マタイによる福音書 16:21‐28
自分を捨ててわたしに従いなさい
今日の聖書箇所は、「このときから」という言葉から始まっていました。その直前には、ペトロが、「あなたはメシアです」という信仰を言い表しています。この「あなたはメシアです」という言葉を受けて、イエス様は、御自分がメシアであるとはいかなることかを、語り始められたのです。「このときから」とはそういうことです。
しかし、そこで弟子たちが耳にしたのは、まことに驚くべき言葉でした。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)というのです。これがメシアであるということなのです。主は御自分がメシアであるゆえに、「必ず」苦しみを受け、殺され、復活することになっている、と語られたのです。
この「必ず~することになっている」という表現は、しばしば「神的必然」などと呼ばれます。これが神の御心であることを表しているのです。イエス様は父なる神の御心に従おうとしているのです。そして、さらに言うならば、それは私たちに対する愛のゆえなのです。イエス様は、私たちを救うために、父なる神の御心に従い、自ら罪の贖いの犠牲となることを受け入れたのです。
そのようなイエス様が言われるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。これが今日、私たちに与えられている御言葉です。
大事なことは、この言葉を語っているのがイエス様であるということです。この言葉を、語っておられるイエス様と切り離してはならないのです。なぜなら、「自分を捨てること」を勧める言葉自体は、この世において、イエス様以外のところからでも、いくらでも耳にすることがあるからです。
かつては日本という国家が「滅私奉公」というスローガンのもとに「自分を捨てること」を要求しました。自分を捨てた若者たちは、神風特攻隊として250キロ爆弾を積んだゼロ戦に乗りました。今から30年前、カルト集団のために自分を捨てた人々は、その結果として地下鉄サリン事件を起こし、14人もの命を奪いました。人が「自分を捨てること」によって、このようなことがいくらでも起こります。ですから、単純に「自分を捨てること」そのものが尊いことであるかのように、美化してはなりません。
主は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、【わたしに】従いなさい」と言われたのです。私たちはこれをイエス様の招きとして聞くことが重要なのです。すなわち、神を愛し、人を愛し、この私たちを愛された方の言葉として聞くことが重要なのです。
キリスト者であるとは、イエス様に向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表して生きるということであり、さらには《苦難を受けられたメシア》であるイエス様について行くことに他なりません。イエス様について行くならば、いわばイエス様の背中を見つめて歩いていくということになるのでしょう。愛のゆえに御自分を捨てられた御方、愛のゆえに十字架を背負われた御方、そうです、他ならぬこの私を愛し、私のために自分を捨ててくださった御方――そのようなイエス様の後ろ姿を見つめながら歩いていくことになるのです。
私たちがそのようにイエス様の後に従っていく時に、私たちが自分の思いに執着し、自分の願いだけを大切にして、神に対しても人に対しても我が儘を言い続け、自分を押し通しながら生きているとするならば、どうでしょう。私たちを愛するゆえに十字架を背負ってくださったイエス様の後についていくのに、私たちが何一つ背負おうとしないで、愛すること放棄して、負うべきものを放棄して歩いているならば、どうでしょう。それは決してあるべき姿でないことは明白なのでしょう。
ですから、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、何ら特別なことが語られているのではないのです。それを語られた御方のことを考えるならば、ある意味で、至極当然の言葉なのです。
わたしのために命を失う者は、それを得る
とはいえ、このような言葉を聞くことには注意が必要であろうと思います。讃美歌331番の歌い出しに、「主にのみ十字架を負わせまつり、我知らず顔にあるべきかは」という言葉があります。しかし、だからと言って、「イエス様だけ苦しませてはならないのだ。わたしも後についていくならば、知らん顔しているわけにはいかないのだ」と、悲壮感を漂わせながら、歯を食いしばりながら、必死の面もちでついていくだけならば、それはとても不健全な信仰生活となるのでしょう。主は、そのようなキリスト者の姿を望んではおられないだろうと思うのです。
