2024年12月22日 クリスマス主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 1:18‐23
本当のクリスマスを祝うため
本当のクリスマスを祝おうと思うなら、二つのことを退けなくてはならない。エミール・ブルンナーという神学者がそう言っていました。その二つとは何でしょうか。第一は現代社会の不安によってクリスマスの喜びを失ってしまうことだと彼は言います。確かに不安に満ちた社会に私たちは生きています。不安要素を数えれば切りがない。個人的にも、お互い多かれ少なかれ問題を積み残しにしたまま年を越していくのでしょう。しかし、それでもなお私たちはクリスマスの喜びを奪われてはならないのです。「それは悪魔の望むところである」と彼は言います。すべての悪は喜びの喪失から生まれる、と。私たちは喜びを失うことによって、悪魔を喜ばせてはならないのです。
しかし、退けなくてはならない第二のことがあります。それは、人為的なクリスマスの喜びに溺れないことだと彼は言うのです。人為的なクリスマスの喜びとは、現実逃避の喜びです。「今がどんな悪い時代であるか、そんなことなど忘れてしまおう。少なくとも今日はクリスマスなのだから」。――そのような喜びのことです。そのような麻薬中毒のような喜びを悪魔は奪おうとはしません。悪魔には都合のよいものだからです。
私たちはここに、ただクリスマス気分に一時酔いしれるために集まっているのではありません。そのようなものは、この場所を出て寒い風に当たれば吹き飛んでしまいます。私たちは、どんな寒い風が吹こうが、嵐の中に置かれようが、絶対に奪われない喜び、悪魔に奪われることのない本当の喜びに生き、また生き続けるためにここにいるのです。
罪からの救い
そのような私たちに与えられているのは、マタイによる福音書の御言葉です。こう書かれていました。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。聖霊による懐胎。いわゆる「処女降誕」の話です。しかし、強調されているのは、その受胎の不思議さではありません。この物語の中で、アンバランスとも言えるほど強調されているのは、名前とその意味です。「イエス」という名。そして、「インマヌエル」という呼び名とその意味。マタイは名前の意味にかなりこだわっているようです。
そこでまず、私たちはその名前に注目することにしましょう。21節以下を御覧ください。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。
「イエス」という名前。それはユダヤ社会においてはごくありふれた名前でした。その名は旧約聖書に現れる「ヨシュア」という名前に相当します。「ヨシュア」とは「主は救い」という意味です。その名の通り、こうして生まれた方は救い主なのです。何から救ってくださるのでしょう。聖書は言います。「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と。
「罪から救う」。――当たり前のように書かれていますが、私たちの日常において、「罪から救う」という表現はほとんど耳にすることはありません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的に用いられている表現ではないので、ある程度の説明を要します。
例えば、こんなことを考えてみてください。皆さんが教会の帰りに下北沢東口近くで小さな男の子が泣いているのを見かけたとします。迷子のようです。お母さんが買い物をしている間に、ちょろちょろと歩き回ってはぐれてしまったようです。さて、皆さんはその男の子を助けたいと思います。お昼時です。随分お腹も減っているようです。そこで頌栄教会のAさんは、その男の子をマクドナルドまで連れていってハンバーガーを買ってあげました。そして、そのハンバーガーを渡すと、東口まで連れていって「バイバイ」と言って駅の中に入っていきました。
次にBさんが通りかかりました。男の子はハンバーガーを持ったまま泣いています。優しいBさんは思いました。「ひとりでずっとここにいたんだな。寂しかったに違いない。」そこでBさんはその子と遊んであげました。確かにその子は泣きやみました。もう泣いてはいません。そこでBさんは少し遊んであげると「ああ、泣きやんだね。じゃあね」と言って、駅に入って行ってしまいました。
そこにCさんが通りかかりました。Cさんは既に泣きやんでいたその子と一緒に、お母さんを捜して歩きました。そして、ついにお母さんのもとにその子を連れていくことができました。男の子はお母さんに抱っこされて、本当の笑顔が戻りました。
さて、その男の子を本当に助けることができたのは誰でしょうか。――最後のCさんでしょう。迷子は親に抱かれて初めて救われます。人間も同じです。必要を満たされることも大事です。寂しさを癒されることも大事です。しかし、人は神のふところに抱かれてこそ、本当の意味で救われるのです。それを聖書は「罪から救う」と表現しているのです。
