2026年9月20日 主日礼拝説教
聖書:ヘブライ人への手紙 9:23-28
死後裁きを受ける私たち
この近辺ではあまり見かけませんが、地方を車で走っていますと時々黒地に白と黄色の文字で書かれたキリスト教の看板を見かけることがあります。「キリスト看板」と呼ばれるもので、「聖書配布協力会」という団体が設置しているものです。最近は若干数が減っているようですが、新しいものにはQRコード付きのものもあるそうです。そこには、「キリストは墓からよみがえった」「イエス・キリストは神のひとり子」といった言葉が書かれています。中には「死後さばきにあう」というようなものもありました。現在は作られていないそうですが、私自身、何度か目にしたことがあります。黒地に白と黄色で書かれていると、実に恐ろしげに見えます。
今日の聖書箇所にも似たような表現が出てきました。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(27節)。確かに、聖書は死後の裁きについて語っています。ここを読むと私などは、ふとあの恐ろしげな、黒地に白と黄色の文字を思い出します。
しかし、死後の裁きをただ「恐ろしいこと」として考えるのは、正しいことなのでしょうか。
そもそも人は、この世に不当なことを見るならば、正しい裁きを求めるものです。もし自分が不当な苦しみを負うならば、正しい裁きが行われて不当な苦しみが取り除かれることを求めることでしょう。不当な苦しみを負ったまま死ぬことになるなら、死んだ後にでもその苦しみが正しく報いられることを望むものでしょう。
この世において正しいことが完結するわけではありません。この世においてすべての決着が付くわけではない。私たちは良く知っているのです。その意味において、死後に裁きがあるということは、人間にとって希望でもあるのです。
また「死後の裁き」を考えるということは、私たちの生き方をも決定的に左右すると言えるでしょう。これは私たちの一生をいったい誰が判断するのか、ということに関わっているからです。私たちは往々にして、人の評価、人の判断、人の言葉に振り回されながら生きているものです。しかし、聖書は死後における神の裁きを語るのです。最終的に神が判断されるのです。評価するのは人間ではありません。神様です。人間が見ていようがいまいが、人間に誤解されようが、馬鹿にされようが、くさされようが、軽く見られようが、神様は正しく見ていてくださる。神が裁かれるとはそういうことです。その意味においても、死後に裁きがあることは、人間にとって希望でもあります。
多くの人の罪を負うために
そのように、人は一方において正しい裁きを求めているし、死んだ後でもよいから正しい裁きがなされることを求めているとも言えます。しかし、もう一方において、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」という言葉には、ある「恐ろしさ」が伴っていることも事実です。「死後裁きにあう」という言葉を見て、単純に「ああ、嬉しい!」と思えない。それは私たちが必ずしも善を行って生きてはいないという事実をよく知っているからでしょう。詩編に歌われているとおりです。「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)。
私たちは一方において正しいことがなされることを求めます。しかし、もう一方において自分は正しくないことをも知っています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」。そこでは他の誰かの罪ではなく、私たち自身の罪が問題となります。
それゆえに、続く28節が重要になるのです。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。そもそも、この手紙はただ死後に裁きがあること自体を語りたかったのではありません。本当に語りたかったのはこの28節なのです。
「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた。」そう聖書は語ります。「多くの人」というのはヘブライ語的な表現で、意味するところは「すべての人」です。キリストは、すべての人の罪を負うために身を献げてくださった。これがキリストのしてくださったことです。それは何を意味するのか。聖書は、昔行われていた礼拝の形を引き合いに出して説明しています。幕屋において行われていた、動物を犠牲として捧げる礼拝です。
天そのものに入られたキリスト
特にここで取り上げられているのは、「贖罪日」という特別な日の礼拝です。遡って6節以下をお読みします。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。
「第一の幕屋」と「第二の幕屋」が出て来ますが、これは幕屋が二つあるということではありません。一つの幕屋が垂れ幕によって二つに仕切られているのです。垂れ幕の手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、垂れ幕の向こうは「第二の幕屋」あるいは「至聖所」と呼ばれていました。
一般の祭司たちは第一の幕屋までしか入れません。その奥の第二の幕屋には入れないのです。そこには大祭司だけしか入れません。しかも年に一度だけです。大祭司が第二の幕屋に入る前に、罪の贖いのための犠牲が屠られます。人々の罪が赦されるため、代わりに動物が死ぬのです。大祭司はその血を携えて垂れ幕の向こうに入るのです。自分自身と人々の罪が赦されるために、定められた贖いの儀式を行い、血を携えて神の御前に出るのです。
このように動物を屠って、その血を携えていくという儀式は、今日の私たちの感覚からすれば極めてグロテスクなものと映ります。いったいどうして神はこのような儀式を行うことを命じられたのでしょう。――それは、このような目に見える儀式をもって、目に見えない世界において起こることを教えるためだったのです。本当に意味のあることは、目に見えない神の御前で起こること、天において起こることです。しかし、それは目に見えないから私たちには分からないのです。それゆえに目に見える「写し」が必要なのです。
24節にはこう書かれていました。「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(24節)。大祭司が第二の幕屋に入るのは、ある意味では神の御前に出ることだったわけですが、それはあくまでも「写し」としての儀式に過ぎません。しかし、キリストは本当の意味で神の御前に出てくださったのです。
大祭司はその手に犠牲の血を携えていました。罪の贖いのための血です。しかし、動物犠牲はあくまでも「写し」に過ぎません。大祭司が毎年この儀式を繰り返したのも、それは「写し」に過ぎないからです。写しではない本物の贖いは、目に見えない神の御前において、一度限り、決定的なこととして起こったのです。25節以下において次のように書かれているとおりです。
「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(25‐26節)。
これが「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」ということです。キリストが私たちのためにしてくださったことです。目に見えるところにおいては、十字架上において惨めに死んでいったキリストです。しかし、目に見えない世界において、目に見えない神の御前において、私たち人間にとって決定的に重要なこと、すなわち罪が取り去られるということが起こっていたのです。神の裁きにおいては罪なしとはされ得ない私たちです。その私たちの罪を負うために、キリストは身を献げてくださったのです。
救いをもたらすために現れてくださる
そして、聖書はさらに言葉を続けます。28節全体をお読みします。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。
このように聖書は、キリストが一度目に来られた時に私たちのためにしてくださったことだけでなく、二度目に来られて私たちのためにしてくださることについて語っています。一度目のことは既に起こったことです。二度目のことはまだ起こっていないことです。今を生きる私たちの信仰生活は、その二つの間にあります。
この二つの間にあるということは、キリストの成し遂げてくださったことによって罪の赦しは受けているけれど、完全な救いはまだ待ち望んでいる状態だということです。罪を赦された者として神の御前に生きることはできるけれど、完全な救いを待望する者として忍耐が求められているということです。実際、この手紙には「忍耐」という言葉が繰り返し出てきます。
キリストが「救いをもたらすために現れてくださる」。これは、救いは向こう側から来るということです。私たちが到達するのではありません。救いは向こう側から来るのです。それはいつか。「その日、その時は、だれも知らない」(マルコ13:32)とキリストは言われました。それがいつかは分からないけれども、はっきりしていることがあります。いかなる苦しみも永遠ではないということです。救いは向こうから来るからです。
そのように、私たちのために、この世界のために、既にキリストがしてくださったことがある。そして、私たちのために、この世界のために、キリストがしてくださることがある。その意味でキリストは既にこの世界に与えられた救いです。そして、この世界の希望なのです。