2025年9月28日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 18:21‐35
何回までですか
ペトロがイエス様のところに来て言いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)。ペトロがこのような質問をしたのには理由があります。その前に、イエス様がこんな話をしておられたからです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら・・」(15節)。そうです、先週の聖書箇所です。自分が誰かの罪のゆえに被害を受けた時、どうしたらよいのか、という話でした。そこで、まずはどうすべきか。イエス様はこう言われます。「行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。
「言うことを聞き入れたら」とは、「罪を認めたなら」ということです。相手が罪を認めた場合、そこで相手の罪を赦すことによって和解が実現します。主はそれを、「兄弟を得たことになる」と表現しました。そのような話を聞いていた「そのとき」、ペトロが尋ねたのです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)。
あくまでも、相手が罪を認めている場合の話です。簡単に言えば、相手が謝っている場合です。この後に出て来るたとえ話でも同じです。そこには多額の負債があることを認めて、ひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言っている家来が出て来きます。また、百デナリオンの借金があることを認めて、ひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼む人が出て来きます。
そのように、これは相手が罪を認めている場合の話です。赦しを乞うている人の話です。そのように罪を認めて赦しを求める人に、赦しを与え、和解を実現し、兄弟を得るということは大事なことなのでしょう。
しかし、問題はそれが繰り返される場合です。それが二度目になったらどうでしょう。三度目になったらどうでしょう。四回目になると恐らく「四回目」とは言いません。「いつも」という表現に変わると思います。ですから、世の中一般ではやはり三回が限度です。「仏の顔も三度まで」と言いますが、これはどうも万国共通のようで、ユダヤの世界においても、神の赦しは三度までと考えられていたようです。
ですからここでペトロが「七回までですか」と言ったことは、それ自体驚くべきことです。「七」はユダヤ人の世界では完全を表す数字です。ですから七回繰り返すことができたら、ペトロとしては完全なのです。「よくぞ言った、ペトロ」とイエス様のお褒めにあずかっても不思議ではない場面です。ところがイエス様から返ってきたのは驚くべき言葉でした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。七回の七十倍は四九〇回ですが、実際にはそんなに数えていられません。要するに「数えないで赦しなさい」ということでしょう。
イエス様の言葉はあまりにも極端に思えます。しかし、そこで主は一つのたとえ話をされました。それが今日お読みしました「『仲間を赦さない家来』のたとえ」なのです。まずはそのイエス様のたとえに耳を傾けてみましょう。
一万タラントンの借金
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った」(23‐26節)。
一万タラントン。これは一人の労働者が休みなく働いて約17万年分の給料に相当します。どう考えても、そんな多額の借金ができるはずありません。いくらなんでも無茶苦茶です。しかし、このイエス様の語られるこの無茶苦茶な話には、少なくとも私たちが聞くべき三つの大事なメッセージが込められているように思います。
その第一は、《私たちの罪は、私たちの想像を絶するほどに大きい》ということです。主は「そこで、天の国は次のようにたとえられる」と話し始められました。これは天の国、神の国のたとえです。神の国の話において、「王」が出て来たら、それは神様のことです。借金している家来は私たち人間です。そもそも罪と赦しの話をしていたわけですから、借金に喩えられているのは私たちが神に背いて犯してきた罪の数々です。そして、その罪の借金は想像できないほど莫大な額に上るのだ、と語られているのです。
確かに私たちは時として真剣に自分の罪の深さに悩むことはあるでしょう。罪深い自分に嫌気がさすこともあるでしょう。しかし、イエス様に言わせるならば、私たちは本当の意味で自分の罪の大きさなど、分かってはいないのです。一万タラントンという借金については想像も及ばないように、私たちがどれほど神に背いてきたか、神の目から見て悪と見なされることを、神に対しても人に対してもどれほど繰り返してきたか、まさに想像も及ばない。私たちの罪の負債のトータルがいかに莫大な金額になっているか、想像も及ばないのです。
