2025年8月10日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 9:9‐13
教会の礼拝堂にはテーブルが置かれています。聖餐卓と言います。キリスト教会ならどこの教会にも必ずあります。このテーブルを用いて、月一回聖餐式が行われます。私たちの教会では、聖餐において、小さなパンを食べ、小さなグラスから葡萄ジュースを飲みます。しかし、初期の頃の教会では、通常の食事と変わらない仕方でこれが行われていました。その食事は「パン裂き」あるいは「主の晩餐」と呼ばれ、教会生活の中心として重んじられました。そのように、キリストを記念して、一緒に食事をすることが、すなわち礼拝だったのです。それが形を変えて今日のような聖餐となっています。しかし、形が変わったとしても、それが食事であることに変わりありません。礼拝とは、主と共に食事をする、食卓への招きなのです。それは聖餐が行われない週の礼拝においても同じです。ですから聖餐卓は聖餐が行われない週でも置かれたままになっているのです。
さて、そのように教会が「パン裂き」「主の晩餐」と呼ばれる食事を重んじてきたことと、聖書に繰り返し《食事の話》が出てくることは、無関係ではありません。今日の聖書箇所にも、食事の話が出てきました。このような食事の話は、まさに聖餐卓を囲んで行う主の日の礼拝が何であるかを指し示す物語として、語り伝えられてきたのです。ですから、私たちもまたこの物語を読む時に、食卓を囲んでいる私たち自身のことを考え私たち自身を重ね合わせながら読むことが大事になってくるのです。
わたしに従いなさい
今日お読みしました物語は、ある徴税人が主によって招かれたところから始まります。その人の名は「マタイ」です。他の福音書では「レビ」と呼ばれています。彼は十二弟子の一人でありまして、伝統的にはマタイによる福音書はこの人によって書かれたとされています。
ところで、今日の聖書箇所にも出てきます「弟子」という言葉は、ユダヤ人の言葉では通常「タルミード」と言います。そして、「タルミード」と言いますと、一般的には、ユダヤ教の教師(ラビ)のもとで律法を学ぶ生徒を意味する言葉です。そのように、外から見るならば、明らかにイエス様は一人のユダヤ教のラビであり、シモンやアンデレたちはタルミードでありました。ですから福音書において、イエス様がしばしば「ラビ」とか「先生」と呼ばれているのです。
しかし、もう一方において、イエス様はユダヤ教のラビとしてはあまりにも異質な存在であったことも事実です。その故に、他のラビたち、律法学者たちと繰り返し衝突が起こったことを聖書は伝えています。
そもそも、弟子の取り方からして、異質でした。一般的には、タルミード(弟子)になりたい人がラビを選び、「弟子入り」するのです。それは私たちに身近な習い事などを考えても、容易に理解できるでしょう。しかし、イエス様の場合、そうではありませんでした。十字架にかかられる前夜、イエス様はこんなことを言われたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15・16)。普通のラビはそんなことは言わないのです。しかし、イエス様の言われたことは確かに事実です。ペトロやヨハネがイエス様を教師として選んだのではありませんでした。漁をしていた彼らの生活の中に、イエス様の方から入り込んできたのです。そして、イエス様が彼らを呼びだして弟子としたのです。
今日お読みした場面のマタイも同じです。マタイはもともとイエスに関心を持っていたわけではありません。カファルナウムに帰ってきたイエスに人々が群がっている時にも、マタイは行かなかったのです。彼は仕事をしていたのです。ナザレのイエスが帰ってきたことなど、どうでも良かったのです。
彼は「収税所に座って」いました。彼は徴税人です。今日の聖書箇所で、繰り返し徴税人は罪人と並べられています。それは理由のないことではありません。異邦人であるローマ人のために同胞から税金を取り立てる仕事が神に逆らうものとして蔑まれていただけではありません。実際、その業務には不正が入り込む余地がいくらでもありました。また事実、不正の利得が蓄えられることが行われてきたのです。ですから、「収税所に座っていた」と何気なく表現されているのですが、その言葉は、このマタイという人が、その時まさに罪深い生活の中にどっかりと腰をおろしていたことを暗に示しているとも言えるのです。
しかし、そのようなマタイに、イエス様の方から目を止められたのです。そして、彼に言いました。「わたしに従いなさい」と。そこで何が起こったのでしょうか。「彼は立ち上がってイエスに従った」と書かれております。そして、この「立ち上がる」という言葉は、別の場面では「復活する」という意味で用いられる言葉でもあるのです。
罪深い生活の中にどっかりと腰をおろして、もはや神との関わりについても、最終的な救いの希望についても、まったく考えることさえできない状態を霊的に《死んでいる状態》と表現するならば、そこから立ち上がることは、確かに《復活》と表現することができるでしょう。もちろん、それで突然正しく立派な人間になるわけではないでしょう。しかし、ともかく立ち上がったのです。そして、キリストと共に新たに歩みはじめ、神と共に生き始めた。それがマタイに起こり、代々のキリスト者に起こり、そして私たちに起こったことなのです。
