2022年10月9日日曜日

「勝利者となるために弱くされた人」

創世記 32:23‐33

ヤコブという名を持つ男
 今日の聖書箇所にはヤコブという人物が出てきました。彼は兄エサウと双子の兄弟でした。その双子は母親の胎内にいたときから既に先を争っていたようです。そして、生まれた時、先に出てきたエサウのかかとをつかんで出てきたのが弟のヤコブでした。「先に行かせてたまるか!」という格好で生まれたのです。

 「かかと」はヘブライ語で「アーケーブ」と言います。これが動詞になりますと、「かかとをつかむ」という言葉になりまして、私たちの言葉で言いますと、「足を引っ張る」とか「出し抜く」というような意味になります。ヤコブという名前は、そのような言葉に由来すると聖書では説明されています。

 「名は体をあらわす」と言われます。ヤコブという人物は、その名の通り「人の足を引っ張り、人を出し抜く人」として成長していきました。彼は産まれた時には長子になれませんでした。しかし、策略を用いて兄エサウから長子の特権を奪います。また、父のイサクを騙して、長子の祝福を奪います。その話は創世記25章と27章に出ていますので、後でゆっくり読んでみてください。

 望むものをまんまと手に入れたヤコブでした。しかし、当然の事ながら、彼は兄エサウから憎まれることになります。兄エサウは必ず弟のヤコブを殺してやると心に決めていました。それを知ったヤコブは、兄のもとから母の故郷であるハランへと逃れていくことになりました。そして、実にその逃亡生活は20年に及ぶことになるのです。

 そのようなヤコブに、ついに故郷に帰るべき時がやってきました。主が夢の中でヤコブに告げたのです。「さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」。ヤコブとその家族は主の導きに従い、ハランを後にしました。しかし、そこにはまだ大きな問題が未解決のまま残されておりました。そうです、まだエサウと和解してはいないのです。

 ヤコブは、あらかじめ兄エサウのもとに使いを遣わしました。すると、使いはエサウがこちらへ向かっているとの知らせをもって帰ってきました。しかも、エサウは四百人もの野郎共を引き連れてやってくると言うのです。ヤコブは震え上がりました。そこでヤコブが祈った言葉が32章10節以下に記されています。

 「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。 …どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と」(32:10‐13)。

 ヤコブは、そのように神に救いを祈り求めます。しかし、もう一方において、彼は取り得る方法を思い巡らしておりました。これまで人の足を引っ張り、人を出し抜くために用いてきた頭脳をフル回転させて、ヤコブはこの危機を乗り切るための策を講じます。彼は自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物として、山羊や羊、らくだや牛などを選びました。そして、それぞれの群れを召使いに託して、贈り物の行列を作ったのです。彼は召使いにこう言わせることにしました。「これはあなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります」と。

 そのように、私たちもまた、目の前に問題があれば、その問題をなんとか解決しようとして策を講じます。その問題そのものを解決し、取り除こうといたします。しかし、聖書はいつでも、本当の問題は何なのかと私たちに問いかけます。実は、ヤコブにとって解決されなくてはならない最大の問題は、兄エサウとの関係ではなかったのです。そうではなく、神との関係だったのです。今日の聖書箇所はそのことを私たちに示しているのです。

祝福してくださるまでは離しません
 23節以下を御覧ください。「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません』」(32:23‐27)。

 まことに奇妙な話が書かれています。「何者かが」と書かれていますが、これは何者なのでしょう。これは人のようであるし、天使のようであるし、後の言葉からすれば神でもあるようです。良く分かりません。しかし、いずれにせよ、このような表現をもって、その夜のヤコブの経験が描写されているわけです。確かに、不安と恐れに満ちた夜を過ごすヤコブにとって、その夜の経験というものは《何者かとの格闘》――究極的には神との格闘――に他ならなかったのです。

 では、その格闘の中で一体何が起こったのでしょう。聖書は何と伝えているでしょう。――ヤコブの腿の関節がはずれたのです。それは相手に打たれたからです。打たれて弱くされたのです。それまでヤコブは強かったのです。相手を打ち負かすほどに強かったのです。しかし、そのヤコブが打たれて弱くされました。腿の関節がはずれたらどうなるでしょう。足を引きずらざるを得ません。もはやエサウが襲ってきても、戦うことはできません。逃げることすらできません。絶体絶命です。