そして、第二に、ここにおいて語られていますのは、《神は正しく裁かれる御方だ》ということです。主君は全額の返済を要求しました。この家来に対して、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」と命じました。殊更に残酷な要求をしているのでしょうか。いいえ、そうではありません。主君は当然のことを求めているのです。そもそも、自分も妻も子も持ち物も、全部を売り払ったとしても、一万タラントンには遠く及ばないのですから。神は正しく裁かれる御方です。神こそが、償いを正当に要求することのできる御方です。果たして神から全て返済することを要求されたら、完全な償いを要求されたら、私たちはいったいどうなるのでしょうか。
しかし、イエス様が本当にお語りになりたいのは、第三のことなのです。《神の憐れみは私たちの想像を絶するほどに大きい》ということです。イエス様のたとえ話は、驚くべき展開を見せることになります。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)。一万タラントンの借金の帳消し!そんな馬鹿な!そんなことはあり得ない!イエス様の話を聞いていた誰もがそう思ったに違いありません。しかし、それが神の赦しだ、神の憐れみだ、とイエス様は言われるのです。
私たちの罪が私たちの想像も及ばないほどに大きいとしても、神の憐れみはそれよりもはるかに大きいのです。このたとえ話に登場する家来は、突然、そのとてつもない王の憐れみの中に置かれることになりました。彼は自分の負債を認めて、主君の裁きの正しさを認めて、ただ御前にひれ伏していただけです。その彼が神の憐れみによって救われたのです。私たちが罪を赦していただくとは、そういうことなのです。
神の期待に応えて
彼はその驚くべき憐れみによって借金を帳消しにされて、そこから外に出ていきます。彼は憐れみを受けた人として、生きていくのです。彼はもはや単なる「一人の主君の家来」ではありません。「この上なく憐れみ深い特別な主君の家来」として生きていくのです。――それがあなたたちだ、とイエス様はペトロに言っておられるのです。そして、これを読んで礼拝している私たちにも言っておられるのです。「あなたたちは、この上なく憐れみ深い主君の家来だ。想像を絶する憐れみを受けた者として生きて行くのだ」と。そうです。それがキリスト者として生きるということなのです。
そして、「憐れみ深い主君の家来」として行動するチャンスは、この世の中にいくらでもあるのです。自分が受けた王の憐れみをこの世に現すチャンスはいくらでもあるのです。特に、誰かが罪を犯したなら、誰かがあなたを傷つけたなら、あなたの赦しを必要としている人がこの世に存在しているならば、王の憐れみを示すチャンスはいくらでもあるはずなのです。
この家来にも、その時がすぐに訪れました。「自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと」と書いてあります。憐れみによって与えられたチャンスです。そうでしょう。もし一万タラントンの負債を帳消しにされていなかったら、外でこの仲間に出会うこともなかったのですから。まさに王が自分にしてくれたように、この人にも行うことのできる絶好のチャンスなのです。
しかし、この家来はどうしたか。「捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた」(28‐30節)。せっかくの機会を棒に振ってしまいました。
そのことが主君の耳に入ります。そして、こう書かれています。「主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」(34節)。一万タラントンを返せなかった時でさえ、「主君は怒って」とは書かれていないのです。しかし、ここで主君は怒ったのです。
この主君の怒りは、いわば主君の期待の裏返しであると言えます。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。これこそが主君の望んでいた唯一のことだったからです。主君が望んでいたのは、一生かかってでも償いをするという類のことではなくて、憐れみを受けた者として憐れみを示して生きることだったのです。
ペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と言いました。三回にせよ七回にせよ、数を数えているうちは、まだ意識においては何かを積み上げているということでしょう。これだけあの人には貸しがあります。また一つ貸しが増えました。そのような意識であるならば、七回でも八回でも同じです。イエス様が言っておられるのは、まったく別のことです。私たちは憐れみ深い主君の家来として、主君の憐れみ深さを表す機会を生かすのです。そのようなチャンスはいくらでもあります。そのように生きようとするならば、もはや赦した数を数えはしないでしょう。七の七十倍とは、そのような意味なのです。