わたしが来たのは罪人を招くため
そして、今日の聖書箇所に描かれているのは、そのような者たちの食事の場面なのです。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」(10節)。この箇所を読んで、「イエス様は、社会から排斥された人々を差別することなく、自ら彼らと共に食事をされました」――と感動をもって語られることがあります。しかし、話はそれほど単純ではありません。というのも、普通に考えるならば、さほど美しい光景ではないからです。
ここにはファリサイ派の人々も登場してまいります。ファリサイ派の人たちは通常、手ずから働いて経済的な独立を保っている人たちです。パウロが天幕作りをしていたようにです。それがファリサイ派の特徴です。一方、イエス様とその一行を考えてみてください。どうも自給自足の生活をし、経済的に自立しているようには見えません。この場面だけでなく、四つの福音書には、イエス様とその一行が、様々な人に食事を食べさせてもらっている場面がやたらに目立ちます。この食事も恐らくマタイの大盤振る舞いだったのでしょう。ルカによる福音書ではもっとはっきりと、「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」(ルカ5:29)と書かれています。
一般的に徴税人は金持ちでした。先にも触れたように、一般的に言いまして、彼らは不正の蓄財によって潤っていたからです。そんな連中が招待して食べさせてくれる食事など、ファリサイ派の人間だったら、死んでも口にしないと思います。どんなに落ちぶれたとしても、どんなに腹がへっていたとしても、神の律法にも神の国にもまったく興味も関心もない俗物に、飯を食わしてもらったり、資金供与をしてもらったりすることは、絶対に考えないだろうと思うのです。それならば飢え死にした方がましなのです。
ところが、このイエスと弟子たち連中は違うのです。イエスは平気で徴税人から食べさせてもらうのです。それは、ファリサイ派の人たちからすれば、「あんた、相手が金持ちだったら誰だっていいのか!」と罵られても仕方がないことなのです。もっともファリサイ派の律法学者はお上品ですから、イエス様に面と向かって罵ったりはしません。ですから弟子たちをつかまえて詰っているのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。
こうして見ますと、イエス様の行動は、どうも単純に「この人は貧しい人や社会から排斥されている《かわいそうな人》に寄り添って共に生きたのだ」とは表現できないように思えます。そうではなくて、イエス様は、《かわいそうな人》と共にいたのではなくて、文字通りの意味において《罪人》と共におられたのです。そして、罪人ということであるならば、富んでいようが貧しかろうが、排斥する側にいようが排斥される側にいようが、抑圧する側にいようが抑圧される側にいようが、罪人は罪人なのです。罪によって神から離れているならば、その人は罪人なのです。
ですから、イエス様は金持ちに招かれて、ご飯を食べさせてもらっていながら、このように宣言してはばからないのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13節)と。聞きようによっては、極めて失礼な言葉でしょう。しかし、マタイには、その意味することが良く分かっていたのだろうと思います。確かにマタイもまた、イエス様に招かれた罪人の一人であったからです。そして、代々のキリスト者は、そこに自分の姿を重ね合わせてきたのです。
「なぜ、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。主は答えられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12‐13節)。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。イエス様が引用された言葉は、お気づきと思いますが第一朗読で読まれたホセア書6章6節の御言葉です。ホセア書では「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく」となっていました。そうです、それが神の喜ばれることなのです。イエス様は父なる神が喜ぶことをしておられたのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。それは徴税人や罪人を神が愛しておられ、立ち帰ることを求めておられたからです。それゆえにイエス様もまた徴税人や罪人を愛しておられたからです。そこにあったのは、それまで神に背を向けて生きてきた人たちに対する、深い深い憐れみだったのです。
そのようなイエス様が、私たちの罪のために十字架にかかられ、そして復活して、今も私たちを食事の席に招いてくださっているのです。私たちがこの礼拝堂に身を置いているとは、そういうことなのです。この物語を読む時には、食卓を囲んでいる私たち自身のことを考え私たち自身を重ね合わせながら読むことが大事であると最初に申しました。この礼拝堂はマタイの家です。私たちは皆、マタイの家において主と共に食事をする徴税人であり罪人です。そして、私たちもまた、マタイと同じように立ち上がり、復活し、ここからキリストと共に新たに歩み始めるのです。