2025年9月7日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 13章24節~30節
今日はイエス様のなさったたとえ話をお読みしました。マタイによる福音書にしか出てこない「毒麦のたとえ」です。そして、今日の福音書朗読には入っていませんでしたが、36節以下ではイエス様がこのたとえ話について解説してくださっています。
畑は世界、敵は悪魔
たとえ話そのものは至って単純です。ある人が麦の種を蒔きました。すると人々が眠っている間に、敵が来て、毒麦を蒔いて行きました。毒麦と良い麦は、ある程度成長しなければ見分けがつきません。やがて僕たちが異変に気づきます。自然に雑草が生えてきたという程度ではありません。明らかに異常な量の毒麦が生えています。僕たちは主人に報告して言いました。「どこから毒麦が入ったのでしょう」。主人は、「敵の仕業だ」と言いました。
毒麦は有害な植物です。ですから僕たちは一刻も早く抜き集めようとしました。ところが主人は言うのです。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」(29‐30節)。これがイエス様の語られたたとえ話です。
次にイエス様の説明も見ておきましょう。38節に「畑は世界」と語られています。そして、39節には「毒麦を蒔いた敵は悪魔」であると語られています。悪魔がこの世界に毒麦を蒔いている。――なるほど、言われてみれば、その通りでしょう。誰の目にも明らかなことは、この世界には良い麦と呼べるものだけが成長しているのではない、ということです。確かに毒麦が存在しているのです。しかも力強く成長しているのです。
実際、悪魔の仕業としか思えないような事が起こります。なぜこんなことが起こるのか?なぜこんな人々が野放しにされているのか?なぜ不正を行う者が繁栄し、正直で善良な人々が詐欺に遭うようなことが起こるのか?実際、毒麦は良い麦以上に成長するものです。
しかし、聖書が語っているのは、蒔かれた種とその成長だけではありません。39節以下には、刈り入れの時についても語っているのです。「刈り入れは世の終わりのこと」と語られています。つまり、この世界がこのままで永遠に続くのではない、ということです。刈り入れの時が来るのです。結論が出る時が来るのです。それが私たちの死んだ後か死ぬ前か分かりません。しかし、いずれにしても毒麦は集められ、火で焼かれることになる。最終的に神様が正しく裁かれるということです。イエス様が語っておられるのはその意味で世界全体に関わる話です。
たとえ話の中に身を置いてみると
さて、このたとえ話の中に身を置くと何が聞こえてくるでしょう。
ある人はこの「毒麦」のところに身を置いて聞くかもしれません。「わたしは外側は取り繕って良い麦のような顔をしているかもしれないけれど、本当は神様から見たら毒麦かもしれない。ならば、最終的には毒麦として集められ、滅ぼされてしまうのではないだろうか。」そのように、「毒麦」のところに身を置く時、このたとえ話はたいへん恐ろしい話としてとして聞こえてまいります。
しかし、ある人は、「良い麦」のところに身を置いてこの話を聞くかもしれません。「確かにこのたとえ話のとおりだ。良い麦だけではなく、毒麦もいるというのは本当だ。いるいる、毒麦!あの人とこの人は、ぜったいに毒麦ですよね。今は、表面はいい顔して良い麦と区別つかないようにしているかもしれないけれど、最後には絶対に火で焼かれるね。」
いや、「良い麦」のところに身を置いて、他の人を毒麦と見なすだけではありません。このたとえ話には「僕たち」が出て来るのです。彼らは言うのです。「では行って抜き集めておきましょうか!」この僕たちのところに身を置くと、もしかしたら、ある種の共感を覚えるかもしれません。毒麦はいない方がいい。放っておいたら大変なことになる。早く対処しなくてはならない。そのようなことを心に抱いている自分自身を見出すことになるかもしれません。
実際、この僕が提案する「毒麦抜き」は、様々な形で歴史において起こってきたのです。ある場合には、文字通り、毒麦と見なされた人々が集められ、抹殺されるという形で起こりました。それは今も世界のどこかで起こっていることです。皆さん、本当に恐ろしいことは、「自分はもしかしたら毒麦かも」と思っているところからは起こらないのです。そうではなくて、正義感に燃えた正しい僕が「では行って抜き集めておきましょうか」と言い出すところから起こるのです。
刈り入れまで育つままに
そのように、この「毒麦」のたとえ話は、「毒麦」のところに身を置いて聞くこともできるし、「良い麦」のところに身を置いて聞くこともできる。「僕」のところに身を置いて聞くこともできるでしょう。そして、それぞれ聞こえて来ることがあるのです。しかし、このたとえ話の中心は、実は「毒麦」でも「良い麦」でも「僕」でもありません。中心はあくまでも「主人」なのです。
