2025年7月20日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 7:7‐12
神の国を求めなさい
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)。これが今日、私たちに与えられているイエス様の御言葉です。
イエス様は「求めなさい」と言われました。これは「お願いしなさい」という意味の言葉です。ちょうど子どもが親に願い求めるように、天の父に必要なものを願い求める、ということです。「お祈り」が何であるかを知りたかったら、イエス様が他の箇所で言っておられるように、まずは幼子のようになることです。「最終的には自分だけが頼り」なんて淋しいことを言わないで、いつも天の父のことを思いながら生活し、事々に天の父にお願いすることです。パウロもこう言っています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)。
そのように、主は「求めなさい」「お願いしなさい」と言われました。そう言われれば、願い求めたいものはたくさんあるようにも思います。しかし、物事には優先順位というものがあります。まず最初に願い求めるべきものがあります。それは何か。実は既に先週お読みしたマタイによる福音書6章に書かれていたのです。主は言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(6:33)と。
まず求めるべきは神の国と神の義です。何を願い求めても良いのだけれど、私たちはこのことを忘れてはなりません。「神の国と神の義を求めなさい」。「神の国」とは「神のご支配」のことです。「神の義」はこの場合は「神の救い」と言い換えてよいでしょう。
実際、「主の祈り」において、私たちは毎週神の国を求めて祈っているではありませんか。「御国を来たらせたまえ(御国が来ますように)」と。私たちは「御国に入れてください」と祈っているのではありません。「御国が来る」ことを祈り求めているのです。神の支配が来ることです。救いが来ることです。それは言い換えるならば、「御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」ということです。神が御支配くださり、神の御心が地上に成ることを祈り求めているのです。
イエス様が言われるように、天には御心が成っているのです。しかし、地上には実現していません。人間が憎みあい、殺し合っているこの世界は、明らかに神の御心が実現している世界ではないし、神の国でもありません。私たちの職場は、私たちの家庭は、どうでしょう。子どもたちの通う学校はどうでしょう。天に神の御心が実現しているように、この地上に実現していますか。いいえ、明らかに御心に反することが行われている現実がそこにあります。
そのような悲惨なこの世界について、それはあなたがたの責任なのだから、あなたがたの手でなんとかしなさいとイエス様は言われないのです。「求めなさい」と主は言われるのです。「御国を来たらせたまえ」と祈り求めたらよいのだ、と。
ならば、私たちは求めるべきなのです。私たちの人生に「御国が来ますように」と祈り求めるべきです。神の国が来て、私たちを罪から解き放ち、私たちの生活を変えてくださるように、神の愛の光が満ち溢れた生活へと変えてくださるように、祈り求めるべきなのです。同じように、私たちの家庭についても「御国が来ますように」と祈り求めるべきなのでしょう。共に神を礼拝し、神を愛し互いに愛し合う家庭となるように、家族が救われることを祈り求めるべきなのでしょう。
もちろん、教会にも「御国が来ますように」と願い求めるべきです。教会こそ変わらなくてはなりません。神の支配が現れ、神の御心が実現していくところとならねばならないのでしょう。そして、私たちはこの世界に、「御国が来ますように」と祈り求めるのです。最終的にキリストの再臨と共に、この世界に神の支配が打ち立てられ、神の救いが完成することを祈り求めるのです。
そうです、私たちは神様にお願いすべきなのです。求めるべきなのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」と主は言われるのですから。そもそも問題は求めないところにあるのです。この世の様々な問題についても、あれこれと論じているばかりで、あるいは他の人を責めるばかりで、私たち自身が一向に父なる神に真剣に求めようとはしない。それこそが問題なのであって、本当の問題は私たちの無力さにあるのでも、努力の欠如にあるのでもないのです。信じて祈ろうとはしない。求めない。そこにこそ私たちの本当の問題があるのです。
求め続けなさい
そして、さらに言うならば、イエス様が言っておられる「求めなさい」という言葉は、「求め続けなさい」という意味合いの言葉なのです。イエス様は、失望することなく、倦むことなく祈り続けることの大切さを弟子たちに繰り返し教えられました。なぜでしょう。時として神様の御業は全く進んでいないように見えるからです。また、しばしば逆行しているかのように見えるからです。そのことについて、イエス様は人が聞いて納得するように、説明しようとはされませんでした。イエス様は、ただ父を信頼して祈り続けるようにと教えられたのです。
