2025年4月13日棕櫚の聖日 礼拝説教
聖書:マタイ27:32-56
今日の福音書朗読は、イエス様が十字架にかけられ、息を引き取られるまでのことを伝えている聖書箇所でした。
それは世界の片隅で起こった小さな出来事でした。特殊な力をもったあるユダヤ人が宗教裁判にかけられ、後にローマ人の法廷において裁かれ、十字架刑に処せられて死んだ。この世的に見るならば、それだけの話です。当時は十字架刑で処刑された人などいくらでもいた時代ですから、そこで起こった出来事も、やがて時の流れと共に忘れ去られたとしても、決して不思議ではなかったのです。
しかし、現実にはそうはなりませんでした。その人の話は二千年後の遠く離れた日本においても語り継がれ、あの日の出来事はこの世界を変えた出来事として記憶されてきたのです。それゆえに、なんと、あの時用いられた死刑の道具が、二千年後の日本の教会にもこうして掲げられているのです。
あの日、あそこで何が起こったのか。あの方が十字架の上で死んだことは、いったい何を意味するのか。聖書は実に様々な仕方で、言葉を尽くして、あの出来事の意味を伝えようとしているのです。今日読まれた箇所もその一つです。
そこには確かに、今日の私たちからすると、首をかしげてしまうようなことが書かれています。昼の十二時に全地は真っ暗になった。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。さらには墓が開いて、死者が生き返ったという話まで出て来ます。――明らかにマタイが伝えようとしているのは、人間が行った何かではありません。あの十字架の出来事は、ただ人間が人間に対して行ったことではないのだ、ということを伝えようとしているのです。そこには神がなさった特別なことがあるのです。では、それは何なのか。一つ一つ見ていきましょう。
全地は暗くなった
まず書かれているのは「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(45節)ということです。
かつてイスラエルには、最も明るいはずの真昼が暗闇となることを預言した人がいました。預言者アモスです。アモス書には次のように書かれています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8:9‐10)。
アモスが語っているのは裁きの預言です。彼は神が最終的にこの世の罪を裁かれる「その日」について語るのです。アモスは「その日」を「主の日」と呼びます。そして、その「主の日」が、暗闇として到来することを預言したのです。
そして、今日の聖書箇所は、ついに「その日が来た」と伝えているのです。旧約聖書の預言のとおり、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と。神が白昼に大地を闇とする日、そして、神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変えられる日、苦悩に満ちた日が、ついに到来したのです。
しかし、地上に神の裁きが行われる「その日」が到来したにもかかわらず、現実に起こったことは、アモスの預言の通りではありませんでした。地上の人々は嘆きの歌など口にしていませんでした。――そうです、たった一人を除いては。
嘆きの歌を口にしていたのは、ただ一人、十字架の上のキリストだけだったのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明されています。それは嘆きの歌と呼ばれる詩編の一つ、詩編22編の言葉です。そのように、ただキリストだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、嘆きの歌を口にし、苦悩の叫びを上げておられたのです。
他の人々は、主の日が到来し、神の裁きが地上に行われているなどと夢にも思ってはいませんでした。本当は神の正しい裁きのもとに苦悩しながら滅びるしかなかった自分であることを誰も知りませんでした。そんなことはつゆ知らず、人々はキリストに向かってあざけりの言葉を投げつけていたのです。そして、そのただ中で、罪なきキリストが、まるで避雷針のように、すべての人に代わって、すべての人の罪をその身に負って、神の裁きを一身に受けられたのです。
そして、主は死なれました。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(50節)と書かれています。主の最後の叫び、それは「成し遂げられた」という叫びであったとヨハネによる福音書は伝えています。救い主が成すべきことを成し遂げられたのです。ならば、それはまた、この地上に決定的な何かが始まった瞬間でもあるのでしょう。
それゆえに、マタイは「そのとき」という言葉をもって、さらに神のなされた二つのことを伝えるのです。ちなみに「そのとき」というのは、「すると、見よ!」というのが直訳です。「見よ!」という言葉で、その瞬間から始まった出来事に注目させているのです。そこで注目すべきは単に事柄の不思議さでも異常さでもありません。大事なのは、それが「何を意味しているのか」ということです。先にも申しましたように、聖書は言葉を尽くして、あの日の出来事の「意味」を伝えようとしているのです。
垂れ幕が裂かれた
まずそこに語られているのは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たということです。
「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には通常誰も入ることができません。ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることが許されています。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。贖いの血を携えなければ通ることができない神殿の垂れ幕は、神と人間との関係を象徴的に表しています。人間には罪があるゆえに、本来、聖なる神に近づくことはできない、ということです。その事実を示しているのが、この垂れ幕です。
しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれているのです。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。ですから「上から下まで」と書かれているのです。あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いたのです。
キリストが成し遂げてくださったことのゆえに、もはや神と人間とを隔てるものはなくなりました。神によって垂れ幕は引き裂かれた。そこにあるのは罪の赦しです。罪の赦しによって、人間が神に近づく道が、永遠に開かれました。その道が神の御手によって開かれました。これが、あの瞬間にこの地上において起こった第一のことです。
墓が開いた
そして、さらにこう書かれております。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51‐52節)。
私たちの目に大地は動かざるものと映ります。人間はその確かさの上に家を建て、町を築きます。しかし、大地は決して動かざるものではありません。地震が起これば揺れ動きます。そして、決して裂けるとは思えなかった岩が裂けるのです。
キリストの死において始まったのは、まさにそのような出来事だったというのです。最も確かに思えたものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。
人間にとって最も確かなことって何ですか。それは人間が「死ぬ」ということでしょう。死の支配ほど確かなものはありません。死の中に閉じこめられない者は誰もいません。墓に入った者は、二度と外に出てくることはありません。それが最も確かなことです。そうです、確かなことであった……はずでした。しかし、その最も確かなものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。死の支配が打ち壊されたのです。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」という描写が意味しているのは、そういうことです。
そして、墓が開かれたことが、神殿の垂れ幕が裂かれたことと共に記されているのです。この二つは切り離すことができないのです。
考えてみてください。私たちが死んだ後で、再び墓から出てくることが出来れば、それが救いになるでしょうか。本当の意味で死の克服になるでしょうか。あるいは、そのまま永遠に長生きして死なないとするならば、それは死の克服になるでしょうか。いいえ、ただそれだけならば、それはきっと地獄を意味するに違いありません。
本当に必要なのは、罪の赦しであり、隔てが取り除かれた者として神との交わりが回復されることなのです。そのこと抜きにして、ただ墓から出てくるだけなら、苦悩の日々が永遠に伸びるだけなのです。
今日は4月の召天月礼拝でもあります。4月に天に召された方々を記念して礼拝を捧げています。それらの方々をも含め、私は、今まで病の床において共に祈り、そして亡くなっていった幾人もの人たちを思い起こします。人が人生の終局にさしかかる時、もはや富も名誉も大きな意味を持ち得ません。豪華なご馳走も、意味を持ちません。食べられないんですから。最終的に死が克服されるために必要なのは、何ですか。それは、キリストの十字架であり、「あなたの罪は赦された」という神の宣言であり、神と人との隔てが取り除かれて、人が神と共に生きるようになることなのです。そこにこそ真の救いはあるのです。
私たちは十字架におけるキリストの死において実現したことを見てきました。今日から受難週に入ります。イースターまでの一週間、キリストの十字架において成し遂げられた救いの恵みを深く思い巡らす時として過ごしましょう。