」ということです。
神が恵み深く近づいてきてくださる。天の国は近づきました。しかし、そこに入るには、人間が方向を変えて神に立ち帰らなくてはなりません。弟子たちは、そのことを告げるために送り出されたのです。そのように教会もこの世に遣わされているのです。
ですから、そこではまた、「悪霊を追い払いなさい」とも命じられております。「悪霊」と聞いて、オカルト的な憑依現象のようなものだけを考えてはなりません。憑依現象などは特殊な片鱗に過ぎません。悪霊とは、人間を神から引き離そうとする力です。それはありとあらゆる形をとって、この世界に現れている、神に逆らう力です。
主は、その悪霊を追い払え、と命じられたのです。それは悪霊の支配から、神の恵みの支配のもとへと人間を回復することに他なりません。私たちは、大局的には、人間を、この世界を、神のもとに取り戻すために遣わされているのです。
キリストの権威によって
そして、注目すべき第三は、主が十二弟子を派遣するに当たり、彼らの持ち物のほとんどを没収してしまわれた、ということです。
イエス様は言われました。「帯の中には金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(9‐10節)。このように、弟子たちは大きな務めを与えられて遣わされるにもかかわらず、その働きのために必要と思われるものを、彼らは何一つ持っていくことは許されませんでした。
しかし、彼らには何も無かったのではありません。1節にはこう書かれています。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」(1節)。これは彼らに恵みの賜物として与えられたものです。ですから、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)と命じられているのです。彼らの働きは、このただで与えられもの、神の恵みとして与えられたものによって成し遂げられるのであって、彼らが携えていける他の何かによるのではないのです。
さて、私たちには、この話はあまりにも極端に思えます。何も無かったら、宣教の働きはおろか、旅を続けることさえ不可能ではないか――。そう思えるかもしれません。
一方、今日の教会は状況がずいぶん違います。私たちの教会はコロナ以降、経済的に難しい状況であるとはいえ、まだ自立しているとは言えます。教会にはまた、多種多様な才能を持った人もいます。それぞれが受けてきた教育もあります。積んできた経験もあります。なので、往々にして、私たちはそのように自分たちが持っているものによって、自分たちが能力的にできることによって、教会の働きというものは続けられると考えてしまいがちです。
あるいは教会には逆のことも起こりえます。自分たちは豊かでもないし、能力も乏しく、教育もなく、知識も経験もないから、与えることのできる何をも持っていない。だから神のお役には立てない。――教会として、あるいは個人として、そのように考えてしまうことがあるかもしれません。
実際、教会にせよ個人にせよ、置かれている状況は時と共に変わります。豊かにもなれば貧しくもなります。健やかな時があれば、病む時もあるのでしょう。しかし、だからこそ、イエス様があの時弟子たちに語られたこの言葉を、教会は大切に伝えてきたのです。この世的に見るならば何も持っていない弟子たちだからこそ、何も差し出すことのできるもののなかった弟子たちだからこそ、ただで受けたもの、すなわち神の恵みを人々と分かち合うことができたのだ、と。、
だからこそ、遣わされた者の働きは、主に依り頼むこと、そして祈ることなくして成され得ないのです。実際、あの弟子たちにしても、手元に何もないならば、天を仰ぐしかなかったわけでしょう。教会として、個人として、私たちが何を持っているかは問題ではありません。どのような状態に置かれているかも問題ではありません。遣わされた者として、真に遣わしてくださったキリストに寄り頼み、キリストの御声を聞き、御心を行いたいと願っているかどうかが重要なのです。