2024年12月8日日曜日

「天から差し込んだ光」

2024年12月8日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 13:53-58 


つまずいた人々
 イエス様が故郷のナザレに帰ってきました。かつて大工の子として生活していた場所、マリアの子として、ヤコブやその他の兄弟として知られていた場所に帰ってきたのです。もとの生活に戻るためではありません。宣教のためです。イエス様はカファルナウムでしていたのと同じように、ナザレにおいても会堂で教え始められました。

 人々の反応は「驚き」でした。彼らは驚いてこう言ったのです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」(54節)。

 彼らが注目したのはイエス様の語られる「知恵」でした。またイエス様の持っておられる「奇跡を行う力」でした。奇跡については今日の聖書箇所の最後に「あまり奇跡をなさらなかった」と書かれてはいますが、皆無ではなかったでしょうから、実際に目撃した人もいたのでしょう。あるいは自分で直接目撃していなかったとしても、既にイエス様のなさったことについては広く知れ渡っていましたから、彼らが既に伝え聞いていたことは少なからずあったに違いありません。

 そのように人々はイエス様の「知恵」と「奇跡を行う力」に驚きました。それだけを聞くならば、その驚きはおおむね肯定的なものであると想像できるかもしれません。しかし、聖書はそう伝えてはいないのです。彼らの反応は極めて否定的なものでした。今日の箇所にはこう書かれています。「このように、人々はイエスにつまずいた」。知恵に驚こうが、その力に驚こうが、結局はイエスにつまずいた。イエスを受け入れることはなかったのです。

 なぜイエス様の語られる「知恵」に驚きながらも、それを受け入れることができなかったのでしょうか。それは既に彼らの慣れ親しんできた宗教的な「知恵」があったからです。過去から受け継いできた、それぞれが宗教的コミュニティから受け取ってきた知恵があったからです。その彼らの受け継いできた「知恵」からすれば、イエスの「知恵」はあまりにも異質だったのです。

 そして、彼らはイエス様の「奇跡を行う力」に驚いた。しかし、それを受け入れることができなかった。なぜでしょう。それは「奇跡」とは馴染みのない、「奇跡」とは無縁な彼らの宗教的な生活があったからです。神が権威を現され、力ある業をなさることを求めることもない、期待することもない、宗教的なしきたりを守るだけの生活がそこにあったからです。

 そうです、彼らは宗教的ではあったのです。それはナザレという小さな村の共同体での話です。そこでは誰もが生まれて八日目に割礼を受け、幼い時から律法を学び、先祖からの言い伝えを大切にし、それぞれが宗教的な戒律を守って信心深い生活をしている、そんな信心深い共同体を形づくっていたのです。

 そこにイエス様が帰って来られたのです。入って来られたのです。そして、イエス様という存在はあまりにも異質だったのです。今日お読みしたところには「故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると…」と書かれていますでしょう。しかし、本当は原文では「《彼らの会堂》で教えておられると」と書かれているのです。そうです、それは「彼らの会堂」だったのです。そこには彼らの会堂を中心とした彼らのコミュニティがあり、彼らの宗教的な生活があったのです。その生活にとって、イエス・キリストという存在はあまりにも異質だったのです。

 いや、彼らの宗教的な生活があり、それが妨げになっただけではありません。そこには彼らが既に持っていたイエスについての理解がありました。「人間イエス」としての理解がありました。彼らは言います。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(55‐56節)。

 「大工の息子」という言葉自体に軽蔑的なニュアンスはありません。この「大工」というのは家を建てる仕事ではなく、農具や家具を作る仕事であったと考えられています。決して卑しめられるような仕事ではありませんでした。ごく普通のユダヤ人の家庭なら、大工の息子は当然のように小さい時から父親の仕事を手伝うものです。ですからマルコによる福音書では「大工の息子ではないか」ではなくて「この人は、大工ではないか」と書かれているのです。

 そのようにイエス様自身、大工として知られていたようです。あるいは、父親のヨセフは早くに他界していたと考える人も少なくありません。ならばイエス様は父亡き後、母と弟妹たちのために、一生懸命働いて家計を支えてきたのでしょう。イエス様のことです、コミュニティの中でも、ヨセフの家の良い息子として、評判は決して悪くなかったものと思われます。

