ルカ1:26‐38
この世界に先駆けて
本日の福音書朗読において読まれましたのは「受胎告知」として知られている場面です。今日、礼拝後にページェントが上演されますが、この場面が子どもたちによって演じられます。
ここに出て来る一人の女性、マリア――それはある特定の個人でありますが、同時に、ある象徴的な存在でもあります。マリアに起こった出来事は、ある意味でこの世界に起こることの「先駆け」とも言えるからです。
マリアに告げられたのは救い主がマリアの胎に宿ったという知らせでした。そして、やがて時満ちて救い主がこの世に誕生することになります。するとこの世界が救い主を宿す世界となるのです。マリアの胎に宿り、そしてこの世界に宿った。その意味でマリアに起こった出来事は、この世界に起こることの先駆けです。
そう考えますと、マリアはここで「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉を聞いているのですが、マリアは世界に先駆けてそれを聞いているとも言えます。これはやがて救い主の誕生において神がこの世界全体に語ろうとしていることでもあるのです。「おめでとう。主があなたと共におられる」。
「主は共にいてくださる」とはどういうことでしょう。それは「罪に満ちたこの世界」と共にいてくださるということです。人間同士が互いに傷つけあい、殺し合っているこの世界。そのようにして人間が自らを暗闇の中に閉じ込めているこの世界。しかし、神はこの世界を決して見捨てない。「主は共にいてくださる」とはそういうことです。ならば、この世界はもはや希望のない滅びゆく世界ではありません、救い主を宿した世界、主が共にいてくださる世界です。私たちの人生もまた希望なく虚しく死に向かう人生ではありません。主が共に生きてくださる人生なのです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。マリアは確かに聞きました。この世界に先駆けて、神の救いを知り、神の恵みを知ったのです。ですから、今日はお読みしませんでしたが、この同じ章に、マリアの讃美の歌が記されているのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と彼女は歌うのです。
さて、ここにいる私たちもまた、ある意味ではこのマリアと同じことをしていると言えるでしょう。この世界に告げ知らされるべき良き知らせを、マリアと同じように世界に先駆けて聞いているのです。そして、救いの神を賛美しているのです。教会とはそういうものです。信仰生活とはそういうものです。救い主が来られたことを告げられ、「主があなたと共におられる」という恵みの言葉を告げ知らされ、世界に先駆けて主を賛美し、主と共に生き始める。それが信仰生活です。
実際、まだこの世界全体が救い主の到来を喜び祝っているわけではありません。確かに街はクリスマスのデコレーションで飾られています。しかし、皆が救い主の到来を祝っているわけではありません。そのようなこの世界の中で、私たちはこの世界に先駆けて、まず先に、こうして救い主の到来を祝います。主が共にいてくださることを喜び、マリアのように讃美の歌を共に歌うのです。その意味では、ここに描かれているマリアという存在は教会を象徴的に表していると言うこともできるでしょう。
主があなたを用いられる
しかし、「主があなたと共におられる」という言葉を聞くということは、ただこの世界に先駆けて主の救いと恵みを知るということに留まりません。ただ先に主の救いを讃美する者となるということに留まらないのです。
マリアに与えられたお告げは、単に喜ばしい知らせに留まりませんでした。マリアに告げられたのは、救い主の誕生だけではありません。彼女はキリストの母として生きていくことになるのです。これは神様が彼女の人生を用いようとしているというお告げに他なりませんでした。「主があなたと共におられる」とは、そのことをも意味しているのです。「あなたを用いようとしておられる主が共におられる」ということでもあるのです。
天使はマリアのところに、ある意味では全く想定外の人生を一方的に携えてきたと言えます。マリアは、ヨセフと婚約していました。彼女は幸せな家庭を夢見ていた、ごく普通の乙女であったに違いありません。しかし、そのようなささやかな望みが、この天使の言葉で、打ち壊されてしまいました。天使はこう告げたからです。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(31節)。
マタイによる福音書によれば、いいなづけであるヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1:19)と書かれております。当然、そうなるでしょう。マリアにしてもヨセフにしても、この受胎がユダヤの社会においてどのように受け止められるかをよく知っていたはずです。そして、これはマリアが全く想定していなかった、波乱の人生の始まりに他なりませんでした。
そして、明らかなことは、天使ガブリエルは、これらすべてについて、マリアの意向を打診しに来たのではないということです。「受け取りますか」と言っているのではないのです。天使はあくまでも告知するために来たのです。
さて、このような天使が現れてお告げを伝える場面は、ページェントの一場面としては良いけれど、実際には非現実的な話に聞こえるかもしれません。私たちの現実の生活と無関係に思えるかもしれません。しかし、考えてみますと、これは極めて現実的な話であり、私たちと深く関わっている話なのです。
実際どうでしょう。私たちの人生には想定外のことはいくらでも起こります。思いがけない重荷を背負わされること、険しい道のりを歩かされるようなことも起こります。その時に「受け取りますか」と打診されることはありません。こちら側の意向とは関係なく、一方的に与えられるのです。
それはまさに天使がいきなり携えてきて、一方的に告知するようなものではありませんか。要するに、私たち凡人には天使が見えたり、その声が聞こえたりしないだけの話で、起こっている事自体は私たちに起こっていることと基本的には同じなのです。人生とはまさにこういうものなのです。
そこでもし、「幸福とは、自分の願った通りに生きられることだ」と考えるならば、自分の願っていないことが一方的に与えられるということは「不幸」なことでしかないと言えるでしょう。そして、そのように考えているかぎり、人は決して幸福にはなれないとも言えます。なぜなら人生には、自分の願わないことが一方的に与えられることのほうが遙かに多いわけですから。年齢を加えていけば思い通りにならないことの方が圧倒的に多くなります。最後に必ず迎える死は、それこそ人間の思い通りにならないことの最たるものでしょう。
しかし、マリアが聞いたのは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉だったのです。彼女は、想定外の人生を与えられましたが、不幸な人ではありませんでした。主が彼女と共にいて、彼女を用いようとしておられたからです。何のために?――人間の救いのために。この世界の救いのためにです。「主があなたと共におられる」とはそういうことだったのです。
お言葉どおり、この身になりますように
そこでマリアはどうしたでしょうか。彼女はこう言ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。これが「主があなたと共におられる」というお告げに対するマリアの応答でした。マリアは、共におられる主に、自分の体を差し出したのです。自分の人生を差し出したのです。神のために。そして、この世界のために。そして、私たちは知っています。主は確かにマリアの体と人生を、この世界の救いのために用いられた。その生涯は永遠の意味を持ったのだ、と。
先ほど申しましたように、マリアは教会の原型でもあります。信仰に生きるとはどういうことかを指し示している存在です。私たちはこの世界に先駆けて「主はあなたと共におられる」という言葉を聞きました。そのような私たちを主は用いようとしておられるのです。この世界に「主はあなたと共におられる」ということを現わすために、この世界に主の救いを現わすために、主は私たちと共におられて、私たちを用いようとしていてくださるのです。
そこで、私たちに必要なことは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言って、自分自身を差し出すことだけなのです。私たちは何ができるか、何を持っているか、若いか年老いているか、健康であるか病気であるか――関係ありません。必要なことは、ただ自分を差し出すことです。
(祈り)