ペトロの信徒への手紙一 5:1-7
今日の箇所にはまず長老たちへの勧めが書かれています。これは年長者という意味合いだけでなく、2節に見るように「神の羊の群れを牧する」という職務を担った人たちであることが分かります。また、3節に見るように、その職務にはある権威が伴っていたことが分かります。
教会の牧会に限らず、教会においてある働きが託されるところにおいては、またある種の誘惑も存在します。「強制されて」「卑しい利得のため」という言葉にその現実が垣間見られます。「権威を振り回す」という言葉にも表れていると言えるでしょう。教会における務めは、神の信任によって託された喜ばしき務めであるはずです。しかし、その働きについて、「強制されて仕方なくやっているのだ」という意識を持ってしまうことはあり得ます。恵みによって託してくださった神に思いを向け、「神に従って、自ら進んで」という姿勢はいかなる働きにおいても重要なことなのでしょう。
また、そこに権威が伴い、力の行使が伴う場合には、さらに誘惑は大きくなります。その権威や力を行使するに当たっては、「権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」という言葉をしっかり心に刻んでいる必要があるでしょう。そこで重要なのは、自らがさらに大きな権威の元にあることを見失わないことです。神の羊を牧する長老たちの務めもまた、4節に書かれているとおり、「大牧者」のもとにあるのです。
そして、5節以下においては、今度は若い人たちに対して、「長老に従いなさい」と勧められています。これは年齢的な「若者」のことではなく、長老のもとにある「執事」という役職を指しているとも考えられます。いずれにせよ、重要なことは、さらに全体に対して「互いに謙遜を身に着けなさい」と書かれていることです。長老と他の教会員との関係においても、若い人たちと長老との関係においても、あるいは職務が関わっているか否かにかかわらず、およそ人と人とが互いに関わり合うところにおいて重要なのは「互いに謙遜を身に着ける」ということなのです。
しかし、「互いに謙遜を身に着けなさい」と勧められているのは、単に互いのより良い人間関係に必要だからではありません。単に謙遜が美徳だからということでもありません。実際、当時のギリシア・ローマ社会において、謙遜は美徳とは見なされていませんでした。「謙遜」と訳されている「タペイネフロシュネー」という言葉は、一般的には決してポジティブな意味合いを持ってはいなかったのです。なので「互いに謙遜を身に着けなさい」という言葉は当時の一般社会では理解され得ない言葉だったとも言えるのです。
ではなぜ「互いに謙遜を身に着けなさい」と語られているのか。それはあくまでも信仰に関することなのです。神との関わりにおいて重要な意味を持っているからです。ペトロはその理由を、旧約聖書を引用してこう語ります。「なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです」(5節)。ここで引用されているのは箴言3章34節のギリシア語訳です。これが理由だというのです。
「神は、高慢な者を敵とし」とは実に激しい言葉です。しかし、それほどに、私たちが高慢であるか謙遜であるかは、神にとって大きなことなのだということです。それは聖書の始めから既に取り上げられていることからも分かります。スポルジョンという人は、「高ぶりは最初の罪であり最後の罪である」と表現しました。確かに創世記に記されているアダムとエバの物語を読む時に、高ぶりは最初の罪であることを思います。そして恐らく人生の終わりまで、そして世の終わりまでついて回る罪であるに違いないのです。
アダムとエバの物語については、改めて語るまでもないでしょう。へびの誘惑の言葉は、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ」(創世記3:5)というものでした。神のように善悪を知るものとなることへの誘惑です。自分を神の位置に就けようとする誘惑です。自らが神のようになって、神をよそに人間が善と悪を決めるのです。自分が善悪を知る者として裁き主の位置に就くのです。そして、人間は自ら神の位置に就いて、神をさえ裁くのです。「主の道は正しくない」(エゼキエル18:25)と。
まことに高ぶりは最初の罪であり最後の罪です。最後までついてまわる罪です。それゆえに、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と語られなくてはならないのです。私たちは本質的に高慢な者だから。神に対してさえも高慢な者だからです。だからあらゆる人と人との関わりにおいて、あらゆる関わりを通してでも、謙遜を身に着けなくてはならないのです。