主は言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(9‐11節)。そのように、諦めないで祈り続けるために必要なことは、神を「良い物をくださる」善き父として信じることです。
実際、私たちが諦めないで祈り続ける時、その祈り続けるプロセスの中で、既に天の父からの「良い物」を受け取り始めているのです。そのことを私たちはしばしば経験するのです。その最も大きな一つは何でしょう。祈り続ける時に、神に向かい続ける時に、祈っている私たち自身が変えられていくということです。教会が熱心に祈り始める時、その教会自身が変えられていくのです。キルケゴールは言いました。「祈りは神を変えるのではなく、祈る者を変えるのだ」と。まずこの良き物が与えられるのです。
例えば、主は続けて、「探しなさい。そうすれば、見つかる」と言われましたでしょう。そのように祈り続ける中で、私たちは「探す人」になっていくのです。「探す」という言葉は、「尋ね求める」と訳せる言葉です。誰を尋ね求めるのでしょう。――神様御自身です。
かつて預言者エレミヤは言いました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。
私たちは当初は「祈ることによって何が起こるのか」ということにしか関心がないかもしれません。しかし、祈り続ける中で、私たちは「何かを」ではなく、心を尽くして「神御自身を」求めるようになるのです。そして、神様と本当の意味で出会うのです。
さらにイエス様は「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とも言われました。そのように祈り続ける中で、私たちは「門をたたく人」にもなっていくのです。神様と出会い、神様をまことの父として知っていき、その父こそが現実の門を開いてくださる御方であることを知っていく時、人は自らの手で「門をたたく人」になっていくのです。すなわち、そこに具体的な行動が生まれるのです。神が開いてくださることを信じて、できることから始める人となるのです。その人は勇気をもって自分の為しえる具体的な一歩を踏み出す人に変えられるのです。
それは同じ行動を起こすのであっても、自分の力で門をこじあけようとする行動とは明らかに異なります。自分の力で「門をこじ開けよう」とすれば、そこには苛立ちが生じます。焦燥感にかられます。しかし、門をたたく人は、そうではありません。そこには期待と待望あります。それに伴う喜びがあります。門を開けるのは自分ではなく神様であることを知っているからです。だから、門をたたき続けることができる。
そのように祈り続ける中で、私たちは変えられていきます。既に良き物を受け取り始めているのです。そして、やがては天において成っているすべての良きことが地上においても完全に実現することを期待して、喜び待ち望むのです。
そして、私たちは最後に、とても大事な事実に目を向けなくてはなりません。すなわち、「求めなさい」と言われたイエス様は、自ら父に求めて、御心が天になるごとく地にもなることをひたすら求めて、そのために自らを献げて十字架へと向かわれたということです。
「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とイエス様は言われました。これは本当は驚くべき言葉なのです。どうして神が私たちの「天の父」なのですか。どうして「天の父」と呼べるのですか。この地上において、神をないがしろにし、神の御心に逆らって生きてきた私たちが、どうして事も無げに神を「天の父」と呼べるのですか。本来ならば、「良い物をくださるにちがいない」ではなくて、「あなたたちは自らの罪に相応の報いを受けるに違いない」と言われても仕方がないのでしょう。そのような私たちが、安心して神を「天の父」と呼ぶことができるのはなぜですか。それは一重にキリストが私たちの罪を贖ってくださったゆえなのです。
いわば、キリストは御自分の命を献げて、私たちが「天の父よ」と祈れるようにしてくださったのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」この言葉には、キリストの命の重さがかかっているのです。そのような言葉を、私たちは与えられました。どうしたらよいのでしょう。父に求めるべきなのでしょう。神の国と神の義を求めて生きるべきなのでしょう。御心が天に成るごとく地にも成ることをひたすら求めて生きるべきなのでしょう。キリストが十字架にまでかかってくださったのに、私たちは簡単に諦めてよいのでしょうか。祈ることに倦み疲れていてよいのでしょうか。良いはずがありません。求め続けましょう。探し続けましょう。門をたたき続けましょう。