ゼファニヤ書 3:14‐17
「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」。今日の第一朗読において、そのように呼びかけられています。今日お読みしたのは、全体で3章しかない短い預言書、ゼファニヤ書でした。今日はこのゼファニヤ書を一緒にお読みしたいと思っております。
「娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」――しかし、この短い預言の書そのものは「喜び踊れ」という呼びかけから始まっていたわけではありません。実は、この預言書は裁きの言葉から始まるのです。
地の表からすべてのものを一層する
1章をお開きください。「わたしは地の面からすべてのものを一掃する、と主は言われる」(1:2)。これがこの書に記されている最初の預言の言葉です。この世界全体に対する神の裁きの預言です。次のように続きます。「わたしは、人も獣も取り去り、空の鳥も海の魚も取り去る。神に逆らう者をつまずかせ、人を地の面から絶つ、と主は言われる」(1:3)。この激しい裁きの言葉は、ノアの箱舟の物語を思い起こさせます。かつて主はノアに言われました。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(創世記6:13)。
そのように全世界に対して神が裁きを宣言なされるのは、全地に罪が満ちているからです。神の御前においては、すべての人間には罪がある。しかし、神はその矛先を神の民イスラエルに向けられます。彼らもまた、この世界のただ中にあって例外ではないということです。それゆえに、この世界がどうであるかという以前に、まず神の民イスラエルがどうであるかを主は問題とされるのです。
主は言われます。「わたしは、ユダの上とエルサレムの全住民の上に手を伸ばし、バアルのあらゆる名残とその神官の名声を、祭司たちと共に、この場所から絶つ。屋上で天の万象を拝む者、主を拝み、主に誓いを立てながらマルカムにも誓いを立てる者、 主に背を向け、主を尋ねず、主を求めようとしない者を絶つ」(1:4-6)。
ここを読みますと、その具体的な罪が何であったかがはっきりと語られています。そこにはカナンの豊穣神礼拝、バアル礼拝がありました。また、アッシリアの影響下にあって天体が神として礼拝され、その祭壇が主の神殿の中にまで置かれておりました。その他にも、ソロモンの時代から連綿と続くアンモン人の神マルカムへの礼拝が行われていました。
彼らは「主(ヤハウェ)」を礼拝していなかったわけではありません。「主も」礼拝していたのです。しかし、何でも礼拝の対象とするということは、要するに本質的には神そのものには関心がないということを意味します。信じて礼拝する対象は何でもいい。それよりも、何を得られるかが重要だということです。
ですから、彼らは「主を尋ねず、主を求めようとしない者」と呼ばれているのです。そのように主を求めようともしていないのですから、主が現実的にこの世界に介入されることをも信じてはいません。そんな彼らが主を侮って語った言葉が12節に引用されています。彼らは言うのです。「主は幸いをも、災いをもくだされない」(1:12)と。
しかし、主は侮られる方ではありません。「そのときが来れば、わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し、酒のおりの上に凝り固まり、心の中で『主は幸いをも、災いをもくだされない』と言っている者を罰する。彼らの財産は略奪され、家は荒れ果てる。彼らは家を建てても、住むことができず、ぶどう畑を植えても、その酒を飲むことができない。主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。その日は憤りの日、苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である」(1:12-15)。
さて、このような激しい裁きの言葉が見られるのは、何もゼファニヤ書に限ったことではありません。そして、そのように怒りを露わにして語られる神、災いを下すことを宣言し、国家の滅亡を予告する神の姿に、抵抗を覚える人もあろうかと思います。
しかし、神がただ怒りをもって災いを下し、国家を滅亡させることを望んでおられるならば、本来、このような預言の言葉など必要ないのです。何も言わずに災いを下し、国家を滅亡させたらよいのでしょう。しかし、聖書の神はそうされないのです。預言者を通して、あえて裁きの預言を語られ、人々に呼びかけるのです。
それはなぜですか。主が望んでいるのは彼らが滅びることではないからです。主が望んでおられるのは悔い改めなのです。厳しい裁きの預言の背後にあるのは、罪人が滅びることを望まれない、神の憐れみなのです。
