2025年8月24日日曜日

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

2025年8月24日 主日礼拝説教 

聖書: マタイによる福音書 10:16‐25

希望を放棄しないこと
 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。――先ほどお読みしましたマタイによる福音書10章22節の言葉です。実は、この福音書の24章にもそっくり同じ形でこの言葉が出て来ます。語順も全く同じままマルコによる福音書にも出て来ます。恐らく初期の教会において、このままの形で記憶され、皆がしばしば口にしていたイエス様の御言葉だったのです。そして、この言葉が繰り返し口にされたのは、現実に苦しみがあったからです。

 私たちも知っているとおり、信仰は必ずしも苦しみの免除を約束するものではありません。キリストを信じたら苦難に遭うことはありません、などと聖書は約束していません。迫害の時代であるならば、それは自明のことでした。信仰を言い表しているゆえに、かえって苦難に遭うということが現実にあったからです。

 それは今日の聖書箇所において、イエス様も言っているとおりです。地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれることも起こる。すなわち宗教的な権力によって苦しめられることも起こります。あるいは総督や王の前に引き出されるということも起こってくる。ローマ帝国の国家権力によって苦しめられることも起こってきます。

 しかし、恐らく一番大きな苦しみは、家族から苦しめられることだったのでしょう。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」(21節)とさえ主は言われます。国家権力による迫害よりも、愛する者から理解されないこと、憎まれるようになることほど、辛いことはありません。そのような中で、彼らは互いにこう言って励まし合っていたに違いありません。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。そうイエス様は言っておられたではないか、と。

 「最後まで」と言われているということは、すなわち「最後がある」ということです。終わりがある。永遠じゃない。迫害は永遠ではありません。迫害に限らず、いかなる苦しみも永遠ではありません。それは限られた期間です。必ず最後がある。トンネルに必ず出口があるように、夜明けは必ず訪れるように、必ず「最後」があるのです。だから「耐え忍ぶ」のです。

 「耐え忍ぶ」とはどういうことでしょうか。苦しくても我慢することでしょうか。いいえ、そういう意味ではありません。これはもともと「留まる」という言葉から来ているのです。「耐え忍ぶ」とは「留まる」ということです。どこに留まるのでしょう。信仰に留まるのです。聖書が語っている「忍耐」とはそういうことです。信仰に留まることです。

 実はこれと同じ言葉が詩編に何度も何度も出て来るのです。詩編はもともとヘブライ語で書かれているのですが、七十人訳というギリシア語訳聖書があります。そのギリシア語訳の詩編にこの言葉が何度も出て来るのです。興味深いことに、ほとんどの場合、「待ち望む」という意味で用いられているのです。主を待ち望むということです。例えば、「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27:14)というように。この「待ち望む」と新約聖書の「耐え忍ぶ」は同じ言葉なのです。

 そのように、「耐え忍ぶ」「忍耐する」とは「待ち望む」ことなのです。主を待ち望むことです。どこまでも待ち望むことです。希望を放棄しないことです。信仰に留まって、希望に生きる、どこまでも希望に生きることです。「忍耐する」とはそういうことです。

 教会はその初めから、そのような意味で「忍耐すること」を大事にしてきたのです。教会は苦難が永遠でないことを常に心に留めてきたのです。終わりは神の御手の内にあることを知っていた。神は必ず夜明けをもたらすことができることを知っていたのです。だから互いに励まし合い、共に信仰に留まったのです。互いにこう言い交わしながら。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。

蛇のように賢く、鳩のように素直に
 そして、この「最後まで」と語られているこの期間を私たちが生きる上で、イエス様はとても大事なことを今日の箇所で語っておられるのです。それは今日の説教題にもなっています。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。

 イエス様は弟子たちに言われました。「わたしはあなたがたを遣わす」(16節)。今日の箇所は先週お読みした聖書箇所の続きです。ですから、この言葉が実際に語られた時点では、まだ彼らは近隣の町々村々に遣わされるに過ぎません。しかし、やがて彼らは、そして彼らから始まる教会は、この広い世界に遣わされることになるのです。今日の箇所は、そのことを見越して語られているのです。

