2022年10月19日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 1:12~21

ペトロの手紙二 1:12‐21

 前回は、私たちに何が与えられているかということに目を留めました。使徒であるペトロと「同じ尊い信仰」を与えられていること。すなわち信仰の価値は信じる人によって決まるのではなく、与えてくださった方によって決まるのであり、それはキリストの血潮の価値なのであり、その信仰を与えられているということ。さらには信仰と同じ尊い信仰が与えられただけではなく、「命と信心とのかかわるすべて」、言い換えるならば「信仰生活にかかわるすべて」が既に与えられているということ。そして、現在の信仰生活のために必要なものを与えられているだけではなく、私たちが待ち望むべき「尊くすばらしい約束」もまた与えられているということ。すなわちそれはキリストの再臨の約束であり、永遠の御国に確かに入れるという約束です。

 そこでペトロは「従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです」と語ります。「思い出させる」のは知らないことを教えるのとは違います。キリスト者であるならば、福音の真理は確かに知っているはずであるし、待ち望むべき約束も受け取っているはずです。その真理に基づいて生活しているのです。12節に書かれているとおりです。しかし、それでもなお何が与えられているかは、繰り返し思い出させられる必要があるのです。

 ペトロ自身は、既に世を去るべき時が来ていることを身近に感じているようです。「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」と書かれているとおりです。だからこそ、まだ仮の宿である体をもって生活している間に、思い起こさせなくてはならないと考えているのです。いやそれだけではありません。ペトロは自分が世を去った後にも、絶えず思い起こして欲しいと願っているのです。そのためにこのような手紙を書いているわけでしょう。実際、そのことのために福音書なども書かれたわけですし、手紙も収集されて、今日のような聖書が残されてきたのです。

 そのように思い起こさせる必要があるのは、「奮起させる」ためであるとペトロは言っています。「奮起させる」というのは「目覚めさせる」という意味の言葉です。嵐の船の中でイエス様が寝ていた時、弟子たちはイエス様を起こしましたでしょう。それと同じ言葉です。そうです、キリスト者は繰り返し目覚めさせられなくてはならないのです。そうでなければ眠りこけてしまうからです。福音を知らないわけじゃない。約束を信じていないわけじゃない。でも実際の生活の中ではそれを忘れて眠りこけたような信仰生活を送ってしまうのです。ですから、繰り返し使徒たちを通して手渡された福音の真理を聞いて、絶えず思い起こすということはとても大事なことなのです。

 そのように与えられている約束を繰り返し思い起こして目覚めていないと、一つには迫害や困難に耐え得なくなってしまうということがあります。それはペトロの第一の手紙で見てきたことです。しかし、それだけではありません。既に述べてきたように、この手紙で問題になっているのは偽教師の存在なのです。福音の真理によって目覚めていないと、いくらでも異なる教えによって足をすくわれてしまうことになるのです。

 そこでペトロは偽教師たちの存在を念頭に置きながら、次のように続けます。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(16‐18節)。ペトロが言及しているのは、マタイ17:1以下とその平行記事によって伝えられている、「山上の変貌」の出来事です。

 すぐに気付きますことは、ペトロが実際に目撃したこと、また実際に聞いたこと、すなわちそれが事実であることに、非常にこだわっているということです。あえて「わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではない」と言っているのです。「作り話」とは「神話」と訳せる言葉です。ペトロは「神話じゃないんだ。事実なんだ」と言っているのです。その当時、宗教的な思想を伝えるためにはいくらでも神話が用いられていたのです。教会において力を持っていた「グノーシス」と呼ばれる異端にも、いわゆる「グノーシス神話」があったのです。しかし、イエス・キリストの力に満ちた来臨(すなわちキリストの再臨と神の国の到来)を宣べ伝えるのに用いたのは、神話ではなく、イエスという御方について実際に見たり聞いたりしたことであると言っているのです。

 なぜでしょうか。それは「約束」や「希望」は単なる思想であってはならないからです。それは事実でなくてはならないからです。キリストが再臨するとするならば、神の裁きがあるとするならば、それは事実でなくてはならないからです。本当に罪が赦されて救われると語られているならば、それは単なる思想であってはならないのです。単に信じている人にとってだけの真理であってはならないのです。そうならば、それは気休めにはなっても、本当の希望とはなり得ないのです。ペトロがここで語っていること、そして世々の教会が伝えてきたのは、単なるキリスト教思想ではなく、歴史の中に現れたイエス・キリストに関する事実なのです。

 ここでペトロは「山上の変貌」について言及していますが、もちろんそれ以上に決定的な出来事はキリストの復活でしょう。実際、山上で三人の弟子たちが経験した出来事は、後に他の弟子たちが経験するキリストの復活顕現を先取りした出来事であったと言えます。それについても、教会は復活が単なる思想ではなくて「事実」であることにこだわってきました。ですから「証人」という言葉を用いたのです。

 ペトロや他の弟子たちがイエスという御方について見たこと、聞いたこと、すなわち、神がその御生涯において、そして十字架と復活において、主イエスに栄光を与えたその「事実」が、旧約の時代から語られてきた神の救いの希望を確かなものとしたのです。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています」と語られているとおりです。「預言の言葉」とは聖書が語る約束の言葉です。それが確かなものとなっているからこそ、キリストが再臨する終わりの時に至るまで、暗闇を照らす真の光となり得るのです。ペトロは言います。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(20節)。

 この世界は「夜が明け」るまで、闇に閉ざされています。その暗闇は私たちの心にも及びます。しかし、わたしたちの心には「暗い所に輝くともし火」が与えられているのです。確かな約束が与えられ、確かな希望の言葉が与えられているのです。この「ともし火」を失ってしまうならば、この世の暗闇に支配されてしまうでしょう。ですから「預言の言葉」、聖書の言葉に留意しなくてはならないのです。しかも、それは恣意的な個人的な解釈によって伝えられた言葉ではなく、キリストの到来によって確かにせられた聖書の約束として心に留めなくてはならない。繰り返し思い起こして、心に留め続けなくてはならないのです。


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