先にも申しましたように、それはただ人間関係において重要だからではありません。神との関わりにおいて重要だからです。それゆえに、ペトロはこう続けるのです。「だから神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」(6節)。ここに至ってこそ、本当の意味で謙遜を身に着けたことになるからです。そして、その勧めには、もう一つの勧めが続きます。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」(7節)。
今、「もう一つの勧めが続きます」と申しました。しかし、それはあくまでも日本語訳の場合です。実は、原文においては、6節と7節は途中で切れない一つの文なのです。この二つの話題は不可分の関係にあるのです。高ぶりと思い煩いは不可分の関係にあるのです。
それはある意味で当然のことであるとも言えます。人間は高ぶって神をさえ裁く者となりました。神を退けて人間がこの世界を治め、人間が自らの人生を治める者となりました。 しかし、人間は神の位置に身を置いても、神にはなれません。神なしにこの世界を治め、神なしに自らの人生を治めようとしても、実際には、我が身一つどうすることもできない。無力な御山の大将は手に余る問題に取り囲まれることになるのです。
イエス様はそんな人間の現実を良く御存じでした。ですから、思い煩いで心がいっぱいの人々に、このように語られたのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)。そのように、私たち自身の、もっともパーソナルな寿命の問題でさえ、私たちはそれに指一本触れることができないのです。それゆえに、自らが神の位置に留まる限り、様々なことに思い悩まざるを得ない。そのように思い悩みを自らの手に留めていること自体が、実は神に対する高ぶりであり、思い上がりなのです。
だからペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」という言葉に、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉を続けるのです。「お任せしなさい」とは、「投げる」とも訳せる言葉です。手に握ったままで物を投げることはできないでしょう。投げるためには手放さなくてはなりません。そして、手放すことができるのは、受け止めて下さる方がおられるからでしょう。
その方について、聖書にはこのように語られています。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。「心にかけていてくださる」というのは良い訳だと思います。聖書が伝えているのは、まさにそういうことだからです。いつか「心にかけてくださる」のではないのです。思い煩いをお任せする時に、心にかけてくださるのではないのです。過去においても、未来においても、そしてこの瞬間にも「心にかけていてくださる」のです。
私たちが高ぶって、神を忘れていたときに、神様は心にかけていてくださったのです。私たちがそのお方に信頼して生きるのではなく、そのお方に背を向け、自分の力に頼って生きていたそのとき、神様は私たちを心にかけていてくださったのです。そして、今も心にかけていてくださるのです。神は心にかけていてくださる天の父なのです。
これをペトロ自身の経験から出た言葉として聞く時に、これはまことに心を打つ言葉として迫ってまいります。ペトロにとって、今の自分があるのは、まさに「神が心にかけていてくださったから」としか言いようがなかったに違いないからです。傲慢にも「わたしはつまずきません」と言い放ったあの時、神は既にわたしを心にかけていてくださった。大祭司の中庭において、三度「知らない」と言った時、神はわたしを心にかけていてくださった。イエス様の言葉を思い出し、自らの罪と弱さに打ちのめされて声を上げて泣いていた時、そんなわたしを神は心にかけていてくださった。ペトロにはよくわかったと思います。イエス様が十字架にかかられるためにこの世に来られたそのこと自体が、まさに神が心にかけていてくださることを現していたのだと。
それゆえに、ペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」と語るのです。そのような、心にかけていてくださる神の御前で身を低くするのです。その力強い御手の下で身を低くするのです。ただひたすら信頼する者として身を低くするのです。思い煩いをお任せして、身を低くするのです。私たちはお互いに、そして神の御前において、謙遜を身に着けなくてはなりません。
(祈り)