ルカによる福音書 2:1-20
ローマの平和
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。羊飼いに現れた天使たちはそのように歌いました。今日は特に、その後半、「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉を心に留めたいと思います。
「地には平和があるように」。そう天使は言いますが、しかし、ある意味では既に「平和はあった」とも言えます。その時代、ローマ帝国の領土には、後に「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と名付けられる「平和」がありました。それは力によって、武力によって実現した平和でした。
その平和は今日の朗読に登場した、ローマの初代皇帝「アウグストゥス」によって確立されました。長い戦乱の世に終止符を打った彼は「救い主」とも呼ばれました。大きな力が支配する時、小さな争いは押さえ込まれます。戦争や紛争が無くなることが「平和」であるならば、確かにそこにはローマ皇帝という「救い主」によって実現した「ローマの平和」がありました。
しかし、もう一方において、そこには依然として「平和」はなかったとも言えます。ローマ皇帝が住民登録をせよとの勅令を出しました。人々は皆、登録をするために自分の町へ旅立ちました。奴隷も含めて全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、特に貧しい人々の上に、ずっしりと重い重荷を負わせることになりました。しかも登録のために、生活の場を離れて旅をしなくてはなりません。そのこと自体、多くの人々の生活が脅かされることを意味しました。力ある者によって力ない者がその生活を脅かされる社会。そこに「平和」はあると言えるのでしょうか。
それは単に権力を持つ者だけの問題ではありません。あの日の出来事を、聖書は次のように淡々と綴っています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6‐7)。
何一つ必要なものが揃っていないその場所で、産湯も使わせてもらうことなく、不潔な飼い葉桶の中に、産まれたばかりの赤ん坊が寝かされていました。側には命がけの出産を終えて、極度の緊張と疲労のためにぐったりとしている母親がいました。同じように緊張のために疲れ果てている父親がそこにいました。それは世にも悲惨な光景であったに違いありません。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。そう書かれていました。しかし、単純に場所がなかったということなのでしょうか。本当はただ泊まる場所がなかったのではなく、場所を分け合って、自分たちの居る場所を犠牲にしてでも、彼らのために場所を作ってやろうという人がいなかっただけなのでしょう。マリアが身重であるのは、誰の目にも明らかだったはずです。馬や牛じゃあるまいし、家畜小屋で簡単に赤ん坊を産み落とせるわけがありません。出産となれば、生死に関わることは、誰の目にも明らかだったはずです。しかし、みんな自分のことで精一杯だったのです。彼らのことは気にはなったでしょう。でも自分の場所を確保することの方が大事だったのです。――そこに本当に「平和」はあるのでしょうか。
今年の2月24日、ロシアはウクライナに本格的な軍事侵攻を開始しました。この一年は戦争の話題で持ち切りでした。ウクライナに起こったことは他人事ではないと多くの人は感じているのでしょう。そのような中で、日本政府は今後5年間で防衛費を43兆円に拡大することを閣議決定しました。43兆円はさておき、世論調査によるならば、何らかの形での軍事力拡大を支持する人は少なくないようです。それは時代の流れとしては当然の結果と言えるのかもしれません。しかし、その先に――本当の平和はあるのでしょうか。
キリストの平和
あの時、天使たちは神を賛美して言いました。「地には平和、御心に適う人にあれ」。「地には平和があるように」と天使たちがそう言っているのは、実際には、地に平和がないからなのです。「地には平和があるように」。そこに求められているのは、明らかに「ローマの平和」のようなものではありません。人間が力をもって、武力をもって実現できる平和のことではありません。天使たちが口にしているのは、神様が与えてくださる平和です。それはただ争いがないということではありません。神の救いによって、神によって与えられる平和です。それは神と共にある平和です。
それは神が特別に与えてくださる平和です。ですから「御心に適う人にあれ」と天使たちは言うのです。「御心に適う人」とは、「神に喜ばれている人」「神が喜びとする人」という意味です。そのような人に、神が平和を与えてくださる。天使たちは歌います。「地には平和、御心に適う人にあれ」と。
では「御心に適う人」「神が喜びとする人」とはいったい誰なのでしょう。――天使たちは「羊飼いたち」に現れて、その目の前で神を賛美してこう言ったのです。当然のことながら、「地には平和、御心に適う人にあれ。しかし、あなたたちはその中には入りません」ということではないでしょう。そうではなく、意味合いとしては「地には平和、あなたがた御心に適う人にあれ」ということです。
それはある意味で、とても不思議な言葉であると言えます。なぜなら当時の一般的な理解では、羊飼いたちは「御心に適う人」とは見なされない人たちだったからです。「御心に適う人」と言われるならば、真っ先に除外される人たち、それが羊飼いたちだったのです。
彼らはいわゆる宗教的な人々ではありませんでした。ユダヤ人としての宗教的な戒律をきちんと守っていた人々ではありません。そもそも仕事柄、そんな生活はできないのです。ですから羊飼いたちは汚れた人々と見なされていましたし、神から遠い人々と見なされていたのです。もちろん、自分たちもまたそう思って生きてきたのでしょう。「神様?関係ないね」と。
しかし、そのような羊飼いたちこそ、「御心に適う人」「神に喜ばれている人」と呼ばれ、神の与える平和、神の与える救いへと真っ先に招かれたのです。
それは、本来なら羊飼い自身にとっても不可解なことであったに違いありません。自分を「御心に適う人」とは思っていなかったでしょうから。しかし、羊飼いたちはこの天使の言葉を、大きな喜びをもって受け止めたのです。それはなぜか。既に聞いていた言葉があったからです。この直前に彼らが耳にしていたのは、こういう言葉でした。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10‐12節)。
ローマ皇帝という「救い主」ではなく、神がお送りくださった「救い主」がお生まれになった。「《あなたがたのために》救い主がお生まれになった」という言葉を彼らは聞いたのです。自分たちは除外されてはいない。こんな私のためにも、救い主はお生まれになった。そのことを彼らは知らされたのです。そのしるしは、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。家畜が餌を食べる不潔なところに乳飲み子は寝ている、と。
「御心に適う人」と言うならば、もともとそう呼ばれるに相応しくないのは羊飼いだけではないはずです。乳飲み子を飼い葉桶に追いやった人間社会そのものが、そもそも相応しくないのです。そのように、御心に適わないことばかりをしている私たち人間です。神の喜びとされるどころか、神を悲しませるようなことばかりをしている私たち人間です。私たちが形づくっているのは、エゴイズムによって汚れた、汚い飼い葉桶のような世界です。
しかし、神はそれでもなお「救い主」を送ってくださったのです。神は私たちを喜びとしてくださったのです。だから家畜小屋のような、飼い葉桶のような私たちのこの世界のただ中に「救い主」を送ってくだったのです。乳飲み子をあえて飼い葉桶に寝かせられたのです。そして言われるのです。「地には平和、あなたがた御心に適う人にあれ」と。
私たちが相応しいからではありません。すべては神の恵みによるのです。ならば人間のなすべきことは、ただその恵みの招きに応えて、救い主のもとに行くことなのでしょう。羊飼いたちは言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)。
そして、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を見た彼らは、再び野宿していた場所に戻ります。しかし、ただ再び元の生活に戻って行ったのではありませんでした。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と書かれています。まことの「救い主」の与える平和が、「ローマの平和」ならぬ「キリストの平和」が、既に彼らの内に始まっていたのでした。そして、飼い葉桶の中の「救い主」を礼拝するために集まった、この私たちの内にも始まっているのです。
(祈り)