2024年11月24日 主日礼拝説教【宣教150周年感謝礼拝】
聖書:マタイによる福音書 28:16-20
行きなさい
今日は、この教会の宣教開始から150周年の節目において、皆で主に感謝の礼拝をささげるために集まっております。その150年の半分近くをこの教会で過ごし、主の御業を見てこられた小山田小八郎兄に証しをしていただきました。もちろん、証しで語られたのは、主の御業のごくごく一部に過ぎません。イエス様がこれまでに、この教会を通して成してこられた救いの御業は、私たちには計り知ることができません。私たちはただ、主を礼拝し、感謝をささげるばかりです。
そのような礼拝において、私たちは主の御言葉に耳を傾けたいと思います。今日の福音書朗読において、主は私たちに「行きなさい」と語っておられます。今日読まれましたのは、マタイによる福音書28章、大宣教命令と呼ばれる聖書箇所です。宣教開始から150年。もちろん、ここが終着点ではありません。主は私たちに「行きなさい」と語られ、新たな教会の歴史の中へと送り出されるのです。
「行きなさい」。その言葉を最初に聞いたのは、ペトロを初めとする最初の弟子たちでした。「行きなさい」。それは何のためでしょう。主は言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。
「すべての民」というこの「民」は複数で書かれています。他の箇所ではほとんどの場合「異邦人」と訳されています。「すべての民」というのは、「ユダヤ人」という枠を越えた、全世界のあらゆる国々の人々という意味合いです。キリストの最初の弟子たちは皆ユダヤ人でした。しかし、イエス様は初めから、ユダヤ人社会の中に彼らを留め置くつもりはありませんでした。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って、全世界に向けて送り出されたのです。
そのように全世界に向けて送り出されているのが教会です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。代々の教会はこの言葉を文字通りに受けとめてきました。だから遠いカナダからこの日本にまで宣教師が送られてきたのです。だからこそ、この教会も存在するのです。だからこそ、ここに私たちがいて、同じ御言葉を聞いているのです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。
洗礼をさずけよ
その具体的な内容が二つ書かれています。「洗礼を授けること」と「教えること」です。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主は言われるのです。
イエス様は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われました。洗礼とは何でしょう。「洗礼」について、パウロが次のように語っています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。
「洗礼によってキリストと共に葬られ」と書かれていました。「葬られる」――誰によって葬られるのでしょうか。神様によってです。神様が私たちを葬ってくださる。言い換えるならば、神様が、私たちを死んだ者として見なしてくださるのです。そのように、一度葬られるのは何のためか。「新しい命に生きるため」、と聖書は教えているのです。一度死ぬのは新しく生きるためです。その意味において洗礼は古い自分の葬りであると同時に、新しい自分の誕生でもあるのです。
この世において新しい命が生まれたなら、その子がこの世に生きていくことができるように生活の仕方を教えられることでしょう。同じように、洗礼によって新しく生まれた人もまた、新しい生活の仕方を学んでいくのです。キリストの弟子として生きる新しい生活の仕方がしっかりと伝えられていかなくてはなりません。主はそのことを弟子たちに託されたのです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。そのようにして、イエス様が最初の弟子たちに教えたことが今日の私たちにまで伝えられているのです。私たちがしっかりと受け取り、それを手渡していくためです。
世の終わりまでいつも共にいる
さて、そのように主は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って教会を全世界に送り出されました。「行く」ことも、「洗礼を授ける」ことも「教える」ことも、すべて人間が行うことです。しかし、イエス様は「頑張ってあなたがたの力でこれを成し遂げなさい」とは言われないのです。この命令は「だから」という言葉から始まるのです。この命令には前提があるのです。
その前には何が言われていますか。18節において主はこう言っておられます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。これが大前提です。そして、最後はこう締めくくられているのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。天と地の一切の権能を授かっている御方が、世の終わりまで、いつも共にいてくださる。このことなくして、主の命令はナンセンスです。このことなくして、今日に至るまで教会が存続することはあり得なかったのです。
あの最初の弟子たちのことを考えてみてください。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)と書かれていました。なぜガリラヤに行ったのか。イエス様が「行きなさい」と言われたからです。イエス様が復活された時、婦人たちに現れてこう言われたのでした。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。
そのようにイエス様は「ガリラヤへ行け」と言われた。その時にイエス様はあの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれたのです。イエス様が捕らえられた時、見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのことです。その中には、あからさまに三度もイエスを知らないと言ったペトロもいるのです。そのような弟子たちへの言葉です。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。
本当ならば、イエス様に会わせる顔もない、そんな弟子たちだったはずです。しかし、イエス様はそんな彼らを「わたしの兄弟たち」と呼んでくださり、そんな彼らをガリラヤで待っていてくださると言ったのです。「そこでわたしに会うことになる」と。
だから彼らはガリラヤへ行ったのです。イエス様が指示しておられた山に登ったのです。イエス様が招いてくださったからです。こんな者をイエス様が招いていてくださったから。こんな者でもなおイエス様が許して、兄弟として迎えてくださるから。だからその山に登ったのです。
イエス様が指示しておられた山に着くと、そこには確かにイエス様がおられて彼らを待っていてくださいました。「そして、イエスに会い、ひれ伏した」(17節)と書かれています。それは「礼拝した」という意味の言葉です。その山はイエス様に招かれた者の礼拝の場となりました。皆さん、弟子たちが招かれたあの山に当たるのが、今、私たちが身を置いている礼拝堂なのです。招かれた者の礼拝の場所です。
その礼拝の場において主は言われたのです。恵みによって集められた彼らに言われたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。ただ御前にひれ伏すことしかできない弟子たちに、主はこのとてつもない命令を与えたのです。本来ならば、どう考えてもできっこない、担い得るはずがないのです。どだい彼らには無理な話だったのです。しかし、そこで主は言われたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。そして、言われたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。
心を合わせて熱心に祈っていた
それから2000年近くの月日が経ちました。彼らがいたところから約8500キロ離れたところにいる私たちが、同じように礼拝の場に集まり、キリストを礼拝しているという事実がここにあります。これはただ人の力によって実現したことではありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主はその言葉どおりになさったということです。
実際、あの弟子たちは、ただ人間の力や人間の持っているものによってこれを実現しようとはしなかったのです。今日の第二朗読は、教会の宣教の歴史がまさに始まろうとしている、その直前の彼らの姿を私たちに伝えているのですが、そこにはこう書かれていました。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:13‐14)。
「天と地の一切の権能を授かっている」その御方の権能が地上に現されることを彼らは祈り求めたのです。心を合わせて熱心に祈っていた。そこに天から聖霊が降ったのでした。教会の宣教の歴史はそのように開始したのです。
そして、今も継続していることを私たち確かに目にしています。それはイエス様が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われた、その事実を目にしているということです。主は確かに私たちと共にいてくださいます。その主は「世の終わりまで」と言われました。私たちは終着点ではありません。教会の歴史は世の終わりまで続きます。150周年の節目は、新たな出発でもあります。主と共に、ここから新たに歩み始めましょう。