 そのように、神が人に関わられ、その人生に入って来られる時、神は時としてこのような弱さを与えられます。神は人間を打って、あえて弱さを与えられるのです。それまで自分の力でどうにでもなると思っていた人間が、神にさえ打ち勝てると思っていた人間が、神に打たれて徹底的に弱くされるのです。もはや自分の力で戦うこともできません。逃げることすらできなくなります。

 その時、人はどうしたら良いのでしょう。ヤコブはどうしたのでしょうか。ヤコブはしがみついたのです。「祝福してくださるまでは離しません」と言ってしがみついたのです。彼はそのように、ただひたすら神の祝福を求めたのです。彼は気が付いたのです。エサウとの関係が問題なのではない。それ以前に神との関係が問題なのだ、ということに。

お前の名はイスラエル
 しがみついて離さないヤコブに対して、その人は尋ねました。「お前の名は何というのか」。彼は「ヤコブです」と答えます。先ほど申しましたように、ヤコブという名前は「足を引っ張る」「出し抜く」という意味の言葉に由来します。「わたしはヤコブです」――そう答えることは、彼がこれまでどのように生きてきたかを認める、ということに他なりませんでした。

 「わたしはヤコブです。出し抜くものです。そのように人を出し抜いてでも、前に出ようとしてきた者です。そのように自分の力によって、未来を切り開こうとしてきた人間です。そうです、そのようにして、自分の力で、この危機をも乗り越えようと、いろいろ考えを巡らしました。策を講じました。しかし、今や、わたしは弱くされました。もはや逃げることすらできません」。――「わたしはヤコブです」とは、そのように彼の生き様とその破れと弱さのありのままを神の前に認めることに他なりませんでした。

 しかし、「わたしはヤコブです」と答えた彼に、その人は――すなわち神は――こう言われたのです。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(29節)。ヤコブは新しい名前を与えられました。もうヤコブではありません。イスラエルです。「イスラエル」という名前が正確に何を意味するのかは難しい問題ですが、ここでは「神と人と闘って勝った」から、と説明されています。なんと驚くべき言葉でしょうか。そこにいるのは、打たれて弱くされて、もはや足を引っ張ることも出し抜くこともできない、ただすがりつくことしかできないようなヤコブなのです。しかし、そのようなヤコブに対して、神は「お前こそイスラエルだ。真の勝利者なのだ」と言われたのです。

 この出来事を経験した場所は、「ヤボクの渡し」(23節)という場所でした。その場所をヤコブは「ペヌエル」と名付けます。それは「神の顔」という意味です。それはヤコブが「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったからだ、と説明されています。

 先に見たように、ヤコブにとって最大の問題は、エサウと顔を合わせることにありました。少なくとも彼はそう思っていたのです。しかし、本当に顔を合わせなくてはならない相手は、エサウではありませんでした。そうではなくて神だったのです。そして、エサウと顔を合わせることがヤコブにとって危機を意味するように、それ以上に、神と顔を合わせるということは危機を意味したのです。なぜなら、罪ある人間が神と向き合うことは死を意味するからです。

 しかし、「わたしは顔と顔とを合わせて神と見たのに、なお生きている」とヤコブは言いました。これはすなわち「わたしは赦された」ということに他なりません。神の祝福は、神の赦しと共に与えられたのです。それはエサウから赦されること以前に、まずヤコブにとっては必要なことだったのです。

 そして、「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った」(32節)という印象深い描写が続きます。彼は足を引きずっています。彼は神に打たれて弱さを与えられました。しかし、不安と恐れの闇夜はもはやそこにはありません。彼は確かに朝の光の中を歩んでいるのです。そのような朝を、後のイスラエルの民もまた幾度となく経験しました。そして、私たちもまた同じです。私たちもまた、ヤコブからイスラエルとされた者として、闇夜に身を置く者から朝の光の中を歩く者へと招かれているのです。

(祈り)

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