2022年10月5日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一  5:8~14

 ペトロの手紙一 5:8‐14

 「身を慎んで目を覚ましていなさい」とペトロは言います。「身を慎んで」とは、既に4章において語られていた勧めです。先に申しましたように、これは「醒めていること、冷静であること」を意味する言葉です。その反対は陶酔であり熱狂です。4章では「万物の終わりが迫っています」という言葉に続いて、終末に向かう者の姿勢として語られておりました。この章においては、「身を慎んで、目を覚ましている」ことのもう一つの理由が書かれています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)と言うのです。

 この世の一般的な感覚からすれば、「身を慎んでいなさい」、すなわち、「冷静でいなさい、醒めていなさい」と語られた直後に悪魔の話が出て来るのは、いささか奇異に思われるかもしれません。というのも、悪魔の話などを始めるのは、どちらかと言えば狂信的な人や現実から遊離している人であると思われているからです。

 しかし、聖書が語るところは全くその逆なのです。既に触れましたように、この手紙の読者は迫害の中にあるのです。そこではどうしても、自分に不当な苦しみを与える人、侮辱したり中傷したりする人に目が行ってしまうのです。あるいは自分が直面している困難や苦難に目が行ってしまうのです。しかし、そこでこそ「身を慎んで目を覚ましていなさい」という言葉を聞かなくてはならないのです。目覚めてこそ、本当の敵が見えてくるのです。本当の敵は人間ではないことが見えてくるのです。本当に戦って克服しなくてはならないのは、苦難そのものに対してでもないことが見えてくるのです。本当の敵は悪魔であるということが冷静になれば見えてくるのです。

 ならば重要なことは一つだけです。悪魔の目的は神から引き離して滅ぼすことにあるのですから、その悪魔に対する抵抗は、神から引き離されないことです。信仰に留まることです。それゆえに「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(9節)とペトロは励ましているのです。具体的には、前とのつながりで言えば、神の力強い御手の下で自分を低くすることです。すなわち、思い煩いを、何もかも神にお任せするということです。他ならぬ神御自身が、わたしたちのことを心にかけていてくださる。心配していてくださる。その神を信じることです。

 また、神に目を向けると共に、周りにも目を向けなくてはなりません。「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(9節)。悪魔は苦しみを用いて、神の愛を疑わせようとするでしょう。あなたは神に愛されてなどいないのだ。神に見捨てられてしまったのだ。そもそも神などいないのだ。信じているお前が愚かなのだ、と。しかし、その時に苦難の中にいるのは自分だけではないことを知らなくてはならないのです。サタンに立ち向かっているのは、自分たちだけではないことを、この手紙の読者たちは知らなくてはならないのです。

 それは私たちも同じです。私たちは当時のような迫害の中にいるわけではありません。しかし、信仰のゆえにちょっとした困難にぶつかると、すぐに心が萎えてしまうものです。神を信じているのに、どうして?と。しかし、そのような時には、今の時代にあっても、迫害や無理解の中で、あるいは貧困や不安定な社会情勢の中で、苦難を耐え忍びながら御言葉を宣べ伝えているキリスト者たちがいることを考えなくてはならないのです。さらに歴史を辿るならば、私たちがこうして福音にあずかるまでには、おびただしい人たちが涙を流し、血を流して信仰に留まり、福音を宣べ伝えてきたという事実があるのです。私たちは、そのような人々のことを忘れてはならないのです。そのような人々が信仰にしっかり踏みとどまってきたように、私たちも信仰にしっかりと踏みとどまるべきなのです。

 そして、さらに私たちは前に目を向けなくてはなりません。私たちに与えられている希望に目を向けなくて、どうしてサタンに抵抗することができるでしょう。ペトロは言います。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。

 そこには「永遠」と「しばらくの間」の対比があります。苦しみは永遠ではありません。「しばらくの間」です。私たちが招かれているのは「永遠の栄光」です。それは一時的なものではありません。「しばらくの間」のことのゆえに、「永遠」の救いを投げ捨ててしまってはならないのです。一杯の食べ物のゆえに、長子の権利を譲り渡したエサウのようであってはならないのです。

 神御自身が「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」と約束してくださっています。「完全な者とする」とは、完成するという意味の言葉ではありません。「破れたものを修復する」というような意味です。

 もしかしたら、迫害によって肉体的に加えられる危害のことが考えられているのかもしれません。あるいは、様々なものを失うことが考えられているのかもしれません。いずれにせよ、人であれ悪魔であれ、肉体や心にいかなる危害や傷を加えたとしても、あるいは何を奪っていったとしても、神が苦しみの後には完全に修復してくださるのです。すべてを回復してくださるのです。完全な者としてくださる。

 さらには強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる。今は信仰にしっかりと踏みとどまることは戦いです。揺らぐことが起こってくるから、踏みとどまらなくてはならないのです。しかし、そのような状態が永遠に続くわけではありません。最終的に、完全な勝利の中で、もはや揺らぐことはないようにしてくださるのです。それはすべて神によるのです。ですから、自分が力を得ることが重要なのではありません。「力が世々限りなく神にありますように」とペトロは言っているのです。

 そして、結びの言葉として、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」と言っています。「これこそ」とは、この手紙に書かれている内容です。すなわち、この手紙の中に書かれ、また勧められているような、苦難と試練の中にありながら、なおも喜びと希望をもって生きることの信仰生活です。これこそが「神のまことの恵み」だと言うのです。神の恵みは、苦難を免れさせるところにあるのではありません。神の恵みは苦難を突き抜けさせるところにあるのなのです。
(祈り)

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