主人は何と言っているでしょう。「では行って抜き集めておきましょうか」と言う僕たちに、主人は答えます。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。その理由は何ですか。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」――これが理由です。
農業の話に限るなら、常識的なセンスを持っているのは、この「僕たち」の方です。毒麦は雑草です。成長すれば良い麦に根がからみもします。影響が小さいうちに、早いところ引っこ抜いてしまうのが良いのです。その時に、多少良い麦が抜かれてしまっても仕方ない。それがこの世の常識です。
しかし、この風変りな主人はそれがいやなのです。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」。そのように、この主人は異常なほどに、あくまでも一本一本の麦が正しく扱われることにこだわるのです。それゆえに途中でではなく、最終的にすべてが正しく扱われる時まで待ちなさいと言うのです。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と。
そして、もちろんイエス様は天の父の話をしておられるのです。神様は十把一絡げではなく、私たち《一人ひとり》が正しく扱われることを望んでおられるのです。一人ひとりに異常なほどに関心を向けられるのです。私たちは神にとってどうでもよい存在ではないのです。だから神は真剣に取り扱われるのです。
それゆえに、刈り入れの時まで待つのです。終わりの時まで待つのです。神様はそのような御方なのだ、というのです。神様は、早急に裁くことをされないのです。終わりの時までは、純粋に良い麦だけの畑を求められないのです。じっくりと忍耐をもって、時が来るまで待たれるのです。聖書が「終末における神の裁き」について語っているということは、言い換えるならば、その終わりの時までは、神は忍耐強く待たれる、ということなのです。
毒麦は良い麦に
このように、このたとえ話の中心は「主人」であり、最も大事なのは主人が語られた言葉です。しかし、実はもっと大事なことがあるのです。それは、このたとえを《イエス・キリストが語られた》ということです。教会は、このたとえを、「イエス・キリストが語られたたとえ話」として伝えてきたのです。そのイエス・キリストとは、私たちの罪を贖うために十字架にかかられて死なれたイエス・キリストです。
確かに神は良い麦と毒麦を一緒くたにはされません。「どちらであっても良いのだ」とは言われません。最終的に、良い麦と毒麦は区別されます。「刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と主人は言うのです。そのような、ある意味でとても恐ろしい話でもあります。
しかし、このたとえ話はイエス・キリストの語られたたとえ話なのです。救い主が語られたたとえ話です。救い主によって悔い改めが呼びかけられ、罪の赦しの扉が開かれているところで語られているたとえ話なのです。
罪の赦しの扉が開かれているということは、言い換えるならば、本来ならば滅びるはずの毒麦が、良い麦として倉に取り入れられる可能性があるということです。自然の農業においては、毒麦はあくまでも毒麦です。良い麦にはなりません。しかし、神の農業においては、毒麦が良い麦になり得るのです。良い麦としてスタートできるのです。罪の赦しがあるならば、そこには悔い改めと、新しいスタートもあり得るのです。毒麦に留まっている必要はない。毒麦であり続ける必要はないのです。
どうでしょう。もし神様という主人が、あの僕たちの提案に従って、「今すぐ毒麦を抜き集めてしまいなさい」と言われる御方なら、私は、とうの昔に抜き集められ滅ぼされていたに違いありません。それは皆さんにしても同じであろうと思います。しかし、神はそのような主人ではありませんでした。神は終わりの日まで待たれます。結論を出さずに待たれます。人がイエス・キリストを通して与えられた恵みを受け取り、罪の赦しにあずかって、良い麦として生き始めることを待たれます。そして、良い麦として生き続け、失敗したとしても何度でもやり直し、最終的に良い麦として刈り入れられることを神様は望んでおられるのです。そのことのために、神様はどこまでも忍耐強く私たちに関わってくださるのです。
「行って毒麦を抜き集めておきましょうか」――神はその提案に対して「ノー」と言われます。神がそう言われるならば、私たちもまた、他の人に対して、早急に結論を出してはならないのです。断罪するのではなくて、神様の忍耐と寛容とを思いつつ関わっていくことが求められているのです。
いや、他の人に対してだけではありません。私たちが本当に忍耐強く寛容をもって関わらなくてはならないのは、自分自身に対してであるかもしれません。自分を毒麦として早急に断罪してしまわないことです。本当に大事なことは、毒麦が発見されることでも、毒麦が抜き集められることでもないからです。大事なことは、毒麦が良い麦に変えられていくことだからです。