2025年9月21日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 18:15‐20
兄弟を得るため
今日の福音書朗読は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉から始まっていました。この場合、「兄弟」とは肉親のことではありません。信仰における兄弟のことです。すなわち、神の子どもたちとして共に「天にまします我らの父よ」と祈り、こうして教会において一緒に神を礼拝しているお互いのことです。
教会は天使の集まりではありません。それは私たちそれぞれ自分のことを考えても分かります。天使の集まりであったら、自分がここにいるはずはないからです。ある時、イエス様は言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)。その意味では、私たちは皆、イエス様によって招いていただいた、癒されつつある病人であり、変えられつつある罪人です。
そのように、お互いが天使のような者でなくても、イエス様に招かれた者として、主のみもとに身を置くことができるということは、それ自体が大きな恵みです。しかし、もう一方において、お互い天使のような者ではありませんから、互いの間に問題が生じることもあり得ます。一人が他の人に対して罪を犯し、苦しめるということも起こり得ることです。それはイエス様には、初めから想定内のことだったようです。主は言われるのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら…」と。
特にここでは、「兄弟が《あなたに対して》罪を犯したなら」と語られています。つまり自分が被害者である場合です。苦しみを受けた場合です。その時にどうしたら良いのか、という話です。
誰かの罪により害を受けた場合、どうするでしょうか。「やられたら、やり返す。倍返しだ!」ひと昔前に、そんな言葉が流行りました。教会においては「倍返しだ!」と当然のごとく言う人はそういないだろうと想います。しかし、「やり返す」ということは考えないとしても、「もう関わりを持つことはやめよう。縁を切ろう」ということは考えるかもしれません。そのように、こちらから相手を切り捨ててしまうということは起こり得ることなのでしょう。
今日の聖書箇所ですと、17節に書かれているのはそういうことです。「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。少々差別的な表現のような気もしますが、当時のユダヤ人的な表現を用いるとこうなります。要するに、ここで言われているのは「関係を切る」ということです。「もはや兄弟とは見なさない」ということです。
時として、これが一番手っ取り早い解決策に思えることは、確かにあるだろうと思うのです。「倍返し」しなかっただけでも、まだ良かったと言えるかもしれません。しかし、イエス様は、私たちが一足飛びにその結論に至ることを望まれないようです。その前にすべきことがあると言われるのです。
では、どこから始めるべきなのでしょうか。主は言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。
まず、二人だけのところで語り合うのです。何のためですか。相手を責めるためではありません。目的は罪の悔い改めが起こることにあります。そして、赦しを与えることにあります。目的は和解が実現することにあるのです。そのような和解へのアクションは、苦しんだ方が先に取らなくてはならないのだ、主は言われるのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と。苦しんだ方から歩み寄るのです。兄弟を得るためです。
しかし、実際には、それで和解とが実現することは難しいかもしれません。そこで主は言われます。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(16節)と。
一人か二人を連れていくのは、二人がかり三人がかりで相手を責めるためではありません。法廷においては、複数の証言によって事実が確定します。そのように、事実に基づいて話をするためです。そのような客観性を持った話をするためには、時として第三者の助けを必要といたします。
しかし、それでもなお解決しない場合にはどうしたら良いのでしょう。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と主は言われます。そのように、苦しんだ方から行動を取るところから始まって、最終的には教会全体が解決を望んで取り組むところまで行って、それでもなお解決しなかった時に初めて「異邦人か徴税人と同様に見なす」ということが起こるのです。しかし、それは最後まで起こってはならないと主は考えておられるのです。
このように、イエス様が語っておられるのは、罪人を処分するための手順ではありません。主が望んでおられるのは、悔い改めと赦しが起こることなのです。和解が実現し、関係が回復することなのです。「兄弟を得たことになる」――これが実現することなのです。
心を一つにして求める
そして、主はさらにこう続けられます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18節)。
実はこれと全く同じ言葉を、既にイエス様は16章において語っておられました。その箇所も見ておきましょう。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表した時、主はペトロにこう言われたのです。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(16:18‐19)。そのように、主は「天の国の鍵」との関連でこのことを語られたのです。
天の国の鍵とは何でしょうか。天の国が閉ざされるとするならば、それは人間の罪のゆえに閉ざされるのです。ですから、罪人に対して天の国が開かれるとするならば、それは罪の赦しによるのです。その意味で、天の国の鍵とは「罪の赦し」です。その天の国の鍵を与えるため、罪の赦しを与えるため、イエス様は来られたということもできます。主はそのために十字架への道を歩まれ、自分自身を罪の贖いの犠牲として献げられたのです。イエス様は、文字通り、命がけで私たちに天の国の鍵を与えてくださったのです。
だから私たちは福音を宣べ伝えることができるのです。キリストによる罪の赦しを語ることができるのです。教会は洗礼を授けて罪の赦しを宣言することができるのです。キリストの恵みを分かち合う聖餐を行うことができるのです。この地上の教会で行われることは、天において、神の御前において意味を持つのです。それが「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」ということです。
しかし、ここで問わねばならないことは、何のために天の国の鍵、罪の赦しが与えられているのか、ということです。もちろん、罪ある者が赦されて、天の国に入るためであるには違いありません。しかし、それだけではないのです。それは地上において和解が実現するためでもあるのです。「兄弟を得たことになる」ということが本当の意味で実現するためでもあるのです。
つまりこういうことです。――誰かがあなたに対して罪を犯しました。あなたはイエス様の御言葉のとおり、二人だけのところで話をします。あなたは悔い改めを求め、赦しを与えようとします。しかし、それは単に、「あなたが悔い改めて私に謝罪するなら、私は赦してあげましょう」ということではないのです。そうではなくて、そこで重要なのは、「あなたが悔い改めて神に立ち帰るならば、神はあなたを赦してくださる」と伝えることなのです。そのためにこそ、神の赦しは与えられているのです。そして、あなたに対して罪を犯し、あなたを苦しめた者が神に立ち帰る時、そして神の赦しを得る時に、本当の意味であなたは「兄弟を得たことになる」のです。
私たちは間違ってはなりません。誰かに悔い改めを求めるとするならば、それは自分に謝罪させるためではないのです。悔い改めを求め、赦しを与えようとしているのは《神》なのです。私たちは、神の御心を代行するのです。そのために、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という約束の言葉は与えられているのです。
そしてさらに主は言われました。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(19節)。これも文脈と切り離してはなりません。「どんな願い事であれ」と言われているからこそ、二人が心を合わせて《何を願うのか》が重要になってくるのです。
私たちは心を一つにして何を求めるべきなのでしょうか。それはここまでの流れで明らかであろうと思います。悔い改めと赦しが起こり、和解が実現することです。「兄弟を得たことになる」ということが実現することです。それは自分自身と誰かの関係についてであるかもしれません。その時には他の誰かに共に祈ってもらうのです。あるいは他の二人の間に生じた亀裂であるかもしれません。その時には、自分が誰かと心を合わせて祈るのです。
最初に申しましたように、教会は天使の集まりではありません。イエス様によって招いていただいた、癒されつつある病人、変えられつつある罪人の集まりです。それゆえに、自分の罪によって他者を苦しめる時もあれば、他者の罪によって苦しめられる時もあります。しかし、そこで悔い改めが起こる。赦しが起こる。和解が実現する。そのことを主は望んでおられる。
しかし、実際には、それは容易なことではありません。だから祈るのです。心を合わせて祈るのです。そのように祈る恵みが与えられているのです。そして、そのように、共に祈る集まりのただ中にこそ、イエス様御自身がいてくださると、主は言われるのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。