 ですから、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」という言葉は、決して軽蔑的なニュアンスで語られているわけではないのです。ただ、帰ってきたイエス様は、その言葉にせよ、その行いにせよ、明らかに彼らの既に良く知っているヨセフの息子ではなかったのです。明らかに異質だったのです。

 もし、イエス様が彼らの知っている「人間イエス」の延長上にあったなら、つまずかなかったに違いありません。評判の良い人、親孝行な息子、人格的にすぐれた人、立派な模範的な人格者、という枠内に収まっていれば、彼らはつまずかなかったのです。むしろ、それこそ尊敬し、受け入れ、その生き方を模範にしたことでしょう。しかし、そうではなかった。イエス様は異質だったのです。

天の国が近づいたのだから
 しかし、それはある意味では起こるべくして起こったことでした。なぜなら、イエス様がナザレに帰ってきたのは、ナザレでの元の生活に戻るためではなく、宣教のためだったからです。そして、「宣教」とは、ある意味では「異質なもの」を持って来ることに他ならないからです。

 イエス様の宣教の始まりは、4章に次のように書かれていました。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(4:12‐17)。

 「天の国は近づいた」と主は言われました。「天」というのは「神」の言い換えでもあります。ユダヤ人はそのように言い換えるのです。ですから、「天の国」は「神の国」と意味としては同じです。「国」が意味するのは領土ではなくて、王としての支配です。王としての神の支配が近づいたということです。天の方から近づいてこられるのです。

 神が近づいてこられ、天が近づいてこられるならば、そこでは決定的に新しいことが始まるのです。今まで慣れ親しんできた生活、過去からの延長上にある未来ではなく、全く新しいことが始まるのです。人間が人間に対して行う水平の次元のことではなく、神が人間に対して行う垂直の次元のことが起こるからです。それはマタイがイザヤ書を引用して語っているように、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という出来事が起こるのです。そうです。天から光が差し込んでくるのです。

 そのことが既に始まっているのだということをイエス様は語っておられたのです。それはイエス様の到来と共に始まっているのです。それを示していたのがイエス・キリストの言葉であり、そこに語られている知恵でした。また、それを示していたのがイエス・キリストの奇跡であり、奇跡を行う力だったのです。

 そのように、イエス・キリストの宣教はこの世の知恵からすれば異質なのです。単なる「より優れた知恵」ではないのです。イエス・キリストの行為も、単なる「より良い行い」ではないのです。キリストの行為が示していたのは、神のあからさまな介入なのであって、それは垂直の次元のことだったのです。

 そのように「天の国は近づいた」のです。イエス様が来られて、神様のなさる決定的に新しいことが既に始まっているのです。暗闇の中に光は差し込んできているのです。

 ならば、そこで今度はこちら側が問われるのです。神が近づいてこられ、天が近づいてこられているのに、同じ生き方を続けるのですか。慣れ親しんできたそれまでの生き方をずっと続けていくのですか。人間のことだけ考えて、人間がしてきたこと、人間から受けたこと、人間にできること、人間がしなくてはならないこと、それだけを考え続けて、水平の次元のことだけを考えながら、これからも生きていくのですか。そうやって水平の次元のことだけを考えていても、宗教的には生きられるのです。あのナザレの人々のようにです。しかし、そんなセミの抜け殻のような信仰生活に何の意味があるのでしょう。

 イエス様は「天の国は近づいた」という宣言と共に、こう言われたのです。「悔い改めよ」。それは単に悪い行いを正せという意味ではありません。方向を変えることです。生きる方向を変えることなのです。この世界にとっては異質なイエス様を受け入れ、「天の国は近づいた」という宣言を受け止め、そして神がなさっておられることに思いを向け、私たち自身の生き方の方向を変えることなのです。

 そこで求められているのは信仰です。不信仰に留まるならば、これまで慣れ親しんだ生活が続いていくだけなのであって、天の国が近づいていることも、それにより全く新しいことが神によって始まっているという現実も、決して見ることはないでしょう。いみじくも今日の箇所にこう書かれているとおりです。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」(58節)。

 さて、私たちは今年も御子の御降誕の祝いの日を迎えようとしています。天からの光がこの闇の世界に差し込んだことを祝おうとしているのです。そこに向かうアドベントの時がこうして毎年与えられています。天からの光を見るために、神の御業を見るために、生活の方向を変え、新たに歩み出す時が、こうして恵みとして与えられているのです。


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