ペトロの手紙二 2:10b‐22
今日の箇所には、実に激しい言葉が並べられています。そこまで言っていいのか、と思うほどです。しかし、私たちはこの異様なまでの激しい糾弾にこそ、事の深刻さがよく現れていることを見なくてはなりません。
ここでは偽預言者が非難されているわけですが、実際には多くの人々の目には決して悪人には映っていないのです。むしろ彼らは魅力的であり、自由な人であり、その教説は既成の枠に捕らわれない新しさを感じさせるものであったと思われます。しかし、ペトロの目から見たら、偽預言者とその活動、またその影響というものは、ここに書かれているように見えるのです。ペトロの目にはものすごく深刻な事態なのです。だから深刻な事態として反応し、激しい言葉で語っているのです。
このような聖書の言葉に触れた場合、むしろ私たちの方が時としてあまりにも無感覚になっているのではないか、あまりにも鈍くなっているのではないか、ということを考えるべきなのでしょう。
例えば、ここに突然犬が入ってきて糞をしたら、ここにいる皆が一斉に嫌な顔をするはずです。そして、一刻も早くそれをかたづけようとするに違いありません。もし糞が放置されたままで、みんな平気な顔をして祈り会を続けていたら、それこそ何かがおかしいわけです。「ああ、きたない。早く片付けなくちゃ」というのが正常な反応であるわけです。同じように、間違った教えや汚れた行為、神の目に忌むべきことについても、そのように反応できる正常な感覚を私たちは養わなくてはならないのです。私たち自身がまだ感覚が鈍くて反応できない場合には、このように聖書の中に出て来る人たちの反応を見て学んでいかなくてはならないのです。
ではペトロはいったいどのような事態を深刻に捕らえ、どのような事柄について反応しているのでしょうか。それは偽教師たちの教えによって、異邦人社会において行われている異教的な享楽や性的な放縦が教会の中に持ち込まれているという事態です。具体的な状況は、「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています」という言葉や、「あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています」という言葉から察することができます。
「宴席」と言いましても、それは教会の外での宴会の話ではありません。教会の中で行われていた「愛餐(アガペー)」の話です。教会において行われていた愛餐が、このようなものとなっていたということです。偽教師たちの教えが、そのような事態を引き起こしていたのです。
いったいどのような教えがそのような事態を引き起こしていたのでしょうか。その詳細は分かりませんが、18節以下には次のように書かれています。「彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」(18‐19節)。それは福音によって与えられる「自由」に関するものであったことが分かります。
このことに関して恐らく参考になるのは、ヨハネの黙示録に記されている七つの教会に宛てた手紙でしょう。例えば、ティアティラにある教会に対して、次のようなことが主の言葉として語られています。「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(20節)。似たようなことが14節では「バラムの教え」として出てきます。
「偶像に献げた肉」を食べてもよいのか、それともいけないのか、という話は、実は初期の教会を二分するような問題でありました。実際にはほとんどの肉が一旦偶像に献げられて市場に出回る。その肉を食べてよいのか。ある人は「当然、食べてはいけない」と考えました。しかし、ある人は「私たちはキリストによって自由にされたのだから、すべてのことは許されている」と考えたのです。
これに対してパウロは基本的に食べることは自由だと考えていたようですが、愛に基づく配慮をもって、「兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(1コリント8:13)とも語っていました。実は既に最初の教会会議であるエルサレム会議(使徒言行録15章)において異邦人が割礼を受け律法を守るべきか否かが論じられた時、その最終的な結論として次のような手紙を送られていたのです。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」(使徒15:28‐29)。
しかし、異邦人を中心とした教会の中に、あえて「自由」を強調する人々が現れてきたのです。そのひとりが例えばティアティラのイゼベルのような人だったわけです。彼女はあえて「偶像に献げた肉」を食べさせたのです。自由にされたのだから食べるべきだ、と。そして、その自由の強調は、「みだらなこと」すなわち性的な不道徳さえも許されているとしたのです。これが14節では「バラムの教え」と呼ばれているのでしょう。
今日の箇所においてもバラムへの言及がありますから、ペトロが問題にしている偽教師たちもティアティラのイゼベルのような人たちだったのだろうと思われます。キリストの十字架を信じていないわけではありません。しかし、キリストの十字架を、いわば罪を犯すことへの許可証としてしまっていたのです。
そのような「自由」の教えが、実際には人を自由にはしないということをペトロはよく知っていました。ですから彼はこう言うのです。「その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」。「滅亡の奴隷」は「罪の奴隷」と言い換えてもよいかもしれません。自由どころか、滅亡をもたらす罪に打ち負かされているではないか。打ち負かされて服従させられているではないか、と言うのです。
かつてイエス様はこのような話をされました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11:14‐26)。
ここでペトロが言っているのは同じことです。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります」(20節)。
偽教師たちがしていることは、結局、世の汚れに「再び巻き込まれて打ち負かされる」ことを助けるような教えでしかなかったのです。イエス様の表現によれば、「どうぞ七つの汚れた霊よ、自由のお入りくださってお住みください」と言うようなものなのです。それは決して自由をもたらす教えではないのです。
そのように教会はその初めの頃から、外からの迫害だけではなく、キリストの福音と相容れないものが教会の中に、そしてひとりひとりの生活の中に入り込む危険と向き合っていたのです。それは今日においても変わることはありません。私たち自身、先に触れましたように、間違った教えや汚れた行為、神の目に忌むべきことについて、使徒たちが示したのと同じ正常な感覚を養わなくてはならないのです。
(祈り)