2022年10月16日日曜日

「流した涙が拭われる時」

イザヤ書 25:1‐9

わたしはあなたをあがめます
 今日は第二朗読において「ヨハネの黙示録」が読まれました。「黙示録」と呼ばれるこの書物は、一読して新約聖書の中で異質な存在であることが分かります。ヨハネの黙示録には、直接的には何を指すのかが良く分からない謎に満ちた表現が多用されています。そして、書かれている内容は、世の終わり、すなわちこの世の終末に関わっているのです。

 そのような文書はヨハネの黙示録だけではありません。断片的にはイエス様の言葉として福音書の中にも見られます。また、旧約聖書の中にも見られます。今日の第一朗読において読まれたのも、そのような箇所の一つです。どうぞ第一朗読の箇所をお開きください。

 今日はイザヤ書25章が読まれました。通して読むと良く分かるのですが、24章から27章までは一つのまとまりとなっています。このまとまった部分はしばしば「イザヤの黙示録」などと呼ばれてきました。そこにおいて、数々の謎に満ちた表現をもって語られているのは、ヨハネの黙示録と同じように、世の終わり、終末に関わる事柄です。

 さて、そのような「イザヤの黙示録」にせよ、また第二朗読で読まれた「ヨハネの黙示録」にせよ、謎に満ちた言葉が多様されているのには、ある共通の背景があります。それは、この世の巨大な権力による支配であり、そのような権力によって抑圧されている人々、不当な苦しみを負わせられている人々の存在です。

 「イザヤの黙示録」の場合には、いつの時代を背景にしているのか、必ずしも明らかではありません。巨大な権力の主(ぬし)はバビロニア帝国かもしれませんし、その後のペルシア帝国かもしれません。ヨハネの黙示録の場合にははっきりしていまして、それはローマ帝国の支配です。そして、その支配のもとに起こった迫害が背景となっています。

 容易に想像できると思いますが、そのような大きな権力の支配下にある場合、事柄をあからさまに語ることは困難なのです。例えばローマ皇帝を名指しで批判することはできないのです。それゆえに、謎に満ちた象徴的な表現を用いることになります。言い換えるなら、そのような時代状況にあるからこそ、神様が幻という形で真理を示し、謎に満ちた仕方で語らせたとも言えます。

 いずれにしても、そこで語られているのは「もう一つの支配」についてです。この世の巨大な権力による支配よりも、さらにその上にあるもう一つの支配、すなわち神の支配について語られているのです。

 人間の肉の目には人間の支配しか見えないのです。人間がしていることしか見えないから、人間が世界を動かし、歴史を動かしているように見えるのです。人間の力が人間の運命を左右しているように見えるのです。しかし、神が霊の目を開いてくださると、そうではないのだ、ということが見えてきます。この世界を支配しているのは、人間ではなく神なのだということが見えてくるのです。

 神がこの世界を支配しておられる、ということは、言い換えるならば、神が最終的にすべてのことに決着を付けてくださるということです。正義のない世界に、神が正義を貫かれるのです。神が最終的に正しい裁きを行われるのです。この世に満ちている「なぜですか」という叫びに対しても、最終的に神が答えてくださる。すべて不当なこと、不条理なことについても、神が報いてくださるのです。

 この人は霊の目によって、その現実を見ているのです。だからこの人は神を賛美しているのです。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって」(1節)と。先ほどもいいましたように、ここに書かれている言葉は苦難の時代を背景としています。本当は彼もまた苦しみの中にあるのです。しかし、そこで彼は神を賛美するのです。人がそのように生きることは可能なのです。

人間の築き上げたものの崩壊
 人間の巨大な力が支配しているように見えるこの世界のただ中にあって、神がこの人に見せてくださったのは、巨大な帝国の都が崩壊して瓦礫の山と化した姿でした。「あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう」(2節)。

 もちろん、現実にはそのようなことは起こってはいないのです。肉の目に映っているのは、決して揺らぐことはないと思われる、人間が築いた帝国なのです。その都の姿なのです。人間が建て上げた城壁に囲まれた町がそこにあるのです。しかし、人間がその力を誇り、自らの力で打ち立ててきたもの、積み上げてきたものが崩壊する様を神は見せられたのです。そのようにして、人間が真の支配者ではないのだということを神が明らかにされたのです。

 さて、ここに書かれていることは、部分的には、歴史の中において実際に起こってきたことだと言えます。かつて繁栄した古代の都はやがて滅びていきました。私たちは人間の力もその支配も絶対ではないことを知っています。揺るぎないと思えたものも崩壊することを私たちは知っています。それは確かに歴史において明らかにされてきた現実です。そして、それが究極的な形で明らかにされるのが世の終わりであると言えるでしょう。最終的に神が神であり、人間は人間に過ぎないことが明らかにされるのです。

 その事実が、ここでは人間の建てたものが崩壊する姿として描かれています。それはある意味では恐ろしいことです。しかし、人間の造ったものがやがては崩壊するのだということに目が開かれる時、人間は何に依り頼むべきであるのか、ということにも目が開かれるのです。私たちは誰に対してへりくだらねばならないのか。誰に依り頼むべきなのか。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます」と彼は歌いました。その人は、さらにこう口にするのです。「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる」(4節)。

 現実には豪雨に遭っているのです。また一方で日照りの暑さに苦しんでいるのです。そのように喩えられる苦難のただ中にいるのです。しかし、彼には砦があるのです。まことの支配者が誰であるかを知っているからです。だからその御方に信頼し、賛美をささげて生きるのです。

喜び躍る時が来る
 そして、さらに彼が見たのは万軍の主が開かれた祝宴でした。6節以下には「すべての民」「すべての国」という言葉が繰り返されています。この世界を統べ治めておられる神による救いは、すべての民族、すべての国々に関わっているのです。

 後にパウロはこう言っています。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ10:12‐13)。

 実際、ここに語られていることは、明らかにイスラエルに固有のことではありません。すべての人間に関わることです。それは「死」に関することだからです。死は全ての人間に関わっています。死を免れないということについては、権力があろうがなかろうが、支配する側であろうが支配される側であろうが、まったく関係ありません。

 だからこそ、主のなされることが次のように語られているのです。「主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」(7‐8節)。

 ここに語られている終末の希望は、そのまま新約聖書に受け継がれています。今日の第二朗読はヨハネの黙示録7章12節まででしたが、その続きを読みますと16節以下に次のように書かれています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙示録7:16‐17)。

 新約聖書においては、終末の描写にも、さらなる確信が加えられていると言えるでしょう。ならなら、既にメシアは来られたからです。そして、そのメシアは十字架にかかられて罪の贖いを成し遂げてくださり、死から復活されたからです。イザヤ書に語られ、新約聖書に受け継がれている終末の出来事は、すでにキリストと共に始まっているのです。言い換えるならば、死を滅ぼしてくださる神、目の涙をぬぐい取ってくださる神の御救いを、私たちは既に味わい始めているのです。

 9節にはこう書かれていました。「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」(9節)。今、目に映るこの世界の有様がどうであれ、目に映る私たち自身の姿がどうであれ、その日は来るのです。救いを祝って喜び躍る時が来るのです。だから、私たちは今から共に、喜び祝い始めるのです。その意味で祝宴は既に始まっているのです。私たちが今日、聖餐を行うとはそういうことです。共にキリストを喜び祝い、礼拝をささげる生活が与えられているとは、そういうことなのです。

(祈り)

以前の記事