しかし、人間は悔い改めへの呼びかけにさえ耳をふさぐのです。耳を傾けようとはしない。そこにこそ人間の罪の最も深い闇があるのです。彼らは耳を傾けませんでした。3章において次のように語られています。「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった。主に信頼せず、神に近づこうとはしなかった」(3:1)。
そこで主は改めて裁きを宣言されます。「わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国を呼び寄せ、彼らの上に、憤りと激しい怒りを注ぐことを定めたからだ」(3:8)。そして、その言葉の通り、ユダの王国は紀元6世紀に滅亡することになりました。
娘シオンよ、喜び叫べ
さて、これが今日朗読された聖書の言葉の背景です。神に背き続けたユダ王国の滅亡です。それは国家規模の災いです。人が災いに遭ったとき、そこに起こるのは「嘆き」です。それは国家規模の大きな災いであろうが、一人の人生に起こる災いであろうが変わりません。災いにおいて起こるのは嘆きです。
しかし、災いにおいて生じる「嘆き」には二通りあります。一つは、災いそのものを嘆く嘆きです。失ったものを思っての嘆きと言っても良いかもしれません。国を失ったこと、エルサレムの都と神殿を失ったこと、それまでの平穏な生活を失ったこと、将来の夢と希望を失ったこと、彼らの嘆きは尽きなかったと思います。そのような嘆きは多かれ少なかれ私たちにも経験があります。
しかし、もう一つの嘆きがあります。それは災いにおいて、在りし日を振り返り、自らの生きて来た道筋を振り返り、自らの罪を嘆く嘆きです。神に背いてきたこれまでの歩みを嘆く嘆きです。
1章から見て来たゼファニヤの裁きの預言が、今もこのように読むことができるのは、実際に国家が滅亡した後にも後生大事に保存し、伝えてきた人々がいたからです。彼らは何を考えてそうしたのでしょう。彼らの嘆きはどのような嘆きだったのでしょう。
彼らは災いにおいて、イスラエルの歩んできた道筋を振り返ったのです。そして、神の呼びかけに背を向けてきた自らの罪を思ったのです。彼らの嘆きは、ただ災いそのものを嘆く嘆きではありませんでした。そうではなくて、神に背いて生きて来た、自らの罪を嘆く嘆きだったのです。だからこそ、神の裁きの言葉を残したのです。そして、そのような嘆きには希望があるのです。なぜなら、人間は過去に帰ることはできないけれど、生きる方向を変えて神に帰ることはできるからです。
そして、そのように自らの罪を嘆き、神に立ち帰る人々に対して、今日お読みした14節以下の言葉は語られているのです。
「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」(3:14‐15)。彼らは確かに災いを味わいました。しかし、それは神から見捨てられたことを意味しませんでした。災いを経てなお、神はイスラエルの王として、彼らのただ中にいてくださる。そのように主は言われるのです。
そして、さらに驚くべきことが語られています。それは王なる主がこのことを誰よりも喜び楽しんでいるという描写です。「その日、人々はエルサレムに向かって言う。『シオンよ、畏れるな、力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる』」(同16‐17節)。
これがこの預言者の冒頭において「わたしは地の面からすべてのものを一掃する」と語られ主に他ならないのです。ユダに怒りを注ぎ、エルサレムを破壊されるにまかせた神に他ならないのです。言い換えるならば、激しい裁きの言葉と下された恐るべき災いというそのすべての背後に隠されていた神の真意が、ここに至って明らかに語られているのです。
私たちはここを読みますとき、イエス様がたとえ話をもって語られたことを思い起こします。一匹の羊を見いだしたゆえに狂喜する羊飼い。一枚の銀貨を見いだしたゆえに「一緒に喜んでください」と近所中を駆け回って人々を呼び集める女。息子が帰ってきたと言って、老いた体を揺さぶりながら走り寄り、首を抱きかかえ接吻をし、さらには大きな祝宴を催す父親。そのようにイエス・キリストが神の独り子として父の心を語り出す600年以上も前に、既に旧約の預言者がその神の御心を知り、語っていたのです。
さて、私たちは待降節においてこの箇所を読んでおります。再臨のキリストを待ち望む私たちは、やがて裁き主であるキリストが来られ、全地に最終的な正しい裁きがなされることを信じています。そこにおいて、私たちが思い起こさなくてはならないのは、預言者が目を向け、そしてキリストが目を向けていた、神の真意です。一人の罪人が立ち返るならば、天において大いなる喜びがある!神の喜びが天に満ち溢れ、その喜びを私たち自身もまた与って共に喜ぶ時が来ることを信じて、主を待ち望み、共に仕えたいと思います。
(祈り)
2022年12月11日日曜日
「神と共に喜ぶ時が来る」
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