「罪」とは、神に背いて、自分勝手に歩んで、神から離れてしまった状態です。羊飼いの声に聞き従わずに、群れから離れて迷子になった小羊のような状態です。迷子のような状態なのですから、不安で寂しくて苦しいのも無理はありません。そのように、神から離れたこの世界が不安に満ちているのも無理ないことなのです。
しかし、そんな迷子のような私たちを神様は憐れんでくださいました。そんな私たちを本当の親である神のもとに立ち帰らせるために、イエス様を救い主として送ってくださったのです。イエス様は神を示してくださっただけではありません。神を離れ、神に背いて自分勝手に生きてきた私たちが赦されるために、そして、神に赦された者として、神との交わりに生き、神の子供として生きることができるように、イエス様は十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったのです。イエス様は罪から救うために来られたのです。
ですから、その幼子はまた「インマヌエルと呼ばれる」と語られているのです。その名は「神は我々と共におられる」という意味です。イエス様が来られたのは、まさに私たちが「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と腹の底から喜んで言えるようになるためなのです。
どんなことがあろうと、辛い現実があろうと、涙にくれるようなことがあろうとも、神に愛されている子供として「神が共におられる」と言うことができるなら、既にその人は救われているのです。ちょうどさっきの迷子の男の子が母親に抱きかかえられたように。その救いの喜びこそ、神が与えてくださったクリスマスの喜びなのです。何によっても奪われないクリスマスの喜びなのです。
苦しみを引き受けた人々
しかし、私たちはここでもう一つの事実に目を向けなくてはなりません。そのような罪からの救い主、「インマヌエル」と呼ばれる御方が誕生するためには、そのために苦しみを引き受けた人々がいたのだ、ということです。そして、神の御計画を信じて、身を献げた人がいたということです。ご存じ、マリアとヨセフです。
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。これは何よりもまずマリアにとって恐るべきことでした。いったいどこの誰が「聖霊によって身ごもった」なんていう話を信じるでしょう。この出産がユダヤ人社会において全く受け入れられないであろうことは火を見るより明らかでした。
一方、このことがヨセフにも深い苦悩をもたらしたことは言うまでもありません。当初、ヨセフも「聖霊によって身ごもった」ということを信じてはいませんでした。「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていることから分かります。それは悩み抜いた末の決心だったのでしょう。そのヨセフが夢を見ました。主の天使が夢に現れて言ったのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)。ヨセフは信じました。そして、マリアを迎え入れることにしました。
しかし、ヨセフの苦悩が終わったわけではありません。いや、むしろ始まりだったのです。ヨセフは信じたかもしれない。けれど他の人は信じないでしょう。マリアを迎え入れるということは、マリアと一緒に苦しみを担っていくことを意味したのです。そのように、マリアもヨセフもいわば苦しみを引き受けたのです。神のなさっていることがあることを信じて、神の御計画が進んでいることを信じて、その神が「恐れるな」と言われる言葉を信じて、苦しみを引き受けたのです。
私たちの喜びであるクリスマスの物語には、そのような、苦悩に満ちたヨセフやマリアが出て来るのです。イエス・キリストは罪からの救い主として来てくださいました。しかし、この物語に見るように、誰かが救いに与り、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と喜びをもって語れるようになるためには、誰かが身を献げて、苦しみを引き受けるということが必要なのです。ヨセフやマリアのような人たちが必要なのです。実際、私たちが今こうしてクリスマスを喜び祝っているのは、ここに至るまでに多くの人々が身を献げ、労苦を引き受けてきたから実現していることなのです。
私たちはクリスマスを喜び祝うためにここに集まっています。誰によっても、この世のいかなることによっても、このクリスマスの喜びを奪われてはなりません。しかし、それは単に私たち自身のためではないのです。私たちは、この喜びを抱きかかえるようにしてここから出て行くのです。それは、今度は私たちが、誰かの喜びのために、誰かの救いのために、誰かが「インマヌエル」と言えるようになるために、神の御計画を信じて、身を献げて、自分の負うべき十字架を背負って生きていくためなのです。