この御言葉を、語ってくださったイエス様から切り離してはならないことは既に申しました。しかし、それだけではありません。私たちはその後に記されているイエス様の言葉からも切り離してはならないのです。
主はさらにこう言われたのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(25-26節)と。 つまりイエス様の言葉の主眼点は。「捨てさせる」ところにあるのではないのです。そうではなくて、「得させる」ところにあるのです。イエス様は、まことの命、決して失われることのない命を得させようとしているのです。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と主は言われました。「自分の命を救いたいと思う」ということは、自分の命にしがみついているということです。それは単に「死にたくない、死にたくない」と言っている、ということではありません。人間が自分の命にしがみつくのは、死に直面する時だけではないからです。死に直面していなくても、人は自分の命にしがみついているものです。「これは私の命だ!私の人生だ!」と言って。人はあくまでも自分の命として、自らの人生を全うしたいと思っているのです。なんとしてでも「自分のために」使おうとするのです。そして、時として、自分のために、自分の命を満たすために、全世界を手に入れようとさえするのです。
しかし、イエス様は言われるのです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。イエス様が言われるように、もし自分の望み通りに自分の命を用いて、実際に全世界を手に入れたとしても、全世界を手に入れた人としてただ死んでいくだけならば、それがいったい何になるというのでしょう。イエス様の言われるとおりです。
それは結局は、命を失うことでしかないでしょう。「これは自分の命だ。これは自分の人生だ。自分は自分の命を十分に自分のために使えただろうか。自分は自分の命について思い残すことはないだろうか」と言いながら死んでいく。それは命を得たことになりますか。ならないでしょう。それは命を失うことでしかないのです。イエス様の言われるとおりです。
イエス様は、本当の命を得よ、と言っているのです。命を得るのは誰か。「わたしのために命を失う者は、それを得る」と主は言われるのです。「わたしのために命を失う」とは、その前に書かれていることです。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従っていくことです。
キリストに従いながら、父なる神への愛のゆえに、人に対する愛のゆえに、あえて自分を捨てる、あえて十字架を背負っていく――それは一見すると自分の人生の一部を無駄にしてしまうように、命を削り落としてしまうことのように、命を失ってしまうことのように、見えるに違いありません。
それは「自分の十字架」ですから、それは人それぞれに違います。例えば、ある人は、キリストに従う者として、病気の家族の世話をすることを、神から与えられた自分の十字架として受け取り、背負い、そのゆえに人生の大半を費やすかもしれません。「自分のしたいこともできなくて、苦労だけで人生を費やしてしまって、なんて可哀想な人なんだろう」――そのように人は見るかも知れません。しかし、そうではないのです。そこにこそ、本当の命はある、その人は命を得るのだ、と主は言われるのです。
そして、実際、イエス様はそのことを見せてくださったのです。イエス様の人生は、まさに十字架へと向かう人生でありました。イエス様の命は、文字通り十字架を背負い、その十字架にかかって死ぬために費やされてしまったのです。しかし、イエス様はただ命を失った可哀想な人なのでしょうか。いいえ、そうではありません。人々は、そのようなイエス様の内から輝き出る、まことの命の光を見たのです。
そして、その命の輝きは、復活において完全に現されたのです。「三日目に復活することになっている」と主が言われたとおりでした。十字架の先に――そうです、その先に復活がありました。復活したキリストを弟子たちが見た。それはただ単に、死んだはずのイエス様に再びお会いした、ということではないのです。弟子たちは、キリストの内に本当の命を見たのです。決して失われることのない、永遠の命を見たのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。これは、イエス様が見せてくださった、まことの命を得るようにとの招きに他なりません。それゆえに、これを語ったイエス様が望んでいるキリスト者像は、「悲壮感を漂わせながら、歯を食いしばりながら、必死の面もちで着いていく」というようなものではないのです。主が望んでおられるのは、十字架を背負いながらも、命に溢れ、喜びと希望に溢れている、そんな姿であるに違いありません。そのような歩みへと、主は招いていてくださっているのです。