 先週も申し上げましたとおり、私たちはこの世に遣わされているのです。キリスト者として生きるということは、主によってこの世に遣わされた者として生きるということなのです。私たちがどのような状態にあろうと、どこに身を置こうと、そこが私たちの遣わされた場なのです。主が目的をもって置いてくださっているのです。それは本当はとても幸いなことなのです。私たちはいかなる時にも無意味な存在ではあり得ないからです。遣わされているとはそういうことです。

 しかし、主はこうも言われました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と。主は最初から分かっておられたのです。弟子たちが遣わされた者として生きる時には、忍耐が必要となる時が来る、と。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と互いに励まし合うことも必要になる。なぜなら、この世界は狼がいる世界だからです。

 それは、迫害の時代の教会にとっては、具体的には迫害者を意味したことでしょう。実際、弟子たちは迫害者の群れの中に遣わされることになったのです。しかし、本当に恐ろしいのは、迫害する人間そのものではありません。そこに働いている力です。神から引き離そうとする力です。信仰生活を損なわせ、神に背を向けた生活へと誘い、滅ぼそうとする力です。

 それを悪魔、サタンと呼び、また悪霊と呼ぶこともできるでしょう。神から引き離すサタンの力は、必ずしも迫害という形をとって現れるとは限りません。迫害はある意味ではとても分かりやすいのです。しかし、実際には、迫害のない時代の私たちが経験しているように、もっともっと巧妙な形で、もっともっと複雑な仕方で、時として全く気付かないうちに、神から引き離す力は働いているものなのです。だからこそ、主は言われたのです。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)。

 「蛇のように賢く」という言葉の元になっているのは、恐らく創世記の物語です。エバが蛇に誘惑されて禁断の木の実を食べてしまったという話です。その蛇が聖書に登場する際に、こう書かれているのです。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3:1)。

 確かに創世記に出て来る蛇の誘惑は実に巧妙です。確かに賢い。ずる賢い。しかし、悪魔の誘惑とはそういうものではありませんか。先にも述べたように、しばしば全く気付かないうちに、神から引き離そうとする力は働いているのです。そのように、悪魔が賢いとするならば、私たちもまた、賢くあらねばならないのです。主は言われます。「蛇のように賢くなりなさい」。

 実際、もしこれが迫害の時代ならば、集会を一つ行うにしても賢さが必要だったと思います。キリスト者としてこの世で生活し、キリストを証しして生きるにしても、そこには賢さが必要だったと思います。いや、それだけではありません。迫害されれば迫害者と闘いたくなる誘惑もあったことでしょう。しかし、人間相手の戦いにしないで、悪魔と戦うためには、賢さが必要だったと思います。実際に彼らが世に遣わされた時、イエス様から言われたこの言葉の意味は、身に染みてよくわかったに違いありません。

 先にも述べましたように、今日においては、ある意味では、迫害の時代以上に、巧妙な形でサタンの力は働いているとも言えます。ならば、なおさら賢さが必要とされるのでしょう。目先のことに振り回されて、目に見えることに翻弄されて、やすやすと信仰生活が壊されるようなことがあってはならないのです。そこに働いている力は何なのか、本当の敵は誰なのか。絶対に奪われてはならないもの、失ってはならないものは何なのか。しっかりと見極めなくてはなりません。主は言われます。「蛇のように賢くなりなさい」。

 そして、主はまたこうも言われました。「鳩のように素直になりなさい」と。「素直に」というのは「混じり気のない」とか「純真な」という意味合いの言葉です。それはただひたすら神に依り頼む、素朴な信仰を意味するのでしょう。主は具体的に、こう言われたのです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(19‐20節)。

 たとえ地方法院に引き渡されるようなことになったとしても、そこで父の霊が語ろうとしていることがあるのです。総督の前に引き出されるようなことになったとしても、そこで父なる神がしようとしていることがあるのです。そのように、人間の目には最悪の事態が訪れたように見えたとしても、それでもなおそこで神がなさろうとしていることがあるのです。神の計画は進んでいるのです。人はただ鳩のように素直に、純真に、素朴に信頼したらよいのです。

 そのように主は「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われます。私たちはこの御言葉をしっかりと携えて、この世に遣わされていきたいと思います。そして、希望を手放すことなく、主を待ち望み、終わりの日に向かって、共に信仰の歩みを続けてまいりましょう。

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